崇神天皇陵から南へすぐ。🛵

奈良県天理市渋谷町

 

 

綺麗に整備されてますビックリマーク

 

 

皇紀734年=景行4年(74年) 11月1日、都を纒向日代宮(奈良県桜井市)に遷された。

皇紀743年=景行12年(82年)8月15日、熊襲が叛いたので、これを征伐すべく天皇自ら軍を率いて西下される。

皇紀743年=景行13年(83年)夏5月、熊襲平定を遂げられ、日向高屋宮(ひむかのたかやのみや、宮崎県西都市岩爪)に6年滞在された。この国に御刀媛(みはかしひめ)という美人がおられ、天皇はこれを召して妃とされ、豊国別皇子(とよくにわけのおうじ)をもうけられた。日向国造の先祖である。

皇紀749年=景行19年9月20日、九州から還幸される。6年余りの行幸であった。

景行天皇が帰還されて8年経った景行27年8月、熊襲が再び叛いて辺境を侵す。

冬10月、今度は皇子の小碓尊(日本武尊)を遣わして、これを討伐させられる。この時、日本武尊は16歳であった。

熊襲平定から帰還されておよそ20年余り経った皇紀770年=景行40年(110年)6月、東北の蝦夷が叛いて辺境が動揺した。そこで今度は兄の大碓尊に鎮定を命じられるが、大碓尊は隠れてしまわれたので「望まないなら無理に遣わすことはない」として、大碓尊には美濃を治めるよう命じられ、大碓尊は任地の美濃に赴かれた。

7月16日、天皇は再度、小碓尊(日本武尊)を征夷の将軍に任じて詔される(「日本武尊に東夷を伐たしめ給うの詔」)。

皇紀773年=景行43年(113年)、小碓尊(日本武尊)が蝦夷平定を終えての帰途、伊勢国の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病を発せられ薨去される。存命であれば立太子しておられた可能性が高い。

 

皇紀790年=景行60年(130年)11月7日、143歳(皇統譜)で崩御される。『日本書紀』には106歳、『古事記』には宝算137歳とある。(ネットより)

 

 

🙏

 

 

 

 

隣に山の辺の道が続きます。

 

 

退散します。🛵。。。

 

 

 

 

 

 

下差し 天皇陵・皇后陵リンク集

 

第1代 神武天皇陵

 

第2代 綏靖天皇陵

 

第3代 安寧天皇陵

 

第4代 懿徳天皇陵

 

第8代 孝元天皇陵

 

第9代 開化天皇陵

 

第10代 崇神天皇陵

 

第11代 崇仁天皇皇后陵

 

第13代 成務天皇陵

 

第28代 宣化天皇陵

 

第43代 元明天皇陵(平城京遷都)

 

第44代 元正天皇陵

 

第45代 聖武天皇陵(東大寺建立)

 

第46代 孝謙・第48代称徳天皇陵

 

第50代 桓武天皇陵(平安京・桓武平氏の祖)

 

--- 崇道天皇陵

 

第51代 平城天皇陵

 

第54代 仁明天皇陵

 

第54代 仁明天皇女御 贈皇太后(藤原)澤子 

 

第66代 一条天皇皇后(藤原)定子

 

第75代 崇徳天皇皇后(藤原)聖子

 

第77代 後白河天皇(保元・平治の乱)

 

第85代 仲恭天皇陵

 

第86代 後堀河天皇陵

 

第89〜107代 北朝4〜5代 深草北陵

 

第96代 後醍醐天皇陵(建武の新政・南朝)

 

北朝2代 光明天皇陵

 

北朝3代 崇光天皇陵

 

第121代 孝明天皇(尊王攘夷)・英照皇太后陵

 

第122代 明治天皇陵(倒幕・攘夷派の象徴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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