評伝「吉田健一」を読んで考えた
年末24日に文科省相談に出かけるなどぎりぎりまで忙しかったが1週間程の正月休みはとれた。この休みの間に新たな論文に着手すべきじゃないかという気持ちは一日に数回はあぶくのように浮かんではいた。しかし、ちゃんとした本を読むことから遠ざかっているという気持ちもどこかにあり、この飢餓感の方がまさったのか、「吉田健一」を読んだ。新聞の書評で評価が高かったので衝動的にアマゾンに注文してしまった本である(愛用しているキンドルで池波正太郎や藤沢周平の作品の電子版を毎晩睡眠薬代わりには読んでいるのですが、寝ながら読むのはいかんなあという文学小説のたぐいはご無沙汰しているのです。ちなみに睡眠薬代わりの二人とも吉田健一の書評で世に出たらしい)。
編集者として彼の晩年に付き合いのあった長谷川郁夫という人の評伝である。3日から読み始めセンター入試の日に読み終えた。久しぶりに5時前に起きてまで読みたくなったのだから著者の腕はたいしたものだと思う。すでに37年も前になくなっている文学者の評伝が出版されることは珍しい。若い頃に読んでいた吉田健一の名前が懐かしく書評に眼がいったのである。
僕が好んで手にしていたのは吉田健一の随筆で、とにかく一文が長い。句読点がないのが特徴で、息を吸い込んで読まないと読みづらいのだが、長い文を読むと、きらびやかな、とくに光や色彩が浮かび上がるのが気に入っていた。とくに酒の話を書くのが上手であった(評伝では、吉田健一は日本語表記での句読点に悩み、源氏物語には句読点はないとの結論に至ったために一文が長いのだそうです。この本でも山形の酒「くどき上手」と新潟の「今代司」を激賞していたらしいので、僕の好みと同じだと喜んだりした。後者はまだ味わっていませんが)。
この評論は2段組みで650頁もある大分なもので、定価は税別5000円するが、推薦したい本である。内容は今ではなくなった印象がある「文壇」史の形をなしている。僕が読書をするのは大学生の頃からで、実際に読んだ本や未読だが名前は知っている作家との付き合いが、吉田健一を軸にして展開される構成になっていて懐古情緒を活性してくれた(育った田舎には本屋は自転車で30分の高校の所在地に書店が1軒あるのみでしたので、本は読まなかった(読めなかった)子どもでした)。
約50年前の大学生の頃は、演劇や音楽を聴きに頻繁に行けるような金銭的に豊かでもなく、そういう学生も周りにはいなかったので、時間をつぶすのは、もっぱら読書しかなかった。もちろん、カラオケやインターネットでサーフィンをなどという時間の使い方はなかったので、僕だけが文学に興味を持って、読書家という訳ではなく、ごく標準的な学生であった。それでも学生は読書するものという時代の社会環境であったので、普通の学生であった僕も「世界」、「展望」、「中央公論」、「現代の眼」などの総合雑誌を含め活字には親しんだ。
若い読者には、この評伝で展開される河上徹太郎、福田恒存、中村光夫、大岡昇平,三島由紀夫などと文壇史を紹介しても親近性はないと思うので取り上げないが、文学作品ではなく吉田健一という人間について知らなかった事柄も記載されていて、酒や食べ物に関する随筆だけに着目すべきではないとを恥じたので、そのことを記しておきたい。
外交官であった吉田茂の長男であり、明治の元勲牧野伸顕(2・26事件で暗殺対象になりながらも箱根にいて難を逃れた人)にかわいがられた孫であることなどは知っていた。金持ちの御曹司で英国留学を途中で切り上げ、うまい酒を探し美食三昧で暮らしたのだろうと勝手に想像していたが、骨のある人であったことをこの評伝を読んで知った。牧野伸顕も吉田茂も頑固な自立した精神の人であることも知ることができた。
われわれの対人認知(他人についての捉え方や思い込み)というものはいい加減なものであると改めて考えさせられた(反省!)。吉田茂は戦争前に陸軍に睨まれ、拘束されたこともあるということである。健一は終戦前の半年程海軍に徴用されたらしいが、戦後も数年間は金がなくてその頃の服装で過ごしたという(吉田茂の息子なので厳しく対応すべしという陸軍からの指示があり、そのために海軍は逆の待遇をしたという。仲間割れ状態の日本が戦争に勝てなかったはずである)。戦後すぐに父親は首相になっていたが、父親からの援助に頼らず、父親も援助はしなかったらしい。親子の間が疎遠であったということではないので、自立した親と息子の関係であったということなのだろう。牧野伸顕も戦後は表舞台に出ることをせず、清貧の生活であったらしい。
まだまだ紹介したいことはあるが、長くなってきたので一つだけにしたい。
吉田健一は外交官であった茂の長男であったので、英語や仏語がいわば母語であった。ケンブリッジから20歳頃に帰国してから日本語を学び直し、物書きを目指した人である。死後37年も経って独自の文学世界を日本語で構築したことを評価されているわけなので、それまでに至る努力は想像を超えるものがあったはずである。
この過程で彼が獲得したものの一つに、「もしそれが自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるということならばそういうものに碌なものはない」という信念があったと引用があった。つまり受け身で獲得した情報は身に付かず、自ら能動的に獲得しないと有益なものは得られないということである。僕が「Be imitative」と言っていることと同義ではないだろうかと我田引水したい。
そろそろ、卒業式の式辞を準備する時期であり、「つかえるかも」とほくそ笑んだことでありました。評伝にでてきた沢山の未読本を、研究者を辞めたら読みたいのでもう少し元気でいなければならないと考えたのであります(「患者の話に耳を傾けるようになれた頃、医者は耳が遠くなっているという」、マーフィの法則風の、「本を読める余裕ができる頃には、視力も気力も衰えてしまっている」という囁きも聞こえますけど)。
編集者として彼の晩年に付き合いのあった長谷川郁夫という人の評伝である。3日から読み始めセンター入試の日に読み終えた。久しぶりに5時前に起きてまで読みたくなったのだから著者の腕はたいしたものだと思う。すでに37年も前になくなっている文学者の評伝が出版されることは珍しい。若い頃に読んでいた吉田健一の名前が懐かしく書評に眼がいったのである。
僕が好んで手にしていたのは吉田健一の随筆で、とにかく一文が長い。句読点がないのが特徴で、息を吸い込んで読まないと読みづらいのだが、長い文を読むと、きらびやかな、とくに光や色彩が浮かび上がるのが気に入っていた。とくに酒の話を書くのが上手であった(評伝では、吉田健一は日本語表記での句読点に悩み、源氏物語には句読点はないとの結論に至ったために一文が長いのだそうです。この本でも山形の酒「くどき上手」と新潟の「今代司」を激賞していたらしいので、僕の好みと同じだと喜んだりした。後者はまだ味わっていませんが)。
この評論は2段組みで650頁もある大分なもので、定価は税別5000円するが、推薦したい本である。内容は今ではなくなった印象がある「文壇」史の形をなしている。僕が読書をするのは大学生の頃からで、実際に読んだ本や未読だが名前は知っている作家との付き合いが、吉田健一を軸にして展開される構成になっていて懐古情緒を活性してくれた(育った田舎には本屋は自転車で30分の高校の所在地に書店が1軒あるのみでしたので、本は読まなかった(読めなかった)子どもでした)。
約50年前の大学生の頃は、演劇や音楽を聴きに頻繁に行けるような金銭的に豊かでもなく、そういう学生も周りにはいなかったので、時間をつぶすのは、もっぱら読書しかなかった。もちろん、カラオケやインターネットでサーフィンをなどという時間の使い方はなかったので、僕だけが文学に興味を持って、読書家という訳ではなく、ごく標準的な学生であった。それでも学生は読書するものという時代の社会環境であったので、普通の学生であった僕も「世界」、「展望」、「中央公論」、「現代の眼」などの総合雑誌を含め活字には親しんだ。
若い読者には、この評伝で展開される河上徹太郎、福田恒存、中村光夫、大岡昇平,三島由紀夫などと文壇史を紹介しても親近性はないと思うので取り上げないが、文学作品ではなく吉田健一という人間について知らなかった事柄も記載されていて、酒や食べ物に関する随筆だけに着目すべきではないとを恥じたので、そのことを記しておきたい。
外交官であった吉田茂の長男であり、明治の元勲牧野伸顕(2・26事件で暗殺対象になりながらも箱根にいて難を逃れた人)にかわいがられた孫であることなどは知っていた。金持ちの御曹司で英国留学を途中で切り上げ、うまい酒を探し美食三昧で暮らしたのだろうと勝手に想像していたが、骨のある人であったことをこの評伝を読んで知った。牧野伸顕も吉田茂も頑固な自立した精神の人であることも知ることができた。
われわれの対人認知(他人についての捉え方や思い込み)というものはいい加減なものであると改めて考えさせられた(反省!)。吉田茂は戦争前に陸軍に睨まれ、拘束されたこともあるということである。健一は終戦前の半年程海軍に徴用されたらしいが、戦後も数年間は金がなくてその頃の服装で過ごしたという(吉田茂の息子なので厳しく対応すべしという陸軍からの指示があり、そのために海軍は逆の待遇をしたという。仲間割れ状態の日本が戦争に勝てなかったはずである)。戦後すぐに父親は首相になっていたが、父親からの援助に頼らず、父親も援助はしなかったらしい。親子の間が疎遠であったということではないので、自立した親と息子の関係であったということなのだろう。牧野伸顕も戦後は表舞台に出ることをせず、清貧の生活であったらしい。
まだまだ紹介したいことはあるが、長くなってきたので一つだけにしたい。
吉田健一は外交官であった茂の長男であったので、英語や仏語がいわば母語であった。ケンブリッジから20歳頃に帰国してから日本語を学び直し、物書きを目指した人である。死後37年も経って独自の文学世界を日本語で構築したことを評価されているわけなので、それまでに至る努力は想像を超えるものがあったはずである。
この過程で彼が獲得したものの一つに、「もしそれが自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるということならばそういうものに碌なものはない」という信念があったと引用があった。つまり受け身で獲得した情報は身に付かず、自ら能動的に獲得しないと有益なものは得られないということである。僕が「Be imitative」と言っていることと同義ではないだろうかと我田引水したい。
そろそろ、卒業式の式辞を準備する時期であり、「つかえるかも」とほくそ笑んだことでありました。評伝にでてきた沢山の未読本を、研究者を辞めたら読みたいのでもう少し元気でいなければならないと考えたのであります(「患者の話に耳を傾けるようになれた頃、医者は耳が遠くなっているという」、マーフィの法則風の、「本を読める余裕ができる頃には、視力も気力も衰えてしまっている」という囁きも聞こえますけど)。
忘念会
表題は変換ミスではありません。今のところ、記憶障害の症状はないと自己診断するのですが、学科の忘年会を失念したことを表したのです。幹事さんから3日ほど前にすれ違ったときに出席の確認をされ、「勿論出ますよ」と威勢よく言っていたのにもかかわらず、なのです。学部設置申請事務の打合せが長引き、疲労感いっぱいの状態で自動車道を帰路についている途中で電話がなり、地道に入って信号待ちで電話をかけ直すと「向かっている途中ですか?」という回答です。「そのときは一瞬理解できなかった文脈が、しばらくしてやっと忘年会だったのだ」と判明した次第です。完全に失念していたのです。前日に柏原市の主催する催しに出るように学園本部からの要請があり、“公用車で5時半出発”ばかりが作業記憶を占有していたのでしょう。3時すぎから始めた事務作業が長引いて、学園本部へは断りの電話をしたのだけれども、忘年会の件は全く念頭になかったのです。学科忘年会をiPadの予定表に記載し忘れたのが失念の原因ですが、外部記憶に頼りすぎている生活に反省!であります。自分自身の記憶関連脳部位も使わないと廃要性障害を起こすということなのでしょう。
記憶障害つながりで紹介すると、Mac Book PCが壊れました。突然、検索すべき文字やメールの文字が入力できなくなってしまったのです。文字を打ち込もうとすると、画面がスクロールして、「ダメよ、ダメダメ」風に元の画面になってしまいます。専門家に見てもらったのですが、平成19年に購入したものだとわかると、OSがもう古すぎて、自動更新されるアプリケーションの操作に対応できなくなっています、と言われてしまいました。リチウム電池は膨張してしまっており、発火する恐れがあるので、廃棄を勧められる始末です。仕方がないと電池を外して、外部電源だけで起動させてみました。試行錯誤しているうちに、検索もメールも英数文字での入力は問題なく作動することが判明、カナ入力では相変わらず「ダメよ、ダメダメ」状態なのです。何がなんだか良くわからないのですが、今しばらく、廃棄を延ばそうと思っています。
PCは7年でもう古くなり、対応できなくなってしまったのです。ちょっと早すぎます。自動更新されて行く仕組みなのでしょうが、ワープロ機能に連文節変換ができるようになったことに感激してきた者にとって、動画やゲーム機能への対応など不要です。PCの所有主の僕がアプリケーションのバージョンアップをお願いしたことはなく、許可なく個人の所有物を破損したわけで、このことは犯罪と断定されても良さそうなものです。誰かこの種の訴訟をしているのなら応援したいものです。IC業界のビジネスモデルでは、常識なのかも知れませんが、「何々ができます」と宣伝し販売した商品が、販売元の都合で「何々ができなくなった」のです。「その商品を捨ててしまって、新しいものに買い替えて下さい」という理屈は他の業界では通用しないのではありますまいか。「リッタ-20キロ走りますと宣伝して販売した自動車を、製造会社の都合で50キロ走る新車に乗り換えよ、買い替えよ」という理屈が成り立つことは不思議に思えるのです。「責任者は誰だ、出てこい!」と言いたくなるわけです。
という具合にもう今年も残すところ1週間あまりとなったのにポジティブな気持ちに成れずに終わりそうであります。振り返れば、大学での仕事は再編構想の作業に追われ、瞬く間に時間が過ぎ去って行くという感慨だけが残ります。再編の作業でも、年末の総選挙でも、人は自分の身辺近くまでことが及ぶまで、雰囲気と言うか風任せで、考えたくないことは考えないようにする生物であることを確認することでありました。
また、高倉健が死に、「自律した人間として終わる」ことを考えさせられもしました。学生時代に、賄い付き3畳一間の下宿と銭湯との途中にあった3本立て専門の「阪南松竹」で観た若い日の「昭和残侠伝シリーズ」での着流し姿の彼が、自律した老俳優として死を惜しまれる過程に思いを馳せると、自分も大学に職を得て仕事に就くことが叶ったときの思いを持続させられているのかしらと思うのです。学務にかまけて研究することを放置していないか、研究を自らの知識量の加算に留めず外部に発信し続けているか、問われていることを忘れないようにせねばならない、という具合に、気持ちがポジティブになるようなことはあまり思い浮かばないのです。ただ、3日前に遊びに来た孫娘に「ジージ、ドージョ」と始めて呼ばれ、ウイスキーのグラスに氷を入れてもらったことだけは例外であり、記念すべき時間でありました。ということですから、老年性のうつ症状が出現しているというわけではないと思います。
もっとも。彼女の父親が1歳10ヶ月の頃に何を話していたのか、思い出そうとしても検索できず、自分の記憶機能も確実に劣化しつつあるという主張は、「STAP細胞はあります!」と言い張った割烹着姿の女子の主張よりも確かです。
自分だけでなくこのブログの読者の皆さんにも、ポジティブになれる正月休みが来ることを待ち望んでおります。
記憶障害つながりで紹介すると、Mac Book PCが壊れました。突然、検索すべき文字やメールの文字が入力できなくなってしまったのです。文字を打ち込もうとすると、画面がスクロールして、「ダメよ、ダメダメ」風に元の画面になってしまいます。専門家に見てもらったのですが、平成19年に購入したものだとわかると、OSがもう古すぎて、自動更新されるアプリケーションの操作に対応できなくなっています、と言われてしまいました。リチウム電池は膨張してしまっており、発火する恐れがあるので、廃棄を勧められる始末です。仕方がないと電池を外して、外部電源だけで起動させてみました。試行錯誤しているうちに、検索もメールも英数文字での入力は問題なく作動することが判明、カナ入力では相変わらず「ダメよ、ダメダメ」状態なのです。何がなんだか良くわからないのですが、今しばらく、廃棄を延ばそうと思っています。
PCは7年でもう古くなり、対応できなくなってしまったのです。ちょっと早すぎます。自動更新されて行く仕組みなのでしょうが、ワープロ機能に連文節変換ができるようになったことに感激してきた者にとって、動画やゲーム機能への対応など不要です。PCの所有主の僕がアプリケーションのバージョンアップをお願いしたことはなく、許可なく個人の所有物を破損したわけで、このことは犯罪と断定されても良さそうなものです。誰かこの種の訴訟をしているのなら応援したいものです。IC業界のビジネスモデルでは、常識なのかも知れませんが、「何々ができます」と宣伝し販売した商品が、販売元の都合で「何々ができなくなった」のです。「その商品を捨ててしまって、新しいものに買い替えて下さい」という理屈は他の業界では通用しないのではありますまいか。「リッタ-20キロ走りますと宣伝して販売した自動車を、製造会社の都合で50キロ走る新車に乗り換えよ、買い替えよ」という理屈が成り立つことは不思議に思えるのです。「責任者は誰だ、出てこい!」と言いたくなるわけです。
という具合にもう今年も残すところ1週間あまりとなったのにポジティブな気持ちに成れずに終わりそうであります。振り返れば、大学での仕事は再編構想の作業に追われ、瞬く間に時間が過ぎ去って行くという感慨だけが残ります。再編の作業でも、年末の総選挙でも、人は自分の身辺近くまでことが及ぶまで、雰囲気と言うか風任せで、考えたくないことは考えないようにする生物であることを確認することでありました。
また、高倉健が死に、「自律した人間として終わる」ことを考えさせられもしました。学生時代に、賄い付き3畳一間の下宿と銭湯との途中にあった3本立て専門の「阪南松竹」で観た若い日の「昭和残侠伝シリーズ」での着流し姿の彼が、自律した老俳優として死を惜しまれる過程に思いを馳せると、自分も大学に職を得て仕事に就くことが叶ったときの思いを持続させられているのかしらと思うのです。学務にかまけて研究することを放置していないか、研究を自らの知識量の加算に留めず外部に発信し続けているか、問われていることを忘れないようにせねばならない、という具合に、気持ちがポジティブになるようなことはあまり思い浮かばないのです。ただ、3日前に遊びに来た孫娘に「ジージ、ドージョ」と始めて呼ばれ、ウイスキーのグラスに氷を入れてもらったことだけは例外であり、記念すべき時間でありました。ということですから、老年性のうつ症状が出現しているというわけではないと思います。
もっとも。彼女の父親が1歳10ヶ月の頃に何を話していたのか、思い出そうとしても検索できず、自分の記憶機能も確実に劣化しつつあるという主張は、「STAP細胞はあります!」と言い張った割烹着姿の女子の主張よりも確かです。
自分だけでなくこのブログの読者の皆さんにも、ポジティブになれる正月休みが来ることを待ち望んでおります。
秋葉先生を偲ぶ
14日の夕刻、知人から電話で大阪健康福祉短大の秋葉英則学長が亡くなり家族葬があったと知らせてきた。喪服姿が大勢駆けつけられるのは困ると言うことらしく(彼は2年ほど前に自宅を引き払い夫婦で介護付き老人ホームに移住した)、短大の元教員であった知人でも葬儀には出られなかったらしい。地区民がお寺に参集し大勢が故人を見送る儀式を経験して育ったので、何か寂しい気がする。葬式に大勢の客が来て煩わしいというだけが理由であるならば、残ったものの身勝手と言えなくもなかろう。もっとも、葬式は残されたもののための儀式という側面もあるので、ことは単純ではない。秋葉さんは著名人だったので、そのうち偲ぶ会のような別の催しが企画されるだろう。
自分の場合は、身近なもので簡単に葬式をすませて、後日大勢を集めて別れの機会を持つのが望ましいように思う。この世から去ったことを確認してもらう機会は必要と思うからである。大勢に集まってもらい、僕が好んだピート臭の効いたスコッチ、山形の日本酒などを振る舞って、アルコールの力を借りて悪口や迷惑をかけられたなどと歓談してもらうのがよかろう。ただ、振る舞い酒をするには、大勢に参集されると今の貯金では心もとないので、もう少し生きるつもりである。しかし、更に年を取ると参集する人は少なくなるはずなので費用は掛からない、などと思案するとなかなか単純ではない。
秋葉先生は秋葉さんという方が一般的な、明朗で堅苦しさのない人であった。大阪教育大の心理学教室で、青年心理学が専門の先輩教員である。組合の委員長を若いときからされており、僕も一時支部長をさせられた。目をかけているという表現が適切な扱いをしてくれた人である。
彼の訃報に接して蘇るのは40年ほど前の心理学教室の姿である。教員は16名ほどの大規模な教室で博士課程の途中で助手として赴任した僕のキャリアの原点である。秋葉さんに連想して蘇るのは学閥という単語で、もう死語になっているように思える。学閥とは出身大学の人間に特別な配慮をすることで、旧師範学校から大学に格上げになった教育大学では東京高等師範(旧東京教育大、いまの筑波大)と旧広島高等師範(今の広島大)の出身者が新しい教員を採用する際につばぜり合いをする慣習が残っていた。しかし、大きな所帯の教室であったせいか2つの、すき間を縫ってその他の大学出身教員も増えつつあった。僕が着任した頃は大学紛争の直後という時代でもあり、民主的な運営の象徴として教員を公募するという仕組みが採用されていた。新規の採用人事があると、2つの学閥がうごめき、自派に引き入れよう勧誘されたものである(たとえば、リーダーの自宅に招待されるとか)。
秋葉さんは福島生まれの東北大出身で当時珍しく博士号を取得していた。東大卒の教授と秋葉さんが公募人事の仕組みを進めたと聞いている。そのためか、秋葉さん以降の人事は、採用順に東京都立大、東京教育大、大阪市立大、名古屋大、広島大、東北大、名古屋大、京大出身とさまざまな大学院から教員が着任し、少なくとも心理学教室での学閥は消滅した。考えようによっては僕が採用されたのも秋葉さんらの学閥廃止の動きの賜物で恩人ということになるかも知れない。若手は秋葉さんに倣い博士号の取得を競って目指すようになった(3名はのちに旧帝大に移籍することになり、研究者養成に専念できることになる)ことも大きい。これは教育大学という多様な必修科目を沢山担当し、教育実習にも時間を多く割かれる状況下であっても若者は競って研究活動をしたためであり、秋葉さんの存在が生み出した文化なのだろう。
秋葉さんは講演が上手な人であった。僕の子どもが通う小学校にも滋賀の実家の近くの保育園でも彼は講演に呼ばれていた。「子育てにロマンを」、「育ち合いの子育て」などの分かり易い表現が得意な人で引っ張り凧という状況もあった。「自分に子どもがいないので好きなように言えるよなあ」、と若手は僻んだものだが、語尾をリフレインして強調するなど、講演を聴いた人はその表現力の豊かさに圧倒されるということであった。
秋葉さんには3年ほど前に鶴橋駅でばったり出会った。僕が環状線の電車から降りるとき目の前にいて、「オオ、はったクン」と薬のためやや浮腫んだ顔立ちで、いきなり抱きついて来た。関西人はクンの語尾を下げるが、秋葉さんはフラットか上げ気味の独特の韻律なのである。「関西に帰ってきたんやて、じゃまたな」と周りにはばかるような大きい元気な声を残して電車に乗り込んで行った姿が最後となった。積もる話を来月の先輩の叙勲祝いの会合でという願いは叶わなくなった。年を取るということは、寂しさをくぐり抜けて行くことなのだろう、と生臭い大学での管理運営の時間の流れの狭間でもがきつつ、感じているのであります。
自分の場合は、身近なもので簡単に葬式をすませて、後日大勢を集めて別れの機会を持つのが望ましいように思う。この世から去ったことを確認してもらう機会は必要と思うからである。大勢に集まってもらい、僕が好んだピート臭の効いたスコッチ、山形の日本酒などを振る舞って、アルコールの力を借りて悪口や迷惑をかけられたなどと歓談してもらうのがよかろう。ただ、振る舞い酒をするには、大勢に参集されると今の貯金では心もとないので、もう少し生きるつもりである。しかし、更に年を取ると参集する人は少なくなるはずなので費用は掛からない、などと思案するとなかなか単純ではない。
秋葉先生は秋葉さんという方が一般的な、明朗で堅苦しさのない人であった。大阪教育大の心理学教室で、青年心理学が専門の先輩教員である。組合の委員長を若いときからされており、僕も一時支部長をさせられた。目をかけているという表現が適切な扱いをしてくれた人である。
彼の訃報に接して蘇るのは40年ほど前の心理学教室の姿である。教員は16名ほどの大規模な教室で博士課程の途中で助手として赴任した僕のキャリアの原点である。秋葉さんに連想して蘇るのは学閥という単語で、もう死語になっているように思える。学閥とは出身大学の人間に特別な配慮をすることで、旧師範学校から大学に格上げになった教育大学では東京高等師範(旧東京教育大、いまの筑波大)と旧広島高等師範(今の広島大)の出身者が新しい教員を採用する際につばぜり合いをする慣習が残っていた。しかし、大きな所帯の教室であったせいか2つの、すき間を縫ってその他の大学出身教員も増えつつあった。僕が着任した頃は大学紛争の直後という時代でもあり、民主的な運営の象徴として教員を公募するという仕組みが採用されていた。新規の採用人事があると、2つの学閥がうごめき、自派に引き入れよう勧誘されたものである(たとえば、リーダーの自宅に招待されるとか)。
秋葉さんは福島生まれの東北大出身で当時珍しく博士号を取得していた。東大卒の教授と秋葉さんが公募人事の仕組みを進めたと聞いている。そのためか、秋葉さん以降の人事は、採用順に東京都立大、東京教育大、大阪市立大、名古屋大、広島大、東北大、名古屋大、京大出身とさまざまな大学院から教員が着任し、少なくとも心理学教室での学閥は消滅した。考えようによっては僕が採用されたのも秋葉さんらの学閥廃止の動きの賜物で恩人ということになるかも知れない。若手は秋葉さんに倣い博士号の取得を競って目指すようになった(3名はのちに旧帝大に移籍することになり、研究者養成に専念できることになる)ことも大きい。これは教育大学という多様な必修科目を沢山担当し、教育実習にも時間を多く割かれる状況下であっても若者は競って研究活動をしたためであり、秋葉さんの存在が生み出した文化なのだろう。
秋葉さんは講演が上手な人であった。僕の子どもが通う小学校にも滋賀の実家の近くの保育園でも彼は講演に呼ばれていた。「子育てにロマンを」、「育ち合いの子育て」などの分かり易い表現が得意な人で引っ張り凧という状況もあった。「自分に子どもがいないので好きなように言えるよなあ」、と若手は僻んだものだが、語尾をリフレインして強調するなど、講演を聴いた人はその表現力の豊かさに圧倒されるということであった。
秋葉さんには3年ほど前に鶴橋駅でばったり出会った。僕が環状線の電車から降りるとき目の前にいて、「オオ、はったクン」と薬のためやや浮腫んだ顔立ちで、いきなり抱きついて来た。関西人はクンの語尾を下げるが、秋葉さんはフラットか上げ気味の独特の韻律なのである。「関西に帰ってきたんやて、じゃまたな」と周りにはばかるような大きい元気な声を残して電車に乗り込んで行った姿が最後となった。積もる話を来月の先輩の叙勲祝いの会合でという願いは叶わなくなった。年を取るということは、寂しさをくぐり抜けて行くことなのだろう、と生臭い大学での管理運営の時間の流れの狭間でもがきつつ、感じているのであります。
仮説の検証
気がつけば10月も終わりに近づいており、時の経つ速度がますます加速されている気がする。学長職について半年が経過したが仕事の内容が以前よりも多様化し、量的にも増えた。何でもとりあえずお伺いを的事項も少なくない。なかには「自分で解決しなさいよ」とか、「大学全体の将来のこと、考えてるのか」と反射的に内言が浮かぶ事項もあるが、プライバシーに関わることも多いし、多面的に情報が集まっているわけでもないので、にわか判断をするわけにもいかない。したがって、ブログを始めた頃のように、記載して気分を発散するというわけにも行かない。
もともとは指導する院生間での情報交換の目的で始めたこのブログも今では様々な読者がいるらしい。思わぬ人から「読んでいるよ」と言われることがあり、客観的性が乏しい内容で個人を傷つけはしないかと気を抜けない(辞めればよいのだが、自分の認知の予備力対策なのだ)。
週末に学長や理事長が集まる私立大学の総会がありその夜の晩餐会で関東の大学の学長になっている旧知の心理学者が、僕の席にやってきて「イスラエルに行ったんだってな」と読者であることを知らされた。お互いに小規模大学での大変さを慰め合ったことである。彼からは、学長をしている、あるいはしていた数人の心理学者の名前を教えられ、「心理学者はデータ依存でものごとを処理するからな。結構多いんだ」ということであった。悪く言えば原理原則に弱いと言うことかも知れないし、方円自在で対応力があるということかも知れないが、妥当性を持つか仮説かは不明である。もっとも、このような仮説を検証してもたいした面白くもないが。
導入が長くなったが、価値のない仮説検証の話をしよう。僕でも知っているテレビ番組制作会社から、数日前に左ききに関連させた企画が持ちかけられた。
曰く、きき手と血液型の関係を検証する実験を含んだ番組をやりたい。ついては相談に乗って欲しいという。担当者の頭の中にある仮説は、「左ききは、右ききに比べて天才と呼ばれる人が多い」、「血液型別で分析をするとB型の人は、独創的な人が多い」、「天才が多い左きき、独創的なB型、両方の特性を持った人たちが集まるとどんな行動をするのかを番組内で実験したい」、「B型左ききは巷で言われる変人なのか?それとも、巷の噂は迷信だったのか?番組内での実験から結果を導き出す」というものらしい。今はやっていない卒論指導で、テーマと決めなさいという指示への学生の返答にこの種のものが多かった。物事の考え方に科学的側面が乏しいと言わざるを得ない。もちろん、×の返事を返したが、親切なので理由も記載しておいた。
①「天才」ってどういう人を言うのかの定義ができるのか問題です。左ききにダヴィンチなど著名人がいるのは事実だが、左ききの母集団と右ききの母集団での学業成績を比べた研究は見たことはあるが、天才と呼ばれる人は誰かのデータは見たことがないので、ダヴィンチ=天才=左ききの図式からの直観ヒューリスティックスに過ぎず、認知バイアス(間違い)と考えられます。
②血液型と性格との関連研究などまともに相手にされるレベルのものはないです。今年に翻訳した「本当は間違っている心理学の話」には50のテーマが取り上げられて、すべての神話が否定されると言う内容である。加えて各章に20-30の検討すべき神話があげてあるが、血液型と性格のことには記載がない。神話でないというより、欧米では話題にすら上らないレベルの日本固有の神話のようです。
③2つの事象の関係を調べると、何かしら関連が見いだせ、ときには相関係数のような数値を算出できるけど、両者の関連を調べるための論理がないと因果関係を調べる手法である実験など考えられません。無駄ですよ。「へその大きさ」と「英語の試験成績」との関係は数値化できるが、数値が大きくても小さくても、2者を媒介する理屈が成り立たないと取り上げる意味はないのです。
と、いう具合に記載した。これで企画がボツになれば企画担当者はへこむかも知れないが、彼女がへこむ痛みより、いい加減な番組で人生の貴重な時間を消費させられたかも知れないテレビ視聴者の利益の方が僕には関心がある。仮に彼女の仮説が妥当というような実験結果が得られたとしても、残るのは左ききやB型の子どもが小学校あたりでいじめの対象になる光景を想像してしまう。気の弱い僕にはこの種の社会的責任は僕には負えない。
自分の周りに左ききがいてその人が変人なのかも知れない、と彼女の直感ヒューリスティックスを生んだ環境に思いを馳せると、メールで、つまり文字言語での伝達では十分想いが伝わらず、番組制作者を傷つけたかも知れないと少しだけ気に病んでいる。
もともとは指導する院生間での情報交換の目的で始めたこのブログも今では様々な読者がいるらしい。思わぬ人から「読んでいるよ」と言われることがあり、客観的性が乏しい内容で個人を傷つけはしないかと気を抜けない(辞めればよいのだが、自分の認知の予備力対策なのだ)。
週末に学長や理事長が集まる私立大学の総会がありその夜の晩餐会で関東の大学の学長になっている旧知の心理学者が、僕の席にやってきて「イスラエルに行ったんだってな」と読者であることを知らされた。お互いに小規模大学での大変さを慰め合ったことである。彼からは、学長をしている、あるいはしていた数人の心理学者の名前を教えられ、「心理学者はデータ依存でものごとを処理するからな。結構多いんだ」ということであった。悪く言えば原理原則に弱いと言うことかも知れないし、方円自在で対応力があるということかも知れないが、妥当性を持つか仮説かは不明である。もっとも、このような仮説を検証してもたいした面白くもないが。
導入が長くなったが、価値のない仮説検証の話をしよう。僕でも知っているテレビ番組制作会社から、数日前に左ききに関連させた企画が持ちかけられた。
曰く、きき手と血液型の関係を検証する実験を含んだ番組をやりたい。ついては相談に乗って欲しいという。担当者の頭の中にある仮説は、「左ききは、右ききに比べて天才と呼ばれる人が多い」、「血液型別で分析をするとB型の人は、独創的な人が多い」、「天才が多い左きき、独創的なB型、両方の特性を持った人たちが集まるとどんな行動をするのかを番組内で実験したい」、「B型左ききは巷で言われる変人なのか?それとも、巷の噂は迷信だったのか?番組内での実験から結果を導き出す」というものらしい。今はやっていない卒論指導で、テーマと決めなさいという指示への学生の返答にこの種のものが多かった。物事の考え方に科学的側面が乏しいと言わざるを得ない。もちろん、×の返事を返したが、親切なので理由も記載しておいた。
①「天才」ってどういう人を言うのかの定義ができるのか問題です。左ききにダヴィンチなど著名人がいるのは事実だが、左ききの母集団と右ききの母集団での学業成績を比べた研究は見たことはあるが、天才と呼ばれる人は誰かのデータは見たことがないので、ダヴィンチ=天才=左ききの図式からの直観ヒューリスティックスに過ぎず、認知バイアス(間違い)と考えられます。
②血液型と性格との関連研究などまともに相手にされるレベルのものはないです。今年に翻訳した「本当は間違っている心理学の話」には50のテーマが取り上げられて、すべての神話が否定されると言う内容である。加えて各章に20-30の検討すべき神話があげてあるが、血液型と性格のことには記載がない。神話でないというより、欧米では話題にすら上らないレベルの日本固有の神話のようです。
③2つの事象の関係を調べると、何かしら関連が見いだせ、ときには相関係数のような数値を算出できるけど、両者の関連を調べるための論理がないと因果関係を調べる手法である実験など考えられません。無駄ですよ。「へその大きさ」と「英語の試験成績」との関係は数値化できるが、数値が大きくても小さくても、2者を媒介する理屈が成り立たないと取り上げる意味はないのです。
と、いう具合に記載した。これで企画がボツになれば企画担当者はへこむかも知れないが、彼女がへこむ痛みより、いい加減な番組で人生の貴重な時間を消費させられたかも知れないテレビ視聴者の利益の方が僕には関心がある。仮に彼女の仮説が妥当というような実験結果が得られたとしても、残るのは左ききやB型の子どもが小学校あたりでいじめの対象になる光景を想像してしまう。気の弱い僕にはこの種の社会的責任は僕には負えない。
自分の周りに左ききがいてその人が変人なのかも知れない、と彼女の直感ヒューリスティックスを生んだ環境に思いを馳せると、メールで、つまり文字言語での伝達では十分想いが伝わらず、番組制作者を傷つけたかも知れないと少しだけ気に病んでいる。
思考の柔軟性
今日(9/25)は学外日で、久しぶりに懸案になっている仕事を片付けようとまだ薄ぐらい5時前にデスクに向かった。ところが、USBをコンピュータが認識しないのである。引き抜いて再度差し込む作業を何度かしたが事態は改善しない。別のPCに差し込んでみても認識されない。家内のPCででも同じことであった。USBが壊れたのである。大学のPCは自動的に終了時にバックアップできるようにしてもらってあるので、大学に行けば作りかけのスライドファイルは保存されているはずなので,昔のように大騒ぎするほどでもないのだが、一日の予定は狂うこととなり、この原稿を書いているわけであります。スケジュール通りにはなかなか人生は運ばないのであります。
いきなりびろうな話で恐縮だが、先週左足の指の付け根の当たりに少し痒みを感じた。足が蒸れたのであろう、靴を脱げば症状は軽減するのではないかとの仮説はすぐに間違いであることがわかった。痒みは増悪こそすれ無くならなかったからである。持ち歩いている常備薬の中にかなり以前に使った水虫の軟膏の使いさしがあるのを思い出して塗布してみた。少し痒みは治まった。しかし、翌日も左足の痒みは治まらず、寝る前にも気になって寝入りにくいので水虫の軟膏の塗布を続けた。痒みは、10分ほどは軽減するが、ぶり返すのであった。軟膏は残りが少ない。水虫の薬は高価だけども、かかりつけの医者のところには先週血圧の薬をもらいに行ったところなので(僕は投薬を受け治療中の身でもあるのです)水虫を老内科医に見てもらうのは如何かと思い、薬局に行って購入せねばなるまいと考えていた。この間の時間経過はほぼ3日である。
3日目の夜、突然水虫ではないのかも、という仮説が頭を過ぎった。2年前に水虫であると自分で診断して市販の薬を塗ったり,振りかけたりしても一向に改善の兆しが見られないので、満を持して国分駅前の皮膚科を受診したことがある。常備薬の中にあったのはその頃の軟膏の残りである。若い女医さんは皮膚を削って顕微鏡を覗いた後、「水虫菌はいない、この赤くただれているのは湿疹です」と言って湿疹治療薬を処方してくれた。湿疹に水虫の薬を塗って症状を増悪させていたのである。処方されたのは赤いラベルの薬で医家向けの強い薬であることを後日知ったのだが、ほぼ2日で僕が長い期間水虫薬を塗布して悪戦苦闘していた状況は霧散し解消した。あまりに改善が早かったために再診する必要がなかったくらいである。「生兵法は怪我のもと」という格言はこう言うときに使うのだろうと自省していたエピソードを急に思い出したのである。そこで、ひきだしの奥に残っていたそのときの赤いラベルの軟膏を探し出して塗ると,左足の指先の痒みは一気にうそのように消失したのである。痒みの原因は水虫ではなく湿疹であったのだ。なぜ、女医さんの件をすぐに想起しなかったのか判らない。水虫と思い込み,それに対応する行動を3日もしていたのである。
「水虫の話など」と顔をしかめる事勿れ。僕が言いたいのは、如何に思い込みは人間の行動を縛り間違わせるか、最初の思い込みは,一度くらいの訂正を経験しても残存することの不思議についてなのである。先週の僕の左足騒動は、最初に「足の指先が痒い→水虫だ→水虫薬での処方」というスクリプトを一旦獲得すると(実は自分での実体験でない場合であっても)、その思考回路から逃れることはなかなか困難であることを実体験したことになる。もっとも、そんな人はアンタだけでしょうという声が聞こえそうではあるが、そうではない。科学神話の間違いに関する本を翻訳出版したが、その中に記載される間違い(思い込み)はメディアから、口コミからの間接的情報源からもたらされるもので、情報の信頼性や妥当性の検証なしに「手間ひまかけずに日常生活を送りたいという「人間の怠け者特性」に原因があるのである(「本当は間違っている心理学の話」、化学同人、2014年刊、を購入しお読み下さい)。
何故こんな話を書くのかというと、対人認知においても同じであることを経験したからである。我が大学は近い将来に新学部を創立すべく作業中である。ここで具体的な話を紹介するわけにはいかないのだが、その作業に関わって先週は数人の教員と面談する機会があった。最初に人間が獲得したスクリプトから逃れることは、ずいぶんと難しいのだという感想を持つことが何度もあったの。人はなかなか他人に優しくするように変われないものであることも思い知らされた。「自分に自信がない人間は他人に優しくはなれない」というどこかで目にしたフレーズの妥当性が脳裏に何度も行き交うのであった。作業記憶の中に暴れているフレーズを閉じ込めておかねばならないのに心的リソースを使った様な気がしている。
何事もスケジュール通りには物事は簡単には運ばないということであろう。「troubles make your journey memorable」と教えてくれた先生の言葉を杖にして前に進むしかないが、大学のPCのバックアップ機能も予定通りには行かない、ということがないようにと連日の涼しい日々が台風の影響で蒸し暑いなあと思いつつ原稿を書いているのであります。
いきなりびろうな話で恐縮だが、先週左足の指の付け根の当たりに少し痒みを感じた。足が蒸れたのであろう、靴を脱げば症状は軽減するのではないかとの仮説はすぐに間違いであることがわかった。痒みは増悪こそすれ無くならなかったからである。持ち歩いている常備薬の中にかなり以前に使った水虫の軟膏の使いさしがあるのを思い出して塗布してみた。少し痒みは治まった。しかし、翌日も左足の痒みは治まらず、寝る前にも気になって寝入りにくいので水虫の軟膏の塗布を続けた。痒みは、10分ほどは軽減するが、ぶり返すのであった。軟膏は残りが少ない。水虫の薬は高価だけども、かかりつけの医者のところには先週血圧の薬をもらいに行ったところなので(僕は投薬を受け治療中の身でもあるのです)水虫を老内科医に見てもらうのは如何かと思い、薬局に行って購入せねばなるまいと考えていた。この間の時間経過はほぼ3日である。
3日目の夜、突然水虫ではないのかも、という仮説が頭を過ぎった。2年前に水虫であると自分で診断して市販の薬を塗ったり,振りかけたりしても一向に改善の兆しが見られないので、満を持して国分駅前の皮膚科を受診したことがある。常備薬の中にあったのはその頃の軟膏の残りである。若い女医さんは皮膚を削って顕微鏡を覗いた後、「水虫菌はいない、この赤くただれているのは湿疹です」と言って湿疹治療薬を処方してくれた。湿疹に水虫の薬を塗って症状を増悪させていたのである。処方されたのは赤いラベルの薬で医家向けの強い薬であることを後日知ったのだが、ほぼ2日で僕が長い期間水虫薬を塗布して悪戦苦闘していた状況は霧散し解消した。あまりに改善が早かったために再診する必要がなかったくらいである。「生兵法は怪我のもと」という格言はこう言うときに使うのだろうと自省していたエピソードを急に思い出したのである。そこで、ひきだしの奥に残っていたそのときの赤いラベルの軟膏を探し出して塗ると,左足の指先の痒みは一気にうそのように消失したのである。痒みの原因は水虫ではなく湿疹であったのだ。なぜ、女医さんの件をすぐに想起しなかったのか判らない。水虫と思い込み,それに対応する行動を3日もしていたのである。
「水虫の話など」と顔をしかめる事勿れ。僕が言いたいのは、如何に思い込みは人間の行動を縛り間違わせるか、最初の思い込みは,一度くらいの訂正を経験しても残存することの不思議についてなのである。先週の僕の左足騒動は、最初に「足の指先が痒い→水虫だ→水虫薬での処方」というスクリプトを一旦獲得すると(実は自分での実体験でない場合であっても)、その思考回路から逃れることはなかなか困難であることを実体験したことになる。もっとも、そんな人はアンタだけでしょうという声が聞こえそうではあるが、そうではない。科学神話の間違いに関する本を翻訳出版したが、その中に記載される間違い(思い込み)はメディアから、口コミからの間接的情報源からもたらされるもので、情報の信頼性や妥当性の検証なしに「手間ひまかけずに日常生活を送りたいという「人間の怠け者特性」に原因があるのである(「本当は間違っている心理学の話」、化学同人、2014年刊、を購入しお読み下さい)。
何故こんな話を書くのかというと、対人認知においても同じであることを経験したからである。我が大学は近い将来に新学部を創立すべく作業中である。ここで具体的な話を紹介するわけにはいかないのだが、その作業に関わって先週は数人の教員と面談する機会があった。最初に人間が獲得したスクリプトから逃れることは、ずいぶんと難しいのだという感想を持つことが何度もあったの。人はなかなか他人に優しくするように変われないものであることも思い知らされた。「自分に自信がない人間は他人に優しくはなれない」というどこかで目にしたフレーズの妥当性が脳裏に何度も行き交うのであった。作業記憶の中に暴れているフレーズを閉じ込めておかねばならないのに心的リソースを使った様な気がしている。
何事もスケジュール通りには物事は簡単には運ばないということであろう。「troubles make your journey memorable」と教えてくれた先生の言葉を杖にして前に進むしかないが、大学のPCのバックアップ機能も予定通りには行かない、ということがないようにと連日の涼しい日々が台風の影響で蒸し暑いなあと思いつつ原稿を書いているのであります。
再会
古くからの友人としばらくぶりに再会することは楽しいことである。長い間つき合いが続いてい ることは、基本的に価値観が似ているか共通しているに違いない。自分にない魅力を持つ人と接することも楽しいものであるが、長く持続するかという点では疑問が残る。楽器を演奏できる人や漢籍に明るい人は筆者にかけている能力を持つ人であり、出会ってその時は楽しい時空間を得られることは間違いないが何十年も持続するかは怪しい。
この夏には、そんなことをつらつら考えさせる古い友人との再会がかなった。記憶力が衰える頃のための備忘録という意味合いで、友人について記しておく。古いエピソード記憶を検索することは前頭葉機能の主たる役割なので、脳を活性化させて機能低下を鈍化する筆者自らのための機能訓練なのである。
一人は7月に学会出張中に滞在したテルアビヴのホテルに来てくれたナハション博士であり、もう一人は一昨日京都で食事を一緒にしたカナダのレオン博士である。二人とも長く勤務した大学から名誉博士の称号をもらっている人である。
ナハション博士は1980年頃からの知り合いである。2国間での研究者の交換事業に共同研究しようと手紙が来て以来の知り合いで、先に書いた僕のテルアビヴ滞在の後で、2度日本に2ヶ月滞在した。共同研究論文もある。犯罪学教室に所属し左右脳の働きの差異と犯罪行動との関連を検討することを当時はテーマとしていた。右端から書字行動する場合と左端からとのパフォーマンスの違いを比べるという至極単純な研究方法で国際誌に論文を書いており、道具が揃わなくても心理学研究は可能であることを学んだ。また、ユダヤ人と大阪人は「お金」のことを共通の話題にして良いことも学んだ。給料や費用のことを率直に話題にしたのは彼との間だけかも知れない。彼が名大のゲストハウスに滞在しているとき、毎日歯磨きセットが新調されるけど、自分には不要なので宿泊費を割引できないのかと問われたことを記憶している。確かに,合理的に考えれば無駄なことにお金をつぎ込んでいるわけで、計算が難しいとかパッケージで商売しているからであるという僕の説明は,彼には了解不能であったことを記憶している。「もったいない」の言葉が社会的に喧伝される以前のことであった。
レオン博士は読み障害の研究で有名な人で,もらった名刺には3つの大学の名誉教授の称号が書かれている。今回の訪日は香港の大学のレビューの仕事があり、その合間に京都に数日遊びに来たということであった。ちなみに、香港の大学教員は6年間に4編以上の学会誌(国際誌)を執筆するのが義務ということである。日本の大学の一般的な文系教員ではなかなかつとまらないということになろうか。将来、このようなグローバルな数値基準を日本でも導入すべしなどということにもなりかねないので。関係のある人には銘じておくことが大切かもしれません。
レオン博士は僕の外国人の知人仲間(何十人というわけではないけど)ではもっとも古く1976年からのからの知り合いである。彼のサスカチュワン大学→ヴィクトリア大学→サスカチュワン大学のキャリアすべての期間で連絡を取り合い、相互に大学や自宅訪問をしてきた家族ぐるみの付き合いをしている人である。息子達の様子を逢うたびに心がけてくれ、かならず質問されるので、今回もiPadを持参し、子どもや孫の様子を見せたたことは言うまでもない。
彼から10年ほど前に悪性リンパ腫が見つかったという連絡があり心配していたが,2度ばかりの化学治療を受け、元気で来日した。老人同士のことであり、逢うときの話題は出会いの頃のこと、互いの訪問時のことであるのは当然だが、必ず最近の研究の進捗状況となる。前頭葉機能が活性化されることになる。レオン博士は83歳で、今でも研究費を獲得し大学に研究室を持ち、週に4日は通っているという。聞けば同じ分野のトロント大学のブレンダ・ミルナー教授は94歳だが今年も研究費を獲得したという。来年は70歳になるので次の科研費の申請はもうなしにしようかと考えたりするのだが,再考すべきかも知れないと思ったりした。次にあったときにもう研究生活から足を洗ったというのも悔しいかも知れないからである。
話題は変わるが、2人とどうして知り合い、長い付き合いになったのかを書いておこう。これからはもうこのような出会いはないのではないかと思うからである。1970年代では学会誌に論文が掲載されると、自分の書いた箇所だけを製本した別刷り(別冊ともいう)を購入するのが一般的であった。20部ほどは無料で、それ以上は別料金で執筆者が購入し,関連する分野の研究者に贈呈したものである。通常は自分のポケットマネーであてていた。もちろん希望する海外の研究者にも無料で配るのである。自分に関連する研究を学術誌で見つけると、はがきや手紙で(リプリント請求カード)送付を依頼するのである。自分が参考文献に引用した研究者から請求が来たりすると、それが自慢で「ひょっとしたら、海外から呼んでもられるかも知れないぞ」と大事に残すことを先輩から教えられたものである(後日、保存しておいた住所氏名をもとに、欧米の研究者を訪問して厄介になったので、ポケットマネーでの投資は元を取ったと思っている)。今から思うと厚かましいことのように思えるが、当時はこのようなことが研究者間でのルールであったように思う。我が家にもこういう形でいろいろと外国人がきたものである(その人たちを想起し始めると前頭葉機能活性にはよいのだろうが、話を続けるために抑圧しておく)。
はがきや手紙で別刷り請求が来るので、回数が多くなる人の名前や所属は覚え親近感をもつことになる。今日のようにpdfで容易に研究論文がダウンロードできる時代になると、ネット上で送受信しても請求者の名前は短期記憶にも留まらない。送り先の住所氏名を手で書くことは記憶を定着させる重要な手法であることが再確認できるというものである。
レオン博士は1976年の暮れに僕のところにサバティカルで滞在したいと依頼状を送ってきた。大阪教育大学では若輩の僕がとても受け入れられず、翌年海外に行くことが決まっていたので断ったのだが、それ以来の付き合いである。その後大学に来て僕が使っている物置の隅の空間に位置する手作りのタキストスコープを見て、その(劣悪な)環境に驚き、どんなところでも研究はできる、innovativeだと賞賛してくれたことを思い出す。
彼は今回、筆者の還暦祝いに指導生たちが出版してくれた書籍(英文で、彼も寄稿してくれており、発刊時にカナダに送ったもの)を持参しており、サインを求められた。自分は1人だけだけれども、Takeshiは多数の研究者を育てた(こういうことにもscholarshipという単語を使うようである)と賞賛してくれた。他人から久しく褒めてもらっていないが、褒められるのは嬉しいものである。研究生活に専念する生活は日本では、70歳近くまでは困難だが、筆者にも30歳半ばで人生の選択肢があったのかもしれないなどと夢想する、これもイメージの想起で、前頭葉の活動には有効であるはず。
何だ、年寄り同士が過去を褒め合っていた話かと問われるとyesとしか答えようがないが、大学の運営管理,将来構想の立案実施に焦燥感と消耗感が蓄積し、「もう大学を辞めよう」という内言があぶくのように浮かび上がる日々の中で、この夏の、はるかに年長の2人の友人との邂逅は、もうしばらくは「be imitative」であろうと僕の前頭葉に元気をもたらしたようである。
この夏には、そんなことをつらつら考えさせる古い友人との再会がかなった。記憶力が衰える頃のための備忘録という意味合いで、友人について記しておく。古いエピソード記憶を検索することは前頭葉機能の主たる役割なので、脳を活性化させて機能低下を鈍化する筆者自らのための機能訓練なのである。
一人は7月に学会出張中に滞在したテルアビヴのホテルに来てくれたナハション博士であり、もう一人は一昨日京都で食事を一緒にしたカナダのレオン博士である。二人とも長く勤務した大学から名誉博士の称号をもらっている人である。
ナハション博士は1980年頃からの知り合いである。2国間での研究者の交換事業に共同研究しようと手紙が来て以来の知り合いで、先に書いた僕のテルアビヴ滞在の後で、2度日本に2ヶ月滞在した。共同研究論文もある。犯罪学教室に所属し左右脳の働きの差異と犯罪行動との関連を検討することを当時はテーマとしていた。右端から書字行動する場合と左端からとのパフォーマンスの違いを比べるという至極単純な研究方法で国際誌に論文を書いており、道具が揃わなくても心理学研究は可能であることを学んだ。また、ユダヤ人と大阪人は「お金」のことを共通の話題にして良いことも学んだ。給料や費用のことを率直に話題にしたのは彼との間だけかも知れない。彼が名大のゲストハウスに滞在しているとき、毎日歯磨きセットが新調されるけど、自分には不要なので宿泊費を割引できないのかと問われたことを記憶している。確かに,合理的に考えれば無駄なことにお金をつぎ込んでいるわけで、計算が難しいとかパッケージで商売しているからであるという僕の説明は,彼には了解不能であったことを記憶している。「もったいない」の言葉が社会的に喧伝される以前のことであった。
レオン博士は読み障害の研究で有名な人で,もらった名刺には3つの大学の名誉教授の称号が書かれている。今回の訪日は香港の大学のレビューの仕事があり、その合間に京都に数日遊びに来たということであった。ちなみに、香港の大学教員は6年間に4編以上の学会誌(国際誌)を執筆するのが義務ということである。日本の大学の一般的な文系教員ではなかなかつとまらないということになろうか。将来、このようなグローバルな数値基準を日本でも導入すべしなどということにもなりかねないので。関係のある人には銘じておくことが大切かもしれません。
レオン博士は僕の外国人の知人仲間(何十人というわけではないけど)ではもっとも古く1976年からのからの知り合いである。彼のサスカチュワン大学→ヴィクトリア大学→サスカチュワン大学のキャリアすべての期間で連絡を取り合い、相互に大学や自宅訪問をしてきた家族ぐるみの付き合いをしている人である。息子達の様子を逢うたびに心がけてくれ、かならず質問されるので、今回もiPadを持参し、子どもや孫の様子を見せたたことは言うまでもない。
彼から10年ほど前に悪性リンパ腫が見つかったという連絡があり心配していたが,2度ばかりの化学治療を受け、元気で来日した。老人同士のことであり、逢うときの話題は出会いの頃のこと、互いの訪問時のことであるのは当然だが、必ず最近の研究の進捗状況となる。前頭葉機能が活性化されることになる。レオン博士は83歳で、今でも研究費を獲得し大学に研究室を持ち、週に4日は通っているという。聞けば同じ分野のトロント大学のブレンダ・ミルナー教授は94歳だが今年も研究費を獲得したという。来年は70歳になるので次の科研費の申請はもうなしにしようかと考えたりするのだが,再考すべきかも知れないと思ったりした。次にあったときにもう研究生活から足を洗ったというのも悔しいかも知れないからである。
話題は変わるが、2人とどうして知り合い、長い付き合いになったのかを書いておこう。これからはもうこのような出会いはないのではないかと思うからである。1970年代では学会誌に論文が掲載されると、自分の書いた箇所だけを製本した別刷り(別冊ともいう)を購入するのが一般的であった。20部ほどは無料で、それ以上は別料金で執筆者が購入し,関連する分野の研究者に贈呈したものである。通常は自分のポケットマネーであてていた。もちろん希望する海外の研究者にも無料で配るのである。自分に関連する研究を学術誌で見つけると、はがきや手紙で(リプリント請求カード)送付を依頼するのである。自分が参考文献に引用した研究者から請求が来たりすると、それが自慢で「ひょっとしたら、海外から呼んでもられるかも知れないぞ」と大事に残すことを先輩から教えられたものである(後日、保存しておいた住所氏名をもとに、欧米の研究者を訪問して厄介になったので、ポケットマネーでの投資は元を取ったと思っている)。今から思うと厚かましいことのように思えるが、当時はこのようなことが研究者間でのルールであったように思う。我が家にもこういう形でいろいろと外国人がきたものである(その人たちを想起し始めると前頭葉機能活性にはよいのだろうが、話を続けるために抑圧しておく)。
はがきや手紙で別刷り請求が来るので、回数が多くなる人の名前や所属は覚え親近感をもつことになる。今日のようにpdfで容易に研究論文がダウンロードできる時代になると、ネット上で送受信しても請求者の名前は短期記憶にも留まらない。送り先の住所氏名を手で書くことは記憶を定着させる重要な手法であることが再確認できるというものである。
レオン博士は1976年の暮れに僕のところにサバティカルで滞在したいと依頼状を送ってきた。大阪教育大学では若輩の僕がとても受け入れられず、翌年海外に行くことが決まっていたので断ったのだが、それ以来の付き合いである。その後大学に来て僕が使っている物置の隅の空間に位置する手作りのタキストスコープを見て、その(劣悪な)環境に驚き、どんなところでも研究はできる、innovativeだと賞賛してくれたことを思い出す。
彼は今回、筆者の還暦祝いに指導生たちが出版してくれた書籍(英文で、彼も寄稿してくれており、発刊時にカナダに送ったもの)を持参しており、サインを求められた。自分は1人だけだけれども、Takeshiは多数の研究者を育てた(こういうことにもscholarshipという単語を使うようである)と賞賛してくれた。他人から久しく褒めてもらっていないが、褒められるのは嬉しいものである。研究生活に専念する生活は日本では、70歳近くまでは困難だが、筆者にも30歳半ばで人生の選択肢があったのかもしれないなどと夢想する、これもイメージの想起で、前頭葉の活動には有効であるはず。
何だ、年寄り同士が過去を褒め合っていた話かと問われるとyesとしか答えようがないが、大学の運営管理,将来構想の立案実施に焦燥感と消耗感が蓄積し、「もう大学を辞めよう」という内言があぶくのように浮かび上がる日々の中で、この夏の、はるかに年長の2人の友人との邂逅は、もうしばらくは「be imitative」であろうと僕の前頭葉に元気をもたらしたようである。
空襲警報体験からメディア情報を考えた
イスラエルで開催された7月9日からの国際学会に参加した。エルサレムのホテルが会場であったが、値段や交通の便に加えて、以前に滞在していたので変わり様をこの目で確かめたいと思い、ホテルはテルアヴィヴにとった。共同研究者であったイスラエルの友人にも逢うことができた。77歳だという彼は昔より若返って見えた。
1983年に滞在していたビーチ沿いのMarinaホテルはまだ存在してはいたが、封鎖されて廃墟に近かった(隣接して著名ホテルが建設中なので、そのうち壊される運命だろう)。辺りを散策すると関連した記憶が次々とよみがえる不思議な時間を経験することとなった。「生まれた家は、跡形もない。ホタル」の俳句を詠んだ種田山頭火の感慨もかくあらんと、感じた。
かつては海水浴場とヨットハーバーしかなかったが、地中海に面するビーチはそれに加えて倍くらいの規模で遊戯施設やレストラン、有名店舗が軒を連ねるリゾートエリアに変貌し、ホテルの数も以前よりも増えてイスラエルの経済が発展してきたことがうかがえた。
経済発展の指標はアルコールを飲む場所数で測定可能なのかも知れない(食べものの種類や味に大きな変化はなかった。経済発展指標には食べものは2次的なのではないのかもしれない)。と言うのは、テルアヴィヴ市内の繁華街ディゼンゴフ通りにはバーやカフェを始めとする飲食店が数多く出現していた。ヨーロッパの大都市同様にアルコールが提供される状況は、1983年頃に比べて大きな変化である。ディゼンゴフ通りで食事する場所探しの大変さや、ビールを求めて彷徨したのが嘘みたいな変貌ぶりであった。街頭の表記はヘブライ語とロシア語が並記され、英語の表記は激減したのも印象に残った。ロシアからの移民増の反映であろう。
滞在3日目の夜に空襲警報のサイレンが鳴り、花火のような音がして窓が揺れ、ガザ地区からのハマスのロケット砲に、迎撃ミサイルが命中した結果であることを翌朝知った。その後、夜だけでなく昼間も空襲警報→防空壕へ非難という経験を何度かすることとなった。
この様に書くと警報に逃げ惑う市民、地下壕に息をひそめる姿を想像するかも知れないが、実態はそうではない。ガザ地区とは異なりテルアヴィヴでは、空襲警報がなると建物の中に避難するのは事実だが、避難している時間は数分で、警報が鳴り終わると何事もなかったかのように人は街にあふれ、ビーチではラケットボールに興じるのである。
イスラエルのミサイル迎撃網は完璧であると信じられているようで、空襲警報→建物に入る→ドンという花火のような音→日常にもどる、という数分間の繰り返しであった。テレビでのニュースは、ハマスの攻撃ミサイルを迎撃する様子(破片が降ってくる)が映し出されるが、人々の関心をそれほど引くものではない印象であった。
今回のテルアヴィヴやエルサレムでの滞在は、現地にいた人間として、現実とインターネットで日本を含める海外のメディア情報とを同時に知るという希有な経験をしたことになる。前置きが長くなったが、これからが伝えたいことであるので、もう少しの辛抱をお願いしたい。
日本のインターネットを検索すると、「ミサイル攻撃を受け外出を控える市民」という類の映像が得られたり、ガザ地区でイスラエルからの攻撃で破壊された建物の画像が提供されていたりしたが、ホテルのテレビに映し出されるのは、イスラエルの迎撃ミサイルが攻撃ミサイルを破壊する場面だけで、ガザ地区の破壊された建物の画像を見ることはなかった(始終、すべてのテレビチャンネルを見ていたわけではないけれど)。日本からのメールには「大丈夫か、朝の散歩は止めるように」などの連絡が入るが、街は平穏で、的外れの感が強かった。1983年当時の方が街に銃を持つ軍服姿が多かったように思える。
日本やCNNでイスラエルに関するニュースをみると、破壊された建物、けが人を運ぶ救急車という画像や記事が報じられる。空襲警報という語彙から人々が連想するステレオタイプなイメージと何事もないような街という現実との乖離が、的外れ感をもたらすのであろう。
つまり、メディアの情報は嘘ではないが全体像を報じることはないこと、紛争状態になれば国内メディアが報じるのは自分側の立場に立った情報だけであること、この2点を最近の機密保持法や集団的自衛権にまつわる国内事情とリンクさせて実感したことである。国際間で何かもめ事が起きるとき、伝えられるのは一方からの情報でしかなく、インターネットで検索は可能かも知れないが同時のそれらを比較する人間の割合はごく僅かでしかないのである。双方の情報を比較するという科学的思考を自らが身につけること、若者に付けさせることの重要さを痛感した。
民族や宗教の対立がもたらすダイバーシティ(diversity)の克服の鍵は「殺さない、盗まない」というすべての宗教が求める倫理にあるのではないだろうかと、ガザ地区への地上軍の侵攻が始まる直前に、帰国の途につき、空港のテレビに映し出されるミサイル迎撃成功画像を見ながら考えた。他の民族を殺さない日本人であり続けること、それを次世代に伝えねばならないと、責任を感じたことであります。
1983年に滞在していたビーチ沿いのMarinaホテルはまだ存在してはいたが、封鎖されて廃墟に近かった(隣接して著名ホテルが建設中なので、そのうち壊される運命だろう)。辺りを散策すると関連した記憶が次々とよみがえる不思議な時間を経験することとなった。「生まれた家は、跡形もない。ホタル」の俳句を詠んだ種田山頭火の感慨もかくあらんと、感じた。
かつては海水浴場とヨットハーバーしかなかったが、地中海に面するビーチはそれに加えて倍くらいの規模で遊戯施設やレストラン、有名店舗が軒を連ねるリゾートエリアに変貌し、ホテルの数も以前よりも増えてイスラエルの経済が発展してきたことがうかがえた。
経済発展の指標はアルコールを飲む場所数で測定可能なのかも知れない(食べものの種類や味に大きな変化はなかった。経済発展指標には食べものは2次的なのではないのかもしれない)。と言うのは、テルアヴィヴ市内の繁華街ディゼンゴフ通りにはバーやカフェを始めとする飲食店が数多く出現していた。ヨーロッパの大都市同様にアルコールが提供される状況は、1983年頃に比べて大きな変化である。ディゼンゴフ通りで食事する場所探しの大変さや、ビールを求めて彷徨したのが嘘みたいな変貌ぶりであった。街頭の表記はヘブライ語とロシア語が並記され、英語の表記は激減したのも印象に残った。ロシアからの移民増の反映であろう。
滞在3日目の夜に空襲警報のサイレンが鳴り、花火のような音がして窓が揺れ、ガザ地区からのハマスのロケット砲に、迎撃ミサイルが命中した結果であることを翌朝知った。その後、夜だけでなく昼間も空襲警報→防空壕へ非難という経験を何度かすることとなった。
この様に書くと警報に逃げ惑う市民、地下壕に息をひそめる姿を想像するかも知れないが、実態はそうではない。ガザ地区とは異なりテルアヴィヴでは、空襲警報がなると建物の中に避難するのは事実だが、避難している時間は数分で、警報が鳴り終わると何事もなかったかのように人は街にあふれ、ビーチではラケットボールに興じるのである。
イスラエルのミサイル迎撃網は完璧であると信じられているようで、空襲警報→建物に入る→ドンという花火のような音→日常にもどる、という数分間の繰り返しであった。テレビでのニュースは、ハマスの攻撃ミサイルを迎撃する様子(破片が降ってくる)が映し出されるが、人々の関心をそれほど引くものではない印象であった。
今回のテルアヴィヴやエルサレムでの滞在は、現地にいた人間として、現実とインターネットで日本を含める海外のメディア情報とを同時に知るという希有な経験をしたことになる。前置きが長くなったが、これからが伝えたいことであるので、もう少しの辛抱をお願いしたい。
日本のインターネットを検索すると、「ミサイル攻撃を受け外出を控える市民」という類の映像が得られたり、ガザ地区でイスラエルからの攻撃で破壊された建物の画像が提供されていたりしたが、ホテルのテレビに映し出されるのは、イスラエルの迎撃ミサイルが攻撃ミサイルを破壊する場面だけで、ガザ地区の破壊された建物の画像を見ることはなかった(始終、すべてのテレビチャンネルを見ていたわけではないけれど)。日本からのメールには「大丈夫か、朝の散歩は止めるように」などの連絡が入るが、街は平穏で、的外れの感が強かった。1983年当時の方が街に銃を持つ軍服姿が多かったように思える。
日本やCNNでイスラエルに関するニュースをみると、破壊された建物、けが人を運ぶ救急車という画像や記事が報じられる。空襲警報という語彙から人々が連想するステレオタイプなイメージと何事もないような街という現実との乖離が、的外れ感をもたらすのであろう。
つまり、メディアの情報は嘘ではないが全体像を報じることはないこと、紛争状態になれば国内メディアが報じるのは自分側の立場に立った情報だけであること、この2点を最近の機密保持法や集団的自衛権にまつわる国内事情とリンクさせて実感したことである。国際間で何かもめ事が起きるとき、伝えられるのは一方からの情報でしかなく、インターネットで検索は可能かも知れないが同時のそれらを比較する人間の割合はごく僅かでしかないのである。双方の情報を比較するという科学的思考を自らが身につけること、若者に付けさせることの重要さを痛感した。
民族や宗教の対立がもたらすダイバーシティ(diversity)の克服の鍵は「殺さない、盗まない」というすべての宗教が求める倫理にあるのではないだろうかと、ガザ地区への地上軍の侵攻が始まる直前に、帰国の途につき、空港のテレビに映し出されるミサイル迎撃成功画像を見ながら考えた。他の民族を殺さない日本人であり続けること、それを次世代に伝えねばならないと、責任を感じたことであります。
不思議な4日間
第17回世界学長会議が6月12日から3日間横浜パシフィコで開催され、前夜のパーティから参加した。おかげで大学でのルーティン生活からは解放された4日を過ごすこととなった。参加者は36カ国から約350名が参加する規模の大きな集まりであった。文科省大臣や宮様も開会式に参加し(実際には代理しか来なかったけれども)、国連の事務総長がビデオメッセージを送ってくるというレベルの会議であった。正直なところ事前の調べなしに理事長に付いていった形なのだが、不思議な体験ができた4日間であった。世界には不思議がいっぱいである。
世界学長会議(IAUP)は、国連の高等教育施策(女性の参加、若者のグローバルマインドの育成、若者の多国間交流促進などなど)とジョイントする私立大学長の集まりで3年ごとに大きな大会があり、30年前には神戸で開催されたらしいことなどが自ずと判ってきた。日本の学長は私立大学協会メンバー(加盟校約500校)が多数参加し、私立大学連盟(加盟校は戦前からの大学で、基本的に新参者は加盟できないらしい)からはわずかしか来ていないように見受けた。
もうすぐ創立50周年という割には世界学長会議にどうして有名校は参加しないのかが不思議であった。この会議は個人で参加する形態だが、機関で参加する別の世界会議(IUP)もあるらしい。類似の集まりをいくつも作るのは,おそらく長になりたい人が多いのだろう(これは不思議なことではない)。
初日のウェルカムパーティではウクライナの50歳代の女性学長と話す時間が長かった。父親が大学を創設したということである。私立大学はどこの国でも世襲制であるらしい。これも別に不思議ではない。本国はほぼ内戦状態なのに,どういう経路できたのかなどと聞くと自分はキエフなので、大丈夫!みたいなことであった。連日のBSニュースのウクライナ情勢とは乖離が大きく不思議であった。タイの大学の学長も家族連れで、父親とそっくりの若者がいたので親子かと聞くと子どもは米国に大学の学生と言うことであったが、お国の状態は大丈夫なのかなあと不思議であった。どこの国でも特権階級は別で、不思議でないということか。
イラクの大学からの老齢の夫妻(学長会議なので自分を含め、たいていは老齢なのだが)とはガラディナー(余興付きの夕食会のこと)のテーブルで一緒になった。この日のセッションで、クルド地区に3年前にできた大学の学長とともに、話題提供していたイラクの大学からの学長夫妻であった。アルカイダ勢力が首都近くまで攻め込んでいるニュースを朝に聞いたばかりで安全に帰国できるのか僕は心配したが、夫妻は富士山への生き方や広島へは日帰りできるかを聞くだけで、不思議であった。
彼らは国連の研究者救援活動計画でイラク戦争時にイラクから救出された人であることは,国連が仕切るパネルディスカッションで知った。イラクやクルドからの参加者は国連が上手く処置するのかも知れない。しかし、スカラー・レスキュー・プログラムなどというそんな活動があることは知らなかった。国家が崩壊し再建するときに学者や医者、研究者など高学歴の人間は国連が救い出してくれるらしい。国家を再建するには高等教育を受けた人材は不可欠という理屈は判らないでもないが、人権はすべての人間で平等ということではないというのが国連での共通理解のようである。違和感を抱く僕は大方の参加者からみると不思議なのかも知れないけど。
上妻宏光の津軽三味線がガラディナーの余興のメインであった。ピアノと和太鼓との3人でのセッションで、それなりに盛り上がり楽しかったのだが、上妻は途中で1曲だけ歌を歌ったが、それは「雨は降る降る,人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂。..」であった。西南戦争を描く歌であり、梅雨時だから雨の歌を選んだのかも知れないが,ヨコハマだし、その日は前日とは打って変わった快晴であった。不思議な選曲であった。
4日間も横浜パシフィコを借りて国際会議をする予算は何処からでるのかは最大の不思議ではないのかと読者は聞きたいかも知れないが、スポンサーがいるのだ。僕にも不思議と言うしかない。
5時過ぎに自宅に戻ると畑のキュウリが急成長(しゃれではなく)していた。思いがけない速さでの成長を目のあたりにして、「不思議な4日間であったなあ」と自問したのでありました。日曜日に来た孫のためにジャガイモを抜いてみせたが、彼女はとくに関心を示さず、集めたイモをあちこちに掘り投げるのに夢中でした。子どもが一番不思議な生き物かも知れません。
世界学長会議(IAUP)は、国連の高等教育施策(女性の参加、若者のグローバルマインドの育成、若者の多国間交流促進などなど)とジョイントする私立大学長の集まりで3年ごとに大きな大会があり、30年前には神戸で開催されたらしいことなどが自ずと判ってきた。日本の学長は私立大学協会メンバー(加盟校約500校)が多数参加し、私立大学連盟(加盟校は戦前からの大学で、基本的に新参者は加盟できないらしい)からはわずかしか来ていないように見受けた。
もうすぐ創立50周年という割には世界学長会議にどうして有名校は参加しないのかが不思議であった。この会議は個人で参加する形態だが、機関で参加する別の世界会議(IUP)もあるらしい。類似の集まりをいくつも作るのは,おそらく長になりたい人が多いのだろう(これは不思議なことではない)。
初日のウェルカムパーティではウクライナの50歳代の女性学長と話す時間が長かった。父親が大学を創設したということである。私立大学はどこの国でも世襲制であるらしい。これも別に不思議ではない。本国はほぼ内戦状態なのに,どういう経路できたのかなどと聞くと自分はキエフなので、大丈夫!みたいなことであった。連日のBSニュースのウクライナ情勢とは乖離が大きく不思議であった。タイの大学の学長も家族連れで、父親とそっくりの若者がいたので親子かと聞くと子どもは米国に大学の学生と言うことであったが、お国の状態は大丈夫なのかなあと不思議であった。どこの国でも特権階級は別で、不思議でないということか。
イラクの大学からの老齢の夫妻(学長会議なので自分を含め、たいていは老齢なのだが)とはガラディナー(余興付きの夕食会のこと)のテーブルで一緒になった。この日のセッションで、クルド地区に3年前にできた大学の学長とともに、話題提供していたイラクの大学からの学長夫妻であった。アルカイダ勢力が首都近くまで攻め込んでいるニュースを朝に聞いたばかりで安全に帰国できるのか僕は心配したが、夫妻は富士山への生き方や広島へは日帰りできるかを聞くだけで、不思議であった。
彼らは国連の研究者救援活動計画でイラク戦争時にイラクから救出された人であることは,国連が仕切るパネルディスカッションで知った。イラクやクルドからの参加者は国連が上手く処置するのかも知れない。しかし、スカラー・レスキュー・プログラムなどというそんな活動があることは知らなかった。国家が崩壊し再建するときに学者や医者、研究者など高学歴の人間は国連が救い出してくれるらしい。国家を再建するには高等教育を受けた人材は不可欠という理屈は判らないでもないが、人権はすべての人間で平等ということではないというのが国連での共通理解のようである。違和感を抱く僕は大方の参加者からみると不思議なのかも知れないけど。
上妻宏光の津軽三味線がガラディナーの余興のメインであった。ピアノと和太鼓との3人でのセッションで、それなりに盛り上がり楽しかったのだが、上妻は途中で1曲だけ歌を歌ったが、それは「雨は降る降る,人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂。..」であった。西南戦争を描く歌であり、梅雨時だから雨の歌を選んだのかも知れないが,ヨコハマだし、その日は前日とは打って変わった快晴であった。不思議な選曲であった。
4日間も横浜パシフィコを借りて国際会議をする予算は何処からでるのかは最大の不思議ではないのかと読者は聞きたいかも知れないが、スポンサーがいるのだ。僕にも不思議と言うしかない。
5時過ぎに自宅に戻ると畑のキュウリが急成長(しゃれではなく)していた。思いがけない速さでの成長を目のあたりにして、「不思議な4日間であったなあ」と自問したのでありました。日曜日に来た孫のためにジャガイモを抜いてみせたが、彼女はとくに関心を示さず、集めたイモをあちこちに掘り投げるのに夢中でした。子どもが一番不思議な生き物かも知れません。
遺伝と環境
5月に入っても大学での仕事は多忙の一言で、ここには書けないやっかい事の出現にはことかかない。連休以降に眠りが浅い日もあったせいか、あるいは3月末の、かかりつけ医院での血液検査の結果を気にして酒量や油ものを(少しだけ)控えているせいか、3月末よりも体重が約2Kg減少し理想レベルになった。やっかい事にもポジティブな役割があるというものである。話題を変えよう。忙しくてもまだ、家庭菜園は廃業していない。
メモによると3月23日にジャガイモを植え付けたとある。今まで挑戦していない野菜である。八雲検診でお世話になる自治体から大量に立派なイモを送ってもらうこともあってジャガイモは必要ないのだが、孫にジャガイモを掘るところを経験させたいと親が言う。土中にあるもの、表からは見えないものが現れて驚いたり楽しんだりするのは1歳半ばでは無理だとは思うが、「イナイイナイバー」を喜んだのは生後半年頃からだったので、試してみるかと、親バカに付き合ってジャガイモを植えることにした。ピアジェのいう感覚運動期の認知発達の特徴である「ものの存在の持続性理解」というくくりでは類似しているので、孫で試してみるかというわけである。
種芋処理をしてあるジャガイモは、売っている最低単位が10個なので、半分に切って灰をまぶして土中に植える数は20株となる。狭い菜園で成育中のブロコリーを、もう少し大きくできるのにと思いつつ引き抜き、種芋を植え付けた。畑に用意した3畝だけでは種芋が余るので、プランター2つにも植え付けたのが3月23日であった。
プランターでの栽培は根を張る芋では不適で、畝だけにして残る種芋を捨てれば良いとは理屈では理解できても貧乏性につき、捨てられないのだ。資料では3週間で芽がでてとあるが、寒い日が続いたせいか、なかなか芽がでなかった。日当りの良いプランターが一番先に芽を出し10センチほどに育ってやっと、4週間後に畑の畝に芽が出始めた。15個出芽するはずなのに半分ぐらい発芽の兆しがなかった。種芋が腐ってしまったのかも知れないと放置してあった。土を掘り出してダメな種芋を取り出そうかと思いつつ、忙しさにかまけて手つかずであった。5月15日は午後名大に出かける用事があり、午前中ゆっくりしていた。気持ちに余裕があったのか、畑を見て草取りなどをして時間を過ごした。驚くなかれ、すべての種芋から芽がでていた。当初は3倍ほどの大きさの格差があったのに、今では背丈もほぼ揃い、全部が白い花のつぼみを付けている。当初遅れ気味であった株も収穫時期近くになると遅れを取り戻したのである。もたもたして成長できないと子孫を残せないと必死に追いついてきたのであろう。遺伝子情報というものはすごい。育ちが悪いので引き抜こうとしていたことを申し訳ないと呟いたことである。時間をかければ、一人前に育つように遺伝子情報はできているわけで、人間を育てることにもつながると一人ごちたことである。
プランターに植えた種芋の方は、初期の生育こそ目覚ましかったのだが、今日現在では畑のジャガイモは50センチ大に育っているのに対して、30センチ弱で3ヶ月後の生育状況は遅れを取っている。環境も大事であることを教示していることは言うまでもない。10個の種芋で人生を勉強できるとは有り難いことで、考えれば易い投資である(ジャガイモのための肥料とやらも購入してあるので、イモ代金だけではないけど)。
花が咲き始めたジャガイモをいつ掘り出すかは心配していない。というのは、散歩路の脇にいくつもある貸し農園ではたいていジャガイモが植えてあり、それらが掘り出される頃にまねをすれば良いだけだからである。貸し農園のジャガイモの育ちは我が家よりも数等立派であるが、気にせずにその時期を待ちたい。イモが小振りのものしかできない可能性は高いが、これも気にしない。なぜなら、わざわざ新ジャガの子イモだけを販売しているものを毎年わざわざ購入し、ジャガイモの煮転がしを作るのを長年の習いにしているからである。新ジャガの皮をタワシで_ぎ落としてとろ火で時間を掛け、一味を利かせて甘辛く煮たシンプルな料理は僕の得意技であり、初夏のビールのつまみには無くてはならない一品なのだ (ついでに言うと、皮ごと焼いて、取り出した熱々のそら豆に岩塩をふった品も絶品ですヨ)。
孫が芋掘りのときにどういう反応を示すかも関心事ではあるが、仮に興味を示さずとも自作の新ジャガでの煮転がしの味や如何にという楽しみもある。収穫の梅雨空け時が待たれる。
メモによると3月23日にジャガイモを植え付けたとある。今まで挑戦していない野菜である。八雲検診でお世話になる自治体から大量に立派なイモを送ってもらうこともあってジャガイモは必要ないのだが、孫にジャガイモを掘るところを経験させたいと親が言う。土中にあるもの、表からは見えないものが現れて驚いたり楽しんだりするのは1歳半ばでは無理だとは思うが、「イナイイナイバー」を喜んだのは生後半年頃からだったので、試してみるかと、親バカに付き合ってジャガイモを植えることにした。ピアジェのいう感覚運動期の認知発達の特徴である「ものの存在の持続性理解」というくくりでは類似しているので、孫で試してみるかというわけである。
種芋処理をしてあるジャガイモは、売っている最低単位が10個なので、半分に切って灰をまぶして土中に植える数は20株となる。狭い菜園で成育中のブロコリーを、もう少し大きくできるのにと思いつつ引き抜き、種芋を植え付けた。畑に用意した3畝だけでは種芋が余るので、プランター2つにも植え付けたのが3月23日であった。
プランターでの栽培は根を張る芋では不適で、畝だけにして残る種芋を捨てれば良いとは理屈では理解できても貧乏性につき、捨てられないのだ。資料では3週間で芽がでてとあるが、寒い日が続いたせいか、なかなか芽がでなかった。日当りの良いプランターが一番先に芽を出し10センチほどに育ってやっと、4週間後に畑の畝に芽が出始めた。15個出芽するはずなのに半分ぐらい発芽の兆しがなかった。種芋が腐ってしまったのかも知れないと放置してあった。土を掘り出してダメな種芋を取り出そうかと思いつつ、忙しさにかまけて手つかずであった。5月15日は午後名大に出かける用事があり、午前中ゆっくりしていた。気持ちに余裕があったのか、畑を見て草取りなどをして時間を過ごした。驚くなかれ、すべての種芋から芽がでていた。当初は3倍ほどの大きさの格差があったのに、今では背丈もほぼ揃い、全部が白い花のつぼみを付けている。当初遅れ気味であった株も収穫時期近くになると遅れを取り戻したのである。もたもたして成長できないと子孫を残せないと必死に追いついてきたのであろう。遺伝子情報というものはすごい。育ちが悪いので引き抜こうとしていたことを申し訳ないと呟いたことである。時間をかければ、一人前に育つように遺伝子情報はできているわけで、人間を育てることにもつながると一人ごちたことである。
プランターに植えた種芋の方は、初期の生育こそ目覚ましかったのだが、今日現在では畑のジャガイモは50センチ大に育っているのに対して、30センチ弱で3ヶ月後の生育状況は遅れを取っている。環境も大事であることを教示していることは言うまでもない。10個の種芋で人生を勉強できるとは有り難いことで、考えれば易い投資である(ジャガイモのための肥料とやらも購入してあるので、イモ代金だけではないけど)。
花が咲き始めたジャガイモをいつ掘り出すかは心配していない。というのは、散歩路の脇にいくつもある貸し農園ではたいていジャガイモが植えてあり、それらが掘り出される頃にまねをすれば良いだけだからである。貸し農園のジャガイモの育ちは我が家よりも数等立派であるが、気にせずにその時期を待ちたい。イモが小振りのものしかできない可能性は高いが、これも気にしない。なぜなら、わざわざ新ジャガの子イモだけを販売しているものを毎年わざわざ購入し、ジャガイモの煮転がしを作るのを長年の習いにしているからである。新ジャガの皮をタワシで_ぎ落としてとろ火で時間を掛け、一味を利かせて甘辛く煮たシンプルな料理は僕の得意技であり、初夏のビールのつまみには無くてはならない一品なのだ (ついでに言うと、皮ごと焼いて、取り出した熱々のそら豆に岩塩をふった品も絶品ですヨ)。
孫が芋掘りのときにどういう反応を示すかも関心事ではあるが、仮に興味を示さずとも自作の新ジャガでの煮転がしの味や如何にという楽しみもある。収穫の梅雨空け時が待たれる。
慌ただしい年度替わり
いつも忙しいというのが口癖になっているが、年度末と年度初めは従前になく文字通り、忙しかった。いくつもの課題というかイベントが重なったためである。一つは、学長に就任したことがある。自分でも未だに理由がしっくり来ないのだが、ともかく副学長から学長になった。前の学長は理事長を兼ねていたので実質的にたいした変化はあるまいと高をくくっていたが、予想を超えて期限付きでしなければならないことが多くあった。入学式辞の準備(それも手話通訳の準備のために20日ほど前に手交せねばならなかった)、教員向けと職員向けの所信表明のスライド作成、同窓会や後援会のパンフなどの挨拶文の原稿、情宣用の写真の撮影などなどである(HPに出ている写真はそのときのものではないが)。入学式のためのモーニングも必要になり「副がなくなったのに服がいる」と予想しなかった出費に自嘲することであった。まあ、なんとかやり過ごすことはできた。
二つめは、ブラジルからかつて世話をした留学生と再会したことである。1982年から3年間大阪教育大学に国費留学生として滞在した学生が、家族や親戚一同6人で来日した。メールで何度かやり取りをし、4月6日の日曜日に太閤園でサクラを見ながら食事会をした。当時の院生も3名参加し、思い出話をする機会があった。今ではたいていの教員養成系大学にも大学院があるが、当時は東京学芸大学と大阪教育大学にのみ修士課程が設置されていた。大阪教育大学の修士課程は2講座構成で、1学年4名が定員であった。したがって、教員養成系の大学の卒業生が大学院に進学するのは難関であった。全国の大学から学生が集まり、その後旧帝大の博士課程に進んだ者もいるが大学教員として巣立っていった。彼らは現在50歳半ばであろうか。
その頃、私は大学院の学習・発達心理学講座の助教授であった。海外からの留学生を受け入れることを要請された教授は写真を見てすぐにOKを出した(その先生は亡くなられているので本当のことを言っても叱られる心配はない)。しかし、一向に指導はしないので、留学生は帰国1年前の春頃に私の部室に来て、このままでは帰国できないと泣き出したのである。ブラジル国を代表しての留学生として選抜されたので、研究論文なしで帰国しては面目が立たないというのである(当時の留学生や海外派遣研究者に共通するメンタリティであった)。
当時、海外から戻ってすぐで、元気であった私は、いくつかの実験を提案して、1編は彼女(留学生は女性です。今回5歳しか年が違わないことが判明)が単著で、1編は私との共著で2編の英文論文を書かせて帰国させた。彼女は読み書きの認知心理学に関心があるというので、ターゲット文字を読むのに、周辺の刺激がどう干渉するかを調べる実験を計画した。最近の認知心理学で「フランカー刺激効果」と呼んでいる実験パラダイムでの研究であり、私は、当時「parafoveal information processing」と命名していた。読みで中心視している文字に、隣接する文字がどう干渉するのかを検討する研究である。この実験パラダイムはその後自分自身が、オーストラリアで行った「日本語を学んでいる学生の習熟度の測定」という研究にもつながった。昨今のSTAP細胞論文騒ぎで倫理観が言われるので明記しておくが、彼女の論文は実験計画や分析の指導はしたが彼女が書いたもので、コピーペースストなどはありえないものである。
彼女は帰国後、博士課程に進みサンパウロにある大学の教授になった。日系三世のブラジル人の方が義理堅いというのは言い過ぎかも知れないが、彼女は帰国後も常に私への感謝を忘れずにいてくれ、63歳の定年を終えて旦那を連れての日本再訪であった。教師冥利に尽きる訪問であった。
三つめは昨年末に投稿していた論文の査読結果がつぎつぎと、と言っても3編だけど、返って来る時期に遭遇して対応に追われたのである。当然のことだが、査読結果はいくつもの問題点を指摘し、期限付きで修正を要求するのである。留学生の再訪を機会に30数年前を思い出すと、あの頃は実験のアイデアが簡単に生まれ、短期間に論文を書くことができ、ごく軽微な修正を求められる程度で論文が量産できていたのにと、忸怩たる思い浮かぶ。
学務に割く時間が増加していることは割り引くとしても、能力は落ちたと実感せざるを得ない。毎日のように数種類か新着の雑誌論文に目を通せていた30歳代半ばの頃に比べると、勉強不足は歴然とした事実で、3日ほど前に、インパクトスコアが付いている雑誌への掲載は可という連絡は1編については得たが(他のはまだやり取り中)、今までこんなに手こずることはなかったように感じてしまう(以外と忘れているのかも知れないが)。
研究は、職階は関係しない実力の世界であること、科研費をもらっている以上、成果の公刊は義務であることを鑑みると、めげるわけにはいかない。衰えゆく身を奮い立たせるしかない。
斯く左様に、新年度が始まり、もがいているのであります。
二つめは、ブラジルからかつて世話をした留学生と再会したことである。1982年から3年間大阪教育大学に国費留学生として滞在した学生が、家族や親戚一同6人で来日した。メールで何度かやり取りをし、4月6日の日曜日に太閤園でサクラを見ながら食事会をした。当時の院生も3名参加し、思い出話をする機会があった。今ではたいていの教員養成系大学にも大学院があるが、当時は東京学芸大学と大阪教育大学にのみ修士課程が設置されていた。大阪教育大学の修士課程は2講座構成で、1学年4名が定員であった。したがって、教員養成系の大学の卒業生が大学院に進学するのは難関であった。全国の大学から学生が集まり、その後旧帝大の博士課程に進んだ者もいるが大学教員として巣立っていった。彼らは現在50歳半ばであろうか。
その頃、私は大学院の学習・発達心理学講座の助教授であった。海外からの留学生を受け入れることを要請された教授は写真を見てすぐにOKを出した(その先生は亡くなられているので本当のことを言っても叱られる心配はない)。しかし、一向に指導はしないので、留学生は帰国1年前の春頃に私の部室に来て、このままでは帰国できないと泣き出したのである。ブラジル国を代表しての留学生として選抜されたので、研究論文なしで帰国しては面目が立たないというのである(当時の留学生や海外派遣研究者に共通するメンタリティであった)。
当時、海外から戻ってすぐで、元気であった私は、いくつかの実験を提案して、1編は彼女(留学生は女性です。今回5歳しか年が違わないことが判明)が単著で、1編は私との共著で2編の英文論文を書かせて帰国させた。彼女は読み書きの認知心理学に関心があるというので、ターゲット文字を読むのに、周辺の刺激がどう干渉するかを調べる実験を計画した。最近の認知心理学で「フランカー刺激効果」と呼んでいる実験パラダイムでの研究であり、私は、当時「parafoveal information processing」と命名していた。読みで中心視している文字に、隣接する文字がどう干渉するのかを検討する研究である。この実験パラダイムはその後自分自身が、オーストラリアで行った「日本語を学んでいる学生の習熟度の測定」という研究にもつながった。昨今のSTAP細胞論文騒ぎで倫理観が言われるので明記しておくが、彼女の論文は実験計画や分析の指導はしたが彼女が書いたもので、コピーペースストなどはありえないものである。
彼女は帰国後、博士課程に進みサンパウロにある大学の教授になった。日系三世のブラジル人の方が義理堅いというのは言い過ぎかも知れないが、彼女は帰国後も常に私への感謝を忘れずにいてくれ、63歳の定年を終えて旦那を連れての日本再訪であった。教師冥利に尽きる訪問であった。
三つめは昨年末に投稿していた論文の査読結果がつぎつぎと、と言っても3編だけど、返って来る時期に遭遇して対応に追われたのである。当然のことだが、査読結果はいくつもの問題点を指摘し、期限付きで修正を要求するのである。留学生の再訪を機会に30数年前を思い出すと、あの頃は実験のアイデアが簡単に生まれ、短期間に論文を書くことができ、ごく軽微な修正を求められる程度で論文が量産できていたのにと、忸怩たる思い浮かぶ。
学務に割く時間が増加していることは割り引くとしても、能力は落ちたと実感せざるを得ない。毎日のように数種類か新着の雑誌論文に目を通せていた30歳代半ばの頃に比べると、勉強不足は歴然とした事実で、3日ほど前に、インパクトスコアが付いている雑誌への掲載は可という連絡は1編については得たが(他のはまだやり取り中)、今までこんなに手こずることはなかったように感じてしまう(以外と忘れているのかも知れないが)。
研究は、職階は関係しない実力の世界であること、科研費をもらっている以上、成果の公刊は義務であることを鑑みると、めげるわけにはいかない。衰えゆく身を奮い立たせるしかない。
斯く左様に、新年度が始まり、もがいているのであります。