お金もちの家は玄関が綺麗だ。
したがってお金もちは玄関を綺麗にしている。だから玄関を綺麗にすればお金もちになれる。

東大に受かる人は居間で勉強している人が多い。したがって家族のいる場所にもかかわらず騒音の中で勉強している人が多い。集中力があるからだ。だから混雑したファーストフード店の席で勉強すれば東大生になれる。

という事は・・演技だってそうでしょう!
憧れの俳優の習慣や仕草、映画のメイキングのコメントを見まくって、さらに演技のコピーを完璧にすれば同じになれるはずだ!

など「習慣や表面を真似れば」その地位につけるといった考えはどのような観点から来るのだろうか?

例えばお金もちの家は、その財力から家政婦や清掃業者など 外部の手段を持っているといった考えは浮かばないのだろうか?仕事であれば玄関やトイレの綺麗さは筆頭の必須条件ではないでしょうか?

東大に受かる人は受験勉強は塾で習い、塾外の受験勉強は家ではやりにくいので学習室や図書館などでやっていて、塾に比べれば進みの遅れている高校の宿題のほうを、うるさい居間でササッとやっているだけで、心情的に努力してないように見せかけているという可能性は考えないのでしょうか?

表面上をコピーすれば中身まで同じレベルに達成出来るのでしょうか?

やはり日頃のコツコツと積み重ねた学習が、その人の中身まで重くすることにつながるのではないでしょうか。

体積(表面上)は同じ物体でも質量が違えば重さも変わりますから。
隣の芝は青く見えて自分の芝を惨めに思い、自分の芝を良くしようと努力するなら良いのですが、隣の芝自体を購入してしまって自分の庭に植え変えてしまう場合はどうでしょう?
自分の芝より良く見えているだけで品質的に隣の芝も同じようなものなら 念のため購入しても財産に余裕があるなら問題なさそうですが、もともと自分の芝の手入れ等に問題を抱えている場合はそのような場当たり的な対応は危険ではないでしょうか?
もともとの自分の芝の手入れ自体に問題はないのでしょうか?
芝生のしくみや土壌、日当たりなど基本的な理解や経験は十分なのでしょうか。自分の日常的な経験や又聞き、インターネットでのやり方情報のみで簡単にコピーし、手入れをしてはいないでしょうか?
結局、基本的な問題は解決しないまま数年後にさらに隣の芝を購入して自分の芝生を維持していくしかないのではありませんか?
庭を別の花壇などに変える事も検討するでしょう。ですが、芝生のときと同じように安易に対応をしてしまい、同じ過ちを繰り返す可能性が大きいと思いませんか?
結局は何に対しても目の前の一歩から地道に理解し努力していくしかないのではないでしょうか。
言われたくないという気持ちが大きすぎると、少しでも「自分の行為に対して何か言ってくるな?」という雰囲気を感じると、すかさず脳が拒否を感じ、その対象の相手に攻撃的に振る舞う(しかも証拠が残らないほどのアリバイ作りさえ瞬間的に巧妙に考えながら…相手の論理自体が間違っているんじゃないかと思われる程の理由まで瞬間的に作り上げる)

その行為は、相手の言ってくる内容に悪意が無ければ無いほど危険性が増す。相手が言ってくるだけの理由(根拠)があるだけに反撃すればするほど辻褄の合わなさが露呈する。その場合、相手が粘れば粘るほど、言われる側の非論理性が増し、言う側の相手を恐れさせるほどの迫力を持って捨て身の反撃を繰り返す。言われる側は、内容に悪意が無くかつ根拠がはっきりしている内容ほど「腫れ物に触れるな!」とばかりに気を遣わせる状況を周囲を巻き込んでまで誇大に作り上げるのだ。

このような考えの強い人物は、分かりきったこと(特にマニュアルがはっきりした作業。やることが明らかなもの、決まり事を間違いさえしなければ一切文句を言われない作業ややり方・記憶などの暗記等)を完璧にこなす事に執拗に執着心を燃やす。理由はともかく何も言わせたくないのだ。それだけに根拠より正解を何よりも優先してきた為、なにを言っても今までの用意してきた単純な暗記や根拠の不確かな都合の良い常識などを、その場しのぎの反論を考え、頭の中に用意する。言わば「反対の為の反対」戦法で戦闘態勢を整えるのだ。

これでは自分に都合の悪い人物を自分にとって都合の良い記憶だけをチョイスし、揚げ足を取り、不都合な者を排除して、いつか自分だけが王として君臨出来る自分だけのユートピアに住めることを夢見ているにすぎない。

なぜこのようになってしまったのか?

先程「相手に悪意が無ければ無いほど」という前提を言いました。これが問題です。「嫌がらせ」が日常的だと常に戦闘態勢。日常的にせっせとアリバイ作りをしなければ間に合わない。根拠などより正解と思われる事象や常識非常識、モノ知りワードを暗記する。
言わば「嫌がらせ合い」が一般的だと、常に防御をしなければならないため、暗記能力が高い人物だけが君臨する社会になってしまう。さらに根拠をないがしろにしてきた為、嫌がらせ合っていても、お互いの突っ込みの根拠が常に甘い為、なぜか傷のなめ合いが始まり、いつか空気感に左右される。そのうちに誰かまとめる人物(二人だとどちらか一方)が決まり始め、同調圧力が始まる。つまり根拠より押しの強い人物や、ネームバリュー、ドスの利いた強面の人物、声の強さにはめっぽう弱いのだ。
そのため怒鳴る人間も多く、それが心もとない場合は、自分のバックにある背景をチラつかせたり、学歴を充実させるなど、この世界の人物は根拠薄のアリバイ作りに余念が無いのだ。

そこで極めつけは「攻撃は最大の防御なり」つまり、誰よりも先に完璧にルールをこなし、作業を熟練し、常識非常識を完璧に暗記。それを武器に揚げ足を取り、言わば「嫌がらせ」を武器に日々戦うのだ!ついには物足りなくなり誰もしてこないのに相手の行為の正解不正解を指摘し「あおり行為」にまで発展し、ターゲットを決めて目標の人物を故意に怒らせる始末。

いつしかそれが快感になり、楽しみがそこに集中。楽しみに疲れて、たまに息抜きの旅行など余念が無い。

そのうちに根拠薄の会話から不安が先行し、傷を舐め合う根回しに発展。仲良しグループを形成し、「先回りしてデキル 側に立つ」戦法なら暗記からやや解放される。そのうちに誰も知り得ない非公開情報をいち早く知った者だけが得をする社会が形成。情報格差が開き、結果仲良くする行為状態自体が知り得ない者に対して意地悪前提の関係に発展する可能性も捨てきれない。そうなると生け贄作戦、ターゲット狩りになりかねない。
…ここまで来ると「人間嫌い」よりむしろ「人間がいないと成立しない」人間になってますね。

日常的アリバイ作りに、やたらめったら暗記するため、根拠をじっくり精査する時間があるわけもなく、根拠自体まで文体を丸暗記する始末。しかもそれが努力してきたと理解されてしまっているとどうにもこちらとかみ合わない。

こういった人々は表情も読み取られてはなりません。表情やしぐさを、なるべくわかりにくくして、言葉の文面で理解させる。分からなそうなら理解出来ないのかとほくそ笑む。相手の動揺をうかがいたい(どの程度動揺したのか)のだ。
やり方(マニュアル)や決まりごと(ルール)は聞くけど「教わりたくは無い」という本音

肩書きのある権力者やその筋の有名人の意見を、一応間接的には聞いたり読んだりする事は出来るけど、結局は自分の尺度で判断するし、たとえ本人に会えたとしても、やり方の指導は受け入れても指摘は受けたくない(たとえ指摘を受けた場合でも表面上は真摯(しんし)に受け入れたフリをして実際は我慢して受け入れる形)という本音

これは「打たれ弱い」わけではなく「もともとある自分の考えを他人に変更されたくない」といった事も考えられます。

これではなにも創り出す事は出来ないかもしれません。

その割にはなぜかハウツー本や自己啓発本を読んでしまうといった人は、他人を出し抜くネタの仕入れ先であったり、「自分は間違ってない」「自分は間違った生き方をしていない」側に立っているかどうかを確認する為に読んでいることも考えられそうです。
そして、もし対象本が自分に都合が悪ければ、自分に都合の良いハウツー本、自己啓発本を渡り歩くといった事も考えられます。

そしてこれも、何もしないうちから「出来る側」・「知っいる側」・「有識者側」に立っていたい願望が強そうです。

こういった考えを持っていた場合、とにかく「未知な世界を1から学習しなくて済まそう」とする考えをどうにかしなくてはならないかもしれません。
会話をする瞬間から自動的に自分をデキる側、相手をデキナイ側に持ち込もうとするなら心に聞いてみる必要がありそうです。

もしそのような事があるなら…

例えば、それまで弱気で振る舞っていても相手の会話の何かのキッカケで相手の弱みを見つけた瞬間、自動的に自分をデキる側に設定し、形勢逆転をねらう会話に持ち込もうとするといった事もおこりそうです。

このような思考は「やらなくて済まそうとする」「学習をしないで済まそうとする」意思が含まれているのかもしれません。

もしこのような日常を送っているならば、勝ち負けばかりが先行して、お互いに建設的な人間関係は永遠に築けそうもありません。
もちろんやらなくて済まそうとする意思が先行してしまうだけに、自分で考えずに答えばかりを探して、その場しのぎの安易な解決策ばかりが先行してしまう可能性もありそうです。

基礎知識から学び、そこから試行錯誤し、また必要に応じて基礎学力を学ぶ…。この一連の学習によって問題を解決した経験が一度でもあるなら冒頭のような選択は、なかなか出来るものではありません。

ただし、基礎学力の用語、原理だけを「暗記」して、ウケウリ知識をひけらかし、まるで有識者のように振る舞い、その証拠として持論は持っているフリをし、事例として他人の結論を披露して見せ、後の肝心な自分自身の私見や発見などは他人にヤラせて批判や添削だけして、良さそうなら自分の功績としてとりいれている状態も、自分を基礎学力を学んだ人間と勘違いしてしまう可能性がありそうです…

関係なさそうに見えますが、読書をする時、頭に入らなかったり、ついナナメ読みをしてしまったり、飛ばし読みをして「知っている事柄ばかりを探して」いたりするならかなり危険な要素があるかもしれません。
読書の本来の目的は、読むことによって自身の感性や知識を変更・更新してゆくものと思われますが、「他人を出し抜きたい」「有識者側に立ちたい」などの目的で読むとかなり読書が上記のような安易な解決策を探す読み方になってしまうのではないでしょうか?

俳優は常に自分の心を疑い、根本的な問題を解決する勇気が必要です。
安易にゴールを目指すより、「希望を持ってゴールに立ち向かう過程」に幸福を見出していきたいものです。
俳優は、現実を受け留める覚悟がないと体裁ばかりを気にした 型式ばかり目立つ演技になり、最終的にフォーマット化してしまいます。

そうなれば結局の所、型通りの練習さえすれば誰でも出来るような演技になるため、何か成功例とも思われる露出度の高い俳優を模倣した声、演技などが横行し、似た演技が一般的になり、結果差別化が難しくなるため、見た目重視の外見を美しくしたり、美容整形等も選択肢に加わるでしょう。そして足りなければ お金をかけて宣伝、賄賂、付届けも横行するでしょう。

また、ここまで来ると必然と金が物を言う状況になっており、バックグラウンドの圧力さえあれば誰でも俳優として認知される不公平な状況がうまれます。

では、どうすればこのような状況を回避出来るでしょうか?

当然ですが、誰にでも出来るものには自立する力はありません。先にも述べたように、そこに頼るものは、常に金や権力を必要とし、何か成功例に頼らなければ何も考えられないでしょう。

そこでまず、現実を直視する必要があります。

つまり「やって当たり前」のことをする必要があるのです。

例えば、「お金の仕組みを知らない人が貧富の差を語る」のは問題が大きいのです。

関係のないように思われるかもしれませんが、問題のある思考に ありがちな例をあげますと、

1)現実を直視する事を怖れるあまり、みずからが極端なシャイを装うことで相手が気をつかってツッコミにくいように演出し、様子を見ながら都合の良い意見だけを選んで喜んだ反応を示し発言相手を誘導する。

2)攻撃的な態度を装うことでツッコミにくく演出し、様子を見ながら都合の良い意見だけを選んで喜んだ反応を示し発言相手を誘導する。

3)自分は立場が上に見せかけることで相手からツッコミにくく演出し、様子を見ながら都合の良い意見だけを選んで喜んだ反応を示し発言相手を誘導する。

4)バックグラウンドのコネや権力を盾(たて)にすることでツッコませないように演出し、様子を見ながら都合の良い意見だけを選んで喜んだ反応を示し発言相手を誘導する。

実際問題、現実を直視していればこのような 言わば取引とも言える演出など不要で、当初は誰でもうまくいかないもの、人間は完璧ではなく、誰でもしらない事や わからない事があるものだだから、常にお互いに勉強しあって足りない部分を補完しあうものだというコンセンサスがあれば そのような演出など無意味なはずです。

上記の例にあるような思考反応は、当の本人は心の奥底では理解していながらも、危機感からの防衛反応ですから認めたくは無いし、問いつめた所で自覚していないものです。

天才などという幻想や、すべてが完璧で、技術的なものを全て免除された人々で構成された世界が存在すると思い込んていたら、いつまでたっても到達が遠く見えてしまい、安易な解決策やショートカット思考、ハッタリをかまして旨く入り込めばそのうちにナレてきて何とかなるんじゃない? などと、ナシ崩しな思考が頭の中に横行します。

ところが、常に無知のそしりをまぬかれたいが為に上記のような演出をし、常に有識者側に立ち、様子を見ながら有利なほうを選択。危なくなれば自分には有利な形で「知らなかった演出」をし、結局有識者側に立つという思考が存在します。

さて、冷静になってみてください。
このような思考が果たして成功するのでしょうか?

まず状況を考えて見ましょう。

仮に、上記の例にあるような思考の人々がいない集団があるとします。そこで 上記の例のような思考の人物や少集団がまぎれこんだ場合はどうなるでしょう。

集団の中で目立たなくまぎれこんだつもりでも直ぐに違和感が走り、混乱が起きます。
仲間の中に なぜか自分の意見を発言せず、常に自分に有利なほうにつく人間が出てきたわけですから。
そこで周囲が許すはずはありません。間違いなく害を及ぼす可能性が大きいので、排除または利害関係上 出来なければ孤立状態にする必要があります。ということは?

そうです!

もしそのような状況が日常的に可能で、なんとなくうまく誤魔化せているなら、その集団全体が実は無知集団であり、有識者を装った無知集団である可能性が高いと思われます。

都合の悪い事実や現実は、見ないフリ気づかないフリをして絶対に見ない、周囲にも見させない。バレそうになると嚇(おど)す。またはエサを与えて仲間にする。そのうちに世間一般的に常識化してしまうと、イザ世間が気づいた時には、もう後戻りはできないという風潮が起きて、みんなで気づかないフリ 見ないフリをして暗黙の了解が常識化する。

現実をみんなで洗脳しあっておざなりにし、直視しなければ「赤信号みんなで渡ればこわくない」が通用してしまいます。

実際には理解が足りないのに表面上を取り繕っていることがバレそうになったりした場合には、もう後戻りはできないと集団全体で他集団を悪者にする事で正当化しかねません。

実はそのような状況は、現実を常に理解されていれば当然危険なのでやりませんが、そうなってしまった場合は、いつの間にか集団全体が ナシ崩しにお互いに洗脳しあってしまっているので気付かないのです。

夢からさめなければ、気づいた時には崖から転落して衝突一歩手前!手遅れになりかねません。

世界の歴史上ではこのような事が、幾度となくくり返されているのです。

とにかく安易な解決策を取らずに現実を直視する覚悟と勇気を持ち、まわりの意見の前に自分を冷静に理解して、起こった事態に理解が足りなければ都度基本的な学習を深め、その上で他人と協力して行動する。

つまり常に地道にイチから構築していくしか方法はありません。
……………………………………………………
難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。
俳優には、自由な発想と自由な行動が直感的にその場でとれることが必要になります。

自由を手にいれる為には豊富な知識が絶対条件です。

知らない事をみずから能動的にすることは出来ません。

知らない事を知っていることにしても、実際には知っていることにはならない。(Q&Aを丸暗記しても理解していることにはなりません。)

つまり理解をせず、他人の意見や既にある答えを探して吐き出している限り、知り得ない外部の権威や枠組みからはずれる事は出来ず、常に間違いの恐怖におびえ続けなければなりません。

能動的に自由に振る舞う為には自由に振る舞えるだけの豊富な知識が必要なのです。

自由=無責任ではありません。
なぜなら無責任な自由は、常に外部とのトラブルをかかえてしまうからです。
したがって、自由には 常に その自由に対する責任がともないます。
責任を持つには、その自由な振る舞いに対しての根拠がなければ説得力を持ちません。
その根拠を持つためには説得力のある豊富な知識がなければなりません。
「自由・知識・根拠・責任」
自由に振る舞うには そのすべてが同時に存在していることが前提であり、その自由にかかわるすべての周囲にも同時に理解させる説得力が必要とされます。
したがって、自由には常に責任がともなうのです。

自分は成績が良い、又は良かったはずなのに 根拠自体がよくわからないといった意見もあるでしょう。
それは「暗記=知識」という誤解が事を難しくしてしまっている可能性があります。
つまり、暗記したことを根拠にしてしまうために「それは結局 自分の考えではない」という問題を棚上げしてしまい、「そんなことをイチイチ勉強していては人生が終わってしまう」と基礎を暗記でショートカットして不勉強を正当化している可能性は無いでしょうか?

その場しのぎの答えばかりを暗記して、学歴や経歴を既成事実としてデッチ上げたとしても、化けの皮がハガレル不安はいっこうに解決されることはないのです。

そして、いよいよ「じゃあ結局 知識ってなんなの?」という疑問がわいてきたら このあとをお読み下さい。

さて。

そこで肝心な「豊富な知識」とは何か?

それは、ものごとにたいするファクター、事実、存在そのものを「探求する勇気」と「能動的な意欲」があることが前提なのです。

ところが、自己顕示欲、名声、他人に対して勝ち負け感情などがはたらくと、先の結果ばかりが気になってしまい、焦り(あせり)から基本的なことさえ暗記ですませてしまい、基本を知っている事にしてしまうのです。
そういう人物は、基本が暗記だけに当然理解しているわけではないので、その後の応用さえ暗記しなければならない事態になるため、理解の足りないままの発言を繰り返す事になります。
他人に発言したくなるほどのネタだけに結構な理解度が必要でありますから、そもそもの基本自体が単なる暗記だっただけに今さら学習が追い付かず、常に化けの皮がはがれてしまう恐怖にさいなまれる事となります。
こうなると、このネタに付随するあらゆる問題に火がつく前に、あらゆるQ&Aをその場しのぎに丸暗記する言わば「自転車操業」(じてんしゃそうぎょう)状態になります。
そうなればもうお察しの通り、結局はすでに裾野(すその)に火が付いたも同然です。もとはひとつの軽いつもりで発言したネタが、のちのち火消しのために次々と暗記するハメになり、数々の他人権威に依存したネタが無尽蔵に増え続けるというわけです。
こうなると現代では携帯などのネット検索というアイテムがあるために恐ろしいほどの「他人の意見にかくれた権威者」が続々登場してしまっていることでしょう。

もし仮に、基本的な知識をしっかり持っている人物がいて、そういった人々が国をおさめているのなら、教育機関において、この事を道徳的に国民に対してたしなめているはずです。
指導者に世界情勢や世界の歴史的背景が理解されていれば、何かしらの分かりやすいアクションがあるはずですから。

こんな事が社会を構成する要素となっていれば、自由な発言や行動は無理と言わざるおえません。

このようなことが実行出来るのは、国民と指導者を切り離した社会主義的構造が必要不可欠です。

このような無知を誘発する社会は、無知が無知を生み、無知であるがゆえに支配者は忖度(そんたく)を強要し、支配される側は知ってしまうと、自分が支配者に反感を持つためにリスクを恐れ無知であろうとする。無知はマズイのでQ&Aを暗記することでお互いに知っている事にする。支配者がやりたい事を後付けでQ&Aをツギハギして帳尻を合わせる。外部の人間がオカシイと思っても本人達が良しとしていることなので、外部の人間にとっては自分達に危害が無い限り口出しはしません。もし外部の人間が、考え方まで変えようとすれば、かなりの時間と出費と労力そして特に反発を覚悟しなければなりませんから余計なお節介はしないでしょう。

したがってそのような社会がすでに出来上がっているとすれば、何か国が転覆するくらいの事態にならない限り、指導者は、みずからの無知と支配される者からの忖度(そんたく)を逆手(さかて)に諸外国にも国民にもトボケまくってノラリクラリと権力構造が逆転することはありません。

また理解の不足は、いらぬ対立をも引き起こします。
ものごとにたいする理解が足りないと お互い誹謗中傷になりやすく、単純な解決方法をとりやすくなります。
そして知識が狭いと、人類の歴史そのものの理解が足りない為に「人権そのものが理解出来ない」可能性があり、そう言った場合は、ことあるごとに気付かずに人権を ことごとく踏みにじってしまうわけです。諸外国人の自分たちに対する反応を見て「何かオカシイぞ?」とあせりを感じた人々は、自分が行っている所業に目を向けると「もしかしたら自分は結構危ないことをしているかもしれない」事を感じると、バレてしまうと騒ぎになるから、世間が多くを見ないうちに目をつぶってフタをして、気づかないフリをして無かった事にし、お互いに知っている事に見せかけるために諸外国の人権を調べて各国の人権Q&Aを暗記して、そのルールさえ守れば守っていることに出来るんだと。表面上はなんとかなったとしても、結果的に理解しているわけでは無いために、見えなければ 何をしようと構わない。人それぞれなんだからどう考えようと構わないという単純な発想におちいりやすいのです。
いろいろ考えられますが、例えば「多数が悪いと言っていればそれは悪い事だ」のような単純な考え方は特に根拠が薄く かなり原始的な解決方法です。
また、学者、専門家、有名人、政府関係者の発言から、誰でも思いつきそうな発言にもかかわらず肩書きに左右され、根拠があるごとく信じてしまうのは前時代的で、昔のように差別が始まったりファシズム化しやすいのです。こういった人物がなにかを特定した悪口を口にした場合、社会が無知化した状態だと非常に危険な事態になります。
知識が足りないと、相手のあしもとを見ない限り、面と向かって論理を付き合わせた議論が出来ず陰口が多くなります。さらに間接的に書面にて辻褄合わせのアトダシが横行しやすいため、こじれる事が多くなります。

そもそも自由な発言が自由に出来るような社会構成である場合、そのような他力本願のいい加減な人物や権威が容易に淘汰(とうた)されるはずなのです。

そもそも資本主義は、資本家が 資本が適切に使われているか常に監視をしながらも、冒険的な試みを会社に注文しなければ、忽ち(たちまち)資本が目減りしてしまいます。

つまり、人間は変化の無い状況を嫌います。

慣例(かんれい)を作り、決まった事を決まった枠組みで行っていると、同じ事を繰り返しているために経済が回らなくなり、イヤ気がさして物が売れなくなります。
その為、資本家のせっかくの資本が目減りして意味をなさなくなります。

もし慣例を作り、決まった枠組みで行うならば、資本家まがいの人物を作り、資本を出させて元々自力で成り立たない税金ぶら下がり会社を大量に作り、あしもとを見た状況で文句を言わせずに政府が(こういったことに政治家は長期の責任を持てませんから彼らは都度アイデアを採用するのみで実際は官僚や役人が行うことになるでしょう)周囲の利害関係に目を配りながら支配層の都合のよいカタチで計画的に経済を進める必要があります。
そんな先のことが見えてしまい、自分の人生が計画的で、みずからの意思では無く、実はそれ以上は望めないことに気づいてしまって国民がやる気をなくさないように余暇(よか)を充実させて興味を作り、変化の無い現在の状況を気づかれないように散らす事になります。

例えば、ゲーム機などは命令を確実に実行させる訓練には最適で、いかに忖度して誰よりも効率的に正確に命令を実行するかを、お金まで本人に出させる為にコストゼロで訓練させる最適なアイテムと言えるでしょう。特に休み時間や通勤時などは我にかえるのを防ぎ、命令を実行する訓練にハゲムよう みずから進んであててもらえます。

テレビやニュース、インターネットなども、お金をかければいくらでも話題性を出せますから、小さい頃から「話題に乗り遅れると仲間ハズレにされる」と言った常識を植え付ければ、旅行地も誘導し放題。個性も「コレが個性的」というフォーマットさえメディアに流せば、自分で個性的に考えたわけでもないのに「個性的の称号」を得ることで安易に与えられるため、物も服も食も音楽も流行らせたい放題。おまけに まるでバラ色の人生も望めるように誘導し放題。暗記だけで中身がよくわからなければ、このような余暇は最適なアイテムですね。

極端に言えば、考え方次第で、国民を無知にして中身をよくわからなくしてしまえば、税金も取りたい放題、借金もし放題、憲法も拡大解釈し放題、民法も変えたい放題 作りたい放題という事も出来るわけです。
特に憲法の中身を理解されたら非常に都合が悪いために拡大解釈の解説本を出版してバレないように覆い隠すことやマスコミで民法の拡大解釈や論争を「周囲をややこしくして本質をそらす」などといったことも起こるでしょう。

憲法がたった1つでも「国会だけで改正」されるようになったら2つも3つもナシ崩しにナダレがおきます(役人の方はコレが悲願でしょうから)、そうなれば国民は制限され放題、搾取(さくしゅ)され放題、自由はもう失ったも同然なのに……(国会のみの判断で憲法が改正出来るのならば、民法と憲法を分ける意味があるのでしょうか?)

そして撹乱に成功することがいよいよ大丈夫と核心が持てたところで、役人が良かれと思う事業を「思いつき」で とりあえず自分の手柄か はっきりするまでは誰が首謀者かわからないカタチで場当り的に計画をたてては作り逃げ、やりっ放し、計画の掛け捨てなど、かなり大胆になるでしょう。これは結果的には資本主義に見せかけた社会主義政策に移行していると見られます。ですがこのような無知社会では誰も気づきません。もともと資本主義の民主主義政策をとっているつもりで社会主義主導の計画経済ではない建て前上、というか建て前にすら気づかないために、なぜか全体主義政策をしたがってしまいます。そこで憲法上、全体主義政策が出来ない反面、どういうわけか実際は税金主導で経済を続けなければ経済が成り立たない為、全体像が見えないまま、お家芸と言った方がよいのか、お互いに無知を利用したその場しのぎで見切り発車を続け、崖が崩れるまで突き進むこととなります。
したがって、誰が首謀者かわからないまま、あいまいながらノラリクラリと、国がそちらに舵を切ればみんなが従い、気に入らなければ都合の悪い権力者が いつの間にか政争に持ち込み、もともと恣意的(しいてき)で根拠など薄いために、当事者の発言から揚げ足をとったりスキャンダルなどを用いて変えさせる。
この時点でほとんどの企業・団体が 気付かずに国から仕事の道筋をつけてもらってもう引き返せない状態におちいってしまっています。
そこで悲劇が。
いわば無知政策の被害者と言おうか、特に無産階級(むさんかいきゅう)が被害にあいます。無知政策のために、状況を把握出来ず、資本主義と勘違いした出口の見えない人々が存在してしまうのです。
何も知らずに、自主的にみずから補助金無しに立ち上げた会社や団体などは、これも気づかないうちに常に補助金注入されているゾンビ企業や行政法人や税金ぶら下がり団体に 道(自由)をはばまれているとも知らずに四面楚歌(しめんそか)になってしまうのです。

これでは本来の資本主義は望めないでしょう。

これは悲劇です。ものをしらない、しりたくないといった社会は、財産の無い者には特に悲劇そのものです。

知識は必要だと理解していただけたでしょうか?

話しをエセ社会主義から我々の資本主義に戻しましょう。
資本主義を進める為には、冒険的・野心的な行動が必要不可欠となります。

その冒険的・野心的な行動をするには、はじめにお話しした「知らない事をみずから能動的にすることは出来ません」という言葉を思い出してください。

つまり、資本主義的民主主義を営むには豊富な知識を手にいれる必要があるのです。 

したがって自由には暗記ではなく、能動的な基礎的学習が必要不可欠なのです。

知識が貧弱だと思考範囲が狭く、単純な答えに結びつきやすい。それをうめるために問いと答えを暗記して理解者のテーブルにつこうとする。だか暗記したものに思考するちからは無い。

俳優は人類や地球の歴史を知り、現代社会に対して考えを持ち、人間に対しての何かしらの考えが備わっていなければ、人を演じる事は到底難しいでしょう。
……………………………………………………
難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。
前回で残してしまった問題の「根拠」について、お話しを具体的に進める前に、話している「論点」自体が、根拠以前の状態だと根拠の話しどころではありません。

人間を演ずるのであれば、まず、みずからの思考・感情の挙動を監視しする勇気が必要です。

台本を理解し演ずる為には、そのセリフで「なんの話し」をしているのかを理解出来る能力は絶対条件です。

そんなこと当たり前だよ!

と、あなどってはいけません。

たとえば「今日は言い過ぎちゃったな…反省反省」のような事はありませんか?

本当に「言い過ぎちゃった(笑)」程度の問題でしょうか?

例えば…

何か話題を持ちだすか 話題の中で、なんとなしに相手が知らない情報だと決めつけて切り出した話しが、以外にも反論や「もっともな返しかた」をされて軽くブライドを傷つけられ、苦し紛れに「別の話し」ではあるが、やや関連したように見える特殊な、知らなさそうな知識を差し込んでやり込めようと撹乱(かくらん)し、「知ってるか知らないか」論争に火がつく など饒舌になり、挙げ句に、まだ「相手のひれ伏しかたが足りない」と調子に乗り、最後は絶対反論出来ないような理屈の話しに誘導して突き落とす。又は反論出来ないような立場の人間に自分を持ち上げて相手に譲歩させて終了する。

などはないでしょうか?

危なくなったら、すかさず携帯電話を持ち出し、自分の都合の良い答えを探してはプライドを傷つけた人物を中傷するネタを探しまくり、その場しのぎに見つけた理屈で反論するなど最近はよく見かける光景です。
ということは、それまで知らなかったの?もしくはそんな曖昧な根拠で反論?そもそも それを言う必要があったのか?

これは、かなり危ないウンチクロジックの綱渡りです。
こう言った議論モドキは、「そもそも論」を持ち出されたらかなり化けの皮が剥がれてしまう「虎の威を借る狐」ではあります。

あり得ない話しですが、

例えば、
A「これからは常識的な事以外は右手を使わないで下さい」
B「わかりました」
A「よろしい。それでは食事を始めましょう」
B「はい」
A「箸を右手でもちましたね!」
B「ちょっと!箸は右手ですよね」
A「箸はもともと左手で持つものなんです!世間が常識を誤っているんです。知らなかったんですか?」
B「そうだったんですか…知りませんでした。ごめんなさい」

事実はともかく、このようなロジックを持ちだすのは資本主義における民主主義にも反します。
人権を守るためにも、例え最初から決まっていたとしても「大多数が知らない決まり事」や「新ルール」を持ちだす事が出来るのは、それを守るべき人々とのコンセンサスがとれてはじめて施行される事が望まれるべきでしょう。

なぜこのような事が、「なんの話し」と関係するのでしょうか?

それは、上記の全てに言える事ですが、まったくと言っていいほと「目的」が「話題の論点」と違う事に気付かねばなりません。

なぜか聞き手との闘争やルールを守らせる事に目的が集中しており、話題自体が持つ目的が論じられていません。

なぜこのような、論点を外した注意散漫な思考が働いてしまうのか?

ここが問題の「なんの話し」の核になります。

常に現時点の幸福のみ追求してしまうと、もともと何をやっているのかという、よく考えてみれば当たり前の思考がおろそかになり、結局その場しのぎの行き当たりばったりになっていることすら当人が気づかなくなります。

そこで、なんとなく当人が潜在的に危機を感じたところで真打ち登場!伝家の宝刀のごとく出てくるのが、どこかで覚えて来た「ウンチク風雑学」の登場と相成ります。

これを相手が知らない、ある意味世間的にも知らなさそうな「ウンチク風雑学」を登場させるのです。

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※ここで困った事に「ウンチク」(蘊蓄)は、「深く身につけた知識」と言う意味で、一般的な意味とは少し違います。
また「浅識(せんしき)」は、「知識が浅い」ことをさすようです。
ところがここで論じたいのは、
外部から仕入れた深い知識を、表面上だけ「タイトルと説明」のみ 単に丸暗記して「撹乱目的で吐き出す」という行為をさす言葉が必要だったのです。それが見つからないため、ここでは仮に「ウンチク風雑学」と呼びます。
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この誤魔化しが、その場しのぎを「正当化したような気がする」と言うあり得ないロジックが、麻薬のごとく錯覚を起こし、自分をも「諸問題をクリアした側の人間だ」と洗脳してしまう。

こうなるともう「なんの話し」をしている事がわかっている側の人物に自分自身を設定してしまっている為に、もうその話題が「なんの話し」か考える必要がなくなるわけです。

そうなったらもう大変です。ひとたびその核になる「なんの話し」に触れようものなら「なんの話し外(はず)し」に翻弄(ほんろう)され、しまいには「空気を読めよ」のような伝家の宝刀を出し、全体圧力を強める…こわいですね。

そもそもなぜそのようなことが起こるのか?
それは「不勉強主義」が根底にあることは間違いありません。
ですが、前記のような考え方の人物には「錯覚」が錯覚を呼んで、すでに「わかっている側の人間」になっているため、話しても素通りしてしまうでしょう。

「なんの話し」かを追求するためには、数々の心のトラップや地雷をあえて通り、また踏む必要があるのです。それも義務化せず能動的に!

そもそも「なんの話し」か説明出来るくらいなら「空気を読めよ」的な発想は起こりにくいはずです。

前記のような状況下にしてしまうのは、なんの話しか「理解してなくても構わない」事を潜在的に誘導している可能性かあります。

とにかく、核になる「なんの話し」そのものが、その場しのぎにほんろうされ過ぎて、いつの間にか論点をはずす事を目的にした「注意散漫」な思考によって、純粋なものが「現時点の私利私欲」にすりかわるのです。

これが更に先に進むと、後戻りの難しいフェーズに入ります。

すでに前記の事例のようなこと自体をすでに見越して、それを踏まえてしまっている人物もいるのです。

このような人物は「ウンチク風雑学」を出された場合の答えを日常的に仕入れて暗記してストックしています。

そのため普段は寡黙なスタンスで黙っておきます。

そこで「ウンチク風雑学」を出された時点で間違いを指摘するか、知っている側に立つ、もしくは相手が上位の者であれば知らないふりをするなどして「ウンチク風雑学」を出した側の人間にうまく近付く準備をしている人々がいます。

こうなるともう「なんの話し」どころではありません。これは「覇権争い」か「指摘する快楽」です。

1.いつも勝者に付くか。
2.弱そうな相手なら「ウンチク風雑学」をたくさん言わせて間違いを指摘して黙らせるか。
3.「ウンチク風雑学」をたくさん言わせて間違いを指摘して楽しむか。

3…これはかなりひどいです。「人の不幸は蜜の味」のような自分が手を下さないシャーデンフロイデ的なものは外国の文献でもお目にかかりますが、たとえ相手側の知識が受け売りで浅はかであっても、「みずから手をくだして楽しむ」のはどうなのでしょうか?

ところが、3のような人物が、世間には案外沢山存在し、その指摘自体が、言わば「ウンチク風雑学主義」の人間を生産している現状にほかなりません。

つまり、指摘されればされるほど「今度こそはひれ伏してやる!」と「ウンチク風雑学」を仕入れる事に執念を燃やすでしょうから。

そもそも「ウンチク風雑学主義」も言わば「指摘快楽主義」も、なぜか両者共に「なんの話し」を無視して論点を考える必要性をすり替えてしまうのです。

その考えの流れは以下の通り。

「不勉強主義」自体が「暗記主義」を産み、
「暗記主義」を正当化する為に
「暗記」を「勉強化」する。
「不勉強ではない。時間をかけて暗記をしたではないか」
「答えを言えるのは理解しているからだ」
「理解しているから暗記出来ている」
「暗記は不勉強ではない」
結論
「不勉強主義ではない」

となってしまいます。

もしかしたら元々「暗記した」=「理解した」と思い込んでいるかたもいらっしゃるかもしれません。こうなるともう話しは平行線です。

そのために以前お話しした「ファクター」が理解出来ず。「なんの話し」を理解することを潜在的に避けるわけです。これでは根拠以前の問題ですね。

何を言う!
イチイチ勉強していてはきりがない。
「転ばぬ先の杖」として覚えているだけだ。

と言われるかもしれません。

果たしてそうでしょうか?
筆者にはQ&Aをまるごと暗記する方がリスクが高く、深く突っ込まれたら答えられないという常に崖っぷち政策を取っているようにしか見えません。

丸暗記することで理解するストレスから逃避してはなりません。

そして丸暗記体質は、知っている側のテーブルに無理矢理乗っています。そのため、化けの皮がはがれそうになるたびに誤魔化しや開き直りが起こり、トラブルが絶えません。

「縦割りに覚える」よりも「理解の橋渡し」をする方が効率的で安全に見えるのは気のせいでしょうか?

もし、丸暗記体質であること自体に気付いていない場合は、深刻なトラブルをかかえています。

「丸暗記主義で指摘快楽主義者」が 、不勉強主義がさらに進み、最後は丸暗記を放棄して「携帯電話検索主義者」となり、その場しのぎの発言が状態化して、ついに携帯電話を片手に、反論される度に反証をネット検索して反論 なんて起きそうですね…。なぜならどんな事も反証(不確かな証拠や都市伝説、単なる思い込みや噂も含みます)が存在するので なんとでもなってしまいます。極論、まともな発言であっても、ネット検索で「もっともらしい不確かな証拠」で反論を持ち出せば、反論された者は、ネット上の検証の不確かな証拠を持った大多数と対決しなければならず、普段から膨大な情報をあらかじめ覚えて検証しておいて、理解もしていない目の前の相手に答えを出さなければなりません。その言葉じりを捕まえて来る相手に負けてしまえば、こちらも同じ手段で対抗しなければなりません。結局は無尽蔵な情報証拠に対して ついにネット検索で不確かな情報をもとに検証して対抗。一度やってしまえば それまでの自信も心も折れてしまい、なし崩しに不勉強主義に転落して夢の世界に入ってしまいます。

とにかく「ネット検索主義者」には、言わば「不確かな虎の威を借る狐」戦法に覆(くつがえ)されてしまう恐ろしさがあるのです。

いつの間にか「話題」が「情報合戦の勝ち負け」にすりかわってしまうのです。

そして、お互いに知識や根拠が薄く 思考範囲が狭すぎると、「自分の知識範囲外の情報が存在する」ことすら無い「あるはずがない」と思い込んでしまい、「決めつけ」が起こり、前時代的な善悪二元論(ぜんあくにげんろん)に発展。差別的発言が始まり、さらに同じように思考範囲が狭い者どうしは中傷合戦(ちゅうしょうがっせん)が起こりやすくなります。

非常に厄介な事は、この「知識や根拠が薄く 思考範囲が狭い状態」は、「知識や根拠が薄く 思考範囲が狭い」が為に、本人には気づきにくいのです。その為、差別的発言をしていることすら当人は気づかないのです。

また、潜在的に発言することすら なんとなしに止(と)めている者は、リアルな世界では我慢して、バーチャルな世界で いわゆるネトウヨ化する可能性もあります。(※筆者は俳優のための心構えに必要な 自己検証と勤勉さを説いているだけなので、ネトウヨ諸氏のような大それた野望はもっていませんのであしからず…。)

上記のような経験はありませんか?

これは不勉強主義者が不勉強であるが為に、無意識的に「不勉強を隠ぺい」してしまう潜在的な常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。

この撹乱作戦(かくらんさくせん)に、話すたびに話しの腰を折られて、いつの間にか話題がなんなのかさえ わからなくなってしまいます。

そのためには「なんの話し」かを かたくなに通してゆくことで対応しなければなりません。
「なんの話し」がロックされていないと、結局は「似ている別のボール」を投げて来る相手のペースにのまれて、いつの間にか正規の道から外れてしまいます。

そもそも「なんの話し」をしているのかが会話には重要で、言葉じりを指摘して回るのは余り趣味の良いおこないとは言えません。まず その時点で、相手の発する単語や言葉ばかり気にしていて、会話の内容そのものが理解出来ない人のようにも見えます。

証拠と根拠を混同してはなりません。まったく性質が異なります。

知識が豊富にあるのであれば、なにか問題にぶつかった時に安易な解決方法をとらず、問題の根底から考えなおす力があります。知識があればこそ、さらに足りない知識を自覚し、学習しなおす勇気もそなわるのです。

例えばAと言う単語や事実を知ったとしても、それを構成するものまで知った事にはなりません。ここまでは、誰しも そう思うので大丈夫なのです。

このあとの処理がわかれてしまいます。

1)解答そのものを丸暗記する。もしくは、その場しのぎにネット検索して答える。

これはAを聞かれた時や Aに関連した時にしか答えを吐き出すことはありません。これは、理解したと言うより「覚えただけ(検索しただけ)」です。ファクターは、自己防衛的な要素が強いと思われます。こうなるとタダの九官鳥状態(きゅうかんちょうじょうたい)なので、丸暗記族は覚えるのがだんだん面倒になり、即ネット検索に頼る可能性が高いです。丸暗記とネット検索は同じ道をたどっていると思われます。

2)Aを構成するものまで深く掘りさげて理解する。

Aで無くても Aを構成する要素の入ったものであれば、あらゆる事に応用、その他のB・C・Dの要素のみと連携して 新しいEが出来たり、Aを構成する要素のみから発想して、新しい事実や物まで創り出すことが出来るのです。

以上、思考範囲が狭いと単純な解決法や単純な判断に陥り(おちいり)やすく 争い(あらそい)や中傷に発展しやすい。そして、思考範囲が狭いと思考範囲が狭いこと自体(じたい)に自身が気づかない。したがって日々学習が必要だと言うことがお分かりいただけたでしょうか?

いずれにしても、丸暗記やネット検索を続けていては 物事の根拠など、いつまでたっても たどり着くことはありませんから……。

俳優にとって、人間の本質への追及は、必ず通らなければならない道です。
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難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。
演技をする上で俳優は自分自身の固定観念に気付く必要があります。

つまり、自分自身に目を向ける勇気を持ち合わせていなければ、他人を理解する事など到底できないでしょう。

台本を理解する事は、人類を理解する事と同じ性格を持っています。

その為、固定観念にとらわれていると様々な考えに対応出来ません。

例えば、この役は自分のハマリ役だと思っているとしましょう。

なぜ「ハマリ」役なのか?
根拠は?
自分自身の性格に似ている?
そう言う性格だと思われたい?
カッコいいからか?
スゴいと思われそうだからか?
この役は目立つからか?
簡単にやれそうだからか?
すぐ覚えられそうだから自分に似ている?

例えば、この中で一番ありそうな意見で「自分自身の性格に似ている」は、なぜ自分の性格が似ている事がわかるのでしょうか?

・同じ考えを持った人間が存在するのか?
・同じ行動をとる人間が存在するのか?
・そう思われたいのか?

まずこれをお話しする前に前提として、あなたが人生において前向きな考え方を常にとっている(とれている)そして、他人とも常に問題なく関係がきずけているということでしたら、相当な知識と経験と道徳を持ち合わせており他人とうまくコンセンサスがとれている為、台本の読み取りやセリフでの会話も問題なく直感的に処理出来るので、あえて以降を読む必要はありません。
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●自分自身に目を向けるために。
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まず自分自身に聞いて見てください。

例えば、私(私たち)は日常的に、他人の行為を見て自動的に批判的になってはいないだろうか?

・例えば自動的にゴシップ記事や他人の不幸に目を向けていませんか?幸福そうな他人を確認すると自動的に反対面(だから上手くいっているんだ…等々)を探していませんか?

◆まず批判されている「相手側からの目線」から客観的に見て見ましょう。

●なぜ私(私たち)は あなたに監視されなければならないのか?
●あなたは、私(私たち)の行為(行動・言動)を制限する根拠はあるのか?
●あなたは、私(私たち)の行為を制限する何かしらの基準を持っているのか?
●あなたは、私(私たち)の行為を恣意的に制限する資格(権利)を持っているのか?
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立場を 相手側から自分自身に戻して考えて見ましょう。
ここまで言われると、「ちょっと批判的に思っただけなのに何でそこまで言われなくちゃいけないんだ!」と思ってしまいそうですが、ちょっと待ってください。

実はこの考えはかなり危険な思想です。相手の自由意思を「思っただけ」とはいえ、個人が他人の行為や考えを恣意的(しいてき)に制限する考えを自動的に思ったわけですから。

そこで「だったらアイツは好き勝手にやっていいのか?」と反論があるでしょう。

当然です。

ですが、よく考えて下さい。その「好き勝手」の根拠をおろそかにしてはいないでしょうか?

資本主義社会においての民主主義は、この好き勝手かどうかの「根拠」が世間でじゅうぶんに議論されなければならないのです。根拠というものは元来「何かアクションが起こった(または起こした)」あとに整理されるものなので最初からあるのは珍しい。言わば「思いつき」の後に論理性を正す作業なので個人にとっては「思いつきを他人に分析されてしまう(個人のみであれば自分の思いつきを分析する)」為に都合の悪い事が多いのです。
根拠を「言い訳」と混同してはいけません。
個人の中での、思いつきなら根拠薄弱でも問題は小さいが、あまりにも影響力のあるアクションだった場合は たちまち周囲に広がる。その根拠を、ジョーカーの如くたらい回しにして、考える当事者になるのを恐れるあまり、みんなで「明日は我が身」と曖昧さを求めはじめ、いつの間にか「曖昧にしよう」とする空気に支配され、気付けば根拠のはっきりしない「基準」にすりかわってしまい、「これさえ守っていれば問題ない」と、根拠がわからないままお互いの空気感に流され、互いに「お前は基準を守っていないじゃないか」と全体主義的圧力を持ちはじめ、その中で力の強い者たちが弱者が決定に参加しにくい根拠のわからない恣意的なルールを沢山作り「他人が決めたルールの縛りの中での監視された自由」つまり社会主義思想が始まり、みんなで「根拠の曖昧なまま」個人の(またはお互いの)行動を制限することになります。
そうなると相互の監視の中、決められた範囲内で自由をしなければならず、見えなければ何をしてもいい的な風潮や、ルールの範囲ならば解釈次第で何をしてもいい、考えは見えないから気づかないフリをして他人を見すてる。状況で縛って仲間をつくり、仲間をそれとなくそそのかし、もしくは間接的に脅して表面上は善人のフリをしながら陰で首謀者がはっきりしないかたちで都合の悪い人物を全体圧力で突き落とす。挙げ句にじゅうぶん制裁を加えられたその人物をバカにして ほくそえむ。逆に「された側の人間」は、悔しさのあまり復讐を誓うが、当然首謀者がはっきりしないのでターゲットが絞れず、別の場所で自分が なぜか同じロジックで他人に制裁を加える…この無限ループだ。

こんな社会性を持った日常なら台本を素直に読み取るのは不可能に近いでしょう。

そうならないように、互いの自由意思を、根拠を持って(または根拠について)話し合い、コンセンサスによってバランスをとっていくことが資本主義社会による民主主義の考え方です。

では、この根拠とは?

根拠は、年齢や立場を考慮せず、お互いに沢山の議論と行動を通じて経験し、その経験を世代間を通じても分かち合う事が必要です。

年齢や立場(肩書)を考慮しなければならないのは、御本人が知識不足を認めたく無いと言っているようなもの。

また、不勉強で知識不足を補うために過剰なルールが横行する社会に発展してしまう恐れもあります。
なぜなら、お互いのコンセンサスをとろうとすると 必ず説明がともないます。
臨機応変に分かりやすく説明(説得)出来るだけの知識が無い場合。やりたいことを通すためには、反論に対しての説明が出来ない事をごまかす為に、まるで正当な根拠があるのごとく演出をともなった上で厳格なルールで縛りをつくり、反論の余地を無くして逃げ道をふさぐ事で従わせるしか方法がありません。

数々の問題は、必ず知識不足くや検証不足が原因するため 日々勉強しなければなりません。安易に仕入れた情報は、恣意的な思考に流されてしまいます。まず確かな知識を多角的に仕入れる必要があります。そうでなければ台本のストーリーを先入観なしに理解する事は到底出来ません。

何か質問されるたびに食って掛かるようならもっと周囲と議論を重ねて勉強不足を知り、多くを学び、自分の根本的な問題を解消しなければなりません。知識不足から来る価値観や先入観は意見の不一致にはなりません。これは個人の性格の問題ではないのです。

以上、日常的に根拠が曖昧だと、不安が他人を監視し、又、お互いに根拠を曖昧にしあっていると、お互いの言動が気になり監視しし合うという構図が出来上がってしまうと言うことです。

結論。このような慢性的に根拠薄弱な状態であれば、台本を理解する事はもちろん、ものごとに意見を持って立ち向かい、主張する事など到底むずかしいと言わざるをえません。
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難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。
前回の
「演技と準備①セリフ・記憶・覚え方・暗記」で、数々のセリフ暗記の代表的な例を載せました。

このような暗記方法のファクターは、非常に興味深い共通の心の動きを見せています。

それは、その暗記の方法には どこにも観客の目線。つまり「視聴者の理解」が含まれてはいないのです。

●なぜ覚えなくてはならないのか?

●覚えてなにをしたいのか?

●演じた先にある終着点は?

その基本的なファクターの矛先が、記憶の道をそちらに向かわせているとしか考えられません。

仮に、もし俳優同士の優劣の争いであれば、既に観客の理解などそっちのけの可能性もあります。

例えば、暗記したセリフを「正確に言う」事を目的とした場合はどうだろうか?

「言い間違いなど全く無い」とにかく誰よりも台本通りの正確さで暗記して勝負している。
つまりそれは「そう言う意味」での優劣はつくし、ある意味非難されにくい。

更にその先。
言い間違いなどは当然無く、更にアナウンサーのごとくハキハキと滑舌もキレイに訓練してしまい、言い方を指導されればその抑揚をキッチリ暗記。動きまで指導された通りを暗記。常に指導された通りに寸分の狂い無く演じ、非難のネタを完全にツブす。このような事がこなせるようならこちらも「そう言う意味」での優劣がつきますね。

また、「言い方」やそれに連動しての動きなどではどうだろうか?

そこで、既に世間的に認められているとされている俳優や声優の演技や声色をそっくりに真似た形をセットにしてセリフを暗記してしまえば、非難しようものなら摸倣元の俳優を非難したようなものなので なかなかケチをつけられない。仕上げは、ただのモノマネと非難されない為に、自分でも日常的に普段の声やしぐさ、究極見た目まで気をつけてマネてしまえば、元々そう言う声やしぐさだから非難される事は無い。しかもその俳優に まるでとって変わったような気にさえなれる。摸倣対象の俳優・声優が大物であればあるほど「そう言う意味」での優劣がつきやすい。
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上記の例はまだホンのさわり程度。このような考えでは、あまり観客の理解などを意識しているような覚え方が可能とは思われません。

何よりも先ず「覚える時点の心構え」で道が別れてしまうために、ここのファクターを読者とコンセンサスをとれなければお話ししても意味はありません。

この先も「セリフの覚え方」について更に詳しく説明していきます。