今週の刃牙道/第49話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第49話/水準(レベル)






郭海皇から守りの消力の特別授業を受けて刀対策は万全、となっていたところの烈海王のもとに本部以蔵がやってきた。なにをしにきたかというと、降りろというのである。が、少なくとも前回のセリフでは、じぶんがやるというようなことはいっていなかった。ただ、どうしてもやるというのなら、じぶんを越えていけと、そのようにいうのである。

烈海王と本部以蔵、果たしてどちらが強いのか、ちょっと問いが成立することすら想像したことがなかったのでぜんぜんわからないが、ふたりの強さをバキをぜんぜん知らないひとに説明しようとしたらどうしたらいいだろう。得意のドラゴンボールや幽遊白書をたとえにつかおうとするとどうしても強さが計量化されてしまうのでバキ世界には馴染まない。トーナメントの結果だけを見ると、烈はベスト4で、優勝したバキに負けているいっぽう、本部は一回戦で、現実にも存在する大相撲の横綱というポジションの金竜山に負けている。そしてこの敗北が痛いのは、本部が横綱の小指を捕ってしまったことである。本部は名解説者としても業界では有名である。勇次郎や独歩の繰り出す秘技の数々をぜんぶどういうものか説明できるようなすごい知識の持ち主である。それが、横綱の小指の強さを知らなかった、あるいは知っていても実践で対応できなかった。もちろん僕も横綱の指の強さなんて考えたこともなかったが、本部なら知っていて当然のはずだった。それを、その点でもって負けてしまった。以来本部はあまり登場しなくなってしまったが、初期のころは「勇次郎にいちばん近いかもしれない」的な位置の強者っぽい雰囲気だったし、勇次郎が強敵とたたかうときしか発現させない背中の鬼を出させた数少ない人物でもある。そして決定的だったのは柳龍光である。柳は、烈同様トーナメントベスト4、相性もあるがオリバをなんなく制圧することもできる渋川剛気の片目を奪ったかなりのつわものである。これを、急に出てきた本部が武器ありの真剣勝負で圧倒したのである。強いんだかだかよくわからない、そういう男だ。

ただ、年齢もある。独歩はまだ馬力の残ったオジサンだが、ある程度年齢がいくと、渋川や郭のようなスタイルになっていかないと、最強戦線に立ち続けることは難しいだろう。その点もよくわからないというのもある。たぶん、烈も克巳もふつうより当然目が肥えているはずだが、本部認識はわたしたち読者と大して変わらないのではないかとおもわれる。越えていけというセリフを受けて、烈はわざわざわかりやすくいいなおし、倒さなければ先にはいけないという意味でまちがいないかと確認する。いちおう年長者なので丁寧な言葉遣いではあるが、これは言い換えれば「聞き間違いかなぁ・・・」というやつである。

本部はじぶんがみんなにどうおもわれているのかわかっているのだろうか。弟子の花田に、なんだっけ、もうバキにはじぶんでも勝てないかもしれないみたいなことをいったあとそれを肯定されて、「否定しろバカ」みたいなことをいっていたこともある(うろ覚え)。あのやりとりにはユーモアさえあり、そのあたり理解しているような感じもあった。しかし、あるいは、たんに勝敗とか最強に興味を失っているだけで、こういうことになるとまたべつかもしれない。


歩み寄る本部から殺気でも感じたか、まず烈が仕掛ける。すばやく右の突き。ジャブみたいなノーモーションの突きのようにおもえたが、これを本部はぎりぎりで回避し、顎の肩のあいだに手首をはさみこむ。そして肘に下から掌底を当てる。手は固定されているので、烈の体重ぶんの負荷が肘のかかることになる。危険を感じた烈はその掌底にあわせるようにすぐさま跳躍、一回転して手首を本部の顎からはずし着地した。

烈は肘の無事を確認し、すさまじい技であると汗をかきながら素直に褒める。たしかに鮮やかではあったけど、しかしこれはなんかほめすぎな気がする。烈じゃないみたいだ。あるいは本部登場が急すぎてこのひとがどんなひとかよくわからず、コミュニケーションも手探りなのかも。

本部としても、相手はあの烈海王なのであるから、手加減はできないという。それに烈がたたかおうとしているのは武蔵なわけで、武蔵の刀を受けたら肘が折れるくらいではすまないわけである。


ふたたび烈が攻める。なんかこう、手を開いた状態で内打ち的に放つが、それも再び捕られる。が、これはフェイクだったのかもしれない。がらあきになった本部のボディに強烈な一撃。効いたっぽいががまん、本部はそのまま脇固め的に腕を抑える。しかし烈の動きは義足になっても自由自在、脇固めの流れに逆らわず腰を軸にそのまま回転し、ありえない角度から蹴りをかます。やっぱり烈は強い。達人中の達人って感じだなあ。


観戦している克巳は烈はともかく本部の強さに驚いている。こんな水準だったのかと。やっぱりそういう感じだよね。たぶん独歩とか勇次郎とか、つきあいの長いひと以外はみんなそうおもっているはず。ほとんどのひとは柳戦も見てないわけだし。


しかしまあ、烈が強いことはまちがいない。本部も、自分以上であると認める。しかし、武蔵以上ではない。本部の目的は「守護(まも)る」こと、つまり、死にに行くようなものである烈の武蔵戦を妨害することである。自分以上ではあるが武蔵以上ではないことがはっきりわかった、だとしたらなんとしても止めなくてはならない、つまり越えさせないと、たぶんそういうことだろう。本部はどういうつもりかいつかの武蔵のように指を組み合わせて仮の刀をつくりだす。そういえばけっきょくこのたたかいは武器なしだったな・・・。それこそ、仮じゃなくてほんものの刀か、せめて木刀、いや竹刀でもあったらわからなかったのにな。だって、消力は無効だというのが本部の言い分なわけだから、竹刀だろうとなんだろうとかわせなければ烈の負けと、そういうふうに本部にはいうことができるのだ。


が、そこで郭が邪魔に入る。なにをしたのかわからないが背骨を打ったのかもしれない、不意をついた郭の拳の一撃で本部が沈んでしまう。

先ほど本部の挑発にのって目をぎらぎらさせてしまったのを若干後悔しているのかもしれない、郭はなぜか眼鏡をかけつつ、試合前夜になにをしとるんかという。あるいは郭でさえも、本部の強さを見誤っていたのかもしれない。片手間に倒せる相手じゃない。負けないまでも、このまま続けたら烈は無傷ではすまなかった。無傷で試合に臨むのが当然の礼儀だと。まあそれもそうかもしれない。


というわけでけっきょく本部の言い分というか目的、あるいは消力の実際の効果についてはよくわからないまま、試合当日になってしまう。試合内容をどこまで知らされているのか、今日も大勢詰め掛けている選ばれた観客たちは、「明らかにいつもと違う闘技場の光景」に戸惑っているのであった。




つづく。




光景とはなんだろうか。闘技場を横から見た絵では、特に変わったぶぶんはない。たんにすでに武器が用意されて置いてあるとか、そんなことかもしれない。それとも、前回光成が見た血の幻影と関係があるのだろうか。


烈はけっきょくこのまま武蔵戦に臨むことになってしまった。本部の言い分はおおむね正しいとおもわれる。武蔵の剣に消力は通用しない。武蔵はじっさいの羽さえ切ってしまう。だとしたら羽より大きく、空気抵抗もある人体が、仮に消力によって重力由来の抵抗がゼロになっていたとしても、切れぬはずはない。としたら、むしろ消力をたよるのは危険だ。竹刀でたたかっていたつもりが途中から急に真剣になったらそりゃ危ない。

だから、本部のおせっかいがかんぜんにむだということにはたぶんならない。いやに素直に郭のいうことを聞いていた姿もおもえば少しへんかもしれない。大師匠が直々に教えてくれるみたいだからやるけど、ほんとうにこれでいいのかな・・・?くらいの疑念はあったんじゃないだろうか。本部に対する、じゃあどうしろというのか、というのには、多少の期待があったんではないか。

ただ、本部は具体的なアドバイスはくれなかった。やめろとしかいってくれなかった。これじゃだめだということはわかったが、けっきょくどうすればいいのかを、烈はじぶんで考えなければならない状況なわけだ。


郭は本部の説を認める気はない。本部を認めるということは、中国拳法を否定するということだ。というか、これで大丈夫、と保証したじしんの発言を撤回するということだ。これで大丈夫なんだから、あとはゆっくり休んで、へんな怪我とかしなければそれでいい。そう考える、というより、そういう身振りをとらざるを得ない状況だったのだ。本部はどうやらけっこう強いらしい、このままやったらたぶん、わるければ骨折とかするかもしれない。それを郭が見抜けないはずはないと、烈や克巳は考えるだろうと郭は考えた。とすれば、仮に中国拳法が正しく本部がわけのわからないことをぬかす狂った老人なのだとしても、放置するわけにはいかないはずである。というか、「郭が放置するわけがない」と周囲は考えるだろうと郭は考えるのである。ここでの郭のふるまいは、郭じしんの意志によるものというより、周囲が郭に期待するもの、また郭がそれに応えていくもの、そうした過程で構築される「郭海皇」というイメージのとるべきものだったのだ。

だが、本部のいうように、郭はまちがっている。武蔵は羽も切れるのだ。だから当然「羽になれば大丈夫」というのは無効である。なぜ「羽になれば大丈夫」なのかというと、何度か推測したことだが、おそらく中国拳法にはそういう発想がなかったのである。克巳が正しく見抜いたように日本の剣は静であり、中国は動だった。一撃を探究するようなところのある日本とはまた異なり、中国では剣の威力そのものは「ひとを切れる」という点さえ通過していればすべて一定とみなし、それよりそれをどのように当てるか、どうやって相手の攻撃をかわしつつ、舞踊のような動きで幻惑しながら切るか、そういうところを究めていったのである。これはたぶんどちらがいいとかではなく、考え方のちがいだろう。ただし、武蔵は日本の剣術家であり、しかもそのトップの剣豪である。最強の一振りをもっていると考えてさしつかえない。バキ世界の武蔵なら真空だってつくりかねない。対して中国の剣は、ひとを切れればそれでいいので、羽は切れない。たぶんそういう思考法のちがいで、郭は武蔵を見誤っているのである。

本部は最後にイメージ刀のようなものをやろうとしていた。武蔵のイメージ刀は難解で、いまでも解釈に迷うが、ひとつには彼の振りに耐える刀がないからその代用ということがある。そしてもうひとつには、日本的な一撃の探究の結果だ。武蔵の場合は、一撃を究めすぎて、それをじっさいの現象として表現することがほとんど不可能になっているのではないか。克巳の最終的な音速拳みたいなものだ。それをじっさいの出来事として現実に形象するすべがないのである。だから、「刀以上のなにか」を経由してしか実現しない「それ」を行えるのは、もうイメージの世界しかないのだ。

おそらく、「イメージ刀」を振るという行為には、代用ということ以上にそうした意味が含まれている。本部はそれをあるいは烈、そして郭に伝えようとしたのではないか。武蔵の振りはたしかに刀の文脈ではある。しかしそれはもはや実在する刀では表現不可能である。そういう振りがあるのだと、そういうことを、本部にそれができるかどうかはともかくとして、イメージ刀を振るという身振りで伝えようとしたのではないだろうか。


なんであれ、それは不発に終わった。文字通りなにも起こらなかった。だから烈はもうじぶんで考えるしかない。しかし微弱ながら本部はヒントを残してくれた。消力じゃだめっぽいというのは烈も気づいたはずである。あのイメージ刀のかまえから本部がなにをしようとしたのか、それを広げていけば、勝てないまでも命は拾えるかもしれない。




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