戦艦武蔵の最期
67年前の1944年10月24日(昭和19年10月24日)
フィリピンレイテ島沖のシブヤン海海戦において 大日本帝国海軍の超巨大戦艦 「武蔵」 は沈没した。
終戦の10ヶ月ほど前だ。
乗組員の半数近くの1034名と一緒に海中深く消えていった・・・。
乗組員2399名中で、日本に帰国できた生存者は430人ほどといわれている。
昭和17年8月に就航し、当時の日本の英知を結集した世界最大級の戦艦だ。
有名な 戦艦大和 と同規模の 双子艦 でともに不沈艦といわれ 防水区画は1047の隔壁を持ち、 設計上では 沈まない はずだった。
全長263メートル 排水量6万4千トン
厚さ40センチ鋼鉄甲板に覆われ、
主砲は46センチ砲 (世界最長射程距離)
敵の攻撃圏外から一方的に攻撃できる 「武蔵」 最大の武器だ。
ミッドウェー海戦の敗北で劣勢となった日本海軍の起死回生の期待を背負った旗艦戦艦だったが、 世界の戦闘技術は刻々と変化し、太平洋戦争開戦頃から、それまでの戦艦同士の主砲での撃ち合い合戦方式から、空母から発艦する戦闘機による空中戦力が勝敗を左右する時代になっており、制空権を制した160機以上の米機が蜂の群れの様に武蔵を攻撃する、迎撃する味方機はなく、裸の艦隊となる。
なぜ味方機がいないかは、諸説があり、すでに戦闘機不足になっていたことと
武蔵が出航前に敵に目立たない様にペンキを落とす指示のあと、一転して目立つ色に化粧直しをしていることから
「武蔵を囮にするのでは?」とささやかれた。
味方機の援護がなく、新しいグレーのペンキでひときわ目立つ巨艦武蔵に敵の攻撃が集中する
戦闘機の機銃、爆弾、魚雷の波状攻撃だ。
戦艦武蔵の悲劇の開幕でもあった。
武蔵は 昭和9年の設計で、まだ戦闘機に対する設計にはなっておらず、対戦艦に配慮した重量と主砲主義に基づいている。
完成後に対空攻撃に対応して、急遽甲板上に無数の機銃を増設配置したが、当時すでに鉄不足も深刻で、急な増設の為、敵の機銃を防ぐシールドはなく、対空機銃は土嚢を回りに積んだだけの 裸状態 だった。
機銃で戦闘機を迎撃するには、高度な技術と実戦経験が必要で、 死角から急降下して止まっている甲板を攻撃しては上空に消えていく戦闘機に対して武蔵は遅れながらの機銃攻撃と動きの鈍い主砲。
ボクシングでいえば、ヒットアンドウェイ方式をとる敵機のが有利だ。
縦横無尽に急降下して攻撃してくる敵機の機銃と甲板に直撃してくる爆弾に対して、壁のない甲板は、ほとんど無防備で、第一波の敵の攻撃だけで甲板は機銃員の血のりで真っ赤になった。
大戦開始時にはまだ戦闘機搭載の機関砲は小銃クラスだったが、この時点では
20㎜~25㎜クラスの大口径になっており、その威力は人の手足、首を吹き飛ばすほどの殺傷力をもっていた。
そして不在となった機銃台へは次次と新しい機銃員が送られた。
この補充が数時間続いた
これは双方にとってつらい命令だったろう・・・
「武蔵」の最大の武器、46センチ主砲は、40キロ先の敵を攻撃できる性能を誇るが、頭上の戦闘機に対しては威力を発揮できず、
対空砲弾の三式弾を発射したとされるが間近に迫った敵機にはあまりに動きが鈍く、空中で爆発した弾煙の円形幕が数を増していった。
三式焼霰弾は空中で爆発し周囲の航空機に損傷を与えるが
米機の防御性能に及ばず撃墜できた米機はわずかで、一方的な戦いになっていく。
また46センチ砲の巨大な一トンを超える砲弾の発射時の爆発衝撃はすさまじく、練習時には発射時毎に待避していたが、初めての実戦で待避することが許されず、主砲員は開戦時の連射により、自らの発射爆風で吹き飛ばされてしまっていた。
事情を知らない艦員は、なぜ主砲が沈黙しているのか疑問に思ったという。
爆弾10発 魚雷11発以上を被弾し船体は傾き、
戦闘能力を失いながらも、武蔵は、不沈作業を試みながら航行していたが、
午後7時30分頃 武蔵は前方左舷から沈没を始めた
退去命令がでたのは沈没の寸前だった。
乗組員は10代~20代の若者が中心で、海軍同期中で200人中3人選抜の精鋭だ。
甲板から海に飛び込んだが、ビルの屋上から飛び降りるような高さで、海に落ちるまでに武蔵の船壁についた蛎殻で背中が裂け血が噴き出した。
武蔵からでた重油で海は真っ黒で、多くは海に落ちたまま二度とあがってくることはなかった。
前方左舷から海中に沈んだ為、生存者は、沈没前に海中から武蔵の巨大な船尾スクリューが空にあがっていくのが見えたという。
戦艦武蔵は、レイテ島沖シブヤン海の海中へ消えていった。
1000人近くの乗組員と共に・・・
67年経った今も大日本帝国海軍最後の戦艦は海の底で眠っているだろう。
今月の始めに、88歳で亡くなった叔父は戦艦 「武蔵」 の生存者の一人だった
当時21歳そこそこで、武蔵の沈没後、漂流後に救助された艦が攻撃を受け沈没し二度の沈没にあい、漂流にも耐え抜いた強靱な生命力をもった方だった。
ご冥福をお祈りします
67年前の1944年10月24日(昭和19年10月24日)
フィリピンレイテ島沖のシブヤン海海戦において 大日本帝国海軍の超巨大戦艦 「武蔵」 は沈没した。
終戦の10ヶ月ほど前だ。
乗組員の半数近くの1034名と一緒に海中深く消えていった・・・。
乗組員2399名中で、日本に帰国できた生存者は430人ほどといわれている。
昭和17年8月に就航し、当時の日本の英知を結集した世界最大級の戦艦だ。
有名な 戦艦大和 と同規模の 双子艦 でともに不沈艦といわれ 防水区画は1047の隔壁を持ち、 設計上では 沈まない はずだった。
全長263メートル 排水量6万4千トン
厚さ40センチ鋼鉄甲板に覆われ、
主砲は46センチ砲 (世界最長射程距離)
敵の攻撃圏外から一方的に攻撃できる 「武蔵」 最大の武器だ。
ミッドウェー海戦の敗北で劣勢となった日本海軍の起死回生の期待を背負った旗艦戦艦だったが、 世界の戦闘技術は刻々と変化し、太平洋戦争開戦頃から、それまでの戦艦同士の主砲での撃ち合い合戦方式から、空母から発艦する戦闘機による空中戦力が勝敗を左右する時代になっており、制空権を制した160機以上の米機が蜂の群れの様に武蔵を攻撃する、迎撃する味方機はなく、裸の艦隊となる。
なぜ味方機がいないかは、諸説があり、すでに戦闘機不足になっていたことと
武蔵が出航前に敵に目立たない様にペンキを落とす指示のあと、一転して目立つ色に化粧直しをしていることから
「武蔵を囮にするのでは?」とささやかれた。
味方機の援護がなく、新しいグレーのペンキでひときわ目立つ巨艦武蔵に敵の攻撃が集中する
戦闘機の機銃、爆弾、魚雷の波状攻撃だ。
戦艦武蔵の悲劇の開幕でもあった。
武蔵は 昭和9年の設計で、まだ戦闘機に対する設計にはなっておらず、対戦艦に配慮した重量と主砲主義に基づいている。
完成後に対空攻撃に対応して、急遽甲板上に無数の機銃を増設配置したが、当時すでに鉄不足も深刻で、急な増設の為、敵の機銃を防ぐシールドはなく、対空機銃は土嚢を回りに積んだだけの 裸状態 だった。
機銃で戦闘機を迎撃するには、高度な技術と実戦経験が必要で、 死角から急降下して止まっている甲板を攻撃しては上空に消えていく戦闘機に対して武蔵は遅れながらの機銃攻撃と動きの鈍い主砲。
ボクシングでいえば、ヒットアンドウェイ方式をとる敵機のが有利だ。
縦横無尽に急降下して攻撃してくる敵機の機銃と甲板に直撃してくる爆弾に対して、壁のない甲板は、ほとんど無防備で、第一波の敵の攻撃だけで甲板は機銃員の血のりで真っ赤になった。
大戦開始時にはまだ戦闘機搭載の機関砲は小銃クラスだったが、この時点では
20㎜~25㎜クラスの大口径になっており、その威力は人の手足、首を吹き飛ばすほどの殺傷力をもっていた。
そして不在となった機銃台へは次次と新しい機銃員が送られた。
この補充が数時間続いた
これは双方にとってつらい命令だったろう・・・
「武蔵」の最大の武器、46センチ主砲は、40キロ先の敵を攻撃できる性能を誇るが、頭上の戦闘機に対しては威力を発揮できず、
対空砲弾の三式弾を発射したとされるが間近に迫った敵機にはあまりに動きが鈍く、空中で爆発した弾煙の円形幕が数を増していった。
三式焼霰弾は空中で爆発し周囲の航空機に損傷を与えるが
米機の防御性能に及ばず撃墜できた米機はわずかで、一方的な戦いになっていく。
また46センチ砲の巨大な一トンを超える砲弾の発射時の爆発衝撃はすさまじく、練習時には発射時毎に待避していたが、初めての実戦で待避することが許されず、主砲員は開戦時の連射により、自らの発射爆風で吹き飛ばされてしまっていた。
事情を知らない艦員は、なぜ主砲が沈黙しているのか疑問に思ったという。
爆弾10発 魚雷11発以上を被弾し船体は傾き、
戦闘能力を失いながらも、武蔵は、不沈作業を試みながら航行していたが、
午後7時30分頃 武蔵は前方左舷から沈没を始めた
退去命令がでたのは沈没の寸前だった。
乗組員は10代~20代の若者が中心で、海軍同期中で200人中3人選抜の精鋭だ。
甲板から海に飛び込んだが、ビルの屋上から飛び降りるような高さで、海に落ちるまでに武蔵の船壁についた蛎殻で背中が裂け血が噴き出した。
武蔵からでた重油で海は真っ黒で、多くは海に落ちたまま二度とあがってくることはなかった。
前方左舷から海中に沈んだ為、生存者は、沈没前に海中から武蔵の巨大な船尾スクリューが空にあがっていくのが見えたという。
戦艦武蔵は、レイテ島沖シブヤン海の海中へ消えていった。
1000人近くの乗組員と共に・・・
67年経った今も大日本帝国海軍最後の戦艦は海の底で眠っているだろう。
今月の始めに、88歳で亡くなった叔父は戦艦 「武蔵」 の生存者の一人だった
当時21歳そこそこで、武蔵の沈没後、漂流後に救助された艦が攻撃を受け沈没し二度の沈没にあい、漂流にも耐え抜いた強靱な生命力をもった方だった。
ご冥福をお祈りします