前回に引き続き、新たに登場した
「ファクター:factor」
こちらも辞書辞典を調べると要素、要因、因子etc...なにやら物理や化学のような感じですが…
この「ファクター」の共有?やはりこれも日本的文化習慣にはあまり馴染みのない表現手段ではあります。
実際の所、これが当たり前に存在せず、曖昧である為に伝達ミスが多く、いちいちマニュアルにしたりスローガンをたてたりしないと徹底出来ない社会なわけですが…
その「ファクター:factor」の共有。
実際大したことはなく、ものごとの「なんたるか」もしくは「今、何の事を議題にしているか」「今、何の話しをしているか」「なにを問題にしているか」「今、なにをすべきか」「結局の所は何か」など、とにかく事物の対象は″何の事(なんのこと)″について問題にしているかをはっきりさせ、それをお互いに共有する事です。
我々の社会では、この辺を誰かがハッキリとさせようとすれば、途端に反発や反論などの抵抗が多く、いつの間にか勝ち負け論に発展したりなど、結局は言い出した方が根負けして、曖昧な会話や議論を余儀なくされ、以降は前提条件等々が曖昧なだけに、言い出しっぺの本人も身の危険性を感じ出し、終いには責任が誰かさえ曖昧になり……なんて事例が多いのではないでしょうか?この曖昧さの技術は、職人というより芸術の域に達していると言っても過言ではありません。
この原因は さまざまですが、欧米のキリスト教「過ちを犯すは人の常 これを許すは神の業なり」すなわち人は必ず過ちを犯すわけで、皆で補完しあわなければならないのですが、日本では過ちは弱さであったり、儒教的に してはならないと見なされる事が多く、ところが現実は未来を的確に予想は出来ませんし、状況は常に流動的に変化してしまい、パターン化は非常に困難です。したがって、当たり前のように何かをすれば何かしらの過ちをおこしてしまうわけで、自然とトラップだらけの状況に。また、お互いのフォローは勝ち負け意識を誘発しやすく、貸し借りにもつながりやすい社会性をもっていますので出来るだけこのカードは使いたくない。過ちはまずいので、ごまかしや隠蔽、開き直りなどが横行してしまうわけです。
つまり我々の社会で抵抗が強いのは、ファクターである前提条件以上(factorは前提条件より広範囲を掌握するため意味が強い)のものをハッキリさせてしまうと個々の問題が発見(発覚)しやすく、自分にも火の粉が落ちかねない。すなわち、過ちが表面化してしまう前に抵抗しておく事で水際で火消をしておきたいって気持ちが起こるわけです。建て前上は問題を発見しようとしている事にしておいて、どこかでボヤがあがったり危なくなったりしたら、気付かれないうちに揉み消すなり隠蔽するなり焚書するなり妨害しておいて、無かった事にしようって事もあるでしょう。本来はあってはならない筈ですが、もしも社会″全体″がこうだったら?誰も本音を言いたくないし、歩いても地雷だらけ、危なくて誰も責任なんかとりたくないですよね。さあ、みなさんはどう思います?
ちなみに、抵抗する事と、ものごとに対して意見をする事は根本的に異なります。様々な意見はあって良い筈です。意見をさせない為や、プライドを傷つけられた腹いせなどに この理屈を利用されかねない為に一応言及しておきます。
いちいち英語になってしまうのは、日本語が常に対象を全体的や曖昧にしてしまう言語の為、それにあたる的確な単語が無く、結局手近な英語になってしまうわけです。この辺はプラトンやアリストテレスが得意技や必殺技をもっているので多分、ラテン語やギリシャ語の方がもっと適当な単語があるはず…
会議であれば「アジェンダ:agenda」なども似た表現だと思われます。
この「ファクター」を、日本文化的ステレオタイプの画一的な曖昧さをもって会話を行う限り、真のコンセンサスはありえないというわけです。
もう少しで「演技と会話」についての基本的な骨子が終わりますのでご辛抱願います(^_^;)
いろいろ賛否両論あると思われますが、前回も申した通り、ここは建て前上は人権と民主主義を重んじる国に住んでいるわけですから、寛大なご理解をお願い致します。
そして、ここで気になる「ステレオタイプ」という新たな単語について次回ご説明致します。
★追記
ファクターに続いて「演技と会話⑤エレメントとバイアスの関係」という記事を書きましたので、こちらの方も合わせて読んでみてください。