3月21日夜、森英恵先生の生誕100年ドラマが放送された。パリやニューヨークなどの海外ロケもなく、低予算という印象であり、ニューヨークのショーで終わるという若き日の先生を扱ったものであった。私が就職した時にはパリにオートクチュールのアトリエを開いたばかりであったから、もう白髪でおなかの出ていた高齢の会長が若くて違和感があったが、社交ダンスがうまいらしく、時々ダンスシューズを会社に履いてきていたことを思い出した。そのうちNHKの朝ドラになるのだろうが、その際は過去のショーなどの実際の映像をふんだんに織り込んでもらいたい。モデルの松本弘子さんは別の名前になっていた。2人の息子、顕さんと恵さんの子役はなんとなく吊り目で面影があった。

 新宿のひよしやの場所は、確かに武蔵野館の前にあり、後でパリのイリエさん(グループ会社の 若者向けカジュアルブランド STUDIO Vと契約した) のアトリエになったから懐かしかった。もう5階建てになっていたなあ。次男の恵さんと、竹芝の鈴江組倉庫内のロフトに移るまで、新宿東口界隈は我々の巣で、毎日のランチ場所探しが楽しかった。ヴェルテルはもうなかったけれど、物件はまだ所有していて、事務所にしていたのではないかしら。

 

 

以下は過去記事▼

 

 

 

 

 ガブリエル・ガルシア=マルケスにより1967年、スペインで発刊されたこの本は、1982年にノーベル賞を受けた。20世紀の百冊に選ばれているらしい。読んでみた。

 読み始めてとても気になったのは舞台となっている「マコンド」という土地である。検索したら、架空の地だが、コロンビア北部のある町がモデルのようであった。

 話はものすごくへんだ。読んでいると気が狂いそうになる。時系列も時々前後するし、登場人物の名前も覚えにくが、慣れたら問題ない。

 

 村を出て新天地を探す冒険者たち。野原に横たわるスペインの巨大な帆船の遺骸[シュールな近代絵画のよう]。貞操帯をはいている妻。予言能力のある少年。群をなすジプシーのサーカス団の娘に惚れて出奔した息子(あとで全身に刺青だらけの大男となった帰還する)。伝染性の不眠症は記憶を失わせ、痴呆状態に至らせる病でもあった。触ったものがすべて壊れてしまう少年。土と石灰をむさぼり喰らう女。錬金術をするジプシー。闘鶏。二百歳の歌手。いえを青く塗ったり白く塗ったり。美貌のイタリア人技師がつくった自動ピアノでダンスパーティ。不死身のはずのジプシーの死体がぶくぶくとスープのように腐敗していき、臭気がひどくなる。飴細工で儲ける主婦。栗の木に縛り付けられて暮らす家長。不信仰の町に教会を建てようとする神父。占いをする働き者で長寿の娼婦。あらゆる男を魅了し尽くし、裸で暮らし、シーツとともに昇天していく絶世の美少女。女王となるべき少女の嫁入り。金のおまる。殺されてもなかなか死なない将軍と、娼婦たちが産んだ十七人の息子たち。彼らは額に灰で十字架を印されて殺戮される。二百両の列車。海に投棄される三千人の死骸。退役して金細工の魚をつくる将軍はしばしば中庭で用を足す。双子の兄弟の一方は部屋にこもって百科事典などの読書にふけり、しばしば錬金術師であったジプシーの幽霊と語らい、もう一人の方は、愛人宅で暮らしつつ、毎晩のようにシャンパンをふんだんにふるまいお食べ地獄パーティを開いて、自分は靴の紐も結べないほど肥満する。うち続く嵐、雨、水浸しで壊れたバナナ工場。黴が生え、蟻が蝕み、蠍がうごめき、マムシが這う屋敷。なんでもわかっているので、その知識を確認するために読書に耽る男。パリに留学した娘の帰還。飛行場をつくろうと、自転車を乗り回す夫。占い師の老婆が営むさまざまな動物のいる動物園のような娼家。愛欲に溺れて人間性を失った叔母と甥。近親相姦で生まれた子供には豚の尻尾がはえている! 

 怪物や精霊のような生きている人間が走馬灯のように入れからり立ち替わり現われ、とっくに死んでいるはずの人間がその人たちのはざまに時々見え隠れする。日本人にとっては馴染みがあるようなないような、悪夢のような話なのである。主文を支離滅裂に形容する言葉の羅列に、読んでいて不思議な酩酊感を覚えた。この小説を訳した鼓直(つづみただし)教授を尊敬せずにはいられない。

 百年の孤独とは、百年続いたブエンディア家の人々それぞれの苦悩と孤独の物語という意味である。文中にある言葉「文学は人をからかうために作られた最良のおもちゃ[娯楽という意味であろう]である」。これは言いえて妙!!  すばらしい娯楽だからこそベストセラー[4ヵ月で36万部]であり、ノーベル賞もの(1982年受賞)なのだろう。読了したあとで、通勤電車の中などではなく、もう一度じっくり家の中で読みたくなってしまった。

 

あらすじなどはこちらに▼

 

 

 

なんと多くの方たちがブログに書いていることか!!

 

 

 

 昨晩、イタリア文化会館でダーチャ・マライーニのドキュメンタリー映画「わたしの人生ダーチャと日本」の上映会があった。女性運動家でもあったこの作家を、国際女性デーの記念としたものである。

 日本文化に精通し、日本語に堪能なイタリア文化会館の館長シルヴァーナ・デマイオさんが最初に挨拶し、ダーチャと映画監督について紹介した。

 映画の前半は、先日私が読んだ書籍とほぼ同じ内容の紹介であったが、後半は彼女がイタリアに戻ってから、作家として活動していた時期、モラヴィアやパゾリーニとの冒険旅行などがふんだんに紹介されていた。父のフォスコ・マライーニやダーチャ本人が撮ったモノクロ写真もとても味があった。またシチリアに行きたくなってしまった。もう一度、「シチリアの雅歌」(原題: La lunga vita di Marianna Ucrìa )を読み返したくなった。

 また、日本で過ごした彼女が、死者を恐れないという日本的な死生観を持っていることは貴重だとも思えた。

 

 

 昭和天皇の人間宣言に対する三島由紀夫の思いが知りたくて読んでみた。この新潮社の文庫本には、ほかにも初期の三島短編が収められている。簡単にメモろうとしたら、というよりいろいろな人がブログに書いているを知った。メモる手間が省けた。少年の頃から三島にはサイコパスなところがあったのだ。天才と狂人は紙一重。

 

 酸模(すかんぼう) ー秋彦の幼き思い出: 三島が平岡公威であった13歳の時の作品。刑務所を脱獄した人と少年の話。

 

 家族合せ: 23歳の時の作品。

 

 日食: 25歳。

 

 手長姫: 26歳。万引き癖があった女が精神病院に入れられている話。

 

 携帯用: 26歳。

 

 S・O・S: 29歳。くだらないブルジョワたちがしたいたずら。フェリーニの映画を思つた。缶を拾った子供たちは間に受ける。

 

 魔法瓶: 魔法瓶の音を怖がるのって遺伝性かしら? モラヴィア的短編。

 

 切符: 38歳。ミシマ・ホラー。これを論文にしている人がいるとは・・・。

 

 英霊の声: Wikipediaにもなっている。降霊術で二二六事件で処刑された将校たちと特攻隊の兵士が呪詛の声をあげ、クライマックスで盲目の霊媒師の少年がこときれる。ほかのブログ

 

 

 この2月26日出発、3月1日帰国で、台湾に小旅行をしてきた。これで3回目である(1回目は2016年の初夏、2回目は2025年の2月末)。いつもフライトはANAを直接予約する。東京から台北までは片道3時間くらいなので国内旅行みたいなものだ。それと、セブンイレブンとファミリーマート、ドンキホーテなどの日本でお馴染みのショップがあちこちにある。治安も良いし、人々は感じが良い。ホテルは去年の暮れにExpediaで予約しておいた。今回は、九份に行くこと、台中に1泊すること、が目的である。

 

 1. 初日は5時半起きして新宿バスタから7時のリムジンで羽田へ。パワーラウンジで軽い朝食。NH851は8:50発の予定が、離陸したのは9:20。時差は1時間遅いので、到着は昼前。3時間のフライトなのに機内食が出て、映画も一本見られた。ちよっと気になっていた「遠い山なみの光」というカズオ・イシグロの小説が原作の映画を見た。主人公は広瀬すずと吉田羊。原作を読んだときにもやもやしていたことがすごくクリアになった。自由奔放な友人(二階堂ふみが演じた)というのは、言ってみれば主人公のドッペルゲンガーだったのだ!! 娘に昔を回想して語る主人公は、知り合った女友だちの話をしながら、もう一人の自分を語っていたのである。映像はその主人公の嘘をあからさまにしてくれた。

 今回、台北のホテルは、地下鉄で松山機場からたった3駅(20元) の松江南京に近い所であり、荷物は小さいので、タクシーでも安いのだろうが、地下鉄に乗った。

 荷物をホテルに預け、さっそく九份に行くため、台北駅へ。数日の滞在なので、地下鉄は悠遊カードではなく現金でその都度プラチップを買うことにした。台鉄で瑞芳まで行き(73元、1時間弱)、そこからバスで九份老街へ。バスで10〜15分くらい(これも20元)。立地や地形や眺めはシチリアのタオルミーナを思わせる。基山街の商店街は原宿や浅草のような賑わい。食べ物屋がずらり。さっそくタロイモ団子入りお汁粉みたいなものを食べる。

 この基山街と直交する急な石段坂(豎崎路 じゅさきろ)を下ると、有名な景色に出くわす。千と千尋の神隠しの雰囲気に似ているとのこと。昇平戯院は映画館のようになっている。映画『非情城市』で観た(youtubeにあった) 病院だと思う。

 台北に戻り、行きつけ(?) の吉星港式飲茶店で夕食。いつもながら入口は待ち客でごった返していた。我々は30分くらい待って食べられた(土日は2時間待ちはざら)。

 

 2. 2日目。今回のホテルのテレビはSONYで、NHKのBSPが見られるので、翌日は6時半(日本時間7:30) に起きてばけばけを見た(NHKは台湾から視聴料金を回収しているのかな?)。朝食はかなり豪華でたっぷりいただいた。それから9:30頃にチェックアウトし、台北駅へ。台中へ移動。高鉄には乗らず、10時発の台鉄の特急(自強)にした。台中11:45着。ホテルは旧市街と新市街の中間地点にあるので、タクシーに乗る(150元くらいであったが、オットはおつりはいらないよと200元渡した。台湾はタクシー代が安いのだ)。

 さっそく台中駅付近の旧市街を散歩する。有名な宮原眼科第四銀行全安堂薬局(太陽餅博物館)など、リノベーションされた旧い建物が面白い。旧駅舎も保存活用されている。太陽餅博物館では、浜のテティスさんへのおみやげにいちばん名物だというパイナップルクッキーみたいなお菓子の小箱を買った。私たちも食べたが、純粋な感じがして紅茶がほしくなった。

 その後、そごうや新光三越のある新市街へ移動し、伊東豊雄による台中国家歌劇院を見に行く。曲線がすばらしい!!  それから、市民がのんびり集う草悟道を南下し、隈研吾の勤美術館から審計村まで歩く。ホテルにチェックインしてから、台北駅近くの旧市街にある宮原眼科の2階のレストランでコース料理を食べようと思って出かけたら、満席であった。夕食は、行き当たりばったりのお店で魚介づくし。

 

 3. 3日目。午前中、チェックアウトしてから、SANAAが計画した緑美図見に行く。台北から82番のバスで40分くらいかかる。車窓を眺めていると、この台中の広大さを実感する。人口285万くらいの大都会(大阪市と同じくらい)なのだ。走っても走ってもくら寿司、牛丼店など、大通り沿いに日本の外食チェーン店の看板が目に入る。まだまだ発展しそうであるが、そうなると、地下鉄などの建設が課題であろう。今のように市バスだけでは渋滞がひどいし、旧市街は建物の老朽化も目立つ。台湾は、アーケードの下の路面が建物ごとに高さが違うので、気をつけないと、つまずいてしまう。これは良くない。首都の台北でさえもガタガタ段差にご注意!! である。

 午後、台北に戻ってきた。高鉄の半額なので、また台鉄の特急にした。大好きな吉星港式に行ったら、2人席は14番待ちだというのであきらめて、龍山寺に行って夕食にした。牡蠣てんこもり丼など。それから足裏マッサージ店(帝王養生足道)へ。ここには何十軒も並んでおり、市心の半額ちかい値段である。だからいつも龍山寺に来ることにしている。40分、足裏、脛までと肩、首で、400元。

 

 4. 4日目はゆっくり目覚めて、8寺過ぎからゆっくり朝食をとり、チェックアウトしてから、近くにある日本統治時代の酒工場跡をリノベした公園、華山1914文創園區を訪れた。日本だったら絶対に撤去して更地にしてビルを建てるだろうなあ。それから、台北駅の南側にある二二八和平紀念公園、さらに総統府を見て(外観のみ) から西門界隈まで散歩した。タピオカミルクティーで有名な幸福堂に列んで(スケッチャーズのスニーカーとコラボした鬼滅の刃の看板がすごい)、昼過ぎにホテルに戻り、少し休んでから松山機場へ向かった。空港のパワーラウンジでお昼をとり、ワインを飲み、16時過ぎに搭乗し、東京に着いたのは3時間後、9時前。9時半のリムジンに乗れて、新宿着は10時。帰宅したのはやはり11時ちかくなってしまった。

 

 この映画「東京タクシー」のことは知っていた。でも、キムタクと山田洋次監督というのもナニだな、と思って敬遠していた。それを、台湾からの帰国便でやはり観てしまった。

 柴又帝釈天に倍賞千恵子!! なんという組み合わせ!!  タクシーの乗客である老女は、生まれ育った東京を見納めしたいと、高速に乗らずに、あっちへ行ってほしい、こっちへ行ってほしいとタクシードライバーにリクエストし、自分の人生を語り始める。それはまさしく昭和の日本の懐古であった。「パリタクシー」のリメイクでしょ、と高を括っていた私は次第に引き込まれていった。

 最後に思ったのはやはり一期一会。ほんのゆきずりのひと時でも心が通うことはあり得る。ところで、ネイリストってそんなに儲かるものなの? 前科があってもパスポートの取得、渡米の査証の取得は必ずしも不可能ではないことも確認した。でも、オチがちょっと非現実的のような。原作をリスペクトしたということかな?

 タクシードライバーの名前が宇佐美浩二とかでなく、「車幸次郎」だったらよかったのに。

 

 

 人が晩年、あと何年生きるかわからないという時、自分の人生をふりかえって誰かに聞いてもらいたいものなのかしら? 

 先日、ちらりと台湾へ小旅行に行ってきた。その往復のフライトの中で、この映画『遠い山なみの光』を見ることができた。カズオ・イシグロの小説は、文庫本化されたものはほとんど読んでいると思う。その中でも初期のこの作品はいまいち判然としなかったものの一つであるが、カズオ・イシグロの作品をたくさん読むうちに、SFっぽいというか、ファンタジックというか、狐につままれたような、夢を見させられたような、エッシャーの絵の世界にも似た感覚を覚えることに慣れてくる。そうして思い返すと、この『遠い山なみの光』という一見、一人の女性が戦後の長崎でのことを回想する物語にもいろいろな仕掛けがあったことに思い至る。この映画はそこを視覚的に明確にしていた(例えば、子猫を入れた木箱がなぜ主人公のもとにあるのか?)。

 

 主人公(広瀬すずが演じた)と交流のあった奔放な女性(二階堂ふみが演じた)は、実は、もう一人の自分、ドッペルゲンガー(?) であったのだ!!  きれいな顔して辛抱強く古風な考えの夫に耐えていた主人公の中にはマグマのような自我が抑圧されており、耐えるのをやめて離婚し、イギリスへ渡り、別の人生を始めた主人公が、長女を失い、次女ともさほど打ち解けないまま、長崎にいた頃の過去を「夢として」思い出した時、抑圧されていた自我を解き放ったもう一人の存在としての自分を別の人に置き換えてしまっていたのだ!!  あの奔放な女性とその娘は本当にいたのかもしれないが、イギリスに渡ることを決意した当時の自分と、自分の自我の犠牲となって自殺してしまった長女の幼少期を投影しているのだ。映画を見てそれがよくわかった。川の向こうとは三途の川の向こう、つまり冥界のことなのだ。良妻賢母然とした広瀬すずの演じる主人公が、いけすかない婦人とそのでぶの息子に毅然として自己主張したところなどに、吉田羊が演じる後半生の主人公の強さに通じるものを見出した。

 なんというミステリーな小説だったのだろう。

 ダーチャ・マライーニの本は、『シチリアの雅歌』など、何冊か読んだ。この人は、アイヌ研究などで知られる人類学者フォスコ・マライーニの娘で、日本にいたことがある。シチリアにいたこともある[母がシチリアの公爵の娘で、バゲリーアに屋敷があった]。モラヴィアと結婚していたこともある。来月、イタリア文化会館で、彼女のドキュメンタリー映画が上映されるので、その前にこの本Vita miaを読んでおこうと思ったのである。

 ダーチャの体験を通して、私たちは世界では今も戦争が行われており、専制国家の独裁者が相変わらずサディスティックであることに思いを致す。来月、映画を見たら、追記するつもりである。

 

 第二次大戦中、日本の強制収容所に監禁されたときのことから書き始めている。母が日記をつけたこと、妹のトーニがその経験を書籍として出版したこと。

 ダーチャは7歳になろうとしていた。日本で生まれた2人の妹は、ユキとキクと名付けられるはずであったが、駐日イタリア当局はルイーザ、アントネッラと登録された。1943年9月、警察に呼び出され[日本が三国同盟を結んだために]た父母はともに、人種的偏見を拒否すべく、ファシスト政権[ドイツの傀儡、サロー共和国(イタリア社会共和国); 首都はガルダ湖西岸にあった]への忠誠に署名を拒んだために一家は、自宅監禁の後、収容所送りとなる。娘たちは両親に同行することとなった。

 乳母の森岡さんと、広島で原爆に吹き飛ばされたその夫のこと。民主主義の貴族であった母方の祖父、母とそりのあわなかったチリ人の祖母のこと。

 西洋の怖がらせる亡霊とは違う日本の死者と、祖先崇拝、神道について。女性蔑視の日本が、太陽の女神をもっているのは不思議なことだ、とも。ハイクについて。桜の花と早世について。輪廻転生について。谷崎潤一郎の著作の豊穣な感覚について。

 1943年10月、イタリアで、バドリオ政府がドイツに宣戦布告したため、京都にいたフォスコ家の人々は警察に敵国人とみなされる。フォスコは日本滞在中に集めた資料をフランス大使館の地下室に隠してもらっていた。

 一家は名古屋へ移送される。挿話: 戦後暮らしたシチリアでの出来事(銛で怪我をしたことなど)。収容所の食べ物の大半は警官たちに横領された。ノミしらみ、寄生虫、栄養失調(子供に配給はなく、収容者ひとりにスプーン半杯の米のみ)、軍国主義者のサディスティックで狂信的な警官たち、空腹と衰弱、脚気による頻尿。ゴミ箱あさり。姪がつくったドキュメンタリー映画のこと。蟻を食べたこと。収容所にいた他のイタリア人のこと。クリスマスのこと。空腹による胃痙攣。土を食べたこと。乳母の森岡さんのお話、死と変身について。オヴィディウスと古事記の類似点について。ギリシア世界と日本の世界の類似について。

 赤十字社の人など、訪問者があると、収容所の食事は例外的にごちそうになった。ユダヤ人のガス室(ツィクロンB)における大量虐殺のことは後で知った。異端審問所の魔女狩りと拷問と、ベファーナの祭りについて。[ショアはヘブライ語で絶滅を意味し、ナチスによるホロコーストを指す。]ナチスの死刑執行人は、凶悪な囚人の中から選ばれた。ドイツ人のカトリック聖職者も数十人殺されていた。全ヨーロッパから連行された1034人の聖職者も然り。ベネディクト16世とフランシスコ教皇により56人が列福された。独裁国家の国民にとって、好奇心は危険なのだ。収容所を舞台とした『ノルマ44』という戯曲を書いたことについて。フォスコが歌っていた「カニーノ山の歌」について。蛇を食べたこと。父フォスコのこと。年をとると心は墓場になる。死は慈愛にあふれた姿で、眺め、助言を与えてくれる友だちだった。能の舞台では死者と生者が奥深い対話をするのだ。ある日、収容者たちがハンストをしたこと。そしてフォスコが抗議のために斧で指(小指)を切断したこと。その結果、牝山羊が供給され、その乳で命が救われたこと。1944年12月には空襲が頻繁になったこと。母がノートと鉛筆が尽きたため、日記を書かなくなったこと。空襲と地震。3月の大空襲まで打ち続いた空襲。暖房のない収容所。母が縫い物をしていたこと。脚気にかかって動けなくなり縫い物をしていた聖女キアラの話。生きのびるための盗みは非難されることではないと思われた。ゴミ箱漁り。蛇食。有刺鉄線を潜って農家を手伝いに行き、食べ物をもらってきたこと。飢えにより、収容所の連帯はエゴイズムに打ち負かされた。人は死んだら何かに生まれ変わるのか? 時間のこと、宇宙のこと。

 13歳でカトリックの寄宿学校に入れられ、キリスト教に接したこと。なぜ聖書では、女は男から生まれ、その逆ではないのか? 

 警官たちは、しばしばサーベルを突きつけて収容されているイタリア人を脅かした。『菊と刀』で知られるルース・ベネディクトに言及している: 敬語、お辞儀など。現代の日本では、儒教は死んで埋葬されたといってもいい、とフォスコは述べている。だが、中国、朝鮮、日本には、強力な儒教の遺産が存在している。義理、義務、恩、愛顧、好意、礼節、礼儀など、しっかり根をおろしている。

 空襲で壊れたので、収容所は田園地帯(豊田)の曹洞宗の廣済寺へ移転させられた。監視がゆるくなり、生活はかなり穏やかなものになった。落ちぶれた男爵が死んで寺で葬式が行われた時、死体から長い蛇が動いてくると思ったら、ノミの列であった!! 

 8月のある朝、何か恐ろしいことが起きた。広島に原爆が落とされたのだ。妹のユキがリューマチ性関節炎にかかったのは核爆弾のせいだとフォスコは言った。広島と長崎の原爆について。日本の降伏。天皇のラジオ放送について。その後、警官たちは姿をくらました。村の人々は、米兵を恐れていた。

 戦争が終わっても、収容されていたイタリア人を誰も迎えに来なかった。蛇や蛙をとって食べた。子グマのぬいぐるみに隠した詩について。『ファンフォレのグノーシス』というフォスコの詩集について。フォスコと、ファシスト党に入党した父との確執について。

 米軍に見つけてもらうために、ありあわせの布でイタリア国旗をつくり、後日、食べ物などの物資が撒かれたこと。デカメロンにあるベンゴーディの国のように。

 詩についていろいろ。ローマの刑務所で、詩の講座を受け持った時の話。表現する言葉の力を獲得できれば、人は貧しく野蛮な武器をもたなくなる。

 アメリカ人はダーチャたちを、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに宿泊させた。そこを闊歩していたアメリカ兵たちについて。当時の輝かしさと、その後の低落について。米兵の多くに小児性愛傾向があり、そのために女性をbabyと呼ぶ。

 フォスコは占領軍の将校の職を得た。母も占領軍のための美術鑑定人となり、子供たちは豚のように丸々と太ったが、心臓はなすのように弱っていた。脚気。荒野のような東京。破壊された日本。瓶のかけらで膝に深い傷を負った。飢えの習慣。日本の軍国主義はファシズムと呼べるか? ジョルジョ・トージ(ジャーナリスト) はそうだと主張する。日本は、国体護持のための治安維持法を以て、ファシズムへの道を始めた、と。[このような思想・言論の自由に対する弾圧は、中国、ロシア、北朝鮮のような、今日の専制国家にもある。]アレッサンドロ・ピッコロの、武士道にもとづく『日本のファシズム』について。[戦後は、丸山眞男ら、日本人による日本罵倒論も盛んであった。]日本での五・一五事件。そして二・二六事件。今日の世界には、あの頃の要素が多く見出される、とダーチャは書いている。

 

 戦後、マライーニ一家はシチリアへ渡り、パレルモ東方のポルティチェッロを経て、バゲリーアの祖母の家に住んだ。貧しくも、かけがえのない自由を満喫。肉屋が羊を屠殺するのを見てから肉を食べたくなくなった。後にベジタリアンになる。ダーチャは自分が日本の少女だと思っていたので、イタリア語も風習や習慣も知らなかった[フィレンツェに生まれ、1939年、2歳の時、日本へ、札幌へ渡ったので]。シチリアでは読書と音楽に耽った。モーツァルトとヴェルディが好きだった。読書により、ダーチャはヨーロッパ人になった。収容所の恐ろしさと警官たちのサディズムは深いところに残っているが、ふつうの人たちの親切や寛大さを知ったので、日本人を愛している。小さな小国家が同盟を結ばなければ、より大きな国に食いつぶされることを理解するところまで、わたしたちはたどり着いたようだ、と語る。

 

 訳者あとがき: 彼女は1982年、夫のモラヴィアとともに来日したことがあった。訳者の望月紀子さんはその時に会い、対談記事を書いた。晶文社がマライーニ・コレクション全4冊の刊行をすることになった。フォスコの(第2の)お墓は、愛知県豊田市の廣済寺にあるとのこと。北海道で英語教師と学生がスパイ容疑で検挙され、投獄された冤罪事件、宮沢・レーン事件について。宮沢とマライーニ一家は親しかった。その寺で事件について考える会があり、ダーチャは87歳の高齢をおして来日した。

 絶対的権力をもつ者はサディズムを振りかざす。過去の記憶を未来に生かすためにこの本を書いた。

 

 

 

 近現代史について話すのは難しい。その時代時代の史観というものがあり、そのために見方によっていろいろだからである。ならば、なるべく多くの書物を読んで情報を多角的に収集し、自分で構築せねばならない。この本は、平川祐弘先生の自伝を読んで知り、ぜひ読んでみたいと思ったものである。1936年の二・二六事件に倒れた齋藤實(まこと) 、第二次大戦の敗北を担った鈴木貫太郎首相、GHQ占領下において、微妙な立場にあった皇室と昭和天皇の「人間宣言」に関わった山梨勝之進(敗戦を見越していた)とブライス教授、いずれも人物像が浮き彫りにされ、よく知ることができた。この本は、平川先生が、これは近代日本人の一読すべき本だと思えた。この本は、平川先生がウィルソン・センターのフェローであった時にアメリカで講演した内容を本国の『新潮』に原稿として送り、それが活字化されたものである。左翼に疎まれたが、江藤淳に評価されたとのこと。

 二・二六事件については、三島由紀夫の『英霊の聲』も読んでみたいと思った。

 そして第2部の、昭和天皇による「人間宣言」のことを私はあまりよく知らなかったので、こんなにもこれに心を砕いた人がいたことを知ることができた。

 

 第1部 平和の海と戦いの海

  第1章 グルー大使と齋藤實夫人: 齋藤實(まこと) とアメリカ大使グルーとの親交について、グルー大使が二・二六事件の前後の状況を詳述した『滞日十年』の訳文など。そこに描かれたのは、国際的に立派な日本紳士と日本婦人の姿である。

 二・二六事件当時、やはりグルー大使の夜会に招かれており、雪の降るその翌日未明に襲撃された侍従長、鈴木貫太郎の自伝も紹介している。話し合おうとしたが撃たれたものの、夫人にとどめはやめていただきたいと言われたので、命拾いすることになり、心臓部に弾丸を留めたまま、後に総理大臣として降伏とその後の段取りを行なうことになった。自伝の中で、五・一五事件で、宰相を暗殺した者を一人も処刑しなかったことが失態であったと述べている。35万通の減刑嘆願書があっただめであった。日本を戦争に悲惨に追い込んだのは、軍部とともに新聞雑誌であった、と平川先生の岳父、竹山道雄は言った(『昭和の精神史』)。

 

  第2章 鈴木貫太郎の平和演説: 二・二六事件は、将校たちの処刑で終わったものの、軍部の発言力が増大した。7月には支那事変、翌年7月には大東亜戦争へと突入した。それから10年足らず後、アメリカ大使グルーは国務次官として、鈴木貫太郎は首相として、戦争終結の努力をすることになる。

 鈴木は、1917年、練習艦隊司令官としてサンフランシスコに寄港した折り「太平洋は名の如く平和の海にして、日米交易の為に天の与えたる恩恵なり。若し之を軍隊輸送の為に用ふるが如きことあらば、必ずや日米両国共に天罰を受くるべし」と述べたという。

 1945年4月、小磯内閣が総辞職すると、77歳の鈴木男爵に組閣の命が下り、その当日、ソ連は日ソ中立条約の破棄を通告してきた。ルーズヴェルト大統領の死去には弔意を表した。・・・そして8月14日、危機に瀕した日本は無条件降伏を受諾した。そして鈴木は、皇室の安泰と国体護持のため尽力することとなる。日本国民の大半はそれを覚えていて、映画『日本のいちばん長い日』の上映を満席にした。降伏を認めない陸軍[決起将校たちは宮城に忍び込み、玉音放送のテープを盗み出そうとしていた]を代表していた阿南陸相は、形見分けをして自決する(敗戦をはっきり印象づけた)。

 戦時下の日本の宰相について諸外国はどう認識していたか? 日米会戦の愚かさを語り、信念として平和を考えていた鈴木について記した『鈴木貫太郎自伝』は没後に出版されたが、これが生前に出ていたら、悪様に攻撃を受けたに違いない。

 昭和20年6月の施政方針演説では、もと侍従長として、わが天皇陛下ほど世界の平和と人類の福祉を冀求遊ばされる御方はいないと信じて居る、・・・侵略なく搾取なく、四海同胞として、人類の道義を明かにし、その文化を進むることは、実にわが皇室の肇国以来のご本旨であらせられるのであります、と述べている。

 1945年6月のニューヨーク・タイムズは、サンフランシスコでの演説について「私は嘗て大正7年練習艦隊司令官として、米国西岸に航海致しました折〜太平洋は名の如く平和の海にして、日米交易の為に天の与えたる恩恵なり。若し之を軍隊輸送の為に用ふるが如きことあらば、必ずや日米両国共に天罰を受くべしと警告したのであります。然るに其後20余年にして、米国はこの真意を諒得せず、不幸にも両国相戦はざるを得ざるに至りましたことは、誠に遺憾とする所であります」をすっぽりと抜かした。

 講和については、「わが国体を離れてわが国民はありませぬ」と、無条件降伏の有条件化を示したという見方もできる。そして、アメリカにも、戦後日本の天皇制保全を上策とし、早期和平を説いた人がいた。ジョーゼフ・グルーである。

 

  第3章 昭和20年初夏の日米交渉: グルーは、軍国主義さえ排除するならば、神道も天皇制も平和日本にとっては、安寧を助長する性質のものとなるだろう、と説いた。アメリカには、日本人の識字率について、日本には文盲が多いとする偏見をもつ人が多かった。このような偏見を打破する目的もあり、グルーは『滞日十年』を刊行した。それはベストセラーとなったが、左翼からは、日本の庶民についての記述に欠けると批判された。

 真珠湾攻撃について、エドマンド・ウィルソンは『憂国の血糊』(1961年)の中で、日本軍の真珠湾攻撃はアメリカ当局はにより予見されていたと説いている。敵側に最初に叩かせるために、故意に奇襲を防がなかった、というのである[連合艦隊長官、山本五十六が、日本軍に勝ち目のないことを承知していたので、奇襲により、なるべく早期に米国艦隊に最大の打撃を与えて講和にもちこみたいと考えていたから。この奇襲攻撃で湾内にいた戦艦8隻のうち4隻が撃沈された上に、200機以上の航空機が破壊され、米軍側の戦死者は2300人に上った。しかし、宣戦布告のないままの奇襲にアメリカ側は、「騙し討ち」だとして即座に日本に宣戦を布告した。山本は一年後に戦死した]。

 国務次官となったグルーは、天皇の詔勅による以外、混乱のない終戦はありえないと考えており、それを議会で、天皇を女王蜂に準えて説明した。無条件降伏の最大の障害は、天皇制廃止につながるのではないかという考えである、と。当時のアメリカの世論は、天皇を処刑へよという意見が大半で、天皇を残して操り人形とせよ、という意見は7%にすぎなかった。日本政府が全面降伏に躊躇したのはここにある。

 米国政府のスティムソンは、戦争もボクシングも同じである、相手が弱みを見せた時、折角勝ちかけている方がパンチを控える、などということは常識では考えられない、と伝記に書いている。

 トーマス・マンのラジオ放送について: 日本の鈴木貫太郎首相が故ルーズヴェルト大統領を偉大な指導者と呼び、その逝去に際して・・・深甚なる弔意を表したことを、一体なんとお考えになりますか。・・・ナチスの国家社会主義がわがみじめなるドイツ国においてもたらしたと同じような道徳的破壊と道徳的麻痺が軍国主義の日本で生じたわけではなかった。あの東洋の国日本にはいまなお騎士道精神と人間の品位に対する感覚が存する。・・・これが独日両国の差異である。・・・ドイツの新聞はルーズヴェルト大統領の死に際して愚鈍なる嘲罵の辞を書き立てた。なんという恥辱であるか。平川先生は、鈴木貫太郎首相の弔辞には、和平への政治的配慮を含むサインであったと思われると述べている。このもと首相は、昭和23年に没する時、ひじょうにはっきりした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返したとのことである。

 

 平川先生のあとがき: すくなくとも敗戦この方、日本の歴史を、米国製の民主化の歴史とみなしているアメリカ人に対して、ワシントンという場所で、鈴木貫太郎のために英語で弁ずるのも愉快だろうと思い、これを発表することにしたとのことである。

 アメリカ人にとって大統領は首相以上の何かである。幸い日本人は大統領がもつ憧れや象徴としての機能を天皇一身の中に吸収させ、首相の機能は政治的なものに限定させている。だから日本人は安全弁をもっているともいえる、などとも述べている。

 ドイツやロシアのように帝政を廃止した国に限ってヒトラーやスターリンのような独裁者が現れる、とバランタイン(極東軍事裁判に関わった)も説いていた。知日派の米国人は、安定した、友好的な日本こそが戦後の米国の国益にとって大切であると考えていたのである。

 極東国際軍事法廷は「勝者の裁判」を、趣味の悪いショーをやっている、という感じであった、と平川先生。グルーのような廉直の士は、米国でもまことに稀だということを私たちは心すべきであろう、これは平和の維持と回復に尽くした人々に対する感謝の辞のごときものである、と。

 

 第2部 「人間宣言」の内と外

  第1章 ブライス教授: 神田の北星堂は、日米戦争の最中、イギリス人ブライスの著書『禅と英文学』を出版した。戦時下の日本にこのような出版の自由があったことに驚く。このイギリス人は終戦後、天皇の人間宣言に関わることになった。

 レジナルド・ホーレス・ブライス教授についてはWikiにあるのでメモを省く。寒山や鴨長明のようになりたかった変わり者の東洋文化研究者で、人を殺すことができないからと銃殺刑を覚悟で徴兵を忌避して投獄された。怯懦からくる平和主義は軽蔑していた。生き物を殺せないので18歳のときから菜食主義者となった。本国でオックスフォード大学の教授に選ばれたりしたが、1927年、日本に併合されていた朝鮮の京城帝国大学英文科の助教授となり、日本語と中国語を習得して、俳句を研究し、鈴木大拙と知り合って禅を学んだ。昭和15年(1940年)、日本文化についての研究を深めるべく、日本に来て、金沢で禅を学んだ。昭和20年秋に上京してからは、学習院や東大、さまざまな大学で教えた。音楽好きのエピソードいろいろ。

 

  第2章 山梨提督: 山梨勝之進についてはWikipediaにあるのでメモを省く。海軍大将であったが、ロンドン軍縮会議で軍備削減に応じた後に失職し、後に皇太子教育のために学習院長に任命された。英語教師であった鈴木大拙とも親しくなった。その関係があって、ブライスさんは学習院の教職につくこととなったという。

 山本五十六について: 対米英戦に反対し、三国同盟締結にも一貫して反対した人であったのに、真珠湾攻撃をした人であるが、この人も平和主義者であった。

 

  第3章 人間宣言: 山梨勝之進には、日本の国力の限界がよく見えていた。敗戦後のことを見据えて、白楽天の「野火焼けども盡ぎず、春風吹いて又生ず」と海軍大臣米内光政に言っていた。(余談、1925年からNHKはラジオで英語講座カムカムエヴリボディを放送していた。)敗戦後の9月27日、天皇はマッカーサーを訪問した。

 対日心理作戦を担当した、マッカーサーの副官ボナー・フェラーズについて: この人もやはりラフカディオ・ハーンの愛読者であり、その影響のもと、「天皇に関する覚書」を提出し、天皇を裁判にかけることに反対した。フェラーズが、チェンバレンではなく、ハーンを読んでいたことは日本にとって幸運であった

 CIE(民間情報教育局) のハロルド・ヘンダーソン中佐について: 日本通で、京都と奈良に3年間滞在したこともあった。ブライスさんはこの人に会い、二人が何を話したかを平川先生は推察している。ブライスさんは学習院の山梨院長と懇意であり、このことは天皇にとって重要であった。進駐軍の誰もブライスさんが宮中とのパイプ役になるとは思わなかっただろうと、先生は語る。「天皇の人間宣言」についても然り。それは、天皇を裁判にかけないため、処刑させないための手立ての一つであった。

 天皇は、草案について、明治天皇が示された五箇条の御誓文のことを詔勅に含ませてもらいたいと言われた(民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった)。これにより、天皇が日本の民主化に指導的な役割を演ずることが明かにされたのである。

 長興善郎は、宮中に召された時、陛下が一番篤くご信任なすったのは誰ですかとお尋ねしたところ、陛下は言下に答えた。「山梨勝之進」と。

 そのような山梨院長が才能を愛でて、学習院初等科を主席で卒業した少年、平岡公威(きみたけ)は、昭和41年に『英霊の聲』を書く三島由紀夫であった。[この反時代的な精神、ぜひ読んでみなければ]。山梨院長は『仮面の告白』に醜く書かれている。

 

  第4章 ヴァイニング夫人: 皇太子が中学進学するにあたり、陛下の要望により、アメリカから招かれた英語教師。教室で皇太子をジミーと呼ぶなど、クエーカー教徒の夫人は皇室のキリスト教化を望んでいたようだ。後に『皇太子の窓』を出版することになる。皇室がシャム王室の『王様と私』に準えられるのは愉快ではない、と平川先生。家庭教師アンナには思い上がりがあったから。しかし、皇室外交という見地からは、ヴァイニング夫人の招聘は成功であった。真珠湾攻撃を仕掛けた山本五十六が実は日米開戦の回避に努力していた人であったことがアメリカに知られることができたのも、山梨院長、ヴァイニング夫人を介してできたことだったのだ。極東国際軍事裁判のレーリンク判事が、罪人とされた日本人の中にはナチスの指導者とは異なる、立派な人物がいたと言っていたことも、『皇太子の窓』には書かれていた。

 

  第5章 君子交淡如水: 平川先生は、1954年、留学生として渡仏する船上で、ブライス教授の本を読んでいる令嬢と知り合った。ラフカディオ・ハーンを読んで日本に惹かれて来日した人であった。でもこの女性は交通事故で早逝してしまった。

 先生がその女性に贈ったブライスさんの著作 Haiku の出版費用を出したのが吉田茂で、その裏で口をきいてくれたのは山梨院長だったのではないかと平川先生は推測する。「人間宣言」のために尽力してくれた感謝の形だったのではないか、と。

 禅に関して、鈴木大拙、ブライス、坂東性純についてつらつら。ブライスさんは、キリスト教も仏教もイズム、主義、教であり、主義だから、と話した。蓮如上人の「本尊は掛破れ、聖教は読破れ」はイコノクラスムスのことだと思っていたブライスさんに、坂東青年は、掛軸や経典がぼろぼろになるまでお勤めをせよ、の意味だと教え、ブライスさんは素直に自分の誤りを認めたというエピソードが書いてある。

 ブライスさんの戒名、不來子古道照心居士、について。ブライスさんの娘さんたちのこと。

 

  あとがき: この二つに章立てされた二つの文はいずれも昭和五十年代の『新潮』に掲載されたものを再考、再構成したものとのこと。

 

[日本のイメージについて、開国・維新期に国際的に重要な役割を果たした人は、先ずはラフカディオ・ハーンであろうが、昭和期にはその影響を受けたレジナルド・ホーレス・ブライス、グルー大使、ハロルド・ヘンダーソン、ボナー・フェラーズ、ヴァイニング夫人、など、多くの異人がいたことを改めて知ることができた。これを書籍にした平川祐弘教授の功績に敬意を表する。]

 

▼ ちなみに、話はずれるが、こちらの京都先端科学大学(KUAS)の石田拳也氏の論文(PDF)には、京都・奈良・鎌倉への原爆投下回避の恩人として、ウォーナー博士、ヘンリー・スティムソンらを挙げている。原爆投下に際して、スティムソンが日本人について述べた言葉をコピペしておく。この国民性がなおも引き継がれていることを願う。

https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2023/h2023_04.pdf

スティムソンいわく: 「日本という国はわが国では低能な国と比喩 されているが、私はそうは思わない。30 年前 までは大した技術力も持たない小国であったがこの 30 年という短い間で欧米に技術力で は追いつき、さらには追い抜こうとしている。 私は日本を訪れたことがあるがその出来事には何ら驚くつもりはない。日本人はその愚直なまでのまっすぐな思考力、行動力を兼ね備え欧米の列強をしのぐまでに成長した。軍部 としては日本上陸作戦も構想には入れているが、死力を尽くして戦闘するであろう日本を相手にしては 100 万人以上の犠牲が出てしま うと予想している。犠牲を最小限にするためには、原爆投下による衝撃を利用し、その圧力をもってして終戦に向かうしかない。」