この研究者の本は足利義満のことを知りたくて最近読んだばかりである。ガイド稼業を営む者として、武士の起源というテーマにはかねてより興味があったので、読むことにした。冒頭は武士研究の現状に対する愚痴が書き連ねられているが、第2章からは引き込まれた。武士の起源は弓馬術に長けた有閑者であり、その弓馬術は朝鮮半島からの移民が持ち込んだ技芸だったのだ。それにしても平安時代の社会が、税制も地方統治も治安もこんなにもしっちゃかめっちゃかだったとは!!  小学生の頃、「安寿と厨子王」という映画を見て人買いなんて、と思ったことを思い出す。森鴎外の『山椒大夫』でも読み直してみようかしら。

 なお、この本のおかげで大河ドラマのことがよくわかった。鎌倉殿の坂東武者のこと、奥州藤原氏のこと、「牧」の意味、朝廷での官位について、など。清水寺に祀られている坂上田村麻呂のこと、菅原道真のことも目から鱗。桓武天皇の子沢山と親王たちの臣籍降下と平氏・源氏の誕生。僦馬の党という群盗。滝口武士。つまり、私としてはものすごく勉強になったのである。読んでよかった。

 

 副題は — 混血する古代、創発される中世

 

 序章 武士の素性がわからない: 武士についての歴史学はまだ解明されていない。四世紀ちかい中世において、京都の形式的主人は天皇と朝廷であったが、日本の実質的支配者は武士であった。だがその武士がどこで生まれたのかという問題が解けていない。平安京の中か外か? "武士の誕生"というテーマの本には何も答が書かれていないのが現状である。武士の素性というテーマに取り組んでいるのは高橋昌明氏のみであるが、提言されてから20年経ってもまだ議論されていない。いつまでも「諸説ある」では埒があかない。

 

 第1章 武士成立論の手詰まり: 武士の誕生は、鎌倉幕府成立の三世紀前、9世紀末〜10世紀初頭であり、兵(つわもの、ウツワモノ?)、武者と呼ばれることが多かった。平安時代初期まで、朝廷軍は徴兵された農民が大半であった。兵はプロの戦士であり、領主である。

 武士が荘園から生まれたという説は、誤解にすぎず、マルクス主義の呪縛によるものである。このマルクス主義が退場した後、研究は分野ごとに細分化し、蛸壺化し、万人が認める武士の共通イメージは失われたままである。

 武士を職能人と見る見方も間違っている。武士の多面性を見て、一概には言えないというまとめ方はまずい。西国の武士、東国の武士と分け、正当な武士は朝廷の衛府から生まれたという説もあるが、大江匡房の『続本朝往生伝』では衛府と武者が分けられている。従来の武士成立論には、信頼できる尺度がない。どのように武士の家になったのかが説明されねばならない。動かぬ事実は、①武士は領主階級であり、②貴種であり、③弓馬術の使い手であることである。

 

 第2章 武士と古代日本の弓馬の使い手: 武士は領主階級の人であり、働かず、勧農を行なう。奈良時代初期、元正天皇は、明経博士以下、優れた専門家に賞品を与えた。その中に武芸に優れた四人の「武士」がいた。光仁天皇も然り。だが、統治を導くのは儒教であり、死後の救済を説くのは仏教。儒教の礼[社会秩序を維持するしきたり]は、王・公・卿・大夫・士という身分標識の一つであり、士は六位以下の廷臣であった。

 武士は己を弓馬の士と呼んだ。刀は敵の首を取る時に使うもの。弓馬は、歩射と騎射という弓術を意味する。その修得には膨大な時間を要すので有閑階級にしか熟達できない。『日本書紀』によれば、皇族と廷臣はその鍛錬に励む義務、つまり軍事修練を課されていた。朝廷は、弓馬術に長けた蝦夷に対抗すべく陸奥国の民の騎兵化を試みたことがあるが、9世紀には「(ど/いしゆみ)」の使用が申請されている。

 奈良時代の聖武朝では、勇健な者を猟騎(弓騎兵)として動員し、郡司[地方豪族の末裔]とその子弟(しだい)もその中に含まれた[奈良時代、日本は60ほどの国々に分かれており、中央から下る官吏が国司、現地の有力者がさらなる地域の地方官、郡司となった]。弓馬術に優れた郡司の子弟は国司が中央に送り、兵衛(ひょうえ: 宮中警護部隊)とした。兵衛、近衛は衛府の舎人(とねり: 警備員)といった。

 これらの人々を著者は「有閑弓騎」と名付けた。彼らは、京の所在地と周辺諸国から集められた。我が国最古の有閑弓騎は、7世紀、山背国に現れた(賀茂祭りの騎射)。祭礼とは、神に対する接待であり、お供え、芸能、流鏑馬などが捧げられる。なぜ山城国か? そこは、騎射文化の盛んな百済からの亡命者の入植地であったからである(百済王室の祖、朱蒙は騎射の達者を意味し、高句麗もやはり朱蒙を祖とする)。

 聖武天皇はこのような有閑弓騎を組織し、坂東九カ国の軍三万に騎射を教習させた。従って、東国では農民もその訓練をすることができた。彼らは「健児」として有用性は注目され、最上層の貴人の私兵となっていく。源平への流れがそこにある。地方の防衛強化のため、節度使が設置され、精鋭部隊が組織された。一方、徴兵された農民にには十分な兵力を期待できないため、徴兵制は廃止された。

 有閑弓騎は六位以下の身分であり、"中央の廷臣"と"郡司・子弟・富豪農民"の二種類から成っていた。桓武天皇は、蝦夷との戦争にこれらを総動員した。

 

 第3章 墾田永代私財法と地方の収奪競争: 794年、桓武天皇は平安京に遷都した。その間に新羅との衝突は回避され、嵯峨天皇の時代、811年に蝦夷との「38年戦争」をやめたので、有閑弓騎は地域社会での富の争奪戦に専心するようになる。

 筆者はここで「王臣家」について言及する。それは皇族と三位以上の貴族と五位以上の純貴族より成り、それらの子孫を王臣子孫としている(『類聚三代格』より)。

 すべての始まりは聖武天皇の定めた墾田永年私財法(743年)であった。私有の田地を法的に認めたもので、墾田の売買が可能となった。当時の日本には66の国と2つの島があり、国の行政は国司によって司られ、その政庁は国衙・国府、その長官の守は受領(ずりょう)と呼ばれた。その下の郡の行政を司るのは郡司で、かつての国造という地方豪族であった。この国司は民の労働力を私物化して、鷹狩りなどをしており、問題視され、違勅罪という罰則も定められたが、特権階級には軽すぎて効果はなかった。

 国司の前に王臣家が現われ、富と人材を呑み込んでゆく。国司と郡司の娘の婚姻を禁ずるなどしたが、両者の癒着のための逃げ道はあった。765年の禁令により開墾は凍結されたが、772年に解禁され、王臣家の暴走は本格化し、荘園化していく。

 元国司や王臣子孫が墾田からの収入に躍起になったのは失業者だったからである。鎌倉幕府や室町幕府の守護大名が没落しなかったのは、所領を持っていたから。

 

 第4章 王臣家の爆発的増加と収奪競争の加速: 国司と王臣家の利害は対立したが、彼らの本質は同じであった。国司こそ王臣子孫にほかならず、そこから武士が胎動してくる、と筆者は言う。氷上川継の乱(782年、未遂に終わった桓武天皇襲撃計画)は、王臣家のメンバーが危険で犯行的な存在であることを露呈した。さらにその連座か冤罪か、左大臣の藤原魚名が失脚し、太宰府へやられた。零落した王臣子孫の勢力は大きく、天皇の権威は見くびられていたことがわかる。

 このような傾向を促進したのはしかし、桓武天皇であった。桓武天皇は32人をこえる皇子・皇女をつくっていたのだ。それは親王身分の皇族維持費の膨大化を意味する。さらに親王たちの子女も生まれると皇族が鼠算式に増える。当然のことながら朝廷は臣籍降下を断行した。彼らに、不法な収奪に彼らの権勢を利用したい者が群がり、私利私欲のるつぼと化した地方社会の混乱は助長されていった。国司・郡司制度は民を搾取するシステムに堕落した。

 平安京に遷都した頃の朝廷は蝦夷との三十八年戦争の真っ盛りであった。蝦夷は利潤を貪り、馬を盗んで売り、領民を誘拐して売った。地方の富豪百姓は、贅沢で金銭感覚の麻痺した王臣家の人々に高利貸しをして債務奴隷としていった。

 桓武天皇が没した後、規制が緩和され、国司は、佃(直営の私有地)を拠点として土地を集め、寺社や王臣家も墾田を集めて荘園をつくった。そして国司と王臣家は利害が一致して結託し始める。王臣家は国司に名義貸しをして、開墾事業を進めた。

 一方、郡司層は王臣家と険悪な関係にあり、未進(未納)が累積していたので、平城天皇は観察使に地方の実態を調査させた。朝廷の税制は破綻しつつあった。

 財政破綻を防ごうと、桓武天皇は平安京の造営を中止し、息子の嵯峨天皇は811年、蝦夷との三十八年戦争を終わらせ、俘囚[帰順した蝦夷]の懐柔を進めた[奥六郡は平安末期、藤原秀郷の子孫、奥州藤原氏が支配することとなる]。

 桓武天皇の子孫(王臣家)の増大、戦争が終わって武力を持て余した有閑弓騎、これらが素因となって新しい動きが生まれる。桓武平氏の成立→その祖は葛原親王: 有能な官僚であったが、嵯峨天皇から上野国の長野牧[上毛高原のあたり]を与えられた。東国の牧は東国の騎射文化と関連している。その子孫が有力な有力な武士として成立する基盤となったはずである。

 武士を代表する源氏と平氏の成立: 814年、嵯峨天皇は多くの子孫に「源朝臣」姓を与えて臣籍降下させた: 嵯峨源氏の始まり(名前は一字とする)。淳和天皇の時、葛原親王が子孫に「平朝臣」姓による臣籍降下を願い出た。

 親王任国制度: 増えた親王を八省の卿から外し、上総・日立・上野に太守という地位を設けて彼らの生活費に充てることにした。親王は在京のまま、次官の介が受領(ずりょう)となった。

 835年、葛原親王は甲斐国巨麻郡の馬相野(まあいの)に空閑地を与えられた。駒つまり名馬の産地である。

 

 第5章 群盗問題と天皇権威の転落: 群盗という犯罪集団が発生し、それが武士を生むことにつながる。それは、郡司富裕層の有閑弓騎が、独自に強盗団として犯行に及んだものである。仁明天皇即位後に畿内諸国や京に現われ、六衛府が夜警に動員された。ただし衛府は警察・警備員であり、軍隊ではない。しかも衛府の舎人の多くは幽霊職員であり、動員できなかった。

 群盗の発生は、生活に破綻した人々の発生による。救い難い債務超過に陥った郡司富裕層であった可能性が高いと著者は言う。

 仁明天皇には浪費癖があった: 唐風儀礼や漢詩文化を統治だとする文章経国には経費がかかった。

 僦馬の党: 地方から畿内への調庸の運搬と安全を請け負う武装集団のことで、群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。つまり群盗の一種である。瀬戸内海の海賊もその一種で、王臣家人であった。

 仁明・文徳に続いた少年の清和天皇は、外祖父の藤原良房(太政大臣として)に補佐された。次の陽成天皇も藤原氏に補佐されたが、素行が悪い暴君・暗君であったため、皇位から引きずり下された。その没後、藤原氏は光孝天皇を皇位に据え、さらにその没後に宇多天皇を据えた。天皇の権威は地に落ちた。

 任期を終えた国司は、未進がないか解由が終わるまで現地に留め置かれた。名の知れた悪徳王臣子孫の一人に中井王という国司がおり、臣籍降下して文室真人という姓を賜った。王臣子孫は民の生活を脅かし続けた。

 

 第6章 国司と郡司の下剋上: 朝廷の権威が失墜したので、国司は命さえ危ない状態に陥り、国司の殺害や国衙の襲撃はありふれた事件となった。例えば857年、対馬守立野正岑が襲撃され、17人が射殺されて落命した。その他、王臣家人は市司の官人を暴行し、商人はギャングのような王臣家に従った。群盗問題は全国に波及し、群盗の巣窟となった武蔵国には検非違使が設置された。群盗の構成員には、もと蝦夷の俘囚がいた。つまり、群盗は、貧に窮した郡司富裕層の有閑弓騎と俘囚の二種類があり、ともに弓馬術の使い手であった。出雲国で暴動を起こした群盗は源氏と藤原氏であった。

 天皇自ら皇室歳費節減に励んだ結果、天皇一族の末裔は源氏・平氏ばかりとなり、増えた藤原氏・源氏・平氏に与える官職の数は限られており、彼らは地方に大量流入した。これこそが武士の源流であろうと筆者は言う。そして彼らは郡司富豪層との婚姻関係により結合した。

 883年、筑後守都御酉を群盗百余人が襲撃射殺略奪するという事件が起きた。これは任用国司が受領に対して起こした反乱であった。他にもいろいろ国司襲撃事件あり。平将門の乱は常陸の国衙を襲撃したが、そんなことはざらだったのである。

 

 第7章 極大点を迎える地方社会の無政府状態 — 宇多・後醍醐: 関白藤原基経の没後、宇多天皇は摂関家から自立し、親政を開始する。まず儒学者・菅原道真を蔵人頭に、さらに式部省輔に任じ、左中弁を兼ねさせ、王臣家対策を始動する。地方の実態を調査し、郡司が追い詰められ、擬人郡司が王臣家に擦り寄っていたことを明らかにする。彼らは「強雇」を犯し、大規模なマフィア的地方権力が形成されつつあった。国民は暮らしに余裕ができても、億万長者になっても、際限なく金儲けを追求するようになる。その犯人の中には、暴悪無双の陽成上皇(院)がいた。

 そして王臣家は、地方の裁判権力、紛争の裁定者へと脱皮していく。

 物部氏永の乱: 僦馬の党に似た群盗のリーダ—物部氏永の追捕には一〇年を要した。
その正体は、坂東の有勢者を中心とした反国衙・反国家的武装集団で、軍糧や兵器の輸送、貢納物の京進業務に携わる武装運輸業者(僦馬の党)であったものが凶賊となったものである。彼らは人や馬を強雇して、庶民を苦しめた。

 901年、菅原道真は太宰権帥に左遷されて失脚し、左大臣藤原時平が主導する。一方、太宰府で憤死した道真の怨霊から東国の帝王の地位を授かったとしたのが平将門である。将門は出自の貴さをもとに新皇政府の樹立へと向かう。

 

 第8章 王臣子孫を武士化する古代地方豪族 — 婚姻関係の底力と桎梏: 916年、下野の国司が罪人を流刑地に送れないと訴えた事件があった。その罪人とは藤原秀郷である。秀郷は、平将門の乱を平定する11年前には強力な無法者であった。

 藤原利仁: 下野国の群盗千人を討伐した(?)。平安の代表的な武士として、坂上田村麻呂、源頼光、平井保昌と共に「中世武人四人組」と呼ばれるようになった。

 高望王の坂東赴任: 桓武天皇の孫として生まれ、889年、上総介として(?)東国に勢力を築いたとされているが、著者はこれをでたらめな伝承であり、下向したかも不確かだとする。その息子、平良将(よしまさ)は、下総国に在って私営田を経営、また鎮守府将軍を勤めるなどし、坂東平氏の勢力を拡大した。その息子が平将門。

 平氏一族の争乱は婚姻関係が発端ではないか?: 父良将の遺産を、将門は伯父良兼と争った。王臣子孫と現地有力者の婚姻は名実の結合をうむ。当時の妻問婚がそれを容易にした。葛原親王が東国に牧を保有していたことは強力な基盤となった。

 藤原秀郷の場合、その現地の有力者は畿内の豪族鳥取氏であった。本牟智和気王(ほむつわけのみこ)の話など。藤原秀郷は、祖先の藤原藤成がこの鳥取氏の娘と結婚し、秀郷の祖父を産んだのであった。

 

 第9章 王臣子孫を武士化する武人輩出氏族 —「将種」への品種改良: 武士を形づくるには、血統・技能・資力のみではなく、武士らしい生き様、兵としての自覚、信念、名誉が必要である。技能は遺伝的素養と教育による。

 藤原秀郷は弓馬術と故実に優れていた。平氏も、平良将が鎮守府将軍となった時に蝦夷から弓馬術を学んだ可能性がある。

 元慶(がんぎょう)の乱: 878年の蝦夷の反乱。鎮守府将軍となった小野春風は、子供の時に陸奥にあり、蝦夷語を話すバイリンガルであり、和睦に役立った。

 坂上田村麻呂の傑出した武勲について: 坂上氏は世襲的な将種であり、それは幼少期からの教育によるものであった。桓武天皇は田村麻呂の娘を後宮に入れ、彼女から葛井(ふじい/かどい)親王が生まれ、葛井親王は幼少より射技に優れていた。清和源氏には、葛井親王の孫娘が清和天皇の更衣となり、その子供が清和源氏の始祖となった。

 だが清和源氏の血統には異説がある:源頼信[源満仲の子]が石清水八幡宮に奉納するにあたり、自らの系譜を応神天皇まで遡って述べたところによると、清和天皇ではなく、暴君として知られた陽成天皇の血筋だというのである。経基は貞純親王の子ではなく、元平親王、祖父は陽成天皇だとすれば、源満仲の暴力性(酒呑童子を退治した伝説がある)にも納得がいくと筆者は言う。

 一方、桓武平氏はどうかというと、葛原親王の母は多治比長野の娘であった。多治比長野は文官であったが、多治比氏は文武両道の氏族であり、東国で軍馬生産の中枢を担う人を輩出していた。

 ただし、この源平の筋書きは藤原秀郷にはあてはまらない。俘囚(蝦夷)との接点から弓馬術を学び、伝承してきたものと考えられる。

 

 第10章 武士は統合する権力、仲裁する権力: 武士の本質は、婚姻によって触媒された融合にある。古代的要素が融合して生まれた中世的存在である。筆者はそれをマッシュアップという言葉で表している。

 平将門は他人の紛争を仲裁したがった。裁定者としての存在というところに武士が統治者を目指す動機があった。武士は後に三つの幕府をつくり日本の統治者になろうとした。その動機は何か? 裁定者であることを存在意義としたのではないか? 

 初期の郎党は、古い氏族であるが、古い秩序を壊す王臣子孫と癒着することで生き残りを図った。武人的資質を提供してきた氏族は、家人として従者となり、実働部隊として生き残った。

 

 第11章 武士の誕生と滝口武士 — 群盗問題が促した「武士」概念の創出: 武士の成立には、現地有力者との融合が必要であり、牧と関わったことは弓馬の士を生むために必要であった。

 さらに、平将門には京で奉仕した経験があった。それは滝口武士としての経験である。「武士」という呼称の史上初の事例がこれである。滝口とは場所の名前であり、天皇の居住空間である清涼殿の北東における段差に見られる小さい滝に面した出入口を指す。朝廷での役職には、官と、令外官(宣旨職:  検非違使、蔵人、摂政・関白、征夷大将軍)があった。滝口は蔵人所の管轄下にあったので、天皇の個人的親衛隊のような警備員的武人であった。設置されたのは宇多天皇の時である[物部氏永の乱が契機か? 設置はその翌年]。衛府が形骸化して役に立たなくなったからであろう。10人〜20人ほどの少数精鋭の実力主義であった(毎晩四人が夜行する)。なので、武士は衛府から生まれたという説は成り立たない。

 日本では五月五日を練武の日として重視し、衛府の武官が騎射をする習わしであった。流鏑馬の源流である。滝口の武士はこれに参加せず、歩射の練武を行った。932年七月には相撲節会が行われた。

 976年には、武勇に堪ふる五位己下は弓矢で武装した武士とされた。治安維持のため、職務中の武官以外は兵(武器)を持つことは禁じられたが、その武官の中に武士も含められた。滝口武士は様々な武人輩出氏族から選ばれたが、次第に、源・平・藤原・紀・伴など、王臣子孫から登用されるようになっていった。

 鎌倉幕府が成立するとその御家人は鎌倉周辺で生活したので、滝口の仕事と両立はできない。よって、滝口は人材難に陥り、朝廷は幕府に滝口経験者の子孫を滝口へ出仕させるよう依頼するようになった。

 

 終章 武士はどこから生まれてきたか — 父としての京、母としての地方: 武士という集団は、天皇を直接警護する滝口武士とともに現われた。滝口は弓馬の達者を盛んに吸収し、その子孫の一部が鎌倉幕府の御家人となった。よって滝口武士は京都で生まれたが、その人材育成は朝廷の外で諸家の個人的な教育によってなされた。その諸家は王臣子孫と地方の富豪郡司が婚姻によって結合して創発したものであった。多くの牧がある東国(坂東=今の関東地方)は弓騎文化の世界であった。それをうんだのは、子孫を増やしすぎた皇室と、その王臣子孫の生き残りを賭けた地方への脱出、彼らを利用しようとした地方富裕者とのハイブリッドな結びつきであった。

 

 あとがき — その後、何が起こるのか: 多くの古代氏族が執念深く中世の武士として生き残りを図った。

 鎌倉幕府が誕生すると、武士的価値観と貴族的価値観が組織同士火花を散らすようになっていく。

 

 桃崎有一郎の本、またそのうち読んでみることにしよう。

 6/6追記: 桃崎有一郎、NHKの歴史探偵に出て、平安京のダークな面について話していた。九条ネギ、水菜、みんな右京で栽培されていた。弓騎の群盗による襲撃についても。賀茂神社には天皇の馬牧場があった。検非違使の実態について。平安京の治安はひじょうに悪かった。群盗≒郡司、臣籍降下した天皇の子孫と地方豪族→武士の誕生。この番組はほぼこの本と一緒であった。