忙中の閑に思ったこと
気づけば11月もあと2日で終わる。休祝日が多かったせいか、異常に早く時間が流れたように思う。何をしていたのかをカレンダーで確認すると、11回あるはずの土日と旗日は4日のみ予定が空白なだけで、後は何やかやと出勤していたことがわかる。忙しくて時間が早く過ぎ去ったとういうことだけなのかも知れない。
今日も土曜日であるが入試で出勤している。最初に試験監督に「宜しく」の挨拶をするのが仕事である。どうせ家にゴロゴロしていてもテレビ番組のサーフィンをしているだけかも知れず、挨拶後の時間は自分で自由に使えるので、面倒だけども、「まあ、いいか!」と思うようにしている。
先週は原稿料をいただける執筆依頼が2件続いてあり(それ以外の挨拶文の依頼は、毎月1-2編必ずあるが、職務に関連しているので稿料は頂けない)、調べ物をした。名誉教授の特権ということで、名大の図書館の外部利用アドレスを許可してもらっている。ちなみに名誉教授はいくらもらえるのと聞かれたことがあるので披露しておくと、図書館利用権、車での無料入構権、大学からのニュースの配信ぐらいが得られるものの全てである。名誉教授の集まりへの案内は届くが、飲み食いは会費を徴収される(らしい)。
調べていたのは最近のきき手文献で、ネット上で図書館に入って検索し印刷できる。便利なことである。取り込んだ文献のpdfは画面上で拡大して読めるので、老人には誠にありがたい(もっとも、以前のように何時間も読む根気も視力もないが)。
たまたま、目につき読んでみたのは、アメリカモンタナ州の教職大学院での博士論文を基にした論文である。きき手は、片手で行う動作を集めた10-20項目の質問票での回答で判断するのが一般的で、どのような動作にするかは検査の開発者で異なる。何種類も検査は存在するが最も古くから、最も多くの国で使用されているのがエディンバラきき手検査(EHI)である。1971年に公刊された論文で、僕はこれの真似をして同じ手続きで日本人用の検査を1977年に作成している。文化による違いが項目選択に影響したためである。例えば、「文字を書く手」は僕の検査項目にはないが、エディンバラきき手検査にはある。日本人での左手書字は、当時は極めて少なく、きき手の判別には適しなかったためである。
僕が目にした2012年の論文は専門誌Lateralityに掲載されているので、しっかりした科学的研究と見なせるのだが、その内容に驚いてしまった。EHIを使用したら、教示がきちんと理解されなかったので、きき手係数が計算できなったというのである。この研究者は自閉症ときき手との関係を調べており、低学歴者を含む432名の母集団できき手の調査をしている。大卒レベル16.1%、高卒以上大卒未満63.6%、高卒以下と学齢不明20.4%が対象者で、白人78%、アフリカ系18%、残りがスペイン系とアメリカ現住民系である。ちなみにこの母集団がその地域の現状に最も近いという(以外と大卒が少ないように思うが、地域の特性なのかも知れない)。その結果、教示通りに回答したのは47.3%であったという。同時に行った自閉症についての検査は教示通りが88.2%であったということから、EHIは教示が難しいので半分が理解できなかったというわけである。ちなみにこの母集団の結果からは、左きき3.9%、右きき52%、両手きき44%であった。教育水準が教示通りに回答したかの説明要因で一番大きいとしている。たしかに、EHI作成での対象者は大学生1,128名で、作者自身も指摘しているように、「highly atypical as regards intelligence and cultural levels」である。
EHIの作成者であるオールドフィールドが生きていたら何とするだろう。大学の先生が学生向けに書いた質問紙検査の教示が十分に理解できない成人が大勢いることなど、想定だにしなかったであろう。
日本の高等教育は戦後しばらくして急速に米国のそれをモデルに展開されているが、簡単な質問への回答方法の文章を半分の成人が理解できないという結果を生み出すのであれば、決して手本にすべきシステムではない(と大きな声で訴えたくなる衝動にかられるのだけど)。
人間は相手も自分と同じような人間であることを想定してコミュニケーションを取るのだが、それは思い込みにすぎないのかも知れない。このことを常に念頭に置いておかないと学生たちとのコミュニケーションは成り立たないという示唆を、忙中に閑を見つけて読んだ論文から得たのでありました。すぐ師走なのですヨ。
今日も土曜日であるが入試で出勤している。最初に試験監督に「宜しく」の挨拶をするのが仕事である。どうせ家にゴロゴロしていてもテレビ番組のサーフィンをしているだけかも知れず、挨拶後の時間は自分で自由に使えるので、面倒だけども、「まあ、いいか!」と思うようにしている。
先週は原稿料をいただける執筆依頼が2件続いてあり(それ以外の挨拶文の依頼は、毎月1-2編必ずあるが、職務に関連しているので稿料は頂けない)、調べ物をした。名誉教授の特権ということで、名大の図書館の外部利用アドレスを許可してもらっている。ちなみに名誉教授はいくらもらえるのと聞かれたことがあるので披露しておくと、図書館利用権、車での無料入構権、大学からのニュースの配信ぐらいが得られるものの全てである。名誉教授の集まりへの案内は届くが、飲み食いは会費を徴収される(らしい)。
調べていたのは最近のきき手文献で、ネット上で図書館に入って検索し印刷できる。便利なことである。取り込んだ文献のpdfは画面上で拡大して読めるので、老人には誠にありがたい(もっとも、以前のように何時間も読む根気も視力もないが)。
たまたま、目につき読んでみたのは、アメリカモンタナ州の教職大学院での博士論文を基にした論文である。きき手は、片手で行う動作を集めた10-20項目の質問票での回答で判断するのが一般的で、どのような動作にするかは検査の開発者で異なる。何種類も検査は存在するが最も古くから、最も多くの国で使用されているのがエディンバラきき手検査(EHI)である。1971年に公刊された論文で、僕はこれの真似をして同じ手続きで日本人用の検査を1977年に作成している。文化による違いが項目選択に影響したためである。例えば、「文字を書く手」は僕の検査項目にはないが、エディンバラきき手検査にはある。日本人での左手書字は、当時は極めて少なく、きき手の判別には適しなかったためである。
僕が目にした2012年の論文は専門誌Lateralityに掲載されているので、しっかりした科学的研究と見なせるのだが、その内容に驚いてしまった。EHIを使用したら、教示がきちんと理解されなかったので、きき手係数が計算できなったというのである。この研究者は自閉症ときき手との関係を調べており、低学歴者を含む432名の母集団できき手の調査をしている。大卒レベル16.1%、高卒以上大卒未満63.6%、高卒以下と学齢不明20.4%が対象者で、白人78%、アフリカ系18%、残りがスペイン系とアメリカ現住民系である。ちなみにこの母集団がその地域の現状に最も近いという(以外と大卒が少ないように思うが、地域の特性なのかも知れない)。その結果、教示通りに回答したのは47.3%であったという。同時に行った自閉症についての検査は教示通りが88.2%であったということから、EHIは教示が難しいので半分が理解できなかったというわけである。ちなみにこの母集団の結果からは、左きき3.9%、右きき52%、両手きき44%であった。教育水準が教示通りに回答したかの説明要因で一番大きいとしている。たしかに、EHI作成での対象者は大学生1,128名で、作者自身も指摘しているように、「highly atypical as regards intelligence and cultural levels」である。
EHIの作成者であるオールドフィールドが生きていたら何とするだろう。大学の先生が学生向けに書いた質問紙検査の教示が十分に理解できない成人が大勢いることなど、想定だにしなかったであろう。
日本の高等教育は戦後しばらくして急速に米国のそれをモデルに展開されているが、簡単な質問への回答方法の文章を半分の成人が理解できないという結果を生み出すのであれば、決して手本にすべきシステムではない(と大きな声で訴えたくなる衝動にかられるのだけど)。
人間は相手も自分と同じような人間であることを想定してコミュニケーションを取るのだが、それは思い込みにすぎないのかも知れない。このことを常に念頭に置いておかないと学生たちとのコミュニケーションは成り立たないという示唆を、忙中に閑を見つけて読んだ論文から得たのでありました。すぐ師走なのですヨ。
「朝の散歩は大切かも」
この時期になると稲を刈ったあとの独特な匂いが朝の散歩道に漂うのが常で、朝の冷気に匂いの粒子が漂う中を歩くのは気分が良い。晴れる日が多く過ごしやすい気温で、心地よい時期ということもある。稲草を刈ったあとの青臭い匂いが僕は好きである。小学生の頃に稲刈りの手伝いをして、暮れなずむ田んぼに漂っていたこの独特の匂いは、おとな達の満足げな表情や振る舞いもあって、子ども心を晴れやかにしたことを思い出すからかも知れない。
湖北では田んぼの畦に育てた榛(ハン)の木を支柱にして、孟宗竹を横組みに3メートルほどの高さのハサ(と呼んだと思うのだが)を組む。刈り取った稲束を天日干しにするのである。ハシゴに登っているおとなに子どもは稲束を掘り投げるのであった。受け取りやすい位置に投げるのは簡単ではないが、他者間との共応作業なので、おとなの仕事に加われている感覚、家族での一体感、を体験できたのである。機械化された昨今では味わうことのない経験を僕たちの世代(田舎育ちに限定だが)はしていたことになる。
今年は例年に比べてこの独特の匂いの快感を味わうことが少なかった気がする。散歩ルートの水田は半分ほどが作付けされていない。したがって稲刈りはされないので匂いの源がないのである。近くに高速道路のインターチェンジができることもあって田んぼで作業する気持ちが起きないほどの保証金が集まったのかもしれない。急に大金が入ると堕落が始まるのは世の習いですよと教えたくなるが持ち主と知り合いでもない。では、僕に貸してあげるので稲作をと言われても困る。
今月初めに匂い機能の低下は高次脳機能との相関が高いという論文を投稿したばかりである。自分の前頭葉機能に低下が顕在したために稲刈り後の匂いを従前よりも強く検知できないという仮説も否定はできないが、かくて、朝の散歩の快適度はさがることになる。
新聞社が主催する「これからの学校教育を担う教員の在り方について」というフォーラムに研修日を潰して参加した。文科省の課長や内閣審議官、中教審の委員が講演したのだが、参加者が20名程度と小規模で途中で抜けられずに最後まで聞く羽目になった。参加者のほとんどが教育学部を持つ大学の中堅どころの事務職員であったせいか、講演者はかなり率直な話しぶりであった。名刺交換して学部設置認可のお礼でも言わねばと考えていたが、講演を聞いてモチベーションが下がり実行はしなかった。大人気ないとは考えたが、途中で質問して話の根底をぶち壊す僕の得意技を実行することの抑制はできた(この種の発言をいくつかの学会でやらかし、根に持たれているらしいことの記憶はある。境界条件を複合的な観点から設定しないで、自分たちの認知図式で議論しているときに、水を差す発言や質問を僕がしたために、盛り上がりが瞬時に憔悴してしまうことがあったのだ)。
その日の某氏の講演で、「少子化で子どもが減る。これからは子どもに今までの何倍もの能力を持つようにしないと日本はダメになる」とあった。この主張は、将来も外国人を受け入れないという現状を継続することを境界条件にしなければ成立しない。学校教育ですべての子どもが無限に能力を獲得できるという条件でのみ可能だが、そんな事実は存在しない。人間の能力は正規分布し、優れる子どももいるがそうでない子どもも同じ数存在する。このことは心理学者でなくても自明であろう。「グローバル化を進め、国際的に優れる日本の学校教育システムを発展途上国に輸出すべき」と某氏はいうのだが、最低でも現地語ができる教員スタッフを準備しなければ、システムの輸出などあり得ない。
グローバル化はヤイヤイ言わなくてもすでに進んでおり、高校野球でも陸上競技でも20年ぐらい前から実現している証拠を最近は見せられている。グローバル化を題目のように唱える連中は、日本人が英語を自在に操り、外国に出かけて稼ぐ一方向を声高に唱えるが、日本で英語が不自由なく使える状況となれば外国から大勢が流入することを想定していないように思える。優れた能力の持ち主がもっと大きな母集団でも存在するので、英語で何でもできるグローバル化した日本では、優れた外国人に有利な職場を奪われることは必然であろう。1億人でトップ10の能力の人間が10億人の母集団では100人いるためである。習得が難しいとされる言語を使う国に生まれてよかったと考えるのは僕だけかな?
「だいたい教員は真面目だが視野が狭くフレキシブルに考え対応できないのが問題」と指摘する講師に「あんたもな!」と(内言で)叫んだことである。
10月の最終週は認証評価の実地調査があり、附属研究所のフォーラムがありと、早朝からの出勤が重なり、次回こそは自分の憂さを晴らすだけのブログにしないでおこうという企図は儚くも潰えた。早朝の散歩の時間が取れなかったのが理由なのでしょうか。
湖北では田んぼの畦に育てた榛(ハン)の木を支柱にして、孟宗竹を横組みに3メートルほどの高さのハサ(と呼んだと思うのだが)を組む。刈り取った稲束を天日干しにするのである。ハシゴに登っているおとなに子どもは稲束を掘り投げるのであった。受け取りやすい位置に投げるのは簡単ではないが、他者間との共応作業なので、おとなの仕事に加われている感覚、家族での一体感、を体験できたのである。機械化された昨今では味わうことのない経験を僕たちの世代(田舎育ちに限定だが)はしていたことになる。
今年は例年に比べてこの独特の匂いの快感を味わうことが少なかった気がする。散歩ルートの水田は半分ほどが作付けされていない。したがって稲刈りはされないので匂いの源がないのである。近くに高速道路のインターチェンジができることもあって田んぼで作業する気持ちが起きないほどの保証金が集まったのかもしれない。急に大金が入ると堕落が始まるのは世の習いですよと教えたくなるが持ち主と知り合いでもない。では、僕に貸してあげるので稲作をと言われても困る。
今月初めに匂い機能の低下は高次脳機能との相関が高いという論文を投稿したばかりである。自分の前頭葉機能に低下が顕在したために稲刈り後の匂いを従前よりも強く検知できないという仮説も否定はできないが、かくて、朝の散歩の快適度はさがることになる。
新聞社が主催する「これからの学校教育を担う教員の在り方について」というフォーラムに研修日を潰して参加した。文科省の課長や内閣審議官、中教審の委員が講演したのだが、参加者が20名程度と小規模で途中で抜けられずに最後まで聞く羽目になった。参加者のほとんどが教育学部を持つ大学の中堅どころの事務職員であったせいか、講演者はかなり率直な話しぶりであった。名刺交換して学部設置認可のお礼でも言わねばと考えていたが、講演を聞いてモチベーションが下がり実行はしなかった。大人気ないとは考えたが、途中で質問して話の根底をぶち壊す僕の得意技を実行することの抑制はできた(この種の発言をいくつかの学会でやらかし、根に持たれているらしいことの記憶はある。境界条件を複合的な観点から設定しないで、自分たちの認知図式で議論しているときに、水を差す発言や質問を僕がしたために、盛り上がりが瞬時に憔悴してしまうことがあったのだ)。
その日の某氏の講演で、「少子化で子どもが減る。これからは子どもに今までの何倍もの能力を持つようにしないと日本はダメになる」とあった。この主張は、将来も外国人を受け入れないという現状を継続することを境界条件にしなければ成立しない。学校教育ですべての子どもが無限に能力を獲得できるという条件でのみ可能だが、そんな事実は存在しない。人間の能力は正規分布し、優れる子どももいるがそうでない子どもも同じ数存在する。このことは心理学者でなくても自明であろう。「グローバル化を進め、国際的に優れる日本の学校教育システムを発展途上国に輸出すべき」と某氏はいうのだが、最低でも現地語ができる教員スタッフを準備しなければ、システムの輸出などあり得ない。
グローバル化はヤイヤイ言わなくてもすでに進んでおり、高校野球でも陸上競技でも20年ぐらい前から実現している証拠を最近は見せられている。グローバル化を題目のように唱える連中は、日本人が英語を自在に操り、外国に出かけて稼ぐ一方向を声高に唱えるが、日本で英語が不自由なく使える状況となれば外国から大勢が流入することを想定していないように思える。優れた能力の持ち主がもっと大きな母集団でも存在するので、英語で何でもできるグローバル化した日本では、優れた外国人に有利な職場を奪われることは必然であろう。1億人でトップ10の能力の人間が10億人の母集団では100人いるためである。習得が難しいとされる言語を使う国に生まれてよかったと考えるのは僕だけかな?
「だいたい教員は真面目だが視野が狭くフレキシブルに考え対応できないのが問題」と指摘する講師に「あんたもな!」と(内言で)叫んだことである。
10月の最終週は認証評価の実地調査があり、附属研究所のフォーラムがありと、早朝からの出勤が重なり、次回こそは自分の憂さを晴らすだけのブログにしないでおこうという企図は儚くも潰えた。早朝の散歩の時間が取れなかったのが理由なのでしょうか。
燃え尽き症候群?
約2年半前から構想し進めてきた、教育学部の設置が8月末認可された。しかし、一段落というわけには行かない。学部を設置して可という部分と教員免許を出して良いというのは別の話になっているためである。いわゆる課程認定というもので、想定以上に大変である。教員免許の課程認定は履修について規制が厳しく、シラバスが適切か、シラバスに対応する研究業績を持つ教員で担当を申請しているかを、思った以上に厳密にチェックされた(もう教育学部は必要ないということのメッセージなのかもしれない)。課程認定の許可を議論する委員会は担当事務官のチェックが通らないと開いてもらえない。最初に提出した申請書について補正を求められるのである。都合3度の補正でやっと事務官レベルでのOKが出た(学部の設置の補正は1回限り)。夏期休業最終日(8月19日)に旅先で第1回目の補正指摘を受け取ってからの3週間は、事務官からの業績が不十分、対応する業績がないという指摘への対案を、3-4日間で準備し書類を作り直すことの繰り返しであった。すべて兼任講師で対応すればよかったのだが、「そんな分野での業績をもつ人などいるのか?」「現在免許が出ている大学で、対応する業績がある教員がいるのかね」と思うことしきりであった。事務職員が本当によくやってくれたのと教育大時代に培ったネットワークでなんとか対応できた。事務官レベルでOKがでたのは9月11日であった(最終的な審査判定結果は12月頃になるが、それでも最短の期間で対応できた)。入試広報に迷惑をかけずに済んで力が抜けた感じがした。
学部設置や課程認定の許認可は国に代わって教員免許を出すということなので、厳格なことに異論を挟むことはできないが、その基準を厳守し続けることを大学に求めればと思ったりした。最初はしっかりしていた教育内容や教員資質が、設置後4年を過ぎればそれぞれの大学に委ねられるという今までのやり方では、日本の大学の質向上は無理であろう。今回の学部設置や課程認定での基準を5年ごとに実施するシステムを作れば(時間と手間は膨大だろうが、金には換えられないはず)、日本の高等教育のレベルは格段に上がることだろう。医療系の学科新設がブームの様な昨今では、設置の審査に通る教員は、完成年度では別の大学に移り、その穴を(本来ならば資格審査で通らない)誰かで埋めるという仕組みを見聞きする。卒業生の質は二の次にされるわけで、恐ろしい未来状況ではある。もっとも、厳格な教員審査やカリキュラムの審査を5年ごとにやるとなると、大部分の現職教員は入れ替えの対象になる可能性がある。国公私立大学すべて、立ち行かなくなる可能性があるので、妄想の類でしかないが、大学の数が多すぎという指摘には特効薬となろう。
今回の設置で改めて感じたのは、教員は着実に継続的に研究業績を積んでおかないと、万が一僕の妄想が具現化するようなことがあれば大変ということである。大学の管理運営や教育についての業績は考慮されないのが現状なので、念のため。
さて、9月は入会しているいくつかの学会が開かれる時期で、頭を切り替えて、研究者に戻ってあちこちに出かけねばならないのだが、今年はじっとしていた。2年にわたる懸案事項に目途が付いてのバーンアウトなのかもしれないと思ったことである。
札幌で9月10日からあった神経心理学会は「名誉会員は参加費も前日の懇親会も無料ですから」とわざわざ連絡をもらったのだが断念した。先月に八雲に行ったこともあり、日程調整をすれば可能ではあったが欠席してしまった。
9月22日から心理学会が名古屋であったが発表の申し込みを失念してしまったこともあり、欠席してしまった。海外に出かけていることを除くと未発表ははじめてのことで自分でもショックであった。発表申し込みの締め切りが、学部設置の事務作業が最も煩雑で忙しい時期であったので失念したのである。管理運営にリソースを過剰に配分したことによるのかもしれないが、現役の研究者であることを拠り所としているので、がっくりきた。連名の発表も複数あったがその日は大学に出ねばならない行事があり結局行くことを止めた。結局、4連休を含めた6日間は自宅に籠ることとなった。身体はだるく、この休みに論文を書くことや科研の申請書の下書きをせねばと思いながらも、しばらくパソコンに向かいテレビのチャンネルサーフィンをしたりして過ごした。山形の美酒を大量に買い込んでいたのだが飲む気にもならず、バーンアウトに伴ううつ症状のかも知れないと自己診断していた。もっとも、連日5—6時間はパソコンには向かっていたし、寝すぎではないかと思うほどとよく寝たし、泳ぎにも行ったので、重症ではない。
連休明けには、申請書の下書きを分担者に送りつけチェックを依頼し、3月末の2つの学部設置申請の時期に身を粉にして頑張ってくれた旧職員に遅まきながらお礼の一席を設けることもできた。気持ちの上での引っ掛かりは一つ取れた。ただ、補正申請は短時間で対応する必要があること、我々が業績等の判断をして無理かも知れないと思うケースがOKであったり、その逆もあったりで、補正申請の要員として履歴や業績を知り合いに送ってもらってプールしていたこのことの罪悪感もある。無理なお願いを急かしてした知人で使わなかった人へのお詫びの手紙をかくこともせねばならないので、教職課程認定のお墨付きをもらうまで気持ちは快晴とはいかない。
連休明けからは土日も出勤で9月が終わる。「労働とは自由を売ることである」という定義を実感しているが、気分転換をせねばと9月の最終週の末は年休を取り鋭気を養う予定である。オープンキャンパスでは「しなやかに、したたかに人生を送る人に育てる」と公言しているので、自分でもそのようにマネジメントせねばいけないのだと、年休を取った次第。10月は大学認証評価の訪問審査への対応を含めて行事が一杯なので、燃え尽きるのを、しばらく延期せねばならない。島井哲志さんから新刊「幸福の構造:有斐閣」をいただき読み始めたら、GDPが増えると国民の幸福感は減少するというデータを知った。我が家のGDPは幸福感が減少するほど増えてきてはいないので、燃え尽きて不幸という状況には未だないレベルのGDPだなあ、と思ったことである。
学部設置や課程認定の許認可は国に代わって教員免許を出すということなので、厳格なことに異論を挟むことはできないが、その基準を厳守し続けることを大学に求めればと思ったりした。最初はしっかりしていた教育内容や教員資質が、設置後4年を過ぎればそれぞれの大学に委ねられるという今までのやり方では、日本の大学の質向上は無理であろう。今回の学部設置や課程認定での基準を5年ごとに実施するシステムを作れば(時間と手間は膨大だろうが、金には換えられないはず)、日本の高等教育のレベルは格段に上がることだろう。医療系の学科新設がブームの様な昨今では、設置の審査に通る教員は、完成年度では別の大学に移り、その穴を(本来ならば資格審査で通らない)誰かで埋めるという仕組みを見聞きする。卒業生の質は二の次にされるわけで、恐ろしい未来状況ではある。もっとも、厳格な教員審査やカリキュラムの審査を5年ごとにやるとなると、大部分の現職教員は入れ替えの対象になる可能性がある。国公私立大学すべて、立ち行かなくなる可能性があるので、妄想の類でしかないが、大学の数が多すぎという指摘には特効薬となろう。
今回の設置で改めて感じたのは、教員は着実に継続的に研究業績を積んでおかないと、万が一僕の妄想が具現化するようなことがあれば大変ということである。大学の管理運営や教育についての業績は考慮されないのが現状なので、念のため。
さて、9月は入会しているいくつかの学会が開かれる時期で、頭を切り替えて、研究者に戻ってあちこちに出かけねばならないのだが、今年はじっとしていた。2年にわたる懸案事項に目途が付いてのバーンアウトなのかもしれないと思ったことである。
札幌で9月10日からあった神経心理学会は「名誉会員は参加費も前日の懇親会も無料ですから」とわざわざ連絡をもらったのだが断念した。先月に八雲に行ったこともあり、日程調整をすれば可能ではあったが欠席してしまった。
9月22日から心理学会が名古屋であったが発表の申し込みを失念してしまったこともあり、欠席してしまった。海外に出かけていることを除くと未発表ははじめてのことで自分でもショックであった。発表申し込みの締め切りが、学部設置の事務作業が最も煩雑で忙しい時期であったので失念したのである。管理運営にリソースを過剰に配分したことによるのかもしれないが、現役の研究者であることを拠り所としているので、がっくりきた。連名の発表も複数あったがその日は大学に出ねばならない行事があり結局行くことを止めた。結局、4連休を含めた6日間は自宅に籠ることとなった。身体はだるく、この休みに論文を書くことや科研の申請書の下書きをせねばと思いながらも、しばらくパソコンに向かいテレビのチャンネルサーフィンをしたりして過ごした。山形の美酒を大量に買い込んでいたのだが飲む気にもならず、バーンアウトに伴ううつ症状のかも知れないと自己診断していた。もっとも、連日5—6時間はパソコンには向かっていたし、寝すぎではないかと思うほどとよく寝たし、泳ぎにも行ったので、重症ではない。
連休明けには、申請書の下書きを分担者に送りつけチェックを依頼し、3月末の2つの学部設置申請の時期に身を粉にして頑張ってくれた旧職員に遅まきながらお礼の一席を設けることもできた。気持ちの上での引っ掛かりは一つ取れた。ただ、補正申請は短時間で対応する必要があること、我々が業績等の判断をして無理かも知れないと思うケースがOKであったり、その逆もあったりで、補正申請の要員として履歴や業績を知り合いに送ってもらってプールしていたこのことの罪悪感もある。無理なお願いを急かしてした知人で使わなかった人へのお詫びの手紙をかくこともせねばならないので、教職課程認定のお墨付きをもらうまで気持ちは快晴とはいかない。
連休明けからは土日も出勤で9月が終わる。「労働とは自由を売ることである」という定義を実感しているが、気分転換をせねばと9月の最終週の末は年休を取り鋭気を養う予定である。オープンキャンパスでは「しなやかに、したたかに人生を送る人に育てる」と公言しているので、自分でもそのようにマネジメントせねばいけないのだと、年休を取った次第。10月は大学認証評価の訪問審査への対応を含めて行事が一杯なので、燃え尽きるのを、しばらく延期せねばならない。島井哲志さんから新刊「幸福の構造:有斐閣」をいただき読み始めたら、GDPが増えると国民の幸福感は減少するというデータを知った。我が家のGDPは幸福感が減少するほど増えてきてはいないので、燃え尽きて不幸という状況には未だないレベルのGDPだなあ、と思ったことである。
慌ただしい8月
大学は13日から夏休みに入った。その前の土日に、日本心理学会の高校生向けの講座での講義とオープンキャンパスでの特別講演がそれぞれあり、加えて教育学部の設置についての補正申請の対応など、前半はめまぐるしい日々を過ごした。
夏休み中に孫には逢えたが、4ヶ月ぶりとあって初日は思い出せないのか近寄っては来ず、日常的接触は愛着を形成維持するには必須であることを再確認した。7月初めに孫と会っている家内には最初から新近さを示し、面白くなかったが仕方がない。要は2歳半ぐらいでは3ヶ月も顔を見ないと忘れられるということである。そういえば、40年近く前に2歳半の長男はヒースロー空港に迎えた僕をよくわからない様子で不安そうに見上げた眼差しを思いだす。単身赴任の読者は留意されたい。
夏休み最終日は約500キロを運転して8時頃に帰宅し、翌朝から八雲町に行った。34年間続いている住民健診事業への参加で、心理班は15年目となる。名大等からのメンバーを含めると63名の検診団が八雲町に集結した。この夏は新幹線駅関係の作業員がビジネスホテルを占拠しているとかで、心理班11名も2箇所に分かれての宿泊となった。7時半からバスが宿舎に迎えに来て、検査、夜は食事会などもあり、3泊4日は例年同様に睡眠不足気味であった。心理班のメンバーは、顔なじみの住民の何人かに、来年また逢いましょうネ、などと言っていた。今年で科研が終わるが、来年からは高齢だしもう申請を止めよう、とはいかなくなりそうである。研究計画と関連論文を揃えなくてはなるまい。走り出した事業をやめる潮時を見つけるのは簡単なことではない。今の仕事も同じことだろうと思うので、今から潮時を探し始めねばなるまい。
歓迎会の席上で、役場の職員から「ふるさと寄付金お願い」が今年もあった。昨年は色々と美味しいものを記念品として送ってもらい楽しんだので、今年も申し込んでおいた。読者の皆さんも八雲町を応援してあげてください。
八雲のデータは連結がやっと終わり、縦断的な資料分析を始めている。例えば、認知機能の65歳以降の回帰係数を算出し、機能低下の穏やか組と急低下組での様々な関連機能との比較をすれば、などと面白そうなことがいっぱいできる。時間を見つけてはコソコソまとめ、先月から2本書いた(エライ!)が、作業が分断されるので、考えていた時点のworking memoryまでに戻るのは容易なことではない。
このように、かなりきついスケジュールの8月後半であったので、案の定、八雲から戻った翌朝(月曜)はひどい下痢となり、朝昼と絶食した。夜には何とか体調は戻った。やはり寄る年波には…と考えずに、意外とがんばりが効くじゃないかと考えるようにしている。
翌火曜日と水曜日は、大学コンソーシアム大阪主催の台湾の大学長らと大阪の大学長らとのシンポジウムに参加した(元々の主要メンバーである大阪市大、府大からは参加がないのは如何なものか)。水曜日午前は文科省職員の講演、午後は講演が3題で9時半から8時まで要した(大手の私学に混じり、場違いなように感じたが僕も講演した)。疲れたがご馳走が食べられ美味しいワインも出たので、まあ良しとしよう。火曜日の夕食会で一人の台湾側の先生が「はった先生、左きき、脳の話しした人ですよね、池田分校で」と日本語で話しかけてきた。大教大の院で工芸を学びに留学していた人ということで、驚かされた。今は、工業デザインの教授とのこと。長く生きているとこういう奇遇も経験するということである(彼と同僚の二人が金曜日に大学間連携を提案しに來学した)。
このシンポジウムで知った台湾の大学事情から、「明日は我が身だ」という話を記しておこう。台湾の少子高齢化は遅く始まったが加速性は日本よりも大ということであった。10年後までに20-30%の大学教職員は不要となる、などの資料が提示されていた。学生減への対策の一つが海外の大学との連携で学生を集めたいという方向性らしい。教員の削減選抜策にも言及があった。理系の大学での話であったが、教員は企業での複数年での研修を昇任条件にするという。現場を熟知して、求める人材像を明確に知るようにという企図らしい。日本では学生にインターンシップを単位化云々レベルだが、教員にインターンシップが求められるということである。
一般社会人と同様の視野を持つことを研究業績、教育力に加えて求めるわけで、生き残りを掛ける教員の競争は大変であろう。近い将来日本でも似た状況が到来するかも知れない。日頃、教育も研究も社会貢献もするように教員にお願いしている僕を煙たく思っている教員が少なくないことは承知しているが、台湾の大学事情を知るとまだまだ僕は優しい学長なのだ、と思ったことである。
夏休み中に孫には逢えたが、4ヶ月ぶりとあって初日は思い出せないのか近寄っては来ず、日常的接触は愛着を形成維持するには必須であることを再確認した。7月初めに孫と会っている家内には最初から新近さを示し、面白くなかったが仕方がない。要は2歳半ぐらいでは3ヶ月も顔を見ないと忘れられるということである。そういえば、40年近く前に2歳半の長男はヒースロー空港に迎えた僕をよくわからない様子で不安そうに見上げた眼差しを思いだす。単身赴任の読者は留意されたい。
夏休み最終日は約500キロを運転して8時頃に帰宅し、翌朝から八雲町に行った。34年間続いている住民健診事業への参加で、心理班は15年目となる。名大等からのメンバーを含めると63名の検診団が八雲町に集結した。この夏は新幹線駅関係の作業員がビジネスホテルを占拠しているとかで、心理班11名も2箇所に分かれての宿泊となった。7時半からバスが宿舎に迎えに来て、検査、夜は食事会などもあり、3泊4日は例年同様に睡眠不足気味であった。心理班のメンバーは、顔なじみの住民の何人かに、来年また逢いましょうネ、などと言っていた。今年で科研が終わるが、来年からは高齢だしもう申請を止めよう、とはいかなくなりそうである。研究計画と関連論文を揃えなくてはなるまい。走り出した事業をやめる潮時を見つけるのは簡単なことではない。今の仕事も同じことだろうと思うので、今から潮時を探し始めねばなるまい。
歓迎会の席上で、役場の職員から「ふるさと寄付金お願い」が今年もあった。昨年は色々と美味しいものを記念品として送ってもらい楽しんだので、今年も申し込んでおいた。読者の皆さんも八雲町を応援してあげてください。
八雲のデータは連結がやっと終わり、縦断的な資料分析を始めている。例えば、認知機能の65歳以降の回帰係数を算出し、機能低下の穏やか組と急低下組での様々な関連機能との比較をすれば、などと面白そうなことがいっぱいできる。時間を見つけてはコソコソまとめ、先月から2本書いた(エライ!)が、作業が分断されるので、考えていた時点のworking memoryまでに戻るのは容易なことではない。
このように、かなりきついスケジュールの8月後半であったので、案の定、八雲から戻った翌朝(月曜)はひどい下痢となり、朝昼と絶食した。夜には何とか体調は戻った。やはり寄る年波には…と考えずに、意外とがんばりが効くじゃないかと考えるようにしている。
翌火曜日と水曜日は、大学コンソーシアム大阪主催の台湾の大学長らと大阪の大学長らとのシンポジウムに参加した(元々の主要メンバーである大阪市大、府大からは参加がないのは如何なものか)。水曜日午前は文科省職員の講演、午後は講演が3題で9時半から8時まで要した(大手の私学に混じり、場違いなように感じたが僕も講演した)。疲れたがご馳走が食べられ美味しいワインも出たので、まあ良しとしよう。火曜日の夕食会で一人の台湾側の先生が「はった先生、左きき、脳の話しした人ですよね、池田分校で」と日本語で話しかけてきた。大教大の院で工芸を学びに留学していた人ということで、驚かされた。今は、工業デザインの教授とのこと。長く生きているとこういう奇遇も経験するということである(彼と同僚の二人が金曜日に大学間連携を提案しに來学した)。
このシンポジウムで知った台湾の大学事情から、「明日は我が身だ」という話を記しておこう。台湾の少子高齢化は遅く始まったが加速性は日本よりも大ということであった。10年後までに20-30%の大学教職員は不要となる、などの資料が提示されていた。学生減への対策の一つが海外の大学との連携で学生を集めたいという方向性らしい。教員の削減選抜策にも言及があった。理系の大学での話であったが、教員は企業での複数年での研修を昇任条件にするという。現場を熟知して、求める人材像を明確に知るようにという企図らしい。日本では学生にインターンシップを単位化云々レベルだが、教員にインターンシップが求められるということである。
一般社会人と同様の視野を持つことを研究業績、教育力に加えて求めるわけで、生き残りを掛ける教員の競争は大変であろう。近い将来日本でも似た状況が到来するかも知れない。日頃、教育も研究も社会貢献もするように教員にお願いしている僕を煙たく思っている教員が少なくないことは承知しているが、台湾の大学事情を知るとまだまだ僕は優しい学長なのだ、と思ったことである。
シドニー再訪と帰国後
先月予告したように、7月6日まで国際神経心理学会の夏季大会にシドニーに行ってきた。ほぼ毎年出席している学会で、昨年はエルサレムで開催され、空襲に遭いシェルターに避難する貴重な経験もした。
シドニーにはここ15年ほどは行っていないが、毎年ニューサウスウェールズ大学に出かけていた頃がある。その頃と比べて、随分印象が異なった。第一、関空からの直行便がなくなっていた。観光客が減ったせいであろう。理由はシドニーについてすぐわかった。物価が高くなっているのだ。空港からの電車15分ほどが2000円近い運賃やペットボトルの水がコンビニで300円ほどするのでびっくりした(後日安売りのスーパーでは100円ほどで買えたけれども)。昔、港の周辺のバーで350円ぐらいの感覚であったギネスの生は、800円ほどで高い!と叫びそうになった(日本と変わらないのだけれど)。
現地は冬なので寒いのと、物価が高いので学会会場とホテルの往復の毎日であった(会場のホテルではランチや朝飯が出る。それを食べに出ては戻りホテルで仕事をしていた)。冬でも街には中国人観光客らしい人が多かった。中国と豪州は経済関係が良好とかで景気は良いらしい。そのために物価が高いのだと現地の研究者は嘆いていた(もっとも、パンやバター、肉、ミルク、オレンジなどは日本の半額なので、食べるだけなら日本よりも生活しやすそうである)。
シドニーは街のサイズは小ぶりなので印象が強くなるのかもしれないが、港周辺には建築中の高層ビルが際立って多い気がした。昨年のイスラエルでは35年ぶりでもインフラがほとんど変わらないのが印象に残ったが、シドニーは大きく変わりをしている。ミサイル防衛網など軍事費にお金を使わなければならない国家とそうでない国家の違いである。兵器ほど金食い虫ですぐ使えなくなるものは他にはあるまいと、ここで、アベ政権の最近の所業に連想が移り悪口を書き連ねたくなるが、敢えて触れない。
シドニーのホテルは値段が高いので高級なところには泊まれなかったが、ベッドは快適で、日頃の疲れもあってか毎日睡眠9時間であった。今年度に入って最初の論文はほぼ完成できたので、まあまあのシドニー再訪であった。
帰国後は7月と8月が山場の学生募集の仕事が待っていた。土日が潰れるオープンキャンパスが3回、リクルート(株)の催しへの参加、付属高校教員対象の説明会などなどである。それぞれに打ち合わせなどをするので、この他のルーチンの仕事をこなすのは大変。とうとう夏風邪を引いてしまった(主観よりも体力はなくなっているのかも)。
オープンキャンパスでは、毎回スケジュールに組み込まれた冒頭の全体説明会で10分ほど挨拶をする。大学の立ち位置、目標、誇れるところなどを紹介するのだが、父兄や進路指導の先生に評判がよい(らしい)のが、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という下りという。グローバル化の波に乗らないと補助金面でマイナスだが、5月に実施した高校の進路指導教員向けの説明会でも、この表明は良いというアンケート記載があったので、それ以後敢えて強調することにしている。
中央教育審議会の答申に準拠して教育の質の改善には実直に取り組んでいるが、グローバル化の指示にだけは乗らないでおこうと考えてきた。「英語での授業、外国人留学生受け入れ、海外留学での単位認定や協定大学….」などは本学には今の所必要がないと考えるからである。
そもそも、グローバル化の本質は、「誰とでも一緒に何処ででも生きていける力をつける」ことと私は考えるので、「自分の仕事に自信があり、誇りがある人間」であれば、何処ででも生きていける。「いろいろな人種が生きていること、文化に違いがあること、言語も様々であること、価値も多様であること」を知ることは重要だが、英語を話すこと、大勢で外国の大学に出かけ寮に滞在することなどは役に立たない瑣末なことというと言葉が過ぎるかも知れないが。
うちの大学の学生には自分の仕事に自信を持たせるために資格を確実に取らせることとその役割に誇りを持つようにキャリア教育することが最優先、と考えている。「英語を話せるようにならねば国際化の時代に生きていけないのか?」、「英語ができない生徒をどうしよう?」と不安な高校教員や父兄が存外多く、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という立ち位置を了解してくれるのかも知れない。そうであれば、保護者や進路指導の先生が学生をウンと沢山送り込んで欲しい。そうすれば、なかなかしつこい風邪も寛解するはずであります。
昨晩、大学時代のクラブの1年先輩から週末の京都での食事会の誘いがあった。「お前、いつまで働くんか、人生のこりは短いぞ」ということで、もっともな助言である。3学年上の元指揮者も参加予定と今朝メールが届いていた。その先輩とはまさに50年ぶりの再会となる。どんな話題で盛り上がるのかは不明だが、祇園界隈で昼過ぎに爺さん達のコーラスが聞こえたら、それは、多分我々の仕業である。辺りの迷惑を顧みず、数曲愛唱歌を唄って会を閉じるのが習わしなのです。
シドニーにはここ15年ほどは行っていないが、毎年ニューサウスウェールズ大学に出かけていた頃がある。その頃と比べて、随分印象が異なった。第一、関空からの直行便がなくなっていた。観光客が減ったせいであろう。理由はシドニーについてすぐわかった。物価が高くなっているのだ。空港からの電車15分ほどが2000円近い運賃やペットボトルの水がコンビニで300円ほどするのでびっくりした(後日安売りのスーパーでは100円ほどで買えたけれども)。昔、港の周辺のバーで350円ぐらいの感覚であったギネスの生は、800円ほどで高い!と叫びそうになった(日本と変わらないのだけれど)。
現地は冬なので寒いのと、物価が高いので学会会場とホテルの往復の毎日であった(会場のホテルではランチや朝飯が出る。それを食べに出ては戻りホテルで仕事をしていた)。冬でも街には中国人観光客らしい人が多かった。中国と豪州は経済関係が良好とかで景気は良いらしい。そのために物価が高いのだと現地の研究者は嘆いていた(もっとも、パンやバター、肉、ミルク、オレンジなどは日本の半額なので、食べるだけなら日本よりも生活しやすそうである)。
シドニーは街のサイズは小ぶりなので印象が強くなるのかもしれないが、港周辺には建築中の高層ビルが際立って多い気がした。昨年のイスラエルでは35年ぶりでもインフラがほとんど変わらないのが印象に残ったが、シドニーは大きく変わりをしている。ミサイル防衛網など軍事費にお金を使わなければならない国家とそうでない国家の違いである。兵器ほど金食い虫ですぐ使えなくなるものは他にはあるまいと、ここで、アベ政権の最近の所業に連想が移り悪口を書き連ねたくなるが、敢えて触れない。
シドニーのホテルは値段が高いので高級なところには泊まれなかったが、ベッドは快適で、日頃の疲れもあってか毎日睡眠9時間であった。今年度に入って最初の論文はほぼ完成できたので、まあまあのシドニー再訪であった。
帰国後は7月と8月が山場の学生募集の仕事が待っていた。土日が潰れるオープンキャンパスが3回、リクルート(株)の催しへの参加、付属高校教員対象の説明会などなどである。それぞれに打ち合わせなどをするので、この他のルーチンの仕事をこなすのは大変。とうとう夏風邪を引いてしまった(主観よりも体力はなくなっているのかも)。
オープンキャンパスでは、毎回スケジュールに組み込まれた冒頭の全体説明会で10分ほど挨拶をする。大学の立ち位置、目標、誇れるところなどを紹介するのだが、父兄や進路指導の先生に評判がよい(らしい)のが、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という下りという。グローバル化の波に乗らないと補助金面でマイナスだが、5月に実施した高校の進路指導教員向けの説明会でも、この表明は良いというアンケート記載があったので、それ以後敢えて強調することにしている。
中央教育審議会の答申に準拠して教育の質の改善には実直に取り組んでいるが、グローバル化の指示にだけは乗らないでおこうと考えてきた。「英語での授業、外国人留学生受け入れ、海外留学での単位認定や協定大学….」などは本学には今の所必要がないと考えるからである。
そもそも、グローバル化の本質は、「誰とでも一緒に何処ででも生きていける力をつける」ことと私は考えるので、「自分の仕事に自信があり、誇りがある人間」であれば、何処ででも生きていける。「いろいろな人種が生きていること、文化に違いがあること、言語も様々であること、価値も多様であること」を知ることは重要だが、英語を話すこと、大勢で外国の大学に出かけ寮に滞在することなどは役に立たない瑣末なことというと言葉が過ぎるかも知れないが。
うちの大学の学生には自分の仕事に自信を持たせるために資格を確実に取らせることとその役割に誇りを持つようにキャリア教育することが最優先、と考えている。「英語を話せるようにならねば国際化の時代に生きていけないのか?」、「英語ができない生徒をどうしよう?」と不安な高校教員や父兄が存外多く、「うちの大学は、安易にグローバル化を目指さない」という立ち位置を了解してくれるのかも知れない。そうであれば、保護者や進路指導の先生が学生をウンと沢山送り込んで欲しい。そうすれば、なかなかしつこい風邪も寛解するはずであります。
昨晩、大学時代のクラブの1年先輩から週末の京都での食事会の誘いがあった。「お前、いつまで働くんか、人生のこりは短いぞ」ということで、もっともな助言である。3学年上の元指揮者も参加予定と今朝メールが届いていた。その先輩とはまさに50年ぶりの再会となる。どんな話題で盛り上がるのかは不明だが、祇園界隈で昼過ぎに爺さん達のコーラスが聞こえたら、それは、多分我々の仕業である。辺りの迷惑を顧みず、数曲愛唱歌を唄って会を閉じるのが習わしなのです。
超多忙な6月が終わろうとしている
今年もあと数日で半分が終わる。今年の梅雨は連日しとしとと小糠雨が降るというようなことはなく、「うっとうしい日が続きますねえ、梅雨ですからねえ」などというステレオタイプな会話は交わされないままである。九州辺りは連日の豪雨で土砂災害という報道がなされるが、大阪はあまり降らない。温暖化が理由らしいが最近の雨はバケツをひっくり返すような、南洋型の降り方が増えたので、「小糠雨」「霧雨」「村雨」「しぐれ」「涙雨」「通り雨」「慈雨」などという雨の降り方が多様であったことで生まれた日本語の語彙は消えて行ってしまうかも知れない。それぞれの雨の表現で流行歌の文句などを記憶から検索すると(たとえば、「小糠雨降る御堂筋、心変わりな夜の雨…」などと)加齢による認知機能の低下には良いそうですので、お試しを。
6月末は、7年ごとの大学認証評価授審のための自己評価書の提出期限、大学の設置認可の補正申請書の提出期限など、仕事は重要なものが山積して事務方は大変であった。もちろん責任者であるので、最後に目を通さねばならないことは言うまでもない。それぞれの仕事が、小さな大学では複数年にまたぐ大きな出来事である。無事、くぐり抜けることができれば事務方にはそれに応じた報酬が与えられるべきであると自分は考えて、折に触れてそれらしいことを進言しているが、反応は微妙で先のことはわからない。「こういういろいろな大変な作業をこなすことが、自分の成長に繋がるまたとないチャンスを与えてもらったのだから」、「皆がんばってくれているので、特別な配慮は返って平等という観点から課題を生む」という説明が準備されているのかも知れない(と懸念する)。非日常的課題な労働には応分の対価が普通と思ってしまう労働者側の認知図式は、一方では当然と認知されないこともある。物事には表裏があり片方からの見解がすべて適切と言うわけにも行かないのが社会的事象の特性である。だからもめ事が尽きぬのだが事態の表裏の両方を考えてみることは大切なことに違いない(簡単なことではないことは言うまでもないけど)。
大学の組織改編の一つに構想した心理科学部は設置が届け出により6月に正式に認められた。これまでの2年間を振り返れば、何度かアドレナリンが放出されたことがあり、武勇伝も思い出すがここで披露するわけにはいかない。心理科学部の学生募集活動を本格化している。従来の業者を代えての宣伝取り組みの反応は悪くはなさそうである。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」の車内ポスター、WEBでの宣伝戦略は話題になっている様子である。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」を検索すれば月ごとに新たな展開ストーリーが見られるので是非広めて欲しい。昨年の3倍程の費用を掛けたキャンペーンなので、話題になり受験希望者が増えないことには責任者として立つ瀬がない。規模が大きな大学であれば広報の具体に学長が関与することはせず、部署に任せるのが普通のはずだが、うちの大学では実際はそうはいかない。担当部署の職員には、自由に自分で責任を取るつもりで決定し、いちいち学長の決裁は要らないというのだが、最後は「学長が決めた」と言うことにしたいらしい。職員の気持ちもわからないではないので仕方なく希望に従っているが、学長のガバナンスとは縁遠いことで、愚痴である。
心理科学部の宣伝効果が今のところ順調なのだが、もう一つ予定している学部についての宣伝も頭痛の種である。今の心理科学部のような広報を高額な専門業者でなく、職員自分たちで生み出せるようにせねばというダメ出しも経営側からはもたらされる。専門業者と同じレベルの仕事ができれば問題はないが、それではプロの会社は存続しないわけで、難題なのである。
学長という名前をきくと何でもできるてっぺんの人と考える人が多いが、私立大学では経営と教職員の狭間で右往左往している中間管理職に過ぎない。したがって、当然ストレスはたまる(一方でポケットマネーは減って行く)。6月が終わろうとするが、ストレスは十分すぎるほど溜まっている。28日の日曜に後援会の総会に出てあいさつし、申請書等の点検を見届けたならば、学長職の衣を脱ぎ捨て、一週間は研究者に戻ることにしている(合間を縫っての学会発表の準備はできているのだ)。
月曜からシドニーの国際学会に出かけ、オペラハウスを対岸に見るアイリッシュパブで、オーストラリア・ワインとギネスをいっぱい飲んで、合流する教え子の研究者らを相手に、ストレス発散をすることに致します(辟易することでしょうが、酒代は払うので、辛抱してもらうしかない)。
6月末は、7年ごとの大学認証評価授審のための自己評価書の提出期限、大学の設置認可の補正申請書の提出期限など、仕事は重要なものが山積して事務方は大変であった。もちろん責任者であるので、最後に目を通さねばならないことは言うまでもない。それぞれの仕事が、小さな大学では複数年にまたぐ大きな出来事である。無事、くぐり抜けることができれば事務方にはそれに応じた報酬が与えられるべきであると自分は考えて、折に触れてそれらしいことを進言しているが、反応は微妙で先のことはわからない。「こういういろいろな大変な作業をこなすことが、自分の成長に繋がるまたとないチャンスを与えてもらったのだから」、「皆がんばってくれているので、特別な配慮は返って平等という観点から課題を生む」という説明が準備されているのかも知れない(と懸念する)。非日常的課題な労働には応分の対価が普通と思ってしまう労働者側の認知図式は、一方では当然と認知されないこともある。物事には表裏があり片方からの見解がすべて適切と言うわけにも行かないのが社会的事象の特性である。だからもめ事が尽きぬのだが事態の表裏の両方を考えてみることは大切なことに違いない(簡単なことではないことは言うまでもないけど)。
大学の組織改編の一つに構想した心理科学部は設置が届け出により6月に正式に認められた。これまでの2年間を振り返れば、何度かアドレナリンが放出されたことがあり、武勇伝も思い出すがここで披露するわけにはいかない。心理科学部の学生募集活動を本格化している。従来の業者を代えての宣伝取り組みの反応は悪くはなさそうである。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」の車内ポスター、WEBでの宣伝戦略は話題になっている様子である。「小野がなかなか告白しない理由は科学できる」を検索すれば月ごとに新たな展開ストーリーが見られるので是非広めて欲しい。昨年の3倍程の費用を掛けたキャンペーンなので、話題になり受験希望者が増えないことには責任者として立つ瀬がない。規模が大きな大学であれば広報の具体に学長が関与することはせず、部署に任せるのが普通のはずだが、うちの大学では実際はそうはいかない。担当部署の職員には、自由に自分で責任を取るつもりで決定し、いちいち学長の決裁は要らないというのだが、最後は「学長が決めた」と言うことにしたいらしい。職員の気持ちもわからないではないので仕方なく希望に従っているが、学長のガバナンスとは縁遠いことで、愚痴である。
心理科学部の宣伝効果が今のところ順調なのだが、もう一つ予定している学部についての宣伝も頭痛の種である。今の心理科学部のような広報を高額な専門業者でなく、職員自分たちで生み出せるようにせねばというダメ出しも経営側からはもたらされる。専門業者と同じレベルの仕事ができれば問題はないが、それではプロの会社は存続しないわけで、難題なのである。
学長という名前をきくと何でもできるてっぺんの人と考える人が多いが、私立大学では経営と教職員の狭間で右往左往している中間管理職に過ぎない。したがって、当然ストレスはたまる(一方でポケットマネーは減って行く)。6月が終わろうとするが、ストレスは十分すぎるほど溜まっている。28日の日曜に後援会の総会に出てあいさつし、申請書等の点検を見届けたならば、学長職の衣を脱ぎ捨て、一週間は研究者に戻ることにしている(合間を縫っての学会発表の準備はできているのだ)。
月曜からシドニーの国際学会に出かけ、オペラハウスを対岸に見るアイリッシュパブで、オーストラリア・ワインとギネスをいっぱい飲んで、合流する教え子の研究者らを相手に、ストレス発散をすることに致します(辟易することでしょうが、酒代は払うので、辛抱してもらうしかない)。
帰りなん、いざ、菜園荒れなんとす
年度末から年度始めに掛けて極めて多忙であったので、当然のこととして秋の収穫から我が菜園は野放し状態。収穫したままの葉っぱだけが残る傾いたブロッコリーの残骸や、刈り取られて根元だけが残るネギとワケギが菜園の端っこで存在している状態でありました。なんとかしたいと思いつつも、「この次に時間が取れる日にやろう」、「もうしばらく時間をおいても大丈夫じゃないかな」と怠惰の虫が跋扈していたのです。
しかし、5月のカレンダーには3日の日付の枠に、「落花生の種をまくこと」と書いてあるのです。昨年、落花生の種を家庭菜園仲間の職員から貰って、その時に教えられた植え頃をメモしておいたのです。もう猶予はできない。陶淵明風に言えば、「いざ帰りなん、菜園まさに荒れなんとす」というわけで、動きたくない信号を出す身体を気持ちで鼓舞することに何とか成功したのであります。もう止めて、果実でも植えようかとも考えるのですが、桃栗3年柿8年というのですから、生きている保証もなく、費用対効果は望めないことは自明であります。
菜園というのもはばかる2坪ほどの土地では、これまでいろいろなものに挑戦して来ました。鉈豆、芽キャベツ、人参などは無惨な失敗に終わりました。ただ、当たり障りのないものを植えるのでは、毎朝の散歩路で観察している貸し農園の作物の育ち方には勝てないので、珍しいものを育てようとしているであります。一種、優越感を味わいたい、話題作りをしたいという潜在動機がさせるのであります。
この辺りで落花生を作っているのを見たことがないので、挑戦しようと一年越しで企画してきたのであります。他者に自慢をする話題を作ることが高齢者の認知症対策では有効であると周りに行っているので、実践せねばなりません(人に自慢する一連の行為は、自発的に計画すること、回想して記憶を検索せねばならないこと、言葉を話さねばならないこと、など前頭葉が関係する脳機能を大いに使うからなのですヨ。もっとも自慢話ばかりは嫌がられるのですが、他人に気を使わなくなるのも老人には必要な特権的防衛規制であると、考えているのです)。
放置したままの菜園の状態では種をくれた職員にも悪いし、夏野菜への植え付けもおぼつかず、連休前日には先月に亀岡で買い込んで来た堆肥ややっと土にすき込んで4条ほどの畝を作ったのでした。2時間足らずの作業でしたが、その日には植え付ける体力が残っておらず、普段使わない内股の筋肉痛が出て休止(翌日に筋肉痛にならないのは若い証拠という慰めも自分で唱えつつもへたっていたのであります)。
連休明けに植え付けることにして、連休は諏訪の酒屋巡りという遊覧を長男夫婦と一緒に楽しむこととなりました。もちろん、この間には落花生の種を水につけて前日から戻しておくことや3粒ずつ植え付け、発芽後に2本に間引くなどの情報の入手をして準備に余念はなかったのであります。 落花生の種は茶封筒に入れて冷蔵庫のドアに保管しておいたはずでありました。自宅に戻って、さあ作業するかと冷蔵庫を探すのですが、肝心の茶封筒が見つからない。ドアの裏のポケットに二十日大根や三つ葉の種袋はあるが、肝心の落花生の袋がない。翌日には冷蔵庫の掃除を兼ねて探してもらったが見つからない。家内が捨てたのだろうという疑いは沸き起こるが、まだ前頭葉の機能も完全には壊れてはいないようで、外言化には至らずにすんだのでした。自分が忘れたのだ、記憶がダメになったと思い込まないのはポジティブ心理学的方略でもあるので、仕方なくキュウリ、トマト、ゴーヤ、シシトウ、満願寺唐辛子を植え付けたのでした。プランターには二十日大根の種をまき、サラダ菜、ワケギ、ネギを植えることとしました。これにミョウガが今年も50本以上芽を出しているので、数えるとかなりの品種を作っていることになり、欲張りなことに気づくのであります。しかし、近所では作っていない落花生を育て自慢する野望は潰えたのであります。生の落花生を殻ごと塩ゆでにして、ビールを飲むという情景は妄想の段階で終わったのであります。
というように、荒れなんとしていた我が菜園は現在のところは畝をマルチで覆いそれなりの姿を今年も維持できたのです。しかし、筋力の衰え、意欲の衰えの兆しは着実に実質化していることを思い知らされたのであります。
ただ、一条残った畝に何か散歩道の貸し農園では見かけない野菜を植えねばと考えているので、「be imitative」要素が枯渇してしまっているわけでもないと、都合良く考えることにしています。
しかし、5月のカレンダーには3日の日付の枠に、「落花生の種をまくこと」と書いてあるのです。昨年、落花生の種を家庭菜園仲間の職員から貰って、その時に教えられた植え頃をメモしておいたのです。もう猶予はできない。陶淵明風に言えば、「いざ帰りなん、菜園まさに荒れなんとす」というわけで、動きたくない信号を出す身体を気持ちで鼓舞することに何とか成功したのであります。もう止めて、果実でも植えようかとも考えるのですが、桃栗3年柿8年というのですから、生きている保証もなく、費用対効果は望めないことは自明であります。
菜園というのもはばかる2坪ほどの土地では、これまでいろいろなものに挑戦して来ました。鉈豆、芽キャベツ、人参などは無惨な失敗に終わりました。ただ、当たり障りのないものを植えるのでは、毎朝の散歩路で観察している貸し農園の作物の育ち方には勝てないので、珍しいものを育てようとしているであります。一種、優越感を味わいたい、話題作りをしたいという潜在動機がさせるのであります。
この辺りで落花生を作っているのを見たことがないので、挑戦しようと一年越しで企画してきたのであります。他者に自慢をする話題を作ることが高齢者の認知症対策では有効であると周りに行っているので、実践せねばなりません(人に自慢する一連の行為は、自発的に計画すること、回想して記憶を検索せねばならないこと、言葉を話さねばならないこと、など前頭葉が関係する脳機能を大いに使うからなのですヨ。もっとも自慢話ばかりは嫌がられるのですが、他人に気を使わなくなるのも老人には必要な特権的防衛規制であると、考えているのです)。
放置したままの菜園の状態では種をくれた職員にも悪いし、夏野菜への植え付けもおぼつかず、連休前日には先月に亀岡で買い込んで来た堆肥ややっと土にすき込んで4条ほどの畝を作ったのでした。2時間足らずの作業でしたが、その日には植え付ける体力が残っておらず、普段使わない内股の筋肉痛が出て休止(翌日に筋肉痛にならないのは若い証拠という慰めも自分で唱えつつもへたっていたのであります)。
連休明けに植え付けることにして、連休は諏訪の酒屋巡りという遊覧を長男夫婦と一緒に楽しむこととなりました。もちろん、この間には落花生の種を水につけて前日から戻しておくことや3粒ずつ植え付け、発芽後に2本に間引くなどの情報の入手をして準備に余念はなかったのであります。 落花生の種は茶封筒に入れて冷蔵庫のドアに保管しておいたはずでありました。自宅に戻って、さあ作業するかと冷蔵庫を探すのですが、肝心の茶封筒が見つからない。ドアの裏のポケットに二十日大根や三つ葉の種袋はあるが、肝心の落花生の袋がない。翌日には冷蔵庫の掃除を兼ねて探してもらったが見つからない。家内が捨てたのだろうという疑いは沸き起こるが、まだ前頭葉の機能も完全には壊れてはいないようで、外言化には至らずにすんだのでした。自分が忘れたのだ、記憶がダメになったと思い込まないのはポジティブ心理学的方略でもあるので、仕方なくキュウリ、トマト、ゴーヤ、シシトウ、満願寺唐辛子を植え付けたのでした。プランターには二十日大根の種をまき、サラダ菜、ワケギ、ネギを植えることとしました。これにミョウガが今年も50本以上芽を出しているので、数えるとかなりの品種を作っていることになり、欲張りなことに気づくのであります。しかし、近所では作っていない落花生を育て自慢する野望は潰えたのであります。生の落花生を殻ごと塩ゆでにして、ビールを飲むという情景は妄想の段階で終わったのであります。
というように、荒れなんとしていた我が菜園は現在のところは畝をマルチで覆いそれなりの姿を今年も維持できたのです。しかし、筋力の衰え、意欲の衰えの兆しは着実に実質化していることを思い知らされたのであります。
ただ、一条残った畝に何か散歩道の貸し農園では見かけない野菜を植えねばと考えているので、「be imitative」要素が枯渇してしまっているわけでもないと、都合良く考えることにしています。
春の過ぎ行く
今年の4月は雨が多く、4月2日の入学式こそ快晴であったが、それ以外は雨が降ったり寒かったりで、桜は愛でる間もなく散ってしまった。19日の日曜も雨であったが家内の用事で亀岡市に出かけた。高槻からは山を越えれば40分足らずのドライブで行ける。例年なら山桜が美しい峠越えの道中も味気ないことであった。
家内の用事を済ませて会場そばの道の駅に昼ご飯を調達しようと覗いてみると、花山椒が1パック200円で売っていた。山椒はつぶつぶの実山椒が一般的だが短期間に花だけ咲く山椒の木もあるのだ。
花山椒の佃煮は僕の大好物で、いわゆる「おふくろの味」である。花の部分だけで若芽も一切入れないで作る佃煮である。そんな佃煮知らないという人は、インターネットで調べて見て欲しい。椎茸の佃煮で有名な京都の永楽屋では65g入りを2,484円で販売しているし、形状もわかる。季節限定の高級食材なのである。
僕が小学生の頃のことで60年ぐらい昔のことである。この季節になると湖北の田舎に大阪から仲買人が花山椒を買いに来た。花だけを手摘みにするのだから、摘み手は田舎の女と子どもである。仲買人が買い付けたあちこちの畑にある目印のある山椒の木を指示してもらい、見つけて花だけを摘むのだ。根気のいる手仕事である。摘んだ花山椒の重さを計測してもらい、摘み賃をもらうのである。当時の湖北では田んぼでの仕事が始まる前の春での数少ない現金収入の道であった。この花山椒は高級料亭で使うということを仲買人は教えてくれた。僕は小さすぎたのか、根気がない子だったのか実際に畑に出かけて仕事をした記憶はない。
田舎でも女の人が働くようになり、摘み手がいなくなったことや、仲買人も年を取ったのだろう、そのうち来なくなった。おそらく、母親も本物の花山椒の佃煮を食べたことはないはずだが、その頃から彼女は花山椒の佃煮を作るようになったと思われる。小鮎の飴炊きに添えると佃煮の味は一段と風味を増し、山椒の香りが何とも良いのである。辛口の日本酒などが欲しくなる絶品なのだ。
関連する記憶の検索で前置きが長くなったが、道の駅で花山椒を購入した。佃煮を作ってみようと思ってしまったのである。そこでの商品は若芽がほとんど混じっていない、花だけの良質なものであったことも、動機づけを高めたと思う(ときどき、花山椒を売っているのを見るが若芽が混じっていないのは始めて見た気がした)。5パック買い求めた。
インターネットで作り方を調べると、どのサイトの調理法でも一様に醤油:酒:みりんが1:1:0.5とある。帰宅して、早速挑戦した。水洗いした山椒を醤油、酒、みりんで煮ること約20分。ボール一杯の山椒は小さめのおにぎり大になった。佃煮は量がしぼむもんだから仕方がないけどもう数パック買っておけば良かったかもと思いつつ、味見をする。なんと、塩辛いだけであった。慌てて水をくぐらせておにぎり大のものを食べることは食べたが、母親の作る花山椒の佃煮とは似ても似つかない形状と味であった。山椒の香りだけは少しはしましたけどね。失敗は醤油、酒、みりんの量について間違ったからである(後で考えれば、当たり前なのになぜ焦ったのだろう)。
「おふくろの味」というものは生きているうちに作り方を聞いておかねば後悔しますというのが教訓である。捲土重来を期するつもりではいるが、1年後の話になる。
先週の週末は仙台に孫娘を訪ねた。先月末の空港での見送りが、別れ際が中途半端であると逢いたさが余計に大きくなるという「ザイガルニック効果」を生んだのかも知れない。晴天の土曜日には八木山動物園に連れていったが、大人ほど楽しかったのかは不明である。ひと月見ない間に大きくなったような気がする孫は、逢ってしばらくするとすっかり打ち解けて、前の住人の子どもが残して行ったおもちゃを次々に自慢げに見せに来た(息子の友人である前の住人一家が留学したのを居抜きで安く借りているのです)。孫には恥ずかしいなどの複雑な感情の分化が見られ、順調に発達している兆候を確認できた。
ホテルに帰るときには気軽にバイバイしていた孫が、日曜日の午後空港に向かうべくバイバイというと、「バイバイ、いやだ」と叫んで別れるのを嫌がってくれた。何かの気配で翌日逢わないことを検知したのであろう。
これが「後ろ髪を引かれる思い」というものを初体験できたのであります。先月の伊丹でこの感情を味わいたかったのだと得心した次第。このように情けない気持ちや新規な情動を味わいながら4月は過ぎて行くのであります。
家内の用事を済ませて会場そばの道の駅に昼ご飯を調達しようと覗いてみると、花山椒が1パック200円で売っていた。山椒はつぶつぶの実山椒が一般的だが短期間に花だけ咲く山椒の木もあるのだ。
花山椒の佃煮は僕の大好物で、いわゆる「おふくろの味」である。花の部分だけで若芽も一切入れないで作る佃煮である。そんな佃煮知らないという人は、インターネットで調べて見て欲しい。椎茸の佃煮で有名な京都の永楽屋では65g入りを2,484円で販売しているし、形状もわかる。季節限定の高級食材なのである。
僕が小学生の頃のことで60年ぐらい昔のことである。この季節になると湖北の田舎に大阪から仲買人が花山椒を買いに来た。花だけを手摘みにするのだから、摘み手は田舎の女と子どもである。仲買人が買い付けたあちこちの畑にある目印のある山椒の木を指示してもらい、見つけて花だけを摘むのだ。根気のいる手仕事である。摘んだ花山椒の重さを計測してもらい、摘み賃をもらうのである。当時の湖北では田んぼでの仕事が始まる前の春での数少ない現金収入の道であった。この花山椒は高級料亭で使うということを仲買人は教えてくれた。僕は小さすぎたのか、根気がない子だったのか実際に畑に出かけて仕事をした記憶はない。
田舎でも女の人が働くようになり、摘み手がいなくなったことや、仲買人も年を取ったのだろう、そのうち来なくなった。おそらく、母親も本物の花山椒の佃煮を食べたことはないはずだが、その頃から彼女は花山椒の佃煮を作るようになったと思われる。小鮎の飴炊きに添えると佃煮の味は一段と風味を増し、山椒の香りが何とも良いのである。辛口の日本酒などが欲しくなる絶品なのだ。
関連する記憶の検索で前置きが長くなったが、道の駅で花山椒を購入した。佃煮を作ってみようと思ってしまったのである。そこでの商品は若芽がほとんど混じっていない、花だけの良質なものであったことも、動機づけを高めたと思う(ときどき、花山椒を売っているのを見るが若芽が混じっていないのは始めて見た気がした)。5パック買い求めた。
インターネットで作り方を調べると、どのサイトの調理法でも一様に醤油:酒:みりんが1:1:0.5とある。帰宅して、早速挑戦した。水洗いした山椒を醤油、酒、みりんで煮ること約20分。ボール一杯の山椒は小さめのおにぎり大になった。佃煮は量がしぼむもんだから仕方がないけどもう数パック買っておけば良かったかもと思いつつ、味見をする。なんと、塩辛いだけであった。慌てて水をくぐらせておにぎり大のものを食べることは食べたが、母親の作る花山椒の佃煮とは似ても似つかない形状と味であった。山椒の香りだけは少しはしましたけどね。失敗は醤油、酒、みりんの量について間違ったからである(後で考えれば、当たり前なのになぜ焦ったのだろう)。
「おふくろの味」というものは生きているうちに作り方を聞いておかねば後悔しますというのが教訓である。捲土重来を期するつもりではいるが、1年後の話になる。
先週の週末は仙台に孫娘を訪ねた。先月末の空港での見送りが、別れ際が中途半端であると逢いたさが余計に大きくなるという「ザイガルニック効果」を生んだのかも知れない。晴天の土曜日には八木山動物園に連れていったが、大人ほど楽しかったのかは不明である。ひと月見ない間に大きくなったような気がする孫は、逢ってしばらくするとすっかり打ち解けて、前の住人の子どもが残して行ったおもちゃを次々に自慢げに見せに来た(息子の友人である前の住人一家が留学したのを居抜きで安く借りているのです)。孫には恥ずかしいなどの複雑な感情の分化が見られ、順調に発達している兆候を確認できた。
ホテルに帰るときには気軽にバイバイしていた孫が、日曜日の午後空港に向かうべくバイバイというと、「バイバイ、いやだ」と叫んで別れるのを嫌がってくれた。何かの気配で翌日逢わないことを検知したのであろう。
これが「後ろ髪を引かれる思い」というものを初体験できたのであります。先月の伊丹でこの感情を味わいたかったのだと得心した次第。このように情けない気持ちや新規な情動を味わいながら4月は過ぎて行くのであります。
やり場のない思いはマネジメントせねばならないのだ
勤務先の大学では新学部を設置予定である。審査が未だなので学部名や内容は書けない。申請書は高さが20センチほどの量である。何度も文科省に事務相談に通い、指導を受けながら作成したものである。3月23日に文科省に設置関連書類を職員に持参してもらった。提出時間も3時と決まっており、十分に吟味し、万全を期したつもりであったので無事提出しましたとの連絡を待っていた。午後1時からの会議を3時過ぎに終えて部屋に戻ったとたんに、出張している事務職員から携帯に電話がかかった。緊張気味の電話で不備が2点見つかり、明日6時までに差し替え箇所を郵送する必要があるという。そうでないと、申請は受理されず、翌年回しになるのであった。思いもよらない電話ですっかり、うろたえてしまった。招聘する教員候補者の学位名が承諾書と別な記載箇所で不一致があるのと、学長の研究業績書の記載形式が違っているというのである。すぐに、携帯電話をするとその教員候補者が電話に出てくれた。6時頃に学位記を確認し正しいものを連絡してもらうこと、明日午前中に実印をもらいに行く段取りを決めた(6時頃の電話で正式の学位名が分かり、実印の要らない書類を直せばよいことがわかりこの仕事は不要となったのですが)。
僕は、携帯電話は基本的に部屋に置いて置く不携帯派なのだが、この日は会議が一つ終わり部屋に戻ったときに運良く事務職員からの電話が鳴ったのである。普段ならこのように上手く連絡がすぐ取れることはない。それと、電話をしたらすぐに教員候補者が出てくれたことも運が良かった。
僕の業績記載形式については、事務方で確認しなかったためだが学長は審査対象となる教員でないので仕方がない。文科省の事務官が学長の業績リストを受付時に詳細に見ることなど考えられないのだが、指摘を受けたのでその日のうちに修正しなければならないはめになった。文科省形式の教員業績の記載法が代わったことは昨年夏に知らされていた。自慢していると思われると心外なのであるが、業績は多いので昨年の夏から整理していた。英文の論文には日本語の要約に加えて、英文の要約を付けるという変更であった。英文論文のabstractをpdfにしたものからコピーする方法も駆使したが、古い論文はコピーが不鮮明なので手作業で入力した。昨年12月は正月休みを入れて膨大な時間を掛け、疲労困憊したのであった。英文のタイトルの邦訳を記載せよとは聞いていなかったが、不備というのは英文タイトルの邦訳が抜けているという指摘であった。すぐに、作業に取りかかりたいのだが、4時から大学評議会、その後入試の判定会議があり、気は焦るばかりであった。言うまでもなく、僕のせいで設置申請が1年延期させる訳には行かない。何としても当日中に作業をしなければならなかった。どれだけ時間が掛かるのか見当もつかない。翌日は卒業式なので、衣装が要るし、実印もいるので自宅に帰る必要はあるが徹夜になっても直すしかないので、何時に帰れるか分からないと自宅に電話して、業績ファイルから英文論文を選びタイトルに邦訳を付ける作業に6時頃から取りかかった。昼からずっと会議で十分疲労は感じていたが、かすむ目をこすり、こわばる肩や指先を駆使して最近では考えられないくらいに、吐き気と闘いながらがんばった。僕の作業を事務職員は終わるまで何時でも待つと言うのでともかく急いだ。業績審査をする専門家が英文論文名に邦訳が必要な訳はなく、何のためにこんなことをさせられるのか、やり場のない思いをなだめすかせて9時頃に作業を終えた。ノンストップで作業をしたので思いのほか早く終える事ができた。翌日数えたら173編に訳文を付けたのであった。ちなみに、英文論文の英文での要約はその後不要という連絡があったそうで、誰かしらないが事務官の意味のない思いつきに振り回されたのであった(あの膨大な作業と時間を返せ!と叫びたい)。
10時半頃に帰宅できたが、車中では文句を言う先も見つからないやり場のない腹立たしさと疲労感でいっぱいであった。大学に勤めるのも早く終わらねば、忙しいだけの人生になってしまうぞと電話をくれる合唱団の先輩の言葉が蘇るのであった。気持ちの高ぶりは収まらず、家内には一言も口をきかずに寝た(口を聞くと悪態をついたであろうが、古女房は気配を察知して近寄らない)。夜も良く眠れず、24日の卒業式の後は燃え尽き状態であった。
いくつかの幸運が重なって、何とか新学部設置の申請書は届ける事が叶ったのだから、未だ自分には付きが残っている、自分でも未だ集中力が残っているのだとポシティブ心理学風に考えるようにしなければなるまい、と言い聞かせようとしている。
28日は仙台に引っ越す次男一家を伊丹空港まで送り届けた。空港で孫と一緒に何かを食べるべく早めに自宅を出たのだが、中国道は事故渋滞で到着が遅れて計画は叶わなかった。飛行機には間に合ったので、自分には付きが残っていると考えようと自分に言い聞かせている。若い夫婦は新しい土地で始まる生活に夢中で(不安もあるのだろうが)、残される老夫婦のやり場のない思いにまでは気が回らない。自分も半世紀前には親にそういう思いをさせてきたのは間違いないのだから、このしばらくは続くであろうやり場のない思いを何とかマネジメントして生きて行かなければなるまい。
僕は、携帯電話は基本的に部屋に置いて置く不携帯派なのだが、この日は会議が一つ終わり部屋に戻ったときに運良く事務職員からの電話が鳴ったのである。普段ならこのように上手く連絡がすぐ取れることはない。それと、電話をしたらすぐに教員候補者が出てくれたことも運が良かった。
僕の業績記載形式については、事務方で確認しなかったためだが学長は審査対象となる教員でないので仕方がない。文科省の事務官が学長の業績リストを受付時に詳細に見ることなど考えられないのだが、指摘を受けたのでその日のうちに修正しなければならないはめになった。文科省形式の教員業績の記載法が代わったことは昨年夏に知らされていた。自慢していると思われると心外なのであるが、業績は多いので昨年の夏から整理していた。英文の論文には日本語の要約に加えて、英文の要約を付けるという変更であった。英文論文のabstractをpdfにしたものからコピーする方法も駆使したが、古い論文はコピーが不鮮明なので手作業で入力した。昨年12月は正月休みを入れて膨大な時間を掛け、疲労困憊したのであった。英文のタイトルの邦訳を記載せよとは聞いていなかったが、不備というのは英文タイトルの邦訳が抜けているという指摘であった。すぐに、作業に取りかかりたいのだが、4時から大学評議会、その後入試の判定会議があり、気は焦るばかりであった。言うまでもなく、僕のせいで設置申請が1年延期させる訳には行かない。何としても当日中に作業をしなければならなかった。どれだけ時間が掛かるのか見当もつかない。翌日は卒業式なので、衣装が要るし、実印もいるので自宅に帰る必要はあるが徹夜になっても直すしかないので、何時に帰れるか分からないと自宅に電話して、業績ファイルから英文論文を選びタイトルに邦訳を付ける作業に6時頃から取りかかった。昼からずっと会議で十分疲労は感じていたが、かすむ目をこすり、こわばる肩や指先を駆使して最近では考えられないくらいに、吐き気と闘いながらがんばった。僕の作業を事務職員は終わるまで何時でも待つと言うのでともかく急いだ。業績審査をする専門家が英文論文名に邦訳が必要な訳はなく、何のためにこんなことをさせられるのか、やり場のない思いをなだめすかせて9時頃に作業を終えた。ノンストップで作業をしたので思いのほか早く終える事ができた。翌日数えたら173編に訳文を付けたのであった。ちなみに、英文論文の英文での要約はその後不要という連絡があったそうで、誰かしらないが事務官の意味のない思いつきに振り回されたのであった(あの膨大な作業と時間を返せ!と叫びたい)。
10時半頃に帰宅できたが、車中では文句を言う先も見つからないやり場のない腹立たしさと疲労感でいっぱいであった。大学に勤めるのも早く終わらねば、忙しいだけの人生になってしまうぞと電話をくれる合唱団の先輩の言葉が蘇るのであった。気持ちの高ぶりは収まらず、家内には一言も口をきかずに寝た(口を聞くと悪態をついたであろうが、古女房は気配を察知して近寄らない)。夜も良く眠れず、24日の卒業式の後は燃え尽き状態であった。
いくつかの幸運が重なって、何とか新学部設置の申請書は届ける事が叶ったのだから、未だ自分には付きが残っている、自分でも未だ集中力が残っているのだとポシティブ心理学風に考えるようにしなければなるまい、と言い聞かせようとしている。
28日は仙台に引っ越す次男一家を伊丹空港まで送り届けた。空港で孫と一緒に何かを食べるべく早めに自宅を出たのだが、中国道は事故渋滞で到着が遅れて計画は叶わなかった。飛行機には間に合ったので、自分には付きが残っていると考えようと自分に言い聞かせている。若い夫婦は新しい土地で始まる生活に夢中で(不安もあるのだろうが)、残される老夫婦のやり場のない思いにまでは気が回らない。自分も半世紀前には親にそういう思いをさせてきたのは間違いないのだから、このしばらくは続くであろうやり場のない思いを何とかマネジメントして生きて行かなければなるまい。
27回忌・50回忌で考えた
2月21日(土)は早朝から法事にでかけた。実家がある長浜近くになると山のそこかしこや道端に雪が残っており、懐かしさを覚える見慣れた光景である。当日、出席を乞われた大学での行事はあったが、半年前から日程を確認されていたこともあり行事への参加は理事長に替わってもらった。
実家のある地域では、法事は共同体の重要な行事で欠席は基本的には許されない。とりわけ、母親の法要に息子が参加しないことは大事になる(おそらく兄は困ることになるはず)。50回忌は祖母のもので合同での法事であった。50回忌まで法要を催すことは宗教意識の強いこの地域の特徴で、長く家を存続させることができた証でもあるので当主や嫁にとっては誇らしいお祝い事でもある。
法事の連絡には法名しか書いていないので誰の法事かと、のんきに構えていたが母親の27回忌法要であった。参加してよかったと安堵したことある。50歳代からパ-キンソン病にかかり72歳で亡くなった母親は、子どもとして何の不足もない、控えめな優しい人であった。難病を受け入れつつ生きた晩年を思い出すと辛く、今でも涙がでてしまう。母親の法事を失念していたとは、まったく「反省!」しかありませぬ。ただ、言い訳がましいが、最近では3回忌、7回忌、13回忌程度までしか聞くことがない。27回忌という法要があることを知らなかった。各左様に、家内や息子たちが「実家の辺りでは江戸時代が続いている」と揶揄するほどに、古い地域での共同体での窮屈さにはなかなか手強いものがあります。
しかし、共同体の窮屈さにもネガティブなものばかりではないようにも思っている。何事にも良いことと有り難くないことは表裏にある。
戦後20年ほど経過すると日本社会は物質的な豊かさをもっぱら追求し「経済は奇跡的に発展したが、倫理観を変容させてしまった。共同体が持つ構成員への目配り意識や弱いものへの思いやりといった倫理感を薄れさせた。窮屈な共同体の中で自分を抑えることを忌避し、欲望を好きなだけ追求することを目指したように思う。その結果、今日の社会では、人は子どもの部分(欲望追求、自己中心性、他罰性など)を残したまま年を重ねているのではないかと考えることがある。
共同体意識がそれほど弱体化していない実家の周辺では、面倒でも親戚縁者の法事参加は優先事項なのである。古い日本が残る地域のエピソードを書き続けると切りがないのでこれくらいで止めにしょう。ともかく7時頃に家を出て、9時半から2人のお坊さんの経を12時15分まで聞いた。故人一人ずつ3つの経を読んでくれるので、正座をしていなくても同じ姿勢のため腰の筋肉はこわばり、電車での影響も加わって下半身への影響は甚大であった(翌朝のスイミングで何とか大事にはいたらなかったけど)。
法事に向かう電車の中で読んだ雑誌に、お寺の経営についての記事を見つけ、法事=お寺という連想が活性したので、足下が寒いのを我慢しつつ記事を読んでいくと、大学と状況は類似していると感じたことである。日本には約8万のお寺があり、コンビニよりも5割以上も多いという。現在の檀家制度は江戸時代の国策(キリシタンでないことを証明させる制度)で民衆はいずれかの寺院を菩提寺にせねばならなかったが、国策ゆえの強制であり、信仰心に由来していない結びつきなので、先祖供養の衰退の潮流が止まることを知らず,寺院で年収1000万以上は3割未満という。寺院の維持管理にはお金が掛かるので住職の給与にまわる分は多くはないことが推察できる。著名な大規模寺院は経済的にも潤うが,6割以上の住職は兼業せざるをえないのが昨今の状況であると記載されていた。
この経済的な豊かさの割合は私立大学の状況と酷似しているではないか。3割ほどの大規模有名大学は経済的に潤っているが、大多数の大学では存続する方策を模索し必死である。この記事の著者らは「未来の住職塾」の提唱者で、これからのお寺に求められる必須条件を3つ上げている。この内容は「未来の私立大学」に必須の条件と言っても良く、示唆的なので紹介しよう。読者層が大学で碌を得ている人が多いのではないかと勝手に思っているためである。
第1はお寺の魅力は、住職・僧侶の人柄にあるという。僧侶の人柄に相手を包み込むものを求めている。「誰が法話をするかで,有り難さが規定される」という。2つ目は、檀家が何に価値を感じ,求めているかを知ることが大切であるという。3つ目はお寺が社会に存続する意義を明確にする、使命を明らかにすることとしている。私立大学にこの3点を置き換えると、第1は教職員の人柄で、檀家に相応する学生が「得もいわれぬ人柄の良さと相手を包み込む人柄」を持つと思ってくれるかということになろう。教職員の人格陶冶の重要性ということであろう。第2は学生、保護者が何を求めているかを知ることとなろう。何を目指しているのかを明確化し、その実現にしっかり関わることが重要ということになろう。3つ目は、私立大学は社会の存在する意義を明確にすることで、何のために存在し、どのような価値を社会に提供するのかの使命の明確な自覚ということになろう。
日本のお寺は数百年の歴史の間に消滅したところも耐えて存続して来たものもある。生き残って来た寺院は常に社会の環境変化に適合する努力をしたのである。私が所属する規模の私立大学が存続できるかは社会環境の変化に如何に上手に適合していくかにかかっているのだ。冷静に考え,方向性を常時調整しながら、熱く取り組むことがしなやかにしたかに生きつづけることの要諦だと考えた次第。
母親の法事のついでに大学運営のことを考えるようになっているとは.....。こんなので良いのかしらと考えつつも、元気な従兄弟たちとの杯のやり取りで味わえた非日常の心地よさを反芻しているのであります。
実家のある地域では、法事は共同体の重要な行事で欠席は基本的には許されない。とりわけ、母親の法要に息子が参加しないことは大事になる(おそらく兄は困ることになるはず)。50回忌は祖母のもので合同での法事であった。50回忌まで法要を催すことは宗教意識の強いこの地域の特徴で、長く家を存続させることができた証でもあるので当主や嫁にとっては誇らしいお祝い事でもある。
法事の連絡には法名しか書いていないので誰の法事かと、のんきに構えていたが母親の27回忌法要であった。参加してよかったと安堵したことある。50歳代からパ-キンソン病にかかり72歳で亡くなった母親は、子どもとして何の不足もない、控えめな優しい人であった。難病を受け入れつつ生きた晩年を思い出すと辛く、今でも涙がでてしまう。母親の法事を失念していたとは、まったく「反省!」しかありませぬ。ただ、言い訳がましいが、最近では3回忌、7回忌、13回忌程度までしか聞くことがない。27回忌という法要があることを知らなかった。各左様に、家内や息子たちが「実家の辺りでは江戸時代が続いている」と揶揄するほどに、古い地域での共同体での窮屈さにはなかなか手強いものがあります。
しかし、共同体の窮屈さにもネガティブなものばかりではないようにも思っている。何事にも良いことと有り難くないことは表裏にある。
戦後20年ほど経過すると日本社会は物質的な豊かさをもっぱら追求し「経済は奇跡的に発展したが、倫理観を変容させてしまった。共同体が持つ構成員への目配り意識や弱いものへの思いやりといった倫理感を薄れさせた。窮屈な共同体の中で自分を抑えることを忌避し、欲望を好きなだけ追求することを目指したように思う。その結果、今日の社会では、人は子どもの部分(欲望追求、自己中心性、他罰性など)を残したまま年を重ねているのではないかと考えることがある。
共同体意識がそれほど弱体化していない実家の周辺では、面倒でも親戚縁者の法事参加は優先事項なのである。古い日本が残る地域のエピソードを書き続けると切りがないのでこれくらいで止めにしょう。ともかく7時頃に家を出て、9時半から2人のお坊さんの経を12時15分まで聞いた。故人一人ずつ3つの経を読んでくれるので、正座をしていなくても同じ姿勢のため腰の筋肉はこわばり、電車での影響も加わって下半身への影響は甚大であった(翌朝のスイミングで何とか大事にはいたらなかったけど)。
法事に向かう電車の中で読んだ雑誌に、お寺の経営についての記事を見つけ、法事=お寺という連想が活性したので、足下が寒いのを我慢しつつ記事を読んでいくと、大学と状況は類似していると感じたことである。日本には約8万のお寺があり、コンビニよりも5割以上も多いという。現在の檀家制度は江戸時代の国策(キリシタンでないことを証明させる制度)で民衆はいずれかの寺院を菩提寺にせねばならなかったが、国策ゆえの強制であり、信仰心に由来していない結びつきなので、先祖供養の衰退の潮流が止まることを知らず,寺院で年収1000万以上は3割未満という。寺院の維持管理にはお金が掛かるので住職の給与にまわる分は多くはないことが推察できる。著名な大規模寺院は経済的にも潤うが,6割以上の住職は兼業せざるをえないのが昨今の状況であると記載されていた。
この経済的な豊かさの割合は私立大学の状況と酷似しているではないか。3割ほどの大規模有名大学は経済的に潤っているが、大多数の大学では存続する方策を模索し必死である。この記事の著者らは「未来の住職塾」の提唱者で、これからのお寺に求められる必須条件を3つ上げている。この内容は「未来の私立大学」に必須の条件と言っても良く、示唆的なので紹介しよう。読者層が大学で碌を得ている人が多いのではないかと勝手に思っているためである。
第1はお寺の魅力は、住職・僧侶の人柄にあるという。僧侶の人柄に相手を包み込むものを求めている。「誰が法話をするかで,有り難さが規定される」という。2つ目は、檀家が何に価値を感じ,求めているかを知ることが大切であるという。3つ目はお寺が社会に存続する意義を明確にする、使命を明らかにすることとしている。私立大学にこの3点を置き換えると、第1は教職員の人柄で、檀家に相応する学生が「得もいわれぬ人柄の良さと相手を包み込む人柄」を持つと思ってくれるかということになろう。教職員の人格陶冶の重要性ということであろう。第2は学生、保護者が何を求めているかを知ることとなろう。何を目指しているのかを明確化し、その実現にしっかり関わることが重要ということになろう。3つ目は、私立大学は社会の存在する意義を明確にすることで、何のために存在し、どのような価値を社会に提供するのかの使命の明確な自覚ということになろう。
日本のお寺は数百年の歴史の間に消滅したところも耐えて存続して来たものもある。生き残って来た寺院は常に社会の環境変化に適合する努力をしたのである。私が所属する規模の私立大学が存続できるかは社会環境の変化に如何に上手に適合していくかにかかっているのだ。冷静に考え,方向性を常時調整しながら、熱く取り組むことがしなやかにしたかに生きつづけることの要諦だと考えた次第。
母親の法事のついでに大学運営のことを考えるようになっているとは.....。こんなので良いのかしらと考えつつも、元気な従兄弟たちとの杯のやり取りで味わえた非日常の心地よさを反芻しているのであります。