「スリランカ留学(高校1年時に1年間)を想起する_PART13 」
前号では、1984年のスリランカの現地生活(昭和20年代
後半レベル)と日本の文明レベルの差はあまりにも大きく、
最大の苦痛となっていく、という話で終わった。
生活インフラというが、本当に日本は恵まれていると日々
痛感していた。
最も危機を感じたのが、「治水環境」だった。
ラトナプーラは低地なのに治水がなされていないために、
大雨が2日も続くと、道は川に変わるので、外出禁止令が出て、
自宅を一歩も出ることができなくなる。
停電が常態化するし、買い物ができなくなる。
大雨がさらに続行すると、家が流される。
ぼくの学校の生徒も何人かが亡くなり、葬式に行った。
葬式の様子は日本と異なり、参列者の大半がニコニコしている。
誰か年配の方がぼくに、「人は誰でもいつか死ぬ」と
ニコニコして伝えたことが忘れられない。
「輪廻転生」が生活に根付いていたのだろうと今は
回想できるが、当時はまだ16歳になったばかりで、
「人が生まれて死ぬ」ということの意味を一所懸命に
考えたものだった。
加えて、内戦、民族抗争のテロが激化して(おそらく数年前の
イラクの状況に似ていた)、外出禁止令もよく出されていた。
街宣車が外出禁止令を家々に伝えていた声が、今でも耳に
残っている。
ある日、地元ラトナプーラである商店が炎上していた。
ある警察官が消火のためにバケツで水をかけていると
思いきや、中身はガソリンだった。
商店はタミール人(マイノリティ)の経営で、警察官は
シンハラ人(マジョリティ)だったのだ。
【続く】