「スリランカ留学を想起する_PART26」
読者の方々から、「日本の英語教育のレベルは
アジアの中でも最低レベルにある」との実感からの
ご意見を多数いただきました。
そのうち大半の方々は、海外にその場を求めて
いるとのことでした。
たいへん安心しました。
まずは、自分の身は自分で守るしかありません。
続きになるが、
1年間の留学期間も残り3ヶ月になった。
ぼくの安心感の源であった、神父さんと最後の
対話があった。
日本から高校生一年生で、最初の交換留学生
としてやって来てどうだった?
ただ辛い日々であったことは、会うたびに
わかっていたよ。
内戦、テロ、生活の貧しさ、インフラの貧弱さ、
健康不安、同級生に日本から持ってきたもの
(文房具など)すべてを盗まれたこと、
周囲の大人からカネや日本製品をせびられて
いたこと、
ホストファーザーとマザーの不仲からの別居、
彼らの被差別からの国外逃亡計画など、
さまざまな情報が教会には入ってきていたよ。
しかし、君はぼくに文句一つ言ったことが
なかった。
常に明るかった。
君の帰国前に言っておきたいことがある。
それでは、日本、英国や米国などの先進国に
住んでいる人々は、安心・安全だから、
スリランカの人々より幸せな毎日を送っているか。
ぼくは、そうだとは言い切れないよ。
実は先進国の大半の住人はそうではないと、
ぼくは思っているんだ
(神父さんは世界最大の月刊誌 リーダーズ
ダイジェストは欠かさず読んでいた
http://item.rakuten.co.jp/eigotownstore/readersdigest_03/?gclid=COnNmJKV2ZYC
FQ5Segod8zFV2g)。
どんな先進国、後進国に暮らしていようと、
大半の人々は、人(とのコミュニケーション)、
モノ(衣食住、カネ)、健康状態(寿命、死への
不安)の3つのことで大なり小なりの不安感を
日々感じて、生きている。
この傾向は、残念だが、アダムとイブの時代
から変わっていない。
では、どうなれば不安がなくなるか。
自分の中に、「確固たる信念」をビルドイン
することしかない。
「確固たる信念」をビルドインしていると感
じられる人々に君はスリランカで多く
出会っただろう?
そうです。多く会いました。
この内戦下でも、彼らは常に明るく、誰にでも
やさしく、人を疑う気持ちが皆無で、たいへん
印象的でした。
そうだろう。
それが、この国の住人の価値だと、
ぼくは思っている。
君と会えて、本当によかった。
君といると幸せで楽しい気分になれた。
本当だよ。
GOD BLESS YOU!
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART25」
1年間の留学期間も残り3ヶ月になった。
相変わらずテロは活発だった。
テロリストが日本人や米国人を誘拐して、
スリランカ政府に対して解放条件を
突きつけたりしていた。
ホストファミリーは国外脱出を真剣に
考えていた。
父親がタミール人(南インド系)だった
ため、シンハラ人(原住民)の不満の
はけ口になりやすかった。
一年半ほど前には、コロンボにおける
大規模な住宅焼き討ちテロの余波で、
「タミール人一家」は、ナイフを持った
暴徒に追いかけられて、何とか逃げ
切ったという過酷な体験もしていた。
母親は、白人系のバーガーだったので、
親戚がすでにオーストラリアに移住
していた。
ぼくの帰国後、最終的に家族全員が
オーストラリアに移住できたのでよかった。
学校生活は相変わらず休講続きだったが、
ぼくは学校側の特別な配慮で、別途、
「英語教員養成コース」に通っていた。
このコースは、英語のネイティブである
英国人や米国人が教えていたので、
たいへん力がついた。
一方、日本においては、「英語教員
養成コース」や「英語の授業」の大半が
「日本語で」実施されていたり、英語の
ペーパーテストの出題が、「日本語で」
記述されていたりもする。
アジア各国の英語教育からしても、
低レベルといわざるを得ない。
【続く】
「能力開発(エデュケーション)とは何か②」
「能力開発(エデュケーション)について、
もっと説明してほしい!」というご要望を多く
いただきました。
お応えします!
「教育」という言葉は、
明治初期に新たに作られた、比較的新しい
日本語です。
当時の森有礼(初代文部大臣)や
福沢諭吉ら西洋通が、英語の「EDUCATION」
(エデュケーション)を訳して、日本語にしました。
しかし、これは、誤訳でした。
「EDUCATION」の原語(ラテン語)は
「EDUCE」です。
その意味は、「本来備わっている個々の
能力を引き出すこと」(潜在能力開発)です。
もし、「教育」という日本語を英訳すると
すれば、「TRAINING」(トレーニング)が意味と
して近いでしょう。
そこで、一般に使用されている「教育」を「能力
開発」に換言して、以下に例示してみます。
・文部省(教育省)は、能力開発省
・教育者、教師と呼ばている人は、「能力開発者」
・教育観は、「能力開発観」
・教育政策は、「能力開発政策」
・学校は、「能力開発センター」
・教育理念は、「能力開発理念」
・人材教育は、「人材能力開発」
・教育産業は、「能力開発産業」
・「親の自分のこどもへの教育」は、「親の
自分のこどもへの能力開発」
・「教育施設」は、「受講者の能力開発を
促進するための施設」
・「教育資金」は、「能力開発機関が自分の
こどもを能力開発してくれることに対する
対価を支払うための資金」
「教育立国」は、「国民個々の能力開発に
最も重きを置く国家」
となるのです。
日本は、食料、エネルギー、国土面積に
恵まれていない国なので、人材力が発展の
源です。
教育(TRAINING)から、能力開発(EDUCATION)
へと転換しないと、このままでは世界から
取り残されてしまいます。
【続く】
「能力開発(エデュケーション)とは何か」
今号では、スリランカ特集は一休みして、
12日(日)に放映されたNHK特集
「読字障害」(失読症、難読症ともいう)
に関連して、記したい。
19世紀末に英国で発見されたこの障害
の原因は、最新の研究では、一般の人と
脳における情報処理の仕方が異なるからだ
ということが明らかになってきた。
読字障害の人は、会話能力に問題はなく、
眼に異常があるわけでもないのに、
文字処理をスムーズにできない左脳を
保持しているため、「読み・書き」は、
生まれつき不得意な分野だ。
一方、彼らの右脳の働きも、一般人とは
異なることが多い。
独創的な発想をしたり、空間処理能力が
特別に高い人が多い。
欧米の偉人では、パブロ・ピカソ、ヘンリー
・フォード、グラハム・ベルが読字障害を
持っていたと言われていると紹介され
ていた。
また、こういう人々は、最新の研究に
よって、英米では人口の10%、日本では
5%もいることが判ってきている。
日本で5%いるということは、40名の
クラスに平均2名いるということになる。
小学生の頃を思い出せば、読字障害
だったかもしれないクラスメートの顔が
浮かぶ。
この番組をきっかけに、アメリカの
ガードナーの多重知能理論を想起した。
従来の精神測定学の「IQ」の概念を
超えて、人間の知能の多様性をとらえた
理論である。
この場合の知能の定義は、「社会に
おいて価値のある問題を解決したり、
価値ある成果を創造したりする潜在
能力」とされる。
次のような8つの独立した知能が
提示されている。
1) 言語的知能
2) 論理数学的知能
3) 音楽的知能
4) 身体運動的知能
5) 空間的知能
6) 対人的知能
7) 内省的知能
8) 博物的知能
※ご自身の能力開発にもご活用
ください。
これら個人によって異なる潜在能力
(得意な分野)を引き出すことの
重要性は測り知れない。
教育(トレーニング)の効果を上げる
ためには、能力開発(エデュケーション)
がいかに重要かを再認識させてくれた
NHK特集だった。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART24」
留学後半になって、日本大使館から招待状が届いた。
「日本からスリランカへ初めて留学して来ている
高校生3名への慰労会」のような名目の
パーティーに招待された。
そこで、強烈な幻滅を感じることになった。
当時最上級のインターコンチネンタルホテルの
ブッフェに招かれた。
我々3名の日本人の「現地人」は、現地人との
生活とは別世界の豪華さに興奮していた。
大使館員の挨拶のあと、ある若手の大使館員
がニコニコしながら近付いてきた。
「君たち、土人と一緒に暮らしてたの。すごいねえ。」
と、開口一番、言った。
とたんに、怒りがこみ上げ、
「君が土人と呼んでいる現地人に謝れ!」
と、思わず、ぼくは叫んだ。
「そんなに興奮しなくても....」と、彼は困惑しながら
言った。
「土人とは何か・・・。
では、君たちがこの国に駐在しているミッションは
日本とスリランカのためではないのか。
そのために、君はこの内戦中に何をしてきたのか。
我々日本人高校生は、大使館に一切守られること
もなく、この内戦状態を現地人と一緒に乗り切って
きたんだ」。
その後、彼は、その場で、我々に土下座して謝った。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART23」
前号では、世界からスリランカに留学
してきていた高校生について記した。
ぼくが留学していた1984年は偶然にも
内戦の時期であった。
犠牲者についての報道が連日なされて
いた日々を過ごした。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/satoyuki/srilanka/srilankahistory2.html#1
一方、日本は内戦がない国で、今でも
たまに幸せな国だと感じるときがある。
留学中、たまに日本人に遭遇する
ことがあった。
遭遇したときは、本当にうれしかった。
電話インフラを構築するために一人で
赴任していた
NECの方、村人に教育を施していた
青年海外協力隊の方々に遭遇した。
志を持って、仕事に従事なさって
いて、うれしかった。
その後、日本映画の上映会が
コロンボであったので出席した。
上映されたのは、「砂の器」だった。
その際に知り合ったのは、伊藤忠
商事の支店長や住友商事の副支店長
だった。
一人で郊外にホームステイしていた
日本人高校生に、
「よくこの危険な状況に耐えたね。
すぐに引っ越してきなさい」と、彼らは
自宅に招いてくれた。
感動したのは、豪勢な生活だった。
現地人と平均的生活を送っていた自分
からすると夢のような生活を送っていた。
それにも増して感動したのは、彼らの
現地人との教養ある付き合い方だった。
スリランカの歴史と現状について良く
理解し、できるだけ現地の生活に溶け
込もうとしていた。
その後、日本大使館から招待状が届いた。
「日本からスリランカへ初めて留学して
来ている高校生3名への慰労会」
のような名目のパーティーに招待された。
そこで、強烈な幻滅を感じることになる。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART22」
前号では、スリランカの紛争地に飛び込んだ
日本人僧侶の話をした。
同期のスリランカへの留学生は、日本以外
からは、オーストラリアから10名ほど、
ニュージーランドから3名が学んでいた。
彼らは、英語を話すファミリーと学校に恵まれ
ていたので、言葉の問題が基本的になかった。
加えて、スリランカは同じ英連邦(旧英国植民地)
の国だったので、教育制度や英連邦共通の
進級テスト、クリケット(ベースボールと似ている)、
ネットボール(サッカーとバスケットボールが
合わさったようなゲーム)、ラグビーなどの
英国発祥のスポーツにも、当初から親近感を
感じていた。
また、オーストラリア、ニュージーランドや
スリランカは子どものころから親日教育を受けて
いたこともあり、日本人との相性も良かった。
一方、我々の着任から半年経って、米国や
欧州からの高校留学生が来た。
米国人はスリランカの文明、文化に当初から
馴染む気がなく、不平不満を留学団体に
ぶつけて、結局数ヶ月で自主帰国してしまった
という。
一方、欧州からの留学生は、出発前に、欧州
とアジア(自分たちの旧植民地)との歴史を
オリエンテーションとして学んだという。
あるベルギーからの留学生が、当時内戦中
のスリランカについて、冷静沈着に歴史的に
分析して話してくれたことを思い出す。
もちろん、欧州からの留学生は全員1年間
任期を全うした、と聞いた。
【続く】
スリランカ留学を想起する_PART21
前々号では、現地宝石商への日本語の
特訓について記した。
その他のスリランカでのエピソードを
記してみる。
1年間の留学も後半に入ったので、
戒厳令が発令されていない、停戦協定
のようなものが結ばれた後の、
治安が比較的落ち着いたタイミングで、
首都コロンボに遊びに行くようにになった。
ガタガタの公営バスに揺られて3時間の
旅は期待にあふれたものだった。
欧米の映画、ファーストフード、スーパー
マーケットなどに行くだけで楽しかった。
先進国に生まれ育った環境からは
どうしても逃れられない魅力があった。
しかし、テロというものは突然起こるものだ。
一度目は、コロンボ市内でバスに乗って
いたとき、突如爆発音とともに強烈な
地揺れにあった。
十秒ほど前にすれ違ったバスが時限爆弾で
爆発したのだった。
恐ろしい光景だったが、
ただ、「助かった....」と思った。
二度目は、中央バスターミナルで
帰宅のためにバスに乗車した。
帰宅後、TVをつけると、ぼくが乗車した
30分後に時限爆弾が爆発したとの
ニュースが放映されていた。
人体が飛び散り、周辺の木々にそれらの
部分が引っかかっている生々しい映像が
恐ろしかった。
「バスの発車は30分ごとだったので、
もし次のバスに乗車していたら...
ぼくもこんな姿になっていたかもしれない」
と想像し、ガタガタ震えたのを覚えている。
命を賭ける仕事の中には、戒厳令下に
テロリストの巣窟に和平を訴えるために
飛びこむ仕事もある。
その対話をするため、紛争地に平和を
もたらすため、たった一人でテロリストの
巣窟に飛び込んだ日本人僧侶が実際に
いた。
その僧侶は空手のマスターで、一度目は
向かってくるテロリストを奇跡的にすべて
倒してしまった。
二度目には、彼は機関銃で蜂の巣にされた。
彼が蜂の巣にされた映像をTVで観たとき、
同じ日本人として涙があふれて
止まらなかった。
「命を賭けてでもやる!」と、平和な日本
でもたまに耳にすることがあるが、
命を失う危険がある環境に実際に身を
置いて仕事をしないのなら、軽々しく
口にしてはいけない言葉だと痛感した。
【続く】
「自民党総裁選挙に思う」
今号は、スリランカの話は一休みして、
スタートした自民党総裁選挙について
感想を記したい。
自民党総裁は総理大臣(日本の最高
権力者)になる。
メディアは、「政策を競い合う選挙」だと
位置付けているが、ぼくは強烈な違和感を
覚える。
最高権力者を選ぶ際には、「政策」では
なく、「人物」で選ばなければならない。
「政策を立案・提示する能力」よりも、
難局に立ち向かい、この国を新生させる
情熱と勇気を持続する資質があるかどうか
を基準に、選任しなければならない。
マックスウェーバー(ドイツの社会学者)は、
「職業としての政治」(1919年)で、こう記した。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使
しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっ
と穴をくりぬいていく作業である 」
「どんな事態に直面しても、それにもかか
わらず!と言い切る自身のある人間。
そういう人間だけが政治への天職を持つ」
ぼくは思う。
「政策の中身」よりも「アントレプレナー
シップ(起業家精神)」を持つ最高権力者
が今の日本には必要だと。
以上
「スリランカ留学を想起する_PART20」
今号では、留学中の1年間で最もうれしかった
ことを想起してみる。
となり村に住む宝石商に請われて、日本語
会話の家庭教師をする機会に恵まれたこと
だった。
目的は、日本で宝石を販売すること。
ぼくは意気に感じてスタートした。
その内容は、成田空港に到着→同業者や
個人顧客を新規開拓→顧客訪問→販売実践
のプロセスに必要な実用日本語会話を教える
ことだった。
週2回の夜の特訓を続けた頃が懐かしい。
そして、最後の授業でそのオリジナル実用
日本語会話集を120分間、テープに録音して
プレゼントした。
録音作業に、実に2ヶ月かかった大仕事
だった。
ぼくの帰国後、勤勉な彼は、運転中に毎日
そのテープを繰り返し聞いていたそうだ。
そして、その成果を試す訪日が1985年
だった。
以降、~1995年の10年間で、日本における
宝石販売業は大成功を収めた。
1995年以降は、彼は「投資ビザ」で訪日
するようになった。
先日、「日本の永住権が取れた」との電話が
久しぶりにあった。
本当にうれしそうだった。
ぼく自身も、この上ない存在感、達成感を
感じさせてもらった。
また先日、日本のスリランカ大使と約束した
ので一緒に会いに行こうと誘ってくれた。
今後は、日本・スリランカの友好に日本で
一緒に尽力するフェーズに入りそうだ。
【続く】