前回で残してしまった問題の「根拠」について、お話しを具体的に進める前に、話している「論点」自体が、根拠以前の状態だと根拠の話しどころではありません。
人間を演ずるのであれば、まず、みずからの思考・感情の挙動を監視しする勇気が必要です。
台本を理解し演ずる為には、そのセリフで「なんの話し」をしているのかを理解出来る能力は絶対条件です。
そんなこと当たり前だよ!
と、あなどってはいけません。
たとえば「今日は言い過ぎちゃったな…反省反省」のような事はありませんか?
本当に「言い過ぎちゃった(笑)」程度の問題でしょうか?
例えば…
何か話題を持ちだすか 話題の中で、なんとなしに相手が知らない情報だと決めつけて切り出した話しが、以外にも反論や「もっともな返しかた」をされて軽くブライドを傷つけられ、苦し紛れに「別の話し」ではあるが、やや関連したように見える特殊な、知らなさそうな知識を差し込んでやり込めようと撹乱(かくらん)し、「知ってるか知らないか」論争に火がつく など饒舌になり、挙げ句に、まだ「相手のひれ伏しかたが足りない」と調子に乗り、最後は絶対反論出来ないような理屈の話しに誘導して突き落とす。又は反論出来ないような立場の人間に自分を持ち上げて相手に譲歩させて終了する。
などはないでしょうか?
危なくなったら、すかさず携帯電話を持ち出し、自分の都合の良い答えを探してはプライドを傷つけた人物を中傷するネタを探しまくり、その場しのぎに見つけた理屈で反論するなど最近はよく見かける光景です。
ということは、それまで知らなかったの?もしくはそんな曖昧な根拠で反論?そもそも それを言う必要があったのか?
これは、かなり危ないウンチクロジックの綱渡りです。
こう言った議論モドキは、「そもそも論」を持ち出されたらかなり化けの皮が剥がれてしまう「虎の威を借る狐」ではあります。
あり得ない話しですが、
例えば、
A「これからは常識的な事以外は右手を使わないで下さい」
B「わかりました」
A「よろしい。それでは食事を始めましょう」
B「はい」
A「箸を右手でもちましたね!」
B「ちょっと!箸は右手ですよね」
A「箸はもともと左手で持つものなんです!世間が常識を誤っているんです。知らなかったんですか?」
B「そうだったんですか…知りませんでした。ごめんなさい」
事実はともかく、このようなロジックを持ちだすのは資本主義における民主主義にも反します。
人権を守るためにも、例え最初から決まっていたとしても「大多数が知らない決まり事」や「新ルール」を持ちだす事が出来るのは、それを守るべき人々とのコンセンサスがとれてはじめて施行される事が望まれるべきでしょう。
なぜこのような事が、「なんの話し」と関係するのでしょうか?
それは、上記の全てに言える事ですが、まったくと言っていいほと「目的」が「話題の論点」と違う事に気付かねばなりません。
なぜか聞き手との闘争やルールを守らせる事に目的が集中しており、話題自体が持つ目的が論じられていません。
なぜこのような、論点を外した注意散漫な思考が働いてしまうのか?
ここが問題の「なんの話し」の核になります。
常に現時点の幸福のみ追求してしまうと、もともと何をやっているのかという、よく考えてみれば当たり前の思考がおろそかになり、結局その場しのぎの行き当たりばったりになっていることすら当人が気づかなくなります。
そこで、なんとなく当人が潜在的に危機を感じたところで真打ち登場!伝家の宝刀のごとく出てくるのが、どこかで覚えて来た「ウンチク風雑学」の登場と相成ります。
これを相手が知らない、ある意味世間的にも知らなさそうな「ウンチク風雑学」を登場させるのです。
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※ここで困った事に「ウンチク」(蘊蓄)は、「深く身につけた知識」と言う意味で、一般的な意味とは少し違います。
また「浅識(せんしき)」は、「知識が浅い」ことをさすようです。
ところがここで論じたいのは、
外部から仕入れた深い知識を、表面上だけ「タイトルと説明」のみ 単に丸暗記して「撹乱目的で吐き出す」という行為をさす言葉が必要だったのです。それが見つからないため、ここでは仮に「ウンチク風雑学」と呼びます。
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この誤魔化しが、その場しのぎを「正当化したような気がする」と言うあり得ないロジックが、麻薬のごとく錯覚を起こし、自分をも「諸問題をクリアした側の人間だ」と洗脳してしまう。
こうなるともう「なんの話し」をしている事がわかっている側の人物に自分自身を設定してしまっている為に、もうその話題が「なんの話し」か考える必要がなくなるわけです。
そうなったらもう大変です。ひとたびその核になる「なんの話し」に触れようものなら「なんの話し外(はず)し」に翻弄(ほんろう)され、しまいには「空気を読めよ」のような伝家の宝刀を出し、全体圧力を強める…こわいですね。
そもそもなぜそのようなことが起こるのか?
それは「不勉強主義」が根底にあることは間違いありません。
ですが、前記のような考え方の人物には「錯覚」が錯覚を呼んで、すでに「わかっている側の人間」になっているため、話しても素通りしてしまうでしょう。
「なんの話し」かを追求するためには、数々の心のトラップや地雷をあえて通り、また踏む必要があるのです。それも義務化せず能動的に!
そもそも「なんの話し」か説明出来るくらいなら「空気を読めよ」的な発想は起こりにくいはずです。
前記のような状況下にしてしまうのは、なんの話しか「理解してなくても構わない」事を潜在的に誘導している可能性かあります。
とにかく、核になる「なんの話し」そのものが、その場しのぎにほんろうされ過ぎて、いつの間にか論点をはずす事を目的にした「注意散漫」な思考によって、純粋なものが「現時点の私利私欲」にすりかわるのです。
これが更に先に進むと、後戻りの難しいフェーズに入ります。
すでに前記の事例のようなこと自体をすでに見越して、それを踏まえてしまっている人物もいるのです。
このような人物は「ウンチク風雑学」を出された場合の答えを日常的に仕入れて暗記してストックしています。
そのため普段は寡黙なスタンスで黙っておきます。
そこで「ウンチク風雑学」を出された時点で間違いを指摘するか、知っている側に立つ、もしくは相手が上位の者であれば知らないふりをするなどして「ウンチク風雑学」を出した側の人間にうまく近付く準備をしている人々がいます。
こうなるともう「なんの話し」どころではありません。これは「覇権争い」か「指摘する快楽」です。
1.いつも勝者に付くか。
2.弱そうな相手なら「ウンチク風雑学」をたくさん言わせて間違いを指摘して黙らせるか。
3.「ウンチク風雑学」をたくさん言わせて間違いを指摘して楽しむか。
3…これはかなりひどいです。「人の不幸は蜜の味」のような自分が手を下さないシャーデンフロイデ的なものは外国の文献でもお目にかかりますが、たとえ相手側の知識が受け売りで浅はかであっても、「みずから手をくだして楽しむ」のはどうなのでしょうか?
ところが、3のような人物が、世間には案外沢山存在し、その指摘自体が、言わば「ウンチク風雑学主義」の人間を生産している現状にほかなりません。
つまり、指摘されればされるほど「今度こそはひれ伏してやる!」と「ウンチク風雑学」を仕入れる事に執念を燃やすでしょうから。
そもそも「ウンチク風雑学主義」も言わば「指摘快楽主義」も、なぜか両者共に「なんの話し」を無視して論点を考える必要性をすり替えてしまうのです。
その考えの流れは以下の通り。
「不勉強主義」自体が「暗記主義」を産み、
「暗記主義」を正当化する為に
「暗記」を「勉強化」する。
「不勉強ではない。時間をかけて暗記をしたではないか」
「答えを言えるのは理解しているからだ」
「理解しているから暗記出来ている」
「暗記は不勉強ではない」
結論
「不勉強主義ではない」
となってしまいます。
もしかしたら元々「暗記した」=「理解した」と思い込んでいるかたもいらっしゃるかもしれません。こうなるともう話しは平行線です。
そのために以前お話しした「ファクター」が理解出来ず。「なんの話し」を理解することを潜在的に避けるわけです。これでは根拠以前の問題ですね。
何を言う!
イチイチ勉強していてはきりがない。
「転ばぬ先の杖」として覚えているだけだ。
と言われるかもしれません。
果たしてそうでしょうか?
筆者にはQ&Aをまるごと暗記する方がリスクが高く、深く突っ込まれたら答えられないという常に崖っぷち政策を取っているようにしか見えません。
丸暗記することで理解するストレスから逃避してはなりません。
そして丸暗記体質は、知っている側のテーブルに無理矢理乗っています。そのため、化けの皮がはがれそうになるたびに誤魔化しや開き直りが起こり、トラブルが絶えません。
「縦割りに覚える」よりも「理解の橋渡し」をする方が効率的で安全に見えるのは気のせいでしょうか?
もし、丸暗記体質であること自体に気付いていない場合は、深刻なトラブルをかかえています。
「丸暗記主義で指摘快楽主義者」が 、不勉強主義がさらに進み、最後は丸暗記を放棄して「携帯電話検索主義者」となり、その場しのぎの発言が状態化して、ついに携帯電話を片手に、反論される度に反証をネット検索して反論 なんて起きそうですね…。なぜならどんな事も反証(不確かな証拠や都市伝説、単なる思い込みや噂も含みます)が存在するので なんとでもなってしまいます。極論、まともな発言であっても、ネット検索で「もっともらしい不確かな証拠」で反論を持ち出せば、反論された者は、ネット上の検証の不確かな証拠を持った大多数と対決しなければならず、普段から膨大な情報をあらかじめ覚えて検証しておいて、理解もしていない目の前の相手に答えを出さなければなりません。その言葉じりを捕まえて来る相手に負けてしまえば、こちらも同じ手段で対抗しなければなりません。結局は無尽蔵な情報証拠に対して ついにネット検索で不確かな情報をもとに検証して対抗。一度やってしまえば それまでの自信も心も折れてしまい、なし崩しに不勉強主義に転落して夢の世界に入ってしまいます。
とにかく「ネット検索主義者」には、言わば「不確かな虎の威を借る狐」戦法に覆(くつがえ)されてしまう恐ろしさがあるのです。
いつの間にか「話題」が「情報合戦の勝ち負け」にすりかわってしまうのです。
そして、お互いに知識や根拠が薄く 思考範囲が狭すぎると、「自分の知識範囲外の情報が存在する」ことすら無い「あるはずがない」と思い込んでしまい、「決めつけ」が起こり、前時代的な善悪二元論(ぜんあくにげんろん)に発展。差別的発言が始まり、さらに同じように思考範囲が狭い者どうしは中傷合戦(ちゅうしょうがっせん)が起こりやすくなります。
非常に厄介な事は、この「知識や根拠が薄く 思考範囲が狭い状態」は、「知識や根拠が薄く 思考範囲が狭い」が為に、本人には気づきにくいのです。その為、差別的発言をしていることすら当人は気づかないのです。
また、潜在的に発言することすら なんとなしに止(と)めている者は、リアルな世界では我慢して、バーチャルな世界で いわゆるネトウヨ化する可能性もあります。(※筆者は俳優のための心構えに必要な 自己検証と勤勉さを説いているだけなので、ネトウヨ諸氏のような大それた野望はもっていませんのであしからず…。)
上記のような経験はありませんか?
これは不勉強主義者が不勉強であるが為に、無意識的に「不勉強を隠ぺい」してしまう潜在的な常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
この撹乱作戦(かくらんさくせん)に、話すたびに話しの腰を折られて、いつの間にか話題がなんなのかさえ わからなくなってしまいます。
そのためには「なんの話し」かを かたくなに通してゆくことで対応しなければなりません。
「なんの話し」がロックされていないと、結局は「似ている別のボール」を投げて来る相手のペースにのまれて、いつの間にか正規の道から外れてしまいます。
そもそも「なんの話し」をしているのかが会話には重要で、言葉じりを指摘して回るのは余り趣味の良いおこないとは言えません。まず その時点で、相手の発する単語や言葉ばかり気にしていて、会話の内容そのものが理解出来ない人のようにも見えます。
証拠と根拠を混同してはなりません。まったく性質が異なります。
知識が豊富にあるのであれば、なにか問題にぶつかった時に安易な解決方法をとらず、問題の根底から考えなおす力があります。知識があればこそ、さらに足りない知識を自覚し、学習しなおす勇気もそなわるのです。
例えばAと言う単語や事実を知ったとしても、それを構成するものまで知った事にはなりません。ここまでは、誰しも そう思うので大丈夫なのです。
このあとの処理がわかれてしまいます。
1)解答そのものを丸暗記する。もしくは、その場しのぎにネット検索して答える。
これはAを聞かれた時や Aに関連した時にしか答えを吐き出すことはありません。これは、理解したと言うより「覚えただけ(検索しただけ)」です。ファクターは、自己防衛的な要素が強いと思われます。こうなるとタダの九官鳥状態(きゅうかんちょうじょうたい)なので、丸暗記族は覚えるのがだんだん面倒になり、即ネット検索に頼る可能性が高いです。丸暗記とネット検索は同じ道をたどっていると思われます。
2)Aを構成するものまで深く掘りさげて理解する。
Aで無くても Aを構成する要素の入ったものであれば、あらゆる事に応用、その他のB・C・Dの要素のみと連携して 新しいEが出来たり、Aを構成する要素のみから発想して、新しい事実や物まで創り出すことが出来るのです。
以上、思考範囲が狭いと単純な解決法や単純な判断に陥り(おちいり)やすく 争い(あらそい)や中傷に発展しやすい。そして、思考範囲が狭いと思考範囲が狭いこと自体(じたい)に自身が気づかない。したがって日々学習が必要だと言うことがお分かりいただけたでしょうか?
いずれにしても、丸暗記やネット検索を続けていては 物事の根拠など、いつまでたっても たどり着くことはありませんから……。
俳優にとって、人間の本質への追及は、必ず通らなければならない道です。
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難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。
まだまだこの問題についてお話しします。