民主主義についてのお話しの前に、まだ足りない基本情報がありました。

今回は、以前書いたファクターに続いて大切な言葉に「エレメント(element:要素)」があります。

この表現は、語源をたどっても日本の文化には馴染まない言葉のため、ちょっと考えるだけで、人によっては混乱をまねく用語のひとつではあります。

そのエレメントは、重要でありながら我々の日常では特に必要とされる場面がありません。

例えば、ルーチンワーク的(routine work:きまりきった)な思考や行動を、個人は習慣的に、集団では慣習的に、日常をパターン化する方法を推奨し、見つけ出そうとしている環境下においては、かなり意識的に気付こうとしなければエレメントを発見できません。つまりエレメントはあくまでも要素であり、パターン(pattern:形、類型)では無い。

では、そのエレメントを発見するにはどうしたらよいのでしょうか?

我々の日常生活では、エレメントではなく、セグメント(segment:全体を分割したもののまとまり)を発見しただけで、さらに掘り下げることをせず「これがエレメント(要素)ではないか!」と取り違える。(これが上記の混乱をまねくという意味です)その結果、本質の理解をあやまってしまうのです。

ルーチンワーク的な思考は、命令系統の情報を信じやすい性質をもつ為、与えられた情報の範囲内で答えを出そうとして右往左往した結果「セグメント要素説またはリリース自体が要素説」的な思考を誘発させてしまうのです。

これは世間でリリース(発表)されている情報に、ある一定のバイアス(bias:偏見や決めつけ、思い込み等)がかかっているためです。

そこで「バイアス悪玉説」を唱えるのは時期尚早で、バイアス要素自体が、「そうであってほしい」とか、「そういう考えで今までやって来ているから変えるわけにはいかない」とか、「別の方向だと都合が悪いなぁ」等の私的な思い込みが関係しているため、そのご都合主義の方々の思念が、なし崩し的に込められてリリース(release:発表※上記のsegment注釈の全体と同じ意味と捉えてください)につながっているのです。

マスコミや新聞、政府や自治体の情報に頼りっきりの場合、肩書きやニュースソースを簡単に信頼してしまい、リリース自体を神のように信じ込んでしまえば、もう根拠や証拠を発見することは困難です。

例えば、判断にバイアスがかからないようにしようと大集団でルールを決めようとすると、決定権を持つ一部の権力者集団の都合によって、ルール自体が常に彼らの都合の良い一定の答え(リリース)を導き出そうと誘発するのです。

もちろん、様々な形で発表されている統計データもバイアスがかかったリリースである可能性が高いと容易に想像にできるし、個人々の発言の中にも様々なバイアスがあります。

例えば、ある人物の「世間的に悪いと思われる面」だけを取り出してしまうと悪い人物になってしまうし、自分から「気弱な部分」だけを取り出して吹聴してまわれば弱い人物になり、上手くいけば、助けてもらいやすい人物に仕立てあげることも可能なわけです。逆に本人が「非情な人間である」と「自分が登場する前」に間接的に宣伝すれば、無口を通すだけで冷血な人物にもなれるわけです。つまり、嘘と思い込みや偏見は、元を正せば紙一重的な側面もあります。

さらに不謹慎と思われるかもしれませんが、「生き物を殺してはならない」というバイアスも、様々な側面が考えられるでしょう。(この答えは、筆者としては感傷的な解決法では難しく、知識のみが 解決出来る唯一無二の手段と思っております)

以上のことは最低限踏まえてエレメントを発見しなければなりません。ファクターもやはり「バイアスの罠」に気づけないと理解出来ません。

また、自分自身の理解にも、自分自身にバイアスの罠を仕掛けているかもしれません。

例えば、ある情報を調べようとした場合、自分の都合の良い情報以外は調べない、あるいは見なかった事にする等、思い当たるフシはないでしょうか?

また、証拠隠滅や隠ぺい、臭いものにはフタをする慣習も似た要素を持っていますね。

気づかれたかもしれませんが、台本を読もうとテレビのニュースを視聴しようと、インターネットで仕入れた情報であろうと、リリースしたものは全てバイアスが掛かっているものと理解する必要があります。

先ず、物事のなん足るかを理解するためには、聞き手である自分自身の頭の中の基本情報が、リリースされた情報か、セグメントのみか、エレメントなのかを自分自身の力で判断を下せる必要があります。

リリースのみの情報に頼りっきりの場合、バイアスが掛かっているものに洗脳されている可能性は大いにあります。セグメントも、その寄せ集め的な性質上、寄せ集め側のバイアスは当然掛かっているものと考えて良いでしょう。

では結局エレメントやファクターは無いんじゃないかと考えがちですが、そんな事はありません。これまで紀元前のプラトンやアリストテレス等々~現在の原子やクォークに至るまで、科学、哲学、歴史等に携わって来た沢山の人々が、エレメントやファクターを見つけ出そうと様々な試みをしています。そのなるべく細分化された基本情報を可能な限り多くを知ることでエレメントやファクターを自分自身の努力によって見つけ出すのです。

それだけにエレメントもファクターも一歩間違うと危険で、ニトログリセリンレベルで慎重に扱う必要があります。

そこで今回のテーマである「エレメント」とは一体何か?

これが非常に説明が厄介で、理解自体が哲学的で、直接的な文章では難しく、こちらが間接的にヒントを伝えることによって脳に刺激を与え、それを聞いた各個人が能動的な自助努力によって「なるほど、そういうことだったのか!」と理解し、体感してもらうしか方法がありません。結局の所、バイアスを取り除かない限り、要素どころか存在の本質を見極める事は不可能です。したがって、自身で細かなバイアスを見抜く力が必要であり「自分自身の嘘偽りのない真実」を、まず自分自身のバイアスから解き放ち、さらに「世界でも極めて信憑性が高いと見られる歴史的事実」を脳に積み重ねる事が、物事の本質の理解につながると言うしかないのです。まずは、バイアスに気づけるために正確な知識をつける事が必要です。

根拠の無いみずからの言動、みずからの希望的観測の余地を許してしまうと、たちまち「バイアスの罠」にハマってしまい、「バイアスの悪魔に取り憑かれた者」は忽ちファンタジーの夢の中に…気付いた頃には、もう後戻りは出来ない…なんてね。

いやぁ今回は難しい言い回しだったたでしょうか?

難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

次回こそ民主主義について書こうと思いますが、まだ付け足す要素があったらリリースしますね🖤

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★追記
これは架空の話し……
正のバイアス、負のバイアス。例えば「我が国はとても美しい国で、経済水準は高く、学問も高水準で道徳も素晴らしい物を持っているから犯罪も少なく、したがって純粋な国民であるから他国の荒っぽさには免疫がなく傷付きやすい国民性を持っている」という思い込みがあった場合を想定しますね。実際にはそんなユートピアは存在しないので、そんなことを他国で吹聴したら、他国の国民は、「我々の国を馬鹿にしているのか」というたぐいの反応が考えられます。どういうことかと言いますと、どんなに控え目で柔らかい表現をしたとしても、発言をした時点で【自分達は素晴らしい=あなたたちは素晴らしくない】という構図が出来上がります。つまり、言われた側にとっては負のバイアスが掛かって、「自分達が否定された」と考えるわけです。前者は人権問題に発展しかねないし、危険な思想と言わざるを得ません。前者に正のバイアスがあれば当然負のバイアスがあるわけです。前者の考え方は、あまり強すぎると、身内の国民同士でさえ否定的な事実・証拠・考え方が起こったとたんに村八分、袋叩きが始まり、特に証拠なんかあったらもう大変!そんな証拠は広がらないうちに焚書したり揉み消すでしょうし、実際に起きても当然知らされる事はないでしょう。そして後々非常に危険なシナリオが待っているということが今までのお話しでわかるのではないでしょうか。このような存在しないユートピアを信じていたら、誰も現実や真実を知ろうとしないし、都合の悪い真実や事実が逆に悪とされてしまうでしょう。もし、前者の考え方が国ではなく「自分として」置き換えた場合はどうでしょう?他人は全て悪魔にしか見えなくなるのではないでしょうか?一個人がそのような思想?いや、パラダイムを持っていたら、余程その人物に金や権力や大きなメリットが無い限り、相手にしないでしょう。自分は正しいと言うと同時に間違った人間の存在を確定し、マクベスの魔女の言葉を借りれば、綺麗と言えば汚ない、汚ないと言えば綺麗が存在すると言っているようなもの。誰かを悪者にしたと同時に悪者にした側が正義になるって寸法だ。バイアスやタブーは真実や現実や事実を受け入れる態勢が進まないと消滅に向かいません。何度も言いますが、あくまでも架空の話しです!!
その考え。本当にあなたの考えですか?

「ステレオタイプ」という言葉をテレビ等々でなんとなく耳にした方もいらっしゃるでしょう。

私は「ステレオタイプ的なものの考え方」という言葉を実際、何度か耳にしたことがあります。

これはアメリカのW・リップマンの作品「世論」に詳しく説明がなされていますが、というかこの本が我が国での発生源としか考えられないのですが、上記の「ステレオタイプ的なものの考え方」という表現。「自分は絶対にステレオタイプではない!」という事が前提でないと難しい。全文読んだ事のある方の発言とは考えにくく、当のリップマンでさえ後半には不安をぬぐえない様子でした。自らが神にでもなったつもりでないと、なかなか切り離して考える事は難しい。

では、ステレオタイプとは何か。
それは、人間であれば通常はそのタイプであり、ステレオタイプから逃れる事はほとんど不可能に近いのではないでしょうか。その割合を我々の努力によって少なくする事は可能でも撤廃は不可能でしょう。

さて、その【ステレオタイプ】

人は何かをイメージや確認をする時、見てから定義をしないで、あらかじめ定義してから見る。つまり、先に(あるいは前もって)ある種の固定観念をもってから確認作業に入るため、自動的にイメージが左右されてしまう。

我々は、生まれてから現在まで、当たり前のように意識に入って来る、両親、個人間の会話や個人のローカルな情報、宗教、民族的な慣習、大好きな芸能人の発言、新聞、テレビのニュース、ドラマ、アニメやインターネット等々のグローバル、ナショナリズムな情報等によって、何かしらの事態や状況など、事物に対しての答えや判断基準があらかじめ決められており、まず固定観念として当たり前のように、または自動的に前提条件のフィルターがかけられた状態で判断を下す。そのような状態をさして「ステレオタイプ」という。そして、ステレオタイプが固定観念として個人の前提条件にロックされてしまっているため、当たり前のように常識として、しかもバランスをとりながら、好都合につじつまを合わせつつオートメーションで作用してしまう為、ステレオタイプとして「正しい」と埋め込まれた情報に対して「反対する」意見・理解・事実があったりすると、いきなり反論が始まったりなど、自動的に根拠なく受け入れ難い状況にしてしまうのです。極端に拒否している場合は、みずから受け入れにくい状況に持ち込んでしまう場合もあるでしょう。

【ステレオタイプ自体を、我々が偶像崇拝の対象にしている可能性】
自分が正しいと思っている事や、思わずくちばしってしまった発言が、何かのきっかけで不安になり、つじつま合わせのために、自分の答えが合っていると思われる情報だけを探して正当化をはかるような経験が誰しもあるのではないでしょうか?この根源にステレオタイプが存在している可能性があるのです!


もしステレオタイプで無い人(神は人ではないのを前提として)が存在するならば、そのような人物は、人類の歴史の探求者であったり、宗教的にいわゆる「七つの大罪」がなぜ敵なのか等々。自分自身についてはもちろんの事、人類について、今、この瞬間にも探求し続けている人物でなければなかなか難しい。
つまり、誰でも必ず何かしらの地域、国、民族等々の様々なステレオタイプになってしまうからだ。

なんと言っても、これを書いている自分(私)だって例外じゃない!

これを読んでいるあなたも!「違う!自分はそんなことに流されているはずはない!」と思っているあなたも、「その考え」自体がステレオタイプの可能性があるのだ。

自分なりの判断基準とは何か?

これを読んでいるあなたも、だまされたと思って本当にあるのかどうか疑ってみてください。

自分がたよりにしている「その情報」自体もステレオタイプではないと断言できますか?自分が正しいと思っているその情報が、「自分の中のステレオタイプの判断基準」によって正しいと思っている可能性は?不安になったら最終的に情報ソースの情報元の「肩書き」のせいにして逃げるつもりは?(当たり前じゃないか!情報源がなければ話せないだろう!なんて理屈自体がおかしいと思いませんか?そもそも最初からマタギキでウケウリ思考の可能性は?)


例えば、何か分からない事があった時、答えをインターネットで検索して答えを探していないだろうか?検索で出された様々な回答のなかで、自分の都合の良い答えを選んでいるだけなのに、まるで自分で判断したつもりになってませんか?不安になったら最終的にネット情報やネット回答者の責任にするつもりでは?

また、分からない事は国語辞典や百科事典や電子辞書で調べて終わりにしていませんか?知らず知らず当然のごとく回答を販売者の責任に転嫁し、答えをうのみにして自分の意見のようにするが、反論されたら出版社やメーカーなどの販売側のせいにするつもりでは?

つまりこのような【ステレオタイプ】が【他人事にせず】【自分も含め】【存在する】ことを【認める】事が事がこの問題を解決する唯一無二の手段と思われます。

その上で安易な解決方法はとらず、事実確認を細かく掘り下げる事。情報は内向きにならず、社会全体で能動的に開示してゆき「隠し立てをしない方がメリットが多い」社会にする事が必要。なぜなら、お互いに「相手(あるいは自分)の都合の悪い事は触れないようにしよう」という気持ちが強すぎると、いつの間にか内向きなコンセンサスがとれてしまい、馴れ合いのご都合主義のステレオタイプがルールとして確立してしまうので、権力者にとっては非常に都合がいい。なぜなら、根拠がなくても、それとなく噂を流せば無責任に自分勝手なルールが確立してしまうのだ!そのため、実体のハッキリとしない「権威があるかのような陰口」がステレオタイプとしてそれとなく確立してしまうと…さあ、大変!知らないうちにあなたも被害者になってしまうかも…。

あの大国アメリカでもステレオタイプが引き起こす世論の危険性を感じているわけです。

このようなステレオタイプ的な思考が極端に進んでしまう状況はどのような社会でしょうか?

思い付くところは…

・多勢が良しとするものを良しとする社会。
・その時点における権力に対して弱い社会。
・世間の慣例に物申すことの厳しい社会。
・プロパガンダが簡単に通ってしまう社会。
・善悪がやけにハッキリしている社会。
・ルールに問題があっても、議論によって変わる様子がない社会。
・新ルールが沢山つくられているハズなのに、報道やネットやマタギキのうわさ以外で、実際には何の運動も起きている様子がないし、自分も他人まかせの社会。
・ファシズム
・それとなく噂(うわさ)を流すだけで自分の立場が良くなってしまう社会。
・自分の考えを明確にすると、そう考えなくてはならなくなるため、考えがまとまる前に情報収集して、世の中と同じ考えを持ち、素早く周囲のクウキを察知して他人に目をつけられない存在になり、さらに的確な忖度(ソンタク)をし、あわよくば頭角(トウカク)を表して権力を握る事が必要な社会。

等々…

いかがでしょうか?

なんとなく嫌な予感が…

これは「民主主義」の根幹にかかわる問題です。

もう少しで「演技と会話」についての基本的な骨子が終わりますのでご辛抱願います(^_^;)

いろいろ賛否両論あると思われますが、毎回申し上げております通り、ここは建て前上は人権と民主主義を重んじる国に住んでいるわけですから、寛大なご理解をお願い致します。

そして、ここで気になる「民主主義」とは?
次回はこの危険な問題に挑戦してみます。

(ステレオタイプの語源に関しては、ここで言及は控えます。リップマン「世論」(上)岩波文庫:解説p264【~かれはまた、イメージをつくる祭に人間がある種の固定観念をもつことによってイメージが左右されると説き、それを「ステレオタイプ」と名づけた。】解説:掛川トミ子)
 前回に引き続き、新たに登場した

「ファクター:factor」

こちらも辞書辞典を調べると要素、要因、因子etc...なにやら物理や化学のような感じですが…

この「ファクター」の共有?やはりこれも日本的文化習慣にはあまり馴染みのない表現手段ではあります。

実際の所、これが当たり前に存在せず、曖昧である為に伝達ミスが多く、いちいちマニュアルにしたりスローガンをたてたりしないと徹底出来ない社会なわけですが…

その「ファクター:factor」の共有。
実際大したことはなく、ものごとの「なんたるか」もしくは「今、何の事を議題にしているか」「今、何の話しをしているか」「なにを問題にしているか」「今、なにをすべきか」「結局の所は何か」など、とにかく事物の対象は″何の事(なんのこと)″について問題にしているかをはっきりさせ、それをお互いに共有する事です。

我々の社会では、この辺を誰かがハッキリとさせようとすれば、途端に反発や反論などの抵抗が多く、いつの間にか勝ち負け論に発展したりなど、結局は言い出した方が根負けして、曖昧な会話や議論を余儀なくされ、以降は前提条件等々が曖昧なだけに、言い出しっぺの本人も身の危険性を感じ出し、終いには責任が誰かさえ曖昧になり……なんて事例が多いのではないでしょうか?この曖昧さの技術は、職人というより芸術の域に達していると言っても過言ではありません。

この原因は さまざまですが、欧米のキリスト教「過ちを犯すは人の常 これを許すは神の業なり」すなわち人は必ず過ちを犯すわけで、皆で補完しあわなければならないのですが、日本では過ちは弱さであったり、儒教的に してはならないと見なされる事が多く、ところが現実は未来を的確に予想は出来ませんし、状況は常に流動的に変化してしまい、パターン化は非常に困難です。したがって、当たり前のように何かをすれば何かしらの過ちをおこしてしまうわけで、自然とトラップだらけの状況に。また、お互いのフォローは勝ち負け意識を誘発しやすく、貸し借りにもつながりやすい社会性をもっていますので出来るだけこのカードは使いたくない。過ちはまずいので、ごまかしや隠蔽、開き直りなどが横行してしまうわけです。

つまり我々の社会で抵抗が強いのは、ファクターである前提条件以上(factorは前提条件より広範囲を掌握するため意味が強い)のものをハッキリさせてしまうと個々の問題が発見(発覚)しやすく、自分にも火の粉が落ちかねない。すなわち、過ちが表面化してしまう前に抵抗しておく事で水際で火消をしておきたいって気持ちが起こるわけです。建て前上は問題を発見しようとしている事にしておいて、どこかでボヤがあがったり危なくなったりしたら、気付かれないうちに揉み消すなり隠蔽するなり焚書するなり妨害しておいて、無かった事にしようって事もあるでしょう。本来はあってはならない筈ですが、もしも社会″全体″がこうだったら?誰も本音を言いたくないし、歩いても地雷だらけ、危なくて誰も責任なんかとりたくないですよね。さあ、みなさんはどう思います?

ちなみに、抵抗する事と、ものごとに対して意見をする事は根本的に異なります。様々な意見はあって良い筈です。意見をさせない為や、プライドを傷つけられた腹いせなどに この理屈を利用されかねない為に一応言及しておきます。

いちいち英語になってしまうのは、日本語が常に対象を全体的や曖昧にしてしまう言語の為、それにあたる的確な単語が無く、結局手近な英語になってしまうわけです。この辺はプラトンやアリストテレスが得意技や必殺技をもっているので多分、ラテン語やギリシャ語の方がもっと適当な単語があるはず…

会議であれば「アジェンダ:agenda」なども似た表現だと思われます。

この「ファクター」を、日本文化的ステレオタイプの画一的な曖昧さをもって会話を行う限り、真のコンセンサスはありえないというわけです。

もう少しで「演技と会話」についての基本的な骨子が終わりますのでご辛抱願います(^_^;)

いろいろ賛否両論あると思われますが、前回も申した通り、ここは建て前上は人権と民主主義を重んじる国に住んでいるわけですから、寛大なご理解をお願い致します。

そして、ここで気になる「ステレオタイプ」という新たな単語について次回ご説明致します。

★追記
ファクターに続いて「演技と会話⑤エレメントとバイアスの関係」という記事を書きましたので、こちらの方も合わせて読んでみてください。
●演技における会話とは?

前回は「コンセンサス」について触れました。
consensus...辞書辞典ひいても合意だの同意だの意味不明な契約っぽい感じですが、本音と建て前の日本の文化には あまり登場しない日常の意志ソツウの感じなので、こんな訳になっておりますが...。

※以降難しいなと感じた方は流し読みで大丈夫です。

 コンセンサス。
 とにかくカタチの上での会話では、その会話じたい真実味がないし、建て前上の合意は、都合が悪くなれば、もっともらしい言い訳が出来次第、簡単に破棄されてしまうので大変危険です。
 つまりコンセンサスとは、お互いに共通のファクターを認識し合い、その上でお互いの主張を差別なく自由に考えをつき合わせ、同意できれば、足りない部分は補完しあい、共通のルールを持ち、助け合う感じです。″極端″に言えば「あなたの意見は私の意見。私の意見はあなたの意見」くらい話し合って同意しているわけです。

 逆に日本でありがちな、はっきりとは言わずそれとなしに、または間接的に、または状況(クウキ)というつかみどころのない感じを出す(または相手をソウだと勘違いさせる自己演出か、ソウダロウ?的な集団演出)その上で、なんとなく雰囲気が確定したら、はっきりとした文言は控えつつ「話が決裂したら後で大変なことになるぞ」的な脅しなど、相手の弱みにつけこむネタを大なり小なりチラつかせるなどetc、とにかく何かしらの[※1]パワーバランスがお互いに存在したら コンセンサスどころか、建て前上の同意以外は難しい!(そのネタ自体がないと怖くて話せない人もいるのでは?)気づいたら″毒まんじゅう″つかまされてたり、ハニートラップにあってたりなんてね🖤

 ちなみにコンセンサスを、約束や契約などの「プロミス‐promise」と混同しないでね。

いやぁ難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

これと演技と会話に何の関係が?
答えーオオアリデス。
ここが問題点だったのです!!

ところで先を知りたい方へ朗報です。ここで気になる「ファクター」を認識?について次回ご説明致します!
…………………………
注釈
※1)この中でのパワーバランスは、いわゆる日本的な忖度(ソンタク)やクウキなど、実体は無いのに当たり前のように力関係が存在し、個人の自由な発言を抑制するような力が自制的に働く事によって、自然と(あるいは自動的に)力の均衡が働くことです。欧米的に(すべてとは言えませんが…)、「たとえ無理やり立場を利用して没論理的に論破してきたり、足下を見る発言、政治的、現実的な圧力があったとしても、立場状況に関係なく個人の自由な発言は許されるべきであり、その時の発言によって、その後の生活に制限かがかけられるべきではない」と言うような方向の思想が我々の社会にあれば、パワーバランスと言う表現は、この場合不適切であります。もし仮に、我が国で「民主主義」を採用するにあたっての議論を国民的に行い、真の意味での民主主義的コンセンサスがとれていたならば、現在のように、まるで当然のごとく、ある意味推奨されるほどに「忖度」や「クウキ」的な圧力が、常識的に存在するかどうかは疑問ですが…。忖度やクウキは支配者階級にとっては非常に効率的で、ありがたい制度ではあります。※民主主義論に関しては、今後の記事に予定しております。

長年やってきて思ったことは、結局、相手のセリフを聞くのは、

お互いに個人が一方的に聞くっていうことが土台無理で、

会話するのが難しかったのは、お互い会話中にコンセンサスを

積極的に取らなかった事が問題だったのでは?

と思うわけです。

その理由(コンセンサス)とは?

 

次回につづく。

 

演技をしたいという思いを持っている方。

お芝居をしてみないなって思っている方。

また、いままでやってきたけどなんか違うなって思っている方。

結局やってみたら芝居ってロボットっぽいって思って来た方。

暗記の早い人が役者なのか?なんて思って来た方。

結局アドリブのきく人が上手な役者なのか?と思っている方。

事前にやり方を打ち合わせしないと稽古に出られないのが変と思っている方。

「声がいい人」と言われる人が上手な人なら私は駄目だと思って来た方。

台本が読み取れないと芝居が出来ないなら私は無理かも?と思っている方。

セリフの上手い「立て方」が出来ないとダメだけどドコを立てれば?と困っている方。

など様々な悩みに立ち向かってみようと思っています。

 

俳優とは何か?

俳優?

一度はやってみたいし、

そんな肩書も欲しいですよね~

 

じゃあどうすれば?

まず旧約聖書の最初を読んでみてくださいね?

 

っていうのはウソで。

そもそも”人を演じる”のは「神になるぞ‼」って

言ってるのと同じで無理ってもんです。

でも結局は誰でも出来ます。

そこで先ずは…ただヤルしかないです。

ヤルって?じゃあどうすればいいかなと。

 

この後は俳優についての疑問などへ続く。