なぜ我々は他人を信用せず卑下し、自分を隠蔽してまで自らを信用していないのか。
 
その根底には社会のパラダイムが関係しているのではないだろうか。
 
環境が性格を構成してしまっているのなら、個人の力ではどうにもならないとも考えられる。
 
私が考えているひとつの仮説(寓話?)をご紹介したい。もし、このような世界が身近にあれば、なかなか他人を信用したり、コンセンサスをとるのは難しいのではないでしょうか。
 
少し長いですが読んでみてください。
ちょっと火傷するかもしれませんが、
必ず人生に役に立つことでしょう。
 
さて、世の中は架空の国から始まります…。
 
…つまり、たとえば「A国」というソサエティ(society:社会を構成する存在)があるとします。
 
そのA国の代表の者たち自らが、学力(理解力?)が足りないことを隠蔽するために、他国の創造したものを自国の創造したもののように取り入れていた。(だか彼等は自分たちの行為を少しも模倣と見なしていない)
 だが、実際は取り入れたファクターを理解するほどの知識も無いために、ひとたび問題が起こる度に対応が出来ず、責任の擦(なすり)合いが横行し、危険水域に達した時、実際はA国そのものが成り立ってもいないのに潰し合いの方が先行し、ついにA国の存在自体が他国から疑われ始めた。
そこでさすがに気づき始めた代表者同士が、お互いに「我々の国は成り立っているじゃないか!(表面上は)」という威しにも似た自作自演の既成事実をつくりあげ、外から見たら、なんとなくファシズムにも似たプロパガンダを繰り返し、国民に対して全体主義的な圧力を掛ける。
ここまで来れば 流石に国民も気づきそうだ。
だが、なぜかA国民は、政治を学習して対抗しなかった。
それどころか国民は、自分たちの学力(理解力)が足りないのを棚上げにし、政府の話しを理解したふうを装い、当然の如く仲間同士で同調圧力を掛け合い、架空の既成事実を創り出し、それを暗黙の了解と化している。
つまり「お互い意図的に無知を利用し望んでいる」社会。それを全ての国民が互いに「知らないでいようとする」心のパラダイムとして気付かないほど奥底に秘めているのがこのA国というソサエティなのだ。
 
そんな馬鹿な国があるもんか!とお叱りを受けるかもしれません。まあ続きを聞いてください。
 
なんと!このA国社会は、暗記がすべてで、常に答案を外国からコピーし、答えとその意味をセットで横流しして暗記させ、答えられた者が学力があるとされている。もし脱落しそうになった者がいた場合は、その時の答案の答えだけをそれとなく暗記させて何度も同じテストを受けさせ、まるで最低学力だけはあるかのように見せ掛けている。さらに暗記のエキスパートには世界基準の学力テストの問題に常に高得点を出せるように答えを暗記させ、脱落しそうにな者にも最低限は世界基準の平均はあるかのように国民に暗記させているが、知識人や専門家と言われる人々は、どこかで暗記した事を場当たり的に吐き出すのみ、それは彼らの書物を読んでも明白だ。覚えた意味と答えとその場しのぎの調べた文章の抜き出し・改編の為、コピペの継ぎはぎでまとまりがないため散文的でペダンチック。挙げ句の果てにネタの根拠は参考文献の参考文献で、最後までたどれば外国人の権威者に投げてばかりおり、実験・検証も結局は外国人の権威者の実験・検証結果の確認のみかちょっと付け足してオリジナルっぽく見せかけるなどと根拠が薄く、信用出来ない。大衆小説の作家に至っては、最近知ったであろう知識を長々と引き伸ばして助長しているのみで 深く検証してみると根拠が薄いが、知っての通りA国民は、お互い無知前提主義の知ったかぶりの国民性が彼らを助け、持ち上げてしまう。一方、一般のほとんどの人々は、控え目であろうと無かろうと結局は「勝ち負け」か「自慢」に行き着く。所詮どちらも「虎の威を借る狐」だ。実際は詳しい事を聞かれたら答えられない。
権威は常に改良した技術が基本だ。
例えば、他国のコストがかかりすぎる為に計画を破棄した古い技術を、A国が政府ぐるみで税金を無尽蔵に使い、まるで新技術を開拓したがごとく拝借。もしくはインターネット等で海外の論文からアイデアを拝借した上、ちょっと変えて合法的にごまかす等、常に「後だしジャンケン」が基本。こちらも基礎的な事を突っ込んで聞かれたら誤魔化す技術にかけては天下一品だ。そもそも基礎から創り出したものでない事が全てであるから、問題が起こる度に自分の考えを疑い、常に正しい答え(世間に受け入れられそうな答え)を外部から必死で探してしまうような国民性になってしまった。そのために日常的に自分自身の考えが無く日和見主義(ひよりみしゅぎ)。権威や肩書のある人間の意見を聞くと、何故か「まるで自分の考えと同じだと錯覚してしまう」が突っ込まれるとあせって反射的に逆ギレする始末。そのため他人の言動ばかりが気になり、合否や善悪を常に探し、自ら判断したつもりになって既存の答えで審判し、糾弾(きゅうだん)する。勉強は面倒なので、つまんで調べて「聞きかじり」で他人を添削してしまう。それはもちろん自分の考えでは無いために直接的に言わず、周囲の人間を利用して間接的に糾弾し、上手くいったら自分が最初に考えたと吹聴する。
そもそも学問や技術の「認識」そのものが最初からズレていて、始めから何処かの国の誰かが発見した結果を、後追いで何処かからやり方を手にいれ、それを検証して再確認する事が学問とされ、それに少し手を加えたのが技術としているため、諸外国の研究者との温度差、ファクターの認識の違いが何もかもを難しくしている。先にも述べた通り「暗記」が基本なので、人のアゲアシをとったり、当たり前とされていることを聞かれたら単語や決まった答えは出せるのだ。つまり知っているが、わかっていないのだ。
そして、予期しない問題がひとたび持ち上がると、誰かが詳しい事を知っているんじゃないかと「もともと無い理解」を探して問題をたらい回しにし、首実検(くびじっけん)にかけ、誰かが吊し上げられ、挙げ句の果てに諸外国の研究者を頼り、苦し紛れに都合の良い答えを「餌」で釣り、泣き落として発言させるのだ。
 
政府は国民の鏡だ。
 
国民性は政府の方針と密接に絡んでいる。「政府は それなりに学力がある専門家がそろっているからそんな筈は無い」と思うかもしれないが、よく考えてほしい。国民性から来る政府の嫌な振る舞いは、国民自身も触れられたく無い部分なので 見たくないものは簡単に見逃してスルーしてしまうのだ。
 
したがって当の国民は、国民性から来る振る舞いには気づかないのだ。
 
そして挙句の果てに、他国を「民度が低い」的な表現を使って避難し、A国の、つまり自国の国民性を最初から高いことをベースにしてしまう事で自分たちの「不勉強や経験不足からくる問題」を最初から見ない、または無かったことにする習慣が身についてしまう。
 
※(ここで言うA国の国民性を指しているのは、不勉強や経験不足を互いに馴れ合い的に許可しあっている状態です。A国的ないやらしい言い方ではA国の民度とも言います。そもそもおかしな話ですが、民度という単語自体が、まるで人間という生き物にある一定の基準があるかのような錯覚を与えてしまう単語です(これは寓話なので仮に日本語にすると民度という単語です))
 
たとえばA国政府が、前からあった政策であるかのように「外国名単語」を使った重要な政策を発表してしまう事がよくあるのだが、「前からあった」なら、そう安易に名前を変えられるはずもないし、命に関わる政策であればなおさら問題の筈だ。そうなればそんな大事なことを「外国名の新語」を使うわけはなく、当然 今さら考えついた事はあからさまであり、普通に考えたら 今まで税金で政府は何をしていたのかと国民が糾弾しても良さそうなのに、なぜか暴動も起こらず、逆に外国のネーミングにありがたがって一緒になってその単語を連発しており、そのおかしなロジックに国民はなぜか全く気づかないのだ。
 
この国民性から来るA国政府の常套手段は、社会主義的な対応をとる場合は特にわかりやすい。
たとえば外国の資本主義国の行う「民主主義の象徴的な国」がありますね。
その国の政策。見方によっては社会主義的にも見える「一部の対応」を抜き出し、新聞マスコミ各社に一律に報道させることで もともと資本主義の考え方であるかのように国民を洗脳してしまうのだ。
 
普段はその象徴的な国をA国はマスコミを通じて「自由の悪い例」のような扱いをしている。
つまり自由な行動・振る舞いに支持が集まりそうなネタを常に監視し、発見次第メディアを利用し、ツブしてまわっているのだ。

資本主義で自由意思があれば貧富の差が出来、弱者がルール改編の動きとして暴動が起こるのは必然。そうやって歴史は前向きな人々の自由を勝ち取ってきたのだ。それをなぜかA国は、他国の暴動騒ぎが危険で、逆に自国は安全だと吹聴してまわっているのは「暴動を起こす奴はおかしいぞ!みんなで監視するんだ」と言う洗脳的な社会主義運動にもとれるのだが…
 
つまりA国は「自由意思を恐れている」のは明白だ。

先にも書いたが、自由意思を受け入れるには社会全体を構成する相当な知識量が必要なのだ。
 
マスコミを通じているのは、公式にやってしまうと理屈が御都合主義(ごつごうしゅぎ)なので たちうち出来ない。
実際のところ、資本主義で言う民主主義はコンセンサスが基本なので「一律(いちりつ)の対応を国民に強制する事は難しい」のだ。そこで、ほんの一部の資本主義の国の対応を 都合の良い部分だけ抜き出して置き、まるで強制的に社会主義的な対応を「資本主義国が民主主義でしている」ように見せてしまう。
そこでA国は、アノ国も強制的にやっているのだからとマスコミを通じて空気感を出して逃れられない状況を作り、政府は「我々A国は 強制的ではないが【お願いしている】」と強制的と同じ強制力を持つ全体主義圧力をかけるのだ。ファシズムと同じでは?ファシズムの進化形か…。 
 
ここで問題になるA国の法律はどうなっているのだろうか?
 
この先は次回…
 
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大変申し訳ございません!
この記事は微妙な問題に絡んでいますので都度変更しております。
そのため、文字数制限にひっかかってしまったので、数回に分けます。
 
これはかなり反発の多い内容なのですが、演技を行う上では「社会に対する理解・見解」がないと難しい。もしも他人の顔色を伺って考えを変えている社会性の中にいらっしゃる方がいた場合は とても台本を読み取る力は養えないので、このような方のために寓話を交えて敢えて書かせていただきました。ですが、これを理解していただける方に1人でも知って共感してコンセンサスをとりたいと切に願って書きました。とにかく我が国は資本主義的民主主義の国の筈なので、このような意見もあるとご了承いただきたい。
 
なお、大変申し訳ございませんが、この記事に関するコメントは受け付けませんのであしからず。