金閣寺を年に幾度も訪れる。それで足利幕府がずっと気になっていた。足利尊氏のことも、足利義満のことも知りたいと思い、これを読んでみた。「将軍」というものが源頼朝以来、いかなるものであったのかわかることができた。

 

 プロローグ — 規格外の男・足利義満: 金閣寺(金箔貼りの舎利殿)を(2018年に)訪れた外国人観光客は216万人いたとある。その舎利殿を著者はキメイラだという。神殿造り、書院造り、禅宗様の混合体だから。そして、異様で主張が強いのは、造らせた足利義満の考え方が異様で主張が強い規格外の人物であったから。

 足利義満は南北朝合一のため、朝廷の支配者となり、天皇や廷臣を翻弄した。北山文化は特異で空前絶後、独創的で、義満の個性だけに依存しており、能と狂言を大成させた世阿弥と深い関係があり、日明貿易を可能にするためのトリックに不可欠な空間であった。

 本書は「室町殿」、つまり義満がつくりあげた地位の全盛期の物語であり、義満はその後に「北山殿」という意味不明な地位をつくった。後継者はそれをどうしたか?

 義満は大名の掌握に苦労した。その原因をつくったのは、足利尊氏の弟、直義であった。

 

 第1章 室町幕府を創った男の誤算 — 足利直義と観応の擾乱: 後醍醐天皇がようやく鎌倉幕府を倒して成立させた建武政権は、鎌倉幕府の六波羅探題を滅ぼして京都を制圧した足利尊氏の前に挫折した。足利尊氏が幕府を倒すのになぜ幕府軍を使えたのはなぜか? 鎌倉幕府には人材が枯渇していた。下野を本拠とする足利氏は、北条氏と婚姻関係を重ね、勢力を拡大しており、後醍醐天皇の挙兵に対する討伐軍の総大将とされた。二年後の討伐軍も然り。尊氏に従っていた御家人(将軍の家人、従者)たちにとって、倒すのは北条であって幕府ではなかった。幕府の主導権を足利に引き渡す戦争だったのだ。さらに、尊氏は四歳の息子、義詮を盟主として、新田義貞に鎌倉で反乱を起こさせて滅ぼした。

 北条の血筋は卑しすぎたが、足利の血統は清和源氏の流れをくむ。後醍醐は、尊氏を将軍にしないために、護良親王を将軍に任じた。だが後醍醐は武士の世論を敵に回すことで立ち行かなくなる。

 足利尊氏の弟、相模守に任じられた直義(ただよし)は足利氏による幕府創立に邁進し、鎌倉入りして元旦に垸飯を行ない、鎌倉に幕府を再生させた。後醍醐は足利兄弟を朝敵とみなす。尊氏は進退に窮すも、味方の武士は彼を将軍と呼び、自分たちを御家人と称した。足利軍は、後醍醐によって引退させられた光厳上皇から足利を官軍とする院宣をとると、楠木正成らを討って、京都を奪回する。後醍醐は三種の神器を手放し、光厳上皇の弟が光明天皇として即位し、執権として兄の尊氏を立てる直義主導の幕府に従順な北朝が始動した。

 後醍醐は吉野に逃れ、南北朝時代(1337–1392年)が始まる。1338年、足利尊氏は北朝より征夷大将軍に任命された。足利家執事の高師直と直義の間に亀裂が生じる。高師直は足利邸を「御所巻」にし、その結果、直義は出家して政務から退いた。だが翌年、直義は決起し、南朝に投降してその官軍となる(観応の擾乱)。尊氏とその息子義詮は直義と対決し、直義優位で講和するも、京都で襲撃されるのを恐れた直義が鎌倉へ逃げる。そこでは、足利基氏が鎌倉公方となっていた。

 尊氏は弟の直義を討つべく鎌倉に向かう前に、何と!! 南朝に投降し、直義を殺したが、その留守に南朝は京都を奪回し、三種の神器を奪う。

 尊氏は常に受動的で主体性に乏しく、成り行き任せであった。幕府を構築したのは直義であった。尊氏は直義派の大名を統制することができなかった。

 尊氏の没(1358年)後、将軍となった義詮は、大名たちの要求に譲歩し、1362年、斯波高経管領とし、幕府の執政を委任した。斯波高経は息子の斯波義将(よしゆき)を執事とし、それを後見する(管領と執事の違いは、執事が制度的地位なのに、管領は制度外の行政長官という点)。直義派の筆頭格であった斯波高経が、直義の再来となったということ、直義派の勝利ということであり、防長の大内氏、越後・上野の上杉氏、山陰の山名氏など、大名の幕府帰順を促した。上杉憲顕は関東管領と称した。

 それでも佐々木道誉、細川頼之らは斯波高経と敵対し、義詮は手を拱いたまま、細川を管領[執事]として十歳の息子、義満の後見を託して他界した。高経の没後、その息子たちは幕府に帰順した。だが、直義派であった関東の鎌倉公方を世襲する足利基氏の子孫、関東管領を世襲する上杉氏がおり、基氏の子孫は幕府に反抗心を抱き続けた。

 

 第2章 足利義満の右大将拝賀: 足利義満が将軍位を継承した時(1369年)、南北朝の分裂は終わらず、大名たちを統率することはできなかった。22歳の時、大名らに細川頼之罷免を迫られ、折れたものの、義満は君主気質をあらわにしつつあった。

 南北朝の和解が失敗するのは身分制の桎梏によるもの、幕府と朝廷の対立だからであることに義満は気付く。それを朝廷と朝廷の講和とするしか方法はない、と。そこで、北朝と幕府を融合しようと考える。義満が将軍であるまま、朝廷の一員となり、北朝を代表するしかない。南朝に味方する大名の中で最有力なのは、山陰・山陽・畿内、南海を擁す山名であった。義満は先ず、北朝の掌握に取り掛かる。

 廷臣の頂点は左大臣である。そのようにして朝廷の政務を掌握し、その事実を天下万民に示すべく、拝賀という任官のお礼参りをすることにした。義満はそれを鎌倉幕府将軍のものと同等以上にすることとし、右大将となった時の頼朝のそれを手本とする。拝賀の作法は、前摂政の二条良基に指導を受けつつ、先例を逸脱し、二条良基は「扶持大樹之人」としてそれに協力し、義満の筆頭ブレインとなる。

 その計画はしかし、南朝の挙兵によって延期を余儀なくされた。細川頼之は出家して四国へ落ち延び、斯波義持が執事(管領)にのし上がった。一方、拝賀の準備は進む。

 

 第3章 室町第(花御所)と右大将拝賀: 義満の邸宅は今の御所の北西[同志社大学の敷地内]にあり、花御所、花亭、室町殿、室町第、北小路亭などと呼ばれた。花亭という言葉は中国文学において花の鑑賞のための庭園をもつ邸宅で、儒学的文人たちが漢詩を詠む場を指した。西園寺公経はこの世界観を気に入り、その子実氏の弟、実藤の五代後の室町季顕が足利義詮に「花帝」を売却したのであった[ちなみに、金閣のある鹿苑寺は西園寺公経の別荘であった]。義詮没後、それは崇光上皇の住まいとなり、花御所と呼ばれるようになり、上皇没後、焼失したものを義満が入手した。

 こうして幕府の本拠地は京都に定まった。南朝は吉野から虎視眈々と京都を狙い続けていたのだから、幕府は京都を動くわけにはいかなかった。

 義満は後に北山に住み、室町第は「京御所」とされたため、京都は一条より北に拡大した。その室町第が完成するはずであった晩秋、紀伊で南朝の反乱があり、義満は出陣を余儀なくされる。拝賀は翌1380年に延期された。そして七月、公家社会全体が義満に屈従する前代未聞の拝賀が挙行される。

 

 第4章 〈力は正義〉の廷臣支配: 義満は内大臣となり、頻繁に朝廷行事に参加し、遅刻や欠勤を諫め、たるんでいた気風を正した。大饗にて、廷臣の多くは義満の一挙手一投足に恟々とした。

 

 第5章 皇位を決める義満と壊れる後円融天皇: 義満はもはや廷臣全員の支配者であった。京都の土地配分権は天皇にあったが、義満は武家執奏を発動して、後円融天皇を驚愕させ、手玉にとる。後円融天皇の方は、南朝との皇位継承争いに、義満を利用しようと考え、義満は後円融に絶対的支持を請け合う。朝廷は、譲位式典や大嘗祭の費用三千貫文[およそ三億円で、現代の譲位費用の1/10くらい]も調達できず、すべては幕府頼みであった。なお、義満が建てた相国寺の相国とは、国を一手に統括する最高権力者という意味である。譲位して上皇となった後円融は義満の力に押しつぶされそうになり、様々な事件を起こしたり、自殺しようとしたりしたが、ついには屈服した。

 

 第6章 「室町殿」称号の独占と定義: 日本には、建物の名前を人の敬称にするという文化がある。公とは大きな家のこと。公家は天皇自身および朝廷を指したが、鎌倉時代から廷臣をも含めるようになった。戦国時代には、天皇を禁裏様と呼ぶようになり、さらに御内裏様となってった。天皇の家族、神のお住まいを宮、天皇の御隠居所を院、殿、坊、斎(軒の中の小さい部屋)、局、御台所、すべて場所である。

 また婉曲表現で敬意を表す文化もある。御門(ミカド)とは、天皇の住まいの門である。殿様、殿方と重ねる場合もある。ゆえに、鎌倉殿、室町殿、なのである。義満は室町殿の呼称を独占するため、室町を称していた人々に書面を以て名前を変えさせた。唯一神道の吉田家もその一つであった。

 天皇や上皇を「治天」としていたが、室町殿は自分を「公方」と呼ばせることにした。鎌倉時代に禅僧が朱子学とともに持ちこんだ「公界」という言葉がそのもとであり、しかるべき公権力を意味する婉曲な言い方で、特定の個人をさす。江戸時代にも将軍のみが公方様と呼ばれることになる。

 

 第7章 「北山殿」というゴール: 義満は北朝の代表的主導者となると、大名の庶子を集めて直臣団=親衛隊、つまり将軍直轄のエリート軍団「馬廻衆」を編成した。直臣には直轄領(御料所)の代官を任せもした。そして、大名たちの力を削ぐことを考えた。先ずは土岐氏、山名氏を。

 足利氏は北野天満宮(天神)を信仰していた。義満が四歳の時、南朝に襲われ、播磨まで保護して逃げ延びたのは北野義綱という武士で、その命の恩人を忘れず、北野天神のご加護とし、崇拝した。内野合戦の後、義満は南北朝の合一を成し遂げる(1392年)。

 義満はそれを天下に示すモニュメントとして、相国寺に七重の塔(高さ109m)を建てた(1399年竣工)。それは10年後に落雷で二度も全焼した。大仏をつくった可能性もある。1394年、義満は将軍職を義持に譲って太政大臣となり、翌年、拝賀を挙行した。その拝賀も型破りで、正門から入り、公式なものと位置付けようとし、牛車宣旨を行使し、超越的な地位であることを表明した。

 義満は、院と同等の何かとなり、臣下の中の超越的な地位をつくりだした。室町殿は、"武士の長と廷臣の長を従える何者か"となった。それを可視化するべく、北山殿を造営し(1397年着工)、近くに大名や側近を住まわせて勤務させ、政庁とした。義満の崇拝する北山天満宮も隣接していた。義満はその北山に「北山惣社」という神社をも創設した。すべての神社を一ヶ所に祀るという合理的な独創である。

 大内義弘の反乱: 大内義弘は足利将軍家に協力して勢力を伸ばし、周防。長門の覇者となるも、北山造営の負担を強いられ、在京を強いられ、追い詰められると、1399年、鎌倉公方の足利満兼と組み、応永の乱を起こして抵抗する。強談判(御所巻)が高じて破滅的戦争となり、籠城した堺にて幕府軍に攻められて戦死した。

 北山殿は京ではなかった: 証拠の一つに、室町第に住む四代将軍義持は「京御所」と呼ばれた。義満は、朝廷と幕府を京の外から支配したのである。

 

 第8章 虚構世界「北山」と狂言: 義満の晩年10年間、北山は日本の政治の中心であったのみならず、大規模な私的祈祷を行なう宗教空間でもあった。また、明との実利的な冊封貿易を行なうにあたり、義満は「源道義」というハンドルネームで「日本国王」に冊封された[天皇は中国の皇帝と対等であるが、国王は中国の皇帝よりも下位であった]。つまり、中国に冊封されることは恥であったので、その国交儀礼は閉鎖的に隠されて行われた。北山殿は、実利をとるための"虚構の世界"であったのだ。外国の使者は京には入れなかったし、天皇に会うこともできなかったのである。

 義満は天竺(インド)人を北山第に住まわせたりもした。スマトラ島の帝王の使者も訪れ、象や鸚鵡などの贈り物を献上した。義満は唐物を収集し、日明貿易はインドネシアまで広がっていたようであった。

 "愉しむ"は義満を理解するキーワード。狂言(冗談、言葉遊び)を愛好し、叱責にすら狂言を用いていた。狂言で人を玩び、言葉遊びでネーミングを行なった。

 義満は猿楽を愛好し、世阿弥が大成した虚構劇、夢幻能のパトロンであった。観阿弥世阿弥親子の名が、浄土宗の時宗の法名、観世音菩薩に由来すると知った義満がぜあみと呼ばせることにした。ゆえに、この能・狂言は北山文化と呼ばれる。

 金閣もまた然り。神殿造、書院造、禅宗様をミックスした様式は独創的で現実離れしている。

 

 第9章 「太上天皇」義満と義嗣「親王」: 義満の姻戚関係について。家運の傾いていた日野家の日野宣子(のぶこ)は、北朝の後光厳天皇の筆頭女官となり、日野家の立て直しのため、将軍家の取り込みを画策し。姪の業子を義満の正室とすることに成功した。その閨閥戦略により、日野一族は権勢をふるうようになる。日野重光は義満の右腕となり、「裏松」と呼ばれるようになる。業子が没すると、重光の姉、康子が義満の正室となった。後光厳天皇の女官であった日野宣子は、その子、後円融に生まれた幹仁(もとひと)に皇位を継承させるべく、崇光院の皇子、栄仁(ながひと)親王に出家を強要し、崇光系の息の根を止めると、幼い幹仁親王を後小松天皇として即位させた。このような皇位継承問題に、義満は表立って介入することを嫌った。

 義満はその子孫繁栄を約束する神として、北野社を崇めた。それは息子、義嗣(よしつぐ、義持の弟)を「親王」化することであった。容姿端麗で才気ある子に育った義嗣を義満は門跡から取り返し、後小松天皇の内裏に参上させ、その猶子とし、親王宣下を行なうという予定があったという記録が近年発見された。だがその計画のわずか11日後、義満は51歳で急死してしまい、計画は闇に消えた。

 その2年前、1406年に後小松天皇の生母、三条厳子(げんし)が没し、天皇の父母が没するのは諒闇だとして、廷臣たちの忖度により、義満の正室、康子を准母に立てることとなった。そうなると、義満を「天皇の父」たる太上天皇、つまり上皇とする計画があったことが近年発見されている。その時、忖度は行われなかった。昔も今も天皇とは血統であることを廷臣たちが承知していたからである。それでもあきらめずに、義嗣を親王とし、親王将軍を誕生させようとしたのであった。

 ともあれ、他界した義満に、朝廷は太上天皇の称号を追贈することにした。だが幕府の重鎮はそれを辞退し、将軍義持(室町殿)を盛り立てる道を選んだ。

 北山殿では金閣などが残されたがほとんどの建物が解体され、義持は京に戻る。宙に浮いた義嗣を丁重に処遇し、権大納言にまで昇進させたが、1416年、義嗣は近臣を伴って出奔し、出家したが、反乱を疑われて捕えられ、殺された。だがその反乱を追求することは幕府の崩壊を招くため、不可能であった。

 

 第10章 義持の「室町殿」再構成: 義持の政権は、弟の義教が凶暴化するまでの20年あまり安泰であった。義満の死後、義持は室町第(てい)に戻らず、三条坊門殿を拠点とし、朝廷から距離を置いた。だが「室町殿」と呼ばれた。義持は派手な演出や贅沢にはこだわらず、朝廷は治天のもの、将軍は天皇の臣下だという考えを示し、朝廷が内大臣への昇進を打診しても固辞するなど、倹約好みと言われるような人格であった。朝廷儀礼でも、摂関に準ずる立場で振る舞ったが、頑なではなく、公卿の拝賀を受けたりもした。廷臣や高僧が参賀により室町殿に祝意を示すという独創的な儀礼を創り出してもいる。院の近臣が義持に対して蹲踞するのをやめさせ、廷臣は天皇・院の臣であることを明確にさせた。

 1423年、義持は長男の義量(よしかず)に将軍職を譲り、出家したが、全権を一切手放さず、将軍家の家父長「室町殿」であり続けた。

 広橋兼宣による裏築地[貴人の邸宅の門を見えなくし、通行人による礼節の所作を不要とする目隠し用の築地]事件。後小松天皇は、裏築地を造れるのは、天皇・院・室町殿のみと宣言した。

 治天の取次役、伝奏という事務官がいるが、義満時代にそれは室町殿側のスタッフとなっていた。だが、後小松が院政を敷きようになり、義持は伝奏を治天の秘書官に戻そうとした。広橋兼宣はそのような地位にいて、権勢をふるっていたのである。

 また、義持は後小松院が妄りに院宣を出すことを容認せず、自分がチェックするというルールをつくった!! それは天皇の裁量権を否定し、最高決定権を握ったことを意味した。室町殿は治天の後見だということであった。

 

 第11章 凶暴化する絶対正義・義教: 筆者は、義持の室町殿は、最も良心的で最良の権力者の形であったとしている。だが、後継者の男子を欠いていた。息子の足利義量の他界後、後継者(六代目将軍)を諸大名の合議制で決めさせることにすると、義持の弟四人の名前を書いた籤を石清水八幡宮の神前で引き、義教が選ばれた(くじ引き将軍)。義教は義持の権力のコピーとして発足した。

 後小松院の子、称光天皇(奇行が多かった)が世継ぎ男子を欠いたまま他界すると、彦仁王[崇光の曾孫]が後花園天皇として即位し。義教に輔佐された。

 義教は室町第に戻る。行ないは義満を模倣した。二条良基の孫、持元が儀礼の作法指南にあたり、室町殿の権威を高めるべく努めた。鷹司家と二条家は、足利家に追従して室町時代の摂関をほぼ独占して栄えることになる。

 義教はしかし1433年頃から凶暴化し始める。山門(比叡山延暦寺)の強訴にあうと、義教は山門領を、六角、京極に命じて押領させ、比叡山を兵糧攻めにした。義教のやり方は「万人恐怖」だと人々に思い知らせた。

 日野(裏松)家に対しても甘い顔をしなかった。義教によって処罰された廷臣その他のリストには79人の名前が連ねられている。恐るべし!!

 

 第12章 育成する義教と学ぶ後花園天皇: 義教は一方で、後花園天皇を守り育てることには尽力した。義教は義満を手本とし、二条持基とともに天皇の後見を自任し、帝王教育に心を注いだ。後花園天皇は儒学を熱心に学び、徳を磨いた。義教は彼の人格を尊重し、圧迫したりしなかった。後小松院が他界すると若き天皇の親政が始まる。

 足利直義の頃まで、武士の任官は成功(じょうごう)という売位売官制度で行われていたが、その後は、戦功の褒賞として将軍が朝廷に推挙する形となっていった。戦費で成功する金の余裕がなくなったからでもあった。

 義満により、地方官(国司など)を毎年任命する県召除目(あがためしじもく)が復活していた。それにより知行国主となれば、徴税権を世襲できることになるのだが、この制度は、院や廷臣の貴重な収入源となっていた。1433年、後花園天皇の親政開始とともに京官除目も復活した。

 後花園天皇の教養は本格的であり、儒学者によっても絶賛された。武士の歴史も熱心に学んだ。わが国のあらゆる書籍を筆者して天皇の文庫に収蔵しようという試みも行なった。それはしかし、1441年に義教が暗殺された(嘉吉の乱)ことで中断した。

 義教は、後花園天皇に政務を返上しようとしていた。

 [かつて義満は、大名連合の圧力に屈して、管領であった細川頼之を心ならずも京から追放せねばならなかったが、復権させようと考え、安芸の厳島への参詣を口実に四国に立ち寄った。厳島では大内義弘とも会い、京に伴い、幕閣とした。]

 義教が1432年、富士遊覧として駿河に下ったのは、鎌倉公方持氏を牽制するためであったろうと筆者は述べている。地方の反乱の鎮静化に対応すべく、将軍が京都を離れる可能性があったので、義教は後花園天皇に政務を返上しようとしていたのだ、と。そして永享の乱が起きる(1438年)。

 とはいえ、朝廷の権威は、幕府(室町殿)の権威に依存していた。両者は堅固な協力関係にあった。

 嘉吉の乱: 義教を暗殺した赤松満祐は討伐されるしかなかったが、室町殿の絶対性を崩壊させた事件でもあった。後継者の義勝は幼少であり、幕府は管領の細川持之以下、大名の連合政権となり、後花園天皇がリーダーシップをとるしかなかった。

 大名の野心と反骨心が息を吹き返す。絶対性を失った室町殿と諸大名の先に応仁の乱が待っている。

 

 [なるほど。室町幕府、足利将軍、金閣寺、いろいろと見えてきた。読んでよかった。室町幕府ははなからひじょうに不安定な存在だったのだ。]