カズオ・イシグロを気に入っており、翻訳されている作品を読破したいと思っていた。これは後回しにしていたものの一つである。お気に入りは『忘れられた巨人』『クララとお日さま』『充されざる者』『わたしを離さないで』など。いずれも夢のような曖昧模糊とした空気が漂う作風である。

 本作は翻訳がすばらしかった。一箇所、日本語として気になる部分があったが、もう忘れてしまった。

 時代は日本の戦後。主人公は引退した老画家。娘や孫と暮らしながら、戦前のことをいろいろ回想する。戦前は軍国主義に迎合するような活動をしていたようだが、その後、浮世を題材にした欧米人向けの作品を描くのに忙しい日々を送っていた。だが、松田という人物と出会い、作品における自我が芽生える。その経緯について、恩師、画家仲間たちとのやりとりが想起されている。日本は敗戦を境いに、ものの価値観が大きく変わってしまい、それに翻弄された人々は少なくなかったのだ。

 舞台は、描写から想像するに、東京の荒川地区のようにも思えるが、実在しない。まあ、戦後の東京は大きく変わったから、どこでもよいのだ。以下はメモ。

 

 序文: カズオ・イシグロはプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいた。

 1948年10月: 「ためらい橋」とあったので思わず検索した。そういう演歌がヒットしたが、東京にはなかった。主人公が大邸宅を安く購入する経緯。娘たち(節子と紀子)の話。孫の話に、ゴジラのようなものが出てくるが、ゴジラが公開されたのは1954年だから、これも小説の上での話なのだ。小さなバー<みぎひだり>のマダム川上。長崎は原爆が落とされる前に6回の空襲を受けているので、もしかしたらこの小説の舞台は長崎なのだろうか、などと考える。主人公の孫がローン・レンジャーに夢中になっているが、これも日本で公開されたのは1958年以降だとわかったから、小説上の話なのだ。

 主人公が子供の頃、絵を描くのを仕事にしたいと思い始めた頃を回想する。

 主人公の娘の縁談について。一度目の縁談は破談になっていた。都電荒川線を思わせる描写あり。「平山の坊や」という知恵遅れの人が軍歌を歌って殴られたという話から、戦前を想起する。歓楽街は退廃的だとみなされていた。古川地区? 主人公はそこの下宿の屋根裏部屋で絵を描いていた。そして武田工房で働き出し、忙しく制作していた[たぶん軍国主義的なポスターなど?]。カメさんという綽名の遅筆の画家の話。主人公は武田工房をやめ、森山という芸術家の弟子になる。カメさんをそこに推薦し、一緒に制作するようになる。

 戦後に、弟子であった黒田という人と会う。主人公の次女の縁談相手の父親、斎藤博士との世間話。松田という尊大な人物は、三十年経った今、病んで様変わりしていた。

 1949年4月: ためらい橋。マダム川上の店の存続について。シナ事変のポスターについて。主人公の次女の見合いについて。主人公のかつての弟子、黒田の居所をつきとめて会いに行く。留守番をしている黒田の弟子との対話。

 1949年11月: 斎藤博士は大学の教授であり、美術界と関わりがある。[ポパイのテレビアニメが日本で公開されたのは1959年以降であった。]森山という画家[技法は黒田清輝を思わせる]の別荘で、歌麿ふうの浮世の絵を制作していた七年間についての想起。次第に、師匠の森山と異なる作品を描くようになり、離反、決別していったこと。那口幸雄という音楽家が、戦争中につくった曲のことで自責の念にかられ、自殺したことについて、孫に問われたこと。主人公が描くようになった作品を見た友人のカメさんから、裏切り者だと罵られたが、これからはこのように描くのだと言い切ったこと。そのような構想にインスピレーションを与えたのは松田とともに見た貧民窟の風景であった。松田は画家たちは退廃的な集団で、無知だと言っていた。松田は、共産主義ではなく、王政復古を求めているのだと言った。その感化によるものかどうかはわからないが、主人公は「浮世の画家」であることを辞めたのであった。一方、弟子であった黒田は警察に連行された。

 1950年6月: 主人公は、先日再会した松田の訃報を受け取り、見舞った時のことを想起する。戦前に、森山師匠のもとを離れてから画家として重要な賞を受賞したときのことを思い出す。師匠の森山の作風はしかし評判が下がる一方であったことも。

 主人公は<みぎひだり>というバーのことを思い出す。そこはオフィスビル群の前庭のようになっており、主人公はそこに置かれたベンチに腰掛けて思いを巡らす。

 

 白内障で読書がしんどかったからか、カズオ・イシグロの作風がおぼろだからか、いまいち内容が判然としなかった。不消化感ひしひし。そのうちに、手術で目が治ったらもう一度読み直してみようと思った。

 

 

 上巻からの続きである。数多い有名無名の戦国武将ぞろぞろにもたいぶ慣れてきたので、続けて読むことにした。下巻は有名な事項が多いので読み易く面白かった。

 

 さ迷う軍団: 信長は信玄対策の妙案を思いついた時になぜか松永久秀を思い出し、背いたとわかっていながら、江北に兵を送るよう命じてからかった。

 信玄を期待する浅井長政は朝倉義景の重い腰を上げさせた。一方、信長は、軍用道路と長い土塁を築き、三つの砦を結ぶという普請を行なった。この江北の陣は木下藤吉郎に任せ、信長は美濃に引き返して信玄に備えるという策である。

 将軍足利義昭は、謙信と信玄を和睦させようとしており、それで信長を煩わせようとしていたが、誰もそんな気はさらさらなかった。信長は義昭に警告書を送り、釘を刺す。将軍形無し。それを見た義昭は憤怒する。

 信玄は甲府を発ち、遠江へと進む。家康は信長に援軍を求めるが、信長は家康に、必勝の策があるから、信玄との衝突を避けるよう言い伝える。信玄の将、秋山信友は東美濃に攻め入り、岩村城の城主とした信長の五男坊丸(勝長)を捕らえ、人質とした。

 その頃、信玄は江北の陣について、それを預かる木下藤吉郎について知ることとなる。朝倉義景の撤退も知った。その上で、三方ヶ原を目指す。筆者はこれを「さ迷う軍団」としている。

 数で劣る徳川軍は本多忠勝の殿で窮地を脱する。信長から遣わされた佐久間信盛や滝川一益は浜松城にこもってやり過ごせと言うが、家康は信玄の軍を追うこととする。そして待ち伏せられて敗北し、浜松城に逃げ帰った[徳川家康のしかみ像?]。

 

 六条河原での梟首: 信長にとって、三方ヶ原における家康の敗戦は大きな誤算であった。危惧したとおり、信玄を頼みとする敵方は勢いづく。将軍義昭は、反信長の旗幟を公然とし、諸将を集め始めた。その間、細川藤孝と明智光秀は公方の動きに手を焼いた。そして、荒木村重を味方につけることに成功する。信長も義昭の懐柔を図る。

 一方、信玄は野田城を攻め、手こずるも、落とした後は北上し、長篠城に入る。

 今堅田の砦: 明智光秀の囲舟という武装船によって攻めた。

 その頃、信玄は病んでいた。それでも信長は義昭に和議を申し入れたが、将軍はこれを撥ねつける。信長は、禁裏を避けて上京(三条以北)を焼き討ちする。

 信玄は信州駒場で客死。信長は、ルイス・フロイスから聞いたガレー船の話から、巨大戦艦の建造を思い立つ(安宅船?)。信玄の訃報が入る。

 義昭は、宇治の槙島城を難攻不落と思い、そこに籠ることとする。信長は二万の兵を従えて京に入り、これを難なく落とすと、羽柴秀吉に命じて義昭を河内若江城へと送らせた。そして改元を要求し、天正となる。

 信長は坂本[比叡山の東側山麓]に入り、巨大船に乗って北上し、高島辺りを焼いてから岐阜に戻った。信玄死すの報は広まっていたし、広まらせていた。

 小谷城を守っていた大嶽(おおづく)山、焼尾丸、いずれも降ってきた。投降した兵士を信長は助命し、放つ。朝倉義景は逃げる。朝倉勢は三千の首が討ち取られた(姉川の戦い)。その重臣の朝倉景鏡も信長に投降し、影鏡は義景の首を差し出す。

 小谷城については、羽柴秀吉に任せることとした。お市とその娘三人の救出について案が練られた。浅井長政父子は自害。それらの首も京都に送り、朝倉義景のものとともに六条河原にて梟首された。

 

 長島殲滅: 信長は越前から危機一髪で撤退し、京を経由して岐阜に戻る時、千種峠で鉄砲に撃たれそうになった。善住房という狙撃手が六角承禎に依頼されたことがわかると、信長はこの人を生き埋めにし、鋸挽きの刑に処した。

 北伊勢、長島の一向一揆勢は手強く、油断がならなかった。

 毛利はというと、信長とは敵対したくなかったので、義昭の対応に困っていた。毛利の外交僧、安国寺恵瓊は義昭を京に戻すよう指示されていたが、信長はそれを阻止しようとした。毛利は義昭を引き取りたくはなかった。

 三好義継は、佐久間信盛に攻められ、天守で自刃した。

 このような状況で、本願寺は孤立し、信長と和睦するしかなかった。

 松永久秀は多聞山城を差し出して信長に降伏し、信長は光秀に多聞山城を守らせる。金箔貼りの髑髏三つ(朝倉義景、浅井長政父子)で天正二年の正月を祝う。光秀の才覚と働きについて。多聞山城の豪華さについて。

 越前の守護代が攻められ、門徒の一揆が気になる。

 武田勝頼が、東美濃に迫り、明智城を落とした。その奪回にも手間取った。

 蘭奢待を切り取る: 足利義満・義政・義教が切り取っていた。信長はこれを所望し、内裏はその許可を与えるため、信長を従三位参議に昇位昇格させた。そして信長は、蘭奢待を多門山城に持って来させて切り取った。

 越前の門徒一揆は活発化し、富田長繁を攻め殺し、朝倉景鏡を討ち取った。

 信長は遊びが好きであった。津島の踊り張行について。賀茂祭の競馬(くらべうま)に参加し、二十頭を出場させてすべて勝った。

 武田信玄の遺言について; 武田勝頼の出生について; そして徳川家康が長篠城を攻めて落とすと、これが面白くない武田勝頼は、明智城など十八の小さい城を落として気をよくし、1574年五月、高天神城に向かう。家康は信長に援軍を要請するが、信長の動きは鈍く、戦意がなかった。高天神城は武田の手に落ち、信長は兵力を温存することができた。家康は兵糧代として黄金の革袋を二つ、信長から受けた。

 そしていよいよ長島攻めである。大小の船をかき集めて河川を船で埋め尽くして包囲、兵糧攻めにし、最後の二砦に立て籠った二万の門徒を焼き殺した。

 

 止まらぬ笑い: 武田勝頼は高天神城を落とした後、浜松城を窺った。信長はその動きを把握しており、西から東へ素早く移動するための軍用道路を建設した(道普請. 幅6,3m/ 5,4m)。そして浜松に兵糧を送り、家康に早まるなと釘を刺す。

 信長、京都にいた今川氏真の蹴鞠を見物する。信長は畿内の覇者となり、石山本願寺を助ける者はもういなかった。

 大賀弥四郎の陰謀について: 武田側に内通した家康の家臣。処刑された。

 その逆、奥平貞能の場合: 家康に待ち伏せを通報して命を救い、内通を疑われたのに堂々とかわし、長篠城の在番を命じられ、後に家康の直参となる。

 二年前(1573年)、家康に落とされた長篠城を今は武田軍が取り囲んでいた。家康から城を預かった奥村貞昌(貞能の嫡子)は死を覚悟するが、援軍を乞うため、鳥居強右衛門(すねえもん)という雑兵が城を脱出し、浜松へ向かう。援軍まもなくの報を持ち帰ったところ、武田側に捕まり、虚偽の報告をするよう命じられるも援軍近しと叫んだため、磔にされる。このエピソードは知られ、鳥居強右衛門の旗指物がつくられる。

 その間、信長はいかにして長篠で戦うか作戦を練り、墨俣の馬止柵をヒントにする。馬止柵は互い違いにつくり、鉄砲放を三千五百ほど集め、三段連打ちとする(?)。そして進軍をゆっくりとさせ、武田軍には戦う気がないように思わせる。信長は、家康の家臣、酒井忠次恵比すくいを踊らせ、余裕。酒井忠次の夜襲計画(敵の背後にまわり、寝込みを襲う)を信長は秘して密かに実行させる。

 武田軍はその思う壷にはまってしまう。武田の騎馬軍団は、足軽鉄砲隊に敗れたのである。戦死者は武田一万、織田・徳川六千と、関ヶ原よりも多かった。信長は会心の笑みを抑えることができなかった。

 

 最後の戦場: 信長は越前の一向一揆征伐に乗り出した。寄せ手は五万に達する。

 禁裏から官位を進めるという打診があったが断り、家来たちの官位を進めてもらうことにした。秀吉は筑前守、光秀は日向守、など。

 興福寺大乗院の尋憲は、失われていた所領回復のため越前に向かう途上、信長の本陣で、削がれた一向宗徒の鼻の袋詰めを見て度肝をぬかれた。

 北ノ庄(福井)にて、信長は、細々とした「越前国掟」を添えて柴田勝家に越前八郡を与え、前田利家らにその目付を命じた[よほど信用がなかったのね]。

 石山本願寺はなおも立ち退かない。和睦を申し入れて居座っている。

 禁裏は信長の官位を権大納言、右近衛大将と上げてきた。

 そして、信長の嫡男、勘九郎信忠が攻める岩村城に、武田勝頼が救援の兵を送ったとの報に信長は動く。先着した信長に、秋山信友は降伏したが、岐阜で磔にされた。これを落とした信忠は秋田城介に任ぜられる。

 その頃(1576年2月頃)、信長は安土城の普請に着工する。普請奉行は丹羽長秀を命じた。天主と命名したのは天龍寺の禅僧策彦である。蛇石のこと。

 雑賀の鉄砲衆を徴集する。そして石山本願寺の四方に砦を築き、海路からの補給を断つこととするが、原田直政が討ち取られた。天王寺砦も攻められ、信長は動いた。

 毛利は信長と事を構えたくなかったが、足利義昭が備後鞆(とも)にやってきて、いろいろ考えた挙句、対決することに決めると、村上水軍を用いて、石山本願寺に兵糧を届けさせた。荒木村重の船団は焙烙火矢を受けて壊滅した。

 越後の上杉謙信も信長打倒の腹を固めた。

 翌年には雑賀衆の一部と根来衆の杉之坊が信長に下る。彼らはどちらにもつく傭兵なのだ。鈴木孫一らは石山方に付いている。信長は慎重に兵を進め、雑賀の中野城を落とした。降伏した領袖七人は赦された。信長にとってはこれが最後の戦となった。

 

 村重謀反: 安土城の吹き抜け空間のこと。狩野派による絵画は、外陣の阿鼻地獄図から、内陣の釈迦説法図へと極楽を表していた。ルイス・フロイスの描写。六階は道教・儒教の世界。周公旦の故事、吐哺握髪など。

 謙信は門徒一揆と手を結び、七尾城へと向かう。そんな時、柴田勝家からの注進があり、羽柴秀吉が戦線離脱したことを知る。秀吉はその理由を信長に語る。松永弾正が謀反して信貴山城に籠った、農繁期には上杉らが帰国する、自分を播州(兵庫県南部)で働かせてほしい、小六らが官兵衛の嫡男を質子にとってきた、と。信長は、生野の銀山を奪えと秀吉に命じた。一方、謙信は七尾城、末森城を落とし、手取川で信長軍を破ったが、冬を前にして、軍を引き、帰郷した。

 松永久秀は、平蜘蛛とともに城に火を放って焼け死んだ。

 秀吉は、信貴山攻めの後、播州に向かった。美作・備前を支配する宇喜多氏の上月城を攻め落とそうと考え、尼子の党に向かわせる。生野も上月城もあっさり落ちた。正月に十二人の臣下を呼んで茶会を開き、秀吉を手放しで褒めた。

 だが、播州では東播で別所長治らの謀反が起きる。上月城攻めで後巻きにされたからである。三万の兵が上月城の奪還に迫る。秀吉は援軍を要請するが、信長は明智らに引き留められた。援軍五万はしかし城を前に打つ手がない。

 竹中半兵衛が信長のもとに来て、備前の明石景親を調略した、次は、宇喜多の客人となっている浦上宗景を調略し、ついでに宇喜多直家を調略する、と。

 信長は三木城攻めを秀吉に命ずる。

 荒木の水軍は撃破されたため、信長は鉄張りの戦艦の建造を九鬼嘉隆に命ずる(オルガンティーノ神父の書簡)。

 そして荒木村重が謀反を企て、有岡城に立て篭もる。熱心な門徒だった村重は顕如光佐を崇拝していたのだ。村重のもとには、摂津の高山重友・右近は人質を差し出していたが、キリシタンの布教を餌に、信長に降った。村重は孤立する。

 毛利は六百艘の村上水軍によって本願寺に兵糧を入れようとしたが、信長の鉄甲艦によって壊滅させられた。

 

 信康生害: 播州における離反、村重の離反は信長にとって心外であった。つのるいらいらをはらすべく、近衛前久(本郷奏多の演じた破天荒なお公家を思い出す)らと鷹狩りなどに信長は興じた。

 その頃、秀吉は三木城を包囲していた(三木の干殺し)。

 安土城の天主は、信長の誕生日五月十一日に落成された。信長は城下の町づくりにも力を入れ、妻子を伴わせて家臣や家来を住まわせた。楽市楽座により商人を保護し、商いを活性化させ、安土を賑わせた。

 浄土宗と法華宗の宗教論争(安土宗論):  法華宗は罰を受け、罰金を払わされた。

 波多野三兄弟のこと: 安土で処刑されたので、人質に残した光秀の母が殺されたことは書かれていない。

 信長は、徳川家康の嫡男信康に嫁がせた娘の五徳から夫が荒々しく振る舞う、実父とは不信、築山殿は謀反を企てている、などと記した手紙をもらい、家康に使いをよこすよう言うと、酒井忠次がやってきた。家康は信康を岡崎から逐い、遠州二俣城にて生害させた。筆者はこの事件について、家康が信康にほとほと手を焼いていたからとし、信長が命じたというのは俗説だとしている。徳姫は送り返された。

 また、信長は、信雄(のぶかつ)が、伊賀を攻めて敗れ、多くの家臣を失ったという報を受け、憂鬱をつのらせ、信雄を罵倒した。

 

 御かへり事よろしくて、めてたし: 織田軍に攻められた荒木村重は毛利に期待したが動きがないので、有岡城を抜け出して尼崎城に入った(1579年9月)。そして落城。

 その間、信長は京に向かい、二城の屋敷ができたので禁裏に進上したいと申し出た。内裏からの返事をそれを五宮がもらい受けるというものであった(信長不服)。御院所の造営をおろそかにしていたのだから、その代替としては受け取れないという意味のようである。ともあれ、御所の行啓が執り行われた。

 有岡城に残っていた女房たち百二十二人を信長は尼崎城郊外に連行して皆殺しにした。さらに家臣とその妻子ら五百十四人を焼き殺し、一門眷属は京を引き回してから六条河原で打首にした。一方、村重は海路逃げ延び、毛利に庇護される(後に本能寺の変の後、村重父子は秀吉の御伽衆として仕えることとなる)。

 三木の干殺し: 1580年、播州三木城が落ちた。

 関東の北条氏政が降った。上杉謙信の養子、甥の上杉景勝と、景虎(氏康の子で、氏政の弟)が家督争いとなり、氏政は弟の肩を持ち、家康と同盟を結ぶ。

 そして石山本願寺が降伏し、紀州鷺森(和歌山、雑賀党の本拠地)に移った。顕如の嫡男、教如は徹底抗戦を主張したが降伏し、流浪の身となる(後に豊臣政権下で復帰)。

 佐久間信盛・信栄親子に対する折檻状: 働きが悪く卑怯だったので討死するか、高野山へ行けと命じられ、さらにそこからも消えろと言われて熊野に入った[パワハラ上司をもつのは辛い]。

 山名豊国のこと: 秀吉が、因州鳥取城を飢え殺しにして落としたが、豊国は家臣により追放された。 

 一方、家康は高天神城を包囲し、兵糧攻めにした(1580年)。

 その間、信長は"踊り張行"に興じ、左義長に爆竹を爆ぜて馬を走らせた。この遊びを正親町天皇が京で所望したので、大々的に行なうこととなる。そのために京入りした時、イエズス会・ヴァリニャーノ巡察師の訪問を受け、黒坊主(弥助)を貰い受けた。本能寺の変に際しては、光秀の言により命拾いしたとある。

 京における御馬揃えのこと: 信長が西洋風にコスプレした御所の東側での天覧パレード。誠仁親王の所望により、もう一度繰り返された。内裏は信長に左大臣の官位を打診したが、自分よりも信忠にと悟らせたい腹であった。正親町天皇は幾度も信長から譲位を勧められていたが、しなかった。内裏は、陰陽道によると、天正九(1981)年は金神の年だからと断った。

 安土城ではヴァリニャーノ神父らを案内した。ことには会堂もセミナリオも造られていた。その時、イエズス会に、安土城を描いた屏風を贈呈している(行方不明)。

 翌(1581)年、遂に高天神城が落ちた。

 

 甲州平定: その頃、鳥取の山名氏の家臣たちは、毛利の家臣吉川経家を迎えて将とした。鳥取城の戦い: 秀吉の兵糧攻め、籠城五ヶ月で開城した。

 伊賀攻め: 次男信雄が大敗を喫した伊賀を四万二千で攻め、あっさりと落ちた。

 竹生島事件と桑実寺のこと: 竹生島に出かけた信長は一泊するだろうと桑実寺に出かけた侍女たちを、日帰りした暴君信長は処刑したというエピソード。

 安土城の摠見寺について: 筆者は、これも信長の座興の一つであり、寺もちゃちだから、ルイス・フロイスの言うような自己神格化などではないと述べている。

 木曾義昌のこと: 木曽福島の城主で、武田と縁戚であったが、信長につくと決めた。それを聞いた信長は、甲州平定の出陣を決心する。穴山梅雪も寝返った。

 秀吉は備中高松城清水長左衛門の調略を命じられるも不可能とする。思案をめぐらせ、豪雨を待って水浸しにすることとする。

 武田勝頼の最期: 最後ので付き従った侍はわずか四十一人。滝川一益が田野に分け入って討ち取った。一益は信長から上州と小県・佐久を与えられた。

 信長はその後、頭立った者を連れて甲斐国を見物して回る。富士山の威容に感動。新府の焼け跡などを見たり、九日間甲州に泊まり、それには近衛前久も同行を望んだが、この人にうんざりしていた信長は断ったようだ。明智光秀は同行していた。

 六角義弼を匿った恵林寺の高層、快川紹喜を焼き殺した話。サイコパシーの一面。

 

 是非に及ばず: 所司代の村上貞勝が、禁裏に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍にと推任すべきだと指嗾したとある。そのため、勅使三人が安土を訪れたが、信長は会わず、送り返した。

 駿河国をもらった徳川家康は、穴山梅雪とともに、黄金三千枚という大金を土産にやってくるという(信長はうち千枚を返す)。光秀は、その接待役を命じられ、なおかつ四国征討軍の総大将に任じられる。ここから先は、明智光秀の脳内分析である。信長・信忠を誅するべか否か・・・。公方を担ぐか? 家臣の斎藤利三のこと。信長の心変わりのこと。愛宕権現のおみくじのこと。里村紹巴の連歌のこと(時は今あめが下しる五月かなという発句を受けて詠んだことの言い訳)。信長・信忠、いずれも率いていた兵が少なかったこと。信忠をお披露目すべく、名物の茶器を安土から持参していたこと。本能寺は未明に取り囲まれ、乱入された(6月2日)。

 その頃、秀吉は備中高松の陣にあったが、翌日の午前にこの異変を知らされ、すぐに和睦交渉し、清水宗治を自害させると、大返しする。信長が討たれた十日後、無光秀は山崎の戦いに敗れ、小来栖村の一揆で首を落とされた。

 

 

 

 ヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』の舞台となった公共トイレ、以前から見てみたいと思っていたが、今日、この猛暑の中、友人と半日かけていくつか見てまわったのでメモる。

 

 1. 友達とは、千代田線の代々木八幡駅で待ち合わせした。3番出口を出てすぐ、まずは、坂茂の暖色系カラフル透明トイレ(渋谷区富ヶ谷1-54-1 代々木深町小公園)へ。中に入って内鍵をかけると、透明でなくなる。利用者のマナーが悪く、プラカップやゴミが中に置かれていた。これらのトイレは一日3回掃除するようなのだが。

 2. さらに北上して数分、同じく坂茂のトイレの色違い(渋谷区代々木5-68-1)。やはりゴミあり。

      

 3. そこから西へ。小田急の踏切を渡り、代々木八幡神宮の小高い境内を横切り、山手通りに降りてすぐ右に、伊東豊雄のトイレ。品のよいベージュ系のグラデーション。トイレの内部はどこもだいたい同じで、特にデザインはされていない。

 4. 代々木八幡駅に戻り、千代田線で明治神宮前へ。そこから渋谷に向かい、宮下公園の手前、明治通り沿いの緑地帯に安藤忠雄の「あまやどり」(渋谷区神宮前6-22-8)。

 5. そこから渋谷駅に出て、恵比寿へ。駅の西口、交番の隣に、佐藤可士和の White (渋谷区恵比寿南1-5-8)。これは夜のライトアップがきれいらしい。

 6. 交番前方の駒沢通りを東へ。ガードをくぐり、渋谷川沿いのタコ公園の一隅に、槇文彦(お悔やみ申し上げますお願い)のイカトイレ(渋谷区恵比寿1-2-16)。男性が二人、トイレのベンチでお弁当を食べていた。我々はそのすぐ隣の生パスタのお店でランチをした。

     

 7. そこから少し駅の方に戻り、田村奈穂の Triangle という赤いトイレ(渋谷区東3-27-1)。写真を撮っている数分の間に、タクシーが何台も停まり、運転手さんが次々に利用していた。

 8. 駒沢通りに戻り、西へ。片山正通の Wonderwalla (コンクリの木目, 渋谷区恵比寿西1-19-1)。ここはちょうど清掃中であった。公園の緑とトイレの植栽がすてきだった。

 9. 恵比寿から新宿へ。甲州街道を歩いて初台手前にある藤本壮介の流線型のトイレ(渋谷区代々木3-27-1)。

 10. 初台から京王線に乗り、幡ヶ谷で下車。佐藤カズーの白い半球型トイレ(渋谷区幡ヶ谷2-53-5)。ボイスコマンドで扉の開閉や水出しなどができるということであったが、QRコードを読み込んでトライしてみたもののエラーでうまくいかなかった。

 

 

 

 織田信長についての小説は読んだことがなかったので、読んでみることにしたが、文章がぜんぜん面白くなかった。この上巻は、織田信長が地元の尾張でいかにてこずりつつ足固をしたかが語られており、有名無名の戦国武将のオンパレードで、検索しながらでないと、無知な私にはわけがわからない。松平信康や木下藤吉郎が登場したあたりからは、大河ドラマの場面や俳優を想起しながらそれなりに読み進むことができたが。下巻を読むのはしばらく後にしよう。

 

 遺言: 尾張、末盛城において織田信秀が跡取りの信長に語る。百五十年前、足利一門の斯波氏が尾張の守護となり、織田常松が守護代となり、その没後、弟の常竹が守護代となり、南部の清洲を本拠とした。この常松と常竹は尾張の覇権を争う。北側の美濃は織田家にとっての仮想敵であった。常竹の猛将、治郎左衛門が信長の曽祖父にあたり、その血を引く弾正忠家が織田一族中の名門だという。

 織田信長には太田牛一という従軍記者のような家来がおり『信長公記』を著した。

 常松と常竹が鉾を収めた後、尾張には、岩倉を本拠とする織田伊勢守家と、清洲に拠る織田大和守家があり、大和守家の三奉行(家老などではない)の中の織田弾正忠(信秀)が最有力となっていった。これは下剋上などではない。

 織田弾正忠の財源は津島という湊町であり、勝幡の居城も豪華であった。名古屋の城も易々と乗っ取った。美濃の斎藤道三、三河の松平清康、駿河・遠江・三河を支配する今川と、敵は手強かった。美濃とは、信長と帰蝶との婚約により和議を結んだ。

 信長は思った。父が戦さに敗れたのは、盟主だったからで、尾張の将兵を全員支配下に組み込まねばならぬ、と。1552年、信秀は没した。その葬儀における信長の様子は有名である。うつけを装っていたのだ。

 

 不覚の涙: 忠実な家来、山口左馬助が、信長をうつけと見かぎり、今川方に寝返る。信長はそれを成敗することができなかった。舅となる斎藤道三はうつけと言われる信長を見ようと会見を申し入れる。物陰から見た時は異形であったが、信長は寺で身なりを整え、じらせてから赴いた[「麒麟がゆく」の場面を思い出す]。

 一方、清洲攻めは手間取っていた。

 

 勘十郎謀反:  信長は叔父の孫三郎信光は二股膏薬だと父から言われていた。もう一人の叔父、孫十郎信次はひょんなことから信長の弟(喜六郎)・織田秀孝を射殺してしまい、逐電した。信長の弟、勘十郎信行は激怒して守山城を焼く。この弟はなにかと兄信長に対抗する姿勢を見せていた。

 信長の重臣、林通勝のこと: 一度は信長のもとを去るも、再び舞い戻る。

 清洲大和守家との戦い: 1554年、 阿食の戦いで圧勝したが、筆者はこれには言及していない。

 岩倉の当主、信安: 信長は信安を訪ね、幸若舞を嗜むも猿楽と歌舞音曲の指南を受けたいと申し出て通う。ついでに豪商生駒八右衛門をも訪ね、さらに近くの木曽川沿いの川並衆をも訪ねるようになる。その首魁は蜂須賀小六であった。その蜂右衛門の所に寡婦となって戻ってきた妹[信長の叔母にあたる]の吉乃を見て、信長は室に迎える。道三の手前、正室としてではなく(しかし、何人も子をつくる)。

 斎藤義竜のこと: 道三と息子の義竜の確執。信長は道三に借りがあったが、情勢を見極めるうちに、乱波から道三敗北の報が入る。

 信長は、林通勝の裏切りにより、名古屋と守山を失う。

 そして、信長の弟、勘十郎は謀反。討つにしても、相手の兵力は三倍であった。

 

 岩倉破却: その前に兄弟の争い: プロの戦闘集団を擁す信長勢は強かった。当初は眉唾ぎみであった佐々成政も信長に味方につくよう説得された。柴田勝家も当初は林通勝らと同様、信長の弟、信行の家臣であった。信長の生母、土田御前は弟の信行を贔屓にしており、矛を収めるようにと信長のもとに使者を送る。信長は身内の戦いは愚の骨頂と、稲生の戦い(1556年)から撤退する。

 翌年、吉乃から信忠が生まれた。その頃、柴田勝家が勘十郎が再び謀反を企てていると告げてくる。岩倉と手を握るという。仮病をつかって引きこもる信長のもとを見舞いに訪れた弟を信長は自害に追いやった(1558年)。

 十郎左衛門信清は、生駒八右衛門の説得により、信長につくこととなった。

 岩倉兵衛信賢は意を決して城から打って出たが、信長勢とは勝負にならない。和議を入れてきたが、信長は放っておいた。

 その間、京のことを考えていた。1559年には、八十人ほどの供を連れて上京し、将軍足利義輝に会見した。その留守中、信賢は岩倉城を出て、美濃へと落ちていった。信長はその岩倉城を破却させ、織田伊勢守家を名実ともに消滅させた。

 

 会心の笑み: 信長は乱波・透波から今川義元の動きを知る。義元自ら尾張を切り従え、京に入るらしい、と。大高城・鳴海城のあたりが戦場になると睨み、偵察に出かけ、鷲津と丸根にも砦を築き、今川勢を誘い込むこととする。

 そこへ松平信康が大高城へ兵糧を入れたとの報[大河「どうする家康」を思い出す]。正午頃、丸根砦、鷲津砦を陥落させた今川勢は、桶狭間山(おけはざまやま)で昼食休憩に入った。一方、信長はその桶狭間山へ進軍、本陣を襲撃した。

 

 越後からの音問: 話は16年前、父の信秀が道三に大敗を喫した頃に遡り、信長は美濃攻略を考える。安藤・稲葉・氏家の美濃三人衆の調略に思いを致す。そして、斎藤氏の稲葉山城(岐阜城)を攻めるにはどこを拠点とすべきか? そして墨俣を拠点とし、長陣を覚悟する。斎藤義竜が他界するも、犬山十郎左衛門信清(信長の従兄弟)が謀反する可能性があったが、やはり信清は信長の邪魔をする。→後に信長に駆逐される。

 松平元康は、今川に捨てられた岡崎城に入り、信長と同盟を結ぶ。

 蜂須賀小六の川並衆に関しては、木下藤吉郎に調略を一任する。川並衆は信長と相性がわるく、信長は彼らを拗ね者と呼んでいる。藤吉郎は重要であった。

 小牧山に築城する。諸将諸侍に城下への引っ越しを命じる。

 越後の上杉謙信は、信長に味方になるようにという書状を家老の直江に書かせた。信長は音問を通じるという返事を認めた。

 そうこうするうちに、稲葉山城が、斎藤龍興の軍帥、竹中半兵衛によって落とされる。美濃三人衆のひとり安藤守就は半兵衛の舅で、協力した? 意味がわからない。信長はその城を貰い受けようとしたが、半兵衛は竜興に城を返す(?!)。

 坪内喜太郎について: 宇留摩城主、大沢次郎左衛門の助命嘆願。藤吉郎、自ら人質となり、信長に聞き届けさせるという役目を喜太郎に託した。

 

 待ちに待った客: 稲葉山城は難しい。信長は川並衆と昵懇の藤吉郎をあてにして、加納表に城を築かせる。

 一方、甲斐の武田信玄とも音問を通じさせている。

 京では1565年、将軍足利義輝が三好三人衆に弑虐されるという事件が起きた。その弟、覚慶について: 三好衆に狙われるも、幕臣細川藤孝(後の幽斎)によって救出されて甲賀の和田維盛のもとに匿われ、足利家を再興せよという親書を手当たり次第に送った。信長はこれに応じることとする。その留守の間、美濃に矢留め[休戦]を申し出て油断させようとするが、そうはいかない。

 一方、墨俣に大掛かりな砦を築くこととし、藤吉郎に命じ、藤吉郎は蜂須賀小六に頼る。小六は藤吉郎の家来となって"一夜城"を築く。(山内一豊もやはり藤吉郎に仕えたようである。)

 還俗して義昭となった覚慶は信長を急かせるも、六角に狙われ、逃げる。

 信長の側室、吉乃が正室として他界する。帰蝶についての消息なし。

 信長、古参の滝川一益に命じて北伊勢を併呑させる。

 稲葉山城は、美濃三人衆が降伏し、機が熟して落ちた。斎藤龍興は小舟に乗って長良川を下った。この城に信長は居城を移す。学問の師、禅僧の沢彦宗恩に相談し、城のある井口を岐阜(中国の岐山にちなむ)と改名し、「天下布武」という印章をつくる。

 一方、足利義昭は、越前の朝倉義景を頼る。だが義景は将軍を入洛させるという野心はなかった。義昭は敦賀金ヶ崎に留め置かれている。

 信長は、江北(北近江)の浅井長政との接近を考え、1568年、妹お市と結婚させる。その時期については1559〜1568年、諸説ある[茶々の生誕は1569年]。

 そんな時、伊賀守和田惟政が訪ねてくる。信長は公方様への執り成しを頼む。

 

 公方の胸中: 1567年、信長の長女五徳は家康の長男信康に嫁いだ。信玄は、今川義元亡き後の駿河を虎視眈々と狙っており、信長と接近し、姻戚関係を結んだ。信玄は家康にも声をかけた。信長は二月に北伊勢に侵攻、ほぼ制圧した。

 足利義昭は1567年秋、ようやく一乗谷に迎えられていたが、足利義栄(よしひで)が三好政権により第十四代征夷大将軍に担がれた(後に病死)と知り、焦るも、信長を頼りたくはなかった。一向宗を気にかけて朝倉義景は動かない。

 その頃、朝倉に仕えていた明智十兵衛光秀を、足利義昭との折衝に使おうと、信長はスカウトし、細川藤孝に手紙を書かせる。こうして義昭はしぶしぶ承諾し、岐阜の立政寺に迎えられる。そして1565年、上洛途上、六角承禎に手こずるが、浅井と松平も加わる。信長は木下藤吉郎に先手を命じた(観音寺城の戦い)。いよいよ義昭を奉じ、向かうところ敵なし、といった様子で京入りがなる。京での乱暴狼藉はなかった。

 松永久秀: 奈良で三好三人衆と戦い、信長に帰順し、大和一国を安堵された。九十九髪茄子を手土産としたことが知られる。

 義昭は、信長に副将軍か管領、どちらがよいかと打診する。ならば、草津・大津・堺に代官を置かせてもらいたいと答えた。京には奉行衆を残した。翌年、阿波衆(三好三人衆)が本圀寺にあった足利義昭を襲うという報せを受ける。襲撃は荒木村重らの活躍により防ぐことができた。信長、雪の中を四日にて急ぎ上洛、二条に御所造営を申し出て、「殿中御掟」に袖判(花押)をおさせる。数万の人足が御所造営に携わり、二か月で竣工した。

 その間、徳川家康は信玄と呼応し、掛川城を攻め、遠江を制圧した。

 信長は、北伊勢に侵攻し、北畠氏を破る。冬には上洛して将軍に戦勝を報告する。

 イエズス会士(ルイス・フロイス)が布教の許可を求めると快諾していたが、禁裏(正親町天皇[玉三郎がまぶたに浮かぶ])に禁じられたと再び言ってきたので気にするなと言った。将軍も禁裏も信長に負い目があった。信長の傀儡に甘んじようとしない公方様との連絡役として、信長は明智光秀を使うこととする。

 

 首のこと更に校量を知らず: 信長は、禁中修理、御所ご普請などと称して、大勢を京に集め、威を見せつけた。四月には越前侵攻を決めていた。1570年、織田・徳川連合軍は、敦賀の手筒山城での激戦を皮切りに、金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)を降伏させる。朝倉軍が一旦、木の芽峠まで後退すると、織田・徳川連合軍は、木の芽峠を攻撃し、一乗谷まで進撃する算段であった。しかし、ここで浅井長政が反旗を翻し、向かっているという情報が入る。朝倉の気持ち。信長は退却を決めかねたが、家康が三十六計逃げるに如かず、と言い放つ。殿は藤吉郎と決まり、朽木越えとなる。

 信長が伊勢の千草を通って岐阜に戻ろうとしたところ、六角の手の者に銃撃を受けたが、無事であった。その間、朝倉景鏡は西美濃を踏み躙るが挑発には乗らなかった。六月、柴田勝家六角父子(義賢・義治)に攻められるも反撃(甕割り)。

 浅井長政の小谷城を攻撃: 虎御前山に陣を張り、城下に火をかけ、住民を斬殺させる。そこー家康参陣。姉川の戦いは乱戦模様。突然、浅井勢が崩れる。家康は朝倉勢を襲う。信長、右筆に戦況を書き記させ、細川兵部大輔藤孝へ送る。

 そして七月、信長は上洛し、戦勝報告をする。

 

 庚申の夜の戯れ歌: 三好三人衆がまた蜂起したと秀吉から報告が入ると、二万を率いて岐阜を発つ。

 大坂の石山本願寺の一向宗について: 三好衆は一向宗と組み、野田城・福島城で戦うことにする。信長は大坂に入る。足利義昭は信長を憎み、負ければよいと思っていたが、信長軍は四万に膨れ上がった。井楼から大鉄砲を打ち込む。鉄砲も三千あった。だが、本願寺側にも、雑賀衆の鈴木孫一がおり、鉄砲音は日夜響きわたり、風雨の中、形勢が狂う。信長は公方を使って休戦を申し入れることとする。

 琵琶湖西岸で、浅井・朝倉軍から宇佐山城を守っていた森可成[森蘭丸の父]が戦死し、弟信治も討死。その報に信長は撤退を決める。そして京に戻り、宇佐山城へ向かう。浅井・朝倉勢は、比叡山延暦寺へ逃げ込む。信長は焼き討ちの前に中立の立場をとるよう交渉したが、延暦寺側はこれを無視した。

 一方、石山本願寺では一揆が起きているとの報。十一月には尾張から、伊勢長島で一向一揆が起き、小木江城にあった弟の信興が攻め立てられて自害したとのこと。信長は坂井政尚に比叡山を任せるも、政尚は討死。朝倉側は、将軍に泣きつき、義昭は三井寺にて信長と会い、和睦するよう勧告した。双方その気になったと思ったものの、比叡山は和睦に反対!! 浅井も和睦に反対する。義昭は、山門を焼かないという誓書と綸旨をとりつけるからと押し切った(1570年1月)。信長は誓書を書きつつ、庚申の夜の戯れのようなものだと嘯いた。

 

 必勝の妙案: 1571年、伊勢長島の一向一揆に向かわねばならぬが、信玄の動きが気になる。本願寺の顕如と姻戚であったし、家康との関係もあった。

 家康は、岡崎城から浜松城へと本拠を移し、上杉謙信と結び、信玄に手切れを通告した。となると、信玄と信長の同盟も破棄されたようなものである。

 木下藤吉郎は、佐和山城を兵糧攻めにした。磯野員昌は西近江に落ちた。

 そして、信玄動くの報。武田が高天神城を攻めたが、あっさりと兵を引き、次は西三河を攻めた。家康は持ち堪えた。

 松永久秀が畠山昭高を攻めたとの報が入る。何故? 

 荒木村重が和田惟政を敵とした? 畿内は危なかったが動けなかった。

 1571年9月、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、数千人を斬らせた。

 ダンディーだったという松永久秀と多聞山城のこと[吉田鋼太郎がまぶたにうかぶ]。信長は多聞山城にインスピレーションを受けていた。

 そして、信玄のことを考え続け、墨俣城を見に行った。それはもう捨ててあり、土塁だけが残っている。信長は必勝の妙案を思いついた。(下巻に続く)

 

 

 

 左目の視力が落ちたと思ったら白内障であった。読書しにくい感があるが、まあ、息抜きにこういう軽めの小説を読むことにした。読んでみようと思ったのは、小説の舞台となっている木暮荘が世田谷代田にあるからだ。その駅の近くに私は30年くらい住んでいたので、なんとなく懐かしい。→思わず、世田谷代田の行きつけの美容室ネフェルに行ってしまった。技術は確か、男性美容師(渡辺さん)のマッサージがうまい。

 

 シンプリーヘブン:  この短編の主人公は青山の花屋で働いている。この名前のバラを私は知らなかった。今彼といたところに三年前に姿をくらましたもと彼が入ってきて、奇妙なしばしの同居が始まる。事件があって、もと彼は立ち去る。

 

 心身: 主人公はこのアパートの家主である老人。瀕死の友人を見舞ったことがきっかけでセックスをしたくなり、家を出て、このアパートに住み始めた。店子の男友達と知り合い、デリヘルを頼むも、おかずを持ってきた妻に見つかる。デリヘル嬢は機転をきかせて隣室に入り、それがきっかけで隣室の女子大生と話をするようになる。

 

 柱の実り: 世田谷代田の駅の柱に突起が生えて大きくなっていき、男根のようになった。それを発見した女性は犬のトリマーで、その突起が縁で知り合ったヤクザ風の男の飼い犬の毛を刈り、木暮荘の庭にいる犬を洗う[犬の肛門腺というのを初めて知った。私も犬を飼っていたけれど、小型犬でなかったから]。

 

 黒い飲み物: 花屋を営む女性は夫のいれるコーヒーを泥の味だと感じる。ある日、顧客に言われる: 料理の味でつくった人がやましいことをしているかどうかわかる、泥の味がするときは浮気をしている、と。豈はからんや!! 

 

 : 二階の住人が隣の空き部屋に忍び込み、畳をめくり、下に住む女子大生の生活を覗く。後々、覗いていることを気づかれてしまう。

 

 ピース: その女子大生の事情。不妊症のようだ。彼女の学友が子供を産み、それを女子大生に預ける。女子大生の彼氏、大家、大家の妻、木暮荘はおおわらわで育児にいそしむ。そして一週間後、友人は赤ん坊を引き取りにくる。

 

 嘘の味: 花屋で働く女性のもと彼は、彼女の職場付近に出没し、見守っている。それをストーカー行為だとして、花屋の顧客にとがめられる。その人の後をついていったことから、その男性はその人の家の居候となり・・・

 

 

 この研究者の本は足利義満のことを知りたくて最近読んだばかりである。ガイド稼業を営む者として、武士の起源というテーマにはかねてより興味があったので、読むことにした。冒頭は武士研究の現状に対する愚痴が書き連ねられているが、第2章からは引き込まれた。武士の起源は弓馬術に長けた有閑者であり、その弓馬術は朝鮮半島からの移民が持ち込んだ技芸だったのだ。それにしても平安時代の社会が、税制も地方統治も治安もこんなにもしっちゃかめっちゃかだったとは!!  小学生の頃、「安寿と厨子王」という映画を見て人買いなんて、と思ったことを思い出す。森鴎外の『山椒大夫』でも読み直してみようかしら。

 なお、この本のおかげで大河ドラマのことがよくわかった。鎌倉殿の坂東武者のこと、奥州藤原氏のこと、「牧」の意味、朝廷での官位について、など。清水寺に祀られている坂上田村麻呂のこと、菅原道真のことも目から鱗。桓武天皇の子沢山と親王たちの臣籍降下と平氏・源氏の誕生。僦馬の党という群盗。滝口武士。つまり、私としてはものすごく勉強になったのである。読んでよかった。

 

 副題は — 混血する古代、創発される中世

 

 序章 武士の素性がわからない: 武士についての歴史学はまだ解明されていない。四世紀ちかい中世において、京都の形式的主人は天皇と朝廷であったが、日本の実質的支配者は武士であった。だがその武士がどこで生まれたのかという問題が解けていない。平安京の中か外か? "武士の誕生"というテーマの本には何も答が書かれていないのが現状である。武士の素性というテーマに取り組んでいるのは高橋昌明氏のみであるが、提言されてから20年経ってもまだ議論されていない。いつまでも「諸説ある」では埒があかない。

 

 第1章 武士成立論の手詰まり: 武士の誕生は、鎌倉幕府成立の三世紀前、9世紀末〜10世紀初頭であり、兵(つわもの、ウツワモノ?)、武者と呼ばれることが多かった。平安時代初期まで、朝廷軍は徴兵された農民が大半であった。兵はプロの戦士であり、領主である。

 武士が荘園から生まれたという説は、誤解にすぎず、マルクス主義の呪縛によるものである。このマルクス主義が退場した後、研究は分野ごとに細分化し、蛸壺化し、万人が認める武士の共通イメージは失われたままである。

 武士を職能人と見る見方も間違っている。武士の多面性を見て、一概には言えないというまとめ方はまずい。西国の武士、東国の武士と分け、正当な武士は朝廷の衛府から生まれたという説もあるが、大江匡房の『続本朝往生伝』では衛府と武者が分けられている。従来の武士成立論には、信頼できる尺度がない。どのように武士の家になったのかが説明されねばならない。動かぬ事実は、①武士は領主階級であり、②貴種であり、③弓馬術の使い手であることである。

 

 第2章 武士と古代日本の弓馬の使い手: 武士は領主階級の人であり、働かず、勧農を行なう。奈良時代初期、元正天皇は、明経博士以下、優れた専門家に賞品を与えた。その中に武芸に優れた四人の「武士」がいた。光仁天皇も然り。だが、統治を導くのは儒教であり、死後の救済を説くのは仏教。儒教の礼[社会秩序を維持するしきたり]は、王・公・卿・大夫・士という身分標識の一つであり、士は六位以下の廷臣であった。

 武士は己を弓馬の士と呼んだ。刀は敵の首を取る時に使うもの。弓馬は、歩射と騎射という弓術を意味する。その修得には膨大な時間を要すので有閑階級にしか熟達できない。『日本書紀』によれば、皇族と廷臣はその鍛錬に励む義務、つまり軍事修練を課されていた。朝廷は、弓馬術に長けた蝦夷に対抗すべく陸奥国の民の騎兵化を試みたことがあるが、9世紀には「(ど/いしゆみ)」の使用が申請されている。

 奈良時代の聖武朝では、勇健な者を猟騎(弓騎兵)として動員し、郡司[地方豪族の末裔]とその子弟(しだい)もその中に含まれた[奈良時代、日本は60ほどの国々に分かれており、中央から下る官吏が国司、現地の有力者がさらなる地域の地方官、郡司となった]。弓馬術に優れた郡司の子弟は国司が中央に送り、兵衛(ひょうえ: 宮中警護部隊)とした。兵衛、近衛は衛府の舎人(とねり: 警備員)といった。

 これらの人々を著者は「有閑弓騎」と名付けた。彼らは、京の所在地と周辺諸国から集められた。我が国最古の有閑弓騎は、7世紀、山背国に現れた(賀茂祭りの騎射)。祭礼とは、神に対する接待であり、お供え、芸能、流鏑馬などが捧げられる。なぜ山城国か? そこは、騎射文化の盛んな百済からの亡命者の入植地であったからである(百済王室の祖、朱蒙は騎射の達者を意味し、高句麗もやはり朱蒙を祖とする)。

 聖武天皇はこのような有閑弓騎を組織し、坂東九カ国の軍三万に騎射を教習させた。従って、東国では農民もその訓練をすることができた。彼らは「健児」として有用性は注目され、最上層の貴人の私兵となっていく。源平への流れがそこにある。地方の防衛強化のため、節度使が設置され、精鋭部隊が組織された。一方、徴兵された農民にには十分な兵力を期待できないため、徴兵制は廃止された。

 有閑弓騎は六位以下の身分であり、"中央の廷臣"と"郡司・子弟・富豪農民"の二種類から成っていた。桓武天皇は、蝦夷との戦争にこれらを総動員した。

 

 第3章 墾田永代私財法と地方の収奪競争: 794年、桓武天皇は平安京に遷都した。その間に新羅との衝突は回避され、嵯峨天皇の時代、811年に蝦夷との「38年戦争」をやめたので、有閑弓騎は地域社会での富の争奪戦に専心するようになる。

 筆者はここで「王臣家」について言及する。それは皇族と三位以上の貴族と五位以上の純貴族より成り、それらの子孫を王臣子孫としている(『類聚三代格』より)。

 すべての始まりは聖武天皇の定めた墾田永年私財法(743年)であった。私有の田地を法的に認めたもので、墾田の売買が可能となった。当時の日本には66の国と2つの島があり、国の行政は国司によって司られ、その政庁は国衙・国府、その長官の守は受領(ずりょう)と呼ばれた。その下の郡の行政を司るのは郡司で、かつての国造という地方豪族であった。この国司は民の労働力を私物化して、鷹狩りなどをしており、問題視され、違勅罪という罰則も定められたが、特権階級には軽すぎて効果はなかった。

 国司の前に王臣家が現われ、富と人材を呑み込んでゆく。国司と郡司の娘の婚姻を禁ずるなどしたが、両者の癒着のための逃げ道はあった。765年の禁令により開墾は凍結されたが、772年に解禁され、王臣家の暴走は本格化し、荘園化していく。

 元国司や王臣子孫が墾田からの収入に躍起になったのは失業者だったからである。鎌倉幕府や室町幕府の守護大名が没落しなかったのは、所領を持っていたから。

 

 第4章 王臣家の爆発的増加と収奪競争の加速: 国司と王臣家の利害は対立したが、彼らの本質は同じであった。国司こそ王臣子孫にほかならず、そこから武士が胎動してくる、と筆者は言う。氷上川継の乱(782年、未遂に終わった桓武天皇襲撃計画)は、王臣家のメンバーが危険で犯行的な存在であることを露呈した。さらにその連座か冤罪か、左大臣の藤原魚名が失脚し、太宰府へやられた。零落した王臣子孫の勢力は大きく、天皇の権威は見くびられていたことがわかる。

 このような傾向を促進したのはしかし、桓武天皇であった。桓武天皇は32人をこえる皇子・皇女をつくっていたのだ。それは親王身分の皇族維持費の膨大化を意味する。さらに親王たちの子女も生まれると皇族が鼠算式に増える。当然のことながら朝廷は臣籍降下を断行した。彼らに、不法な収奪に彼らの権勢を利用したい者が群がり、私利私欲のるつぼと化した地方社会の混乱は助長されていった。国司・郡司制度は民を搾取するシステムに堕落した。

 平安京に遷都した頃の朝廷は蝦夷との三十八年戦争の真っ盛りであった。蝦夷は利潤を貪り、馬を盗んで売り、領民を誘拐して売った。地方の富豪百姓は、贅沢で金銭感覚の麻痺した王臣家の人々に高利貸しをして債務奴隷としていった。

 桓武天皇が没した後、規制が緩和され、国司は、佃(直営の私有地)を拠点として土地を集め、寺社や王臣家も墾田を集めて荘園をつくった。そして国司と王臣家は利害が一致して結託し始める。王臣家は国司に名義貸しをして、開墾事業を進めた。

 一方、郡司層は王臣家と険悪な関係にあり、未進(未納)が累積していたので、平城天皇は観察使に地方の実態を調査させた。朝廷の税制は破綻しつつあった。

 財政破綻を防ごうと、桓武天皇は平安京の造営を中止し、息子の嵯峨天皇は811年、蝦夷との三十八年戦争を終わらせ、俘囚[帰順した蝦夷]の懐柔を進めた[奥六郡は平安末期、藤原秀郷の子孫、奥州藤原氏が支配することとなる]。

 桓武天皇の子孫(王臣家)の増大、戦争が終わって武力を持て余した有閑弓騎、これらが素因となって新しい動きが生まれる。桓武平氏の成立→その祖は葛原親王: 有能な官僚であったが、嵯峨天皇から上野国の長野牧[上毛高原のあたり]を与えられた。東国の牧は東国の騎射文化と関連している。その子孫が有力な有力な武士として成立する基盤となったはずである。

 武士を代表する源氏と平氏の成立: 814年、嵯峨天皇は多くの子孫に「源朝臣」姓を与えて臣籍降下させた: 嵯峨源氏の始まり(名前は一字とする)。淳和天皇の時、葛原親王が子孫に「平朝臣」姓による臣籍降下を願い出た。

 親王任国制度: 増えた親王を八省の卿から外し、上総・日立・上野に太守という地位を設けて彼らの生活費に充てることにした。親王は在京のまま、次官の介が受領(ずりょう)となった。

 835年、葛原親王は甲斐国巨麻郡の馬相野(まあいの)に空閑地を与えられた。駒つまり名馬の産地である。

 

 第5章 群盗問題と天皇権威の転落: 群盗という犯罪集団が発生し、それが武士を生むことにつながる。それは、郡司富裕層の有閑弓騎が、独自に強盗団として犯行に及んだものである。仁明天皇即位後に畿内諸国や京に現われ、六衛府が夜警に動員された。ただし衛府は警察・警備員であり、軍隊ではない。しかも衛府の舎人の多くは幽霊職員であり、動員できなかった。

 群盗の発生は、生活に破綻した人々の発生による。救い難い債務超過に陥った郡司富裕層であった可能性が高いと著者は言う。

 仁明天皇には浪費癖があった: 唐風儀礼や漢詩文化を統治だとする文章経国には経費がかかった。

 僦馬の党: 地方から畿内への調庸の運搬と安全を請け負う武装集団のことで、群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。つまり群盗の一種である。瀬戸内海の海賊もその一種で、王臣家人であった。

 仁明・文徳に続いた少年の清和天皇は、外祖父の藤原良房(太政大臣として)に補佐された。次の陽成天皇も藤原氏に補佐されたが、素行が悪い暴君・暗君であったため、皇位から引きずり下された。その没後、藤原氏は光孝天皇を皇位に据え、さらにその没後に宇多天皇を据えた。天皇の権威は地に落ちた。

 任期を終えた国司は、未進がないか解由が終わるまで現地に留め置かれた。名の知れた悪徳王臣子孫の一人に中井王という国司がおり、臣籍降下して文室真人という姓を賜った。王臣子孫は民の生活を脅かし続けた。

 

 第6章 国司と郡司の下剋上: 朝廷の権威が失墜したので、国司は命さえ危ない状態に陥り、国司の殺害や国衙の襲撃はありふれた事件となった。例えば857年、対馬守立野正岑が襲撃され、17人が射殺されて落命した。その他、王臣家人は市司の官人を暴行し、商人はギャングのような王臣家に従った。群盗問題は全国に波及し、群盗の巣窟となった武蔵国には検非違使が設置された。群盗の構成員には、もと蝦夷の俘囚がいた。つまり、群盗は、貧に窮した郡司富裕層の有閑弓騎と俘囚の二種類があり、ともに弓馬術の使い手であった。出雲国で暴動を起こした群盗は源氏と藤原氏であった。

 天皇自ら皇室歳費節減に励んだ結果、天皇一族の末裔は源氏・平氏ばかりとなり、増えた藤原氏・源氏・平氏に与える官職の数は限られており、彼らは地方に大量流入した。これこそが武士の源流であろうと筆者は言う。そして彼らは郡司富豪層との婚姻関係により結合した。

 883年、筑後守都御酉を群盗百余人が襲撃射殺略奪するという事件が起きた。これは任用国司が受領に対して起こした反乱であった。他にもいろいろ国司襲撃事件あり。平将門の乱は常陸の国衙を襲撃したが、そんなことはざらだったのである。

 

 第7章 極大点を迎える地方社会の無政府状態 — 宇多・後醍醐: 関白藤原基経の没後、宇多天皇は摂関家から自立し、親政を開始する。まず儒学者・菅原道真を蔵人頭に、さらに式部省輔に任じ、左中弁を兼ねさせ、王臣家対策を始動する。地方の実態を調査し、郡司が追い詰められ、擬人郡司が王臣家に擦り寄っていたことを明らかにする。彼らは「強雇」を犯し、大規模なマフィア的地方権力が形成されつつあった。国民は暮らしに余裕ができても、億万長者になっても、際限なく金儲けを追求するようになる。その犯人の中には、暴悪無双の陽成上皇(院)がいた。

 そして王臣家は、地方の裁判権力、紛争の裁定者へと脱皮していく。

 物部氏永の乱: 僦馬の党に似た群盗のリーダ—物部氏永の追捕には一〇年を要した。
その正体は、坂東の有勢者を中心とした反国衙・反国家的武装集団で、軍糧や兵器の輸送、貢納物の京進業務に携わる武装運輸業者(僦馬の党)であったものが凶賊となったものである。彼らは人や馬を強雇して、庶民を苦しめた。

 901年、菅原道真は太宰権帥に左遷されて失脚し、左大臣藤原時平が主導する。一方、太宰府で憤死した道真の怨霊から東国の帝王の地位を授かったとしたのが平将門である。将門は出自の貴さをもとに新皇政府の樹立へと向かう。

 

 第8章 王臣子孫を武士化する古代地方豪族 — 婚姻関係の底力と桎梏: 916年、下野の国司が罪人を流刑地に送れないと訴えた事件があった。その罪人とは藤原秀郷である。秀郷は、平将門の乱を平定する11年前には強力な無法者であった。

 藤原利仁: 下野国の群盗千人を討伐した(?)。平安の代表的な武士として、坂上田村麻呂、源頼光、平井保昌と共に「中世武人四人組」と呼ばれるようになった。

 高望王の坂東赴任: 桓武天皇の孫として生まれ、889年、上総介として(?)東国に勢力を築いたとされているが、著者はこれをでたらめな伝承であり、下向したかも不確かだとする。その息子、平良将(よしまさ)は、下総国に在って私営田を経営、また鎮守府将軍を勤めるなどし、坂東平氏の勢力を拡大した。その息子が平将門。

 平氏一族の争乱は婚姻関係が発端ではないか?: 父良将の遺産を、将門は伯父良兼と争った。王臣子孫と現地有力者の婚姻は名実の結合をうむ。当時の妻問婚がそれを容易にした。葛原親王が東国に牧を保有していたことは強力な基盤となった。

 藤原秀郷の場合、その現地の有力者は畿内の豪族鳥取氏であった。本牟智和気王(ほむつわけのみこ)の話など。藤原秀郷は、祖先の藤原藤成がこの鳥取氏の娘と結婚し、秀郷の祖父を産んだのであった。

 

 第9章 王臣子孫を武士化する武人輩出氏族 —「将種」への品種改良: 武士を形づくるには、血統・技能・資力のみではなく、武士らしい生き様、兵としての自覚、信念、名誉が必要である。技能は遺伝的素養と教育による。

 藤原秀郷は弓馬術と故実に優れていた。平氏も、平良将が鎮守府将軍となった時に蝦夷から弓馬術を学んだ可能性がある。

 元慶(がんぎょう)の乱: 878年の蝦夷の反乱。鎮守府将軍となった小野春風は、子供の時に陸奥にあり、蝦夷語を話すバイリンガルであり、和睦に役立った。

 坂上田村麻呂の傑出した武勲について: 坂上氏は世襲的な将種であり、それは幼少期からの教育によるものであった。桓武天皇は田村麻呂の娘を後宮に入れ、彼女から葛井(ふじい/かどい)親王が生まれ、葛井親王は幼少より射技に優れていた。清和源氏には、葛井親王の孫娘が清和天皇の更衣となり、その子供が清和源氏の始祖となった。

 だが清和源氏の血統には異説がある:源頼信[源満仲の子]が石清水八幡宮に奉納するにあたり、自らの系譜を応神天皇まで遡って述べたところによると、清和天皇ではなく、暴君として知られた陽成天皇の血筋だというのである。経基は貞純親王の子ではなく、元平親王、祖父は陽成天皇だとすれば、源満仲の暴力性(酒呑童子を退治した伝説がある)にも納得がいくと筆者は言う。

 一方、桓武平氏はどうかというと、葛原親王の母は多治比長野の娘であった。多治比長野は文官であったが、多治比氏は文武両道の氏族であり、東国で軍馬生産の中枢を担う人を輩出していた。

 ただし、この源平の筋書きは藤原秀郷にはあてはまらない。俘囚(蝦夷)との接点から弓馬術を学び、伝承してきたものと考えられる。

 

 第10章 武士は統合する権力、仲裁する権力: 武士の本質は、婚姻によって触媒された融合にある。古代的要素が融合して生まれた中世的存在である。筆者はそれをマッシュアップという言葉で表している。

 平将門は他人の紛争を仲裁したがった。裁定者としての存在というところに武士が統治者を目指す動機があった。武士は後に三つの幕府をつくり日本の統治者になろうとした。その動機は何か? 裁定者であることを存在意義としたのではないか? 

 初期の郎党は、古い氏族であるが、古い秩序を壊す王臣子孫と癒着することで生き残りを図った。武人的資質を提供してきた氏族は、家人として従者となり、実働部隊として生き残った。

 

 第11章 武士の誕生と滝口武士 — 群盗問題が促した「武士」概念の創出: 武士の成立には、現地有力者との融合が必要であり、牧と関わったことは弓馬の士を生むために必要であった。

 さらに、平将門には京で奉仕した経験があった。それは滝口武士としての経験である。「武士」という呼称の史上初の事例がこれである。滝口とは場所の名前であり、天皇の居住空間である清涼殿の北東における段差に見られる小さい滝に面した出入口を指す。朝廷での役職には、官と、令外官(宣旨職:  検非違使、蔵人、摂政・関白、征夷大将軍)があった。滝口は蔵人所の管轄下にあったので、天皇の個人的親衛隊のような警備員的武人であった。設置されたのは宇多天皇の時である[物部氏永の乱が契機か? 設置はその翌年]。衛府が形骸化して役に立たなくなったからであろう。10人〜20人ほどの少数精鋭の実力主義であった(毎晩四人が夜行する)。なので、武士は衛府から生まれたという説は成り立たない。

 日本では五月五日を練武の日として重視し、衛府の武官が騎射をする習わしであった。流鏑馬の源流である。滝口の武士はこれに参加せず、歩射の練武を行った。932年七月には相撲節会が行われた。

 976年には、武勇に堪ふる五位己下は弓矢で武装した武士とされた。治安維持のため、職務中の武官以外は兵(武器)を持つことは禁じられたが、その武官の中に武士も含められた。滝口武士は様々な武人輩出氏族から選ばれたが、次第に、源・平・藤原・紀・伴など、王臣子孫から登用されるようになっていった。

 鎌倉幕府が成立するとその御家人は鎌倉周辺で生活したので、滝口の仕事と両立はできない。よって、滝口は人材難に陥り、朝廷は幕府に滝口経験者の子孫を滝口へ出仕させるよう依頼するようになった。

 

 終章 武士はどこから生まれてきたか — 父としての京、母としての地方: 武士という集団は、天皇を直接警護する滝口武士とともに現われた。滝口は弓馬の達者を盛んに吸収し、その子孫の一部が鎌倉幕府の御家人となった。よって滝口武士は京都で生まれたが、その人材育成は朝廷の外で諸家の個人的な教育によってなされた。その諸家は王臣子孫と地方の富豪郡司が婚姻によって結合して創発したものであった。多くの牧がある東国(坂東=今の関東地方)は弓騎文化の世界であった。それをうんだのは、子孫を増やしすぎた皇室と、その王臣子孫の生き残りを賭けた地方への脱出、彼らを利用しようとした地方富裕者とのハイブリッドな結びつきであった。

 

 あとがき — その後、何が起こるのか: 多くの古代氏族が執念深く中世の武士として生き残りを図った。

 鎌倉幕府が誕生すると、武士的価値観と貴族的価値観が組織同士火花を散らすようになっていく。

 

 桃崎有一郎の本、またそのうち読んでみることにしよう。

 6/6追記: 桃崎有一郎、NHKの歴史探偵に出て、平安京のダークな面について話していた。九条ネギ、水菜、みんな右京で栽培されていた。弓騎の群盗による襲撃についても。賀茂神社には天皇の馬牧場があった。検非違使の実態について。平安京の治安はひじょうに悪かった。群盗≒郡司、臣籍降下した天皇の子孫と地方豪族→武士の誕生。この番組はほぼこの本と一緒であった。

 

 足利義満をもう少し具体的に知りたくて、今度は平岩弓枝の小説を読んでみた。やはり小説は研究書と違ってイメージをふくらませやすいし、作家は、南北朝のこと、足利一門の大名たちのこと、よく史実を調査して書いているが、創作部分があることを差し引かねばならない。それでも読む価値はあったし、小説としてスリリングで面白かった。足利義満の死は毒殺だったのか・・・さもありなん。

 

 青龍の章: 足利義満の幼少期。乳母となったのは、細川頼之の妻、玉子であった。義満は、正室からではなく、二代将軍義詮の侍女で、石清水八幡宮の検校の娘であった側室から生まれ、春王と呼ばれた。父親は、南北朝の対立、諸将の不和に煩わされ、育児を乳母に一任していたので、両親との縁は薄かった。

 仁木、細川、畠山、斯波、今川、いずれも足利一門なのに、諸大名の勢力争いは京童の目にも余るものがあった[応仁の乱の火種は足利幕府発足時からあったのだ]。南朝軍(細川清氏楠木正儀(まさのり)ら)が京に攻め込んできた時、春王は北野行綱に背負われ、商人の子に身をやつして乳母とともに播州白旗城、赤松則祐のもとに落ち延びた(1361年)[この頃から既に京都は焼け野原であった]。

 1362年、細川頼之らは、四国の讃岐にて同族の細川清氏を破った頃、斯波義将が執事に任命された。1363年、春王は京へ戻る。7歳になっていたが、乳母になついて離れなかった。斯波高経は管領となり、焼けた京の復興のため、大名たちに増税を課したため、武士の間に不満が昂じた。1365年、矢開きの儀で、春王は堂々とした態度を見せる。管領と佐々木道誉との確執。春王は9歳の時、義満という名を天子より賜る。翌正月(1367年)より、公家の儀式作法などを学ぶ。乳母の夫、細川頼之が上洛する。義満は乳母に暇をとらす。義満の父、二代将軍足利義詮は、大名たちの対立に苦慮して衰弱し、細川頼之を幕府の執事、義満の後見とし、他界。

 細川頼之、管領となる。その庇護下、義満は獅子の子を思わせる言動があり、貫禄十分、将軍の器だと思わせるものがあった。ある霧の夜に義満、猿楽師の鬼夜叉(小さい時の世阿弥)と出会い、その舞と歌を堪能する。

 義満の和歌と連歌の指南役として、今川了俊が伺候していた。二代将軍足利義詮の夫人、渋川幸子が義満の准母となっていた。

 足利幕府は初代尊氏の頃より、禅宗に帰依し、保護していた。禅僧は夢窓疎石亡き後、驕り、山門、比叡山延暦寺の反感を招き、両者の間には紛争もあった。

 

 朱雀の章: 京の東山、今熊野に猿楽が小屋掛けされ、観阿弥の演能「自然居士」が話題を呼んでいた。義満はそれを見ることになり、鬼夜叉に再会すると、御所に招くことを考え始める。一ヶ月後、将軍の奥御殿には藤若という猿楽師の少年が起居するようになる。鬼夜叉は二条良基から藤若の名を賜っていたのである。将軍は女に興味がなかったが、日野業子が御台所となることとなる。業子は帝と関係があったように思われた。藤若は二条良基に寵愛されているようであり、腹立たしかった。御台所の業子は娘を死産する。北小路室町の土地が幕府に下賜され、室町第が造営される。

 近衛家から同家の神木、糸桜が贈られ、室町第は「花の御所」と呼ばれるようになる。御台所の業子はひどく老け込んでいたが、義満にはほかに愛妾はいなかった。

 管領の細川頼之を斯波義将が諸大名とともに討つという噂が流れ、義満はこれらを陰謀として誅伐の教書を発する。だが、頼之は四国下向を願い、細川一族は三百騎を従えて京を後にした。この失脚には五山の春屋妙葩もからんでいたことが推察された。そして斯波義将が管領となり、頼之追討を企てる。

 義満は箏の名手、加賀局を御所に招き、昵懇となる。日野家はそれに苦情を述べる。半済(はんぜい)について: 公家へ納める年貢米の半分を兵糧米として武家(守護)へまわすことを室町幕府が認めた。守護地頭によっては荘園を私物化する者もいた。将軍と昵懇となった公家はこれを免れることができたので、将軍にすり寄った。

 義満は細川頼之を復帰させるべく、春屋妙葩を懐柔する。加賀局は、長男を産む。後の青蓮院尊満である。

 義満は後円融天皇と従兄弟であった。義満の母は順徳天皇の皇子を曾祖父とするので、五代目の子孫であったのだ。後円融天皇はそのことを気にかけ、恐れていた。室町御所の贅に天皇の御所は及ばなかったし、経費も乏しく、催事や神事の費用も幕府に依存していた。義満は二条良基の指南を受け、摂関家なみの扱いを受けていた。義満の存在は天皇にとっての脅威であり、義満と堂々と左大臣に進んだ。義満は、二条良基に反抗する人々を圧迫する。後円融天皇は院となるも、院と将軍の対立を知る公家たちは仙洞御所に近づかない。幼い息子の後小松天皇が即位。その生母、三条厳子は義満との密通を疑われて、上皇に峰打ちされて大怪我を負う。上皇はその二週間後に持仏堂に籠り、自殺を図る。上皇は義満が憎かった。

 義満は、安芸法眼の娘、藤原慶子を側室とした。細川頼之を京へ呼び戻そうとした義満に、富を増やすには明国との商いをすべしと頼之からの書が届く。

 

 白虎の章: 後小松天皇が元服する。摂関家の長老として将軍を公卿社会に参入させた二条良基は、息子の一条経嗣に、将軍についての後悔と恐れを打ち明けようと思う。自分が育てた大樹を伐るという考えが浮かぶ。弟の二条大納言師冬の息子を見た時、良基はその甥を手許に置くこととし、教育した。これが後の三宝院満済、義満の猶子となり、仏教界の第一人者となり、足利幕府の顧問(黒衣の宰相)となるのである。

 義満は二条良基の喪に服し、左大臣を辞任し、准三后の地位はそのままとした。富士山へ出かけ、関東公方、足利氏満に睨みをきかせると、厳島に詣でて、九州の島津を威圧すると細川頼之と乳母に再会した。西国を領す山名一族を叩く必要もあった。山名一族には内紛があった。義満は頼之に公武合体を語る。そのための財を明国との貿易で得ようと考えていた。

 1390年、細川頼之に山名攻めが命ぜられる。山名氏清は敗走し、一族は自滅した(明徳の乱)。南朝からの援軍も討たれ、窮乏した南朝は北朝との合体に靡くこととなる。その戦の翌年、義満は師父、細川頼之を失なう。義満は鹿苑院にて坐禅を欠かさず、両朝合一を心に誓い、三種の神器の帰座を画した。南朝の人々は大覚寺へ入った。翌年、後円融上皇が崩御された。細川頼基が管領を辞し、斯波義将がそれに据えられた。義満は伊勢に参宮し、北畠一族と対面する。その結果、後亀山天皇には太上天皇の尊号が宣下された。一言の相談もなしにそんなことをされた北朝はしかし黙認するしかなかった。代わりに、後亀山院から後小松天皇に御持仏である二間の本尊[清涼殿の二間という部屋に置かれていた観音像]が返された。

 義満の側室、春日局が男子(後の義嗣)を産んだ。だが将軍職は、義持に譲ると決めていた。義満は、便宜のため、出家を思い立つ。二条良基の甥、三宝院満済を一目見て義満は心惹かれ、猶子に望む[このあたりから小説にはミステリー感が!!]。

 室町御所と将軍職をわが子義持に譲った義満は1397年、北山において大工事に着工する。それは西園寺家の土地であり、藤原公経が山荘を営んでいた。そこに建てられるはずの北山第は内裏を思わせた。目にした満済は、二条良基の遺言を思う。黒漆の床をもつ黄金の舎利殿。義満が満済と語る形で、元寇、倭寇懐良親王[後醍醐天皇の皇子]が日本国王として明国に冊封されたことなどが語られる。

 日野業子の実家では、資康(裏松)は娘の康子を差し出すこととし、動く。

 1399年の正月、北山第で雪見の宴が開かれ、その晩、義満は満済の部屋に入ったが、満済は柱の影に隠れていた。

 四月、三宝院で観世の猿楽が催され、世阿弥は「松風」を、そして「泰山府君」を演じた。世阿弥と義満と満済のこと。絶海中津のこと。

 1401年、土御門内裏が炎上し、天皇は日野資教の屋敷に避難する。義満は北山第に天皇を迎え、そこを皇居とする。義満はまるで法皇であった。

 義満は商人を使者に立て、明国と交流をもつこととする。満済は将軍の気宇壮大さと豪放を思い知る。義満は明の国使を北山第に招き、明帝からの国書を頭上に高く奉じ、日本国王に冊封された。頭を低くして好みを通じた。あとは利用するだけであった。あの国では力のある者が帝位に就く、と義満は満済に語った。

 

 玄武の章: いつの頃からか皇室の「百王伝説」が広がっていた。紫宸殿は内裏にのみあるべきものであるが、北山第の寝殿はまさに紫宸殿のようなものであった。朝臣のすべてがここに出仕し、重要なことはすべてここで決定されていた。皇家の祈祷もここで行われていた。明との交易は幕府に莫大な利をもたらしていた。朝鮮からの使者も訪れた。

 1405年、正室の日野業子が病没し、その妹の康子が正室としてふるまっている。弟が出家するにあたり、義満に預けた妻の誠子が懐妊する。多くできた子供は、義持を除いて、僧籍に入れた。高橋殿という側室は遊芸に優れていたが、子を産まなかった。春日局からもうけた息子、

 1406年、兵庫へ入る明船を見物しに行ったとき、側室の新中納言藤原(かず)量子が急死した[作家は後に、同行した崇賢門院(後円融天皇の生母で、義満に怨恨をもっていた)による毒殺だとしている]。

 天皇は寂しい日々を送っていた一方、義満の北山第は使節を迎え、賑やかな催しが行われていた。数百人の使節は五山の寺に宿泊し、半年ほども滞在した。

 通陽門院(三条厳子; 後小松天皇の生母)の寿命が尽きると、天皇は諒闇に入り、不吉とのことで、准母を立てよと義満が命じ、日野康子がそれになると、義満は准父となり、両名の子は主上の兄弟姉妹となってしまうことになった!! 義満五十歳。

 金閣の一階は法水院、二階は潮音洞、三階は究竟頂。義満は康子のところに猶子とした少年「若公」を住まわせていた。義満はその少年と一つの牛車で参内した。少年は義嗣と名乗ることとなる。北山第に天皇が行幸する。義満の座にも、天皇と同じ繧繝縁の畳が敷かれていた。元服前の若公が天杯を受け、笏を持って舞踏した。すべては型破りである。義満が皇家を狙っていることは明らかであった。それに気付いているのが何人いたかわからなかった。義嗣は内裏で元服の儀を行なう。それは武家の子息にはあり得ないことで、立太子の礼に準ずるものであった。満済は、二条良基より授かっていた短刀を取り出す[ここから先は平岩弓枝の筆捌きがみごと]。

 満済は崇賢門院から義満の体調が優れないと聞く。崇賢門院は命を賭けて孫を守る、もはや猶予はならない、秘薬を以て事をなす、その秘薬は既に兵庫で試してある、と言う。門院は、病に伏せる義満を見舞い、茶を立てる。その四日後、義満は危篤となり、すべて(門院の仕業)を悟ったようであった。

 義満の没後、将軍義持は、尊氏の頃のように幕府を戻し、武家が公家に同化することを止めた。天皇と将軍の座を二つながらわが子にという夢は絶たれた。

 

 金閣寺を年に幾度も訪れる。それで足利幕府がずっと気になっていた。足利尊氏のことも、足利義満のことも知りたいと思い、これを読んでみた。「将軍」というものが源頼朝以来、いかなるものであったのかわかることができた。

 

 プロローグ — 規格外の男・足利義満: 金閣寺(金箔貼りの舎利殿)を(2018年に)訪れた外国人観光客は216万人いたとある。その舎利殿を著者はキメイラだという。神殿造り、書院造り、禅宗様の混合体だから。そして、異様で主張が強いのは、造らせた足利義満の考え方が異様で主張が強い規格外の人物であったから。

 足利義満は南北朝合一のため、朝廷の支配者となり、天皇や廷臣を翻弄した。北山文化は特異で空前絶後、独創的で、義満の個性だけに依存しており、能と狂言を大成させた世阿弥と深い関係があり、日明貿易を可能にするためのトリックに不可欠な空間であった。

 本書は「室町殿」、つまり義満がつくりあげた地位の全盛期の物語であり、義満はその後に「北山殿」という意味不明な地位をつくった。後継者はそれをどうしたか?

 義満は大名の掌握に苦労した。その原因をつくったのは、足利尊氏の弟、直義であった。

 

 第1章 室町幕府を創った男の誤算 — 足利直義と観応の擾乱: 後醍醐天皇がようやく鎌倉幕府を倒して成立させた建武政権は、鎌倉幕府の六波羅探題を滅ぼして京都を制圧した足利尊氏の前に挫折した。足利尊氏が幕府を倒すのになぜ幕府軍を使えたのはなぜか? 鎌倉幕府には人材が枯渇していた。下野を本拠とする足利氏は、北条氏と婚姻関係を重ね、勢力を拡大しており、後醍醐天皇の挙兵に対する討伐軍の総大将とされた。二年後の討伐軍も然り。尊氏に従っていた御家人(将軍の家人、従者)たちにとって、倒すのは北条であって幕府ではなかった。幕府の主導権を足利に引き渡す戦争だったのだ。さらに、尊氏は四歳の息子、義詮を盟主として、新田義貞に鎌倉で反乱を起こさせて滅ぼした。

 北条の血筋は卑しすぎたが、足利の血統は清和源氏の流れをくむ。後醍醐は、尊氏を将軍にしないために、護良親王を将軍に任じた。だが後醍醐は武士の世論を敵に回すことで立ち行かなくなる。

 足利尊氏の弟、相模守に任じられた直義(ただよし)は足利氏による幕府創立に邁進し、鎌倉入りして元旦に垸飯を行ない、鎌倉に幕府を再生させた。後醍醐は足利兄弟を朝敵とみなす。尊氏は進退に窮すも、味方の武士は彼を将軍と呼び、自分たちを御家人と称した。足利軍は、後醍醐によって引退させられた光厳上皇から足利を官軍とする院宣をとると、楠木正成らを討って、京都を奪回する。後醍醐は三種の神器を手放し、光厳上皇の弟が光明天皇として即位し、執権として兄の尊氏を立てる直義主導の幕府に従順な北朝が始動した。

 後醍醐は吉野に逃れ、南北朝時代(1337–1392年)が始まる。1338年、足利尊氏は北朝より征夷大将軍に任命された。足利家執事の高師直と直義の間に亀裂が生じる。高師直は足利邸を「御所巻」にし、その結果、直義は出家して政務から退いた。だが翌年、直義は決起し、南朝に投降してその官軍となる(観応の擾乱)。尊氏とその息子義詮は直義と対決し、直義優位で講和するも、京都で襲撃されるのを恐れた直義が鎌倉へ逃げる。そこでは、足利基氏が鎌倉公方となっていた。

 尊氏は弟の直義を討つべく鎌倉に向かう前に、何と!! 南朝に投降し、直義を殺したが、その留守に南朝は京都を奪回し、三種の神器を奪う。

 尊氏は常に受動的で主体性に乏しく、成り行き任せであった。幕府を構築したのは直義であった。尊氏は直義派の大名を統制することができなかった。

 尊氏の没(1358年)後、将軍となった義詮は、大名たちの要求に譲歩し、1362年、斯波高経管領とし、幕府の執政を委任した。斯波高経は息子の斯波義将(よしゆき)を執事とし、それを後見する(管領と執事の違いは、執事が制度的地位なのに、管領は制度外の行政長官という点)。直義派の筆頭格であった斯波高経が、直義の再来となったということ、直義派の勝利ということであり、防長の大内氏、越後・上野の上杉氏、山陰の山名氏など、大名の幕府帰順を促した。上杉憲顕は関東管領と称した。

 それでも佐々木道誉、細川頼之らは斯波高経と敵対し、義詮は手を拱いたまま、細川を管領[執事]として十歳の息子、義満の後見を託して他界した。高経の没後、その息子たちは幕府に帰順した。だが、直義派であった関東の鎌倉公方を世襲する足利基氏の子孫、関東管領を世襲する上杉氏がおり、基氏の子孫は幕府に反抗心を抱き続けた。

 

 第2章 足利義満の右大将拝賀: 足利義満が将軍位を継承した時(1369年)、南北朝の分裂は終わらず、大名たちを統率することはできなかった。22歳の時、大名らに細川頼之罷免を迫られ、折れたものの、義満は君主気質をあらわにしつつあった。

 南北朝の和解が失敗するのは身分制の桎梏によるもの、幕府と朝廷の対立だからであることに義満は気付く。それを朝廷と朝廷の講和とするしか方法はない、と。そこで、北朝と幕府を融合しようと考える。義満が将軍であるまま、朝廷の一員となり、北朝を代表するしかない。南朝に味方する大名の中で最有力なのは、山陰・山陽・畿内、南海を擁す山名であった。義満は先ず、北朝の掌握に取り掛かる。

 廷臣の頂点は左大臣である。そのようにして朝廷の政務を掌握し、その事実を天下万民に示すべく、拝賀という任官のお礼参りをすることにした。義満はそれを鎌倉幕府将軍のものと同等以上にすることとし、右大将となった時の頼朝のそれを手本とする。拝賀の作法は、前摂政の二条良基に指導を受けつつ、先例を逸脱し、二条良基は「扶持大樹之人」としてそれに協力し、義満の筆頭ブレインとなる。

 その計画はしかし、南朝の挙兵によって延期を余儀なくされた。細川頼之は出家して四国へ落ち延び、斯波義持が執事(管領)にのし上がった。一方、拝賀の準備は進む。

 

 第3章 室町第(花御所)と右大将拝賀: 義満の邸宅は今の御所の北西[同志社大学の敷地内]にあり、花御所、花亭、室町殿、室町第、北小路亭などと呼ばれた。花亭という言葉は中国文学において花の鑑賞のための庭園をもつ邸宅で、儒学的文人たちが漢詩を詠む場を指した。西園寺公経はこの世界観を気に入り、その子実氏の弟、実藤の五代後の室町季顕が足利義詮に「花帝」を売却したのであった[ちなみに、金閣のある鹿苑寺は西園寺公経の別荘であった]。義詮没後、それは崇光上皇の住まいとなり、花御所と呼ばれるようになり、上皇没後、焼失したものを義満が入手した。

 こうして幕府の本拠地は京都に定まった。南朝は吉野から虎視眈々と京都を狙い続けていたのだから、幕府は京都を動くわけにはいかなかった。

 義満は後に北山に住み、室町第は「京御所」とされたため、京都は一条より北に拡大した。その室町第が完成するはずであった晩秋、紀伊で南朝の反乱があり、義満は出陣を余儀なくされる。拝賀は翌1380年に延期された。そして七月、公家社会全体が義満に屈従する前代未聞の拝賀が挙行される。

 

 第4章 〈力は正義〉の廷臣支配: 義満は内大臣となり、頻繁に朝廷行事に参加し、遅刻や欠勤を諫め、たるんでいた気風を正した。大饗にて、廷臣の多くは義満の一挙手一投足に恟々とした。

 

 第5章 皇位を決める義満と壊れる後円融天皇: 義満はもはや廷臣全員の支配者であった。京都の土地配分権は天皇にあったが、義満は武家執奏を発動して、後円融天皇を驚愕させ、手玉にとる。後円融天皇の方は、南朝との皇位継承争いに、義満を利用しようと考え、義満は後円融に絶対的支持を請け合う。朝廷は、譲位式典や大嘗祭の費用三千貫文[およそ三億円で、現代の譲位費用の1/10くらい]も調達できず、すべては幕府頼みであった。なお、義満が建てた相国寺の相国とは、国を一手に統括する最高権力者という意味である。譲位して上皇となった後円融は義満の力に押しつぶされそうになり、様々な事件を起こしたり、自殺しようとしたりしたが、ついには屈服した。

 

 第6章 「室町殿」称号の独占と定義: 日本には、建物の名前を人の敬称にするという文化がある。公とは大きな家のこと。公家は天皇自身および朝廷を指したが、鎌倉時代から廷臣をも含めるようになった。戦国時代には、天皇を禁裏様と呼ぶようになり、さらに御内裏様となってった。天皇の家族、神のお住まいを宮、天皇の御隠居所を院、殿、坊、斎(軒の中の小さい部屋)、局、御台所、すべて場所である。

 また婉曲表現で敬意を表す文化もある。御門(ミカド)とは、天皇の住まいの門である。殿様、殿方と重ねる場合もある。ゆえに、鎌倉殿、室町殿、なのである。義満は室町殿の呼称を独占するため、室町を称していた人々に書面を以て名前を変えさせた。唯一神道の吉田家もその一つであった。

 天皇や上皇を「治天」としていたが、室町殿は自分を「公方」と呼ばせることにした。鎌倉時代に禅僧が朱子学とともに持ちこんだ「公界」という言葉がそのもとであり、しかるべき公権力を意味する婉曲な言い方で、特定の個人をさす。江戸時代にも将軍のみが公方様と呼ばれることになる。

 

 第7章 「北山殿」というゴール: 義満は北朝の代表的主導者となると、大名の庶子を集めて直臣団=親衛隊、つまり将軍直轄のエリート軍団「馬廻衆」を編成した。直臣には直轄領(御料所)の代官を任せもした。そして、大名たちの力を削ぐことを考えた。先ずは土岐氏、山名氏を。

 足利氏は北野天満宮(天神)を信仰していた。義満が四歳の時、南朝に襲われ、播磨まで保護して逃げ延びたのは北野義綱という武士で、その命の恩人を忘れず、北野天神のご加護とし、崇拝した。内野合戦の後、義満は南北朝の合一を成し遂げる(1392年)。

 義満はそれを天下に示すモニュメントとして、相国寺に七重の塔(高さ109m)を建てた(1399年竣工)。それは10年後に落雷で二度も全焼した。大仏をつくった可能性もある。1394年、義満は将軍職を義持に譲って太政大臣となり、翌年、拝賀を挙行した。その拝賀も型破りで、正門から入り、公式なものと位置付けようとし、牛車宣旨を行使し、超越的な地位であることを表明した。

 義満は、院と同等の何かとなり、臣下の中の超越的な地位をつくりだした。室町殿は、"武士の長と廷臣の長を従える何者か"となった。それを可視化するべく、北山殿を造営し(1397年着工)、近くに大名や側近を住まわせて勤務させ、政庁とした。義満の崇拝する北山天満宮も隣接していた。義満はその北山に「北山惣社」という神社をも創設した。すべての神社を一ヶ所に祀るという合理的な独創である。

 大内義弘の反乱: 大内義弘は足利将軍家に協力して勢力を伸ばし、周防。長門の覇者となるも、北山造営の負担を強いられ、在京を強いられ、追い詰められると、1399年、鎌倉公方の足利満兼と組み、応永の乱を起こして抵抗する。強談判(御所巻)が高じて破滅的戦争となり、籠城した堺にて幕府軍に攻められて戦死した。

 北山殿は京ではなかった: 証拠の一つに、室町第に住む四代将軍義持は「京御所」と呼ばれた。義満は、朝廷と幕府を京の外から支配したのである。

 

 第8章 虚構世界「北山」と狂言: 義満の晩年10年間、北山は日本の政治の中心であったのみならず、大規模な私的祈祷を行なう宗教空間でもあった。また、明との実利的な冊封貿易を行なうにあたり、義満は「源道義」というハンドルネームで「日本国王」に冊封された[天皇は中国の皇帝と対等であるが、国王は中国の皇帝よりも下位であった]。つまり、中国に冊封されることは恥であったので、その国交儀礼は閉鎖的に隠されて行われた。北山殿は、実利をとるための"虚構の世界"であったのだ。外国の使者は京には入れなかったし、天皇に会うこともできなかったのである。

 義満は天竺(インド)人を北山第に住まわせたりもした。スマトラ島の帝王の使者も訪れ、象や鸚鵡などの贈り物を献上した。義満は唐物を収集し、日明貿易はインドネシアまで広がっていたようであった。

 "愉しむ"は義満を理解するキーワード。狂言(冗談、言葉遊び)を愛好し、叱責にすら狂言を用いていた。狂言で人を玩び、言葉遊びでネーミングを行なった。

 義満は猿楽を愛好し、世阿弥が大成した虚構劇、夢幻能のパトロンであった。観阿弥世阿弥親子の名が、浄土宗の時宗の法名、観世音菩薩に由来すると知った義満がぜあみと呼ばせることにした。ゆえに、この能・狂言は北山文化と呼ばれる。

 金閣もまた然り。神殿造、書院造、禅宗様をミックスした様式は独創的で現実離れしている。

 

 第9章 「太上天皇」義満と義嗣「親王」: 義満の姻戚関係について。家運の傾いていた日野家の日野宣子(のぶこ)は、北朝の後光厳天皇の筆頭女官となり、日野家の立て直しのため、将軍家の取り込みを画策し。姪の業子を義満の正室とすることに成功した。その閨閥戦略により、日野一族は権勢をふるうようになる。日野重光は義満の右腕となり、「裏松」と呼ばれるようになる。業子が没すると、重光の姉、康子が義満の正室となった。後光厳天皇の女官であった日野宣子は、その子、後円融に生まれた幹仁(もとひと)に皇位を継承させるべく、崇光院の皇子、栄仁(ながひと)親王に出家を強要し、崇光系の息の根を止めると、幼い幹仁親王を後小松天皇として即位させた。このような皇位継承問題に、義満は表立って介入することを嫌った。

 義満はその子孫繁栄を約束する神として、北野社を崇めた。それは息子、義嗣(よしつぐ、義持の弟)を「親王」化することであった。容姿端麗で才気ある子に育った義嗣を義満は門跡から取り返し、後小松天皇の内裏に参上させ、その猶子とし、親王宣下を行なうという予定があったという記録が近年発見された。だがその計画のわずか11日後、義満は51歳で急死してしまい、計画は闇に消えた。

 その2年前、1406年に後小松天皇の生母、三条厳子(げんし)が没し、天皇の父母が没するのは諒闇だとして、廷臣たちの忖度により、義満の正室、康子を准母に立てることとなった。そうなると、義満を「天皇の父」たる太上天皇、つまり上皇とする計画があったことが近年発見されている。その時、忖度は行われなかった。昔も今も天皇とは血統であることを廷臣たちが承知していたからである。それでもあきらめずに、義嗣を親王とし、親王将軍を誕生させようとしたのであった。

 ともあれ、他界した義満に、朝廷は太上天皇の称号を追贈することにした。だが幕府の重鎮はそれを辞退し、将軍義持(室町殿)を盛り立てる道を選んだ。

 北山殿では金閣などが残されたがほとんどの建物が解体され、義持は京に戻る。宙に浮いた義嗣を丁重に処遇し、権大納言にまで昇進させたが、1416年、義嗣は近臣を伴って出奔し、出家したが、反乱を疑われて捕えられ、殺された。だがその反乱を追求することは幕府の崩壊を招くため、不可能であった。

 

 第10章 義持の「室町殿」再構成: 義持の政権は、弟の義教が凶暴化するまでの20年あまり安泰であった。義満の死後、義持は室町第(てい)に戻らず、三条坊門殿を拠点とし、朝廷から距離を置いた。だが「室町殿」と呼ばれた。義持は派手な演出や贅沢にはこだわらず、朝廷は治天のもの、将軍は天皇の臣下だという考えを示し、朝廷が内大臣への昇進を打診しても固辞するなど、倹約好みと言われるような人格であった。朝廷儀礼でも、摂関に準ずる立場で振る舞ったが、頑なではなく、公卿の拝賀を受けたりもした。廷臣や高僧が参賀により室町殿に祝意を示すという独創的な儀礼を創り出してもいる。院の近臣が義持に対して蹲踞するのをやめさせ、廷臣は天皇・院の臣であることを明確にさせた。

 1423年、義持は長男の義量(よしかず)に将軍職を譲り、出家したが、全権を一切手放さず、将軍家の家父長「室町殿」であり続けた。

 広橋兼宣による裏築地[貴人の邸宅の門を見えなくし、通行人による礼節の所作を不要とする目隠し用の築地]事件。後小松天皇は、裏築地を造れるのは、天皇・院・室町殿のみと宣言した。

 治天の取次役、伝奏という事務官がいるが、義満時代にそれは室町殿側のスタッフとなっていた。だが、後小松が院政を敷きようになり、義持は伝奏を治天の秘書官に戻そうとした。広橋兼宣はそのような地位にいて、権勢をふるっていたのである。

 また、義持は後小松院が妄りに院宣を出すことを容認せず、自分がチェックするというルールをつくった!! それは天皇の裁量権を否定し、最高決定権を握ったことを意味した。室町殿は治天の後見だということであった。

 

 第11章 凶暴化する絶対正義・義教: 筆者は、義持の室町殿は、最も良心的で最良の権力者の形であったとしている。だが、後継者の男子を欠いていた。息子の足利義量の他界後、後継者(六代目将軍)を諸大名の合議制で決めさせることにすると、義持の弟四人の名前を書いた籤を石清水八幡宮の神前で引き、義教が選ばれた(くじ引き将軍)。義教は義持の権力のコピーとして発足した。

 後小松院の子、称光天皇(奇行が多かった)が世継ぎ男子を欠いたまま他界すると、彦仁王[崇光の曾孫]が後花園天皇として即位し。義教に輔佐された。

 義教は室町第に戻る。行ないは義満を模倣した。二条良基の孫、持元が儀礼の作法指南にあたり、室町殿の権威を高めるべく努めた。鷹司家と二条家は、足利家に追従して室町時代の摂関をほぼ独占して栄えることになる。

 義教はしかし1433年頃から凶暴化し始める。山門(比叡山延暦寺)の強訴にあうと、義教は山門領を、六角、京極に命じて押領させ、比叡山を兵糧攻めにした。義教のやり方は「万人恐怖」だと人々に思い知らせた。

 日野(裏松)家に対しても甘い顔をしなかった。義教によって処罰された廷臣その他のリストには79人の名前が連ねられている。恐るべし!!

 

 第12章 育成する義教と学ぶ後花園天皇: 義教は一方で、後花園天皇を守り育てることには尽力した。義教は義満を手本とし、二条持基とともに天皇の後見を自任し、帝王教育に心を注いだ。後花園天皇は儒学を熱心に学び、徳を磨いた。義教は彼の人格を尊重し、圧迫したりしなかった。後小松院が他界すると若き天皇の親政が始まる。

 足利直義の頃まで、武士の任官は成功(じょうごう)という売位売官制度で行われていたが、その後は、戦功の褒賞として将軍が朝廷に推挙する形となっていった。戦費で成功する金の余裕がなくなったからでもあった。

 義満により、地方官(国司など)を毎年任命する県召除目(あがためしじもく)が復活していた。それにより知行国主となれば、徴税権を世襲できることになるのだが、この制度は、院や廷臣の貴重な収入源となっていた。1433年、後花園天皇の親政開始とともに京官除目も復活した。

 後花園天皇の教養は本格的であり、儒学者によっても絶賛された。武士の歴史も熱心に学んだ。わが国のあらゆる書籍を筆者して天皇の文庫に収蔵しようという試みも行なった。それはしかし、1441年に義教が暗殺された(嘉吉の乱)ことで中断した。

 義教は、後花園天皇に政務を返上しようとしていた。

 [かつて義満は、大名連合の圧力に屈して、管領であった細川頼之を心ならずも京から追放せねばならなかったが、復権させようと考え、安芸の厳島への参詣を口実に四国に立ち寄った。厳島では大内義弘とも会い、京に伴い、幕閣とした。]

 義教が1432年、富士遊覧として駿河に下ったのは、鎌倉公方持氏を牽制するためであったろうと筆者は述べている。地方の反乱の鎮静化に対応すべく、将軍が京都を離れる可能性があったので、義教は後花園天皇に政務を返上しようとしていたのだ、と。そして永享の乱が起きる(1438年)。

 とはいえ、朝廷の権威は、幕府(室町殿)の権威に依存していた。両者は堅固な協力関係にあった。

 嘉吉の乱: 義教を暗殺した赤松満祐は討伐されるしかなかったが、室町殿の絶対性を崩壊させた事件でもあった。後継者の義勝は幼少であり、幕府は管領の細川持之以下、大名の連合政権となり、後花園天皇がリーダーシップをとるしかなかった。

 大名の野心と反骨心が息を吹き返す。絶対性を失った室町殿と諸大名の先に応仁の乱が待っている。

 

 [なるほど。室町幕府、足利将軍、金閣寺、いろいろと見えてきた。読んでよかった。室町幕府ははなからひじょうに不安定な存在だったのだ。]

 

 

 表参道と明治通りが交わる神宮前の交差点は仕事でよく通る。ランダムミラーで囲われたエントランスと、屋上庭園をもつ東急プラザは「オモカド」と呼ばれることになり、その対角上に建設中のランダムミラー外壁のビルは「ハラカド」ということになったようだ。まぎらわしいネーミングね。

 ともあれ、ハラカドは4月半ばにようやくオープンし、先日、ちらりと見てきた。屋上テラスはたしかに気持ちがよい。上にはたくさんレストランやカフェがあり、無料で休めるベンチや椅子もたくさんある。地下にある銭湯、普通の値段だから、地元の人にはよさそう。

 

 

 ▼地下には銭湯♨️ 小杉湯がオープンする

 

 先日読んだ本の中で、この本のことが言及されていた。徳川家康が江戸に転封されたが、土地改良を重ねて今のようなすばらしい土地にしたという話に際して、であったと思う。それで、仕事のあいまにぼちぼち読んでみた。とても薄くて読みやすい本である。著者の渡辺和子氏はカトリック系学校の教育者であり、書いた時はとても高齢であった。教会で司祭の講話を聴くような気持ちで読んだ。この人はおそらく神によってこの世に遣わされたのだろう。時に説教くさく思えて、そんなこと言われなくともいう気がしたりしたが、心に残ったこともあるので、一部メモる。2016年に亡くなられていた。ご冥福を祈る。お願い

 

 第1章 自分自身に語りかける

  人はどんな場所でも幸せを見つけることができる: くれない族であった著者はある宣教師に「置かれたところで咲きなさい」という英語の詩の言葉「Bloom where God has planted you(神が植えたところで咲きなさい)」を与えられた。[私は必ずしも肯定できないが、就職してすぐ辞めたくなった私に、父は「石の上にも三年」と言っていた。まあ、しばらく頑張ってみたらよいことはいっぱいあったと思える。]

  一生懸命はよいことだが、休息も必要: 『大言海』という国語辞典[三浦しをんの「大渡海」を思い出した]によれば、暇は「日間」が語源だという。忙しさは、文字通り「心を亡す」。自分も人もいたわるために暇は必要。

  人は一人だけでは生きてゆけない:

  つらい日々も、笑える日につながっている

  神は力に余る試練を与えない

  不平をいう前に自分から動く

  清く、優しく生きるには

  自分の良心の声に耳を傾ける

  ほほえみを絶やさないために

 

 第2章 明日に向かって生きる

  人に恥じない生き方は心を輝かせる:

  親の価値観が子供の価値観をつくる

  母の背中を手本に生きる:

  一人格として生きるために:

  「いい出会い」を育てていこう:

  ほほえみが相手の心を癒す:

  心に風を通してよどんだ空気を入れ替える:

  心に届く愛の言葉:

  順風満帆な人生などない: 思わぬ不幸な出来事や失敗から、本当に大切なことに気づくことがある。

  生き急ぐよりも心にゆとりを

  内部に潜む可能性を信じる:

  理想の自分に近づくために:

  つらい夜でも朝は必ず来る:

  愛する人のためにいのちの意味を見つける:

  神は信じる者を拒まない:

 

 第3章 美しく老いる

  いぶし銀の輝きを得る: 著者がこの本を書いたのは85歳のときとわかった。

  歳を重ねてこそ学べること: 世の中は自分の思い通りにはならない。

  これまでの恵みに感謝する:

  ふがいない自分と仲良く生きていく: 膠原病治療の副作用による骨粗鬆症で胸椎の骨が失われ、14cmも身長が縮むだなんて、何か予防はできなかったのだろうか?

  一筋の光を探しながら歩む

  老いをチャンスにする

  道は必ず開ける

  老いは神さまからの贈り物: 「老い」を意識する時、人はより柔和で謙虚になることができる。

  

 第4章 愛するということ

  あなたは大切な人: 相田みつをの「土の中の水道管 高いビルの下の下水 大事なものは表に出ない」という詩はむべなるかな。

  九年間に一生分の愛を注いでくれた父: 著者の父親は陸軍中将であったが、1936年2月26日、ニ・二六事件の犠牲者であったニ・二六事件について]。

  私を支える母の教え:

  2%の余地: 人間は不完全なもの。

  愛は近きより: 2001年の新大久保駅ホーム転落事故について。泥酔して転落した人を救おうとして落命した二人(うち一人は韓国人留学生)をある英字新聞は善きサマリア人に準えた。誰であるにせよ、困っている人の隣人になりなさい。

  祈りの言葉を花束にして

  愛情は言葉となってほとばしる: 短い言葉でも、人を殺すこともできれば生かすこともできる。

  「小さな死」を神に捧げる: ていねいに生きる、とは「ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい」をヒントにすること。聖フランシスコの「平和の祈り」[プーチンやネタニヤフがこれに耳を傾けてくれたらどんなに多くの人が救われることか!! でもこの祈祷文は聖フランシスコによるものでないことは確実とのこと]。