はったブログ -15ページ目

仮説の検証

 気がつけば10月も終わりに近づいており、時の経つ速度がますます加速されている気がする。学長職について半年が経過したが仕事の内容が以前よりも多様化し、量的にも増えた。何でもとりあえずお伺いを的事項も少なくない。なかには「自分で解決しなさいよ」とか、「大学全体の将来のこと、考えてるのか」と反射的に内言が浮かぶ事項もあるが、プライバシーに関わることも多いし、多面的に情報が集まっているわけでもないので、にわか判断をするわけにもいかない。したがって、ブログを始めた頃のように、記載して気分を発散するというわけにも行かない。
 もともとは指導する院生間での情報交換の目的で始めたこのブログも今では様々な読者がいるらしい。思わぬ人から「読んでいるよ」と言われることがあり、客観的性が乏しい内容で個人を傷つけはしないかと気を抜けない(辞めればよいのだが、自分の認知の予備力対策なのだ)。
 週末に学長や理事長が集まる私立大学の総会がありその夜の晩餐会で関東の大学の学長になっている旧知の心理学者が、僕の席にやってきて「イスラエルに行ったんだってな」と読者であることを知らされた。お互いに小規模大学での大変さを慰め合ったことである。彼からは、学長をしている、あるいはしていた数人の心理学者の名前を教えられ、「心理学者はデータ依存でものごとを処理するからな。結構多いんだ」ということであった。悪く言えば原理原則に弱いと言うことかも知れないし、方円自在で対応力があるということかも知れないが、妥当性を持つか仮説かは不明である。もっとも、このような仮説を検証してもたいした面白くもないが。
 導入が長くなったが、価値のない仮説検証の話をしよう。僕でも知っているテレビ番組制作会社から、数日前に左ききに関連させた企画が持ちかけられた。
 曰く、きき手と血液型の関係を検証する実験を含んだ番組をやりたい。ついては相談に乗って欲しいという。担当者の頭の中にある仮説は、「左ききは、右ききに比べて天才と呼ばれる人が多い」、「血液型別で分析をするとB型の人は、独創的な人が多い」、「天才が多い左きき、独創的なB型、両方の特性を持った人たちが集まるとどんな行動をするのかを番組内で実験したい」、「B型左ききは巷で言われる変人なのか?それとも、巷の噂は迷信だったのか?番組内での実験から結果を導き出す」というものらしい。今はやっていない卒論指導で、テーマと決めなさいという指示への学生の返答にこの種のものが多かった。物事の考え方に科学的側面が乏しいと言わざるを得ない。もちろん、×の返事を返したが、親切なので理由も記載しておいた。
①「天才」ってどういう人を言うのかの定義ができるのか問題です。左ききにダヴィンチなど著名人がいるのは事実だが、左ききの母集団と右ききの母集団での学業成績を比べた研究は見たことはあるが、天才と呼ばれる人は誰かのデータは見たことがないので、ダヴィンチ=天才=左ききの図式からの直観ヒューリスティックスに過ぎず、認知バイアス(間違い)と考えられます。
②血液型と性格との関連研究などまともに相手にされるレベルのものはないです。今年に翻訳した「本当は間違っている心理学の話」には50のテーマが取り上げられて、すべての神話が否定されると言う内容である。加えて各章に20-30の検討すべき神話があげてあるが、血液型と性格のことには記載がない。神話でないというより、欧米では話題にすら上らないレベルの日本固有の神話のようです。
③2つの事象の関係を調べると、何かしら関連が見いだせ、ときには相関係数のような数値を算出できるけど、両者の関連を調べるための論理がないと因果関係を調べる手法である実験など考えられません。無駄ですよ。「へその大きさ」と「英語の試験成績」との関係は数値化できるが、数値が大きくても小さくても、2者を媒介する理屈が成り立たないと取り上げる意味はないのです。
と、いう具合に記載した。これで企画がボツになれば企画担当者はへこむかも知れないが、彼女がへこむ痛みより、いい加減な番組で人生の貴重な時間を消費させられたかも知れないテレビ視聴者の利益の方が僕には関心がある。仮に彼女の仮説が妥当というような実験結果が得られたとしても、残るのは左ききやB型の子どもが小学校あたりでいじめの対象になる光景を想像してしまう。気の弱い僕にはこの種の社会的責任は僕には負えない。
 自分の周りに左ききがいてその人が変人なのかも知れない、と彼女の直感ヒューリスティックスを生んだ環境に思いを馳せると、メールで、つまり文字言語での伝達では十分想いが伝わらず、番組制作者を傷つけたかも知れないと少しだけ気に病んでいる。

思考の柔軟性

 今日(9/25)は学外日で、久しぶりに懸案になっている仕事を片付けようとまだ薄ぐらい5時前にデスクに向かった。ところが、USBをコンピュータが認識しないのである。引き抜いて再度差し込む作業を何度かしたが事態は改善しない。別のPCに差し込んでみても認識されない。家内のPCででも同じことであった。USBが壊れたのである。大学のPCは自動的に終了時にバックアップできるようにしてもらってあるので、大学に行けば作りかけのスライドファイルは保存されているはずなので,昔のように大騒ぎするほどでもないのだが、一日の予定は狂うこととなり、この原稿を書いているわけであります。スケジュール通りにはなかなか人生は運ばないのであります。
 いきなりびろうな話で恐縮だが、先週左足の指の付け根の当たりに少し痒みを感じた。足が蒸れたのであろう、靴を脱げば症状は軽減するのではないかとの仮説はすぐに間違いであることがわかった。痒みは増悪こそすれ無くならなかったからである。持ち歩いている常備薬の中にかなり以前に使った水虫の軟膏の使いさしがあるのを思い出して塗布してみた。少し痒みは治まった。しかし、翌日も左足の痒みは治まらず、寝る前にも気になって寝入りにくいので水虫の軟膏の塗布を続けた。痒みは、10分ほどは軽減するが、ぶり返すのであった。軟膏は残りが少ない。水虫の薬は高価だけども、かかりつけの医者のところには先週血圧の薬をもらいに行ったところなので(僕は投薬を受け治療中の身でもあるのです)水虫を老内科医に見てもらうのは如何かと思い、薬局に行って購入せねばなるまいと考えていた。この間の時間経過はほぼ3日である。
 3日目の夜、突然水虫ではないのかも、という仮説が頭を過ぎった。2年前に水虫であると自分で診断して市販の薬を塗ったり,振りかけたりしても一向に改善の兆しが見られないので、満を持して国分駅前の皮膚科を受診したことがある。常備薬の中にあったのはその頃の軟膏の残りである。若い女医さんは皮膚を削って顕微鏡を覗いた後、「水虫菌はいない、この赤くただれているのは湿疹です」と言って湿疹治療薬を処方してくれた。湿疹に水虫の薬を塗って症状を増悪させていたのである。処方されたのは赤いラベルの薬で医家向けの強い薬であることを後日知ったのだが、ほぼ2日で僕が長い期間水虫薬を塗布して悪戦苦闘していた状況は霧散し解消した。あまりに改善が早かったために再診する必要がなかったくらいである。「生兵法は怪我のもと」という格言はこう言うときに使うのだろうと自省していたエピソードを急に思い出したのである。そこで、ひきだしの奥に残っていたそのときの赤いラベルの軟膏を探し出して塗ると,左足の指先の痒みは一気にうそのように消失したのである。痒みの原因は水虫ではなく湿疹であったのだ。なぜ、女医さんの件をすぐに想起しなかったのか判らない。水虫と思い込み,それに対応する行動を3日もしていたのである。
 「水虫の話など」と顔をしかめる事勿れ。僕が言いたいのは、如何に思い込みは人間の行動を縛り間違わせるか、最初の思い込みは,一度くらいの訂正を経験しても残存することの不思議についてなのである。先週の僕の左足騒動は、最初に「足の指先が痒い→水虫だ→水虫薬での処方」というスクリプトを一旦獲得すると(実は自分での実体験でない場合であっても)、その思考回路から逃れることはなかなか困難であることを実体験したことになる。もっとも、そんな人はアンタだけでしょうという声が聞こえそうではあるが、そうではない。科学神話の間違いに関する本を翻訳出版したが、その中に記載される間違い(思い込み)はメディアから、口コミからの間接的情報源からもたらされるもので、情報の信頼性や妥当性の検証なしに「手間ひまかけずに日常生活を送りたいという「人間の怠け者特性」に原因があるのである(「本当は間違っている心理学の話」、化学同人、2014年刊、を購入しお読み下さい)。

 何故こんな話を書くのかというと、対人認知においても同じであることを経験したからである。我が大学は近い将来に新学部を創立すべく作業中である。ここで具体的な話を紹介するわけにはいかないのだが、その作業に関わって先週は数人の教員と面談する機会があった。最初に人間が獲得したスクリプトから逃れることは、ずいぶんと難しいのだという感想を持つことが何度もあったの。人はなかなか他人に優しくするように変われないものであることも思い知らされた。「自分に自信がない人間は他人に優しくはなれない」というどこかで目にしたフレーズの妥当性が脳裏に何度も行き交うのであった。作業記憶の中に暴れているフレーズを閉じ込めておかねばならないのに心的リソースを使った様な気がしている。

 何事もスケジュール通りには物事は簡単には運ばないということであろう。「troubles make your journey memorable」と教えてくれた先生の言葉を杖にして前に進むしかないが、大学のPCのバックアップ機能も予定通りには行かない、ということがないようにと連日の涼しい日々が台風の影響で蒸し暑いなあと思いつつ原稿を書いているのであります。

再会

古くからの友人としばらくぶりに再会することは楽しいことである。長い間つき合いが続いてい ることは、基本的に価値観が似ているか共通しているに違いない。自分にない魅力を持つ人と接することも楽しいものであるが、長く持続するかという点では疑問が残る。楽器を演奏できる人や漢籍に明るい人は筆者にかけている能力を持つ人であり、出会ってその時は楽しい時空間を得られることは間違いないが何十年も持続するかは怪しい。
 この夏には、そんなことをつらつら考えさせる古い友人との再会がかなった。記憶力が衰える頃のための備忘録という意味合いで、友人について記しておく。古いエピソード記憶を検索することは前頭葉機能の主たる役割なので、脳を活性化させて機能低下を鈍化する筆者自らのための機能訓練なのである。
 一人は7月に学会出張中に滞在したテルアビヴのホテルに来てくれたナハション博士であり、もう一人は一昨日京都で食事を一緒にしたカナダのレオン博士である。二人とも長く勤務した大学から名誉博士の称号をもらっている人である。
 ナハション博士は1980年頃からの知り合いである。2国間での研究者の交換事業に共同研究しようと手紙が来て以来の知り合いで、先に書いた僕のテルアビヴ滞在の後で、2度日本に2ヶ月滞在した。共同研究論文もある。犯罪学教室に所属し左右脳の働きの差異と犯罪行動との関連を検討することを当時はテーマとしていた。右端から書字行動する場合と左端からとのパフォーマンスの違いを比べるという至極単純な研究方法で国際誌に論文を書いており、道具が揃わなくても心理学研究は可能であることを学んだ。また、ユダヤ人と大阪人は「お金」のことを共通の話題にして良いことも学んだ。給料や費用のことを率直に話題にしたのは彼との間だけかも知れない。彼が名大のゲストハウスに滞在しているとき、毎日歯磨きセットが新調されるけど、自分には不要なので宿泊費を割引できないのかと問われたことを記憶している。確かに,合理的に考えれば無駄なことにお金をつぎ込んでいるわけで、計算が難しいとかパッケージで商売しているからであるという僕の説明は,彼には了解不能であったことを記憶している。「もったいない」の言葉が社会的に喧伝される以前のことであった。
 レオン博士は読み障害の研究で有名な人で,もらった名刺には3つの大学の名誉教授の称号が書かれている。今回の訪日は香港の大学のレビューの仕事があり、その合間に京都に数日遊びに来たということであった。ちなみに、香港の大学教員は6年間に4編以上の学会誌(国際誌)を執筆するのが義務ということである。日本の大学の一般的な文系教員ではなかなかつとまらないということになろうか。将来、このようなグローバルな数値基準を日本でも導入すべしなどということにもなりかねないので。関係のある人には銘じておくことが大切かもしれません。
 レオン博士は僕の外国人の知人仲間(何十人というわけではないけど)ではもっとも古く1976年からのからの知り合いである。彼のサスカチュワン大学→ヴィクトリア大学→サスカチュワン大学のキャリアすべての期間で連絡を取り合い、相互に大学や自宅訪問をしてきた家族ぐるみの付き合いをしている人である。息子達の様子を逢うたびに心がけてくれ、かならず質問されるので、今回もiPadを持参し、子どもや孫の様子を見せたたことは言うまでもない。
 彼から10年ほど前に悪性リンパ腫が見つかったという連絡があり心配していたが,2度ばかりの化学治療を受け、元気で来日した。老人同士のことであり、逢うときの話題は出会いの頃のこと、互いの訪問時のことであるのは当然だが、必ず最近の研究の進捗状況となる。前頭葉機能が活性化されることになる。レオン博士は83歳で、今でも研究費を獲得し大学に研究室を持ち、週に4日は通っているという。聞けば同じ分野のトロント大学のブレンダ・ミルナー教授は94歳だが今年も研究費を獲得したという。来年は70歳になるので次の科研費の申請はもうなしにしようかと考えたりするのだが,再考すべきかも知れないと思ったりした。次にあったときにもう研究生活から足を洗ったというのも悔しいかも知れないからである。
 話題は変わるが、2人とどうして知り合い、長い付き合いになったのかを書いておこう。これからはもうこのような出会いはないのではないかと思うからである。1970年代では学会誌に論文が掲載されると、自分の書いた箇所だけを製本した別刷り(別冊ともいう)を購入するのが一般的であった。20部ほどは無料で、それ以上は別料金で執筆者が購入し,関連する分野の研究者に贈呈したものである。通常は自分のポケットマネーであてていた。もちろん希望する海外の研究者にも無料で配るのである。自分に関連する研究を学術誌で見つけると、はがきや手紙で(リプリント請求カード)送付を依頼するのである。自分が参考文献に引用した研究者から請求が来たりすると、それが自慢で「ひょっとしたら、海外から呼んでもられるかも知れないぞ」と大事に残すことを先輩から教えられたものである(後日、保存しておいた住所氏名をもとに、欧米の研究者を訪問して厄介になったので、ポケットマネーでの投資は元を取ったと思っている)。今から思うと厚かましいことのように思えるが、当時はこのようなことが研究者間でのルールであったように思う。我が家にもこういう形でいろいろと外国人がきたものである(その人たちを想起し始めると前頭葉機能活性にはよいのだろうが、話を続けるために抑圧しておく)。
 はがきや手紙で別刷り請求が来るので、回数が多くなる人の名前や所属は覚え親近感をもつことになる。今日のようにpdfで容易に研究論文がダウンロードできる時代になると、ネット上で送受信しても請求者の名前は短期記憶にも留まらない。送り先の住所氏名を手で書くことは記憶を定着させる重要な手法であることが再確認できるというものである。
 レオン博士は1976年の暮れに僕のところにサバティカルで滞在したいと依頼状を送ってきた。大阪教育大学では若輩の僕がとても受け入れられず、翌年海外に行くことが決まっていたので断ったのだが、それ以来の付き合いである。その後大学に来て僕が使っている物置の隅の空間に位置する手作りのタキストスコープを見て、その(劣悪な)環境に驚き、どんなところでも研究はできる、innovativeだと賞賛してくれたことを思い出す。
 彼は今回、筆者の還暦祝いに指導生たちが出版してくれた書籍(英文で、彼も寄稿してくれており、発刊時にカナダに送ったもの)を持参しており、サインを求められた。自分は1人だけだけれども、Takeshiは多数の研究者を育てた(こういうことにもscholarshipという単語を使うようである)と賞賛してくれた。他人から久しく褒めてもらっていないが、褒められるのは嬉しいものである。研究生活に専念する生活は日本では、70歳近くまでは困難だが、筆者にも30歳半ばで人生の選択肢があったのかもしれないなどと夢想する、これもイメージの想起で、前頭葉の活動には有効であるはず。

 何だ、年寄り同士が過去を褒め合っていた話かと問われるとyesとしか答えようがないが、大学の運営管理,将来構想の立案実施に焦燥感と消耗感が蓄積し、「もう大学を辞めよう」という内言があぶくのように浮かび上がる日々の中で、この夏の、はるかに年長の2人の友人との邂逅は、もうしばらくは「be imitative」であろうと僕の前頭葉に元気をもたらしたようである。

空襲警報体験からメディア情報を考えた

 イスラエルで開催された7月9日からの国際学会に参加した。エルサレムのホテルが会場であったが、値段や交通の便に加えて、以前に滞在していたので変わり様をこの目で確かめたいと思い、ホテルはテルアヴィヴにとった。共同研究者であったイスラエルの友人にも逢うことができた。77歳だという彼は昔より若返って見えた。
 1983年に滞在していたビーチ沿いのMarinaホテルはまだ存在してはいたが、封鎖されて廃墟に近かった(隣接して著名ホテルが建設中なので、そのうち壊される運命だろう)。辺りを散策すると関連した記憶が次々とよみがえる不思議な時間を経験することとなった。「生まれた家は、跡形もない。ホタル」の俳句を詠んだ種田山頭火の感慨もかくあらんと、感じた。
 かつては海水浴場とヨットハーバーしかなかったが、地中海に面するビーチはそれに加えて倍くらいの規模で遊戯施設やレストラン、有名店舗が軒を連ねるリゾートエリアに変貌し、ホテルの数も以前よりも増えてイスラエルの経済が発展してきたことがうかがえた。
 経済発展の指標はアルコールを飲む場所数で測定可能なのかも知れない(食べものの種類や味に大きな変化はなかった。経済発展指標には食べものは2次的なのではないのかもしれない)。と言うのは、テルアヴィヴ市内の繁華街ディゼンゴフ通りにはバーやカフェを始めとする飲食店が数多く出現していた。ヨーロッパの大都市同様にアルコールが提供される状況は、1983年頃に比べて大きな変化である。ディゼンゴフ通りで食事する場所探しの大変さや、ビールを求めて彷徨したのが嘘みたいな変貌ぶりであった。街頭の表記はヘブライ語とロシア語が並記され、英語の表記は激減したのも印象に残った。ロシアからの移民増の反映であろう。
 滞在3日目の夜に空襲警報のサイレンが鳴り、花火のような音がして窓が揺れ、ガザ地区からのハマスのロケット砲に、迎撃ミサイルが命中した結果であることを翌朝知った。その後、夜だけでなく昼間も空襲警報→防空壕へ非難という経験を何度かすることとなった。
 この様に書くと警報に逃げ惑う市民、地下壕に息をひそめる姿を想像するかも知れないが、実態はそうではない。ガザ地区とは異なりテルアヴィヴでは、空襲警報がなると建物の中に避難するのは事実だが、避難している時間は数分で、警報が鳴り終わると何事もなかったかのように人は街にあふれ、ビーチではラケットボールに興じるのである。
 イスラエルのミサイル迎撃網は完璧であると信じられているようで、空襲警報→建物に入る→ドンという花火のような音→日常にもどる、という数分間の繰り返しであった。テレビでのニュースは、ハマスの攻撃ミサイルを迎撃する様子(破片が降ってくる)が映し出されるが、人々の関心をそれほど引くものではない印象であった。
 今回のテルアヴィヴやエルサレムでの滞在は、現地にいた人間として、現実とインターネットで日本を含める海外のメディア情報とを同時に知るという希有な経験をしたことになる。前置きが長くなったが、これからが伝えたいことであるので、もう少しの辛抱をお願いしたい。
 日本のインターネットを検索すると、「ミサイル攻撃を受け外出を控える市民」という類の映像が得られたり、ガザ地区でイスラエルからの攻撃で破壊された建物の画像が提供されていたりしたが、ホテルのテレビに映し出されるのは、イスラエルの迎撃ミサイルが攻撃ミサイルを破壊する場面だけで、ガザ地区の破壊された建物の画像を見ることはなかった(始終、すべてのテレビチャンネルを見ていたわけではないけれど)。日本からのメールには「大丈夫か、朝の散歩は止めるように」などの連絡が入るが、街は平穏で、的外れの感が強かった。1983年当時の方が街に銃を持つ軍服姿が多かったように思える。
 日本やCNNでイスラエルに関するニュースをみると、破壊された建物、けが人を運ぶ救急車という画像や記事が報じられる。空襲警報という語彙から人々が連想するステレオタイプなイメージと何事もないような街という現実との乖離が、的外れ感をもたらすのであろう。
 つまり、メディアの情報は嘘ではないが全体像を報じることはないこと、紛争状態になれば国内メディアが報じるのは自分側の立場に立った情報だけであること、この2点を最近の機密保持法や集団的自衛権にまつわる国内事情とリンクさせて実感したことである。国際間で何かもめ事が起きるとき、伝えられるのは一方からの情報でしかなく、インターネットで検索は可能かも知れないが同時のそれらを比較する人間の割合はごく僅かでしかないのである。双方の情報を比較するという科学的思考を自らが身につけること、若者に付けさせることの重要さを痛感した。
 民族や宗教の対立がもたらすダイバーシティ(diversity)の克服の鍵は「殺さない、盗まない」というすべての宗教が求める倫理にあるのではないだろうかと、ガザ地区への地上軍の侵攻が始まる直前に、帰国の途につき、空港のテレビに映し出されるミサイル迎撃成功画像を見ながら考えた。他の民族を殺さない日本人であり続けること、それを次世代に伝えねばならないと、責任を感じたことであります。

不思議な4日間

 第17回世界学長会議が6月12日から3日間横浜パシフィコで開催され、前夜のパーティから参加した。おかげで大学でのルーティン生活からは解放された4日を過ごすこととなった。参加者は36カ国から約350名が参加する規模の大きな集まりであった。文科省大臣や宮様も開会式に参加し(実際には代理しか来なかったけれども)、国連の事務総長がビデオメッセージを送ってくるというレベルの会議であった。正直なところ事前の調べなしに理事長に付いていった形なのだが、不思議な体験ができた4日間であった。世界には不思議がいっぱいである。
 世界学長会議(IAUP)は、国連の高等教育施策(女性の参加、若者のグローバルマインドの育成、若者の多国間交流促進などなど)とジョイントする私立大学長の集まりで3年ごとに大きな大会があり、30年前には神戸で開催されたらしいことなどが自ずと判ってきた。日本の学長は私立大学協会メンバー(加盟校約500校)が多数参加し、私立大学連盟(加盟校は戦前からの大学で、基本的に新参者は加盟できないらしい)からはわずかしか来ていないように見受けた。
もうすぐ創立50周年という割には世界学長会議にどうして有名校は参加しないのかが不思議であった。この会議は個人で参加する形態だが、機関で参加する別の世界会議(IUP)もあるらしい。類似の集まりをいくつも作るのは,おそらく長になりたい人が多いのだろう(これは不思議なことではない)。
 初日のウェルカムパーティではウクライナの50歳代の女性学長と話す時間が長かった。父親が大学を創設したということである。私立大学はどこの国でも世襲制であるらしい。これも別に不思議ではない。本国はほぼ内戦状態なのに,どういう経路できたのかなどと聞くと自分はキエフなので、大丈夫!みたいなことであった。連日のBSニュースのウクライナ情勢とは乖離が大きく不思議であった。タイの大学の学長も家族連れで、父親とそっくりの若者がいたので親子かと聞くと子どもは米国に大学の学生と言うことであったが、お国の状態は大丈夫なのかなあと不思議であった。どこの国でも特権階級は別で、不思議でないということか。
 イラクの大学からの老齢の夫妻(学長会議なので自分を含め、たいていは老齢なのだが)とはガラディナー(余興付きの夕食会のこと)のテーブルで一緒になった。この日のセッションで、クルド地区に3年前にできた大学の学長とともに、話題提供していたイラクの大学からの学長夫妻であった。アルカイダ勢力が首都近くまで攻め込んでいるニュースを朝に聞いたばかりで安全に帰国できるのか僕は心配したが、夫妻は富士山への生き方や広島へは日帰りできるかを聞くだけで、不思議であった。
 彼らは国連の研究者救援活動計画でイラク戦争時にイラクから救出された人であることは,国連が仕切るパネルディスカッションで知った。イラクやクルドからの参加者は国連が上手く処置するのかも知れない。しかし、スカラー・レスキュー・プログラムなどというそんな活動があることは知らなかった。国家が崩壊し再建するときに学者や医者、研究者など高学歴の人間は国連が救い出してくれるらしい。国家を再建するには高等教育を受けた人材は不可欠という理屈は判らないでもないが、人権はすべての人間で平等ということではないというのが国連での共通理解のようである。違和感を抱く僕は大方の参加者からみると不思議なのかも知れないけど。
 上妻宏光の津軽三味線がガラディナーの余興のメインであった。ピアノと和太鼓との3人でのセッションで、それなりに盛り上がり楽しかったのだが、上妻は途中で1曲だけ歌を歌ったが、それは「雨は降る降る,人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂。..」であった。西南戦争を描く歌であり、梅雨時だから雨の歌を選んだのかも知れないが,ヨコハマだし、その日は前日とは打って変わった快晴であった。不思議な選曲であった。
4日間も横浜パシフィコを借りて国際会議をする予算は何処からでるのかは最大の不思議ではないのかと読者は聞きたいかも知れないが、スポンサーがいるのだ。僕にも不思議と言うしかない。

 5時過ぎに自宅に戻ると畑のキュウリが急成長(しゃれではなく)していた。思いがけない速さでの成長を目のあたりにして、「不思議な4日間であったなあ」と自問したのでありました。日曜日に来た孫のためにジャガイモを抜いてみせたが、彼女はとくに関心を示さず、集めたイモをあちこちに掘り投げるのに夢中でした。子どもが一番不思議な生き物かも知れません。

遺伝と環境

 5月に入っても大学での仕事は多忙の一言で、ここには書けないやっかい事の出現にはことかかない。連休以降に眠りが浅い日もあったせいか、あるいは3月末の、かかりつけ医院での血液検査の結果を気にして酒量や油ものを(少しだけ)控えているせいか、3月末よりも体重が約2Kg減少し理想レベルになった。やっかい事にもポジティブな役割があるというものである。話題を変えよう。忙しくてもまだ、家庭菜園は廃業していない。

 メモによると3月23日にジャガイモを植え付けたとある。今まで挑戦していない野菜である。八雲検診でお世話になる自治体から大量に立派なイモを送ってもらうこともあってジャガイモは必要ないのだが、孫にジャガイモを掘るところを経験させたいと親が言う。土中にあるもの、表からは見えないものが現れて驚いたり楽しんだりするのは1歳半ばでは無理だとは思うが、「イナイイナイバー」を喜んだのは生後半年頃からだったので、試してみるかと、親バカに付き合ってジャガイモを植えることにした。ピアジェのいう感覚運動期の認知発達の特徴である「ものの存在の持続性理解」というくくりでは類似しているので、孫で試してみるかというわけである。
 種芋処理をしてあるジャガイモは、売っている最低単位が10個なので、半分に切って灰をまぶして土中に植える数は20株となる。狭い菜園で成育中のブロコリーを、もう少し大きくできるのにと思いつつ引き抜き、種芋を植え付けた。畑に用意した3畝だけでは種芋が余るので、プランター2つにも植え付けたのが3月23日であった。
 プランターでの栽培は根を張る芋では不適で、畝だけにして残る種芋を捨てれば良いとは理屈では理解できても貧乏性につき、捨てられないのだ。資料では3週間で芽がでてとあるが、寒い日が続いたせいか、なかなか芽がでなかった。日当りの良いプランターが一番先に芽を出し10センチほどに育ってやっと、4週間後に畑の畝に芽が出始めた。15個出芽するはずなのに半分ぐらい発芽の兆しがなかった。種芋が腐ってしまったのかも知れないと放置してあった。土を掘り出してダメな種芋を取り出そうかと思いつつ、忙しさにかまけて手つかずであった。5月15日は午後名大に出かける用事があり、午前中ゆっくりしていた。気持ちに余裕があったのか、畑を見て草取りなどをして時間を過ごした。驚くなかれ、すべての種芋から芽がでていた。当初は3倍ほどの大きさの格差があったのに、今では背丈もほぼ揃い、全部が白い花のつぼみを付けている。当初遅れ気味であった株も収穫時期近くになると遅れを取り戻したのである。もたもたして成長できないと子孫を残せないと必死に追いついてきたのであろう。遺伝子情報というものはすごい。育ちが悪いので引き抜こうとしていたことを申し訳ないと呟いたことである。時間をかければ、一人前に育つように遺伝子情報はできているわけで、人間を育てることにもつながると一人ごちたことである。
 プランターに植えた種芋の方は、初期の生育こそ目覚ましかったのだが、今日現在では畑のジャガイモは50センチ大に育っているのに対して、30センチ弱で3ヶ月後の生育状況は遅れを取っている。環境も大事であることを教示していることは言うまでもない。10個の種芋で人生を勉強できるとは有り難いことで、考えれば易い投資である(ジャガイモのための肥料とやらも購入してあるので、イモ代金だけではないけど)。
 花が咲き始めたジャガイモをいつ掘り出すかは心配していない。というのは、散歩路の脇にいくつもある貸し農園ではたいていジャガイモが植えてあり、それらが掘り出される頃にまねをすれば良いだけだからである。貸し農園のジャガイモの育ちは我が家よりも数等立派であるが、気にせずにその時期を待ちたい。イモが小振りのものしかできない可能性は高いが、これも気にしない。なぜなら、わざわざ新ジャガの子イモだけを販売しているものを毎年わざわざ購入し、ジャガイモの煮転がしを作るのを長年の習いにしているからである。新ジャガの皮をタワシで_ぎ落としてとろ火で時間を掛け、一味を利かせて甘辛く煮たシンプルな料理は僕の得意技であり、初夏のビールのつまみには無くてはならない一品なのだ (ついでに言うと、皮ごと焼いて、取り出した熱々のそら豆に岩塩をふった品も絶品ですヨ)。

 孫が芋掘りのときにどういう反応を示すかも関心事ではあるが、仮に興味を示さずとも自作の新ジャガでの煮転がしの味や如何にという楽しみもある。収穫の梅雨空け時が待たれる。

慌ただしい年度替わり

いつも忙しいというのが口癖になっているが、年度末と年度初めは従前になく文字通り、忙しかった。いくつもの課題というかイベントが重なったためである。一つは、学長に就任したことがある。自分でも未だに理由がしっくり来ないのだが、ともかく副学長から学長になった。前の学長は理事長を兼ねていたので実質的にたいした変化はあるまいと高をくくっていたが、予想を超えて期限付きでしなければならないことが多くあった。入学式辞の準備(それも手話通訳の準備のために20日ほど前に手交せねばならなかった)、教員向けと職員向けの所信表明のスライド作成、同窓会や後援会のパンフなどの挨拶文の原稿、情宣用の写真の撮影などなどである(HPに出ている写真はそのときのものではないが)。入学式のためのモーニングも必要になり「副がなくなったのに服がいる」と予想しなかった出費に自嘲することであった。まあ、なんとかやり過ごすことはできた。
 二つめは、ブラジルからかつて世話をした留学生と再会したことである。1982年から3年間大阪教育大学に国費留学生として滞在した学生が、家族や親戚一同6人で来日した。メールで何度かやり取りをし、4月6日の日曜日に太閤園でサクラを見ながら食事会をした。当時の院生も3名参加し、思い出話をする機会があった。今ではたいていの教員養成系大学にも大学院があるが、当時は東京学芸大学と大阪教育大学にのみ修士課程が設置されていた。大阪教育大学の修士課程は2講座構成で、1学年4名が定員であった。したがって、教員養成系の大学の卒業生が大学院に進学するのは難関であった。全国の大学から学生が集まり、その後旧帝大の博士課程に進んだ者もいるが大学教員として巣立っていった。彼らは現在50歳半ばであろうか。
 その頃、私は大学院の学習・発達心理学講座の助教授であった。海外からの留学生を受け入れることを要請された教授は写真を見てすぐにOKを出した(その先生は亡くなられているので本当のことを言っても叱られる心配はない)。しかし、一向に指導はしないので、留学生は帰国1年前の春頃に私の部室に来て、このままでは帰国できないと泣き出したのである。ブラジル国を代表しての留学生として選抜されたので、研究論文なしで帰国しては面目が立たないというのである(当時の留学生や海外派遣研究者に共通するメンタリティであった)。
 当時、海外から戻ってすぐで、元気であった私は、いくつかの実験を提案して、1編は彼女(留学生は女性です。今回5歳しか年が違わないことが判明)が単著で、1編は私との共著で2編の英文論文を書かせて帰国させた。彼女は読み書きの認知心理学に関心があるというので、ターゲット文字を読むのに、周辺の刺激がどう干渉するかを調べる実験を計画した。最近の認知心理学で「フランカー刺激効果」と呼んでいる実験パラダイムでの研究であり、私は、当時「parafoveal information processing」と命名していた。読みで中心視している文字に、隣接する文字がどう干渉するのかを検討する研究である。この実験パラダイムはその後自分自身が、オーストラリアで行った「日本語を学んでいる学生の習熟度の測定」という研究にもつながった。昨今のSTAP細胞論文騒ぎで倫理観が言われるので明記しておくが、彼女の論文は実験計画や分析の指導はしたが彼女が書いたもので、コピーペースストなどはありえないものである。
 彼女は帰国後、博士課程に進みサンパウロにある大学の教授になった。日系三世のブラジル人の方が義理堅いというのは言い過ぎかも知れないが、彼女は帰国後も常に私への感謝を忘れずにいてくれ、63歳の定年を終えて旦那を連れての日本再訪であった。教師冥利に尽きる訪問であった。 
 三つめは昨年末に投稿していた論文の査読結果がつぎつぎと、と言っても3編だけど、返って来る時期に遭遇して対応に追われたのである。当然のことだが、査読結果はいくつもの問題点を指摘し、期限付きで修正を要求するのである。留学生の再訪を機会に30数年前を思い出すと、あの頃は実験のアイデアが簡単に生まれ、短期間に論文を書くことができ、ごく軽微な修正を求められる程度で論文が量産できていたのにと、忸怩たる思い浮かぶ。
 学務に割く時間が増加していることは割り引くとしても、能力は落ちたと実感せざるを得ない。毎日のように数種類か新着の雑誌論文に目を通せていた30歳代半ばの頃に比べると、勉強不足は歴然とした事実で、3日ほど前に、インパクトスコアが付いている雑誌への掲載は可という連絡は1編については得たが(他のはまだやり取り中)、今までこんなに手こずることはなかったように感じてしまう(以外と忘れているのかも知れないが)。
 研究は、職階は関係しない実力の世界であること、科研費をもらっている以上、成果の公刊は義務であることを鑑みると、めげるわけにはいかない。衰えゆく身を奮い立たせるしかない。
 斯く左様に、新年度が始まり、もがいているのであります。

STAP細胞の話のついでに

 実験室で割烹着を着て、濃い目の化粧をした若い研究者の評価が真っ逆さまに低下しつつあり、メディアは格好の獲物を見つけ、喜々として笑んでいる様子が新聞の週刊誌の宣伝文句に見出せる。
 真実はよく分からないが,根掘り葉掘り過去の業績を見聞されると研究倫理上驚くレベルのことが露わにされる。彼女のこれからの人生を想像すると気の毒な気持ちになる。また、「もしかしてだけど、もしかしてだけど、あんた達の業績も一緒なんじゃないか?」などと、最近のお笑い芸人のフレーズによるテレビ広告が頭をよぎる人たちもいるはずなので、心理学の先生だという母親や姉も辛いことだろう。
 大量のコピーペーストが行われた博士論文,既に公刊されている論文などが探し出されると,弁解のしようもなくなるわけで,コンピュータやネットワークの信じられない速度の発達が生み出した罪は大きいという思いが強い。自分が探し出して読んだ論文の一部がその研究者のエフォートやその重み・苦労を顧みることなく切り取りパソコン画面に貼り付けると,自分が生み出した知識のような錯覚を生むのだろうか。罪悪感がないので(知らないので)、「それはあかんやろう」という分量のコピペをするのだろう。技術の進歩は罪を生む側面もあることは,このこと以外の他の最近の技術の進歩からもつぎつぎ思い当たる。
 コンピュータやネットワークが存在しない時期から研究者生活を始めたので、過去40年ほどの間の研究活動の様変わりを振り返ると、自らも「便利になったけどダメになったなあ」と考えてしまうことが少なくない。第一、この原稿を書くのもパソコンへの直接入力でしか書けなくなった。タイプライターやワープロを使い始めの頃は原稿用紙に下書きを書き、それを清書するという段階があった。自宅で朝に何行か書いた英文を大学にしかないタイプライター(これは死語かな)で少しずつ清書していたものである(こんな時には修正された英文から英語の書き方がしっかり会得できた気がする)。外国の映画などで、タイプライターに向かっていきなり文章を打ち始める姿にあこがれたものだ。今では原稿用紙を渡されても、昔と違って文章が書けなくなっている自分がいるが、良いことなのだろうか考え込まざるを得ない。40歳頃までの手書きで下書きを作り,それを清書するという作業には、前もって構成をしっかり構築するという作業が不可欠であった。いきなりパソコンの画面に文字を打ち込む作業をすると修正や編集が容易なので、とりあえず書き込んで後で、移動させたり継ぎ足したりというのが常態化している。とりあえず書き始めるというスタイルよりも、構成をしっかり考えてからの方が、全体のバランスもわかるのではないかと考えると、思考力の退化が促進されたのではないかと思う(使える万年筆がないのだけれど、購入して手書きに戻り忘れている漢字を確認しながら通いのではという気持ちが浮かばないでもない)。
 手書きではないので、割烹着の研究者も借り物(盗用)の部分と自分の書いた部分が判別できなくなってしまい、自分が書いたような感覚になっていたのではないだろうか。論文投稿のために、製図器具を用いて自ら作図したり、自分で接写して顕微鏡写真を作成したりなどの、手作業を自分でできなければ研究者には成れなかった頃であれば、他人のデータや文章を安易にコピペすることなど不可能なわけで、コンピュータやネットワークの発達が生み出した負の側面は大きい。コンピュータが出現するまでの実験や論文作成が簡単ではなく大変だったことは、「左右脳神話の誤解を解く:化学同人社刊」を読んでもらえれば分かるというものである。

 話は飛躍するが、今回のSTAP細胞騒動で、改めて科学的であることや科学者倫理が問われている。科学的であることの証明手続きは斯くあるべきであるという情報には、次の本を推薦したい。「本当は間違っている心理学の話:50の俗説の正体を暴く」というきわ物風のタイトルが付いていますが、60頁もの参考文献がリストアップされているしっかりした本です。化学同人社刊で,八田・戸田山・唐沢(監訳)の本文は340頁もあります。今日あたりから店頭に並ぶはずです。グループで翻訳したものですが全体を見直す作業を担当したので、文責はあります。宣伝する責任もあろうかと、STAP細胞の話のついでに宣伝するということであります。何卒宜しくお願いします。

ポジティヴ・シンキング 

 先週の木曜日は久しぶりに自宅で学外日を過ごせた。寒い日が続くにもかかわらず、春の到来は近づいているようで、芝生の間から雑草の青い芽がでているのが気になりだす時期である。家内が留守なので、「草むしりをしょうかな」、「しかし寒いし腰を悪くするかも」と思案していた頃に、電話があり友人が自宅に来ることになった。草引きは順延である。
 出前の昼飯を食いながら研究の将来構想(妄想かも)を久しぶりにゆっくりと披瀝し合ったことである。一致したのはポジティヴ・シンキングが今後の保健活動の鍵になることだろうという点であり、進めている八雲研究もその視点を重視しようということであった。
 数年前からポジティヴ心理学関連の書籍や発表が日本でも散見される。心理臨床の取り組みを、過去を振り替えさせることでの治療から将来を向かせる方向への発想転換を主張するものである。逆行性の反すう思考から順行性のポジティヴ思考への変換の基本エネルギーは「感謝(gratitude)」と考えるグループもあるらしい。「これまでお礼を言っていなかった人に礼状を書こう」などをさせるらしく、日本版の心理療法で1970年代に話題となった「内観療法:(注)独りで狭いスペースに座して家族にしてもらったことを回想させる手法で非行少年の心理療法として脚光を浴びた」に似ているのかも知れない。
 怪しげな話ではないかと調べてみると(インターネットはこういうとき便利)、実証的な研究も米国ではかなり行われつつあるようなので、精査せねばなるまい。すでにポジティヴ心理学ではなくポジティヴ神経心理学という表題の本が今年に入って米国で著名な会社から出版されたということも教えてもらった(さっそくアマゾンで注文したが数週間は届かないけど)。
 感謝することは過去の事象を振り返り、こだわり続けるよりも、将来へと芽を向けさせる動機付けになるというのは科学的な事実なのかは、重要な点である(いくつかの実証研究例がネットでは見つけられるけれども)。少し勉強したい気持ちに駆られる。今週半ばの高校の卒業式で、「ありがとうが、次のありがとうを生む」と述べた理事長や所属長の式辞の科学的実証ということかも知れない。上手くいけば学園の理念「感恩」は「gratitude science」であり、福祉科学大学の理念は新しい輝きをもたらすかも知れない。
 対人援助は医学を始めとして、現在の病態や心理状態をもたらす過去の源を探すことに強い志向性を持つのが一般常識であるが、肥満やガンに何故なったのか、鬱状態を引き出した原因を明らかにしても、「その後どうするの?」への前向きの動機付けが起きにくいのが現状であるのであれば、ブレイクスルーは前向きの志向性をどのように育てるのがよいのか、それが感謝であるとするならば心理学の役割は以前にも増して重要となるのではないか、などと妄想(まだ確固とした論理が自らのものとして構築できないという意味で)を展開していたことである。
 彼が帰った後、ぼんやりテレビを観ていると2004年放送の小野田寛郎のドキュメンタリー番組が放映中であった。対談者は戸井十月というドキュメンタリー作家で確か昨年65歳で亡くなったはずである。小野田寛郎は今年の1月に91歳で死去したので、NHKが再放送をしたのであろう。途中から観ただけなのだが、フィリピンのルパング島で終戦後30年間生き続けた小野田少尉はポジティヴ・シンキングの権化みたいな印象を持った。情報将校であった彼は、終戦を信じずにその後も30年間戦争をし続けた人で、生存が確認された後の何年間も捜索隊を、敵の陰謀と見なして信じなかったが、偶然に日本人の若者と遭遇して、上官の命令以外受け付けないことを披瀝した、その後上官が駆けつけたことで、投降し帰国につながったのである。もともと頑なな性格の人ようだが、ジャングルでの30年の生存を可能にしたのはポジティヴ・シンキングに集約されると感じたことである。
 帰国して周囲に振り回されることに気づくと一転ブラジルに移住して牧場経営を成功させた、行動力がある人のようで、インタビュアーの戸井がいろいろな問いをするのに対する回答は決まって、「生きていかねばならない」、「過ぎたことを考えてもしようがない」というものであったので、まさにポジティヴ・シンキングそのものである。戸井が何度も失われた30年間を悔恨の言葉に繋げようとするのだが、小野田は「30年でいろいろ学んだことがあるので、牧場経営に役立った」と決してネガティブには捉えないことが印象的であった。

 注文している書籍の中身みないと何とも言えないが、ポジティヴ・シンキングの基幹エネルギーが感謝であり前向き志向をもたらすことを検証できるか、近年密かに提唱している「be imitative:何事でもおもしろがってやってみる前向き志向」が感謝で増進できるのかは、興味深い研究課題である(と推論する)。10年単位での研究動向の推論はこれまではあまり外してこなかった、と失敗したことは忘れてポジティヴ・シンキングしておきます。僕にはそれに注力する時間が十分には残されていないのが現実なので、責任は持てないけれど誰かやりませんかとけしかけておきます。

試験の採点と情報選択

 正月からの時間の経過は比較的遅い気もしていたが、もう後期試験の時期である。自分が担当する科目で試験をするのは1科目しかないが、採点をしてみると「なんでやねん」と思わず声が出てしまう。試験は持ち込みで、「何を持参しても良い、近所の賢いお兄さんとかは不可」と指示したので、「もう少しできてもよかろうもんを」、と何処の方言か分からない言葉が出てしまう。当然インターネットでの検索もOKとした(若い学生は参考書を持ち込まずスマートフォンを持ち込むのだ。コソコソされるのは嫌なのでOKとした)。
 問題は、短文を読んで正しければ○、間違っていれば主語を変えずに正しい文に修正すべし、と言うものが半分、残りは語句説明で構成してあった。回答を始めると、テキストで関連個所を探すよりもインターネットで検索しようとする学生が多く見受けられた。「そんな方略では問題数が多いので探しきれないぞ」と思ったが口には出さなかった。案の定3割ほどは極めて正答が多く、正答が4分の1に満たない学生が残りであり、2項分布となった(語句説明は苦手だろうと前者に半分の得点を配分する予定であったが配分を変更して不可が少なくなるような心配りがいるようだ)。
 学生は情報を探すやり方の最適化が苦手のようで、テキストで該当する個所を探せば正解は容易であるのに、スマートフォン情報に頼る。その方が簡単と考えるのであろう(「探す→スマートフォン」は最適ではないのにそれが昨今の若者の代表ヒューリスティックなのだ)。
 授業ではテキストの文章を読み上げたのちに内容をかいつまんで説明し、必要と考える材料は画像やビデオで提示するという具合に工夫をしたつもりであったが、テキストを読み返しておく習慣が身についていないことを改めて実体験した。本や新聞の活字を読むことをしなくなったので、活字印刷物との心的距離は想像以上に遠いのであろう。講義では時間が足りないので「きき手と脳」の話は省略したが、クリスマスプレゼントだと行って「左対右 きき手大研究(化学同人刊)」を年末最後の授業27日の4限に出席した全員に配布した(出席は少なかろうと予想したが40冊が必要であった)。このプレゼントから「出題するよ」予告したにもかかわらず、左きき成立の成因を3つ挙げよという問題にそれらしく書けたのは1名だけであった。要するに本は読まないのである(読んでいなくても、試験時に持ってきているのだから、書けそうなものだが不可解なことである)。
 情報の検索をスマートフォン情報に頼るだけという、一つ覚えの検索は考え直した方が良いことを学生に教えねばならないと改めて痛感した。

 インターネットでの情報検索では自分に関心があるものしか探さない。これはダメである。情報の中身・質のデバイド(偏り)が生まれること問題なのだ。20年ほど前に情報デバイドといって話題にしていたのは、コンピュータを持つ人と持たない人での情報取得の偏りであったが、現在では情報の中身のデバイドが問題なのだ。
 新聞も何種類か読まないと当然情報の質のデバイドは起きてしまうが、新聞から得る情報では、読んでいる記事の隣に記載されている記事にも目が移るし、ついでに開いた隣のページの記事にも目をやるので、限られた選択の程度は未だ少なくてすむ。ところがインターネットでの情報検索では、極めて限定されたターゲットについてしか情報が探せないし、限られた時間内では探す余裕もない。インターネットでの情報検索で、現在の東京都知事選での支持者が一番多いのは自衛隊上がりの泡沫に近い候補者であるという。この候補者に関心がある者は間違った情報を得てしまうわけである(この候補者が当選することはないと断言する)。

 インターネットでの情報検索は、心理学的に言えば認知的不協和が増えないように選択的に情報を検索し、歪んだ独特の認知図式を描いてしまうことになる。橋下徹嫌いの家人によって自宅では彼がテレビに映るたびにチャンネルを変えるので、僕には最近人気の低迷している彼が何を考えているのか分からないままであるという具合である(現在再校生中の科学神話の本では、似たもののペアの方が逆のパーソナリティのペアよりも多く、長続きするとある。橋下への評価が僕は逆であるというわけではありません)。

 では、歪んでいない認知図式とは何かと定義を迫られると即答はできないが、歪んでいないかと心配して他の認知地図の可能性に想いを馳せる思考様式ではないかと考える。言葉を代えれば科学的に考えるべしということなのだろう。科学的な思考の根本・基本は事物や事態の観察と比較である。
 話が飛躍するように思われるかも知れないが、勤務するが大学のポリシーを検討し制定した際に、初期の学長が「臨床福祉」という語をキーワードにされていたことを知った。なじみのないキャッチフレーズに固執されたということも耳にした。辞書に記載されている臨床(clinical)の字義の2つめの意味は「事物や事態の観察」とある。(残念ながらご本人は病気療養中で確認は出来ないのだが)「臨床福祉」という言葉を掲げての開学には科学的思考の育成という深い意味があるのかも知れない。「臨床福祉」と建学の精神「感恩」をどのようにリンクしたのだろう、そのうち調べなければなるまい。

 このようにして、年度末の学生の試験の答案からの「なんでやねん」は様々な思いへと展開していくこととなった。これは僕の前頭葉前部は未だ壊れていない証のようにも思えるのだが誤診でしょうか、あるいは壊れ始めて思考が拡散し始めているのでしょうかネ。