災い転じて
週末、残暑が厳しかったがスーツを着て、某大学の周年記念式典と祝賀会に大阪市内のホテルへ出かけた。大阪駅でのシャトルバスを待つ行列は長く、汗がにじむ中を待って、2台目にやっと乗り込めた。受け付け開始時刻5分ほどの早めの時間に会場に着いた。
日がよいのか、結婚式に参列と思われる人が多く並んでいた。ホテルでは7組の結婚披露宴があるらしく、ジミ婚が多くなったと聞いているのに、こんな所にも格差があるなあと思いつつ受付にて、預かってきた祝い金を渡そうとした。だが、どうやら名前がないらしい。対応中に別の役付きらしい女性に大学名と法人名、理事長名も伝えたが見あたらないようであった。その人は式典のプログラムとピンクのリボンをくれ、控え室に案内してくれた。ほどなく、案内があり式典会場に入ろうとすると入り口で座席番号を聞かれた。受付でもらったプログラムにはそのようなものはなく、立ち止まっていると数人の会場係らしいホテル関係者が受付に戻って確認しているようであった。入り口の脇に移動して待つこと約3−4分、リボンの色を間違えましたとブルーのリボンを持参して、既に付けていたリボンと交換してくれ、左側の列の椅子に案内してくれた。
隣の女性の様子を伺っているとその人の持っているプログラムには個人名が印刷されているのが見えた。ブルーのリボンを持参した男の人が「フリーで」と小声で口にしたのを覚えていたので、来賓客に自分の名前が抜け落ちていることを確認した。ピンクのリボンを付けた顔見知りの私大の理事長らが右脇の列の座席に向かうのも目にしたので誰かがミスをしたことが判明した。少し気分を害したが、自分の学園の総務でのミスかも知れないとその場に留まり、理事長、文科省、私大協、自治体の長3人プラス学長の7人の祝辞を聞くこととなった(名前がないのなら帰ると言わずに、紋切り型の祝辞をこれも仕事であると、聞いていられるのはエライ!と自賛したことである)。
祝賀会までの20分ほどの間に、プログラムに来賓名な印刷されているのに気づいたが、我が学園名も大学名も抜け落ちていたことは言うまでもない。わざわざ来たので何か口に入れねばソンだと、生来の貧乏人根性で祝賀会場に移動した。リボンの色で立食会場のテーブルが違うので、当然顔見知りは遥か彼方のテーブルにいた。
ブルーリボン用のテーブルにて開式の挨拶を待っていると、突然2人ほど先にいた男の人が「先生、久しぶりです」と寄ってきたのである。どこか顔に見覚えがあると思っていたら、大教大に出入りしていた業者であった(今は副社長である)。ブルーリボンは出入り業者のグループを示すものであることがこの時点で判明した。彼は、パナコピーといって今はない九州松下電工が売り出したばかりのスライド作成機を販売した人で、私がラテラリティの実験を盛んに行っていた30代の頃に出入りしていた販売代理店の営業マンであった。彼が言うように彼の会社からは僕はその一件しか買っていないが、故障するたびに5時過ぎに呼び出されていたということであった。昔は実験する人間はきめ細かく対応してくれる業者がいてくれることが研究の進捗には重要であった。ウマがあったのか彼は時々研究室に来ては雑談し、毎年カレンダーを配ってくれていたことが蘇った。
スライドという言葉自体がもはや死語であるが、パワーポイントが普及するまでは、学会発表にはプロジェクターでスライドを映してというのが一般的であった(したがって、学会発表の準備は10日前には出来ていなければならなかった)。パナコピーは、それまで「発表原稿や図表をカメラで撮影し、現像して一コマずつフィルムを切り出して、スライド枠にはめ込む」というプロセスを、「前もってはめ込んだスライド枠にプリントさせる」という新発想の機械であり、詳細は省くがラテラリティの実験刺激作成のパラダイムを一変させるものであった。当然値段も100万を超し、スライド一枚100円ほどしたと記憶している(今から35年以上前の昭和の時代の価格である)。心理学実験のための用途を想定していなかったということで、九州松下電工の役員が実験室に取材に来たことがあった。このことは彼も自分が引率したということで覚えていた。
彼の会社は我が学園と取引があるとのことで、私のことも以前から知っており、一度会いに行くつもりでいたということであった。二人で祝賀会の進行をそっちのけで、35年以上も昔の思い出話をした。彼は途中で僕のリボンの色に気づいたので、事情を話すと、「誰がミスったか知らんけど、お蔭で先生に逢えた。これが縁と言うもんやな、嬉しいわ」と昔ながらのざっくばらんな口調で話すのであった。
誰かのミスで来賓のりストから抜け落ちていて、面白くない気持ちがどこかにあったが昔なじみに会えて、「災い転じて福となす」ということかも知れないと考えたことである。
この種の立食パーティでは、コンパニオンや誰かが食べ物を運んでくれるのを動かずに食べ、飲むというのが常であり、それに慣れすぎてしまったのであろう、この祝賀会では飲み食いのパフォーマンスはダメで、すし4貫と蕎麦1杯、ビールコップ2杯で終わった。
開式の際に白鹿の菰被り3斗が割られたので、樽酒が味わえると考えていたが、それらはブルーリボンのテーブルの届くことはなかった。ピンクリボンであれば、間違いなく樽酒にありつけたのではないかと考えると、「災い転じて福となす」と単純には言えないのではないかとも、酒飲みの私は自問しているのであります。
もう潮時かな
8月末には例年通り北海道に調査で出かけた。我々がお世話になっている地域は幸いにも雨や風の被害はなく、順調にデータを集めることができた。もっとも、地方自治体の財政難は改善の兆しはないようで、昔から参加しているメンバーからは、15・6年前は空港に迎えにきてくれたバスで途中洞爺湖を見せてもらい、立派な海鮮丼をご馳走になったことが話題になっていた(数年前からは名古屋からのメンバーを待つ時間に空港でラーメンを食べるのが定番となっている。ご馳走になっているので贅沢を言ってはいけないが、洞爺湖畔のレストランでは収益が減ったわけで経済効果はマイナスかも)。昼飯を自治体が払う仕組みは「もう潮時かな」と思う。参加者が自腹で高い価格の海鮮丼を食べるように変更するよう、次年度の打ち合わせで(忘れなければ)言おう。
データ収集は7時朝ご飯、8時検診開始で5時頃終了その後自治体の計画してくれる行事に参加すると9時前にホテルに戻ることになる。その後、ちょっと物足りないし自治体にお金を落とす意図もあって飲みにでるが、適当な飲み屋は別の班の予約で埋まるので彷徨することになる。何とか見つけて11時頃にホテルに戻り就寝できる。このパターンを何年も続けてきたが帰阪後、疲労の蓄積が顕現した。口内炎、腰痛に加えて熟睡ができなくなった(大学に戻って、ここでは書けない、やっかいごとが目白押しであったことも起因するのだが、10日ほど回復に要した)。この滞在中のスケジュールは「もう潮時かな」と思ったことである。
北海道に行く前の夏休みでは8日ほど涼しいところで過ごすことができたが、書きかけている「左ききの認知機能」についての論文を仕上げる予定は叶わずに終わった。以前のような気持ちの切り替えと時間配分ができなかったためである(まだ再チャレンジできていない)。要はやる気が起きなくてだらだらして、たいした興味もないくせに高校野球やオリンピックのTVをみたのが理由である。休み中に必ず読まねばと持参した論文は帰宅後になって読んだのだが(モチベーションの脳内機序における脳幹部の青班核の役割を見直すもので、青班核が主導するノルエピネフェリン分泌がやる気の源泉で加齢に伴い大脳皮質をダメにするという)、加齢による仕事の遅滞であることという仮説を了解した。論文を書くことを主とする生き方も「もう潮時かな」と思ったことである。
論文を書くこと(研究すること)を2次的とすれば、学園の生き残りに注進することになってしまうと推論すると(周りの教職員に迷惑を掛けると思われ)、もう管理職を退く潮時かも知れないと思考は進む。一方で、5年ほど先に予定する公認心理士育成対応の組織の設置計画を準備せねばならないが、僕が進めて良いのやらとも考えてしまう。
ともかくも理事会が納得する後継者の選抜を開始せねばならないことは焦眉の事案であることは間違いない。誰かいませんか?自薦他薦歓迎。
「どうなってんだ」
会員がそれぞれの研究成果を披露し合って議論の中から自分の研究に次の展開への示唆を得るという(僕が)本来の学会の機能と考えているものから、学会イベント屋が著名人に講演させて収益を追求するタイプへ変身してしまったという思いを強く持つようになったからである。(エッセンスを講演で聴いておくのは無駄ではないけど)学会誌の論文を読むことで自分の糧を獲るという本筋に戻ろうと考えたことである「国際神経心理学会はどうなってんだ!」。
同僚に紹介された、疫学の創始者の名前を掲げたロンドンの有名なパブを同行者ら5名で探し当て、夕食をそこで取った。2階での食事は6時からなのだが、5時前から店の周辺の道路はビールを引っかけて談笑する人立ちで溢れかえっていた(人気のパブなのだろう)。気づいたのは(われわれを除けば)有色人種をほとんど見かけなかったことである。ロンドンの町中のパブで飲むのは20年ぶりくらいになるが、昔はこのような人種別に飲むのだという印象は受けなかった。僕等は異常に宿泊費の高いロンドンのホテルを避けて電車で15分ほど離れた郊外の町のホテルに滞在した(値段は半額以下であった)。周辺はインド、パキスタン系の住民ばかりで住区での人種の棲み分けが極端であることも実感した。1970年代に住んでいた家は、白人とインド人の家族に挟まれており、皮膚の色での住区の棲み分けは気にならなかったことが回想できる「英国はどうなってんだ!」。
期日前投票をしていった参議院選挙の結果は眼を覆うもので、目先の生活にしか眼を向けないのが現在の日本国民であることを再認識した。アメリカの大統領選挙でも弱者や異質の人間への憎悪に満ちたキャンペーンの報道ばかりで、呆れるばかりである。メキシコとの国境に塀を作るなどという公約をいう人間に、「メキシコが了解しないだろうし、費用を出すはずがない。何も経済効果を生み出さないものに税金を投入できるはずがない」ことを考えないアメリカ人って、バカだと思っていたら、この影響を受けたのか都知事選では、相手のネガティヴキャンペーンが盛んなようだが、「どうなってんだ!」
相模原市の障害児施設での大量死殺傷事件が起きた。「この子たちを世の光に」と訴えて1963年に「びわこ学園」を作った糸賀一雄が現れた戦後の昭和の時代は、多くの人が他者に、それも弱者に優しい眼を向け応援できたように思える。それらが経済成長の途上にある時代の風を受けていたという要素が考えられるならば、今日のように極わずかの人以外は経済成長を味わえない時代では他者に優しくできない人間が増えているのかも知れない。施設で働いていた職員の犯行という「どうなってんだ!」。
明日はオープンキャンパスである。我が学園を進学先に考えてくれる若者の「他者を思いやる優しい心根を挫かせてはならない」と再確認したことである。
斯く左様に、「世の中どうなってんだ!」と叫びたくなる衝動に駆られることが多い7月であった。「老人がキレやすくなっているのはなぜか?」というTV番組の出演依頼が出張直後にあったが、番組内でキレる可能性も排除できないと考え、お断りした。
自分ではまだ前頭葉の制御機能は維持できていると判定しているけど、信頼性と妥当性の検討は未だである。
「変わること」って大変だわ
新しい学部の宣伝のための取り組みにイラダチの一例をあげることができる。新学部の宣伝に一定の予算を計上してあるが、具体的な取り組みの計画が前もってきちんと決まっていて使い道も確定しているわけではない。これは、家計の予算から国の予算レベルまで同様で、将来の具体的な計画の前に概算で予算は計上される。新学部のための催しは、昨年度は外注で大手の広告会社にお願いした。数千万のお金が必要であった。効果はあったように希望的観測に基づいて評価しがちだが、その広告効果は厳密には検証できない。大手企画会社とは別な計画を実施しての比較検討が出来ないためである。時間を巻き戻せないのだから仕方がない。昨年の広告会社のポスターは話題になったのは事実であり、社内の年間コンペで上位に入ったというが、どこまで学生募集に効果があったかの検討は出来ない(実際、コピーの文章は新鮮と担当者は評価したが、あの程度のものは担当者で考えつくべきだという声もないわけではなかった)。
毎年のように広告企画会社を儲けさせるのも癪なので、低予算で考えようという雰囲気が醸し出されていたので、自分たちで計画してほしいとアイディアの例をあげ希望を指示したら、そのアイディアを実施することになってしまった。落語家を招いての落語とコミュニケーションがらみのトークショウという、学内での催しである。それでも準備することはいっぱいあり、担当者らは思いつくことは試みてはくれた。内容は充実しており、参加者の満足度は高いと思えたが、120人ほどの集客で期待した300人規模とはならなかった(400人ぐらい集めねばという指示であったので小声で報告することになった)。
予算は少なく済んだが、なぜ集客に問題を残したのかを考えてみた。外注してこの種の催しをするのに比べて事務職員も教員たちも、自我関与が弱かったように思える。今迄、自分たちが計画や準備に関わらずに済んでいたことに新しい仕事(負荷)が加わるのだから、能動的に自分の課題に取り込んでという風にはいかなかったのであろう。前年を踏襲して外注すれば、自分らの負荷は少なく、結果への責任も感じずに済むわけである。コストを安くできたところで物理的報酬があるわけでもないのだから、当然の人間心理ということで説明がつく。当日は催しの時間帯に重なって学科ごとのイベントが計画されていたのは承知していたので、それらは適宜縮小して催しへの参加をと学部長にはお願いしてはいたが、それぞれ以前から準備してあった計画を変えるというわけにはいかなかったことも、集客での見込みの違いでもあった。以前より準備したことを変更するといろいろとその後の計画に支障がでて、新たな負荷が掛かるのであろう。小回りを効かせて、臨機応変にという訳にはいかないことなのかもしれない。
大学祭には、例年どおりにかなりの予算が組まれている。学生団体が計画することにはなっているが、学生の諸活動支援の部署がガイダンスしているのが実態で、4-50年前の大学でのように、学生団体に資金を与えて自主的運営に任せるというようにはなっていない(世間にはそういう大学もあろうが)。3組ほどの無名に近いレベル芸人を呼ぶだけで 大手の芸能プロダクションに数百万のお金を持って行かれているようなので、集客できる新しい工夫をしてはどうかと(たとえば、ストリートミュージシャンには10~30人くらいのファンが付いているだろうから、それらを10組ほど呼べば100万で済むのではないか)指示と間違われないように囁いたりするのだが、今年も昨年同様になりそうである。
「変わること」、「変えること」には多大なエネルギーが必要で、それをさけるために前例踏襲ということになるのだろう。人間とはそういう特性を持つということかも知れない。しかし、敢えて変化に挑まねばじりじりと低落していく可能性の方が高いと思うのだが。
このようなイラダチをブログに書いて発散しているうちはよいが、そのうち前頭葉の抑制機能が効かなくなり、直接口にするようになり、周りに嫌われる前に引退せねばと自分に言い聞かせている。
このように,「変わること」には多大のエネルギーがいるのに、消費税は来年4月に10%にしますと「断言」したことを覆したことに何の反省も、国民に許しを乞うこともせず、平然と「新しい判断をした」と「変われる」アベという人は人間離れして、平均的な心理特性を持たない人なのだろう。
国会での質疑を見ると、口頭試問であれば、「論理的にモノを考えるようにと意見を付け、質問への回答になっていないので不可」の成績となるケースが多すぎるように思え、イラダチは自分の勤め先だけに留まらなくなる。参議院選挙は近いのです。
「しんどいなあ」
動きたくない気持ちのようなものがうつうつと溜まり出したのだが、「Life is not finding yourself but life is to creating yourself (人生は自分探しをすることではなく、自分自身を創り上げることだ)」といったアイルランドの作家のことを思い出した(うろ覚えなので怪しいのだけど)。これは身体が動くうちに記憶をたくさん作れという意味だろうと自己流に思い直して、息子夫婦とドライブに出かけた。おかげで、著名な銘酒「久保田」と「八海山」と「水芭蕉」の醸造元を訪問し、利き酒を楽しむ時間が持てた。
新潟県の南魚沼郡にある醸造所が売り出している前2つの銘酒は全国的に有名で,酒飲みは誰もが知っている(はず)ので、自慢できるネタ(記憶)が増やせた。
僕は「出羽桜」、「ばくれん」、「楯の川」、「くどき上手」など山形の酒をフルーティで美味いと、頼まれもしないのに周囲に宣伝している。洗脳され山形の酒をケースで爆買いしている人もいるので、山形県から褒められてもよい(小原庄助さんのように、酒で身上をつぶすことはないクラスのお金持ちだし、その人も美味いと思ったからに違いないのだ)。
今回訪れた場所では利き酒の味にそれほど感動しなかったのだが、購入して帰ったものを自宅で飲んでみると、美味いと思わず叫びたくなることはないのに、いつの間にか飲み進んでしまっている。「空気のような味わいの酒」が新潟の酒だと決め付けることにした。
休み明けには台湾へ出張した。休み明けということもあって、台南の成功大学への出張はなかなか疲労を伴うものであった。昼に大阪を出て、直行便で台南空港をへて4時半頃にホテルに入り2時間後に宴会。翌日は朝から1日会議で夜は7時から宴会。翌朝は準備されていた遠足に時間の都合で参加できずに、キャンパスを散歩したのち新幹線で台北に出て、関空に21時半頃到着というスケジュールであった。帰路は電車の事故、乗客の喧嘩騒ぎなどで遅れて24時前に帰宅という塩梅であった。疲れたためか、参加すると言わなければと後悔の念が環状線の動かない電車の中では浮かびかけたが、動かないと記憶は作れないのだ、と自分に言い聞かせたことである。
成功大学への訪問は3度目である。キャンパスの中庭にある、大学のシンボル、ガジュマルの大樹は、昭和天皇が皇太子の時代に植樹したものであることを教えてもらった。生命保険のテレビコマーシャルで見た、大きく四方に枝を広げ野原に鎮座する大樹に似ていると以前の訪問で感じたことを思いだした。今回再訪してガジュマルの大樹に植樹の由来のダグがついたので、この先の記憶検索は容易になるはずである。
大学中庭のこのガジュマルの大樹を見るだけでも、台湾に行く人は台南まで足を運ぶ値打ちがある。美味く表現できないが見事な枝振りの大木で、おもわずオーと声が出るはずである。ただし、5月は台南ではもう夏の気候なので、4月までに時期がお勧めである。
帰国の翌日は同窓会地方総会にノーベル賞研究者と知人が来るので梅田にでかけた。講演はそれなりに面白かった。若くしてノーベル賞をもらうとこの先大変だろうという思いも湧いたが、もたらされる巨額の研究資金の使い道への構想が語られ、研究者としてのモノが違うのかもしれないと思った。
昨年夏、テルアビヴ空港の待合室に忘れた夏用の黒い帽子(ちょうど空港を標的にしたミサイルでの空襲のために3時間ほど待たされ、やっとゲートに入ることができて機内で座るときに気付いたのだが、迷惑を考えて断念したのだ)の代わりを帰路、大丸で買うことができた。面倒でも梅田に出て来てよかった、やはり面倒がらずに動かねばと自分に言い聞かせたことである。
休みのせいで老人のメンタリティを獲得してしまったためかもしれないが、「面倒だなあ」
「しんどうなあ」という内なる声に逆らって、Creating myselfの道はまだ当分続けねば、と自らを鼓舞しようとしているのであります。
ここ迄書いて、イスラエルに行ったのは一昨年だったと気づいた。実は加齢にともない記憶が失われていくから、次々記憶を創作し続けて行くべきなのかもしれません。
発達課題と黄金週間
最近はすぐこのような計算が頭をよぎるようになり、中小企業の管理職見たい、と内言が浮かび上がるので、我ながら面白くはない(増収になるといって、特別に報酬がもたらされる一般企業とはシステムが違うので、何もしなくても良いのだが)。
どうも、僕はある状況に置かれると、頑張ってしまう習性が芽を出すようである。何度も反対や、反発に遭遇しても、突っ走って改組に取り組んできた3年間なのだが、なぜ頑張ってしまうのかと訝しく思うことも少なくない。もっとも、この習性は根っからの金持ちで、優雅に育つ場合には発揮されないのであり、自分はそうではないことが理由ではないかとも思う。
「売り家と唐様で書く、3代目」という人間の習性は昔から、知られたことではある。周辺の事情には無頓着で、自分の趣味や関心事に集中できるのは、本当に育ちの良い人の持つ習性かもしれない。我が大学の教員の育ちも良い人が多いのかしら、などと考えることは止めておく。
そんなことを考えつつ4月に入ったので、黄金週間は働かないことにした。連休の合間の5月2日は毎週行う執行部会議を休会、5月6日は年休をとることにして10日間の休みとした。このような長い休日は思い返しても初めてである。
仕事を離れて如何に過ごすかは、実は間近に迫っている僕の発達課題なのである。今年も4月の終わり頃になると、大学に勤めていた友人たちから退職の連絡が幾人かから届いた。最近は私学でも70歳までの雇用は少なくなっているので、その年齢にも届いたというわけである。近々、「もう、用済みです」という年齢になるのは必定であり、長い10日間をその練習にと考えて、現在実行中である。
読書をすることは、安易に思いつきはするが、これまでもやっていることで格別新しい試みではない。読書も1時間も連続しては持たないようになってしまっていることに気づく。最近は、視力の衰えもあるので、これから先読書で時間を過ごすということも容易ではないかもしれない(白内障の手術をすれば、まだまだいける、という声も聞こえるが)。連休中に読もうと衝動的に取り寄せた「やる気の分子生物学」という類の洋書は7000円もしたのに、寄せ集めの論文集であることがわかり、一気に意欲が萎えてしまった。僕の学生時代に流行った、マグーン先生の上行性毛様体賦活系のシステムを、ノルアドレナリンを主とした神経伝達物質の流れで再評価する内容のようである。どうも暇になっても読書三昧でという目論見は棚上げになりそうである。
料理という試みもしている。一昨日は芹の新鮮なのが1束120円と安かったので、粥を作った。自分の才能を確信できた味であった。サトウのご飯で作ったので、簡単である。お好み焼きを前日作ったので、余った桜えびとヒラタケのかけらがお粥の中身で、お世辞かもしれないが、家内からの評価も高かった。数少ない例だが、料理は才能がありそうで、これは使える。
運動も計画にできるはずで、朝と夕方と1時間ほど散歩をしている。まだ、膝に痛みが生じることはないので、ありがたい。
テレビを見ることにも時間を配分しているが、面白くはない。ドラマも、野球中継にも集中力を持続できない。チャンネル・サーフィンをして、電源を切る、の繰り返しである。番組を作成する側の問題もあるかもしれないが、多分に自分の集中力の低下(興味関心時の減少、身体機能の低下が原因だろう)、嘘臭さへの猜疑心の蓄積、スマホゲームの推奨ばかりの安直なコマーシャル、などの理由で持続してテレビを見続けることができないことに改めて気づいた。テレビを見て時間を過ごす方策は向かないようである。ただ、スマホゲームのように、目まぐるしく変化させ、視力の消耗を要しない、囲碁将棋などを学ぶことは選択肢にあるかも知れないと気づいたことである。
以上のように、仕事を離れてどう過ごすかの発達課題の処方箋はまだ明確には浮かんでこない。一世代前であれば、仕事を離れる年齢の人間の仕事は孫の世話であり、一緒に過ごすことで日常生活でのしつけや遊び方など、幼児教育への直接・間接的な関わりであったと思うのだが、今日ではそのようなことは困難となってしまっている。家族全員が協力して働かねばならなかった時代から産業構造が変化したことが、今日の「会社の都合で用無し」にされる高齢者に、暇になった時間をどう過ごすのかという発達課題をもたらしたわけで、誰かを恨むことも難しいが、物質的な豊かさを希求したことの産物で、豊かさを享受した手前、受け入れるしかない。
長い休日は、近々取り組まねばならない発達課題の困難さを確認するだけの時間になりそうである。
しなやかだった人たちを偲ぶ
この一月ほどの間に訃報が届いた後藤容子さん、岩崎純子さん、Jimの3人は私の「しなやかな」の定義にそっくり当てはまる人であった。そのうち私の記憶も怪しくなるはずなので、今の内に3名のことを記録しておこう。電子媒体での記録は消えないのでその点うれしい。ただ、認知機能に障害がで始めれば、果たして読んで懐かしく思えるかは不明である(情動の鈍化は最後とは思うけど)。
後藤容子さんは大学での2年後輩で、和歌山大学をへて甲南女子大で臨床心理学の教授を務めた人である。賀状が届かないなと訝しんでいたところ、妹さんから1月に癌でなくなったという手紙をいただいた。後輩の訃報は悲しい。「しなやか」という語にぴったりの容貌で、「あの色白の細い、綺麗な人」という表現を彼女が話題になるときにされるのが常であった。本人は「3人姉妹の真ん中で私が一番見かけも性格のも悪い」と言っていたが、神戸育ちの都会的な上品な感じを保ちながら、いつもニコニコ恥ずかしげにゆっくり話すのであった。大学紛争の頃であり、政治の話をよくした。後に偶然同じホテルに泊まっていることが分かり、内線電話で2時間あまり長電話した記憶がある。彼女の縁談についてであったと覚えている。卒業後、私がいた「中神経心理クリニック」に紹介したが、数ヶ月勤務したのち甲南女子大に助手として務めるようになった。大野晋一先生が移籍されたことに伴ってのことである。その後、甲南女子大に移籍した先輩の先生から、「彼女はなかなか言うことをきかん。退職するよう先輩の君から言ってくれ」と数回言われた覚えがある(もちろん、彼女には伝えはしなかったが)。芯が強く教授とぶつかることがあったのかも知れないが、私との間でそんなことが話題になることはなかった。彼女は助手をしながら博士課程に進んで博士号を取った。学会や同窓会などでたまに会うと、「ハッタさん、東京へ日帰り出張をしたらダメですよ」と決まって諭してくれるのであった。神戸商船大の学長であったお父さんが出張先で亡くなられたことでの示唆であったと思う。この教えは守れていない。そのうち、後悔するかも知れない。
岩崎純子さんは大教大で一緒に助手をした人で、同い年であったが彼女が先任助手であった。卒業生であったので教室の事情に詳しくずいぶん助けてもらった。いつも笑顏で話す人で僕の当番でも教室会議に必要な巨大なヤカンに代わりにお茶を沸かすなど手際よく働く人であった(薄暗い、倉庫の一角に机を並べて、16人がお茶を飲みつつ紫煙の漂う中で、長時間の教室会議は行われていた)。テニスも彼女に教えてもらい昼休みは学生を交えて汗を流したこと思い出す。着任2年目に保健管理センターができることになり、教室主任は僕に移籍するように言ってきた。ラテラリティの実験が面白くなり始めていた私は断ることにした。当然、教授ともめた。私は臨床心理学の教員として公募採用されたので、教授の言い分はおかしくないのだが、「講師に昇任できる」、「このあと5年は昇進の機会はないよ」というセリフに反発し、言葉を荒げてのやりとりがあった。私が渋るので、新規採用することは可能であったのだが、岩崎さんが保健管理センターに移ることとなった。発達心理学を専攻していた彼女が私の身代わりになった訳である。しかし、その後も以前と変わらず笑顔で私に接してくれる人であった。岩崎さんは最終的には臨床心理学を専門とする教授になったが、不本意ではなかったかという気持ちを拭えずに来た。いつか、確かめたいと思っていたが叶わないままとなった。私が実験心理学できちんと仕事をするというモチベーションの一つであることを記しておく。
Jimは錯視など視知覚の研究で日本でも知られた人で、東大の大山正先生など多くの友人がいる。私の留学先の教室のメンバーで、専門は違うのに本当によくしていただいた。私の先生は早逝されたのだが、その代わりとでもいうように、1977年から今日まで親戚の叔父さんのように親切にしてもらった。何度彼の家に泊まったか知れない(彼も私の家に2度滞在した)。
彼の家は、私たちが外国の家をイメージする、その典型的なもので(現実はもちろん異なるのだが)、数多くの部屋、暖炉、広い食卓、趣味の部屋(楽器演奏用)、リンゴの木が何本も育つ広い芝の庭、温室があるので、教室員の中では一番大きな家であった。クリスマス・パーティはいつも彼の家で行われていた。
Jimから学んだことは数え切れない。私は英国かぶれで、ウンチクめいたことを傾けることがある。ウイスキーの飲み方、選び方、地ビールの探し方、などなど、たいていは彼からの受け売りである。彼はいつも背筋を伸ばして、ゆっくり、穏やかに話す人で、ジェントルマンのプロトタイプと言えよう。今まで、多くの外国人に出会ってきたが、彼のような穏やかに優しげに立ち振る舞いする人はほとんどいない。
記憶は次々とよみがえるが、彼の人となりを明示する代表的なエピソードを記す。1977年9月、前日に引っ越したHeath Park傍の借家から夜中に汽車に乗り、家族を迎えにヒースロー空港に行った。疲れている家内と2歳半、2ヶ月の息子たちと昼頃にCardiffの駅に降り立ったところ、Jimの奥さんLizが出迎えてくれていた。もちろん頼んでいない。Jimが配慮してくれたのである。新しい家に我々を送り届けるとLizは「今夜はBlack outだから」と一箱のろうそくとマッチ手渡して帰って行ったのである。Black outが停電という意味であることを知らなかった我々は、この配慮のおかげで、ロウソクの明かりの下で赤ん坊のかぶれ始めているお尻を洗うことができ、安堵した夜のことを鮮明に覚えている。Jimはこのように見知らぬ外国人(当時、私は初めてきた日本人研究者であった)にも、想像力を働かせて心配りをする人であった。後に、何人もの外国人研究者が我が家に来た。私は彼らに倣い対応することをした。対人関係の有り様を、Way of Lifeを彼から教えてもらったのである。
Lizから連絡があり、病気だというので、3年前に彼をちょっと見舞った。元気そうであったが記憶に障害が見られ、Lizは、「タケシが来るのは今日?と毎日確認するの、たいていのことは覚えられないのに」ということであった。検索が危うくなっているJimの長期記憶に私の名前が残っていることが嬉しく、涙腺が怪しかったが、いつものように庭で一緒にビールを飲みブランチを食べた。土産にジンベを持参した。「ジンベはJIM-BEIという人が考案した、あなたの親戚かも」などといい加減なことを言ったのを思い出す。気に入ったようで、さっそく着て写真を撮った。それがJimと一緒に写っている最後のものとなった。
7月にロンドンに行く予定をしているので、Lizに逢いに行かねばなるまい。鼻が痛くならないように上等のティシュをたくさん持ち込んで、そして思い切り泣こうと心に決めている。今夜は最高のウイスキーとJimに教わったピート臭の強いアエラのモルト「ラガブーリン」を、ビールをチェーサーに、感謝を込めて献杯することにしよう。
Rest in Peace!
送る言葉
昨年度のオープンキャンパスでの挨拶で「しなやかに、したたかに生き抜く人材を育て社会に送り出す」ことを発言した。その後の反応は、「しなやかに、したたかに」という表現に対する、positive、negative織り交ぜた反応があったように感じている。そのうちにどこかできちんと「しなやかに、したたかに」と言う単語に込める意味を伝えねばと思っていたので、卒業生を送る言葉にした。数日前に、51歳の人が心臓動脈解離で運転中に死亡し、大きな交通事故を起こしたニュースを知ると、そのうちにでは遅すぎることにもなりかねない。僕の先生も同じくらいの年齢のときに腹部動脈解離で死にかけたことを思い出した。病院に付き添いで泊まったときに、生存率5%である文献を自分で調べて落ち込んでいたのを励ました記憶がよみがえる。幸いにも、その人はその後30年以上経っても元気である。僕が5%の生存率でも個々の人間にとっては50%の確率であると伝えたのを覚えている。
今年の式辞は次のようなものとなった。どのように評価されるのかよりも、手話でこのような込み入った表現を伝達できるのだろうか、難しすぎたかも知れないと心配である。
【さて、今日卒業・修了する皆さんは所定の学業を終えて、社会に出ようとしています。その皆さんに、「しなやかに、したたかに生きよ」と申し上げたいと思います。
「しなやかに」という語は、上品で、たおやかで、穏やかで、優しい、弾力に富んでいることを意味する言葉で、人間を相手に仕事をする上では極めて大切な要素です。「しなやかさ」を備えている人とは具体的にどのような人かというと,日常行動のマナーを守り、喜怒哀楽の感情をただちに表に出さず、落ち着いていて、いつもニコニコ微笑んでいる、そんな人が私には、思い浮かびます。また、様々な問題を、相手のわがままな思いも受け止めて、ともに悩み考え、その時々の状況にも合わせながら解決に努めようとする、そんな人が思い浮かびます。皆さんは、社会に出て、人間を相手に、それも健康で元気な人から、身体的・精神的にハンディキャップを持つ人まで、様々な人を相手に仕事をすることになります。その人たちにいつでも「しなやかに」対応することは簡単なことではありません。「しなやか」に様々な事態に対応するためには確固とした専門知識に裏付けられた、自らに対する自信がなくてはならないからです。
また,「したたかに」という語には、強い、しっかりしている、くじけない、容易に屈しないと言う意味が含まれています。自分が選んだ、社会で生きていく仕事を簡単には投げ出さないで欲しいと思います。困難に巡りあったときは、問題を客観的に見つめ、冷静に分析し、それに対応できる人であって欲しいと思います。解決に繋がる糸口は、自分だけでは見つけられないかもしれませんが、そんなときも先輩や家族、仲間に相談することで、出口の明かりが見えてくることもあるでしょう。仕事を簡単には投げ出さず諦めないで下さい。
私は人間の脳の働きを研究してきました。脳には右脳と左脳がありますが,そろばん名人やピアニストなどのエキスパートの脳を調べてわかったことがあります。それは、長い期間一つのことに取り組みつづけると、片方の脳が担ってきた役割を左右の脳が共同して担い始め、並外れた能力を示すということです。私たちの脳は持続して物事に取り組むと、そのうち自動的に最適解(ベスト・ソルューション)を見いだす力を持っているのです。つまり、仕事を簡単には投げ出さず諦めずに続けていると適切な解決法が見つかるという仕組みが、私たちの脳には備わっているということができます。一方で、私たちの脳はエネルギーを使いすぎないように、物事に飽きやすいという特性も同時に持っています。自分でしっかりと意図しないと、物事を続けることは易しいことではありません。「したたか」であることは簡単なことではないのです。
「しなやかで、したたかな」人になるためには何が求められるのでしょう。私は、自らに自信を持てるように日頃から心がけていることではないかと思います。自らに自信があれば、自分自身の確固とした倫理観や価値観に従い、世の中の刹那的な享楽につながる風潮に流されることなく、生命を次の世代につなぐという社会での大切な役割を果たそうと努力するでしょう。つまり、人間を相手にする仕事を選び、「しなやかで、したたかな」人になるには、自らに自信が持てるように努めなければなりません。本当の優しさ、他者への思いやりは、自分に自信のある人から生まれると考えるからです。そして、自分に自信をもち「しなやかで、したたかに」生きるためには、常に学び続ける姿勢を将来にわたり忘れないようにせねばなりません。受け身ではなく、自らからすすんで学び知識や技能を向上させる志向性を持ち続けてくれるよう望みます。】
古来、稀といわれる年齢まで生きてきた僕の若者への贈る率直な言葉であります。
正月休み中に読んだ本から
正月は昨年春に次男家族が東北に戻ったために、3年前と同じ孫のいない大人だけの静かなものであった。思い立って、家内の実家のある徳島に墓参に出かけた。行きは中国道での大渋滞に遭遇したので、帰路は別ルートを採用したところ予想外にスイスイと車は流れ、2時半頃に茨木インターを降りることになった。未だ早いので万博跡に新開店のアウトレットに行こうということになった。これが間違いであった。途中の道路は大渋滞、新しい道路が出来ていてナビは対応できずで、ぐるぐると周辺を回って駐車場に入るのに1時間以上かかってしまった。ようやくたどり着いたが大混雑で人混みに酔うという体験を久しぶりにすることになった。いわゆるブランド店は少なく、靴でも買うかと探したが西武百貨店にも入っている安売り店があるのみであった(いくつもの有名店は西武に入っている)。ほとんどの人は買い物をしている様子もなく、ただ大勢の家族連れや若者が回遊しているのであった。家内と僕もその流れの一員で、とくに店を覗くことにも集中することなく長い時間歩き回っているだけであった。
新婚の頃に鳳や和泉府中にダイエーが開店すると、買うものも金もないのにただ娯楽として見物に出かけていたことを思い出した。あの頃は欲しいものはたくさんあったはずだが、買うことを想定せずに見るだけのために出かけていた。アウトレットでの光景は一種のデジャブを見るように思えた。ダイエーはもはや今はない。僕も風呂なし、くみ取り便所の長屋住まいから水洗トイレの家に住むようになった。欲しいものは買えるようにはなったが欲しいものはないというように、急激な変容をもたらした時間が長く経ったことを想うのであった。過ぎし日の心的な時間経過は極めて速く、短いなあと振り返っていた。
長男夫妻と待ち合わせるまでの2時間あまりを人混みの中で右往左往して、休むベンチを確保できずに、やっと寒い建物の外に確保した席でビールを飲んで時間を過ごすしかなかった。人混みで長い時間居たためであろう、翌日から風邪を引いてしまった(そこに行った4人とも順次風邪を引いた)。ここ数年風邪とは無縁であったのに、油断せずに暮らさないとそれほど免疫力がある身体でもないことを思い知らされたことである。
表題に話を移そう。休み中に2冊の本を読んだ。お勧めしたい。「経済の終焉の時代」と「日本財政、転換の指針」で、共に井手栄策著である。アマゾンで間違ってクリックボタンを押したので2冊になったが似た内容の本で、詳しいのは前者。珍しくに一気に読めたのは、最近の自分の中にあるもやもやした思いを整理してくれる内容であったためである。
資本の自由気ままな動きを財政政策としてどのようにコントロールするのが良いのかを資料を駆使して説得させる内容で、「経済を飼いならす方途をさぐる気鋭の論客の渾身の一冊」と帯に書いてあるとおり、情緒的な表現を混じえた自己陶酔的記述も見受けられるが、説得的であった。要はカネ儲けを追求する人(集団)を奔放にさせずにカネを入手できない側の人間集団にどのように配分するべきかの方策が述べられている。当然のことながらアベノミックスには反対の立場である。格差の是正をどのように政策に組み込めば、政府を信用し将来への不安に怯えることがない社会(現在では一部の北欧諸国がそのような社会を構築している)。日本ほど政治家や政府を国民が信用しない社会は他にないという調査結果が示されているが、それではどのようにすれば日本が変われるのかを提案している。一言で言えば、と書き続けるのは止そう。簡単に物事を捉え反射的に動くことはいけないという著者の意見に同感なので、自分で読んで下さい。
格差が広がりゆく社会では人間は安直に攻撃対象(大抵は弱者)を想定し、獲るべきものはない負のスパイラル「タゲッティズム」に入り込むのを廃し、ユニバーサルにものを考えるべきであるという指摘は、頷けるもので「福祉科学」が目指す方向ではないかと教えられた。
「福祉社会」とはすべての人が幸福である社会のことで、ユニバーサリズムを追求することを目指さねば、この言葉を冠している我が大学の存立基盤はなくなることになる。福祉の学部は全国的に近年人気がなく、モノづくり、グローバル化を標榜する学部に人気があるが、新しいモノを作り出せばそのせいでモノが売れなくなる側の人もいる、日本人が発展途上の国に押しかけていけば、押しのけられて困る人達も存在しているのが物の道理である。とすれば、人の世話をしたい若者を育てる大学で働く方が罪は少ないのではなかろうか、などと考えている。一寸、我田引水すぎるかな?
月末に締め切りに終われるかのように強迫的に書くのは止めねばと思いつつ、やってしまいました。
年の瀬に(12/23)
強欲の単語で先日見たTVのドキュメンタリー番組(ファシズムについての番組で、ヒットラーに焦点を当てた作品)を思い出した。僕が疑問に思っていた事情が判明したからである。彼の台頭は第一次大戦後のひどい経済状態のドイツで、公共事業を導入し失業率を劇的に回復させることで国民の支持を得たぐらいは知っているが、国家財政が破綻しているのにどうしてそのことが可能になったのか、疑問に思っていた(夜も寝られないほどの疑問ではなかったけど)。実は、そのことを可能にしたのはアメリカ資本であったのだ。フォード、デュポン、モービルなどが、失業が多くて安い賃金のドイツに子会社を作り、資本を投下したために可能となったということであった。ヒットラーに勲章をもらうフォード自身の画像などをみると、投下した資本をダメにしないためにぎりぎりまでアメリカは中立を保ちヨーロッパでのナチスによる侵略を見過ごした理由が理解できたのである。
フォードが作った軍用車両、デュポンが関わった毒ガス、モービルが生産したガソリンなどで戦争が行われたことを知った。第2次大戦後にアメリカが繁栄したのはナチズムに手を貸したためであったと言っても良いのではないかしら、と思う。ノルマンディー作戦以降の戦いでアメリカ人も殺されたわけで、投下した資本で利益を上げるためには何でもしてしまう魔力を再確認した番組であった。「豊かさのために経済状態を改善せねば」という政治家、経済人の強欲さにはくれぐれも注意せねばならない。ほどほどの豊かさで良いとせねばなるまい。
このコラムでも言及したが、5月に落花生を植えた。ネット情報に基づいて葉が枯れかけたのを待ち、先日収穫した。わずか4株を引き抜く作業なので収穫とは大げさであるが、生の落花生を塩ゆでしてビールのアテにすることを期待し、生唾を飲み込みつつの作業なので自分にとっては過大表示ではない。簡単に引き抜け、一株目は沢山の落花生が根についていて、これは大収穫と思った。しかし、残りの3株は0個と0個、10個であった。一株だけが予想通りで、あとは何故か失敗。合計45個の落花生が取れたということで、望み通りには行かないものであるという人生の処世訓を家庭菜園の作業は教えてくれるのであります。収穫の時期が遅かったせいなのか落花生自体はまるまる育ち市販のものの3倍大で、味は美味ではありましたが、ビールのほろ苦さが余計に強く感じられたことでありました。
年々歳々、暦が終わる頃になると、冥土への一里塚の間隔が短くなっていくように思えるが、「知足安分」というどこかの禅寺の手水鉢で目にした文字の意味が分かる年なってきたのかも、と感じる年の瀬であります。