俳優には、自由な発想と自由な行動が直感的にその場でとれることが必要になります。

自由を手にいれる為には豊富な知識が絶対条件です。

知らない事をみずから能動的にすることは出来ません。

知らない事を知っていることにしても、実際には知っていることにはならない。(Q&Aを丸暗記しても理解していることにはなりません。)

つまり理解をせず、他人の意見や既にある答えを探して吐き出している限り、知り得ない外部の権威や枠組みからはずれる事は出来ず、常に間違いの恐怖におびえ続けなければなりません。

能動的に自由に振る舞う為には自由に振る舞えるだけの豊富な知識が必要なのです。

自由=無責任ではありません。
なぜなら無責任な自由は、常に外部とのトラブルをかかえてしまうからです。
したがって、自由には 常に その自由に対する責任がともないます。
責任を持つには、その自由な振る舞いに対しての根拠がなければ説得力を持ちません。
その根拠を持つためには説得力のある豊富な知識がなければなりません。
「自由・知識・根拠・責任」
自由に振る舞うには そのすべてが同時に存在していることが前提であり、その自由にかかわるすべての周囲にも同時に理解させる説得力が必要とされます。
したがって、自由には常に責任がともなうのです。

自分は成績が良い、又は良かったはずなのに 根拠自体がよくわからないといった意見もあるでしょう。
それは「暗記=知識」という誤解が事を難しくしてしまっている可能性があります。
つまり、暗記したことを根拠にしてしまうために「それは結局 自分の考えではない」という問題を棚上げしてしまい、「そんなことをイチイチ勉強していては人生が終わってしまう」と基礎を暗記でショートカットして不勉強を正当化している可能性は無いでしょうか?

その場しのぎの答えばかりを暗記して、学歴や経歴を既成事実としてデッチ上げたとしても、化けの皮がハガレル不安はいっこうに解決されることはないのです。

そして、いよいよ「じゃあ結局 知識ってなんなの?」という疑問がわいてきたら このあとをお読み下さい。

さて。

そこで肝心な「豊富な知識」とは何か?

それは、ものごとにたいするファクター、事実、存在そのものを「探求する勇気」と「能動的な意欲」があることが前提なのです。

ところが、自己顕示欲、名声、他人に対して勝ち負け感情などがはたらくと、先の結果ばかりが気になってしまい、焦り(あせり)から基本的なことさえ暗記ですませてしまい、基本を知っている事にしてしまうのです。
そういう人物は、基本が暗記だけに当然理解しているわけではないので、その後の応用さえ暗記しなければならない事態になるため、理解の足りないままの発言を繰り返す事になります。
他人に発言したくなるほどのネタだけに結構な理解度が必要でありますから、そもそもの基本自体が単なる暗記だっただけに今さら学習が追い付かず、常に化けの皮がはがれてしまう恐怖にさいなまれる事となります。
こうなると、このネタに付随するあらゆる問題に火がつく前に、あらゆるQ&Aをその場しのぎに丸暗記する言わば「自転車操業」(じてんしゃそうぎょう)状態になります。
そうなればもうお察しの通り、結局はすでに裾野(すその)に火が付いたも同然です。もとはひとつの軽いつもりで発言したネタが、のちのち火消しのために次々と暗記するハメになり、数々の他人権威に依存したネタが無尽蔵に増え続けるというわけです。
こうなると現代では携帯などのネット検索というアイテムがあるために恐ろしいほどの「他人の意見にかくれた権威者」が続々登場してしまっていることでしょう。

もし仮に、基本的な知識をしっかり持っている人物がいて、そういった人々が国をおさめているのなら、教育機関において、この事を道徳的に国民に対してたしなめているはずです。
指導者に世界情勢や世界の歴史的背景が理解されていれば、何かしらの分かりやすいアクションがあるはずですから。

こんな事が社会を構成する要素となっていれば、自由な発言や行動は無理と言わざるおえません。

このようなことが実行出来るのは、国民と指導者を切り離した社会主義的構造が必要不可欠です。

このような無知を誘発する社会は、無知が無知を生み、無知であるがゆえに支配者は忖度(そんたく)を強要し、支配される側は知ってしまうと、自分が支配者に反感を持つためにリスクを恐れ無知であろうとする。無知はマズイのでQ&Aを暗記することでお互いに知っている事にする。支配者がやりたい事を後付けでQ&Aをツギハギして帳尻を合わせる。外部の人間がオカシイと思っても本人達が良しとしていることなので、外部の人間にとっては自分達に危害が無い限り口出しはしません。もし外部の人間が、考え方まで変えようとすれば、かなりの時間と出費と労力そして特に反発を覚悟しなければなりませんから余計なお節介はしないでしょう。

したがってそのような社会がすでに出来上がっているとすれば、何か国が転覆するくらいの事態にならない限り、指導者は、みずからの無知と支配される者からの忖度(そんたく)を逆手(さかて)に諸外国にも国民にもトボケまくってノラリクラリと権力構造が逆転することはありません。

また理解の不足は、いらぬ対立をも引き起こします。
ものごとにたいする理解が足りないと お互い誹謗中傷になりやすく、単純な解決方法をとりやすくなります。
そして知識が狭いと、人類の歴史そのものの理解が足りない為に「人権そのものが理解出来ない」可能性があり、そう言った場合は、ことあるごとに気付かずに人権を ことごとく踏みにじってしまうわけです。諸外国人の自分たちに対する反応を見て「何かオカシイぞ?」とあせりを感じた人々は、自分が行っている所業に目を向けると「もしかしたら自分は結構危ないことをしているかもしれない」事を感じると、バレてしまうと騒ぎになるから、世間が多くを見ないうちに目をつぶってフタをして、気づかないフリをして無かった事にし、お互いに知っている事に見せかけるために諸外国の人権を調べて各国の人権Q&Aを暗記して、そのルールさえ守れば守っていることに出来るんだと。表面上はなんとかなったとしても、結果的に理解しているわけでは無いために、見えなければ 何をしようと構わない。人それぞれなんだからどう考えようと構わないという単純な発想におちいりやすいのです。
いろいろ考えられますが、例えば「多数が悪いと言っていればそれは悪い事だ」のような単純な考え方は特に根拠が薄く かなり原始的な解決方法です。
また、学者、専門家、有名人、政府関係者の発言から、誰でも思いつきそうな発言にもかかわらず肩書きに左右され、根拠があるごとく信じてしまうのは前時代的で、昔のように差別が始まったりファシズム化しやすいのです。こういった人物がなにかを特定した悪口を口にした場合、社会が無知化した状態だと非常に危険な事態になります。
知識が足りないと、相手のあしもとを見ない限り、面と向かって論理を付き合わせた議論が出来ず陰口が多くなります。さらに間接的に書面にて辻褄合わせのアトダシが横行しやすいため、こじれる事が多くなります。

そもそも自由な発言が自由に出来るような社会構成である場合、そのような他力本願のいい加減な人物や権威が容易に淘汰(とうた)されるはずなのです。

そもそも資本主義は、資本家が 資本が適切に使われているか常に監視をしながらも、冒険的な試みを会社に注文しなければ、忽ち(たちまち)資本が目減りしてしまいます。

つまり、人間は変化の無い状況を嫌います。

慣例(かんれい)を作り、決まった事を決まった枠組みで行っていると、同じ事を繰り返しているために経済が回らなくなり、イヤ気がさして物が売れなくなります。
その為、資本家のせっかくの資本が目減りして意味をなさなくなります。

もし慣例を作り、決まった枠組みで行うならば、資本家まがいの人物を作り、資本を出させて元々自力で成り立たない税金ぶら下がり会社を大量に作り、あしもとを見た状況で文句を言わせずに政府が(こういったことに政治家は長期の責任を持てませんから彼らは都度アイデアを採用するのみで実際は官僚や役人が行うことになるでしょう)周囲の利害関係に目を配りながら支配層の都合のよいカタチで計画的に経済を進める必要があります。
そんな先のことが見えてしまい、自分の人生が計画的で、みずからの意思では無く、実はそれ以上は望めないことに気づいてしまって国民がやる気をなくさないように余暇(よか)を充実させて興味を作り、変化の無い現在の状況を気づかれないように散らす事になります。

例えば、ゲーム機などは命令を確実に実行させる訓練には最適で、いかに忖度して誰よりも効率的に正確に命令を実行するかを、お金まで本人に出させる為にコストゼロで訓練させる最適なアイテムと言えるでしょう。特に休み時間や通勤時などは我にかえるのを防ぎ、命令を実行する訓練にハゲムよう みずから進んであててもらえます。

テレビやニュース、インターネットなども、お金をかければいくらでも話題性を出せますから、小さい頃から「話題に乗り遅れると仲間ハズレにされる」と言った常識を植え付ければ、旅行地も誘導し放題。個性も「コレが個性的」というフォーマットさえメディアに流せば、自分で個性的に考えたわけでもないのに「個性的の称号」を得ることで安易に与えられるため、物も服も食も音楽も流行らせたい放題。おまけに まるでバラ色の人生も望めるように誘導し放題。暗記だけで中身がよくわからなければ、このような余暇は最適なアイテムですね。

極端に言えば、考え方次第で、国民を無知にして中身をよくわからなくしてしまえば、税金も取りたい放題、借金もし放題、憲法も拡大解釈し放題、民法も変えたい放題 作りたい放題という事も出来るわけです。
特に憲法の中身を理解されたら非常に都合が悪いために拡大解釈の解説本を出版してバレないように覆い隠すことやマスコミで民法の拡大解釈や論争を「周囲をややこしくして本質をそらす」などといったことも起こるでしょう。

憲法がたった1つでも「国会だけで改正」されるようになったら2つも3つもナシ崩しにナダレがおきます(役人の方はコレが悲願でしょうから)、そうなれば国民は制限され放題、搾取(さくしゅ)され放題、自由はもう失ったも同然なのに……(国会のみの判断で憲法が改正出来るのならば、民法と憲法を分ける意味があるのでしょうか?)

そして撹乱に成功することがいよいよ大丈夫と核心が持てたところで、役人が良かれと思う事業を「思いつき」で とりあえず自分の手柄か はっきりするまでは誰が首謀者かわからないカタチで場当り的に計画をたてては作り逃げ、やりっ放し、計画の掛け捨てなど、かなり大胆になるでしょう。これは結果的には資本主義に見せかけた社会主義政策に移行していると見られます。ですがこのような無知社会では誰も気づきません。もともと資本主義の民主主義政策をとっているつもりで社会主義主導の計画経済ではない建て前上、というか建て前にすら気づかないために、なぜか全体主義政策をしたがってしまいます。そこで憲法上、全体主義政策が出来ない反面、どういうわけか実際は税金主導で経済を続けなければ経済が成り立たない為、全体像が見えないまま、お家芸と言った方がよいのか、お互いに無知を利用したその場しのぎで見切り発車を続け、崖が崩れるまで突き進むこととなります。
したがって、誰が首謀者かわからないまま、あいまいながらノラリクラリと、国がそちらに舵を切ればみんなが従い、気に入らなければ都合の悪い権力者が いつの間にか政争に持ち込み、もともと恣意的(しいてき)で根拠など薄いために、当事者の発言から揚げ足をとったりスキャンダルなどを用いて変えさせる。
この時点でほとんどの企業・団体が 気付かずに国から仕事の道筋をつけてもらってもう引き返せない状態におちいってしまっています。
そこで悲劇が。
いわば無知政策の被害者と言おうか、特に無産階級(むさんかいきゅう)が被害にあいます。無知政策のために、状況を把握出来ず、資本主義と勘違いした出口の見えない人々が存在してしまうのです。
何も知らずに、自主的にみずから補助金無しに立ち上げた会社や団体などは、これも気づかないうちに常に補助金注入されているゾンビ企業や行政法人や税金ぶら下がり団体に 道(自由)をはばまれているとも知らずに四面楚歌(しめんそか)になってしまうのです。

これでは本来の資本主義は望めないでしょう。

これは悲劇です。ものをしらない、しりたくないといった社会は、財産の無い者には特に悲劇そのものです。

知識は必要だと理解していただけたでしょうか?

話しをエセ社会主義から我々の資本主義に戻しましょう。
資本主義を進める為には、冒険的・野心的な行動が必要不可欠となります。

その冒険的・野心的な行動をするには、はじめにお話しした「知らない事をみずから能動的にすることは出来ません」という言葉を思い出してください。

つまり、資本主義的民主主義を営むには豊富な知識を手にいれる必要があるのです。 

したがって自由には暗記ではなく、能動的な基礎的学習が必要不可欠なのです。

知識が貧弱だと思考範囲が狭く、単純な答えに結びつきやすい。それをうめるために問いと答えを暗記して理解者のテーブルにつこうとする。だか暗記したものに思考するちからは無い。

俳優は人類や地球の歴史を知り、現代社会に対して考えを持ち、人間に対しての何かしらの考えが備わっていなければ、人を演じる事は到底難しいでしょう。
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難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

まだまだこの問題についてお話しします。