上巻からの続きである。数多い有名無名の戦国武将ぞろぞろにもたいぶ慣れてきたので、続けて読むことにした。下巻は有名な事項が多いので読み易く面白かった。

 

 さ迷う軍団: 信長は信玄対策の妙案を思いついた時になぜか松永久秀を思い出し、背いたとわかっていながら、江北に兵を送るよう命じてからかった。

 信玄を期待する浅井長政は朝倉義景の重い腰を上げさせた。一方、信長は、軍用道路と長い土塁を築き、三つの砦を結ぶという普請を行なった。この江北の陣は木下藤吉郎に任せ、信長は美濃に引き返して信玄に備えるという策である。

 将軍足利義昭は、謙信と信玄を和睦させようとしており、それで信長を煩わせようとしていたが、誰もそんな気はさらさらなかった。信長は義昭に警告書を送り、釘を刺す。将軍形無し。それを見た義昭は憤怒する。

 信玄は甲府を発ち、遠江へと進む。家康は信長に援軍を求めるが、信長は家康に、必勝の策があるから、信玄との衝突を避けるよう言い伝える。信玄の将、秋山信友は東美濃に攻め入り、岩村城の城主とした信長の五男坊丸(勝長)を捕らえ、人質とした。

 その頃、信玄は江北の陣について、それを預かる木下藤吉郎について知ることとなる。朝倉義景の撤退も知った。その上で、三方ヶ原を目指す。筆者はこれを「さ迷う軍団」としている。

 数で劣る徳川軍は本多忠勝の殿で窮地を脱する。信長から遣わされた佐久間信盛や滝川一益は浜松城にこもってやり過ごせと言うが、家康は信玄の軍を追うこととする。そして待ち伏せられて敗北し、浜松城に逃げ帰った[徳川家康のしかみ像?]。

 

 六条河原での梟首: 信長にとって、三方ヶ原における家康の敗戦は大きな誤算であった。危惧したとおり、信玄を頼みとする敵方は勢いづく。将軍義昭は、反信長の旗幟を公然とし、諸将を集め始めた。その間、細川藤孝と明智光秀は公方の動きに手を焼いた。そして、荒木村重を味方につけることに成功する。信長も義昭の懐柔を図る。

 一方、信玄は野田城を攻め、手こずるも、落とした後は北上し、長篠城に入る。

 今堅田の砦: 明智光秀の囲舟という武装船によって攻めた。

 その頃、信玄は病んでいた。それでも信長は義昭に和議を申し入れたが、将軍はこれを撥ねつける。信長は、禁裏を避けて上京(三条以北)を焼き討ちする。

 信玄は信州駒場で客死。信長は、ルイス・フロイスから聞いたガレー船の話から、巨大戦艦の建造を思い立つ(安宅船?)。信玄の訃報が入る。

 義昭は、宇治の槙島城を難攻不落と思い、そこに籠ることとする。信長は二万の兵を従えて京に入り、これを難なく落とすと、羽柴秀吉に命じて義昭を河内若江城へと送らせた。そして改元を要求し、天正となる。

 信長は坂本[比叡山の東側山麓]に入り、巨大船に乗って北上し、高島辺りを焼いてから岐阜に戻った。信玄死すの報は広まっていたし、広まらせていた。

 小谷城を守っていた大嶽(おおづく)山、焼尾丸、いずれも降ってきた。投降した兵士を信長は助命し、放つ。朝倉義景は逃げる。朝倉勢は三千の首が討ち取られた(姉川の戦い)。その重臣の朝倉景鏡も信長に投降し、影鏡は義景の首を差し出す。

 小谷城については、羽柴秀吉に任せることとした。お市とその娘三人の救出について案が練られた。浅井長政父子は自害。それらの首も京都に送り、朝倉義景のものとともに六条河原にて梟首された。

 

 長島殲滅: 信長は越前から危機一髪で撤退し、京を経由して岐阜に戻る時、千種峠で鉄砲に撃たれそうになった。善住房という狙撃手が六角承禎に依頼されたことがわかると、信長はこの人を生き埋めにし、鋸挽きの刑に処した。

 北伊勢、長島の一向一揆勢は手強く、油断がならなかった。

 毛利はというと、信長とは敵対したくなかったので、義昭の対応に困っていた。毛利の外交僧、安国寺恵瓊は義昭を京に戻すよう指示されていたが、信長はそれを阻止しようとした。毛利は義昭を引き取りたくはなかった。

 三好義継は、佐久間信盛に攻められ、天守で自刃した。

 このような状況で、本願寺は孤立し、信長と和睦するしかなかった。

 松永久秀は多聞山城を差し出して信長に降伏し、信長は光秀に多聞山城を守らせる。金箔貼りの髑髏三つ(朝倉義景、浅井長政父子)で天正二年の正月を祝う。光秀の才覚と働きについて。多聞山城の豪華さについて。

 越前の守護代が攻められ、門徒の一揆が気になる。

 武田勝頼が、東美濃に迫り、明智城を落とした。その奪回にも手間取った。

 蘭奢待を切り取る: 足利義満・義政・義教が切り取っていた。信長はこれを所望し、内裏はその許可を与えるため、信長を従三位参議に昇位昇格させた。そして信長は、蘭奢待を多門山城に持って来させて切り取った。

 越前の門徒一揆は活発化し、富田長繁を攻め殺し、朝倉景鏡を討ち取った。

 信長は遊びが好きであった。津島の踊り張行について。賀茂祭の競馬(くらべうま)に参加し、二十頭を出場させてすべて勝った。

 武田信玄の遺言について; 武田勝頼の出生について; そして徳川家康が長篠城を攻めて落とすと、これが面白くない武田勝頼は、明智城など十八の小さい城を落として気をよくし、1574年五月、高天神城に向かう。家康は信長に援軍を要請するが、信長の動きは鈍く、戦意がなかった。高天神城は武田の手に落ち、信長は兵力を温存することができた。家康は兵糧代として黄金の革袋を二つ、信長から受けた。

 そしていよいよ長島攻めである。大小の船をかき集めて河川を船で埋め尽くして包囲、兵糧攻めにし、最後の二砦に立て籠った二万の門徒を焼き殺した。

 

 止まらぬ笑い: 武田勝頼は高天神城を落とした後、浜松城を窺った。信長はその動きを把握しており、西から東へ素早く移動するための軍用道路を建設した(道普請. 幅6,3m/ 5,4m)。そして浜松に兵糧を送り、家康に早まるなと釘を刺す。

 信長、京都にいた今川氏真の蹴鞠を見物する。信長は畿内の覇者となり、石山本願寺を助ける者はもういなかった。

 大賀弥四郎の陰謀について: 武田側に内通した家康の家臣。処刑された。

 その逆、奥平貞能の場合: 家康に待ち伏せを通報して命を救い、内通を疑われたのに堂々とかわし、長篠城の在番を命じられ、後に家康の直参となる。

 二年前(1573年)、家康に落とされた長篠城を今は武田軍が取り囲んでいた。家康から城を預かった奥村貞昌(貞能の嫡子)は死を覚悟するが、援軍を乞うため、鳥居強右衛門(すねえもん)という雑兵が城を脱出し、浜松へ向かう。援軍まもなくの報を持ち帰ったところ、武田側に捕まり、虚偽の報告をするよう命じられるも援軍近しと叫んだため、磔にされる。このエピソードは知られ、鳥居強右衛門の旗指物がつくられる。

 その間、信長はいかにして長篠で戦うか作戦を練り、墨俣の馬止柵をヒントにする。馬止柵は互い違いにつくり、鉄砲放を三千五百ほど集め、三段連打ちとする(?)。そして進軍をゆっくりとさせ、武田軍には戦う気がないように思わせる。信長は、家康の家臣、酒井忠次恵比すくいを踊らせ、余裕。酒井忠次の夜襲計画(敵の背後にまわり、寝込みを襲う)を信長は秘して密かに実行させる。

 武田軍はその思う壷にはまってしまう。武田の騎馬軍団は、足軽鉄砲隊に敗れたのである。戦死者は武田一万、織田・徳川六千と、関ヶ原よりも多かった。信長は会心の笑みを抑えることができなかった。

 

 最後の戦場: 信長は越前の一向一揆征伐に乗り出した。寄せ手は五万に達する。

 禁裏から官位を進めるという打診があったが断り、家来たちの官位を進めてもらうことにした。秀吉は筑前守、光秀は日向守、など。

 興福寺大乗院の尋憲は、失われていた所領回復のため越前に向かう途上、信長の本陣で、削がれた一向宗徒の鼻の袋詰めを見て度肝をぬかれた。

 北ノ庄(福井)にて、信長は、細々とした「越前国掟」を添えて柴田勝家に越前八郡を与え、前田利家らにその目付を命じた[よほど信用がなかったのね]。

 石山本願寺はなおも立ち退かない。和睦を申し入れて居座っている。

 禁裏は信長の官位を権大納言、右近衛大将と上げてきた。

 そして、信長の嫡男、勘九郎信忠が攻める岩村城に、武田勝頼が救援の兵を送ったとの報に信長は動く。先着した信長に、秋山信友は降伏したが、岐阜で磔にされた。これを落とした信忠は秋田城介に任ぜられる。

 その頃(1576年2月頃)、信長は安土城の普請に着工する。普請奉行は丹羽長秀を命じた。天主と命名したのは天龍寺の禅僧策彦である。蛇石のこと。

 雑賀の鉄砲衆を徴集する。そして石山本願寺の四方に砦を築き、海路からの補給を断つこととするが、原田直政が討ち取られた。天王寺砦も攻められ、信長は動いた。

 毛利は信長と事を構えたくなかったが、足利義昭が備後鞆(とも)にやってきて、いろいろ考えた挙句、対決することに決めると、村上水軍を用いて、石山本願寺に兵糧を届けさせた。荒木村重の船団は焙烙火矢を受けて壊滅した。

 越後の上杉謙信も信長打倒の腹を固めた。

 翌年には雑賀衆の一部と根来衆の杉之坊が信長に下る。彼らはどちらにもつく傭兵なのだ。鈴木孫一らは石山方に付いている。信長は慎重に兵を進め、雑賀の中野城を落とした。降伏した領袖七人は赦された。信長にとってはこれが最後の戦となった。

 

 村重謀反: 安土城の吹き抜け空間のこと。狩野派による絵画は、外陣の阿鼻地獄図から、内陣の釈迦説法図へと極楽を表していた。ルイス・フロイスの描写。六階は道教・儒教の世界。周公旦の故事、吐哺握髪など。

 謙信は門徒一揆と手を結び、七尾城へと向かう。そんな時、柴田勝家からの注進があり、羽柴秀吉が戦線離脱したことを知る。秀吉はその理由を信長に語る。松永弾正が謀反して信貴山城に籠った、農繁期には上杉らが帰国する、自分を播州(兵庫県南部)で働かせてほしい、小六らが官兵衛の嫡男を質子にとってきた、と。信長は、生野の銀山を奪えと秀吉に命じた。一方、謙信は七尾城、末森城を落とし、手取川で信長軍を破ったが、冬を前にして、軍を引き、帰郷した。

 松永久秀は、平蜘蛛とともに城に火を放って焼け死んだ。

 秀吉は、信貴山攻めの後、播州に向かった。美作・備前を支配する宇喜多氏の上月城を攻め落とそうと考え、尼子の党に向かわせる。生野も上月城もあっさり落ちた。正月に十二人の臣下を呼んで茶会を開き、秀吉を手放しで褒めた。

 だが、播州では東播で別所長治らの謀反が起きる。上月城攻めで後巻きにされたからである。三万の兵が上月城の奪還に迫る。秀吉は援軍を要請するが、信長は明智らに引き留められた。援軍五万はしかし城を前に打つ手がない。

 竹中半兵衛が信長のもとに来て、備前の明石景親を調略した、次は、宇喜多の客人となっている浦上宗景を調略し、ついでに宇喜多直家を調略する、と。

 信長は三木城攻めを秀吉に命ずる。

 荒木の水軍は撃破されたため、信長は鉄張りの戦艦の建造を九鬼嘉隆に命ずる(オルガンティーノ神父の書簡)。

 そして荒木村重が謀反を企て、有岡城に立て篭もる。熱心な門徒だった村重は顕如光佐を崇拝していたのだ。村重のもとには、摂津の高山重友・右近は人質を差し出していたが、キリシタンの布教を餌に、信長に降った。村重は孤立する。

 毛利は六百艘の村上水軍によって本願寺に兵糧を入れようとしたが、信長の鉄甲艦によって壊滅させられた。

 

 信康生害: 播州における離反、村重の離反は信長にとって心外であった。つのるいらいらをはらすべく、近衛前久(本郷奏多の演じた破天荒なお公家を思い出す)らと鷹狩りなどに信長は興じた。

 その頃、秀吉は三木城を包囲していた(三木の干殺し)。

 安土城の天主は、信長の誕生日五月十一日に落成された。信長は城下の町づくりにも力を入れ、妻子を伴わせて家臣や家来を住まわせた。楽市楽座により商人を保護し、商いを活性化させ、安土を賑わせた。

 浄土宗と法華宗の宗教論争(安土宗論):  法華宗は罰を受け、罰金を払わされた。

 波多野三兄弟のこと: 安土で処刑されたので、人質に残した光秀の母が殺されたことは書かれていない。

 信長は、徳川家康の嫡男信康に嫁がせた娘の五徳から夫が荒々しく振る舞う、実父とは不信、築山殿は謀反を企てている、などと記した手紙をもらい、家康に使いをよこすよう言うと、酒井忠次がやってきた。家康は信康を岡崎から逐い、遠州二俣城にて生害させた。筆者はこの事件について、家康が信康にほとほと手を焼いていたからとし、信長が命じたというのは俗説だとしている。徳姫は送り返された。

 また、信長は、信雄(のぶかつ)が、伊賀を攻めて敗れ、多くの家臣を失ったという報を受け、憂鬱をつのらせ、信雄を罵倒した。

 

 御かへり事よろしくて、めてたし: 織田軍に攻められた荒木村重は毛利に期待したが動きがないので、有岡城を抜け出して尼崎城に入った(1579年9月)。そして落城。

 その間、信長は京に向かい、二城の屋敷ができたので禁裏に進上したいと申し出た。内裏からの返事をそれを五宮がもらい受けるというものであった(信長不服)。御院所の造営をおろそかにしていたのだから、その代替としては受け取れないという意味のようである。ともあれ、御所の行啓が執り行われた。

 有岡城に残っていた女房たち百二十二人を信長は尼崎城郊外に連行して皆殺しにした。さらに家臣とその妻子ら五百十四人を焼き殺し、一門眷属は京を引き回してから六条河原で打首にした。一方、村重は海路逃げ延び、毛利に庇護される(後に本能寺の変の後、村重父子は秀吉の御伽衆として仕えることとなる)。

 三木の干殺し: 1580年、播州三木城が落ちた。

 関東の北条氏政が降った。上杉謙信の養子、甥の上杉景勝と、景虎(氏康の子で、氏政の弟)が家督争いとなり、氏政は弟の肩を持ち、家康と同盟を結ぶ。

 そして石山本願寺が降伏し、紀州鷺森(和歌山、雑賀党の本拠地)に移った。顕如の嫡男、教如は徹底抗戦を主張したが降伏し、流浪の身となる(後に豊臣政権下で復帰)。

 佐久間信盛・信栄親子に対する折檻状: 働きが悪く卑怯だったので討死するか、高野山へ行けと命じられ、さらにそこからも消えろと言われて熊野に入った[パワハラ上司をもつのは辛い]。

 山名豊国のこと: 秀吉が、因州鳥取城を飢え殺しにして落としたが、豊国は家臣により追放された。 

 一方、家康は高天神城を包囲し、兵糧攻めにした(1580年)。

 その間、信長は"踊り張行"に興じ、左義長に爆竹を爆ぜて馬を走らせた。この遊びを正親町天皇が京で所望したので、大々的に行なうこととなる。そのために京入りした時、イエズス会・ヴァリニャーノ巡察師の訪問を受け、黒坊主(弥助)を貰い受けた。本能寺の変に際しては、光秀の言により命拾いしたとある。

 京における御馬揃えのこと: 信長が西洋風にコスプレした御所の東側での天覧パレード。誠仁親王の所望により、もう一度繰り返された。内裏は信長に左大臣の官位を打診したが、自分よりも信忠にと悟らせたい腹であった。正親町天皇は幾度も信長から譲位を勧められていたが、しなかった。内裏は、陰陽道によると、天正九(1981)年は金神の年だからと断った。

 安土城ではヴァリニャーノ神父らを案内した。ことには会堂もセミナリオも造られていた。その時、イエズス会に、安土城を描いた屏風を贈呈している(行方不明)。

 翌(1581)年、遂に高天神城が落ちた。

 

 甲州平定: その頃、鳥取の山名氏の家臣たちは、毛利の家臣吉川経家を迎えて将とした。鳥取城の戦い: 秀吉の兵糧攻め、籠城五ヶ月で開城した。

 伊賀攻め: 次男信雄が大敗を喫した伊賀を四万二千で攻め、あっさりと落ちた。

 竹生島事件と桑実寺のこと: 竹生島に出かけた信長は一泊するだろうと桑実寺に出かけた侍女たちを、日帰りした暴君信長は処刑したというエピソード。

 安土城の摠見寺について: 筆者は、これも信長の座興の一つであり、寺もちゃちだから、ルイス・フロイスの言うような自己神格化などではないと述べている。

 木曾義昌のこと: 木曽福島の城主で、武田と縁戚であったが、信長につくと決めた。それを聞いた信長は、甲州平定の出陣を決心する。穴山梅雪も寝返った。

 秀吉は備中高松城清水長左衛門の調略を命じられるも不可能とする。思案をめぐらせ、豪雨を待って水浸しにすることとする。

 武田勝頼の最期: 最後ので付き従った侍はわずか四十一人。滝川一益が田野に分け入って討ち取った。一益は信長から上州と小県・佐久を与えられた。

 信長はその後、頭立った者を連れて甲斐国を見物して回る。富士山の威容に感動。新府の焼け跡などを見たり、九日間甲州に泊まり、それには近衛前久も同行を望んだが、この人にうんざりしていた信長は断ったようだ。明智光秀は同行していた。

 六角義弼を匿った恵林寺の高層、快川紹喜を焼き殺した話。サイコパシーの一面。

 

 是非に及ばず: 所司代の村上貞勝が、禁裏に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍にと推任すべきだと指嗾したとある。そのため、勅使三人が安土を訪れたが、信長は会わず、送り返した。

 駿河国をもらった徳川家康は、穴山梅雪とともに、黄金三千枚という大金を土産にやってくるという(信長はうち千枚を返す)。光秀は、その接待役を命じられ、なおかつ四国征討軍の総大将に任じられる。ここから先は、明智光秀の脳内分析である。信長・信忠を誅するべか否か・・・。公方を担ぐか? 家臣の斎藤利三のこと。信長の心変わりのこと。愛宕権現のおみくじのこと。里村紹巴の連歌のこと(時は今あめが下しる五月かなという発句を受けて詠んだことの言い訳)。信長・信忠、いずれも率いていた兵が少なかったこと。信忠をお披露目すべく、名物の茶器を安土から持参していたこと。本能寺は未明に取り囲まれ、乱入された(6月2日)。

 その頃、秀吉は備中高松の陣にあったが、翌日の午前にこの異変を知らされ、すぐに和睦交渉し、清水宗治を自害させると、大返しする。信長が討たれた十日後、無光秀は山崎の戦いに敗れ、小来栖村の一揆で首を落とされた。