法住寺を出て、走る人

三十三間堂の向かい、養源院と法住寺の間にラブ



後白河天皇陵 参道。

第77代 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

生没年|1127–1192年

鎌倉殿の13人」に登場してますねぇ上差し

西田敏行が演じてます。


しかしガーンガーンガーン

土日祝は閉門はてなマーク何〜えーんえーんえーん



残念無念。。。


後白河天皇とは上差し

鎌倉幕府成立の動乱期を生きぬき、復権を果たした後白河天皇。中継ぎの天皇として擁立されたにもかかわらず、ほどなく保元の乱が勃発。父・鳥羽天皇の崩御の際に面会すら許されなかった75代崇徳天皇(後白河の兄)が、「自分こそ白河上皇の皇統を継ぐ後継者だ」という意思表示のため、源為朝、平忠正らの武士を使って、白河殿を占拠。一方、後白河の御所には源義朝、平清盛らの武士が集まった。保元の乱といわれるこの戦いは数時間で終わり、崇徳は敗北。讃岐国に配流された。その後、後白河は二条天皇に譲位し、院政をはじめる。その頃、保元の乱で白河殿攻撃を主張し、実務能力に優れた信西が後白河天皇の側近となる。さらに、藤原が異例の昇進を続け、急速に台頭。信西はこれを警戒して信頼の昇進を阻んだ。この信西を排除するため、信頼と義朝が後白河上皇の住む三条烏丸殿を包囲。信西はこれを察知して逃亡するが、近江国で自害した。三条烏丸殿は出火したため、後白河天皇は一本御書所に移る。これが、平治の乱のはじまりである。義朝は、信西を討った功績で清盛に並ぶ位に昇格した。このことは、後白河が信西の排除を支持したことを示していると考えられる。しかし京都を不在にしていた清盛が屋敷に戻ると、義朝と清盛は対決の道を選ぶ。義朝は清盛を攻めるも敗北し、討ち取られた。

武士たちを巧みに利用して復権を果たした後白河だが、この平治の乱(1156年)によって力は低下。治承3年の政変で清盛に捕らえられ、院政も止められる。

しかし諦めなかった後白河は打倒平氏を掲げ、清盛によって福原(兵庫県)に移された都を京都へ戻す。清盛の死後は平家討伐の命令文書も発令。一方、頼朝の討伐を弟の義経に命じるなど、源氏と平氏を渡り歩き、最後まで策士ぶりを発揮した。こうして、天皇家や摂関家の内部抗争が武士の力で解決されたことにより、期せずして武士が台頭する時代が幕を開ける。

1158(保元3)年に皇位を譲った後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定め、1161(応保元)年に新造御所に移る。現在の三十三間堂も含め、このあたりは法住寺殿と呼ばれていた。




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第1代 神武天皇陵


第2代 綏靖天皇陵


第9代 開化天皇陵


第11代 崇仁天皇皇后陵

第13代 成務天皇陵

第46代 孝謙・第48代称徳天皇陵


第43代 元明天皇陵(平城京遷都)


第44代 元正天皇陵


第45代 聖武天皇陵(東大寺建立)


第50代 桓武天皇陵(平安京・桓武平氏の祖)


第51代 平城天皇陵

 

第96代 後醍醐天皇陵(建武の新政・南朝)

 

北朝2代 光明天皇陵

北朝3代 崇光天皇陵

 

第122代 明治天皇陵(倒幕・攘夷派の象徴)

 









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