今回は、すこし演技について深い話に入ってみたい。

 

今ままでこのブログではあまり演技について深く触れてきませんでした。

なぜなら事前知識として、ありきたりの表面的な部分を排除しなければ演技について語ることは出来ないからです。

 

ブログではなくリアルな世界において、

これまでも私は「台本の読み込み」「芝居の計画立て」「演技の逆算」「決まった言い方」「動き等の計画的な段取り」で演技を行うことを否定して来た。また、「予定調和の場当たり的な即興」「情緒的なエチュード」「感傷的な演技」も否定して来た。


これらすべては脳に対して「予期しない入力」ではなく「意識的な入力」からの論理立てに相違ない。

大脳皮質の伝達の早さは、小さな哺乳類と大きな哺乳類は変わりがない。

つまり、「決まりきった行動」に関して言えば、生物として特に「人間的なものではない」のだ。

極論、コンピュータだって同じことを繰り返せるし、広く見れば太陽だって地球や月でも同じサイクルを行っているのだ。(ただし何千万年単位では無く)

だか、「すべては因果関係でおこり、進んでいる」のだ。

例えば「予期しない出来事」が起きる。

すると、因果関係から脳がその場で判断(再構築)し行動を起こす。

 

ところが、あとで脳が論理的錯覚を起こしてしまう。あの時は「とっさの事で偶然に行動を起こした」から「その場しのぎでたまたま行動した」わけで、「因果関係を理解して行動を起こしたわけではない」と理由づけをしてしまうのだ。

 

自発的脳活動の重要性が理解できず、予期しない出来事を恐れ、その場で判断しなければならないような要素を排除しようとする。

その結果

「計画・予定しなければいけない!」

「答えが分かっている事以外は手をつけてはならない!」

という「予定されたものへの安心感」を求めてしまう。

つまり「台本に対して合理的な配慮」が必須になり、その場の判断より「目標」と「計画」が必要になってしまったのだ。

この問題は、「認知・理解・思考・行動」に対しての理解が進んでいない為に起こっている。

「予期しない出来事」が起きる度に即、思考停止状態になってしまう場合、本人の情報不足が決定的に関係していると考えられる。

しかし、いくら情報量が多くても予期しない出来事が起こった場合に思考停止が起こるが、それは「個人の持つ基本情報の質」にも関係していることは明らかで、その良質の情報というのが「何か」にかかっているのだ。

情報と言うと 単なる「暗記」や「雑学」や「Q&Aのパターン」にとどまってしまいがちだが、

安易な「知る」と、それなりに努力が必要な「識る」には 大きな隔たりがあるのだ。

個々の意味と、それら事物すべての本質を理解せずして全体を理解する事は出来ない。

つまり、他人に分かりやすく説明出来る程の情報(知識)が必要なのである。

 

下手をすると解答例まで暗記しかねないので忠告しておくが、暗記したものを吐き出すのは脳が働いている位置が別だ。とっさに解答例から選別しているだけで自分の考えではない。常にあらゆる正解を丸暗記して、日常的に相手を糾弾するネタを作って歩いている事と似た性質をもっているので気をつけていただきたい。

「予期しない出来事」が起きた時に、予備知識から即 抽出し、自由意思により即座に行動(又は言動)に進み、素早く問題を解決に導くのだ。

 

ただの暗記だと「問題と答え」のパターンしかないので「予期しない」事は 始めから想定外なのだ。

では、その良質な情報量の閾値(しきいち)はどのくらい必要か?

我々は、つい他人の知らなそうな情報を知ると直ぐに自慢げに、又は間接的に匂わせて話してしまいがちだ。

だが、さらに興味を持ち、その先の深い知識まで得ようと努力し、その情報を知らない人物に対しても 自慢どころか共有し 分かち合おうとさえする境地まで達する必要がある。もうそこまで来れば、自慢や勝ち負けをするような気持ちは 初めから無かったかのようだ。

あとは「予期しない出来事」が起こった直後に、その時の状況に合わせて「前もって学習した情報」から脳が抽出し配線をつないで実行にうつせるわけだ。

 

予備知識が多ければ多いほど、台本に対して多角的な角度から見ることが出来る。

予備知識が少なければ少ないほど台本の解釈を決めつけやすい。

したがって予備知識の多い者にとっては、かえって読み込みが少ないほうが、その場での自由な判断がつきやすいのだ。

さらにそのような予備知識の多い者が複数人でセリフでの会話を行った場合、多角的な視野から自由に会話を行うことが可能なのだ。

簡単に言えば、いちいち台本を読み込まなくても その場で理解し 実行にうつせるし、また、段取りを組まなくても その場の状況に合わせて共演者同士でコンセンサスもとれ、不足の事態でも対処出来るわけである。

情報(パターンではなく)が多ければ多いほど、決断に迫られた時に より素早く、冷静な判断を下せる。逆に考えれば、情報が少なければ少ないほど、決断に迫られた時に より安易に その場しのぎになりやすい。

とにかく問題は、脳が安易に「セリフの言い方」「芝居の段取り」にアクセスしてしまうと、相手のセリフやその場の挙動、場の状況にアクセス出来ず、ましてや周囲とのコンセンサスなどもってのほかで、結局出演者も観客にとっても 非常に息苦しく堅苦しい芝居になってしまうと言うことです。

その場での判断が重要である事がお分かりいただけただろうか?

・脳は、自由意思による行為の際に時間密度の高い計算が行われている。

・決めたことを右から左に作業しているようでは自由意思には程遠い。

・それなりの知識が無いと自由な意思は難しい。

 

・知識によって脳がその場しのぎを抑制する。

 

・経験を理解するだけの知識も必要だ。

 

・経験は絶対数から言っても限界があるために知識で補う必要がある。

 

・海馬は効率的に記憶し断片から復元する。

・したがって識らないことを識ることは出来ない

・コンテキストを理解出来るだけの予備知識が必要だ。

・予備知識には常に根拠をもつこと。

・そして予備知識が閾値(しきいち)を越えた時、もはやコンテキストを必要としなくなる。


・浅い知識ばかりで深い知識が少なければ少ないほど 他人の考えが怖くなり、病気でも無いのに擬似的パラノイアに陥りやすく、他人との意志疎通や人間関係のバランスがとりにくい。

・この試みは「全てを識ることは出来ない」という後ろ向きなロジックに嵌りやすい。

 

・脳はかなりの程度まで、自分自身を体と環境から切り離すことが出来る。現実を拒否してしまえば いつまでも御都合主義の夢の中だ。

俳優達の、事前にあらかじめ決めて来た 思い思いのバラバラな計画的演技より、その場を楽しみ、互いの意思コンセンサスをとることの出来る調和のとれた芝居は、エネルギー効率もよく、出演者も観客も有意義な時間を得ることが出来るでしょう。


不完全さから来る多様性を、お互いに「これは必要だ」と求め合い

これによって起こるあらゆる出来事を補完し合う必要があるのです。

・脳は自発的意思の後(のち)に環境要因(または外的要因)によって修正される。


・脳は、理解(または注目)の対象を制御出来る。(たとえば人間は「カクテル・パーティー効果」の能力がある為、自発的理解や自発的学習時には自動選択出来るはずなのだ)

 

つまり、演じる俳優の「現時点でのポテンシャル」が関係しており、

どんなに誤魔化し、他人に良い評価を言わせ、大きく見せようとも、

結局やれることは一目瞭然。

既に決まっている(完成されている)わけである。

 

長々と話したが、「見せかけの実力者」においては、自分ではうまく誤魔化せたつもりでも対象の相手は、利害関係から「知らぬフリ」をしているだけなのだ。

 

したがって安易な解決方法は取らず、日々の努力は必ず必要です。

 

これを読んで「頭を常に動かし続ける(考え続ける)のは無理なのではないか?」と思われるかもしれない。

では、例えば「ネッカーの立方体」「シュレーダーの階段」「ペンローズの階段」などを見ていただきたい。

おそらく見始めた瞬間に頭が勝手に動いてしまうだろう。

脳というものは、意図的に考えることをやめない限り解釈せずにはいられない。

動かし続ける必要はなく、脳にさからわずに素直に従えば良いのだ!

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いやぁ難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。