慌ただしい8月
大学は13日から夏休みに入った。その前の土日に、日本心理学会の高校生向けの講座での講義とオープンキャンパスでの特別講演がそれぞれあり、加えて教育学部の設置についての補正申請の対応など、前半はめまぐるしい日々を過ごした。
夏休み中に孫には逢えたが、4ヶ月ぶりとあって初日は思い出せないのか近寄っては来ず、日常的接触は愛着を形成維持するには必須であることを再確認した。7月初めに孫と会っている家内には最初から新近さを示し、面白くなかったが仕方がない。要は2歳半ぐらいでは3ヶ月も顔を見ないと忘れられるということである。そういえば、40年近く前に2歳半の長男はヒースロー空港に迎えた僕をよくわからない様子で不安そうに見上げた眼差しを思いだす。単身赴任の読者は留意されたい。
夏休み最終日は約500キロを運転して8時頃に帰宅し、翌朝から八雲町に行った。34年間続いている住民健診事業への参加で、心理班は15年目となる。名大等からのメンバーを含めると63名の検診団が八雲町に集結した。この夏は新幹線駅関係の作業員がビジネスホテルを占拠しているとかで、心理班11名も2箇所に分かれての宿泊となった。7時半からバスが宿舎に迎えに来て、検査、夜は食事会などもあり、3泊4日は例年同様に睡眠不足気味であった。心理班のメンバーは、顔なじみの住民の何人かに、来年また逢いましょうネ、などと言っていた。今年で科研が終わるが、来年からは高齢だしもう申請を止めよう、とはいかなくなりそうである。研究計画と関連論文を揃えなくてはなるまい。走り出した事業をやめる潮時を見つけるのは簡単なことではない。今の仕事も同じことだろうと思うので、今から潮時を探し始めねばなるまい。
歓迎会の席上で、役場の職員から「ふるさと寄付金お願い」が今年もあった。昨年は色々と美味しいものを記念品として送ってもらい楽しんだので、今年も申し込んでおいた。読者の皆さんも八雲町を応援してあげてください。
八雲のデータは連結がやっと終わり、縦断的な資料分析を始めている。例えば、認知機能の65歳以降の回帰係数を算出し、機能低下の穏やか組と急低下組での様々な関連機能との比較をすれば、などと面白そうなことがいっぱいできる。時間を見つけてはコソコソまとめ、先月から2本書いた(エライ!)が、作業が分断されるので、考えていた時点のworking memoryまでに戻るのは容易なことではない。
このように、かなりきついスケジュールの8月後半であったので、案の定、八雲から戻った翌朝(月曜)はひどい下痢となり、朝昼と絶食した。夜には何とか体調は戻った。やはり寄る年波には…と考えずに、意外とがんばりが効くじゃないかと考えるようにしている。
翌火曜日と水曜日は、大学コンソーシアム大阪主催の台湾の大学長らと大阪の大学長らとのシンポジウムに参加した(元々の主要メンバーである大阪市大、府大からは参加がないのは如何なものか)。水曜日午前は文科省職員の講演、午後は講演が3題で9時半から8時まで要した(大手の私学に混じり、場違いなように感じたが僕も講演した)。疲れたがご馳走が食べられ美味しいワインも出たので、まあ良しとしよう。火曜日の夕食会で一人の台湾側の先生が「はった先生、左きき、脳の話しした人ですよね、池田分校で」と日本語で話しかけてきた。大教大の院で工芸を学びに留学していた人ということで、驚かされた。今は、工業デザインの教授とのこと。長く生きているとこういう奇遇も経験するということである(彼と同僚の二人が金曜日に大学間連携を提案しに來学した)。
このシンポジウムで知った台湾の大学事情から、「明日は我が身だ」という話を記しておこう。台湾の少子高齢化は遅く始まったが加速性は日本よりも大ということであった。10年後までに20-30%の大学教職員は不要となる、などの資料が提示されていた。学生減への対策の一つが海外の大学との連携で学生を集めたいという方向性らしい。教員の削減選抜策にも言及があった。理系の大学での話であったが、教員は企業での複数年での研修を昇任条件にするという。現場を熟知して、求める人材像を明確に知るようにという企図らしい。日本では学生にインターンシップを単位化云々レベルだが、教員にインターンシップが求められるということである。
一般社会人と同様の視野を持つことを研究業績、教育力に加えて求めるわけで、生き残りを掛ける教員の競争は大変であろう。近い将来日本でも似た状況が到来するかも知れない。日頃、教育も研究も社会貢献もするように教員にお願いしている僕を煙たく思っている教員が少なくないことは承知しているが、台湾の大学事情を知るとまだまだ僕は優しい学長なのだ、と思ったことである。
夏休み中に孫には逢えたが、4ヶ月ぶりとあって初日は思い出せないのか近寄っては来ず、日常的接触は愛着を形成維持するには必須であることを再確認した。7月初めに孫と会っている家内には最初から新近さを示し、面白くなかったが仕方がない。要は2歳半ぐらいでは3ヶ月も顔を見ないと忘れられるということである。そういえば、40年近く前に2歳半の長男はヒースロー空港に迎えた僕をよくわからない様子で不安そうに見上げた眼差しを思いだす。単身赴任の読者は留意されたい。
夏休み最終日は約500キロを運転して8時頃に帰宅し、翌朝から八雲町に行った。34年間続いている住民健診事業への参加で、心理班は15年目となる。名大等からのメンバーを含めると63名の検診団が八雲町に集結した。この夏は新幹線駅関係の作業員がビジネスホテルを占拠しているとかで、心理班11名も2箇所に分かれての宿泊となった。7時半からバスが宿舎に迎えに来て、検査、夜は食事会などもあり、3泊4日は例年同様に睡眠不足気味であった。心理班のメンバーは、顔なじみの住民の何人かに、来年また逢いましょうネ、などと言っていた。今年で科研が終わるが、来年からは高齢だしもう申請を止めよう、とはいかなくなりそうである。研究計画と関連論文を揃えなくてはなるまい。走り出した事業をやめる潮時を見つけるのは簡単なことではない。今の仕事も同じことだろうと思うので、今から潮時を探し始めねばなるまい。
歓迎会の席上で、役場の職員から「ふるさと寄付金お願い」が今年もあった。昨年は色々と美味しいものを記念品として送ってもらい楽しんだので、今年も申し込んでおいた。読者の皆さんも八雲町を応援してあげてください。
八雲のデータは連結がやっと終わり、縦断的な資料分析を始めている。例えば、認知機能の65歳以降の回帰係数を算出し、機能低下の穏やか組と急低下組での様々な関連機能との比較をすれば、などと面白そうなことがいっぱいできる。時間を見つけてはコソコソまとめ、先月から2本書いた(エライ!)が、作業が分断されるので、考えていた時点のworking memoryまでに戻るのは容易なことではない。
このように、かなりきついスケジュールの8月後半であったので、案の定、八雲から戻った翌朝(月曜)はひどい下痢となり、朝昼と絶食した。夜には何とか体調は戻った。やはり寄る年波には…と考えずに、意外とがんばりが効くじゃないかと考えるようにしている。
翌火曜日と水曜日は、大学コンソーシアム大阪主催の台湾の大学長らと大阪の大学長らとのシンポジウムに参加した(元々の主要メンバーである大阪市大、府大からは参加がないのは如何なものか)。水曜日午前は文科省職員の講演、午後は講演が3題で9時半から8時まで要した(大手の私学に混じり、場違いなように感じたが僕も講演した)。疲れたがご馳走が食べられ美味しいワインも出たので、まあ良しとしよう。火曜日の夕食会で一人の台湾側の先生が「はった先生、左きき、脳の話しした人ですよね、池田分校で」と日本語で話しかけてきた。大教大の院で工芸を学びに留学していた人ということで、驚かされた。今は、工業デザインの教授とのこと。長く生きているとこういう奇遇も経験するということである(彼と同僚の二人が金曜日に大学間連携を提案しに來学した)。
このシンポジウムで知った台湾の大学事情から、「明日は我が身だ」という話を記しておこう。台湾の少子高齢化は遅く始まったが加速性は日本よりも大ということであった。10年後までに20-30%の大学教職員は不要となる、などの資料が提示されていた。学生減への対策の一つが海外の大学との連携で学生を集めたいという方向性らしい。教員の削減選抜策にも言及があった。理系の大学での話であったが、教員は企業での複数年での研修を昇任条件にするという。現場を熟知して、求める人材像を明確に知るようにという企図らしい。日本では学生にインターンシップを単位化云々レベルだが、教員にインターンシップが求められるということである。
一般社会人と同様の視野を持つことを研究業績、教育力に加えて求めるわけで、生き残りを掛ける教員の競争は大変であろう。近い将来日本でも似た状況が到来するかも知れない。日頃、教育も研究も社会貢献もするように教員にお願いしている僕を煙たく思っている教員が少なくないことは承知しているが、台湾の大学事情を知るとまだまだ僕は優しい学長なのだ、と思ったことである。
シドニー再訪と帰国後
先月予告したように、7月6日まで国際神経心理学会の夏季大会にシドニーに行ってきた。ほぼ毎年出席している学会で、昨年はエルサレムで開催され、空襲に遭いシェルターに避難する貴重な経験もした。
シドニーにはここ15年ほどは行っていないが、毎年ニューサウスウェールズ大学に出かけていた頃がある。その頃と比べて、随分印象が異なった。第一、関空からの直行便がなくなっていた。観光客が減ったせいであろう。理由はシドニーについてすぐわかった。物価が高くなっているのだ。空港からの電車15分ほどが2000円近い運賃やペットボトルの水がコンビニで300円ほどするのでびっくりした(後日安売りのスーパーでは100円ほどで買えたけれども)。昔、港の周辺のバーで350円ぐらいの感覚であったギネスの生は、800円ほどで高い!と叫びそうになった(日本と変わらないのだけれど)。
現地は冬なので寒いのと、物価が高いので学会会場とホテルの往復の毎日であった(会場のホテルではランチや朝飯が出る。それを食べに出ては戻りホテルで仕事をしていた)。冬でも街には中国人観光客らしい人が多かった。中国と豪州は経済関係が良好とかで景気は良いらしい。そのために物価が高いのだと現地の研究者は嘆いていた(もっとも、パンやバター、肉、ミルク、オレンジなどは日本の半額なので、食べるだけなら日本よりも生活しやすそうである)。
シドニーは街のサイズは小ぶりなので印象が強くなるのかもしれないが、港周辺には建築中の高層ビルが際立って多い気がした。昨年のイスラエルでは35年ぶりでもインフラがほとんど変わらないのが印象に残ったが、シドニーは大きく変わりをしている。ミサイル防衛網など軍事費にお金を使わなければならない国家とそうでない国家の違いである。兵器ほど金食い虫ですぐ使えなくなるものは他にはあるまいと、ここで、アベ政権の最近の所業に連想が移り悪口を書き連ねたくなるが、敢えて触れない。
シドニーのホテルは値段が高いので高級なところには泊まれなかったが、ベッドは快適で、日頃の疲れもあってか毎日睡眠9時間であった。今年度に入って最初の論文はほぼ完成できたので、まあまあのシドニー再訪であった。
帰国後は7月と8月が山場の学生募集の仕事が待っていた。土日が潰れるオープンキャンパスが3回、リクルート(株)の催しへの参加、付属高校教員対象の説明会などなどである。それぞれに打ち合わせなどをするので、この他のルーチンの仕事をこなすのは大変。とうとう夏風邪を引いてしまった(主観よりも体力はなくなっているのかも)。
オープンキャンパスでは、毎回スケジュールに組み込まれた冒頭の全体説明会で10分ほど挨拶をする。大学の立ち位置、目標、誇れるところなどを紹介するのだが、父兄や進路指導の先生に評判がよい(らしい)のが、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という下りという。グローバル化の波に乗らないと補助金面でマイナスだが、5月に実施した高校の進路指導教員向けの説明会でも、この表明は良いというアンケート記載があったので、それ以後敢えて強調することにしている。
中央教育審議会の答申に準拠して教育の質の改善には実直に取り組んでいるが、グローバル化の指示にだけは乗らないでおこうと考えてきた。「英語での授業、外国人留学生受け入れ、海外留学での単位認定や協定大学….」などは本学には今の所必要がないと考えるからである。
そもそも、グローバル化の本質は、「誰とでも一緒に何処ででも生きていける力をつける」ことと私は考えるので、「自分の仕事に自信があり、誇りがある人間」であれば、何処ででも生きていける。「いろいろな人種が生きていること、文化に違いがあること、言語も様々であること、価値も多様であること」を知ることは重要だが、英語を話すこと、大勢で外国の大学に出かけ寮に滞在することなどは役に立たない瑣末なことというと言葉が過ぎるかも知れないが。
うちの大学の学生には自分の仕事に自信を持たせるために資格を確実に取らせることとその役割に誇りを持つようにキャリア教育することが最優先、と考えている。「英語を話せるようにならねば国際化の時代に生きていけないのか?」、「英語ができない生徒をどうしよう?」と不安な高校教員や父兄が存外多く、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という立ち位置を了解してくれるのかも知れない。そうであれば、保護者や進路指導の先生が学生をウンと沢山送り込んで欲しい。そうすれば、なかなかしつこい風邪も寛解するはずであります。
昨晩、大学時代のクラブの1年先輩から週末の京都での食事会の誘いがあった。「お前、いつまで働くんか、人生のこりは短いぞ」ということで、もっともな助言である。3学年上の元指揮者も参加予定と今朝メールが届いていた。その先輩とはまさに50年ぶりの再会となる。どんな話題で盛り上がるのかは不明だが、祇園界隈で昼過ぎに爺さん達のコーラスが聞こえたら、それは、多分我々の仕業である。辺りの迷惑を顧みず、数曲愛唱歌を唄って会を閉じるのが習わしなのです。
シドニーにはここ15年ほどは行っていないが、毎年ニューサウスウェールズ大学に出かけていた頃がある。その頃と比べて、随分印象が異なった。第一、関空からの直行便がなくなっていた。観光客が減ったせいであろう。理由はシドニーについてすぐわかった。物価が高くなっているのだ。空港からの電車15分ほどが2000円近い運賃やペットボトルの水がコンビニで300円ほどするのでびっくりした(後日安売りのスーパーでは100円ほどで買えたけれども)。昔、港の周辺のバーで350円ぐらいの感覚であったギネスの生は、800円ほどで高い!と叫びそうになった(日本と変わらないのだけれど)。
現地は冬なので寒いのと、物価が高いので学会会場とホテルの往復の毎日であった(会場のホテルではランチや朝飯が出る。それを食べに出ては戻りホテルで仕事をしていた)。冬でも街には中国人観光客らしい人が多かった。中国と豪州は経済関係が良好とかで景気は良いらしい。そのために物価が高いのだと現地の研究者は嘆いていた(もっとも、パンやバター、肉、ミルク、オレンジなどは日本の半額なので、食べるだけなら日本よりも生活しやすそうである)。
シドニーは街のサイズは小ぶりなので印象が強くなるのかもしれないが、港周辺には建築中の高層ビルが際立って多い気がした。昨年のイスラエルでは35年ぶりでもインフラがほとんど変わらないのが印象に残ったが、シドニーは大きく変わりをしている。ミサイル防衛網など軍事費にお金を使わなければならない国家とそうでない国家の違いである。兵器ほど金食い虫ですぐ使えなくなるものは他にはあるまいと、ここで、アベ政権の最近の所業に連想が移り悪口を書き連ねたくなるが、敢えて触れない。
シドニーのホテルは値段が高いので高級なところには泊まれなかったが、ベッドは快適で、日頃の疲れもあってか毎日睡眠9時間であった。今年度に入って最初の論文はほぼ完成できたので、まあまあのシドニー再訪であった。
帰国後は7月と8月が山場の学生募集の仕事が待っていた。土日が潰れるオープンキャンパスが3回、リクルート(株)の催しへの参加、付属高校教員対象の説明会などなどである。それぞれに打ち合わせなどをするので、この他のルーチンの仕事をこなすのは大変。とうとう夏風邪を引いてしまった(主観よりも体力はなくなっているのかも)。
オープンキャンパスでは、毎回スケジュールに組み込まれた冒頭の全体説明会で10分ほど挨拶をする。大学の立ち位置、目標、誇れるところなどを紹介するのだが、父兄や進路指導の先生に評判がよい(らしい)のが、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という下りという。グローバル化の波に乗らないと補助金面でマイナスだが、5月に実施した高校の進路指導教員向けの説明会でも、この表明は良いというアンケート記載があったので、それ以後敢えて強調することにしている。
中央教育審議会の答申に準拠して教育の質の改善には実直に取り組んでいるが、グローバル化の指示にだけは乗らないでおこうと考えてきた。「英語での授業、外国人留学生受け入れ、海外留学での単位認定や協定大学….」などは本学には今の所必要がないと考えるからである。
そもそも、グローバル化の本質は、「誰とでも一緒に何処ででも生きていける力をつける」ことと私は考えるので、「自分の仕事に自信があり、誇りがある人間」であれば、何処ででも生きていける。「いろいろな人種が生きていること、文化に違いがあること、言語も様々であること、価値も多様であること」を知ることは重要だが、英語を話すこと、大勢で外国の大学に出かけ寮に滞在することなどは役に立たない瑣末なことというと言葉が過ぎるかも知れないが。
うちの大学の学生には自分の仕事に自信を持たせるために資格を確実に取らせることとその役割に誇りを持つようにキャリア教育することが最優先、と考えている。「英語を話せるようにならねば国際化の時代に生きていけないのか?」、「英語ができない生徒をどうしよう?」と不安な高校教員や父兄が存外多く、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という立ち位置を了解してくれるのかも知れない。そうであれば、保護者や進路指導の先生が学生をウンと沢山送り込んで欲しい。そうすれば、なかなかしつこい風邪も寛解するはずであります。
昨晩、大学時代のクラブの1年先輩から週末の京都での食事会の誘いがあった。「お前、いつまで働くんか、人生のこりは短いぞ」ということで、もっともな助言である。3学年上の元指揮者も参加予定と今朝メールが届いていた。その先輩とはまさに50年ぶりの再会となる。どんな話題で盛り上がるのかは不明だが、祇園界隈で昼過ぎに爺さん達のコーラスが聞こえたら、それは、多分我々の仕業である。辺りの迷惑を顧みず、数曲愛唱歌を唄って会を閉じるのが習わしなのです。
超多忙な6月が終わろうとしている
今年もあと数日で半分が終わる。今年の梅雨は連日しとしとと小糠雨が降るというようなことはなく、「うっとうしい日が続きますねえ、梅雨ですからねえ」などというステレオタイプな会話は交わされないままである。九州辺りは連日の豪雨で土砂災害という報道がなされるが、大阪はあまり降らない。温暖化が理由らしいが最近の雨はバケツをひっくり返すような、南洋型の降り方が増えたので、「小糠雨」「霧雨」「村雨」「しぐれ」「涙雨」「通り雨」「慈雨」などという雨の降り方が多様であったことで生まれた日本語の語彙は消えて行ってしまうかも知れない。それぞれの雨の表現で流行歌の文句などを記憶から検索すると(たとえば、「小糠雨降る御堂筋、心変わりな夜の雨…」などと)加齢による認知機能の低下には良いそうですので、お試しを。
6月末は、7年ごとの大学認証評価授審のための自己評価書の提出期限、大学の設置認可の補正申請書の提出期限など、仕事は重要なものが山積して事務方は大変であった。もちろん責任者であるので、最後に目を通さねばならないことは言うまでもない。それぞれの仕事が、小さな大学では複数年にまたぐ大きな出来事である。無事、くぐり抜けることができれば事務方にはそれに応じた報酬が与えられるべきであると自分は考えて、折に触れてそれらしいことを進言しているが、反応は微妙で先のことはわからない。「こういういろいろな大変な作業をこなすことが、自分の成長に繋がるまたとないチャンスを与えてもらったのだから」、「皆がんばってくれているので、特別な配慮は返って平等という観点から課題を生む」という説明が準備されているのかも知れない(と懸念する)。非日常的課題な労働には応分の対価が普通と思ってしまう労働者側の認知図式は、一方では当然と認知されないこともある。物事には表裏があり片方からの見解がすべて適切と言うわけにも行かないのが社会的事象の特性である。だからもめ事が尽きぬのだが事態の表裏の両方を考えてみることは大切なことに違いない(簡単なことではないことは言うまでもないけど)。
大学の組織改編の一つに構想した心理科学部は設置が届け出により6月に正式に認められた。これまでの2年間を振り返れば、何度かアドレナリンが放出されたことがあり、武勇伝も思い出すがここで披露するわけにはいかない。心理科学部の学生募集活動を本格化している。従来の業者を代えての宣伝取り組みの反応は悪くはなさそうである。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」の車内ポスター、WEBでの宣伝戦略は話題になっている様子である。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」を検索すれば月ごとに新たな展開ストーリーが見られるので是非広めて欲しい。昨年の3倍程の費用を掛けたキャンペーンなので、話題になり受験希望者が増えないことには責任者として立つ瀬がない。規模が大きな大学であれば広報の具体に学長が関与することはせず、部署に任せるのが普通のはずだが、うちの大学では実際はそうはいかない。担当部署の職員には、自由に自分で責任を取るつもりで決定し、いちいち学長の決裁は要らないというのだが、最後は「学長が決めた」と言うことにしたいらしい。職員の気持ちもわからないではないので仕方なく希望に従っているが、学長のガバナンスとは縁遠いことで、愚痴である。
心理科学部の宣伝効果が今のところ順調なのだが、もう一つ予定している学部についての宣伝も頭痛の種である。今の心理科学部のような広報を高額な専門業者でなく、職員自分たちで生み出せるようにせねばというダメ出しも経営側からはもたらされる。専門業者と同じレベルの仕事ができれば問題はないが、それではプロの会社は存続しないわけで、難題なのである。
学長という名前をきくと何でもできるてっぺんの人と考える人が多いが、私立大学では経営と教職員の狭間で右往左往している中間管理職に過ぎない。したがって、当然ストレスはたまる(一方でポケットマネーは減って行く)。6月が終わろうとするが、ストレスは十分すぎるほど溜まっている。28日の日曜に後援会の総会に出てあいさつし、申請書等の点検を見届けたならば、学長職の衣を脱ぎ捨て、一週間は研究者に戻ることにしている(合間を縫っての学会発表の準備はできているのだ)。
月曜からシドニーの国際学会に出かけ、オペラハウスを対岸に見るアイリッシュパブで、オーストラリア・ワインとギネスをいっぱい飲んで、合流する教え子の研究者らを相手に、ストレス発散をすることに致します(辟易することでしょうが、酒代は払うので、辛抱してもらうしかない)。
6月末は、7年ごとの大学認証評価授審のための自己評価書の提出期限、大学の設置認可の補正申請書の提出期限など、仕事は重要なものが山積して事務方は大変であった。もちろん責任者であるので、最後に目を通さねばならないことは言うまでもない。それぞれの仕事が、小さな大学では複数年にまたぐ大きな出来事である。無事、くぐり抜けることができれば事務方にはそれに応じた報酬が与えられるべきであると自分は考えて、折に触れてそれらしいことを進言しているが、反応は微妙で先のことはわからない。「こういういろいろな大変な作業をこなすことが、自分の成長に繋がるまたとないチャンスを与えてもらったのだから」、「皆がんばってくれているので、特別な配慮は返って平等という観点から課題を生む」という説明が準備されているのかも知れない(と懸念する)。非日常的課題な労働には応分の対価が普通と思ってしまう労働者側の認知図式は、一方では当然と認知されないこともある。物事には表裏があり片方からの見解がすべて適切と言うわけにも行かないのが社会的事象の特性である。だからもめ事が尽きぬのだが事態の表裏の両方を考えてみることは大切なことに違いない(簡単なことではないことは言うまでもないけど)。
大学の組織改編の一つに構想した心理科学部は設置が届け出により6月に正式に認められた。これまでの2年間を振り返れば、何度かアドレナリンが放出されたことがあり、武勇伝も思い出すがここで披露するわけにはいかない。心理科学部の学生募集活動を本格化している。従来の業者を代えての宣伝取り組みの反応は悪くはなさそうである。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」の車内ポスター、WEBでの宣伝戦略は話題になっている様子である。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」を検索すれば月ごとに新たな展開ストーリーが見られるので是非広めて欲しい。昨年の3倍程の費用を掛けたキャンペーンなので、話題になり受験希望者が増えないことには責任者として立つ瀬がない。規模が大きな大学であれば広報の具体に学長が関与することはせず、部署に任せるのが普通のはずだが、うちの大学では実際はそうはいかない。担当部署の職員には、自由に自分で責任を取るつもりで決定し、いちいち学長の決裁は要らないというのだが、最後は「学長が決めた」と言うことにしたいらしい。職員の気持ちもわからないではないので仕方なく希望に従っているが、学長のガバナンスとは縁遠いことで、愚痴である。
心理科学部の宣伝効果が今のところ順調なのだが、もう一つ予定している学部についての宣伝も頭痛の種である。今の心理科学部のような広報を高額な専門業者でなく、職員自分たちで生み出せるようにせねばというダメ出しも経営側からはもたらされる。専門業者と同じレベルの仕事ができれば問題はないが、それではプロの会社は存続しないわけで、難題なのである。
学長という名前をきくと何でもできるてっぺんの人と考える人が多いが、私立大学では経営と教職員の狭間で右往左往している中間管理職に過ぎない。したがって、当然ストレスはたまる(一方でポケットマネーは減って行く)。6月が終わろうとするが、ストレスは十分すぎるほど溜まっている。28日の日曜に後援会の総会に出てあいさつし、申請書等の点検を見届けたならば、学長職の衣を脱ぎ捨て、一週間は研究者に戻ることにしている(合間を縫っての学会発表の準備はできているのだ)。
月曜からシドニーの国際学会に出かけ、オペラハウスを対岸に見るアイリッシュパブで、オーストラリア・ワインとギネスをいっぱい飲んで、合流する教え子の研究者らを相手に、ストレス発散をすることに致します(辟易することでしょうが、酒代は払うので、辛抱してもらうしかない)。
帰りなん、いざ、菜園荒れなんとす
年度末から年度始めに掛けて極めて多忙であったので、当然のこととして秋の収穫から我が菜園は野放し状態。収穫したままの葉っぱだけが残る傾いたブロッコリーの残骸や、刈り取られて根元だけが残るネギとワケギが菜園の端っこで存在している状態でありました。なんとかしたいと思いつつも、「この次に時間が取れる日にやろう」、「もうしばらく時間をおいても大丈夫じゃないかな」と怠惰の虫が跋扈していたのです。
しかし、5月のカレンダーには3日の日付の枠に、「落花生の種をまくこと」と書いてあるのです。昨年、落花生の種を家庭菜園仲間の職員から貰って、その時に教えられた植え頃をメモしておいたのです。もう猶予はできない。陶淵明風に言えば、「いざ帰りなん、菜園まさに荒れなんとす」というわけで、動きたくない信号を出す身体を気持ちで鼓舞することに何とか成功したのであります。もう止めて、果実でも植えようかとも考えるのですが、桃栗3年柿8年というのですから、生きている保証もなく、費用対効果は望めないことは自明であります。
菜園というのもはばかる2坪ほどの土地では、これまでいろいろなものに挑戦して来ました。鉈豆、芽キャベツ、人参などは無惨な失敗に終わりました。ただ、当たり障りのないものを植えるのでは、毎朝の散歩路で観察している貸し農園の作物の育ち方には勝てないので、珍しいものを育てようとしているであります。一種、優越感を味わいたい、話題作りをしたいという潜在動機がさせるのであります。
この辺りで落花生を作っているのを見たことがないので、挑戦しようと一年越しで企画してきたのであります。他者に自慢をする話題を作ることが高齢者の認知症対策では有効であると周りに行っているので、実践せねばなりません(人に自慢する一連の行為は、自発的に計画すること、回想して記憶を検索せねばならないこと、言葉を話さねばならないこと、など前頭葉が関係する脳機能を大いに使うからなのですヨ。もっとも自慢話ばかりは嫌がられるのですが、他人に気を使わなくなるのも老人には必要な特権的防衛規制であると、考えているのです)。
放置したままの菜園の状態では種をくれた職員にも悪いし、夏野菜への植え付けもおぼつかず、連休前日には先月に亀岡で買い込んで来た堆肥ややっと土にすき込んで4条ほどの畝を作ったのでした。2時間足らずの作業でしたが、その日には植え付ける体力が残っておらず、普段使わない内股の筋肉痛が出て休止(翌日に筋肉痛にならないのは若い証拠という慰めも自分で唱えつつもへたっていたのであります)。
連休明けに植え付けることにして、連休は諏訪の酒屋巡りという遊覧を長男夫婦と一緒に楽しむこととなりました。もちろん、この間には落花生の種を水につけて前日から戻しておくことや3粒ずつ植え付け、発芽後に2本に間引くなどの情報の入手をして準備に余念はなかったのであります。 落花生の種は茶封筒に入れて冷蔵庫のドアに保管しておいたはずでありました。自宅に戻って、さあ作業するかと冷蔵庫を探すのですが、肝心の茶封筒が見つからない。ドアの裏のポケットに二十日大根や三つ葉の種袋はあるが、肝心の落花生の袋がない。翌日には冷蔵庫の掃除を兼ねて探してもらったが見つからない。家内が捨てたのだろうという疑いは沸き起こるが、まだ前頭葉の機能も完全には壊れてはいないようで、外言化には至らずにすんだのでした。自分が忘れたのだ、記憶がダメになったと思い込まないのはポジティブ心理学的方略でもあるので、仕方なくキュウリ、トマト、ゴーヤ、シシトウ、満願寺唐辛子を植え付けたのでした。プランターには二十日大根の種をまき、サラダ菜、ワケギ、ネギを植えることとしました。これにミョウガが今年も50本以上芽を出しているので、数えるとかなりの品種を作っていることになり、欲張りなことに気づくのであります。しかし、近所では作っていない落花生を育て自慢する野望は潰えたのであります。生の落花生を殻ごと塩ゆでにして、ビールを飲むという情景は妄想の段階で終わったのであります。
というように、荒れなんとしていた我が菜園は現在のところは畝をマルチで覆いそれなりの姿を今年も維持できたのです。しかし、筋力の衰え、意欲の衰えの兆しは着実に実質化していることを思い知らされたのであります。
ただ、一条残った畝に何か散歩道の貸し農園では見かけない野菜を植えねばと考えているので、「be imitative」要素が枯渇してしまっているわけでもないと、都合良く考えることにしています。
しかし、5月のカレンダーには3日の日付の枠に、「落花生の種をまくこと」と書いてあるのです。昨年、落花生の種を家庭菜園仲間の職員から貰って、その時に教えられた植え頃をメモしておいたのです。もう猶予はできない。陶淵明風に言えば、「いざ帰りなん、菜園まさに荒れなんとす」というわけで、動きたくない信号を出す身体を気持ちで鼓舞することに何とか成功したのであります。もう止めて、果実でも植えようかとも考えるのですが、桃栗3年柿8年というのですから、生きている保証もなく、費用対効果は望めないことは自明であります。
菜園というのもはばかる2坪ほどの土地では、これまでいろいろなものに挑戦して来ました。鉈豆、芽キャベツ、人参などは無惨な失敗に終わりました。ただ、当たり障りのないものを植えるのでは、毎朝の散歩路で観察している貸し農園の作物の育ち方には勝てないので、珍しいものを育てようとしているであります。一種、優越感を味わいたい、話題作りをしたいという潜在動機がさせるのであります。
この辺りで落花生を作っているのを見たことがないので、挑戦しようと一年越しで企画してきたのであります。他者に自慢をする話題を作ることが高齢者の認知症対策では有効であると周りに行っているので、実践せねばなりません(人に自慢する一連の行為は、自発的に計画すること、回想して記憶を検索せねばならないこと、言葉を話さねばならないこと、など前頭葉が関係する脳機能を大いに使うからなのですヨ。もっとも自慢話ばかりは嫌がられるのですが、他人に気を使わなくなるのも老人には必要な特権的防衛規制であると、考えているのです)。
放置したままの菜園の状態では種をくれた職員にも悪いし、夏野菜への植え付けもおぼつかず、連休前日には先月に亀岡で買い込んで来た堆肥ややっと土にすき込んで4条ほどの畝を作ったのでした。2時間足らずの作業でしたが、その日には植え付ける体力が残っておらず、普段使わない内股の筋肉痛が出て休止(翌日に筋肉痛にならないのは若い証拠という慰めも自分で唱えつつもへたっていたのであります)。
連休明けに植え付けることにして、連休は諏訪の酒屋巡りという遊覧を長男夫婦と一緒に楽しむこととなりました。もちろん、この間には落花生の種を水につけて前日から戻しておくことや3粒ずつ植え付け、発芽後に2本に間引くなどの情報の入手をして準備に余念はなかったのであります。 落花生の種は茶封筒に入れて冷蔵庫のドアに保管しておいたはずでありました。自宅に戻って、さあ作業するかと冷蔵庫を探すのですが、肝心の茶封筒が見つからない。ドアの裏のポケットに二十日大根や三つ葉の種袋はあるが、肝心の落花生の袋がない。翌日には冷蔵庫の掃除を兼ねて探してもらったが見つからない。家内が捨てたのだろうという疑いは沸き起こるが、まだ前頭葉の機能も完全には壊れてはいないようで、外言化には至らずにすんだのでした。自分が忘れたのだ、記憶がダメになったと思い込まないのはポジティブ心理学的方略でもあるので、仕方なくキュウリ、トマト、ゴーヤ、シシトウ、満願寺唐辛子を植え付けたのでした。プランターには二十日大根の種をまき、サラダ菜、ワケギ、ネギを植えることとしました。これにミョウガが今年も50本以上芽を出しているので、数えるとかなりの品種を作っていることになり、欲張りなことに気づくのであります。しかし、近所では作っていない落花生を育て自慢する野望は潰えたのであります。生の落花生を殻ごと塩ゆでにして、ビールを飲むという情景は妄想の段階で終わったのであります。
というように、荒れなんとしていた我が菜園は現在のところは畝をマルチで覆いそれなりの姿を今年も維持できたのです。しかし、筋力の衰え、意欲の衰えの兆しは着実に実質化していることを思い知らされたのであります。
ただ、一条残った畝に何か散歩道の貸し農園では見かけない野菜を植えねばと考えているので、「be imitative」要素が枯渇してしまっているわけでもないと、都合良く考えることにしています。
春の過ぎ行く
今年の4月は雨が多く、4月2日の入学式こそ快晴であったが、それ以外は雨が降ったり寒かったりで、桜は愛でる間もなく散ってしまった。19日の日曜も雨であったが家内の用事で亀岡市に出かけた。高槻からは山を越えれば40分足らずのドライブで行ける。例年なら山桜が美しい峠越えの道中も味気ないことであった。
家内の用事を済ませて会場そばの道の駅に昼ご飯を調達しようと覗いてみると、花山椒が1パック200円で売っていた。山椒はつぶつぶの実山椒が一般的だが短期間に花だけ咲く山椒の木もあるのだ。
花山椒の佃煮は僕の大好物で、いわゆる「おふくろの味」である。花の部分だけで若芽も一切入れないで作る佃煮である。そんな佃煮知らないという人は、インターネットで調べて見て欲しい。椎茸の佃煮で有名な京都の永楽屋では65g入りを2,484円で販売しているし、形状もわかる。季節限定の高級食材なのである。
僕が小学生の頃のことで60年ぐらい昔のことである。この季節になると湖北の田舎に大阪から仲買人が花山椒を買いに来た。花だけを手摘みにするのだから、摘み手は田舎の女と子どもである。仲買人が買い付けたあちこちの畑にある目印のある山椒の木を指示してもらい、見つけて花だけを摘むのだ。根気のいる手仕事である。摘んだ花山椒の重さを計測してもらい、摘み賃をもらうのである。当時の湖北では田んぼでの仕事が始まる前の春での数少ない現金収入の道であった。この花山椒は高級料亭で使うということを仲買人は教えてくれた。僕は小さすぎたのか、根気がない子だったのか実際に畑に出かけて仕事をした記憶はない。
田舎でも女の人が働くようになり、摘み手がいなくなったことや、仲買人も年を取ったのだろう、そのうち来なくなった。おそらく、母親も本物の花山椒の佃煮を食べたことはないはずだが、その頃から彼女は花山椒の佃煮を作るようになったと思われる。小鮎の飴炊きに添えると佃煮の味は一段と風味を増し、山椒の香りが何とも良いのである。辛口の日本酒などが欲しくなる絶品なのだ。
関連する記憶の検索で前置きが長くなったが、道の駅で花山椒を購入した。佃煮を作ってみようと思ってしまったのである。そこでの商品は若芽がほとんど混じっていない、花だけの良質なものであったことも、動機づけを高めたと思う(ときどき、花山椒を売っているのを見るが若芽が混じっていないのは始めて見た気がした)。5パック買い求めた。
インターネットで作り方を調べると、どのサイトの調理法でも一様に醤油:酒:みりんが1:1:0.5とある。帰宅して、早速挑戦した。水洗いした山椒を醤油、酒、みりんで煮ること約20分。ボール一杯の山椒は小さめのおにぎり大になった。佃煮は量がしぼむもんだから仕方がないけどもう数パック買っておけば良かったかもと思いつつ、味見をする。なんと、塩辛いだけであった。慌てて水をくぐらせておにぎり大のものを食べることは食べたが、母親の作る花山椒の佃煮とは似ても似つかない形状と味であった。山椒の香りだけは少しはしましたけどね。失敗は醤油、酒、みりんの量について間違ったからである(後で考えれば、当たり前なのになぜ焦ったのだろう)。
「おふくろの味」というものは生きているうちに作り方を聞いておかねば後悔しますというのが教訓である。捲土重来を期するつもりではいるが、1年後の話になる。
先週の週末は仙台に孫娘を訪ねた。先月末の空港での見送りが、別れ際が中途半端であると逢いたさが余計に大きくなるという「ザイガルニック効果」を生んだのかも知れない。晴天の土曜日には八木山動物園に連れていったが、大人ほど楽しかったのかは不明である。ひと月見ない間に大きくなったような気がする孫は、逢ってしばらくするとすっかり打ち解けて、前の住人の子どもが残して行ったおもちゃを次々に自慢げに見せに来た(息子の友人である前の住人一家が留学したのを居抜きで安く借りているのです)。孫には恥ずかしいなどの複雑な感情の分化が見られ、順調に発達している兆候を確認できた。
ホテルに帰るときには気軽にバイバイしていた孫が、日曜日の午後空港に向かうべくバイバイというと、「バイバイ、いやだ」と叫んで別れるのを嫌がってくれた。何かの気配で翌日逢わないことを検知したのであろう。
これが「後ろ髪を引かれる思い」というものを初体験できたのであります。先月の伊丹でこの感情を味わいたかったのだと得心した次第。このように情けない気持ちや新規な情動を味わいながら4月は過ぎて行くのであります。
家内の用事を済ませて会場そばの道の駅に昼ご飯を調達しようと覗いてみると、花山椒が1パック200円で売っていた。山椒はつぶつぶの実山椒が一般的だが短期間に花だけ咲く山椒の木もあるのだ。
花山椒の佃煮は僕の大好物で、いわゆる「おふくろの味」である。花の部分だけで若芽も一切入れないで作る佃煮である。そんな佃煮知らないという人は、インターネットで調べて見て欲しい。椎茸の佃煮で有名な京都の永楽屋では65g入りを2,484円で販売しているし、形状もわかる。季節限定の高級食材なのである。
僕が小学生の頃のことで60年ぐらい昔のことである。この季節になると湖北の田舎に大阪から仲買人が花山椒を買いに来た。花だけを手摘みにするのだから、摘み手は田舎の女と子どもである。仲買人が買い付けたあちこちの畑にある目印のある山椒の木を指示してもらい、見つけて花だけを摘むのだ。根気のいる手仕事である。摘んだ花山椒の重さを計測してもらい、摘み賃をもらうのである。当時の湖北では田んぼでの仕事が始まる前の春での数少ない現金収入の道であった。この花山椒は高級料亭で使うということを仲買人は教えてくれた。僕は小さすぎたのか、根気がない子だったのか実際に畑に出かけて仕事をした記憶はない。
田舎でも女の人が働くようになり、摘み手がいなくなったことや、仲買人も年を取ったのだろう、そのうち来なくなった。おそらく、母親も本物の花山椒の佃煮を食べたことはないはずだが、その頃から彼女は花山椒の佃煮を作るようになったと思われる。小鮎の飴炊きに添えると佃煮の味は一段と風味を増し、山椒の香りが何とも良いのである。辛口の日本酒などが欲しくなる絶品なのだ。
関連する記憶の検索で前置きが長くなったが、道の駅で花山椒を購入した。佃煮を作ってみようと思ってしまったのである。そこでの商品は若芽がほとんど混じっていない、花だけの良質なものであったことも、動機づけを高めたと思う(ときどき、花山椒を売っているのを見るが若芽が混じっていないのは始めて見た気がした)。5パック買い求めた。
インターネットで作り方を調べると、どのサイトの調理法でも一様に醤油:酒:みりんが1:1:0.5とある。帰宅して、早速挑戦した。水洗いした山椒を醤油、酒、みりんで煮ること約20分。ボール一杯の山椒は小さめのおにぎり大になった。佃煮は量がしぼむもんだから仕方がないけどもう数パック買っておけば良かったかもと思いつつ、味見をする。なんと、塩辛いだけであった。慌てて水をくぐらせておにぎり大のものを食べることは食べたが、母親の作る花山椒の佃煮とは似ても似つかない形状と味であった。山椒の香りだけは少しはしましたけどね。失敗は醤油、酒、みりんの量について間違ったからである(後で考えれば、当たり前なのになぜ焦ったのだろう)。
「おふくろの味」というものは生きているうちに作り方を聞いておかねば後悔しますというのが教訓である。捲土重来を期するつもりではいるが、1年後の話になる。
先週の週末は仙台に孫娘を訪ねた。先月末の空港での見送りが、別れ際が中途半端であると逢いたさが余計に大きくなるという「ザイガルニック効果」を生んだのかも知れない。晴天の土曜日には八木山動物園に連れていったが、大人ほど楽しかったのかは不明である。ひと月見ない間に大きくなったような気がする孫は、逢ってしばらくするとすっかり打ち解けて、前の住人の子どもが残して行ったおもちゃを次々に自慢げに見せに来た(息子の友人である前の住人一家が留学したのを居抜きで安く借りているのです)。孫には恥ずかしいなどの複雑な感情の分化が見られ、順調に発達している兆候を確認できた。
ホテルに帰るときには気軽にバイバイしていた孫が、日曜日の午後空港に向かうべくバイバイというと、「バイバイ、いやだ」と叫んで別れるのを嫌がってくれた。何かの気配で翌日逢わないことを検知したのであろう。
これが「後ろ髪を引かれる思い」というものを初体験できたのであります。先月の伊丹でこの感情を味わいたかったのだと得心した次第。このように情けない気持ちや新規な情動を味わいながら4月は過ぎて行くのであります。
やり場のない思いはマネジメントせねばならないのだ
勤務先の大学では新学部を設置予定である。審査が未だなので学部名や内容は書けない。申請書は高さが20センチほどの量である。何度も文科省に事務相談に通い、指導を受けながら作成したものである。3月23日に文科省に設置関連書類を職員に持参してもらった。提出時間も3時と決まっており、十分に吟味し、万全を期したつもりであったので無事提出しましたとの連絡を待っていた。午後1時からの会議を3時過ぎに終えて部屋に戻ったとたんに、出張している事務職員から携帯に電話がかかった。緊張気味の電話で不備が2点見つかり、明日6時までに差し替え箇所を郵送する必要があるという。そうでないと、申請は受理されず、翌年回しになるのであった。思いもよらない電話ですっかり、うろたえてしまった。招聘する教員候補者の学位名が承諾書と別な記載箇所で不一致があるのと、学長の研究業績書の記載形式が違っているというのである。すぐに、携帯電話をするとその教員候補者が電話に出てくれた。6時頃に学位記を確認し正しいものを連絡してもらうこと、明日午前中に実印をもらいに行く段取りを決めた(6時頃の電話で正式の学位名が分かり、実印の要らない書類を直せばよいことがわかりこの仕事は不要となったのですが)。
僕は、携帯電話は基本的に部屋に置いて置く不携帯派なのだが、この日は会議が一つ終わり部屋に戻ったときに運良く事務職員からの電話が鳴ったのである。普段ならこのように上手く連絡がすぐ取れることはない。それと、電話をしたらすぐに教員候補者が出てくれたことも運が良かった。
僕の業績記載形式については、事務方で確認しなかったためだが学長は審査対象となる教員でないので仕方がない。文科省の事務官が学長の業績リストを受付時に詳細に見ることなど考えられないのだが、指摘を受けたのでその日のうちに修正しなければならないはめになった。文科省形式の教員業績の記載法が代わったことは昨年夏に知らされていた。自慢していると思われると心外なのであるが、業績は多いので昨年の夏から整理していた。英文の論文には日本語の要約に加えて、英文の要約を付けるという変更であった。英文論文のabstractをpdfにしたものからコピーする方法も駆使したが、古い論文はコピーが不鮮明なので手作業で入力した。昨年12月は正月休みを入れて膨大な時間を掛け、疲労困憊したのであった。英文のタイトルの邦訳を記載せよとは聞いていなかったが、不備というのは英文タイトルの邦訳が抜けているという指摘であった。すぐに、作業に取りかかりたいのだが、4時から大学評議会、その後入試の判定会議があり、気は焦るばかりであった。言うまでもなく、僕のせいで設置申請が1年延期させる訳には行かない。何としても当日中に作業をしなければならなかった。どれだけ時間が掛かるのか見当もつかない。翌日は卒業式なので、衣装が要るし、実印もいるので自宅に帰る必要はあるが徹夜になっても直すしかないので、何時に帰れるか分からないと自宅に電話して、業績ファイルから英文論文を選びタイトルに邦訳を付ける作業に6時頃から取りかかった。昼からずっと会議で十分疲労は感じていたが、かすむ目をこすり、こわばる肩や指先を駆使して最近では考えられないくらいに、吐き気と闘いながらがんばった。僕の作業を事務職員は終わるまで何時でも待つと言うのでともかく急いだ。業績審査をする専門家が英文論文名に邦訳が必要な訳はなく、何のためにこんなことをさせられるのか、やり場のない思いをなだめすかせて9時頃に作業を終えた。ノンストップで作業をしたので思いのほか早く終える事ができた。翌日数えたら173編に訳文を付けたのであった。ちなみに、英文論文の英文での要約はその後不要という連絡があったそうで、誰かしらないが事務官の意味のない思いつきに振り回されたのであった(あの膨大な作業と時間を返せ!と叫びたい)。
10時半頃に帰宅できたが、車中では文句を言う先も見つからないやり場のない腹立たしさと疲労感でいっぱいであった。大学に勤めるのも早く終わらねば、忙しいだけの人生になってしまうぞと電話をくれる合唱団の先輩の言葉が蘇るのであった。気持ちの高ぶりは収まらず、家内には一言も口をきかずに寝た(口を聞くと悪態をついたであろうが、古女房は気配を察知して近寄らない)。夜も良く眠れず、24日の卒業式の後は燃え尽き状態であった。
いくつかの幸運が重なって、何とか新学部設置の申請書は届ける事が叶ったのだから、未だ自分には付きが残っている、自分でも未だ集中力が残っているのだとポシティブ心理学風に考えるようにしなければなるまい、と言い聞かせようとしている。
28日は仙台に引っ越す次男一家を伊丹空港まで送り届けた。空港で孫と一緒に何かを食べるべく早めに自宅を出たのだが、中国道は事故渋滞で到着が遅れて計画は叶わなかった。飛行機には間に合ったので、自分には付きが残っていると考えようと自分に言い聞かせている。若い夫婦は新しい土地で始まる生活に夢中で(不安もあるのだろうが)、残される老夫婦のやり場のない思いにまでは気が回らない。自分も半世紀前には親にそういう思いをさせてきたのは間違いないのだから、このしばらくは続くであろうやり場のない思いを何とかマネジメントして生きて行かなければなるまい。
僕は、携帯電話は基本的に部屋に置いて置く不携帯派なのだが、この日は会議が一つ終わり部屋に戻ったときに運良く事務職員からの電話が鳴ったのである。普段ならこのように上手く連絡がすぐ取れることはない。それと、電話をしたらすぐに教員候補者が出てくれたことも運が良かった。
僕の業績記載形式については、事務方で確認しなかったためだが学長は審査対象となる教員でないので仕方がない。文科省の事務官が学長の業績リストを受付時に詳細に見ることなど考えられないのだが、指摘を受けたのでその日のうちに修正しなければならないはめになった。文科省形式の教員業績の記載法が代わったことは昨年夏に知らされていた。自慢していると思われると心外なのであるが、業績は多いので昨年の夏から整理していた。英文の論文には日本語の要約に加えて、英文の要約を付けるという変更であった。英文論文のabstractをpdfにしたものからコピーする方法も駆使したが、古い論文はコピーが不鮮明なので手作業で入力した。昨年12月は正月休みを入れて膨大な時間を掛け、疲労困憊したのであった。英文のタイトルの邦訳を記載せよとは聞いていなかったが、不備というのは英文タイトルの邦訳が抜けているという指摘であった。すぐに、作業に取りかかりたいのだが、4時から大学評議会、その後入試の判定会議があり、気は焦るばかりであった。言うまでもなく、僕のせいで設置申請が1年延期させる訳には行かない。何としても当日中に作業をしなければならなかった。どれだけ時間が掛かるのか見当もつかない。翌日は卒業式なので、衣装が要るし、実印もいるので自宅に帰る必要はあるが徹夜になっても直すしかないので、何時に帰れるか分からないと自宅に電話して、業績ファイルから英文論文を選びタイトルに邦訳を付ける作業に6時頃から取りかかった。昼からずっと会議で十分疲労は感じていたが、かすむ目をこすり、こわばる肩や指先を駆使して最近では考えられないくらいに、吐き気と闘いながらがんばった。僕の作業を事務職員は終わるまで何時でも待つと言うのでともかく急いだ。業績審査をする専門家が英文論文名に邦訳が必要な訳はなく、何のためにこんなことをさせられるのか、やり場のない思いをなだめすかせて9時頃に作業を終えた。ノンストップで作業をしたので思いのほか早く終える事ができた。翌日数えたら173編に訳文を付けたのであった。ちなみに、英文論文の英文での要約はその後不要という連絡があったそうで、誰かしらないが事務官の意味のない思いつきに振り回されたのであった(あの膨大な作業と時間を返せ!と叫びたい)。
10時半頃に帰宅できたが、車中では文句を言う先も見つからないやり場のない腹立たしさと疲労感でいっぱいであった。大学に勤めるのも早く終わらねば、忙しいだけの人生になってしまうぞと電話をくれる合唱団の先輩の言葉が蘇るのであった。気持ちの高ぶりは収まらず、家内には一言も口をきかずに寝た(口を聞くと悪態をついたであろうが、古女房は気配を察知して近寄らない)。夜も良く眠れず、24日の卒業式の後は燃え尽き状態であった。
いくつかの幸運が重なって、何とか新学部設置の申請書は届ける事が叶ったのだから、未だ自分には付きが残っている、自分でも未だ集中力が残っているのだとポシティブ心理学風に考えるようにしなければなるまい、と言い聞かせようとしている。
28日は仙台に引っ越す次男一家を伊丹空港まで送り届けた。空港で孫と一緒に何かを食べるべく早めに自宅を出たのだが、中国道は事故渋滞で到着が遅れて計画は叶わなかった。飛行機には間に合ったので、自分には付きが残っていると考えようと自分に言い聞かせている。若い夫婦は新しい土地で始まる生活に夢中で(不安もあるのだろうが)、残される老夫婦のやり場のない思いにまでは気が回らない。自分も半世紀前には親にそういう思いをさせてきたのは間違いないのだから、このしばらくは続くであろうやり場のない思いを何とかマネジメントして生きて行かなければなるまい。
27回忌・50回忌で考えた
2月21日(土)は早朝から法事にでかけた。実家がある長浜近くになると山のそこかしこや道端に雪が残っており、懐かしさを覚える見慣れた光景である。当日、出席を乞われた大学での行事はあったが、半年前から日程を確認されていたこともあり行事への参加は理事長に替わってもらった。
実家のある地域では、法事は共同体の重要な行事で欠席は基本的には許されない。とりわけ、母親の法要に息子が参加しないことは大事になる(おそらく兄は困ることになるはず)。50回忌は祖母のもので合同での法事であった。50回忌まで法要を催すことは宗教意識の強いこの地域の特徴で、長く家を存続させることができた証でもあるので当主や嫁にとっては誇らしいお祝い事でもある。
法事の連絡には法名しか書いていないので誰の法事かと、のんきに構えていたが母親の27回忌法要であった。参加してよかったと安堵したことある。50歳代からパ-キンソン病にかかり72歳で亡くなった母親は、子どもとして何の不足もない、控えめな優しい人であった。難病を受け入れつつ生きた晩年を思い出すと辛く、今でも涙がでてしまう。母親の法事を失念していたとは、まったく「反省!」しかありませぬ。ただ、言い訳がましいが、最近では3回忌、7回忌、13回忌程度までしか聞くことがない。27回忌という法要があることを知らなかった。各左様に、家内や息子たちが「実家の辺りでは江戸時代が続いている」と揶揄するほどに、古い地域での共同体での窮屈さにはなかなか手強いものがあります。
しかし、共同体の窮屈さにもネガティブなものばかりではないようにも思っている。何事にも良いことと有り難くないことは表裏にある。
戦後20年ほど経過すると日本社会は物質的な豊かさをもっぱら追求し「経済は奇跡的に発展したが、倫理観を変容させてしまった。共同体が持つ構成員への目配り意識や弱いものへの思いやりといった倫理感を薄れさせた。窮屈な共同体の中で自分を抑えることを忌避し、欲望を好きなだけ追求することを目指したように思う。その結果、今日の社会では、人は子どもの部分(欲望追求、自己中心性、他罰性など)を残したまま年を重ねているのではないかと考えることがある。
共同体意識がそれほど弱体化していない実家の周辺では、面倒でも親戚縁者の法事参加は優先事項なのである。古い日本が残る地域のエピソードを書き続けると切りがないのでこれくらいで止めにしょう。ともかく7時頃に家を出て、9時半から2人のお坊さんの経を12時15分まで聞いた。故人一人ずつ3つの経を読んでくれるので、正座をしていなくても同じ姿勢のため腰の筋肉はこわばり、電車での影響も加わって下半身への影響は甚大であった(翌朝のスイミングで何とか大事にはいたらなかったけど)。
法事に向かう電車の中で読んだ雑誌に、お寺の経営についての記事を見つけ、法事=お寺という連想が活性したので、足下が寒いのを我慢しつつ記事を読んでいくと、大学と状況は類似していると感じたことである。日本には約8万のお寺があり、コンビニよりも5割以上も多いという。現在の檀家制度は江戸時代の国策(キリシタンでないことを証明させる制度)で民衆はいずれかの寺院を菩提寺にせねばならなかったが、国策ゆえの強制であり、信仰心に由来していない結びつきなので、先祖供養の衰退の潮流が止まることを知らず,寺院で年収1000万以上は3割未満という。寺院の維持管理にはお金が掛かるので住職の給与にまわる分は多くはないことが推察できる。著名な大規模寺院は経済的にも潤うが,6割以上の住職は兼業せざるをえないのが昨今の状況であると記載されていた。
この経済的な豊かさの割合は私立大学の状況と酷似しているではないか。3割ほどの大規模有名大学は経済的に潤っているが、大多数の大学では存続する方策を模索し必死である。この記事の著者らは「未来の住職塾」の提唱者で、これからのお寺に求められる必須条件を3つ上げている。この内容は「未来の私立大学」に必須の条件と言っても良く、示唆的なので紹介しよう。読者層が大学で碌を得ている人が多いのではないかと勝手に思っているためである。
第1はお寺の魅力は、住職・僧侶の人柄にあるという。僧侶の人柄に相手を包み込むものを求めている。「誰が法話をするかで,有り難さが規定される」という。2つ目は、檀家が何に価値を感じ,求めているかを知ることが大切であるという。3つ目はお寺が社会に存続する意義を明確にする、使命を明らかにすることとしている。私立大学にこの3点を置き換えると、第1は教職員の人柄で、檀家に相応する学生が「得もいわれぬ人柄の良さと相手を包み込む人柄」を持つと思ってくれるかということになろう。教職員の人格陶冶の重要性ということであろう。第2は学生、保護者が何を求めているかを知ることとなろう。何を目指しているのかを明確化し、その実現にしっかり関わることが重要ということになろう。3つ目は、私立大学は社会の存在する意義を明確にすることで、何のために存在し、どのような価値を社会に提供するのかの使命の明確な自覚ということになろう。
日本のお寺は数百年の歴史の間に消滅したところも耐えて存続して来たものもある。生き残って来た寺院は常に社会の環境変化に適合する努力をしたのである。私が所属する規模の私立大学が存続できるかは社会環境の変化に如何に上手に適合していくかにかかっているのだ。冷静に考え,方向性を常時調整しながら、熱く取り組むことがしなやかにしたかに生きつづけることの要諦だと考えた次第。
母親の法事のついでに大学運営のことを考えるようになっているとは.....。こんなので良いのかしらと考えつつも、元気な従兄弟たちとの杯のやり取りで味わえた非日常の心地よさを反芻しているのであります。
実家のある地域では、法事は共同体の重要な行事で欠席は基本的には許されない。とりわけ、母親の法要に息子が参加しないことは大事になる(おそらく兄は困ることになるはず)。50回忌は祖母のもので合同での法事であった。50回忌まで法要を催すことは宗教意識の強いこの地域の特徴で、長く家を存続させることができた証でもあるので当主や嫁にとっては誇らしいお祝い事でもある。
法事の連絡には法名しか書いていないので誰の法事かと、のんきに構えていたが母親の27回忌法要であった。参加してよかったと安堵したことある。50歳代からパ-キンソン病にかかり72歳で亡くなった母親は、子どもとして何の不足もない、控えめな優しい人であった。難病を受け入れつつ生きた晩年を思い出すと辛く、今でも涙がでてしまう。母親の法事を失念していたとは、まったく「反省!」しかありませぬ。ただ、言い訳がましいが、最近では3回忌、7回忌、13回忌程度までしか聞くことがない。27回忌という法要があることを知らなかった。各左様に、家内や息子たちが「実家の辺りでは江戸時代が続いている」と揶揄するほどに、古い地域での共同体での窮屈さにはなかなか手強いものがあります。
しかし、共同体の窮屈さにもネガティブなものばかりではないようにも思っている。何事にも良いことと有り難くないことは表裏にある。
戦後20年ほど経過すると日本社会は物質的な豊かさをもっぱら追求し「経済は奇跡的に発展したが、倫理観を変容させてしまった。共同体が持つ構成員への目配り意識や弱いものへの思いやりといった倫理感を薄れさせた。窮屈な共同体の中で自分を抑えることを忌避し、欲望を好きなだけ追求することを目指したように思う。その結果、今日の社会では、人は子どもの部分(欲望追求、自己中心性、他罰性など)を残したまま年を重ねているのではないかと考えることがある。
共同体意識がそれほど弱体化していない実家の周辺では、面倒でも親戚縁者の法事参加は優先事項なのである。古い日本が残る地域のエピソードを書き続けると切りがないのでこれくらいで止めにしょう。ともかく7時頃に家を出て、9時半から2人のお坊さんの経を12時15分まで聞いた。故人一人ずつ3つの経を読んでくれるので、正座をしていなくても同じ姿勢のため腰の筋肉はこわばり、電車での影響も加わって下半身への影響は甚大であった(翌朝のスイミングで何とか大事にはいたらなかったけど)。
法事に向かう電車の中で読んだ雑誌に、お寺の経営についての記事を見つけ、法事=お寺という連想が活性したので、足下が寒いのを我慢しつつ記事を読んでいくと、大学と状況は類似していると感じたことである。日本には約8万のお寺があり、コンビニよりも5割以上も多いという。現在の檀家制度は江戸時代の国策(キリシタンでないことを証明させる制度)で民衆はいずれかの寺院を菩提寺にせねばならなかったが、国策ゆえの強制であり、信仰心に由来していない結びつきなので、先祖供養の衰退の潮流が止まることを知らず,寺院で年収1000万以上は3割未満という。寺院の維持管理にはお金が掛かるので住職の給与にまわる分は多くはないことが推察できる。著名な大規模寺院は経済的にも潤うが,6割以上の住職は兼業せざるをえないのが昨今の状況であると記載されていた。
この経済的な豊かさの割合は私立大学の状況と酷似しているではないか。3割ほどの大規模有名大学は経済的に潤っているが、大多数の大学では存続する方策を模索し必死である。この記事の著者らは「未来の住職塾」の提唱者で、これからのお寺に求められる必須条件を3つ上げている。この内容は「未来の私立大学」に必須の条件と言っても良く、示唆的なので紹介しよう。読者層が大学で碌を得ている人が多いのではないかと勝手に思っているためである。
第1はお寺の魅力は、住職・僧侶の人柄にあるという。僧侶の人柄に相手を包み込むものを求めている。「誰が法話をするかで,有り難さが規定される」という。2つ目は、檀家が何に価値を感じ,求めているかを知ることが大切であるという。3つ目はお寺が社会に存続する意義を明確にする、使命を明らかにすることとしている。私立大学にこの3点を置き換えると、第1は教職員の人柄で、檀家に相応する学生が「得もいわれぬ人柄の良さと相手を包み込む人柄」を持つと思ってくれるかということになろう。教職員の人格陶冶の重要性ということであろう。第2は学生、保護者が何を求めているかを知ることとなろう。何を目指しているのかを明確化し、その実現にしっかり関わることが重要ということになろう。3つ目は、私立大学は社会の存在する意義を明確にすることで、何のために存在し、どのような価値を社会に提供するのかの使命の明確な自覚ということになろう。
日本のお寺は数百年の歴史の間に消滅したところも耐えて存続して来たものもある。生き残って来た寺院は常に社会の環境変化に適合する努力をしたのである。私が所属する規模の私立大学が存続できるかは社会環境の変化に如何に上手に適合していくかにかかっているのだ。冷静に考え,方向性を常時調整しながら、熱く取り組むことがしなやかにしたかに生きつづけることの要諦だと考えた次第。
母親の法事のついでに大学運営のことを考えるようになっているとは.....。こんなので良いのかしらと考えつつも、元気な従兄弟たちとの杯のやり取りで味わえた非日常の心地よさを反芻しているのであります。
評伝「吉田健一」を読んで考えた
年末24日に文科省相談に出かけるなどぎりぎりまで忙しかったが1週間程の正月休みはとれた。この休みの間に新たな論文に着手すべきじゃないかという気持ちは一日に数回はあぶくのように浮かんではいた。しかし、ちゃんとした本を読むことから遠ざかっているという気持ちもどこかにあり、この飢餓感の方がまさったのか、「吉田健一」を読んだ。新聞の書評で評価が高かったので衝動的にアマゾンに注文してしまった本である(愛用しているキンドルで池波正太郎や藤沢周平の作品の電子版を毎晩睡眠薬代わりには読んでいるのですが、寝ながら読むのはいかんなあという文学小説のたぐいはご無沙汰しているのです。ちなみに睡眠薬代わりの二人とも吉田健一の書評で世に出たらしい)。
編集者として彼の晩年に付き合いのあった長谷川郁夫という人の評伝である。3日から読み始めセンター入試の日に読み終えた。久しぶりに5時前に起きてまで読みたくなったのだから著者の腕はたいしたものだと思う。すでに37年も前になくなっている文学者の評伝が出版されることは珍しい。若い頃に読んでいた吉田健一の名前が懐かしく書評に眼がいったのである。
僕が好んで手にしていたのは吉田健一の随筆で、とにかく一文が長い。句読点がないのが特徴で、息を吸い込んで読まないと読みづらいのだが、長い文を読むと、きらびやかな、とくに光や色彩が浮かび上がるのが気に入っていた。とくに酒の話を書くのが上手であった(評伝では、吉田健一は日本語表記での句読点に悩み、源氏物語には句読点はないとの結論に至ったために一文が長いのだそうです。この本でも山形の酒「くどき上手」と新潟の「今代司」を激賞していたらしいので、僕の好みと同じだと喜んだりした。後者はまだ味わっていませんが)。
この評論は2段組みで650頁もある大分なもので、定価は税別5000円するが、推薦したい本である。内容は今ではなくなった印象がある「文壇」史の形をなしている。僕が読書をするのは大学生の頃からで、実際に読んだ本や未読だが名前は知っている作家との付き合いが、吉田健一を軸にして展開される構成になっていて懐古情緒を活性してくれた(育った田舎には本屋は自転車で30分の高校の所在地に書店が1軒あるのみでしたので、本は読まなかった(読めなかった)子どもでした)。
約50年前の大学生の頃は、演劇や音楽を聴きに頻繁に行けるような金銭的に豊かでもなく、そういう学生も周りにはいなかったので、時間をつぶすのは、もっぱら読書しかなかった。もちろん、カラオケやインターネットでサーフィンをなどという時間の使い方はなかったので、僕だけが文学に興味を持って、読書家という訳ではなく、ごく標準的な学生であった。それでも学生は読書するものという時代の社会環境であったので、普通の学生であった僕も「世界」、「展望」、「中央公論」、「現代の眼」などの総合雑誌を含め活字には親しんだ。
若い読者には、この評伝で展開される河上徹太郎、福田恒存、中村光夫、大岡昇平,三島由紀夫などと文壇史を紹介しても親近性はないと思うので取り上げないが、文学作品ではなく吉田健一という人間について知らなかった事柄も記載されていて、酒や食べ物に関する随筆だけに着目すべきではないとを恥じたので、そのことを記しておきたい。
外交官であった吉田茂の長男であり、明治の元勲牧野伸顕(2・26事件で暗殺対象になりながらも箱根にいて難を逃れた人)にかわいがられた孫であることなどは知っていた。金持ちの御曹司で英国留学を途中で切り上げ、うまい酒を探し美食三昧で暮らしたのだろうと勝手に想像していたが、骨のある人であったことをこの評伝を読んで知った。牧野伸顕も吉田茂も頑固な自立した精神の人であることも知ることができた。
われわれの対人認知(他人についての捉え方や思い込み)というものはいい加減なものであると改めて考えさせられた(反省!)。吉田茂は戦争前に陸軍に睨まれ、拘束されたこともあるということである。健一は終戦前の半年程海軍に徴用されたらしいが、戦後も数年間は金がなくてその頃の服装で過ごしたという(吉田茂の息子なので厳しく対応すべしという陸軍からの指示があり、そのために海軍は逆の待遇をしたという。仲間割れ状態の日本が戦争に勝てなかったはずである)。戦後すぐに父親は首相になっていたが、父親からの援助に頼らず、父親も援助はしなかったらしい。親子の間が疎遠であったということではないので、自立した親と息子の関係であったということなのだろう。牧野伸顕も戦後は表舞台に出ることをせず、清貧の生活であったらしい。
まだまだ紹介したいことはあるが、長くなってきたので一つだけにしたい。
吉田健一は外交官であった茂の長男であったので、英語や仏語がいわば母語であった。ケンブリッジから20歳頃に帰国してから日本語を学び直し、物書きを目指した人である。死後37年も経って独自の文学世界を日本語で構築したことを評価されているわけなので、それまでに至る努力は想像を超えるものがあったはずである。
この過程で彼が獲得したものの一つに、「もしそれが自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるということならばそういうものに碌なものはない」という信念があったと引用があった。つまり受け身で獲得した情報は身に付かず、自ら能動的に獲得しないと有益なものは得られないということである。僕が「Be imitative」と言っていることと同義ではないだろうかと我田引水したい。
そろそろ、卒業式の式辞を準備する時期であり、「つかえるかも」とほくそ笑んだことでありました。評伝にでてきた沢山の未読本を、研究者を辞めたら読みたいのでもう少し元気でいなければならないと考えたのであります(「患者の話に耳を傾けるようになれた頃、医者は耳が遠くなっているという」、マーフィの法則風の、「本を読める余裕ができる頃には、視力も気力も衰えてしまっている」という囁きも聞こえますけど)。
編集者として彼の晩年に付き合いのあった長谷川郁夫という人の評伝である。3日から読み始めセンター入試の日に読み終えた。久しぶりに5時前に起きてまで読みたくなったのだから著者の腕はたいしたものだと思う。すでに37年も前になくなっている文学者の評伝が出版されることは珍しい。若い頃に読んでいた吉田健一の名前が懐かしく書評に眼がいったのである。
僕が好んで手にしていたのは吉田健一の随筆で、とにかく一文が長い。句読点がないのが特徴で、息を吸い込んで読まないと読みづらいのだが、長い文を読むと、きらびやかな、とくに光や色彩が浮かび上がるのが気に入っていた。とくに酒の話を書くのが上手であった(評伝では、吉田健一は日本語表記での句読点に悩み、源氏物語には句読点はないとの結論に至ったために一文が長いのだそうです。この本でも山形の酒「くどき上手」と新潟の「今代司」を激賞していたらしいので、僕の好みと同じだと喜んだりした。後者はまだ味わっていませんが)。
この評論は2段組みで650頁もある大分なもので、定価は税別5000円するが、推薦したい本である。内容は今ではなくなった印象がある「文壇」史の形をなしている。僕が読書をするのは大学生の頃からで、実際に読んだ本や未読だが名前は知っている作家との付き合いが、吉田健一を軸にして展開される構成になっていて懐古情緒を活性してくれた(育った田舎には本屋は自転車で30分の高校の所在地に書店が1軒あるのみでしたので、本は読まなかった(読めなかった)子どもでした)。
約50年前の大学生の頃は、演劇や音楽を聴きに頻繁に行けるような金銭的に豊かでもなく、そういう学生も周りにはいなかったので、時間をつぶすのは、もっぱら読書しかなかった。もちろん、カラオケやインターネットでサーフィンをなどという時間の使い方はなかったので、僕だけが文学に興味を持って、読書家という訳ではなく、ごく標準的な学生であった。それでも学生は読書するものという時代の社会環境であったので、普通の学生であった僕も「世界」、「展望」、「中央公論」、「現代の眼」などの総合雑誌を含め活字には親しんだ。
若い読者には、この評伝で展開される河上徹太郎、福田恒存、中村光夫、大岡昇平,三島由紀夫などと文壇史を紹介しても親近性はないと思うので取り上げないが、文学作品ではなく吉田健一という人間について知らなかった事柄も記載されていて、酒や食べ物に関する随筆だけに着目すべきではないとを恥じたので、そのことを記しておきたい。
外交官であった吉田茂の長男であり、明治の元勲牧野伸顕(2・26事件で暗殺対象になりながらも箱根にいて難を逃れた人)にかわいがられた孫であることなどは知っていた。金持ちの御曹司で英国留学を途中で切り上げ、うまい酒を探し美食三昧で暮らしたのだろうと勝手に想像していたが、骨のある人であったことをこの評伝を読んで知った。牧野伸顕も吉田茂も頑固な自立した精神の人であることも知ることができた。
われわれの対人認知(他人についての捉え方や思い込み)というものはいい加減なものであると改めて考えさせられた(反省!)。吉田茂は戦争前に陸軍に睨まれ、拘束されたこともあるということである。健一は終戦前の半年程海軍に徴用されたらしいが、戦後も数年間は金がなくてその頃の服装で過ごしたという(吉田茂の息子なので厳しく対応すべしという陸軍からの指示があり、そのために海軍は逆の待遇をしたという。仲間割れ状態の日本が戦争に勝てなかったはずである)。戦後すぐに父親は首相になっていたが、父親からの援助に頼らず、父親も援助はしなかったらしい。親子の間が疎遠であったということではないので、自立した親と息子の関係であったということなのだろう。牧野伸顕も戦後は表舞台に出ることをせず、清貧の生活であったらしい。
まだまだ紹介したいことはあるが、長くなってきたので一つだけにしたい。
吉田健一は外交官であった茂の長男であったので、英語や仏語がいわば母語であった。ケンブリッジから20歳頃に帰国してから日本語を学び直し、物書きを目指した人である。死後37年も経って独自の文学世界を日本語で構築したことを評価されているわけなので、それまでに至る努力は想像を超えるものがあったはずである。
この過程で彼が獲得したものの一つに、「もしそれが自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるということならばそういうものに碌なものはない」という信念があったと引用があった。つまり受け身で獲得した情報は身に付かず、自ら能動的に獲得しないと有益なものは得られないということである。僕が「Be imitative」と言っていることと同義ではないだろうかと我田引水したい。
そろそろ、卒業式の式辞を準備する時期であり、「つかえるかも」とほくそ笑んだことでありました。評伝にでてきた沢山の未読本を、研究者を辞めたら読みたいのでもう少し元気でいなければならないと考えたのであります(「患者の話に耳を傾けるようになれた頃、医者は耳が遠くなっているという」、マーフィの法則風の、「本を読める余裕ができる頃には、視力も気力も衰えてしまっている」という囁きも聞こえますけど)。
忘念会
表題は変換ミスではありません。今のところ、記憶障害の症状はないと自己診断するのですが、学科の忘年会を失念したことを表したのです。幹事さんから3日ほど前にすれ違ったときに出席の確認をされ、「勿論出ますよ」と威勢よく言っていたのにもかかわらず、なのです。学部設置申請事務の打合せが長引き、疲労感いっぱいの状態で自動車道を帰路についている途中で電話がなり、地道に入って信号待ちで電話をかけ直すと「向かっている途中ですか?」という回答です。「そのときは一瞬理解できなかった文脈が、しばらくしてやっと忘年会だったのだ」と判明した次第です。完全に失念していたのです。前日に柏原市の主催する催しに出るように学園本部からの要請があり、“公用車で5時半出発”ばかりが作業記憶を占有していたのでしょう。3時すぎから始めた事務作業が長引いて、学園本部へは断りの電話をしたのだけれども、忘年会の件は全く念頭になかったのです。学科忘年会をiPadの予定表に記載し忘れたのが失念の原因ですが、外部記憶に頼りすぎている生活に反省!であります。自分自身の記憶関連脳部位も使わないと廃要性障害を起こすということなのでしょう。
記憶障害つながりで紹介すると、Mac Book PCが壊れました。突然、検索すべき文字やメールの文字が入力できなくなってしまったのです。文字を打ち込もうとすると、画面がスクロールして、「ダメよ、ダメダメ」風に元の画面になってしまいます。専門家に見てもらったのですが、平成19年に購入したものだとわかると、OSがもう古すぎて、自動更新されるアプリケーションの操作に対応できなくなっています、と言われてしまいました。リチウム電池は膨張してしまっており、発火する恐れがあるので、廃棄を勧められる始末です。仕方がないと電池を外して、外部電源だけで起動させてみました。試行錯誤しているうちに、検索もメールも英数文字での入力は問題なく作動することが判明、カナ入力では相変わらず「ダメよ、ダメダメ」状態なのです。何がなんだか良くわからないのですが、今しばらく、廃棄を延ばそうと思っています。
PCは7年でもう古くなり、対応できなくなってしまったのです。ちょっと早すぎます。自動更新されて行く仕組みなのでしょうが、ワープロ機能に連文節変換ができるようになったことに感激してきた者にとって、動画やゲーム機能への対応など不要です。PCの所有主の僕がアプリケーションのバージョンアップをお願いしたことはなく、許可なく個人の所有物を破損したわけで、このことは犯罪と断定されても良さそうなものです。誰かこの種の訴訟をしているのなら応援したいものです。IC業界のビジネスモデルでは、常識なのかも知れませんが、「何々ができます」と宣伝し販売した商品が、販売元の都合で「何々ができなくなった」のです。「その商品を捨ててしまって、新しいものに買い替えて下さい」という理屈は他の業界では通用しないのではありますまいか。「リッタ-20キロ走りますと宣伝して販売した自動車を、製造会社の都合で50キロ走る新車に乗り換えよ、買い替えよ」という理屈が成り立つことは不思議に思えるのです。「責任者は誰だ、出てこい!」と言いたくなるわけです。
という具合にもう今年も残すところ1週間あまりとなったのにポジティブな気持ちに成れずに終わりそうであります。振り返れば、大学での仕事は再編構想の作業に追われ、瞬く間に時間が過ぎ去って行くという感慨だけが残ります。再編の作業でも、年末の総選挙でも、人は自分の身辺近くまでことが及ぶまで、雰囲気と言うか風任せで、考えたくないことは考えないようにする生物であることを確認することでありました。
また、高倉健が死に、「自律した人間として終わる」ことを考えさせられもしました。学生時代に、賄い付き3畳一間の下宿と銭湯との途中にあった3本立て専門の「阪南松竹」で観た若い日の「昭和残侠伝シリーズ」での着流し姿の彼が、自律した老俳優として死を惜しまれる過程に思いを馳せると、自分も大学に職を得て仕事に就くことが叶ったときの思いを持続させられているのかしらと思うのです。学務にかまけて研究することを放置していないか、研究を自らの知識量の加算に留めず外部に発信し続けているか、問われていることを忘れないようにせねばならない、という具合に、気持ちがポジティブになるようなことはあまり思い浮かばないのです。ただ、3日前に遊びに来た孫娘に「ジージ、ドージョ」と始めて呼ばれ、ウイスキーのグラスに氷を入れてもらったことだけは例外であり、記念すべき時間でありました。ということですから、老年性のうつ症状が出現しているというわけではないと思います。
もっとも。彼女の父親が1歳10ヶ月の頃に何を話していたのか、思い出そうとしても検索できず、自分の記憶機能も確実に劣化しつつあるという主張は、「STAP細胞はあります!」と言い張った割烹着姿の女子の主張よりも確かです。
自分だけでなくこのブログの読者の皆さんにも、ポジティブになれる正月休みが来ることを待ち望んでおります。
記憶障害つながりで紹介すると、Mac Book PCが壊れました。突然、検索すべき文字やメールの文字が入力できなくなってしまったのです。文字を打ち込もうとすると、画面がスクロールして、「ダメよ、ダメダメ」風に元の画面になってしまいます。専門家に見てもらったのですが、平成19年に購入したものだとわかると、OSがもう古すぎて、自動更新されるアプリケーションの操作に対応できなくなっています、と言われてしまいました。リチウム電池は膨張してしまっており、発火する恐れがあるので、廃棄を勧められる始末です。仕方がないと電池を外して、外部電源だけで起動させてみました。試行錯誤しているうちに、検索もメールも英数文字での入力は問題なく作動することが判明、カナ入力では相変わらず「ダメよ、ダメダメ」状態なのです。何がなんだか良くわからないのですが、今しばらく、廃棄を延ばそうと思っています。
PCは7年でもう古くなり、対応できなくなってしまったのです。ちょっと早すぎます。自動更新されて行く仕組みなのでしょうが、ワープロ機能に連文節変換ができるようになったことに感激してきた者にとって、動画やゲーム機能への対応など不要です。PCの所有主の僕がアプリケーションのバージョンアップをお願いしたことはなく、許可なく個人の所有物を破損したわけで、このことは犯罪と断定されても良さそうなものです。誰かこの種の訴訟をしているのなら応援したいものです。IC業界のビジネスモデルでは、常識なのかも知れませんが、「何々ができます」と宣伝し販売した商品が、販売元の都合で「何々ができなくなった」のです。「その商品を捨ててしまって、新しいものに買い替えて下さい」という理屈は他の業界では通用しないのではありますまいか。「リッタ-20キロ走りますと宣伝して販売した自動車を、製造会社の都合で50キロ走る新車に乗り換えよ、買い替えよ」という理屈が成り立つことは不思議に思えるのです。「責任者は誰だ、出てこい!」と言いたくなるわけです。
という具合にもう今年も残すところ1週間あまりとなったのにポジティブな気持ちに成れずに終わりそうであります。振り返れば、大学での仕事は再編構想の作業に追われ、瞬く間に時間が過ぎ去って行くという感慨だけが残ります。再編の作業でも、年末の総選挙でも、人は自分の身辺近くまでことが及ぶまで、雰囲気と言うか風任せで、考えたくないことは考えないようにする生物であることを確認することでありました。
また、高倉健が死に、「自律した人間として終わる」ことを考えさせられもしました。学生時代に、賄い付き3畳一間の下宿と銭湯との途中にあった3本立て専門の「阪南松竹」で観た若い日の「昭和残侠伝シリーズ」での着流し姿の彼が、自律した老俳優として死を惜しまれる過程に思いを馳せると、自分も大学に職を得て仕事に就くことが叶ったときの思いを持続させられているのかしらと思うのです。学務にかまけて研究することを放置していないか、研究を自らの知識量の加算に留めず外部に発信し続けているか、問われていることを忘れないようにせねばならない、という具合に、気持ちがポジティブになるようなことはあまり思い浮かばないのです。ただ、3日前に遊びに来た孫娘に「ジージ、ドージョ」と始めて呼ばれ、ウイスキーのグラスに氷を入れてもらったことだけは例外であり、記念すべき時間でありました。ということですから、老年性のうつ症状が出現しているというわけではないと思います。
もっとも。彼女の父親が1歳10ヶ月の頃に何を話していたのか、思い出そうとしても検索できず、自分の記憶機能も確実に劣化しつつあるという主張は、「STAP細胞はあります!」と言い張った割烹着姿の女子の主張よりも確かです。
自分だけでなくこのブログの読者の皆さんにも、ポジティブになれる正月休みが来ることを待ち望んでおります。
秋葉先生を偲ぶ
14日の夕刻、知人から電話で大阪健康福祉短大の秋葉英則学長が亡くなり家族葬があったと知らせてきた。喪服姿が大勢駆けつけられるのは困ると言うことらしく(彼は2年ほど前に自宅を引き払い夫婦で介護付き老人ホームに移住した)、短大の元教員であった知人でも葬儀には出られなかったらしい。地区民がお寺に参集し大勢が故人を見送る儀式を経験して育ったので、何か寂しい気がする。葬式に大勢の客が来て煩わしいというだけが理由であるならば、残ったものの身勝手と言えなくもなかろう。もっとも、葬式は残されたもののための儀式という側面もあるので、ことは単純ではない。秋葉さんは著名人だったので、そのうち偲ぶ会のような別の催しが企画されるだろう。
自分の場合は、身近なもので簡単に葬式をすませて、後日大勢を集めて別れの機会を持つのが望ましいように思う。この世から去ったことを確認してもらう機会は必要と思うからである。大勢に集まってもらい、僕が好んだピート臭の効いたスコッチ、山形の日本酒などを振る舞って、アルコールの力を借りて悪口や迷惑をかけられたなどと歓談してもらうのがよかろう。ただ、振る舞い酒をするには、大勢に参集されると今の貯金では心もとないので、もう少し生きるつもりである。しかし、更に年を取ると参集する人は少なくなるはずなので費用は掛からない、などと思案するとなかなか単純ではない。
秋葉先生は秋葉さんという方が一般的な、明朗で堅苦しさのない人であった。大阪教育大の心理学教室で、青年心理学が専門の先輩教員である。組合の委員長を若いときからされており、僕も一時支部長をさせられた。目をかけているという表現が適切な扱いをしてくれた人である。
彼の訃報に接して蘇るのは40年ほど前の心理学教室の姿である。教員は16名ほどの大規模な教室で博士課程の途中で助手として赴任した僕のキャリアの原点である。秋葉さんに連想して蘇るのは学閥という単語で、もう死語になっているように思える。学閥とは出身大学の人間に特別な配慮をすることで、旧師範学校から大学に格上げになった教育大学では東京高等師範(旧東京教育大、いまの筑波大)と旧広島高等師範(今の広島大)の出身者が新しい教員を採用する際につばぜり合いをする慣習が残っていた。しかし、大きな所帯の教室であったせいか2つの、すき間を縫ってその他の大学出身教員も増えつつあった。僕が着任した頃は大学紛争の直後という時代でもあり、民主的な運営の象徴として教員を公募するという仕組みが採用されていた。新規の採用人事があると、2つの学閥がうごめき、自派に引き入れよう勧誘されたものである(たとえば、リーダーの自宅に招待されるとか)。
秋葉さんは福島生まれの東北大出身で当時珍しく博士号を取得していた。東大卒の教授と秋葉さんが公募人事の仕組みを進めたと聞いている。そのためか、秋葉さん以降の人事は、採用順に東京都立大、東京教育大、大阪市立大、名古屋大、広島大、東北大、名古屋大、京大出身とさまざまな大学院から教員が着任し、少なくとも心理学教室での学閥は消滅した。考えようによっては僕が採用されたのも秋葉さんらの学閥廃止の動きの賜物で恩人ということになるかも知れない。若手は秋葉さんに倣い博士号の取得を競って目指すようになった(3名はのちに旧帝大に移籍することになり、研究者養成に専念できることになる)ことも大きい。これは教育大学という多様な必修科目を沢山担当し、教育実習にも時間を多く割かれる状況下であっても若者は競って研究活動をしたためであり、秋葉さんの存在が生み出した文化なのだろう。
秋葉さんは講演が上手な人であった。僕の子どもが通う小学校にも滋賀の実家の近くの保育園でも彼は講演に呼ばれていた。「子育てにロマンを」、「育ち合いの子育て」などの分かり易い表現が得意な人で引っ張り凧という状況もあった。「自分に子どもがいないので好きなように言えるよなあ」、と若手は僻んだものだが、語尾をリフレインして強調するなど、講演を聴いた人はその表現力の豊かさに圧倒されるということであった。
秋葉さんには3年ほど前に鶴橋駅でばったり出会った。僕が環状線の電車から降りるとき目の前にいて、「オオ、はったクン」と薬のためやや浮腫んだ顔立ちで、いきなり抱きついて来た。関西人はクンの語尾を下げるが、秋葉さんはフラットか上げ気味の独特の韻律なのである。「関西に帰ってきたんやて、じゃまたな」と周りにはばかるような大きい元気な声を残して電車に乗り込んで行った姿が最後となった。積もる話を来月の先輩の叙勲祝いの会合でという願いは叶わなくなった。年を取るということは、寂しさをくぐり抜けて行くことなのだろう、と生臭い大学での管理運営の時間の流れの狭間でもがきつつ、感じているのであります。
自分の場合は、身近なもので簡単に葬式をすませて、後日大勢を集めて別れの機会を持つのが望ましいように思う。この世から去ったことを確認してもらう機会は必要と思うからである。大勢に集まってもらい、僕が好んだピート臭の効いたスコッチ、山形の日本酒などを振る舞って、アルコールの力を借りて悪口や迷惑をかけられたなどと歓談してもらうのがよかろう。ただ、振る舞い酒をするには、大勢に参集されると今の貯金では心もとないので、もう少し生きるつもりである。しかし、更に年を取ると参集する人は少なくなるはずなので費用は掛からない、などと思案するとなかなか単純ではない。
秋葉先生は秋葉さんという方が一般的な、明朗で堅苦しさのない人であった。大阪教育大の心理学教室で、青年心理学が専門の先輩教員である。組合の委員長を若いときからされており、僕も一時支部長をさせられた。目をかけているという表現が適切な扱いをしてくれた人である。
彼の訃報に接して蘇るのは40年ほど前の心理学教室の姿である。教員は16名ほどの大規模な教室で博士課程の途中で助手として赴任した僕のキャリアの原点である。秋葉さんに連想して蘇るのは学閥という単語で、もう死語になっているように思える。学閥とは出身大学の人間に特別な配慮をすることで、旧師範学校から大学に格上げになった教育大学では東京高等師範(旧東京教育大、いまの筑波大)と旧広島高等師範(今の広島大)の出身者が新しい教員を採用する際につばぜり合いをする慣習が残っていた。しかし、大きな所帯の教室であったせいか2つの、すき間を縫ってその他の大学出身教員も増えつつあった。僕が着任した頃は大学紛争の直後という時代でもあり、民主的な運営の象徴として教員を公募するという仕組みが採用されていた。新規の採用人事があると、2つの学閥がうごめき、自派に引き入れよう勧誘されたものである(たとえば、リーダーの自宅に招待されるとか)。
秋葉さんは福島生まれの東北大出身で当時珍しく博士号を取得していた。東大卒の教授と秋葉さんが公募人事の仕組みを進めたと聞いている。そのためか、秋葉さん以降の人事は、採用順に東京都立大、東京教育大、大阪市立大、名古屋大、広島大、東北大、名古屋大、京大出身とさまざまな大学院から教員が着任し、少なくとも心理学教室での学閥は消滅した。考えようによっては僕が採用されたのも秋葉さんらの学閥廃止の動きの賜物で恩人ということになるかも知れない。若手は秋葉さんに倣い博士号の取得を競って目指すようになった(3名はのちに旧帝大に移籍することになり、研究者養成に専念できることになる)ことも大きい。これは教育大学という多様な必修科目を沢山担当し、教育実習にも時間を多く割かれる状況下であっても若者は競って研究活動をしたためであり、秋葉さんの存在が生み出した文化なのだろう。
秋葉さんは講演が上手な人であった。僕の子どもが通う小学校にも滋賀の実家の近くの保育園でも彼は講演に呼ばれていた。「子育てにロマンを」、「育ち合いの子育て」などの分かり易い表現が得意な人で引っ張り凧という状況もあった。「自分に子どもがいないので好きなように言えるよなあ」、と若手は僻んだものだが、語尾をリフレインして強調するなど、講演を聴いた人はその表現力の豊かさに圧倒されるということであった。
秋葉さんには3年ほど前に鶴橋駅でばったり出会った。僕が環状線の電車から降りるとき目の前にいて、「オオ、はったクン」と薬のためやや浮腫んだ顔立ちで、いきなり抱きついて来た。関西人はクンの語尾を下げるが、秋葉さんはフラットか上げ気味の独特の韻律なのである。「関西に帰ってきたんやて、じゃまたな」と周りにはばかるような大きい元気な声を残して電車に乗り込んで行った姿が最後となった。積もる話を来月の先輩の叙勲祝いの会合でという願いは叶わなくなった。年を取るということは、寂しさをくぐり抜けて行くことなのだろう、と生臭い大学での管理運営の時間の流れの狭間でもがきつつ、感じているのであります。