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木更津のお出かけの続きです。
過去記事↓

 

 

 

そして前回は電柱についてねっとり書きました

 

 

 

いつの頃のものなのか調べてみました

かなり調べましたが、分らないままなんです。

(間違いやご存知のことがありましたらコメントまでどうぞ!

ただ、タイミングによってはすぐに記事を修正できないのでご了承ください)

 

これと似たような電柱は、まだまだひっそりと残っています。

東京や神奈川・千葉の、戦前、明治から大正期に大きく発展した会社や歓楽街のある市で見られます。

 

もちろん大きな通りやごっそりと街並みが変わってしまった場所には無く、個人の私道や家や古い道路が残っている場所です。

千葉県では 松戸、野田、市川あたりに多く、木更津はこの一本のようです。

 

地域の区画整理の冷気を少し調べると「戦前からある」という記述を見つけました。

やはり、一緒に存在する建物の雰囲気からして「あ、これは戦前のものかな」と感じます。

コンクリートや、残っているプレートの文字の様子、別の場所では地面を舗装した際に10~20㎝埋まっているものもみられます。

 

戦前と言っても色々ですよね。

第二次世界大戦前でも戦前ですし、戦時下でも戦前、明治大正時代でも戦前。

 

電柱の多く残っている野田市では明治44年に電気の街灯がついたとあります。

第一次世界大戦(1914~1918) による好景により醤油工場が大きく成長し、街も伴って発展していったようです。

 

ひょっしたらこの辺りで設置された可能性もあります。

 
こちらのサイトの大正時代のハガキに、とても似た柱が存在します。

 

 

電柱として使われたのか、街灯として使われたのか?

 

すこし歴史的なことを調べたので書き出してみます。

 

明治2年に横浜で初めて電柱がたちます。

その二年後、明治4年に東京ー横浜間で電信(電子通信、電話に似たもの)が始まり、

明治19年には初めての電気事業者として東京電灯会社(現東京電力)が開業。

23年に東京ー横浜間に電話開通、とあります。

 

明かりはランプやガス灯で、ある程度なんとかなっていても

東京近郊の街では連絡の手段として電気の力を執拗に欲していたのでしょうね。

 

おそためか、明治40年ごろには東京や横浜辺りは、街の至る所に不格好で大げさな電信柱があちこちに目立つようになりちょっとした景観問題になったそうです。

 

現在はない「元町百段」と呼ばれた場所。

この上には神社があったそうです。

 

見ただけで、ひざ関節が痛みそうな階段。

 

ここは高台に向かって伸びる長い階段が見どころだったのです。

 

しかし、道の端はしにニョキニョキと伸びて視界に入る電信柱や電柱…。

街の景観は人が作ったものだけど、またそれも簡単に変わって。

それもあるとき、自然災害で無くなったり…不思議な儚さはありますよね。

 

 

さて、電柱!

 

昔は電話線を一つにまとめる技術が無かったので、一つの番号に一本ずつ線が必要でした。

そのためたくさんの送電線をひっぱって、大きくなった電信柱。

左ですね。

左に大きな電信柱(電話線)、

 

右手も電柱、これは上に

変圧器のようなものが見られるので

電気を送る目的のものでしょう。

 

その隣に街灯らしきものもみられます。

(これは…電気?ガスどっち?)

 

これを見ると大正時代にはすでに

「多くの電柱はぶっとい木製で、街灯は小さく別で近くに設置する」

というスタイルが出来ているようです。

 
歴史的には電気の街灯よりガス灯のが古いです。
どの年代で街灯を設置しようとなったのかにもよりますが…
 

どちらにせよ、夜道の安全のために電気の街灯が必要になったのでしょう。

一番初めはどんなものが付けられたのはわかりません。

 

 

ですが多分そこそこオシャレなものだったんじゃないでしょうか。

だって、土台の柱の部分は明治時代の目抜き通りに設置する装飾のあるタイプとよく似たデザインになっているのですから…。

 

私の考察では大正時代から昭和10年の前半までに設置されたものじゃないかなと考えています。

 

 

ある会社が街灯用の支柱を作り、電柱や街灯を付ける会社が複数ありそれを使うとして、上部の金具を制作する会社が同じだったとは限りません。

 

装飾性のあるものとスタンダードのもの、種類があったかもしれません。

10年~20年作っていたとして、前期と後期が全く同じものとは限りません。

 

経年の風雨により金属の部分はコンクリート部分より早く劣化します。

新しい金具に交換されることもあったと思います。

 

そのような流れがあって現在、様々な姿で確認できるのだと思います。

 

 

戦後に管理がしっかりしだすと、電柱の安全規格が設けられ古い柱は役目を終えます。

区画整理や土地の売却、家の建て替えにより、撤去されていったのでしょう。

 

しかしコンクリート製のものはかなり強度があったため、昭和の後期や平成に入っても街灯として使われているところもあったのでしょうね。

ひょっとしてまだ現役のものもあるかもしれません。

 

 

ひっそりと考える

 

 

木更津の電柱のある所では、季節がら朝顔が元気でした。

原始的な中輪咲きの朝顔。

 

ここで何度、種になり花になり、夏を越したのでしょう。

 

行き止まり道の突き当りにあるのは小学校。

毎年、夏休み前の児童たちを見送って、夏休み後の日焼けした姿をお迎えして…。

 

レトロ電柱と一緒に残っていた家屋、トタンと土壁の外壁です。

この様子はたぶん昭和10年~20年代だと思います。

勝手口付きブロック塀はその頃と同時期か、10年~20年以内に作られて、それ以前にあった電柱が一体化したのでしょう。

 

 

もう一度、点灯しているか確かめるために、夜に 再度訪問するのも良いなと思っています。

 

※何度か編集しているうちにイラスのコマや文章が一部抜け落ちてしまいました。

追記して再アップさせていただきました。

 

ではでは。

 

 

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今ならもっと良い写真が取れる気がする

まだ残っているところがあるなら行ってみようか…

 

 

 

 

 

過去の長編、お時間のある時にキラキラ

 

 

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