市庭古墳(平城天皇 楊梅陵)

 

 

近鉄 大和西大寺駅下車。走る人

 

 

先日も来た、道の真ん中にある二条町地蔵堂横を。走る人

 

 

走る人

 

 

ちょっとお腹が痛くなって、平城宮跡へ寄りました。ガーン

これ何の実やろはてなマーク

 

 

第一次大極殿。

 

 

南門。朱雀門がちょこっと映ってます。

 

 

第二次大極殿跡のある場所。

 

 

の、向かいへ。走る人

 

 

到着。

 

 

平城天皇 楊梅陵。

 

 

第51代とされる天皇(在位806~809)。名は安殿(あて)。桓武(かんむ)天皇の長子。母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ)。785年(延暦4)皇太弟早良(さわら)親王が藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に座して廃されたあと、皇太子となり、806年(大同1)即位。畿内(きない)七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせ、中央官司の大規模な整理統合を行うなど政治の刷新に努めたが、病のため809年弟の嵯峨(さが)天皇に譲位し上皇となり、平城の旧宮に引退した。その後、上皇は寵臣(ちょうしん)藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹の意見をいれてしばしば国政に介入、「二所の朝廷」と称せられる事態が生じたため、810年(弘仁1)嵯峨天皇は平城宮に仕える官人を召喚、仲成を射殺した。上皇は兵を従えて東国に赴こうとして失敗、出家し、薬子は自殺した。上皇は以後政治に関与せず、824年(天長1)7月7日没、「日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)」の諡号(しごう)を受け、大和(やまと)国添下(そうのしも)郡の楊梅(やまもも)陵(奈良市佐紀(さき)町)に葬られた。(HPより)

 

 

🙏

 

次へ向かいます。走る人

 

正式名称は市庭古墳といい、佐紀盾順列古墳群を構成する古墳のひとつ。従来は円墳だと思われていましたが、平城京造営にあたり方墳部分を削平されたことが発掘調査で明らかに上差し

 

 

第1代 神武天皇陵


第2代 綏靖天皇陵


第11代 崇仁天皇皇后陵

第13代 成務天皇陵

第46代 孝謙・第48代称徳天皇陵

 

第50代 桓武天皇陵

 

第96代 後醍醐天皇陵

 

北朝2代 光明天皇陵

北朝3代 崇光天皇陵

 

第122代 明治天皇陵

 

 

 

 

 





 

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