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「スリランカ留学(高校1年時~1年間)を想起する_PART9」

前号へも
「インディージョーンズのような展開になってきましたね
など、さまざまなご感想をいただきました。

ありがとうございました。


さて、今号はひと休みして、ご質問をいただいた、
我々3人が帰国(1985年1月)後、どんな進路を辿ったかを

記します。


一人は、熊本の子でした。

留学時から念願だった看護婦への道を、着実に歩みました。
高校時代、日本ユニセフのスピーチコンテストで優勝し、
大会の開催地のソウルでスピーチしたと聞きました。

その後、念願の千葉大の看護学科に進み、都内で看護婦の

仕事をし、千葉にあるお寺の跡継ぎと結婚しました。

ちなみに、「スリランカ留学のことは良い思い出になっている」
と肯定的でした。


もう一人は、神奈川の海老名出身で、ICUに進学し、留学生で

あったアメリカ人と卒業後結婚し、現在は彼の故郷のカリフォルニアに
在住していると聞いています。


ちなみに、「スリランカ留学のことは忘れてしまいたい出来事で
二度と思い出したくない」と否定的でした。


最後にぼくですが、帰国後、京都で高校一年生に復帰しました。

毎日に意味を見出すことができず、とにかく遊びに終始しました。
その後、早大に進学し、留学時から決めていた起業を1995年にし、
今に至ります。


次号からも、時系列で、今も記憶している、印象的だったエピソードを記していきます。


お付き合いください!


【続く】

「スリランカ留学(高校一年時)を想起する_PART8」

前号へも、多くのご感想をいただきまして、
ありがとうございました!


さて、前号では、スリランカの空港に到着したことろまで
話した。


コロンボの空港を出たとたん、周辺が真っ暗になり、車の

ライト以外に光がない!


その時、車が急ブレーキで停車した。

「なに!?」と前方を見ると牛が横たわっていた。

よく見ると、車の前を多くの人々が横切っていて、
牛もたくさんいる。

もっと良く見ると、人々の上半身は裸で、下半身には

スカートのようなものを身につけ、裸足で歩いている。


ぼくはつぶやいた。

「もう終わったな。何もかも観念するしかないな」。


女の子は二人とも、静かに泣いていた。


クラクションを大きな音で1分ほど鳴らし続けると、
のっそりと牛が移動して、車は走り出した。


一旦安心して(笑)、無言で前方を凝視し続けていると、
今度は、突如強い光で前方が真っ白になり、
車がまた急停車した。


軍人による検問だった。

(この国は内戦直後だということを、なんと我々は知らされてなかった)

パスポートを提示したら、すぐに通過できた。
日本のパスポートだからだという。


気付いたら、女の子二人は、ぼくに一生懸命しがみついていた。


【続く】



「スリランカ留学を想起する_PART7」

前号へもさまざまなご感想をいただきまして、
ありがとうございました!


前号では、バンコック空港で恐ろしい光景に出会った
ところまで話した。


やっと修羅場を通り過ぎて、現地のスタッフに会うことができた。

宿泊所のユースホステルまで車で向かうという。
「これに乗って!」と言われたのは、トラックだった。

我々3人は荷台に乗るしかなく、高速道路を走った。

時速100キロくらいで走る中、ぼくは荷台に立ち上がった。

五里霧中な状態を吹き飛ばす、髪の毛を逆立てながらの
爽快なドライブだった。


宿泊所に到着して、とにかく腹が減っていたので、世界一

辛いタイカレーを泣きながら食べた。

現地スタッフは、「タイも日本もスリランカも仏教国だから心配ないよ」
と、説得力のない、励ましの言葉を何度も繰り返した。


翌日の夜、スリランカのコロンボ空港に無事到着した。

日本に留学経験がある女性スタッフが日本語で迎えてくれた。

「安心」を何日かぶりに感じた。迎えの車もミニバンで、
屋内に乗車できたことが、「安心」を増幅させた。


しかし、空港を出たとたん、辺りが真っ暗になり、
車のライト以外に光がない!

一瞬にして、「安心」は「不安」に変わった。


【続く】

「スリランカ留学を想起する_PART6」

前号へもさまざまなご感想をいただきまして、
ありがとうございました!


前号では、スリランカに向かう途中で
バンコックの空港に到着した時点までを記した。


そこで、恐ろしい光景に出会った。


通関して、空港ビルを出たとたんに、手足のない

物乞いであふれていて、すぐに囲まれた。


スケートボードのような、台車のようなものに座し、
カネをくれと、ヒジまでしかない手を突き出して、
突進してくる。


ぼくが呆然としていたら、後ろからいきなり捕まれたので、
「もうだめだ......殺られる...」と感じながら振り返ったら、
もう二人の日本人の女の子が、ぼくにしがみついていた。

「あけるくん、助けて!」と叫んでいた。

反応して、ぼくは物乞い集団を、思いっきり蹴り飛ばした。

蹴り飛ばしても、また後方から別の集団が向かって

きたので、蹴り飛ばすことを、真剣に繰り返した。

二人の女の子は、依然として、ぼくにしがみつき

ながら、泣きじゃくっていた。


さすがに、集団も我々からは金銭を得られないと

判断して、離れていった。


二人の女の子は、「もうここから日本に帰りたい」と
泣きながらつぶやいた。


【続く】

「スリランカ留学を想起する_PART5」

さて、前号では、スリランカへの派遣が決まった時点まで記した。


さて、出発日の前日(確か1984年1月20日)が来て、ぼくは

成田空港に隣接するホテルに到着していた。

派遣されるのは、熊本、神奈川から来た女の子2人とぼくの
3名で、初めて会った。


「出発前オリエンテーションを始めよう!」と、高校留学経験ある

大学生スタッフ2人からホテル内のレストランに招集がかかった。


開口一番、

「スリランカには派遣した経験がないので、
正直どういうところなのかはわからない」。

「直行便はないので、タイのバンコックでトランジットのため、

一泊してもらう。

バンコックの空港で、現地の若手スタッフがみんなの名前が
書かれたボードを掲げているので、安心して。」


「とにかく、がんばってきてね!」


出発前オリエンテーション」は、本当にその程度しかなかった。


翌日は大雪で、確か6、7時間遅れて離陸して、バンコックの

空港に到着した。


そこで、恐ろしい光景に出会った。


「スリランカ留学を想起する_PART 4 」

前号でも、「面白いから続けて」との反響をいただました。
その続きです。


さて、前号では、アジア国民にとって日本人の印象は

総じて良い(1983年夏)、と面接官に反論したことを記した。

面接の直後、「面接官に反論したのだから、試験には落ちたな。
しかし、正しいことは言わなければならないから、仕方ないな」
と、思っていた。


しかし、結果、合格した。


そして、忘れもしない、1983年の12月のクリスマスごろだった。

ぼくは、シンガポールとマレーシアを友人と旅行していた。

実家から宿泊していたYMCAに電話が入って、「派遣国は、

スリランカに決まったよ」と言う。

「冗談でしょう。スリランカは派遣先ではない。いいかげんにして!」
と返答したが、結局、事実だった。


派遣国は世界地図に黒塗りされていた国々だと認識していた。
米国、オーストラリア、ニュージーランド、欧州先進国、等だった。

スリランカは世界地図上、インドの南にある北海道程度の
サイズの島で全く目立たず、完全に見落としていたのだった・笑。


クリスマスごろに通知が来て、
成田空港を出発する日は、確か1月20日だったと記憶している。

正月を挟んで、出発まで3週間しかなかった。


旅行から帰国後、まず行ったことは、現地語であるシンハラ語の

辞書を買い求めることだった。

結果、シンハラ語_日本語の辞書は、日本のどこにもまだ存在

しなかった。

直後に、シンハラ語_英語の辞書も探したが、日本には存在せず、
目の前が真っ暗になったのを記憶している

(その他のアジアの派遣国は、タイ、マレーシア、インドネシアで、
当然辞書はあった)。


この時点で、「もうすべてを運に任せるしかない」と観念した。


とにかく、出発前日に成田空港に行こう。
【続く】

「スリランカ留学を想起する_PART 3 」

なぜ20年以上も前のスリランカ留学のことを
想起し出したのであろうか。


そもそも書く予定はなく、衝動的に始めたのであった。


思い起こせば、afs日本協会の高校留学の選考試験は

3次試験まであった。

最終の3次選考のために、1983年に、京都から東京の
代々木オリンピックセンターに来て、合宿選考を受けた。


面接試験の場面を思い起こした。

確か2対2だった。


面接官の質問は、

「アジア国民にとって日本人の印象は総じて悪い。
第二次大戦(1945年に終戦)で、日本が侵略したことが原因だが、
そのことをよくわかっているか。

もし、アジアに派遣されたら、多くの非難を受けることになるが、
その際はどう言動するか?」 だった。


一緒に面接を受けていたのは、名前は忘れたが、
湘南高校(当時、神奈川県NO.1の進学校)の生徒会長だった。

彼は優等生らしく、「アジアの方々に、日本が侵略したことを
謝罪したい。日本の謝罪からアジアとの新しい関係が始まる....」
というような、当時の朝日新聞の社説と同じ内容を話した。


次に、ぼくは面接官に対して、
「あなたの質問の前提がまず間違っている。
アジア国民にとって日本人の印象は総じて良いからだ.....。」
と始めて、自信を持って反論した。


ぼくは、この3年前から、アジア各国を旅行したり、京都大学の

東南アジア文化センターやその留学生会館でアジア各国の人々と

親しく接していたため、面接官の机上の空論だと、批判できた。


ぼくが一通り話した後、面接官は、苦虫を噛み潰したような表情

でぼくを睨みつけ、

「面接を終わります」と告げた。



「スリランカ留学を想起する_PARTⅡ」

前号には過去最多の方々から
ご感想をいただいた。


お忙しい中、ありがとうございました!


さて、現在内戦中のスリランカでは、
先週23日にもタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の
空爆で165名が殺害されたとの報道がなされた。

テロは、ぼくがステイしていた1984年ほどではないにしろ、
さらに激化しそうな情勢にある。


そういえば、明日4月29日は亡き昭和天皇のご生誕の日、
つまり「昭和の日」として、祝日になっている。


ぼくは、1984年(昭和59年)4月29日、スリランカにいた。

当日の朝刊の半分は、昭和天皇特集で占められていて、
本当に驚いた。


仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒
の人々と毎日会うのが日課。

全員が、「天皇誕生日、おめでとう!」とニコニコして、声をかけてきた。

会う人、会う人に、天皇陛下や日本の皇室についての質問攻め
にあった。


皇室(王室)が古来続いていることへの賞賛の言葉の数々
を浴びせられた後、授業で、「日本のエンペラーについて

話なさい」となった。


ぼくはたどたどしい英語で、「ぼくは家庭では、天皇を尊敬する

のは当然という教育を受けているが、ぼくが通った小・中学校

では反天皇の思想を持つ、皇室を否定する先生が

少なからずいた」と、正直に話した。


授業は紛糾した。


最後に教養ある先生がまとめた。


「スリランカにも誇るべき王室があったが、欧米の植民地になり、
王室は廃止されて、今に至る。

一方、日本は40年前に原子爆弾を落とされて敗戦した同じ

アジアの国だけれども、皇室を存続し、かつ、経済的に繁栄

している。


そのような優等な日本人を天皇誕生日に迎えることができた

ことを、我々は誇りに思う」と。


ぼくが所属する留学団体afsから約200名が世界に派遣された。

派遣国の大半は先進国だった。


我々スリランカ組の3名だけは、内戦中の国で、かつ、日本人

が特別に優遇される国に期せずして派遣されたのだった。





「スリランカ留学を想起する_自己の絶対価値とは」

4月7日にスリランカで、また爆弾テロが発生し

閣僚ら14人が死亡した。


この国では、多数派で仏教徒中心のシンハラ人と、

ヒンズー教徒を中心とするタミル人との民族紛争が続発

していて、1983年からは内戦に発展した。

最近、またテロ組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)
が政府と武装闘争を繰り返している。

1983年からこれまでの犠牲者は7万人を超えたらしい。


その内戦勃発の5ヵ月後に、ぼくは日本からは初めての
交換留学生としてスリランカに到着した。

15歳、高校1年生だった。


首都コロンボでは焼かれた人々やタミール人の家々の残骸が

まだ残っていた。


内戦(1年間で約1万人が死亡)、外出禁止令、低い文明レベル
(日本の昭和20年代後半レベルだったらしい)、
洪水災害、現地語(シンハラ語←まだ日本語の辞書がなかった)
と「丸腰」で向き合わざるを得なかった。


郊外の町、ラトナプーラに1年間ホームステイした。
紅茶畑に囲まれたタミール人(差別されている側)
のホストファミリーの公務員住宅に住んでいた。

もちろん、日本人はぼく一人で、たいへんめずらしいので、
毎日のように見知らぬ人から触られていた・笑。


ぼく自身は二度、コロンボにおける時限爆弾テロから
運よく逃れて、今生きている。


その1年間、唯一つ心が救われる気持ちがする場所があった。

学校のとなりにあったカトリックの教会がその場所で、
毎日のように通った。


神父さんと話をしていると幸せな気持ちになれた。


内戦が激化している最中に神父さんは英語で、


「人に勝とうと思う心は、人を打ち負かそうという心だ。
闘いの心であり、他を傷つけようとする心だから、自分も

傷つく結果になる。

勝ち負けではなく、自分の天分を素直に遂行するとき、
その人でなければならない価値ある生活を営むことができる。

人間は各々の内に絶対価値があるんだよ」


と言った。


彼はたった一度もぼくに聖書を読みなさいとは言わなかった。

「日本は情報社会でどのように豊かになるのか」

情報社会の覇者は、結果的には欧米諸国や日本ではない

のかもしれない。


産業革命は蒸気機関を基盤に1700年代後半に英国で勃興したが、
結果、米国が勝者に納まった。


「工業社会」は、製品の大量生産→流通→消費によって急拡大したので、工業に従事する者が豊かになった。

「情報(金融)社会」では、物理的「もの作り」ではなく、
情報、つまり、「物語作り」が主流になる。

この社会は、「農耕民タイプ」ではなく、「狩猟、遊牧民タイプ」の

得意分野で、世界にいる「非定住民族」のユダヤ系、華人系、

インド系が付加価値を生み出すに有利な社会だ。


日本国内に目を転じると、生産性を一層高める努力をこれからしたり、
物質的に一層豊かになっても、個人的には毎日に豊かさを一層

感じられる結果には至らないのではないかと、多くの日本人が
気付き感じ始めている。


これから日本人は(自然と親しむ)レジャー、心身が楽になる

リラクゼーション、細微に渡るコミュニケーション支援、
生涯学習、などモノ以外に人生の豊かさを感じるように
価値観を設定したら良い。


それらの微細で情感ある「物語を作り」を海外に積極的に

提供することにより、日本は経済的にも豊かを保っていくことが

できるのではないかと、

最近思う。