「スリランカ留学を想起する_PART19」
これまでのご要望の多くが、「日常の衣食住
についても知りたい」ということでしたので、
完全に現地化していた1984年の様子を想起
してみます。
服装は、学校を含めた外出先には、ワイシャツと
ズボンが一般的だった。
両方ともテーラーで仕立てた方が安かったので、そう
していた。
自宅周辺では、誰でも、上着はランニングシャツか
Tシャツで、下はサロン(スカート) http://www.stt-s.com/item60.html を身につけていた。
ブリーフ(下着)は基本的に身につけないので、気持ち
よかった。
※熱帯のスリランカのラトナプーラは、東京の夏
ほど高温多湿で不快ではなく、年中27度程度で
快適だった。
さて、朝食はというと、イギリスパン(一斤10円
くらい/上部は完全に焦げていて真っ黒で、きめが
すごく粗い)、バター(国産はなく、ニュージーランド産)、
長さ10センチくらいの庭で取れたベビーバナナだった。
たまには、これも庭で取れたパパイヤにライムの
スライスを搾ったり、ココナッツ(緑色か黄色のもの/
1個5~10円)の上部を鎌でカットして、中身の
ジュース(約1リットル)を飲み干していた。
もちろん、現地で水よりポピュラーな飲み物、セイロン
紅茶は朝から夜まで一日平均7杯は飲んでいた。
すごく美味しいが、砂糖はスプーン7杯ほど、ミルク
はカップの半分程度入れるのが一般的だったので、
ぶくぶく太っていった・笑。
※ちなみに、現地のセイロンティー100%は、
東京・神保町にある http://www.teahouse-takano.com/
で体験できます。
同じく現地のスリランカ料理は、東京・中目黒の
http://www31.ocn.ne.jp/~ceylon_inn/
で体験できます。
住宅(公務員社宅)は、英国風の一軒家で庭が充実
していて、屋内も広々としていた。
うちは中でも恵まれていて、水道(茶色い水だったが....)、
カラーテレビ、冷蔵庫、シャワー室とガスコンロはあった。
でも、現地では当たり前だが、洗濯機、クーラー、
電話、クルマはなかった。
TVチャンネルは2つだった。毎夜、最後のプログラム
であるニュースを21:00~30分間観た。
同じニュースを、シンハラ語(国語)、タミール語
(南インドの国語)、英語の順に放映する。
シンハラ語は少し理解し、タミール語は全く理解
できなかった
が、英語は不思議にも大半理解できるように
6ヵ月後にはなっていた。
たまに、米国英語のドラマが放映されていて、
ぼくは全くついていけなかったが、ホストファミリーは
理解してドラマに喜怒哀楽を示していた。
米国語とインド英語は全く異なる言語に聞こえるが、
「この理解力は日本の東北人と九州人が突然
出会っても100%コミュニケーションが取れる
言語レベルと同じなのだ」
と直感的に悟った。
一方、ぼくの英語能力は、例えると、「大阪に
しか住んだことがない外国人で、関西弁以外は
ちんぷんかんぷん」、
そんな感じなんだろうなとも悟った・笑。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART18」
前号では、多様なアジア英語の話にまで発展した。
内戦や天災の影響で、戒厳令(外出禁止令)が
頻発されていた。
外出が許された日に必ず通っていたのは、
学校のとなりにあったキリスト教会の神父さんの
部屋だった。
「これだけ頻繁に外出禁止令が発令され、暴動や
天災の影響で、電気、電話、郵便や交通機関がマヒ
する中で、人々はどうやって生活費を得ているの
ですか?」と、ある日質問した。
神父さん曰く、
「公務員や我々カトリック神父は、国やバチカン
本部から、毎月固定給が支給されている。
しかし、農家や商売人は悪影響を受けている。
インフラがマヒすると、収入がなくなってしまう
こともあるからだ。
商売人の中でも才覚がある人は、中東などの
外国でビジネスを始めている。」
神父さんは続けた。
「一方、日本や西欧諸国は、平和だ。
文明国なのでインフラに問題がなく、スリランカの
ように内戦中でもない。
また、自由主義、資本主義の国々だから、
どんな仕事にでもチャレンジできる環境があるので、
うらやましい。」
ぼくは、民族暴動のむごい映像を連日TVで観ていて、
憂鬱な気分に陥っていた。
しかし、神父さんのこのメッセージによって、帰国後に
役立つ何かが現状にもあるかもしれないと、
マインドセットしたことを、鮮明に覚えている。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART17」
アジアの英語は多様だ。
現在、アジアの英語人口は4億人といわれる。
英米の英語人口を上回る人数だ。
インドで行われた調査によれば、インド人の
3 人に 1 人が英語を理解し、5 人に 1 人が
英語を話すことに自信があると回答している。
インドで 3 億人くらいの人々が英語を話すと推定
されている。.
スリランカはインド英語圏(パキスタン、バングラ
ディッシュ、ネパール、ブータンを含む)
なので、ぼくが話していたのはインド英語になる。
インド英語の一例として、“lac”(ラック)という単位
を挙げる。
“10万”という意味で、100万は、“10 lacs”(一般
英語では、100 thousand)としか言わない。
先日、NHKを観ていたら、ミタル(インド人/
世界一の鉄鋼王)とインド最大のタタ財閥の
オーナーがコメントしていた。
ご両名ともインド英語を話していて、売上目標
値を “lac”(ラック)を使って説明していて、
懐かしい気持ちがした。
アジアでは、その他、シンガポール/マレーシア
英語や フィリピン英語などが話されている。
アジアの中でも、日本は米国英語圏に属する。
文語、発音は基本的に米国式だが、実際は
日本(カタカナ)英語を話す。
ぼくが経験した限り、日本(カタカナ)英語の発音は
スペイン語圏の人が話す英語に最も近い。
日本語とスペイン語の発音が近いからだろう。
帰国直後に、京都で世界からの高校留学生の
会合に参加した。
ぼくがインド英語で話したら、「何語で話して
いるんだ??」とみんなに大笑いされた。
その後、フランス人が全く聞き取れない英語を
話しているので、「何語で話しているんだ??」と、
わざと「米国英語」で叫んでみたが、
誰も笑わず、直後にそのフランス人と日仏戦争が
勃発して、場が騒然となったことを覚えている。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART16」
読者の方々から毎号反響をいただいて、
今回で16回目になりました。
ありがとうございます。
さて、留学中、忘れられない出来事の一つは
内戦の激化だ。
多数派のシンハラ人(政府系、仏教徒)と
少数派のタミール人(インド系、ヒンズー教徒)
の紛争が1984年に再度激化したのだった。
内戦の犠牲で亡くなった人々は1年間で
約1万人に上った。その年、スリランカ内戦の
犠牲者数は世界最多だったと、後に報道された。
さて、英語を通して生活する毎日が始まった。
学校の授業は、シンハラ語を理解しないでも
何とかなる「英語」、「数学」、「体育」のみで
済ますようになった。
英語の新聞、雑誌、TV番組、一部の知識階級、
とくにキリスト教徒と、毎日付き合うことになった。
あるイスラム教徒の家に遊びに行った。
その長男はモスクワ大学の医学部を卒業したという。
どこにそんな資金があるのかと不思議に思ったが、
モスクワにいるイスラム教徒の同胞を頼ったのだという。
ある仏教徒の知識階級の家に遊びに行った。
仏教の歴史をとうとうと話され、仏教精神のおかげ
で日本は経済大国になったのだと言い切った。
あるキリスト教徒は、世界の人々は神のもとに
一つなので、民族単位、国家単位で主張し争うのは
愚かだと言い切った。
あるヒンズー教徒(インドには約10億人存在する)
は、牛や象を神とあがめているようだった。
どうしてなのか説明を求めたが、説明が難解で
結局理解できなかった。
英語という共通語を通して、さまざまな人々とコミュ
ニケーションできるようにはなった。
しかし、4つの民族が混住していて、価値規範が異なる。
頭の中はまだ混乱するのみだった。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART15」
さて、通学し始めて1ヶ月ほど経ったころ、
2冊の辞書を駆使して、無理にわかったフリを続ける
学校生活を改善したいと、
ぼくは英語の教員に直訴するしかなかった。
「第二次大戦終了後、日本の高校生(16歳)が日本語
との辞書がない言語の国に留学したのは、ぼくを
含め3名が初めてだ。
その中でも、ぼくだけがシンハラ語しか理解できない
クラスメートに囲まれ、シンハラ語の授業を受けている。
これ以上、内容が全く理解できない
授業に参加している意味はないと考える」と、ぼくは訴えた。
ぼくのたどたどしい英語ではあるが真剣な訴えを聞いて、
堂々とした感じの50歳代の女性の英語の先生は、
「わかった。それは辛かっただろう。
それでは、今後はシンハラ語を通しての授業には
出なくてもよろしい。
その代わりに、世界語である英語を学ぶ環境を、
私が責任を持って整えてあげよう。
日本人の多くは、米語(米国語)を英語(英国語)だと
信じ込んでいるという新聞のコラムを、先日読んだ。
同じアジア人として、かわいそうに思う。
本格的な英語習得の環境を与えることを約束する」
と言ってくれた。
その日は、「辞書が一冊で済む毎日に変わる」という
喜びに満たされて帰宅したのを、鮮明に覚えている。
実は、ぼくは一方で、スリランカへの高校留学生の
中で唯一、マイノリティーであるキリストく教徒で
英語以外はほとんど理解できないホストファミリーと
生活していた(ホストファーザーはインド系タミール人、
ホストマザーはバーガー、つまりポルトガル系の白人)。
家庭以外では、キリスト教の神父さんたち、官公庁
勤務の人たち、英語教員のトレーニングを受けている
教員の卵の人たちなどとコミュニケーションをとっていれば、
国語のシンハラ語を通しての授業に参加しなくても
よいという特権を与えられたのだった。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART14 」
前号では、1984年の民族紛争の余波で
放火され炎上していたタミール人経営の商店に
シンハラ人の警察官がバケツで水をかけていると
思いきや、中身はガソリンだったという話までした。
さて、スリランカの学校は1月に新学期が
スタートする。
ぼくは2月に通い始めた。
日本では高校1年生だったので、スリランカでは
10年生の学年に加えてもらった。
ぼくが通った地方の公立学校が日本とそれと
異なっていた点として、
・校舎に電灯がない。
・校舎の窓が閉まらない(ので、大雨になれば休校
になる)
・先生は時刻どおりに出講しない。休講も多い。
・生徒が家事や家業の都合で、途中で帰宅する
ことは許可されている。
・年に数回、生徒(10~12年生)が恒例のストライキを
実施して、 授業は休講になる。
・授業料や必要な教材は全員無料。
が印象的だった。
敗戦(昭和20年)後の日本の公立学校の環境と
似ている部分があるかもしれないなあと、
ふと思ったことを覚えている。
各国からの留学生は、都市部の私立、公立の
一流校(裕福層の師弟も通っている)に通っていた。
ぼくは唯一、田舎の公立学校に通っていた。
田舎の公立学校が一流校と最も異なる点は、
英語が学校内で通じないことだ。
当時、日本語=シンハラ語辞書は存在しなかった。
タイにも日本人留学生(女性一人)が派遣されていて、
「言葉がたいへんだろう」と同情していたが、
それでもタイ語の辞書はすでにあった。
授業がシンハラ語で行われ、クラスメートの大半
はシンハラ語しか話すことができなかった。
毎日、日本語=英語、英語=シンハラ語の2冊の
辞書を駆使しての学校生活に、正直気が狂いそう
になっていた。
そして、通学し始めて1ヶ月ほど経ったころ、
ぼくは英語の教員に直訴するしかなかった。
参考:民族紛争ーシンハラ人とタミール人
http://members2.jcom.home.ne.jp/kelt/srilanka4.html
【続く】
「スリランカ留学(高校1年時に1年間)を想起する_PART13 」
前号では、1984年のスリランカの現地生活(昭和20年代
後半レベル)と日本の文明レベルの差はあまりにも大きく、
最大の苦痛となっていく、という話で終わった。
生活インフラというが、本当に日本は恵まれていると日々
痛感していた。
最も危機を感じたのが、「治水環境」だった。
ラトナプーラは低地なのに治水がなされていないために、
大雨が2日も続くと、道は川に変わるので、外出禁止令が出て、
自宅を一歩も出ることができなくなる。
停電が常態化するし、買い物ができなくなる。
大雨がさらに続行すると、家が流される。
ぼくの学校の生徒も何人かが亡くなり、葬式に行った。
葬式の様子は日本と異なり、参列者の大半がニコニコしている。
誰か年配の方がぼくに、「人は誰でもいつか死ぬ」と
ニコニコして伝えたことが忘れられない。
「輪廻転生」が生活に根付いていたのだろうと今は
回想できるが、当時はまだ16歳になったばかりで、
「人が生まれて死ぬ」ということの意味を一所懸命に
考えたものだった。
加えて、内戦、民族抗争のテロが激化して(おそらく数年前の
イラクの状況に似ていた)、外出禁止令もよく出されていた。
街宣車が外出禁止令を家々に伝えていた声が、今でも耳に
残っている。
ある日、地元ラトナプーラである商店が炎上していた。
ある警察官が消火のためにバケツで水をかけていると
思いきや、中身はガソリンだった。
商店はタミール人(マイノリティ)の経営で、警察官は
シンハラ人(マジョリティ)だったのだ。
【続く】
「スリランカ留学(高校1年時に1年間)を想起する_PART12 」
前号では、一年間暮らすことになる「ラトナプーラ」(宝石の町という意)
という町に到着したところまで話した。
その中心部にきれいなマイクロバスが迎えに来た。
ホストファーザーが勤める国立紅茶研究所の社員用バスだった。
30分ほど走って、やっと「自宅」(研究所の社宅)に到着した。
庭付きのきれいな住宅で、ホッとした。
その後、近隣住民や親戚などへのあいさつ回りが始まり、2ヶ月
ほどかかった。50件以上回ったと思う。
1984年のスリランカの文明レベルは、昭和20年代後半の日本の
それにそっくりだったと前号に書いた。
もし、昭和20年代後半に、欧米の先進国から高校生が1年間の
留学目的で日本の山村に到着したとしたら、とにかくめずらしい
ために、50件以上のあいさつ回りが待っていただろう。
1984年のスリランカの現地生活と日本の文明レベルの差は
あまりにも大きく、ぼくにとって最大の苦痛となっていく。
【続く】
「スリランカ留学(高校1年時に1年間)を想起する_PART11 」
前号では、ホストファーザーとぼくが鈴なりのバスに
かろうじて乗り込んだところまで話した。
ここで、またひと休みして、1984年のスリランカの文明レベル
について話しておきたい。
現地に駐在していた日本の商社員によると、昭和20年代後半の
日本とそっくりだとのことだった。
いわゆる三種の神器、つまり、テレビ、洗濯機、冷蔵庫がある
家庭はごく一部。
もちろん、自家用車は特別なもの。
水道、ガス、電気、電話の普及率は低く、何かのきっかけで
止まってしまうことは日常茶飯だった。
治水が不十分で大雨が降ると洪水になり、各所で家屋が
流されてしまうのも日常だった。
建物に戦争の傷跡が散見されるところまで似ていた。
話を戻すと、超満員バスに3時間ほど揺られて、一年間暮らす
ことになる「ラトナプーラ」(宝石の町という意)
http://www48.tok2.com/home/sawakon/1-03Asia2/srilan2.htm
という町に到着した。
バスを降りたとたん、たくさんの人が集まってきた。
なぜか全員ニコニコしている。
日本人を初めて見たからだった。
少しスター気分になって、内心喜んだ瞬間、蚊とハエが身体に
まとわり付いてきた。
何かくさいなあ、と思ったら、牛の糞を踏んでいた。
よく見たら、道は牛の糞だらけだった。
交差点の真ん中には多くの牛がゆったりと横たわっていた。
【続く】
スリランカ留学(高校1年時~1年間)を想起する_PART10
前々号で、1984年に内戦直後のスリランカに到着して、
唖然とする光景に出会ったところまで記した。
その後、コロンボにあるオリエンテーション合宿所に
直行した。
同じ高校生のオーストラリアとニュージーランドからの留学生
と一緒に現地化プログラムなどを経験した(確か約16名)。
オーストラリアでは、すでに親日的教育がなされていて
(輸出入とも最大の相手国は日本だった)、
終始日本人に対して好意的で、幸せな気分になった。
合宿終了後、各々のホストファミリーが迎えに来た。
これから1年間ファミリーとして暮らすメンバーと初対面する瞬間だ。
ホストファミリーと留学生が出会い、抱擁し、頬にキスをした。
その後、迎えの車に各々が乗り込み始めた。
迎えの車には、高級車のベンツがあったり、専属ドライバーが
運転する車もあった。
「裕福なファミリーに受け入れられるんだな」と、正直ホッとした。
最後にぼくとホストファーザーの2人が残った。
「うちの車はどこ?」とホストファーザーに聞いたら、「こっちだ」と
言って、歩き出した。
到着したのはバス停だった。
人が鈴なりに乗っているバスは何度も通過した。
30分ほど待っただろうか、ようやく、「すき間があるバス」
が止まってくれて、サムソナイトのスーツケースを抱きかかえ、
必死で乗り込んだ。
【続く】