演技をする上で俳優は自分自身の固定観念に気付く必要があります。

つまり、自分自身に目を向ける勇気を持ち合わせていなければ、他人を理解する事など到底できないでしょう。

台本を理解する事は、人類を理解する事と同じ性格を持っています。

その為、固定観念にとらわれていると様々な考えに対応出来ません。

例えば、この役は自分のハマリ役だと思っているとしましょう。

なぜ「ハマリ」役なのか?
根拠は?
自分自身の性格に似ている?
そう言う性格だと思われたい?
カッコいいからか?
スゴいと思われそうだからか?
この役は目立つからか?
簡単にやれそうだからか?
すぐ覚えられそうだから自分に似ている?

例えば、この中で一番ありそうな意見で「自分自身の性格に似ている」は、なぜ自分の性格が似ている事がわかるのでしょうか?

・同じ考えを持った人間が存在するのか?
・同じ行動をとる人間が存在するのか?
・そう思われたいのか?

まずこれをお話しする前に前提として、あなたが人生において前向きな考え方を常にとっている(とれている)そして、他人とも常に問題なく関係がきずけているということでしたら、相当な知識と経験と道徳を持ち合わせており他人とうまくコンセンサスがとれている為、台本の読み取りやセリフでの会話も問題なく直感的に処理出来るので、あえて以降を読む必要はありません。
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●自分自身に目を向けるために。
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まず自分自身に聞いて見てください。

例えば、私(私たち)は日常的に、他人の行為を見て自動的に批判的になってはいないだろうか?

・例えば自動的にゴシップ記事や他人の不幸に目を向けていませんか?幸福そうな他人を確認すると自動的に反対面(だから上手くいっているんだ…等々)を探していませんか?

◆まず批判されている「相手側からの目線」から客観的に見て見ましょう。

●なぜ私(私たち)は あなたに監視されなければならないのか?
●あなたは、私(私たち)の行為(行動・言動)を制限する根拠はあるのか?
●あなたは、私(私たち)の行為を制限する何かしらの基準を持っているのか?
●あなたは、私(私たち)の行為を恣意的に制限する資格(権利)を持っているのか?
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立場を 相手側から自分自身に戻して考えて見ましょう。
ここまで言われると、「ちょっと批判的に思っただけなのに何でそこまで言われなくちゃいけないんだ!」と思ってしまいそうですが、ちょっと待ってください。

実はこの考えはかなり危険な思想です。相手の自由意思を「思っただけ」とはいえ、個人が他人の行為や考えを恣意的(しいてき)に制限する考えを自動的に思ったわけですから。

そこで「だったらアイツは好き勝手にやっていいのか?」と反論があるでしょう。

当然です。

ですが、よく考えて下さい。その「好き勝手」の根拠をおろそかにしてはいないでしょうか?

資本主義社会においての民主主義は、この好き勝手かどうかの「根拠」が世間でじゅうぶんに議論されなければならないのです。根拠というものは元来「何かアクションが起こった(または起こした)」あとに整理されるものなので最初からあるのは珍しい。言わば「思いつき」の後に論理性を正す作業なので個人にとっては「思いつきを他人に分析されてしまう(個人のみであれば自分の思いつきを分析する)」為に都合の悪い事が多いのです。
根拠を「言い訳」と混同してはいけません。
個人の中での、思いつきなら根拠薄弱でも問題は小さいが、あまりにも影響力のあるアクションだった場合は たちまち周囲に広がる。その根拠を、ジョーカーの如くたらい回しにして、考える当事者になるのを恐れるあまり、みんなで「明日は我が身」と曖昧さを求めはじめ、いつの間にか「曖昧にしよう」とする空気に支配され、気付けば根拠のはっきりしない「基準」にすりかわってしまい、「これさえ守っていれば問題ない」と、根拠がわからないままお互いの空気感に流され、互いに「お前は基準を守っていないじゃないか」と全体主義的圧力を持ちはじめ、その中で力の強い者たちが弱者が決定に参加しにくい根拠のわからない恣意的なルールを沢山作り「他人が決めたルールの縛りの中での監視された自由」つまり社会主義思想が始まり、みんなで「根拠の曖昧なまま」個人の(またはお互いの)行動を制限することになります。
そうなると相互の監視の中、決められた範囲内で自由をしなければならず、見えなければ何をしてもいい的な風潮や、ルールの範囲ならば解釈次第で何をしてもいい、考えは見えないから気づかないフリをして他人を見すてる。状況で縛って仲間をつくり、仲間をそれとなくそそのかし、もしくは間接的に脅して表面上は善人のフリをしながら陰で首謀者がはっきりしないかたちで都合の悪い人物を全体圧力で突き落とす。挙げ句にじゅうぶん制裁を加えられたその人物をバカにして ほくそえむ。逆に「された側の人間」は、悔しさのあまり復讐を誓うが、当然首謀者がはっきりしないのでターゲットが絞れず、別の場所で自分が なぜか同じロジックで他人に制裁を加える…この無限ループだ。

こんな社会性を持った日常なら台本を素直に読み取るのは不可能に近いでしょう。

そうならないように、互いの自由意思を、根拠を持って(または根拠について)話し合い、コンセンサスによってバランスをとっていくことが資本主義社会による民主主義の考え方です。

では、この根拠とは?

根拠は、年齢や立場を考慮せず、お互いに沢山の議論と行動を通じて経験し、その経験を世代間を通じても分かち合う事が必要です。

年齢や立場(肩書)を考慮しなければならないのは、御本人が知識不足を認めたく無いと言っているようなもの。

また、不勉強で知識不足を補うために過剰なルールが横行する社会に発展してしまう恐れもあります。
なぜなら、お互いのコンセンサスをとろうとすると 必ず説明がともないます。
臨機応変に分かりやすく説明(説得)出来るだけの知識が無い場合。やりたいことを通すためには、反論に対しての説明が出来ない事をごまかす為に、まるで正当な根拠があるのごとく演出をともなった上で厳格なルールで縛りをつくり、反論の余地を無くして逃げ道をふさぐ事で従わせるしか方法がありません。

数々の問題は、必ず知識不足くや検証不足が原因するため 日々勉強しなければなりません。安易に仕入れた情報は、恣意的な思考に流されてしまいます。まず確かな知識を多角的に仕入れる必要があります。そうでなければ台本のストーリーを先入観なしに理解する事は到底出来ません。

何か質問されるたびに食って掛かるようならもっと周囲と議論を重ねて勉強不足を知り、多くを学び、自分の根本的な問題を解消しなければなりません。知識不足から来る価値観や先入観は意見の不一致にはなりません。これは個人の性格の問題ではないのです。

以上、日常的に根拠が曖昧だと、不安が他人を監視し、又、お互いに根拠を曖昧にしあっていると、お互いの言動が気になり監視しし合うという構図が出来上がってしまうと言うことです。

結論。このような慢性的に根拠薄弱な状態であれば、台本を理解する事はもちろん、ものごとに意見を持って立ち向かい、主張する事など到底むずかしいと言わざるをえません。
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難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。