「オバマのアメリカはどうやって帳尻を合わせようとするのか_PART4 」
米ドルは世界の基軸通貨を続けることが
できるのであろうか。
中国が米国債(財務省債券、政府機関債)
の購入を続行するかどうかが決め手となるだろう。
2007年9月~1年間の中国による米国債
購入総額は、約1,800億ドル、月約150億ドル、
1営業日あたり約8億ドルに上っている。
その後も中国は、これ以上のペースで米財務省
証券を購入している模様だ。
結論から言うと、
今年、米国(ドル)は中国(元)との二国間強調で
ドル需要の急減を食い止めて、基軸通貨の地位を
保つだろう。
中国もこれから大規模の財政出動(公表で
約6千億ドル、今後の現金支出ベースで
1,500億ドル程度とも言われる)
を伴うので、ドルを買い支える余裕はない
のではないかという観測もある。
しかし、中国国内が投資から貯蓄へのトレンドに
ある中、その貯蓄を利用すれば十分出動できる
規模だ。
また、中国の貿易黒字は、保持されるだろう。
輸出額は減少するが、その金額を上回る
輸入額の減少が予想されるからだ。
また、中国への外国からの既存投資も
大規模に引き上げられることはないと予想
される。
したがって、2兆ドル以上の保有高といわれる
中国の外貨(大半はドル)準備は増加して
いくだろう。
さて、気になる記事を1月9日付け日経夕刊の
トップに見つけた。
「中国がアセアン諸国との貿易取引において、
中国元による決済を一部解禁する」
との記事がそれだ。
中国の貿易決済の2/3以上がドル決済と
見られるので、ドル需要が減少するのでは
ないか、と見る向きもあると思う。
もちろん、決済上の中国元需要増加、ドル
需要減少や、アセアン諸国の外貨準備が
ドルから元に交換されることはあるだろう。
しかし、中国が取引で受領した中国元の
大半をドル建てで運用していくため、
当面、ドル需要は保たれるであろう。
次回は、上記の仮説の元、オバマの外交と
その日本経済への影響について考えてみる。
【続く】
「オバマのアメリカはどうやって帳尻を合わせようとするのか_PART3」
9月のリーマンの破綻をきっかけとして、
世界が金融不況に陥っている。
米国は、強大な政治・経済・軍事力を背景に、
世界各国に対して、米ドル(建て債券や証券)を
保有するよう、米ドルと交換するよう、米国に
投資するよう、仕向けてきた。
そうして、膨大な財政・貿易赤字の帳尻を
何とか合わせてきた。
米国は、とくに1971年のドルショック以来、
ドル防衛政策に反する国には圧力をかけ
続けてきた。
最近では、米国がイラクを侵略した一因は、
サダム・フセインが自国で産出する原油取引
を米ドルで受け取っていたが、
ユーロに変更すると表明したことにあった。
イランは、すでにユーロ建てを始めていて、
米国から敵視され続けている。
一方、米ドルのお得意さんは、日本と中国だ。
「米国財務省の発表」では、日本の保有高は、
米国債は約50兆円、ドルが約90兆円、
中国は、米国債約50兆円、ドル約180兆円に
上っている。
政治的、経済的、軍事的に、現時点では、
不可能なオペレーションにはなるが、
仮に両国が米国債の売却を開始すれば、
ドルは暴落し、米国は国家破産してしまう
かもしれない。
米ドルが基軸通貨でなくなったケースを想定
して、国際機関(IMF、G8、GCCやADB)では、
「将来の通貨多極体制」のシミュレーションが
すでに始まっている。
具体的には、
1)「ユーロ」
2)「米ドル」(弱体化された後の)
3)「ガルフ ディナール」(ペルシャ湾岸の
産油6カ国の共通通貨)
4)「アジア共通通貨」(日本円や中国元を
中心とした)による通貨4極体制
も想定しているようだ。
このように現時点で想定しうる米国(覇権の)
凋落を防ぐための秘策をオバマ次期大統領
(スタッフ)は、すでに持っていると考えた方が
自然だ。
万一、彼が米国第一ではなく、むしろ世界の
平準化を目指す多極主義者(国際主義者)に
転向すれば、話は別だが....。
【続く】
「オバマのアメリカはどうやって帳尻を合わせようとするのか_PART2」
9月のリーマンの破綻をきっかけとして、世界が
金融不況に陥っている。
今月1月20日に就任するオバマ新大統領は、
起こりうる米ドル暴落などの混乱をどうやって
回避するつもりなのか。
米ドルは、世界最強の政治・経済・軍事力に
信用を得てきた。
その信用力を背景に、国内通貨を超えて、
世界の共通通貨として流通してきた。
米国にとっては、貿易取引は国内取引と同様に
決済できてきたといえる。
つまり、米国は自国通貨を印刷すれば、
世界のどこにおいても、どんなものやサービスとも
交換できてきた最強の国家であった。
このことこそが、米国の冨と安定の最大の
象徴であった。
今ついに、この冨と安定が揺らいでいる。
この揺らぎは、来年の世界・日本の景気が
どうなるかに直結している。
【続く】
■追伸
「今年の花は去年を知らない」
のは自然界の法則です。
今年もがんばりましょう!
「オバマのアメリカはどうやって帳尻を合わせようとするのか_PART1」
リーマンの破綻をきっかけとして、世界が
金融不況に陥っている。
来年1月20日に就任するオバマ新大統領は、
米ドルの空前の供給過剰と原油などのドル建て
商品価格の暴落による需要急減の中、
これからさらに起こりうる米ドル暴落などの混乱を
どうやって回避する(帳尻を合わせる)つもりなのか。
このことに、今たいへん興味がある。
来年の世界・日本の景気がどうなるか、大きな
影響を及ぼす事柄だからだ。
日々の情報に触れて、就任式の1月20日までは、
連載してみようと思う。
【続く】
「キャリア教育について」
「ビズ・キッズ」(主に小5向け起業・経営体験
プログラム
/http://www.v-express.co.jp/bizkids/regular.html
)
の今年度実施もそろそろ終了しそうだ。
思えば、東京商工会議所と日比谷公園で
初めて本格実施して以来、10年間続けてきた。
当初は、日本にはないプログラムだったため、
関係者からさまざまな抵抗があったが、
今は実施に反対する人を見つけるのが
至難となった。
文科省や経産省が推奨している「キャリア学習」の
一環としても位置付けられるようにもなった。
プログラムのライセンス提供先の埼玉県の狭山
商工会議所は先月、「文部科学大臣表彰・
キャリア教育大臣表彰」を受けた。
http://www.pref.saitama.lg.jp/A07/BA00/syoukoukaitou/jirei/jirei/07%20jirei%
20sayama.html
ここで、今後のさらなる展開を考えてみる。
欧米先進国では、「働きたいけど、働いていない」、
「働けないと自他ともに思い込んでしまっているけど、
もし働く場がカスタマイズされれば、働くことができる」
という社会人層に対しての「実際的な」職業教育が
10年以上前から充実している。
日本ではそういう社会人層が近年激増している。
このプログラムをカスタマイズして
実施してみたいと、今考えている。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART31(最終回)」
1年間の留学期間が満了して、帰国した。
成田空港に到着したとたん、ここは天国か
と感じた。
とにかく、何もかもが便利で、円滑に進んでいく。
高校1年の3学期から復学した。
クラスメートと留学生と、どうしても比べてしまう。
どうしても、みんな幼稚な感じがしてしまった。
ぼくは、学校設立以来初めての留学生だったので、
校内では異端視されていた。
そのせいもあり、学校生活になかなか馴染め
なかったが、光明が差す出会いもあった。
受験用の学習内容ではなく、俳句の世界の
すばらしさを熱弁してくれた国語教師や
英語の教本は生きたものでなくては意味がない
として、ニューズウィークやタイムを読み解くための
補講を行ってくれた英語教師に出会って、救われた
気持ちがした。
最も救われた機会になったのが、元クラスメートの
Hさんとの再会であった。
彼は、ぼくが留学経験をしてきたことを高く評価
してくれた。
そして、「宇宙からの帰還」(立花隆著)という、
当時のベストセラーを勧めてくれた。
http://www.amazon.co.jp/review/product/4122012325/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?%
5Fencoding=UTF8&showViewpoints=1
読後、すべてが吹っ切れた。
「外国ではどうだ、日本ではこうだ」などと、違いに
こだわっている場合ではないことに気付いた
からだった。
この本は、米国の宇宙飛行士が地球へ帰還した
後に行ったインタビュー集だった。
そこには、宇宙飛行士が、実際に宇宙から地球を
感じて、人生観が大きく変わった、さまざまな体験談が
記されていた。
それから現在まで、ぼく個人の最大の夢は
「宇宙から地球を感じること」で一貫して変わらない。
以上
■「スリランカ留学を想起する」シリーズに
最終回の31号まで、お付き合いいただきまして、
ありがとうございました。
次号以降も、DIARYをよろしくお願いいたします。
「スリランカ留学を想起する_PART30」
1年間の留学期間も残り1ヶ月になった。
1年半ほど前に受けた留学の面接試験を、
ふと思い出していた。
面接官の質問は、
「アジアの人々に日本人の印象は総じて悪い。
第二次大戦(1945年に終戦)で、日本が侵略
したことが原因だが、そのことをよくわかって
いるか。
もし、アジアに派遣されたら、多くの非難を
受けることになるが、その際はどう言動
するか?」
だった。
自信を持って反論した。
「あなたの質問の前提がまず間違っている。
アジア人々に日本人の印象は総じて
良いからだ.....。」
と。
このぼくの反論は、東南アジアのみならず、
スリランカにおいても正しかったことが
実体験で証明はされた。
その面接試験から25年が経った。
先日、スリランカの友人から、
「日本は社会が混乱してきているという
報道が連日なされている。
70年代の英国(植民地を手放した頃)のように
社会が荒廃してしまっているのか。
歴史は繰り返しているということか」
と質問された。
ぼくは、
「日本は、まだ70年代の英国のように
ひどくはなっていないが、ここ数年が
正念場だろう。英国は、1979年に
サッチャーが首相になってから、退廃の
ムードがようやく変化し始めた。
日本にも鉄のトップリーダーが必要な
時期が近付いている」
と、返答した。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART29」
続きになるが、
1年間の留学期間も残り1ヶ月になった。
そろそろ、1年間の留学を回想していた。
何らかの総括をしたいと思い出していた。
自分は「青年外交官」だとの気概をもって
15歳でスリランカに到着したが、一体この国に
何か貢献できたであろうか。
結局できなかった。
今想起すると、内戦中に高校生にできることは
限られていた。
あったとしたら、日本大使館員が現地人を蔑視
していたので注意したこと、
ある留学団体の職員が汚職していたので
注意した(が、告発まではしきれなかった)こと
くらいだった。
地域貢献は一つだけできたと思う。
居住していたラトナプーラでバスケットボールを
普及させたことだ。
当時、ラトナプーラでは英国発祥のスポーツ
(クリケット、サッカー、ラグビーなど)のみが
ポピュラーだった。
ぼくは、小学生からバスケの選手だったので、
バスケの普及に乗り出した。
バスケができる野外コートとゴールはあったが、
そのボールとゴールネットがなかった。
誰も高価で購入できないためだとわかった。
バスで3時間かけて、首都コロンボに買いに
行った。
一件だけ、扱っているスポーツ店を見つけた。
両方で5千円ほどした。ホワイトカラーの平均
月収が1万円ほどだったから、高価なものだった。
その後、神学校出身者にはバスケの経験が
いたので、チームを組織した。大会に出たり、
初心者の子どもたちに指導したりした。
学校卒業時に、校長から直々に呼ばれ、地域で
バスケの普及に尽力したとして、表彰状を
いただいたことは、今は思い出になっている。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART28」
1年間の留学期間も残り2ヶ月になった。
1984年11月には全土に対して2日間の
外出禁止令が出た。
12月には首都コロンボ 夜間外出禁止令が
出て、スリランカ政府軍兵士には、不審者を
射殺せよとの命令が出た。
人間は環境に慣れる。
もうこの頃になると、銃声が鳴り響いたり、
爆音と地揺れがあっても、動じない習慣が
付いていた。
夜中にコロンボ周辺の祭りに遊びにいくと、
ライフル銃を肩から下げている若い軍人が
路上でアヘンを吸いながら、虚ろで真っ赤な
目をしている姿に直面しても平気になっていた。
戒厳令が頻発される中、諸外国にいる日本人
留学生との文通が楽しみで、約300通を
超えていた。
アメリカのニューヨークにいる同期留学生
から手紙には、クリスマス休暇を待ち望む
街の様子や待ちきれない高校生は、
何か理由をつけてパーティー三昧をしている
と書かれていた。
オーストラリアからはカンガルーとのボクシングが
強くなったこと、ニュージーランドからはプール
付きの邸宅でドイツ人の女の子とのデートした
ことが書かれていた。
日本の同級生(高二)は、なぜかまだヤンキー
をやっていて、公道を暴走したり、女子高の前で
毎日待っていたり、夜はディスコに明け暮れたり
していた。
一方、
「象が電柱を木材と間違えて鼻で抱えたため、
電線がぶち切れて停電になり、一日中大騒動
している家庭の様子」
は、彼らには想像もつかないのであった。
【続く】
「スリランカ留学を想起する_PART27」
続きになるが、
1年間の留学期間も残り2ヶ月になった。
その頃になると、生真面目に考えていた
「現地との文化交流活動をするミッションを
果たす」という呪縛が解けて、首都コロンボ
在住の日本人との交流を始めた。
ある日本の商社の方と知り合って、ご家庭に
よく遊びにいくようになった。
豪華な住宅で、プール付きとまでは
行かなかったが、メイドが何人もいて、
運転手付きの車があった。
そこには、日本の書籍がたくさんあって、
むさぼるように読み漁った。
約1年ぶりに読んだ。
そこには、同年の男の子がいたりもして、
夢のような生活を短期間味わったのだった。
ある時、「もっとすごい場所があるよ」
と言われ、連れて行ってもらった。
忘れもしない、「アメリカンクラブ」だっった。
入ったとたん、きれいなプールと豪華なバー
に迎えられた。
白人しかいなかった。
クラブにいたほぼ全員が、我々日本人に
見下げるような視線を投げかけた。
「場違いだ。出て行け。」と、言わんばかり
だった。
むっとしたので、ウェイターのスリランカ人
に現地語のシンハラ語で注文した。
「日本人か」と言って、彼はにっこりとした。
ちょうど、24年前の出来事だった。
【続く】