今週の闇金ウシジマくん/第364話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第364話/ヤクザくん⑪






熊倉にいわれて金を用意しなくてはならない滑皮は、すぐさま丑嶋に電話して、回収不能の人間をひとり寄越すよう命令。戌亥との飯の直後で気持ちに余裕があったか、丑嶋はとくに抗うことなく盛田という男を差し出す。特に明言はされないが、どこか外国に運ばれ、臓器をひとつひとつ売られるなり、超強制労働をさせられるなりするんだろう。そうでなくても、見るからに、盛田はもう帰ってこない。

丑嶋は盛田を生きる価値がないという。そのことばを聞いて、マサルは「完全に決めた」。お前も地獄行きだとこころに決めるのだった。


去っていく丑嶋の背をみながら、残ったマサルと高田がはなしをしている。ひとひとりの人生つぶしていくらになるのかと。高田は、もうなれっこなのか、特に一連のやりとりを見て傷ついたり衝撃を受けたりしている様子はない。仕事と割り切っているのだろう。

それがあるいは丑嶋に対して反抗的に聞こえたかもしれないとみずから感じたか、取り繕うようにマサルが父親のはなしをする。父親に喧嘩して勝てそうと感じるようになったのは何歳くらいか、じぶんは父親がいなかったからそういうのわからなかったと。高田も、はやくに家出をして父とはそれっきりだからそういうのはわからんという。

そして、理想の親父というのはあるかとも訊ねる。




「もしも俺のそばに親父がいたら、どんな時もどっしりしててほしいんですよ!



弱い奴には偉そうにして、ヤクザにはペコペコしてる奴とかマジ死ねばいい。



つーか、俺が殺してやりてえ」




マサルは丑嶋のことをいっているのだ。そういう習慣がワルモノの社会に当たり前にある以上、それに反抗するとなると並大抵の決意では済まないわけで、じっさいマサルだって同じことをしている。しかし、そういう現実的なことではなく、いまここでマサルがいっているのは「理想の父親像」なのだ。あってほしい姿であり、同時に、そうであったなら、じぶんはこんな決断を下さなかっただろうということかもしれない。


続けて唐突に、沖縄に移住しないかと高田に持ちかける。繁華街でサパークラブでも出そうと。いくらなんでもマサルの様子がおかしいと高田が気づいたので、マサルは向きを変え、しばらく沖縄に遊びに行かないかという。ハブはカウカウ皆殺し宣言をしている。しかしマサルは仲良しの高田には死んでほしくない。守りたい。だからいまだけ高田を遠くに飛ばしたいのだ。

しかしアウトローとはいえ社会人の高田がそんな突拍子もないはなしに乗れるはずがない。取立てどうすんだよ、という当たり前の反応に、マサルは震えつつ「小銭気にしてる場合じゃねえ」とつぶやく。脳裏には楽園くんのG10を殺害し、歯を抜いたあとの、悪鬼のようなハブのおそろしい姿。やるといったらやる男だというのをマサルは脳内で確認しているのである。

が、ここで真意を明かすわけにはいかない。マサルは落ち着きを取り戻し、そのはなしをなかったことにするのだった。


そのころの滑皮の舎弟、梶尾と鳶田。知り合いだか子分だか、なにかゆるそうな男ふたりに車を盗んでくるよういっておいたようである。車は周到に盗んでから一日放置し、GPSによる尾行がないかどうか確認、Nシステムなどから逃れるために一般道を通ってここまできた。報酬は50万。車は、盛田が収められたようなコンテナに積まれ、アフリカに行くのだという。

そばに滑皮もいる。熊倉に殴られてからとまっていた鼻血がまた出てきた。梶尾がなにかいいたそうな顔をしているので滑皮がそれを訊ねる。あのとき車を運転していたのはたぶん梶尾なので、彼は事情をぜんぶ知っている。いくらなんでも理不尽じゃないかと、兄貴分である滑皮の肩をもちたい気分なんだろう。

そんな梶尾の気分を察してか、滑皮は熊倉のフォローをする。じぶんがガキだったころ熊倉にはずいぶん世話になったし、昔はかっこよかったのだと。結果フォローになっていて、つまりいまはかっこよくないということを暗に示してしまっているが、滑皮のいいかたにそういういやらしさはない。ヤクザ業界で生きていくうちに徐々にスポイルされていくその現実を踏まえたうえで、そういうこともあるというふうに割り切っているような感じがある。ふむ。


別の日、これは総長が麻雀をやっていたところだろうか、滑皮が梶尾と鳶田を探している。「本家の当番」というのは、なにかこう、偉いひとの護衛みたいな仕事だろうか。壁のホワイトボードには月曜と火曜が鳶田、梶尾となっていて、滑皮はそれを確認して「違うか」といっているので、今日は月曜でも火曜でもないのだろう。


ふたりは今日は休みなのかもしれない。これがよくきく「部屋住み」というやつだろうか。鳶田が鼻歌まじりにカツ丼をつくっている。そこに滑皮がたぶんさきほどの足でそのままやってきて飲みに誘う。ふたりはあわてて用意するというが、それよりも滑皮はカツ丼のおいしそうなにおいが気になる。そういわれてふたりはうれしそうだ。ふたりはじぶんたちのぶんを半分にして、滑皮に丼一杯分のカツ丼をわける。例の汚い食い方でカツ丼にがっつく滑皮だが、三人はみんな楽しそう。このあとキャバクラにいこうかというはなしになっている。たぶん、滑皮のいうかっこよかった熊倉というのは、こういうことだったんだろう。




つづく。




滑皮の意外な一面だった。

新書本を読んだなまなかな知識だが、ヤクザはもうむかしほど若い不良のあこがれではなくなっているという。端的に、暴対法などのしめつけが厳しく、お金がないのである。想像するだけならかんたんだが、映画などで見られるように、ベンツに乗って、高そうなスーツ着て、女を侍らせながら子分に札束をわたす、みたいなことは、よほどのことでもないとできないのだ。それどころか喧嘩さえろくにできない。突発的に喧嘩して、カタギに怪我でも負わせたら、自分だけでなくその組のトップにまではなしがおよぶからだ。そんな事情を、たとえば暴走族時代などに先輩を通してみていると、ヤクザになるメリットってなんだろうと、当然若者は考える。それなら、気のおけない仲間どうしでつるんで悪さしたほうがずっと楽しいしもうかるではないか・・・そのようにして関東連合などのいわゆる半グレが台頭してきたということである。

ハブの組の二人、井森と家守は、まさにこういうヤクザの状況を踏まえて登場してきたものだろう。じぶんらが若いころ先輩たちが稼いできたほどには稼げないし、それどころかうえのひとたちの要求は大きくなっていくばかり、いっそ身内を裏切ってのしあがるくらいのつもりでいないと、もうやっていけないと。それをハブは、ハブらしく暴力で制圧し、屈服させた。


たほうで滑皮の周辺ではどうだろう。猪背組は仕事内容などみてもどうもハブのところよりは規模が大きそうだが、事情は変わらないはずだ。世知辛いのである。ヤクザの存在じたいを認めるべきかどうか、というようなはなしはおいて、彼らの立場にたってみたとき、特にうえに立つものはどんな気分だろう。金はない。かっこうがつかない。だとしたら下のものにせびるしかない。そういう思考法になっても不思議はない。しかし、残念ながら、下にせびることによって下のものからの信望を得ることはできない。むしろ、井森たちのように不満は高まっていく。おそらく、ヤクザ業界の世知辛さは時代的なものであって、以前であるなら、いまの熊倉のように、「上にいくほどこすくなる」ということはなかったとおもわれる。特に熊倉くらいの微妙な立ち位置だとよけい、鼓舞羅の件がなくとも、逆風をもろに浴びてしまうことになる。だから、おそらく今回見せた滑皮の「むかしはかっこよかった」というのは、ある意味老いた熊倉をあわれむようなものではなく、そういう時代に中間管理職的な位置に立っている熊倉への感情移入ではないかとおもわれる。鼓舞羅の件だって、直接的に熊倉がなにかを鼓舞羅にしたわけではないし、ほとんど通り魔と変わらないわけで、ある意味では逆風だろう。だいたい、鼓舞羅は認識していなかったけど、半グレがヤクザを襲うという事態だけを取り出してみると、かなり今日的な現象なわけである。「ヤクザくんの不遇」を一身に体現したようなヤクザが、熊倉なわけだ。


もし滑皮の発言が「感情移入」によるものだとすると、これは意外というか、滑皮はおもったより広い視野でものを見てそうだ。熊倉に感情移入するということは、たとえばこんな状況では金なんてないから、下のものにせびるのもしかたないと理解を示してみせたり、通り魔のような鼓舞羅の打撃を受けて脳に障害が出るのも「時代」であるのだから、それについてもぜんぶ熊倉に責任を求めるのも忍びないと感じるとか、そういうことである。「時代」がヤクザを追い詰める。追い詰められて、熊倉は滑皮に肘鉄をくらわし、井森や家守は造反を企て、ハブは暴力でそれを屈服させる。どれも追い詰められた結果の反射なのである。しかしその反射に理解を示すということは、全体が俯瞰できているということだ。反射だけに全身を支配されているわけではないのである。

「かっこよかった熊倉」というのは、今回滑皮が梶尾たちに見せたような姿だったんではないかとおもわれる。威風堂々とした見た目もそうだが、子分たちにも親しく接し、喜ぶようなことをくちにし、もちろんおごりでキャバクラにも連れて行ってあげる。そういう単純なことなのだ。滑皮だけが、死体処理以外の独自の方法で金を稼いでいるという可能性もないではないが、いわゆる「むかしのヤクザ」ほど稼いでいるわけではないだろう。けれども滑皮はそうした「かっこいいヤクザ」を演じることを惜しまない。じぶんもそうやってヤクザを学んできたからである。熊倉のように反射で動いているばかりでは、ヤクザ組織はいずれ自壊する。いくらハブがおそろしい男でも、井森・家守が結託してこれをひきずりおろさないと誰がいえるだろう。金銭のメリットか独自の美学、少なくともそのどちらかいっぽうでもないと、したたかな若者の不良はヤクザ社会にやってこない。としたら組織は老いていくばかりである。熊倉ほどの「むかしはかっこよかった」筋金入りのヤクザが反射で動いてしまうようなこの状況で、滑皮は「かっこいい先輩」であろうとするのである。滑皮は子分にも気を配る、ということは組織にも気を配っている。そうしなければこの集団は崩壊するということをおそらく無意識に感じ取っているのである。もっとエゴの強烈な、組織のことなんてどうでもいい野心家だとおもっていたが、一概にそうともいいきれないようである。


今回はマサルのセリフも重要である。マサルもやはり高田だけは助けたいようだ。G10の件を知っているのかどうかよくわからないが、少なくともほんとうにひとを殺す種類の人間だということはよくわかっているらしい。だから、このままではまちがいなく高田も殺される。社長はいい。柄崎、加納もべつにいい。しかし高田のことは好きなのだ。だから、どうにかしてそのときその場に高田がいないよう仕向けたいのである。


マサルは丑嶋を父親のように考えているらしい。理想の父親は、どんなときも動じないどっしりとした男だ。弱い奴には強く、強い奴には弱いなんて最悪だと、そのようにいう。ヤクザのいうがままにあっさりひとを地獄に送る丑嶋の行為を踏まえてそういっているのだ。しかし丑嶋は、べつにヤクザが強いから、おびえてしたがっているわけではない。「強いから」というのは理由のひとつではあるが、第一にカウカウのメンバーを守るためということがある。丑嶋は滑皮や熊倉に呼び出されても必ずひとりで出かける。たいていのことには無表情で抗うが、はなしが従業員のことに及ぶとだいたい折れる。滑皮とも、完全に屈服するわけでもなく、借りをつくることもなく、非常に上手くやっている。それを、マサルは「ヤクザにペコペコ」という。これはなんというか、私立の中学に通う息子が、息子の学費のために毎日の残業でぼろ雑巾みたいになって帰ってくる父親を見て「あんなへなちょこの大人にだけはなりたくない」といっているようなものだ。要するになんにも見えていないのである。

マサルは父親のイメージを丑嶋に重ねつつ、そのようにいう。そうじゃない父親は認めない、というかそれなら自分が殺すと。だから、この理屈のうえでは、マサルは丑嶋が「理想」の行動をとらないから殺すのだ。弱い奴に弱く、強い奴に強い人間であったなら、マサルは丑嶋を殺さない。そんな存在のしかたがこの業界で可能がどうかはともかくとして、しかし直前に高田と父親越えのはなしをしていたことが引っかかる。もし丑嶋がそのような強い奴に弱い人間であるのだとしたら、強くなりさえすれば、マサルはこれを屈服させることができる。しかし「殺す」というのは、存在を認めない、そのようなありようを否定するということなのだ。

「父親」というものは、その存在の本質にかかわることだ。たんに家族として、血縁関係としてその位置は決してかわることがないということ以上に、資質だとか子育ての条件だとか教育だとか、そのひとの生のありかたのかなりのぶぶんを決める要素である。フロイトでは父性は超自我といって、外部から自我のありようを監視する審級のようなものになる。


くどいようだがじっさい、丑嶋はマサルの父親である。彼はいちど愛沢に「殺されて」いる。それを救ったのが高田であり、マサルの高田への好意はいってみれば母親へのものに近いかもしれない。たほうで、アウトローで生き抜く実際的な術を授けたのは丑嶋である。現実に仕事を与え、そのノウハウを間接的に伝授したのが丑嶋なのだ。要するにマサルは「愛沢以後」のこの「生き方」を丑嶋から教わったのである。だからマサルは、愛沢以後の「この生」が、正しく、たしかなものであることの根拠を、丑嶋に求める。説話類型のひとつに「貴種流離譚」というものがある。本来高貴な生まれにあるものが幼いころなにかのはずみで不幸な境遇に投げ込まれ、それにもめげずに立派に生きていくと、そういうパターンの神話をそう呼ぶ。そうした物語は、あるいは人間がじしんの境遇について納得のいかないとき、ひどく不幸なとき、ある種の解決をほどこし、回復させる類型であったかもしれない。ともかく、マサルでは、じぶんの生が正しく、確固としたものであるためには、父親というものは「こういうもの」でなければならない、というしかたで父親を想定する。貴種流離譚が描かれる人類学的な動機の、変形であると見てもいいかもしれない。じぶんの生がたしかなものであるためには、このような父親でなければならないと、そのように考えるわけである。

マサルの「理想の父親」像にともなう「理想の息子」像がどのようなものか、これだけではわからないが、なんにしても、マサルはそのように丑嶋があらなければならない、そうでなければおかしいと考える。というか、むりにそう考えようとする。あるいはこれは、すでにあやふやになりつつある丑嶋打倒の動機付けでもあったかもしれない。とにかく、意識の表面上でマサルはそう規定する。しかしそうではない。そうでないとなると、みずからの生もまた、それを受け継いだものであるのだから、貴種ではなく卑種となる。いまマサルが立っている場所はここである。丑嶋は盛田のような弱いものはあっさり地獄行きにし、ヤクザにはペコペコする「卑種」である。ということはその血を受け継ぐじぶんの「いまのこの生」もまたそうである。そんなことは認められない。じぶんが「卑種」であることなどとうてい認められない。だから否定する。つまり、殺す。これも何度も書いていることだが、丑嶋を殺すということは、いまのマサルじしんを殺すということでもあるのだ。


しかし、丑嶋にはこうあってほしいという願いがある点では、まだ希望がある。それこそ、中学生のバカ息子が一生懸命働く父の姿を見るように、丑嶋の事情をすべて知れば、こんなふうに考えることはできなくなる。その意味では、マサルじしんが、じぶんの言説によって丑嶋にとらわれている。越える越えないの文脈で語るうちはまだ父親越えなど難しい。父親と同じ位置で、父親に感情移入できるようになってはじめて、息子は父の枠組みからはずれることができる。このじてんのマサルはまだ反抗期の中学生に過ぎないのである。





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