後醍醐天皇の第二王子である大塔宮に従って、北条氏の鎌倉幕府と戦っていたようです。軽々と人を投げ飛ばすほどの豪傑だった村上義光公ですが、吉野城が落ちたとき、護良親王の身代わりとなって敵の前で自分の腹をかき切って果てました。
順路って書いてたこちらにバイク🛵停めました。
遠いなぁ。
山門到着って、この前、駐車場になってるし
結構広いです。
楠木正成
石仏不動尊としては国内最大。
本堂
創建は延喜年間(901~923)と伝えられる、後醍醐天皇の勅願寺。
如意輪寺境内の様子☝️
楠木正行が出陣の際詠んだ、辞世の歌を鏃で刻んだ扉がありました
楠木正行は、最終決戦である四條畷の戦いに出征するにあたり、吉野の皇居に後村上天皇に拝謁し、その後 家来143人と共に吉野の如意輪寺にある後醍醐天皇陵に参拝しました。各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、如意輪寺の本堂の扉に鏃(やじり)で書き記し出陣しました。
「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
「桜井の別れ」
父 楠木正成との桜井の別れ
建武3年(1335)5月21日、楠木正成は、湊川の決戦に向かう時に桜井の駅で、11歳の長男楠木正行に今生の別れを告げます。
楠木正行は父と一緒にと願いましたが、「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰しました。
楠木正行は父と一緒にと願いましたが、「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰しました。
天誅組総裁☝️
吉野に南朝を開き、還御することなく崩御してしまいます☝️
※ 足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために嵐山に天龍寺を創建します☝️
安らかに
菊の紋と菊水紋
🛵。。。