大河ドラマ 麒麟がくる第25回「羽運ぶ蟻」。関連地図

ちょっと投稿が遅くなりましたが今週も行ってみたいと思います。

 

今回のあらすじは

1)還俗した覚慶(後の足利義昭)は越前の朝倉義景を頼る。しかしなかなか上洛の意思を見せない

2)焦る側近をよそに死んだ蝶を運ぶ働きアリを眺める義昭(そうか!自分に尽くす働きアリを見つければいいのか。と悟った?)

3)光秀の元に細川藤孝義昭をともなってやってくる。義昭の気持ちを聞き、新たな働き蟻(光秀)を手にする義昭

4)その頃、信長は美濃を平定する。

5)藤田伝吾の手紙で母牧を伴い美濃へ帰る光秀。そこで母から「土岐源氏の誇り」を刷り込まれる(これが後に光秀の意識を呪縛する)

6)光秀は岐阜城の信長を訪ね上洛を提案する。その気になる信長。

7)駒は薬を転売する少年に真理を突かれる。きれいごとではやっていけないのだと悟る駒(それを遠目に見た今井宗久はニヤリと不適に笑う

 

そんな話でした。

さて。今回は主人公ですから仕方ないものの光秀はこの時点から活躍しすぎです😅。ドラマには出てきませんが、義昭の上洛に大きく貢献した一人に甲賀の和田惟政がいます。大和の興福寺を脱出した覚慶はいったん伊賀上野城仁木が匿い、そのあと和田惟政の甲賀の和田城に移動します。ここで和田は私財を売って義昭の生活を支え、義昭が琵琶湖近くに暫定で「矢島御所」を構えてからも支援し続けました(覚慶はここで還俗し義秋と名乗り、各国の大名に交渉を行っていきます)。また、信長に最初に使者としていったのもこの和田惟政(永禄9年6月)、お市と浅井長政の婚姻のきっかけを作ったのも和田惟政。信長が上洛し三好勢を摂津から追い出した後、彼は高槻城主となりキリシタンを保護します。摂津のキリシタン大名としては高山父子(友照、右近)が有名ですが和田惟政がいなければ、あんなに畿内にキリシタン大名は増えなかったかもしれません。かなり重要な人物ですけれど登場しないのは残念。

義昭脱出経路

 

矢島御所で形勢不利とみた一行はその後越前方面に退避しますが、実は越前退避直前の永禄9年(1566年)8月に信長は義秋と示し合わせ上洛を試みていたのでした。この時は美濃統一の前年で小牧山城が本拠だった頃です。この時取ったのは良く知られる信長の上洛ルート、岐阜城>近江>京都ではなく、北伊勢>南近江>矢島御所>京都のルートです。

 

これを邪魔したのは三好三人衆に調略された六角義賢斎藤龍興。信長は上洛途上で斎藤勢に待ち伏せされ撤退。六角も内通していることが濃厚となり頓挫します。そして、義秋は若狭に逃れ、9月には越前へと逃れていきます。

 

信長幻の上洛ルート

 

私がよく引いている「信長公記」には永禄9年の記述がなく、永禄9年4月の「新加納の戦い」は翌年永禄10年(1567年)の稲葉山城陥落の前に3行でちょろっとしたかかれていません。上洛はとても重要な出来事のはずなのになぜこの年の記述がないのでしょう?とても不思議です。太田牛一の持ち場とか何か日記が書けない事情があったのでしょうか??

 

稲葉山城の攻略について「信長公記」にはこう書かれています。

 

八月一日、美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就(もりなり)が申し合わせ、「信長公のお味方に参じますので、その保証として人質をお受け取りください」と申し入れてきた。そこで信長は、村井貞勝、島田秀満を人質の受け取りに西美濃へ派遣した。

 まだ、人質も到着していないのに、信長は急に軍勢を出し、稲葉山の続き、瑞竜寺山へ駆け上がった。「これは何としたことか。あれは敵か味方か」と斎藤方が迷っているうちに、早くも町に火を放ち、寸時に稲葉山城を裸城にしてしまった。その日はことのほか風が吹ていた。

 翌日、土木工事の分担を指示し、稲葉山城の四方に鹿垣(ししがき)を結いまわして包囲した。そこへ美濃三人衆も駆けつけ、肝をつぶすほど驚きながらも、信長に挨拶した。信長は何事もこのように軽々と実行に移したのである。

八月十五日、稲葉山城の将兵はみな降参して、斎藤龍興は、飛騨川(長良川)の続きであるから、船で河内の長島へ退散した。こうして信長は、美濃の国全域を支配することとなり、尾張の小牧山から美濃の稲葉山へ引き移った。井口という地名をこの時改めて、岐阜と名付けたのである。

 

信長っぽい意表をついた戦い方。。相変わらず規格外です。

ルイス・フロイス日本史には、この稲葉山城占領時の記述はだいぶ違った記述がされています。要約するとこんな感じです。

信長はまず正面から攻める風に布陣し斎藤軍の目を前方に引きつけたうえで、斎藤軍の旗印を作らせ、夜陰に紛れて稲葉山城の後方に主力軍を迂回して配置。下山して正面攻撃をかけてきた斎藤軍を迂回した軍とで挟撃。撃破して稲葉山城に突撃し占領した。

どちらが正しいのでしょう?? その後のフロイス日本史の記述に「斎藤龍興は京都から堺に避難した」と書いてあることから(これは事実と異なる。龍興は一旦、長島の一向宗の元に逃れてから西へ向かった)、フロイスは斎藤家の家臣か誰かに堺でこの戦の顛末を聞いて書いたものと思われ、この部分は「信長公記」のほうが正確ではないかと思っています。

 

5)伝吾の手紙で明智城に帰った光秀母から光秀は土岐源氏の呪いの言葉をかけられますね。

「あなたは明智家の党首。土岐源氏の血が流れています。ほこりをもって思うがままに生きなさい」。これが後の本能寺の変につながっていくのですけれど。。お母さん。あまり血で縛らないであげて。と言いたくなりました^^;

 

6)信長光秀のやりとり。ここはかなり重要な見どころだったと思います。

信長は「私は戦が嫌いではない。今川を討ち果たした時、皆が褒めてくれた。喜んでくれた。戦に勝つのは良いものだ。皆が喜ぶ顔がこの上なく好きなのだ。皆を喜ばすための戦なら。いとわぬ」

 

これを半ば睨むような目つきの光秀。「私は戦が嫌いだ」これが光秀の本心だからだ。そのための麒麟を探してきた。続けて信長「ただ。これからどこに向けて戦をしていけばいいのかがわからぬ。四面楚歌だ。」

 

光秀は戦の世を終わらせたい。そこで一計を提案する「京に上ってはいかがでしょう」。

まずは天下(近畿)を収め、日の本を統一し、戦の無い世を目指す。この時点での向かう方向性は一致した。でも、スタートのこの時点から二人の動機は異なっています。

 

信長の動機:「戦は人にほめられるための手段」

光秀の動機:「戦の無い世。平らかな世を作るのが目的。戦はやむを得ない手段」

 

一見利他的に見える信長の根本動機は自己満足を得るため(父母の歪な愛情枯渇の成れの果て?)

光秀の動機は戦の無い世を作るため。

 

ズレてる。。完全にズレてます。でもこの時点では「将軍奉戴での上洛」で目的が一致したにすぎない。これは作品としてものすごくうまい表現だなあ~。と感心しました。価値観がずれたまま呉越同舟していく。これは面白い!いずれ来るほころびをこの時点で織り込んでます。

 

リアルの世界でもこういうことってありますね。利害が合致してスタートしたプロジェクト。ある程度うまくいってくると根本の思想の違いで対立が生まれる。それが破たんを生む。自分も味わってます。実際にあります。そういうこと。

 

今回は人間のドラマですね。駒も少年のリアルな声に自分の薄っぺらな「常識」「正義感」を打ち砕かれます。

それで「はっ」ときづく。

人生ってそんなものかもしれません。

 

それではまた次回も楽しみにしてます!!