足利義満をもう少し具体的に知りたくて、今度は平岩弓枝の小説を読んでみた。やはり小説は研究書と違ってイメージをふくらませやすいし、作家は、南北朝のこと、足利一門の大名たちのこと、よく史実を調査して書いているが、創作部分があることを差し引かねばならない。それでも読む価値はあったし、小説としてスリリングで面白かった。足利義満の死は毒殺だったのか・・・さもありなん。

 

 青龍の章: 足利義満の幼少期。乳母となったのは、細川頼之の妻、玉子であった。義満は、正室からではなく、二代将軍義詮の侍女で、石清水八幡宮の検校の娘であった側室から生まれ、春王と呼ばれた。父親は、南北朝の対立、諸将の不和に煩わされ、育児を乳母に一任していたので、両親との縁は薄かった。

 仁木、細川、畠山、斯波、今川、いずれも足利一門なのに、諸大名の勢力争いは京童の目にも余るものがあった[応仁の乱の火種は足利幕府発足時からあったのだ]。南朝軍(細川清氏楠木正儀(まさのり)ら)が京に攻め込んできた時、春王は北野行綱に背負われ、商人の子に身をやつして乳母とともに播州白旗城、赤松則祐のもとに落ち延びた(1361年)[この頃から既に京都は焼け野原であった]。

 1362年、細川頼之らは、四国の讃岐にて同族の細川清氏を破った頃、斯波義将が執事に任命された。1363年、春王は京へ戻る。7歳になっていたが、乳母になついて離れなかった。斯波高経は管領となり、焼けた京の復興のため、大名たちに増税を課したため、武士の間に不満が昂じた。1365年、矢開きの儀で、春王は堂々とした態度を見せる。管領と佐々木道誉との確執。春王は9歳の時、義満という名を天子より賜る。翌正月(1367年)より、公家の儀式作法などを学ぶ。乳母の夫、細川頼之が上洛する。義満は乳母に暇をとらす。義満の父、二代将軍足利義詮は、大名たちの対立に苦慮して衰弱し、細川頼之を幕府の執事、義満の後見とし、他界。

 細川頼之、管領となる。その庇護下、義満は獅子の子を思わせる言動があり、貫禄十分、将軍の器だと思わせるものがあった。ある霧の夜に義満、猿楽師の鬼夜叉(小さい時の世阿弥)と出会い、その舞と歌を堪能する。

 義満の和歌と連歌の指南役として、今川了俊が伺候していた。二代将軍足利義詮の夫人、渋川幸子が義満の准母となっていた。

 足利幕府は初代尊氏の頃より、禅宗に帰依し、保護していた。禅僧は夢窓疎石亡き後、驕り、山門、比叡山延暦寺の反感を招き、両者の間には紛争もあった。

 

 朱雀の章: 京の東山、今熊野に猿楽が小屋掛けされ、観阿弥の演能「自然居士」が話題を呼んでいた。義満はそれを見ることになり、鬼夜叉に再会すると、御所に招くことを考え始める。一ヶ月後、将軍の奥御殿には藤若という猿楽師の少年が起居するようになる。鬼夜叉は二条良基から藤若の名を賜っていたのである。将軍は女に興味がなかったが、日野業子が御台所となることとなる。業子は帝と関係があったように思われた。藤若は二条良基に寵愛されているようであり、腹立たしかった。御台所の業子は娘を死産する。北小路室町の土地が幕府に下賜され、室町第が造営される。

 近衛家から同家の神木、糸桜が贈られ、室町第は「花の御所」と呼ばれるようになる。御台所の業子はひどく老け込んでいたが、義満にはほかに愛妾はいなかった。

 管領の細川頼之を斯波義将が諸大名とともに討つという噂が流れ、義満はこれらを陰謀として誅伐の教書を発する。だが、頼之は四国下向を願い、細川一族は三百騎を従えて京を後にした。この失脚には五山の春屋妙葩もからんでいたことが推察された。そして斯波義将が管領となり、頼之追討を企てる。

 義満は箏の名手、加賀局を御所に招き、昵懇となる。日野家はそれに苦情を述べる。半済(はんぜい)について: 公家へ納める年貢米の半分を兵糧米として武家(守護)へまわすことを室町幕府が認めた。守護地頭によっては荘園を私物化する者もいた。将軍と昵懇となった公家はこれを免れることができたので、将軍にすり寄った。

 義満は細川頼之を復帰させるべく、春屋妙葩を懐柔する。加賀局は、長男を産む。後の青蓮院尊満である。

 義満は後円融天皇と従兄弟であった。義満の母は順徳天皇の皇子を曾祖父とするので、五代目の子孫であったのだ。後円融天皇はそのことを気にかけ、恐れていた。室町御所の贅に天皇の御所は及ばなかったし、経費も乏しく、催事や神事の費用も幕府に依存していた。義満は二条良基の指南を受け、摂関家なみの扱いを受けていた。義満の存在は天皇にとっての脅威であり、義満と堂々と左大臣に進んだ。義満は、二条良基に反抗する人々を圧迫する。後円融天皇は院となるも、院と将軍の対立を知る公家たちは仙洞御所に近づかない。幼い息子の後小松天皇が即位。その生母、三条厳子は義満との密通を疑われて、上皇に峰打ちされて大怪我を負う。上皇はその二週間後に持仏堂に籠り、自殺を図る。上皇は義満が憎かった。

 義満は、安芸法眼の娘、藤原慶子を側室とした。細川頼之を京へ呼び戻そうとした義満に、富を増やすには明国との商いをすべしと頼之からの書が届く。

 

 白虎の章: 後小松天皇が元服する。摂関家の長老として将軍を公卿社会に参入させた二条良基は、息子の一条経嗣に、将軍についての後悔と恐れを打ち明けようと思う。自分が育てた大樹を伐るという考えが浮かぶ。弟の二条大納言師冬の息子を見た時、良基はその甥を手許に置くこととし、教育した。これが後の三宝院満済、義満の猶子となり、仏教界の第一人者となり、足利幕府の顧問(黒衣の宰相)となるのである。

 義満は二条良基の喪に服し、左大臣を辞任し、准三后の地位はそのままとした。富士山へ出かけ、関東公方、足利氏満に睨みをきかせると、厳島に詣でて、九州の島津を威圧すると細川頼之と乳母に再会した。西国を領す山名一族を叩く必要もあった。山名一族には内紛があった。義満は頼之に公武合体を語る。そのための財を明国との貿易で得ようと考えていた。

 1390年、細川頼之に山名攻めが命ぜられる。山名氏清は敗走し、一族は自滅した(明徳の乱)。南朝からの援軍も討たれ、窮乏した南朝は北朝との合体に靡くこととなる。その戦の翌年、義満は師父、細川頼之を失なう。義満は鹿苑院にて坐禅を欠かさず、両朝合一を心に誓い、三種の神器の帰座を画した。南朝の人々は大覚寺へ入った。翌年、後円融上皇が崩御された。細川頼基が管領を辞し、斯波義将がそれに据えられた。義満は伊勢に参宮し、北畠一族と対面する。その結果、後亀山天皇には太上天皇の尊号が宣下された。一言の相談もなしにそんなことをされた北朝はしかし黙認するしかなかった。代わりに、後亀山院から後小松天皇に御持仏である二間の本尊[清涼殿の二間という部屋に置かれていた観音像]が返された。

 義満の側室、春日局が男子(後の義嗣)を産んだ。だが将軍職は、義持に譲ると決めていた。義満は、便宜のため、出家を思い立つ。二条良基の甥、三宝院満済を一目見て義満は心惹かれ、猶子に望む[このあたりから小説にはミステリー感が!!]。

 室町御所と将軍職をわが子義持に譲った義満は1397年、北山において大工事に着工する。それは西園寺家の土地であり、藤原公経が山荘を営んでいた。そこに建てられるはずの北山第は内裏を思わせた。目にした満済は、二条良基の遺言を思う。黒漆の床をもつ黄金の舎利殿。義満が満済と語る形で、元寇、倭寇懐良親王[後醍醐天皇の皇子]が日本国王として明国に冊封されたことなどが語られる。

 日野業子の実家では、資康(裏松)は娘の康子を差し出すこととし、動く。

 1399年の正月、北山第で雪見の宴が開かれ、その晩、義満は満済の部屋に入ったが、満済は柱の影に隠れていた。

 四月、三宝院で観世の猿楽が催され、世阿弥は「松風」を、そして「泰山府君」を演じた。世阿弥と義満と満済のこと。絶海中津のこと。

 1401年、土御門内裏が炎上し、天皇は日野資教の屋敷に避難する。義満は北山第に天皇を迎え、そこを皇居とする。義満はまるで法皇であった。

 義満は商人を使者に立て、明国と交流をもつこととする。満済は将軍の気宇壮大さと豪放を思い知る。義満は明の国使を北山第に招き、明帝からの国書を頭上に高く奉じ、日本国王に冊封された。頭を低くして好みを通じた。あとは利用するだけであった。あの国では力のある者が帝位に就く、と義満は満済に語った。

 

 玄武の章: いつの頃からか皇室の「百王伝説」が広がっていた。紫宸殿は内裏にのみあるべきものであるが、北山第の寝殿はまさに紫宸殿のようなものであった。朝臣のすべてがここに出仕し、重要なことはすべてここで決定されていた。皇家の祈祷もここで行われていた。明との交易は幕府に莫大な利をもたらしていた。朝鮮からの使者も訪れた。

 1405年、正室の日野業子が病没し、その妹の康子が正室としてふるまっている。弟が出家するにあたり、義満に預けた妻の誠子が懐妊する。多くできた子供は、義持を除いて、僧籍に入れた。高橋殿という側室は遊芸に優れていたが、子を産まなかった。春日局からもうけた息子、

 1406年、兵庫へ入る明船を見物しに行ったとき、側室の新中納言藤原(かず)量子が急死した[作家は後に、同行した崇賢門院(後円融天皇の生母で、義満に怨恨をもっていた)による毒殺だとしている]。

 天皇は寂しい日々を送っていた一方、義満の北山第は使節を迎え、賑やかな催しが行われていた。数百人の使節は五山の寺に宿泊し、半年ほども滞在した。

 通陽門院(三条厳子; 後小松天皇の生母)の寿命が尽きると、天皇は諒闇に入り、不吉とのことで、准母を立てよと義満が命じ、日野康子がそれになると、義満は准父となり、両名の子は主上の兄弟姉妹となってしまうことになった!! 義満五十歳。

 金閣の一階は法水院、二階は潮音洞、三階は究竟頂。義満は康子のところに猶子とした少年「若公」を住まわせていた。義満はその少年と一つの牛車で参内した。少年は義嗣と名乗ることとなる。北山第に天皇が行幸する。義満の座にも、天皇と同じ繧繝縁の畳が敷かれていた。元服前の若公が天杯を受け、笏を持って舞踏した。すべては型破りである。義満が皇家を狙っていることは明らかであった。それに気付いているのが何人いたかわからなかった。義嗣は内裏で元服の儀を行なう。それは武家の子息にはあり得ないことで、立太子の礼に準ずるものであった。満済は、二条良基より授かっていた短刀を取り出す[ここから先は平岩弓枝の筆捌きがみごと]。

 満済は崇賢門院から義満の体調が優れないと聞く。崇賢門院は命を賭けて孫を守る、もはや猶予はならない、秘薬を以て事をなす、その秘薬は既に兵庫で試してある、と言う。門院は、病に伏せる義満を見舞い、茶を立てる。その四日後、義満は危篤となり、すべて(門院の仕業)を悟ったようであった。

 義満の没後、将軍義持は、尊氏の頃のように幕府を戻し、武家が公家に同化することを止めた。天皇と将軍の座を二つながらわが子にという夢は絶たれた。