『なんのために、想像力が必要なのか』
「サイエンティストは解ける問題を解く。
エンジニアは解かなければならない問題を解く。」
というアインシュタインの有名な言葉がある。
「自分はどちらかというとエンジニアの側なのだ」
と、アインシュタインは言いたかったと、
後世に解釈されている。
この言葉を、ぼくなりに言い換えてみると、
「学者や評論家は解くことができる問題を解く、
実務家や起業家は解かなければならない問題を解く」
となる。
起業家は今解かないと困る問題が発生したから、
問題を必死で解こうとする。
しかし、その問題は誰かに提示されたものではない。
元はといえば、自分が自分自身に
提示した問題であることに後で気付く。
では、何のために、自ら困難な問題提示をしたのか。
何らかの自己成長意欲の表出か?
何らかの自分の存在感の確保のためか?
これも、自分ではなぜなのか分からない「問題」の一つだ。
ここで、もう一つ、
アインシュタインの言葉を思い出した!
「想像力は、知識より大切だ。知識には限界がある。
想像力は、世界を包み込む。」
理屈を積み上げて考える方法を止めてみよう!
「想像力」を働かせて、世界を包み込んでみようか!
『なんのために、教育が必要なのかⅡ』
前々回は、『なんのために、教育が必要なのか』で、
「教育」を「能力開発」に換言すれば,
この国の「教育」は一変するという話をしました。
今回はその続編です。
3年ほど前にDIARYにいただいた読者の感想を
再度披露します。
彼女は、某教育大学に勤めていて、小学校の教員養成を
本業としています。
_____________________________
「失敗を大いに歓迎する」という理念にとても共感しました。
というのも、常々私は今の日本の学校教育では
ある程度質がそろった子どもたちは育つかもしれないけれど、
「天才」は出現しない、と感じているからです。
つまり、教師が一方的に答えを与えてしまい、その答えさえ覚えれば
点数がとれるというしくみ、「完璧なこと」を求めるしくみ、
そしていい学校に入ることが人生最大の目標になっている感さえある
人々の感覚に大きな疑問を覚えるのです。
子どもは無限の想像/創造性をもっています。みんなが「違う」から面白いのではないでしょうか?
「違う」ことがいじめにつながってしまうような風潮、やっぱりどこか
社会がゆがんでいるのだと思います。
追記:
友人は小学校の教壇にも立っていて、小中学校の現場もよく
知る人です。
_____________________________
《「完璧なこと」を求めるしくみ》は、出題者にとっては楽かも
しれないが成人している教師より想像/創造力が高い子ども
にとっては迷惑だと思う。
バーチャルな学校のテストでいつも100点を取る子どもは
かわいそうにと、自分は思う。
実社会に出たとたんに、テストで100点が取れなくなるからだ。
もっとあいまいな市場や社内の評価にさらされる実社会では、
あらかじめ回答が用意されていないテストに日々直面するからだ。
★実社会の常識を小・中学校に導入する教育改革において、
この国は、その他の先進国より15 年~25年間、いわば2周回
遅れになってしまっている。
さて、どこから手をつければよいのか......。
『なんのために、公共心が必要なのか』
我々は、この不易と流行の両方を求めます。
この「不易」と「流行」は、江戸時代の俳人の松尾芭蕉の
言葉からきています。
芭蕉は、人間の文化と社会は無常なるもののようであるが、
熟慮してみると、そこには、時代を超えて変わらないものと
時代とともに変化していくものがあり、しかもこの両面は
複雑に分かちがたく結びついているものであると、
述べています。
時代を超えて変わらないもの、変えてはならないもののことが
「不易」であり、時代とともに変わるもの、変えなければならない
ものが「流行」なのです。
では、今起こっている公共心(自分が属する地域、国に貢献
する必要があるという意識)の希薄化は不易と流行のどちら
なのか。
たとえば、法律(憲法)、人の寿命、家族の位置付け、お金の価値、
衣服のスタイル、安定した○○、強い人の定義、正しい宗教などは、
不易と流行を行ったり来たりする範疇に属することの一部でしょう。
昨年末にそう考えていたところ、あるDIARY読者のお一人から、
以下のメッセージをいただきました。
「自分の家族を良くしようと思ったら家族の周りにいる人も
かまわないといけない。
家族の周りの人のことをかまいだすと地球の裏側にいる
家族も眼中に入れなきゃいれない。
たどり着いたら、世界が平和にならないと私の家族は
幸せになれないと思いました。
幸せなクリスマス・元旦を迎えるには世界が平和にならないと
幸せになれないなあと、この年齢になってわかりました。
戦争紛争がなくなるまで落ち着かない気持ちです。」
このメッセージに感銘を受けました。
世の中で今起こっていることは、不易と流行の境界線を
さまよっていると意識される傾向にあります。
しかし、この論理から導かれる「公共心」は普段足元にあって、
特段意識していなかった「不易」を示している!
と感じている年初です。
『なんのために、教育が必要なのか』
「教育」とは文字通り「教え育てる」と言う意味です。
ということは、「教育者」とは「教え育てる人」と言う
意味になります。
ぼくは、小学生のころから「教育」ということばに何となく
違和感を抱いていました。
しかし、ある尊敬する経営者と議論していて、その違和感の
原因がわかりました。
まさに氷解した瞬間でした!
「教育」は明治初期に森有礼(初代文部大臣)や福沢諭吉ら
西洋通が英語の「EDUCATION」を訳して日本語にしたことば
だったのです。
この訳語が良くなかったのです(国家主義体制だったので、
「教え育てる」とせざるを得なかったのかもしれませんが)。
「EDUCATION」の原語(ラテン語)は「EDUCE」です。
その意味は、「潜在する能力を引き出すこと」なのです。
当時、「教育」という不正確な訳ではなく、
「(潜在)能力開発」と原語に正確に訳していたら、
現在のこの国のかたちは違っていたとすら今思うのです。
もしそう訳されていれば、
教育者、教師や先生と呼ばれている人は、「能力開発者」
教育観は「能力開発観」
教育政策は「能力開発政策」
学校は「能力開発センター」
文部(科学)省(教育省)は能力開発省
教育理念は「能力開発理念」
人材教育は「人材能力開発」
教育産業は「能力開発産業」
という日本語で表記されていたことになるのです。
もっとしつこく続けますと...
「親の自分のこどもへの教育」は「親の自分のこどもへの能力開発」、
「教育施設」は「受講者の能力開発を促進するための施設」、
「教育資金」は「能力開発機関が自分のこどもを能力開発して
くれることに対する対価を支払うための資金」、
「教育立国」は「国民個々の能力開発に最も重きを置く国家」
と、なります。
さらにしつこいですが、
最後に一般用語の「教育」を「能力開発」に換言して、
すべての人の人生における「能力開発」へのスタンダードな
関わり方について記してみたいです。
「すべての人間は、この世に生誕して、最初は一方的に
能力開発され、次にさまざまな場面で誰かに能力開発
する役割を担うことになります。
そうして、自分以外の誰かの能力開発を担うことになった後に、
その所作は、実は自分自身の能力開発のためだったことに
初めて気付くときが到来する」。
そう思うのです。
我々大人は、どのようなTPOででも、こどもの能力開発に
関わることが、自身の能力開発をも発展させ、充実した人生を
過ごしたと、遅くとも死期に感じ入る存在だと信じて疑いません。
末筆になりましたが、今年も幸多き年でありますよう
祈念いたしております。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
『なんのために、同窓会をやるのか』
同窓会を何のためにやるかは、
懐かしい人たちに会うと楽しいからだが、
今回はまさに日記風に記す。
今秋は同窓会が集中した。
・学生サークルの同窓会(メンバーによっては20年ぶり)
・前職の同期会(メンバーによっては13年ぶり)
・中学の同窓会(メンバーによっては25年ぶり)
心から楽しい時間を過ごすことができた。
こんなに楽しい集まりは久しくなかったとすら思う。
同時期にある環境を共有したメンバーが
再会することはこんなに楽しいことなのかと
全員が感じたと、ぼくは感じている。
明日以降も多くの人々とめぐり合っていくだろう。
その人々とも将来楽しい「同窓会」を行うこと
ができると思うと、人生が一層楽しくなってくる。
『なんのために、学校の試験では唯一解を求めさせるのか』
<実社会における唯一解はあるか?>
ペーパーテストでは、なぜ唯一解を求めさせるのか。
採点者が能率よく採点するためだ。
学校社会では、唯一解があらかじめ決まっていて、
その唯一解をできるだけ早く正確に見つける
情報処理のトレーニングを繰り返すことが多い。
ここで問題になるのは、学校社会を卒業して
社会人になると「出題と唯一解」のワンセットが
突然提供されなくなる。
実社会では
「唯一解を見つけ出す能力」ではなく、
「問題を設定する能力」が問われるので、
学校社会でいう出題者の立場に突然おかれてしまう。
学校社会の延長線上に実社会がある、
もしくは、そうあってほしい、
と思っている社会人は実は多い。
では、社会人にとっての唯一解はどこにもないのか。
どうやったらテストで100点を取ったときのような
実感を得られるのか。
もはや客観評価が唯一解ではなく、自分が感じる
納得感が解に変わる。
つまり「納得解」が唯一解なのだと気付く。
『なんのために、付加価値を求めるのか』
<働く個々人にとっての意味付け>
付加価値を求めるのは、結論から言うと、利益を上げるためだ。
では、何のために利益を上げるのかと言うと
会計的にははっきりしているが、
しかし個々の人間は根本的には会計のために生きていないので、
一概には言えない。
ここで、すべての個人にとって一概なことを考えてみたくなる。
またもや、飛躍してしまうが(笑)、それは体内時計で、人類史上
ほぼ不変かと思う。
また、付加価値が創出される根源は何かというと、
一人ひとりの働き=労働生産性に集約されるとぼくは思う。
そうだとすると、
人類が本能として体内時計に忠実なことと
(その最たるものは食べること、寝ることの回数、時間数とタイミング、など)、と付加価値の創出をする営み(個人の給料額とリンクする場合が多い)との関係性はどうなっているか。
大半は反比例していると、ぼくは思う。
では、いつから反比例しだしたか?
狩猟民が労働時間を大きく上回る収入を得ることを
偶然かもしれないが実現した、
「狩猟したい動物にワナをかけることによって、一族に必要な食糧以上の食糧を得た」
瞬間が起源だと思う。
では、今世界中で、そういった付加価値の得方を引き継いでいて
隆盛なビジネスは何か?
それこそが金融(的)ビジネスで、
実際個々人が相対的に最もサラリーを得ている分野だ。
ぼくが生きているスパンで、「資本主義」と「人生の質」が一定の
一致点を見出すのか、「資本主義」自体が変容して別名になり
存続するのか、
もしくは、
人間の「物欲」の程度が、何らか人類にとって大きな事件が起こって、
変わらざるを得ないのか。
興味は尽きない。
『なんのために、職業人生を送るか」
昨日から学生時代の仲間たちと「合宿」をしてきた。
メンバーによって、5年、10年、15年ぶりに再会する機会となった。
それぞれがさまざまな仕事で活躍している。
思い出せば、自身が小・中学生の頃、各界の「一流の方々」
(学界、政界、財界、官界、芸能界、スポーツ界)
に、ファンレターを出し、アポイントを取り付けて、面会するという
トレーニングを、父親の指導の下、行っていた。
(一例を挙げると、田中角栄元首相とは面会は実現しなかったが、
「サイン」が返信されてきて、感動したりしていた)
すべての「一流の方々」に共通していたのは、
ある大義を持って仕事に邁進していること。
自分が後世に何を残して現役引退したいのかを、早くて20代、
遅くても40代には、はっきりと意識していることだった。
さて、この合宿の終盤に差し掛かって、「40歳(前後)を迎えて、
アクティブな(職業)人生はあと20年を残すのみ。
二度とないこの20年をどう世の中に活かして、
何を遺して仕上げとしようか」という質問を投げかけた。
結果、「人材育成」が多かった。
個人的に、うれしかった。
ぼくが敬愛する内村鑑三氏は、
112年前、34歳のときに箱根の夏季研修合宿で語った、
《金か、事業か、思想か、これいずれも遺すに価値あるものである。
しかし、これらは何人にでも遺すことのできるものではない。
また、これらは、本当の最大の遺物ではない。
それならば、何人にも遺すことのできる本当の最大の遺物は
何であるか。
それは「勇ましい高尚なる生涯」である》、と。
『なんのために、政治家は権力闘争するのか』
この質問をDIARY読者から、
いただいたので、考えてみる。
有権者からすると、何らかの政策実現を政治家に期待して
一票を投じる。その実現のためには、議会の過半数の
承認を得なければならない。
その過半数の獲得のために、必要があれば権力闘争を
しなければならない。
では、もし政治家が権力闘争をしなければ、何が起こるか?
多数の有権者が期待し、政治家が選挙で公約した政策の
実現が危ぶまれる。
公約が実現できなければ有権者の期待に
応えられなかった結果となり、有権者は失望し、
次の選挙で得票が減り、場合によっては落選してしまう。
したがって、政治家は、放っておいたら頻発する
市民間の利害の争いの代理闘争をする存在だ。
そのため、議会は時には「ケンカ」の様相を呈す。
最後に、今回のDIARYは教科書的になってしまったが、
上記の仕組みを機能させるために最も重要なことは
我々が「投票に行く」ことだ、といえる。
『なんのために、人は働くのか』
この質問をDIARY読者から頻繁にいただいてきたし、
自問自答することも多かったテーマだ。
『なんのために、仕事をするのか』の最大公約数を模索しながら、
何とか進めていく。
まず浮かぶのが、「収入のために」だ。
もし収入がなければ衣・食・住の費用を始めとするさまざまな
生活費が得られないから働く。
大半の人が働くのは、その対価として得られる収入が
目的の一つであることに疑いの余地はない。
しかし一方で、収入を目的として仕事をしていないと
告白してくれた人々にも出会う機会がこれまで
少なからずあった。
その方々の理由にもさまざまなタイプがあるが、
その代表格は富裕層(今収入がなくとも、将来おいても
全く生活に不自由しない)のケースだ。
彼らが働く目的はさまざまある。
ある財産家は、一定レベル以上の富裕層が働く理由は
本音の本音では「ひまつぶし」なのだと教えてくれた。
それでは、収入を目的とする人、しない人が、
同様に働く目的に共通項はないのか、と考えてしまう。
見つけたその共通項は「存在感」だと思う。
この場合の「存在感」とは、
「自分が働くことを誰かが、何かが、どこかで、必要としている」
という感覚を持つことなのだと思う。
この「存在感」が衣・食・住を満たすという目的をも超えた
働くことへのインセンティブになりうる。
人間とはそういう存在なのだと思った。