高松宮祭祀継承『圓照寺』・・
圓照寺(円照寺・えんしょうじ)は、奈良市街地から南東に3㎞ほど離れた「山の辺(へ)の道」沿いの山麓部に広大な境内地を有する臨済宗妙心寺派に所属する尼寺(門跡寺院)、山号は普門山です。斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡とよばれる門跡寺院である。華道の「山村御流」の家元でもあり、別名「山村御殿」とよばれます。三島由紀夫の小説『豊饒の海』に再三登場する「月修寺」は、圓照寺をモデルに描かれました。
三笠宮崇仁親王「三笠宮双子説」で名前が挙げられる圓照寺(円照寺・えんしょうじ)。この尼寺に1916年(大正五年)~1995年(平成七年)の間、暮らされていた山本静山尼(山本絲子)は、京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられましたが、実は三笠宮の双子の妹といわれます。
この事は、明治大正と皇室が双子を忌み嫌い縁起が悪いなどという風習や考えがありました。三笠宮の双子の兄妹の山本静山尼(山本絲子)は生まれて間もなくお寺に預けられ、後に出家して名を変えて「静山尼」となり、ひっそりと暮らされていたと伝わります。それは三笠宮の兄である高松宮宣仁親王による『高松宮日記』昭和15年11月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺では(やすこ)と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」と記されます。これは山本静山尼が、高松宮から「やすこ」とよばれる特別な人物であったことが分ります。また、圓照寺は高松宮が祭祀(さいし)を継承した、有栖川宮ゆかりの寺院です。
(ネットから)
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竹林![走る人](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/044.gif)
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山辺の道、右へ。![走る人](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/044.gif)
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池に出て、あれ
閉まってる![ビックリマーク](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/039.gif)
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よく見たら、開けてokでした。
猪避けに閉めてあると。![いのしし](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/183.png)
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崇道天皇は第49代光仁天皇皇子で、第50代桓武天皇の弟である。崇道天皇(早良親王)は藤原種継を暗殺した容疑をかけられ、淡路島へ流された。しかし、自らの無実を訴えるため絶食し亡くなった。遺体は淡路島に葬られたが、桓武天皇の近親者が次々に亡くなり疫病も流行したため祟りだと恐れられ、崇道天皇との称号が贈られた。
祟りを鎮めるため、淡路島の墓から八島寺に移され、寺が廃されてから円墳を作り天皇陵として造営されたのが八嶋陵である。早良親王は自分が死んだらこの石が落ちた所に葬ってほしいと告げ九つの石を投げて絶命した。そのうち八つが見つかったため、この地に陵を造営したという伝説がある。
その八つの石が、八嶋陵前の道路にある。動かすと祟りがあるとされ、道路の中央部をくりぬいてそのまま置かれている。(ネットより)
つづく。