近現代史について話すのは難しい。その時代時代の史観というものがあり、そのために見方によっていろいろだからである。ならば、なるべく多くの書物を読んで情報を多角的に収集し、自分で構築せねばならない。この本は、平川祐弘先生の自伝を読んで知り、ぜひ読んでみたいと思ったものである。1936年の二・二六事件に倒れた齋藤實(まこと) 、第二次大戦の敗北を担った鈴木貫太郎首相、GHQ占領下において、微妙な立場にあった皇室と昭和天皇の「人間宣言」に関わった山梨勝之進(敗戦を見越していた)とブライス教授、いずれも人物像が浮き彫りにされ、よく知ることができた。この本は、平川先生が、これは近代日本人の一読すべき本だと思えた。この本は、平川先生がウィルソン・センターのフェローであった時にアメリカで講演した内容を本国の『新潮』に原稿として送り、それが活字化されたものである。左翼に疎まれたが、江藤淳に評価されたとのこと。
二・二六事件については、三島由紀夫の『英霊の聲』も読んでみたいと思った。
そして第2部の、昭和天皇による「人間宣言」のことを私はあまりよく知らなかったので、こんなにもこれに心を砕いた人がいたことを知ることができた。
第1部 平和の海と戦いの海
第1章 グルー大使と齋藤實夫人: 齋藤實(まこと) とアメリカ大使グルーとの親交について、グルー大使が二・二六事件の前後の状況を詳述した『滞日十年』の訳文など。そこに描かれたのは、国際的に立派な日本紳士と日本婦人の姿である。
二・二六事件当時、やはりグルー大使の夜会に招かれており、雪の降るその翌日未明に襲撃された侍従長、鈴木貫太郎の自伝も紹介している。話し合おうとしたが撃たれたものの、夫人にとどめはやめていただきたいと言われたので、命拾いすることになり、心臓部に弾丸を留めたまま、後に総理大臣として降伏とその後の段取りを行なうことになった。自伝の中で、五・一五事件で、宰相を暗殺した者を一人も処刑しなかったことが失態であったと述べている。35万通の減刑嘆願書があっただめであった。日本を戦争に悲惨に追い込んだのは、軍部とともに新聞雑誌であった、と平川先生の岳父、竹山道雄は言った(『昭和の精神史』)。
第2章 鈴木貫太郎の平和演説: 二・二六事件は、将校たちの処刑で終わったものの、軍部の発言力が増大した。7月には支那事変、翌年7月には大東亜戦争へと突入した。それから10年足らず後、アメリカ大使グルーは国務次官として、鈴木貫太郎は首相として、戦争終結の努力をすることになる。
鈴木は、1917年、練習艦隊司令官としてサンフランシスコに寄港した折り「太平洋は名の如く平和の海にして、日米交易の為に天の与えたる恩恵なり。若し之を軍隊輸送の為に用ふるが如きことあらば、必ずや日米両国共に天罰を受くるべし」と述べたという。
1945年4月、小磯内閣が総辞職すると、77歳の鈴木男爵に組閣の命が下り、その当日、ソ連は日ソ中立条約の破棄を通告してきた。ルーズヴェルト大統領の死去には弔意を表した。・・・そして8月14日、危機に瀕した日本は無条件降伏を受諾した。そして鈴木は、皇室の安泰と国体護持のため尽力することとなる。日本国民の大半はそれを覚えていて、映画『日本のいちばん長い日』の上映を満席にした。降伏を認めない陸軍[決起将校たちは宮城に忍び込み、玉音放送のテープを盗み出そうとしていた]を代表していた阿南陸相は、形見分けをして自決する(敗戦をはっきり印象づけた)。
戦時下の日本の宰相について諸外国はどう認識していたか? 日米会戦の愚かさを語り、信念として平和を考えていた鈴木について記した『鈴木貫太郎自伝』は没後に出版されたが、これが生前に出ていたら、悪様に攻撃を受けたに違いない。
昭和20年6月の施政方針演説では、もと侍従長として、わが天皇陛下ほど世界の平和と人類の福祉を冀求遊ばされる御方はいないと信じて居る、・・・侵略なく搾取なく、四海同胞として、人類の道義を明かにし、その文化を進むることは、実にわが皇室の肇国以来のご本旨であらせられるのであります、と述べている。
1945年6月のニューヨーク・タイムズは、サンフランシスコでの演説について「私は嘗て大正7年練習艦隊司令官として、米国西岸に航海致しました折〜太平洋は名の如く平和の海にして、日米交易の為に天の与えたる恩恵なり。若し之を軍隊輸送の為に用ふるが如きことあらば、必ずや日米両国共に天罰を受くべしと警告したのであります。然るに其後20余年にして、米国はこの真意を諒得せず、不幸にも両国相戦はざるを得ざるに至りましたことは、誠に遺憾とする所であります」をすっぽりと抜かした。
講和については、「わが国体を離れてわが国民はありませぬ」と、無条件降伏の有条件化を示したという見方もできる。そして、アメリカにも、戦後日本の天皇制保全を上策とし、早期和平を説いた人がいた。ジョーゼフ・グルーである。
第3章 昭和20年初夏の日米交渉: グルーは、軍国主義さえ排除するならば、神道も天皇制も平和日本にとっては、安寧を助長する性質のものとなるだろう、と説いた。アメリカには、日本人の識字率について、日本には文盲が多いとする偏見をもつ人が多かった。このような偏見を打破する目的もあり、グルーは『滞日十年』を刊行した。それはベストセラーとなったが、左翼からは、日本の庶民についての記述に欠けると批判された。
真珠湾攻撃について、エドマンド・ウィルソンは『憂国の血糊』(1961年)の中で、日本軍の真珠湾攻撃はアメリカ当局はにより予見されていたと説いている。敵側に最初に叩かせるために、故意に奇襲を防がなかった、というのである[連合艦隊長官、山本五十六が、日本軍に勝ち目のないことを承知していたので、奇襲により、なるべく早期に米国艦隊に最大の打撃を与えて講和にもちこみたいと考えていたから。この奇襲攻撃で湾内にいた戦艦8隻のうち4隻が撃沈された上に、200機以上の航空機が破壊され、米軍側の戦死者は2300人に上った。しかし、宣戦布告のないままの奇襲にアメリカ側は、「騙し討ち」だとして即座に日本に宣戦を布告した。山本は一年後に戦死した]。
国務次官となったグルーは、天皇の詔勅による以外、混乱のない終戦はありえないと考えており、それを議会で、天皇を女王蜂に準えて説明した。無条件降伏の最大の障害は、天皇制廃止につながるのではないかという考えである、と。当時のアメリカの世論は、天皇を処刑へよという意見が大半で、天皇を残して操り人形とせよ、という意見は7%にすぎなかった。日本政府が全面降伏に躊躇したのはここにある。
米国政府のスティムソンは、戦争もボクシングも同じである、相手が弱みを見せた時、折角勝ちかけている方がパンチを控える、などということは常識では考えられない、と伝記に書いている。
トーマス・マンのラジオ放送について: 日本の鈴木貫太郎首相が故ルーズヴェルト大統領を偉大な指導者と呼び、その逝去に際して・・・深甚なる弔意を表したことを、一体なんとお考えになりますか。・・・ナチスの国家社会主義がわがみじめなるドイツ国においてもたらしたと同じような道徳的破壊と道徳的麻痺が軍国主義の日本で生じたわけではなかった。あの東洋の国日本にはいまなお騎士道精神と人間の品位に対する感覚が存する。・・・これが独日両国の差異である。・・・ドイツの新聞はルーズヴェルト大統領の死に際して愚鈍なる嘲罵の辞を書き立てた。なんという恥辱であるか。平川先生は、鈴木貫太郎首相の弔辞には、和平への政治的配慮を含むサインであったと思われると述べている。このもと首相は、昭和23年に没する時、ひじょうにはっきりした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返したとのことである。
平川先生のあとがき: すくなくとも敗戦この方、日本の歴史を、米国製の民主化の歴史とみなしているアメリカ人に対して、ワシントンという場所で、鈴木貫太郎のために英語で弁ずるのも愉快だろうと思い、これを発表することにしたとのことである。
アメリカ人にとって大統領は首相以上の何かである。幸い日本人は大統領がもつ憧れや象徴としての機能を天皇一身の中に吸収させ、首相の機能は政治的なものに限定させている。だから日本人は安全弁をもっているともいえる、などとも述べている。
ドイツやロシアのように帝政を廃止した国に限ってヒトラーやスターリンのような独裁者が現れる、とバランタイン(極東軍事裁判に関わった)も説いていた。知日派の米国人は、安定した、友好的な日本こそが戦後の米国の国益にとって大切であると考えていたのである。
極東国際軍事法廷は「勝者の裁判」を、趣味の悪いショーをやっている、という感じであった、と平川先生。グルーのような廉直の士は、米国でもまことに稀だということを私たちは心すべきであろう、これは平和の維持と回復に尽くした人々に対する感謝の辞のごときものである、と。
第2部 「人間宣言」の内と外
第1章 ブライス教授: 神田の北星堂は、日米戦争の最中、イギリス人ブライスの著書『禅と英文学』を出版した。戦時下の日本にこのような出版の自由があったことに驚く。このイギリス人は終戦後、天皇の人間宣言に関わることになった。
レジナルド・ホーレス・ブライス教授についてはWikiにあるのでメモを省く。寒山や鴨長明のようになりたかった変わり者の東洋文化研究者で、人を殺すことができないからと銃殺刑を覚悟で徴兵を忌避して投獄された。怯懦からくる平和主義は軽蔑していた。生き物を殺せないので18歳のときから菜食主義者となった。本国でオックスフォード大学の教授に選ばれたりしたが、1927年、日本に併合されていた朝鮮の京城帝国大学英文科の助教授となり、日本語と中国語を習得して、俳句を研究し、鈴木大拙と知り合って禅を学んだ。昭和15年(1940年)、日本文化についての研究を深めるべく、日本に来て、金沢で禅を学んだ。昭和20年秋に上京してからは、学習院や東大、さまざまな大学で教えた。音楽好きのエピソードいろいろ。
第2章 山梨提督: 山梨勝之進についてはWikipediaにあるのでメモを省く。海軍大将であったが、ロンドン軍縮会議で軍備削減に応じた後に失職し、後に皇太子教育のために学習院長に任命された。英語教師であった鈴木大拙とも親しくなった。その関係があって、ブライスさんは学習院の教職につくこととなったという。
山本五十六について: 対米英戦に反対し、三国同盟締結にも一貫して反対した人であったのに、真珠湾攻撃をした人であるが、この人も平和主義者であった。
第3章 人間宣言: 山梨勝之進には、日本の国力の限界がよく見えていた。敗戦後のことを見据えて、白楽天の「野火焼けども盡ぎず、春風吹いて又生ず」と海軍大臣米内光政に言っていた。(余談、1925年からNHKはラジオで英語講座カムカムエヴリボディを放送していた。)敗戦後の9月27日、天皇はマッカーサーを訪問した。
対日心理作戦を担当した、マッカーサーの副官ボナー・フェラーズについて: この人もやはりラフカディオ・ハーンの愛読者であり、その影響のもと、「天皇に関する覚書」を提出し、天皇を裁判にかけることに反対した。フェラーズが、チェンバレンではなく、ハーンを読んでいたことは日本にとって幸運であった。
CIE(民間情報教育局) のハロルド・ヘンダーソン中佐について: 日本通で、京都と奈良に3年間滞在したこともあった。ブライスさんはこの人に会い、二人が何を話したかを平川先生は推察している。ブライスさんは学習院の山梨院長と懇意であり、このことは天皇にとって重要であった。進駐軍の誰もブライスさんが宮中とのパイプ役になるとは思わなかっただろうと、先生は語る。「天皇の人間宣言」についても然り。それは、天皇を裁判にかけないため、処刑させないための手立ての一つであった。
天皇は、草案について、明治天皇が示された五箇条の御誓文のことを詔勅に含ませてもらいたいと言われた(民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった)。これにより、天皇が日本の民主化に指導的な役割を演ずることが明かにされたのである。
長興善郎は、宮中に召された時、陛下が一番篤くご信任なすったのは誰ですかとお尋ねしたところ、陛下は言下に答えた。「山梨勝之進」と。
そのような山梨院長が才能を愛でて、学習院初等科を主席で卒業した少年、平岡公威(きみたけ)は、昭和41年に『英霊の聲』を書く三島由紀夫であった。[この反時代的な精神、ぜひ読んでみなければ]。山梨院長は『仮面の告白』に醜く書かれている。
第4章 ヴァイニング夫人: 皇太子が中学進学するにあたり、陛下の要望により、アメリカから招かれた英語教師。教室で皇太子をジミーと呼ぶなど、クエーカー教徒の夫人は皇室のキリスト教化を望んでいたようだ。後に『皇太子の窓』を出版することになる。皇室がシャム王室の『王様と私』に準えられるのは愉快ではない、と平川先生。家庭教師アンナには思い上がりがあったから。しかし、皇室外交という見地からは、ヴァイニング夫人の招聘は成功であった。真珠湾攻撃を仕掛けた山本五十六が実は日米開戦の回避に努力していた人であったことがアメリカに知られることができたのも、山梨院長、ヴァイニング夫人を介してできたことだったのだ。極東国際軍事裁判のレーリンク判事が、罪人とされた日本人の中にはナチスの指導者とは異なる、立派な人物がいたと言っていたことも、『皇太子の窓』には書かれていた。
第5章 君子交淡如水: 平川先生は、1954年、留学生として渡仏する船上で、ブライス教授の本を読んでいる令嬢と知り合った。ラフカディオ・ハーンを読んで日本に惹かれて来日した人であった。でもこの女性は交通事故で早逝してしまった。
先生がその女性に贈ったブライスさんの著作 Haiku の出版費用を出したのが吉田茂で、その裏で口をきいてくれたのは山梨院長だったのではないかと平川先生は推測する。「人間宣言」のために尽力してくれた感謝の形だったのではないか、と。
禅に関して、鈴木大拙、ブライス、坂東性純についてつらつら。ブライスさんは、キリスト教も仏教もイズム、主義、教であり、主義だから、と話した。蓮如上人の「本尊は掛破れ、聖教は読破れ」はイコノクラスムスのことだと思っていたブライスさんに、坂東青年は、掛軸や経典がぼろぼろになるまでお勤めをせよ、の意味だと教え、ブライスさんは素直に自分の誤りを認めたというエピソードが書いてある。
ブライスさんの戒名、不來子古道照心居士、について。ブライスさんの娘さんたちのこと。
あとがき: この二つに章立てされた二つの文はいずれも昭和五十年代の『新潮』に掲載されたものを再考、再構成したものとのこと。
[日本のイメージについて、開国・維新期に国際的に重要な役割を果たした人は、先ずはラフカディオ・ハーンであろうが、昭和期にはその影響を受けたレジナルド・ホーレス・ブライス、グルー大使、ハロルド・ヘンダーソン、ボナー・フェラーズ、ヴァイニング夫人、など、多くの異人がいたことを改めて知ることができた。これを書籍にした平川祐弘教授の功績に敬意を表する。]
▼ ちなみに、話はずれるが、こちらの京都先端科学大学(KUAS)の石田拳也氏の論文(PDF)には、京都・奈良・鎌倉への原爆投下回避の恩人として、ウォーナー博士、ヘンリー・スティムソンらを挙げている。原爆投下に際して、スティムソンが日本人について述べた言葉をコピペしておく。この国民性がなおも引き継がれていることを願う。
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2023/h2023_04.pdf
スティムソンいわく: 「日本という国はわが国では低能な国と比喩 されているが、私はそうは思わない。30 年前 までは大した技術力も持たない小国であったがこの 30 年という短い間で欧米に技術力で は追いつき、さらには追い抜こうとしている。 私は日本を訪れたことがあるがその出来事には何ら驚くつもりはない。日本人はその愚直なまでのまっすぐな思考力、行動力を兼ね備え欧米の列強をしのぐまでに成長した。軍部 としては日本上陸作戦も構想には入れているが、死力を尽くして戦闘するであろう日本を相手にしては 100 万人以上の犠牲が出てしま うと予想している。犠牲を最小限にするためには、原爆投下による衝撃を利用し、その圧力をもってして終戦に向かうしかない。」