「スリランカ留学を想起する_PART25」
1年間の留学期間も残り3ヶ月になった。
相変わらずテロは活発だった。
テロリストが日本人や米国人を誘拐して、
スリランカ政府に対して解放条件を
突きつけたりしていた。
ホストファミリーは国外脱出を真剣に
考えていた。
父親がタミール人(南インド系)だった
ため、シンハラ人(原住民)の不満の
はけ口になりやすかった。
一年半ほど前には、コロンボにおける
大規模な住宅焼き討ちテロの余波で、
「タミール人一家」は、ナイフを持った
暴徒に追いかけられて、何とか逃げ
切ったという過酷な体験もしていた。
母親は、白人系のバーガーだったので、
親戚がすでにオーストラリアに移住
していた。
ぼくの帰国後、最終的に家族全員が
オーストラリアに移住できたのでよかった。
学校生活は相変わらず休講続きだったが、
ぼくは学校側の特別な配慮で、別途、
「英語教員養成コース」に通っていた。
このコースは、英語のネイティブである
英国人や米国人が教えていたので、
たいへん力がついた。
一方、日本においては、「英語教員
養成コース」や「英語の授業」の大半が
「日本語で」実施されていたり、英語の
ペーパーテストの出題が、「日本語で」
記述されていたりもする。
アジア各国の英語教育からしても、
低レベルといわざるを得ない。
【続く】