時は巡る
2月ももう終わりの週を迎えようとしている。新年になってずいぶん時間が経過した想いが強い。日程表で確認しつつ仕事をこなす日常で、最近は手帳をiPad miniに頼っている。予定表で会議は赤色にしているので新年に入って以降の日程表は真っ赤になっている。予定表に書き込まない相談ごとなども少なくないのでともかく忙しい。予定はルーティン的なものが多いので、心的時間経過でアンカーになる出来事がないと時間の流れはとにかく速い。
こういう早い時間の流れの中でも非日常的な出来事がエピソード記憶を作る。しかしこのようなエピソード記憶も3年以内に大部分は消えることを以前にNTTからお金をもらって研究したことがある。コンピュータのメモリーは適当な時期に自然に消えていくのが望ましいとすると、いつ頃だろうという設問の課題にお金が付いたのである。その結果、「出来事の記憶は3年でほぼ消えるので、死者を回想することを必然化するために3回忌があるのだろう」と書き込んだ部分は削除された(英文誌で想いを伝えるほどの語学力はないので仕方がない)。浄土真宗では3回忌の次は13回忌である。
父親の13回忌があり帰郷した。平成13年の12月15日に亡くなったのであるが、湖北では法事は農閑期に行うのが決まりで、法事は年の初めにやってしまう習わしである。もうそんなに時間が経過したのかという想いがする。
13回忌の法要は2人の坊さんが来て経を3つ読んで2時間が過ぎてから食事となる。40人ほどの親戚(膳に座る当主は25名ほど)が集まる。自宅で開催するのでお経の後は4-5時間ほどの宴会となる。
このような法事では、嫁いで外に出ている親戚縁者の嫁や婿のデビューとなるので、品定めが行われる(と解釈している)。人当たりの良さ、知的レベルなどを杯のやり取り(小さい猪口で、日本酒がやりとりされる。自分の酒に対する耐性の自覚、周囲への気配り、会話の品質が評価対象になる)の中で判別する。良い嫁をもらった、良い婿がきたなどと評価されることになる(子どもの頃は宴会途中での歌の紹介があるので、作歌も評価対象の素養であった)。
宴会の前には当主(今回では甥)が下座で歌舞伎役者のするように、扇子を手前に置いて挨拶をする習わしである。きちんと挨拶できるかは若い当主には心配事である。お酒が入って時間が経過していくと本音でものを言うようになるが、其処での内容はコミュニティの人事(区長、区長の代理、その他役員)が終盤での決まった話題になる。込み入ってくる話は背景が分からないので加われないが、話題は次年度以降のコミュニティ人事についてである。決して年功序列で選ばないこと、順番で決めるなどのいい加減さはなく、有能とみんなが認める人物を法事などの宴席の対話の中から選抜していく機能と解釈できる。何百年とつづくコミュニティにはこのようにして、組織を構成し維持するしくみがあるのだと、田舎を出て50年になる部外者である僕は気づいたことである。何のことはない、現代の経営者らが指摘する「本音で対話を仕合い、人物の力量を評価して順番とか年齢とかによらずにリーダーを選ぶ重要性」は古いコミュニティに既に蓄積されてきたことに気づいたことである。
読経の後で法話がなされる。今回は父の残した歌集のうちの「涼風」から何編かが紹介され、仏教の教義に沿って解釈が披露された。「草を刈る、その瞬間も伸び止まぬ 命あるもの刈ると鎌研ぐ」、「新しき、朝を迎えて先ず念仏 百歳生きても短き行き先」など数編が紹介された。前者は、私たちは様々な命を糧として、生きて行かざるを得ない、雑草にも命を見いだすのは仏教の原点であるという。後者は90歳で亡くなる少し前のもので辞世の歌と紹介された。もう死が近いが、余命が短くても長くても、悠久の時の流れの中では何ほどの違いもない、と近づく死を自然に受け入れていたことが伺えるという解釈であった。自分が将来同じような境地を得ることができるだろうかと、考えさせられたことである。
何回忌という法事は、生きている者が自分たちを育てた者達への回顧と、残された人生の生き方への振り返りをもたらす機能を有していることに気づかされる。大仰な法事は面倒なことではあるが、古い地域コミュニティで法事が存続し続けられる理由にメリットも内包していることがあるのではないかと、社会学者でもないのに考察したのであります。
2月の11日の深夜に、女の子の初孫が誕生した。昨日嫁の実家を訪ねて腕に抱くことができた。未だ祖父になったという実感は薄いが、このようにして命がつながれて時は巡っていくのであろう。孫がこの文章を読むような可能性を考えると、もの忘れしないコンピュータも在ってよいのかも知れぬと、昔書いた論文の主張とは違う事を考えたりしてしまうのであります。
こういう早い時間の流れの中でも非日常的な出来事がエピソード記憶を作る。しかしこのようなエピソード記憶も3年以内に大部分は消えることを以前にNTTからお金をもらって研究したことがある。コンピュータのメモリーは適当な時期に自然に消えていくのが望ましいとすると、いつ頃だろうという設問の課題にお金が付いたのである。その結果、「出来事の記憶は3年でほぼ消えるので、死者を回想することを必然化するために3回忌があるのだろう」と書き込んだ部分は削除された(英文誌で想いを伝えるほどの語学力はないので仕方がない)。浄土真宗では3回忌の次は13回忌である。
父親の13回忌があり帰郷した。平成13年の12月15日に亡くなったのであるが、湖北では法事は農閑期に行うのが決まりで、法事は年の初めにやってしまう習わしである。もうそんなに時間が経過したのかという想いがする。
13回忌の法要は2人の坊さんが来て経を3つ読んで2時間が過ぎてから食事となる。40人ほどの親戚(膳に座る当主は25名ほど)が集まる。自宅で開催するのでお経の後は4-5時間ほどの宴会となる。
このような法事では、嫁いで外に出ている親戚縁者の嫁や婿のデビューとなるので、品定めが行われる(と解釈している)。人当たりの良さ、知的レベルなどを杯のやり取り(小さい猪口で、日本酒がやりとりされる。自分の酒に対する耐性の自覚、周囲への気配り、会話の品質が評価対象になる)の中で判別する。良い嫁をもらった、良い婿がきたなどと評価されることになる(子どもの頃は宴会途中での歌の紹介があるので、作歌も評価対象の素養であった)。
宴会の前には当主(今回では甥)が下座で歌舞伎役者のするように、扇子を手前に置いて挨拶をする習わしである。きちんと挨拶できるかは若い当主には心配事である。お酒が入って時間が経過していくと本音でものを言うようになるが、其処での内容はコミュニティの人事(区長、区長の代理、その他役員)が終盤での決まった話題になる。込み入ってくる話は背景が分からないので加われないが、話題は次年度以降のコミュニティ人事についてである。決して年功序列で選ばないこと、順番で決めるなどのいい加減さはなく、有能とみんなが認める人物を法事などの宴席の対話の中から選抜していく機能と解釈できる。何百年とつづくコミュニティにはこのようにして、組織を構成し維持するしくみがあるのだと、田舎を出て50年になる部外者である僕は気づいたことである。何のことはない、現代の経営者らが指摘する「本音で対話を仕合い、人物の力量を評価して順番とか年齢とかによらずにリーダーを選ぶ重要性」は古いコミュニティに既に蓄積されてきたことに気づいたことである。
読経の後で法話がなされる。今回は父の残した歌集のうちの「涼風」から何編かが紹介され、仏教の教義に沿って解釈が披露された。「草を刈る、その瞬間も伸び止まぬ 命あるもの刈ると鎌研ぐ」、「新しき、朝を迎えて先ず念仏 百歳生きても短き行き先」など数編が紹介された。前者は、私たちは様々な命を糧として、生きて行かざるを得ない、雑草にも命を見いだすのは仏教の原点であるという。後者は90歳で亡くなる少し前のもので辞世の歌と紹介された。もう死が近いが、余命が短くても長くても、悠久の時の流れの中では何ほどの違いもない、と近づく死を自然に受け入れていたことが伺えるという解釈であった。自分が将来同じような境地を得ることができるだろうかと、考えさせられたことである。
何回忌という法事は、生きている者が自分たちを育てた者達への回顧と、残された人生の生き方への振り返りをもたらす機能を有していることに気づかされる。大仰な法事は面倒なことではあるが、古い地域コミュニティで法事が存続し続けられる理由にメリットも内包していることがあるのではないかと、社会学者でもないのに考察したのであります。
2月の11日の深夜に、女の子の初孫が誕生した。昨日嫁の実家を訪ねて腕に抱くことができた。未だ祖父になったという実感は薄いが、このようにして命がつながれて時は巡っていくのであろう。孫がこの文章を読むような可能性を考えると、もの忘れしないコンピュータも在ってよいのかも知れぬと、昔書いた論文の主張とは違う事を考えたりしてしまうのであります。
新しい年が始まった
金曜日で後期の授業も終わり卒論のゼミ内発表会も済んだので、ほっと一息つける時期にやっとなった。こういうときに風邪を引きやすいことは経験ずみなので気をつけていたが、案の定鼻炎の悪化ではなく風邪を引いたようである。土曜日には滅多に行かないのだが泳ぎに行って、その後睡眠を取ったが、効果はなかったようである。従来は風邪気味だなと思ったときには泳ぎに行って汗をかいて一眠りすると風邪の方が退散してくれたのだが、そうは行かなかったようである。体力の衰えという加齢現象に原因を帰属するしかない。プールでは受付の若い女の人が「土曜日、珍しいですね」と声を掛けてくれた。日曜日にも受付にいる人なのだろうと思ったが、もともと覚えていないので、もごもごと小声で返事するしか仕方がなかった。
泳ぎながらいくつかのことを考えていた。受付の人が顧客の個体識別をしていること、先週休んだので身体がきついことなどである。前者は大学で中途退学者を減らす運動を始めており、出席の管理を確実にやるように教員にお願いすることにして、その管理を簡単にすべく携帯電話を使ってのシステムを導入することになったことに関わりがある。教育開発支援センターを3年前から任されて入学前教育、カリキュラム、中退学者の問題を担当し、2年ほど前からいろいろと市販のシステムを吟味してきてやっと希望〔金額と仕様〕に合うものが見つかったので、理事者側にOKをもらって使用説明会を先週から始めたばかりなのである。大学生に出席など取る必要がないと思い込んでいる教員も少なくないし、出席を取ることで授業に興味がない学生が来て私語などが増え授業が返ってやりにくくなるなどと考える人もいないわけではないので、何かの新機軸を打ち出さねばパラダイム変換は起きにくかろうと考えたのである。
受付の人が僕を識別したことが、気があるのかもなどと自惚れているわけではが悪い気はしない。親近感というかプールに愛着が沸くような気がした。教員に学生の個体識別をしてもらい、頻繁に声かけをしてもらうようなことができれば、新しいICTシステムは要らないのかも知れない、などと理事者には聞かせられないことを考えていた。
泳ぎは毎週やらないと身体にきつくなるのを数年来実感している。60半ばを過ぎると常にし続けていないと困難さが増す。この廃用性の機能低下の原理は60歳頃から当てはまりの度合いがぐんぐん増すなあとも考えていたことである。泳ぎは3割ほどの距離を経た頃がけっこう身体にきついし6割ほどを過ぎた距離でもきつい。残りの距離2割ほどになると、まだまだ泳げそうな気がしてくる〔自分だけかも知れないけど〕。これも人生に似ているなあと思ったことである。若いときはしんどいし、50歳代もしんどい。しかし、60歳を過ぎるとまだまだやれそうな気がし始める様子を友人たちの体験からも感じるからである。
大学は今日の日曜は入学試験があり当番なので出勤した。授業などが一段落したらしばらく書いていない八雲関連のデータでの論文を書かねばと10日ほど前から考えては来たが、涙が出たり鼻水がでたりすることの対応に追われて集中することができない。論文を書かねば、このままでは廃用性の機能低下が始まってしまうと気が気ではない。
なかなか思うようには行かないことを日々体験し、確認している。このようにして新しい年も始まりの月を終えようとしているのであります。
泳ぎながらいくつかのことを考えていた。受付の人が顧客の個体識別をしていること、先週休んだので身体がきついことなどである。前者は大学で中途退学者を減らす運動を始めており、出席の管理を確実にやるように教員にお願いすることにして、その管理を簡単にすべく携帯電話を使ってのシステムを導入することになったことに関わりがある。教育開発支援センターを3年前から任されて入学前教育、カリキュラム、中退学者の問題を担当し、2年ほど前からいろいろと市販のシステムを吟味してきてやっと希望〔金額と仕様〕に合うものが見つかったので、理事者側にOKをもらって使用説明会を先週から始めたばかりなのである。大学生に出席など取る必要がないと思い込んでいる教員も少なくないし、出席を取ることで授業に興味がない学生が来て私語などが増え授業が返ってやりにくくなるなどと考える人もいないわけではないので、何かの新機軸を打ち出さねばパラダイム変換は起きにくかろうと考えたのである。
受付の人が僕を識別したことが、気があるのかもなどと自惚れているわけではが悪い気はしない。親近感というかプールに愛着が沸くような気がした。教員に学生の個体識別をしてもらい、頻繁に声かけをしてもらうようなことができれば、新しいICTシステムは要らないのかも知れない、などと理事者には聞かせられないことを考えていた。
泳ぎは毎週やらないと身体にきつくなるのを数年来実感している。60半ばを過ぎると常にし続けていないと困難さが増す。この廃用性の機能低下の原理は60歳頃から当てはまりの度合いがぐんぐん増すなあとも考えていたことである。泳ぎは3割ほどの距離を経た頃がけっこう身体にきついし6割ほどを過ぎた距離でもきつい。残りの距離2割ほどになると、まだまだ泳げそうな気がしてくる〔自分だけかも知れないけど〕。これも人生に似ているなあと思ったことである。若いときはしんどいし、50歳代もしんどい。しかし、60歳を過ぎるとまだまだやれそうな気がし始める様子を友人たちの体験からも感じるからである。
大学は今日の日曜は入学試験があり当番なので出勤した。授業などが一段落したらしばらく書いていない八雲関連のデータでの論文を書かねばと10日ほど前から考えては来たが、涙が出たり鼻水がでたりすることの対応に追われて集中することができない。論文を書かねば、このままでは廃用性の機能低下が始まってしまうと気が気ではない。
なかなか思うようには行かないことを日々体験し、確認している。このようにして新しい年も始まりの月を終えようとしているのであります。
値段とウイスキー
木曜日を学外研修日にしているので、金曜日に出勤すると前日の仕事が残っており、とりわけ忙しいのだが、昨日は年内最後の日で会議は目白押し状態であった。それに加えて4コマ目に授業をしたので、さすがにドット疲れを感じずにはおれなかった。授業の後も会議を一つこなして年内最後の飲み会へと少し遅刻しての参加となった。
教育大の頃の一回り上の先輩とその頃の学生が集まっての飲み会である。それも30年ほど前に何度も通った梅田の飲み屋で開催され、店の名前こそ変わっていたが店の造り屋雰囲気は変わっておらず一気に昔に戻れることができた。教育大での最後の学生2名が教授に昇進したのを祝ってあげねばという趣旨の会ではあったが、長く努めれば昇進するものだと建前を繕わない者もいて、結局は昔と同じような皆がそれぞれに自分の関心事を話し出す集団モノローグの場となった。
関西人の特徴として,給料が安いとか高すぎるとかお金の話になり盛り上がるのであった。大手の私大教授をしている者の年収は僕よりもかなり多いことや、教授に昇進した2人は国公立大なのでボーナスは安いことが判明した。10年ほど前は8ヶ月分のボーナスを出していた大阪の某私大の今年のボーナスはゼロであることを教える者などがいて慰めることであった。
大学教員の給料(値段)は如何ほどが適当なのか決めようもないが、30年ほど前に研究者になりたいといって大学院に残った学生が全員その望みを実現できていたのは嬉しいことである。スタート時に公立に職を得た者はそれが私大であった者に比べて有利であった状況は昨今では少なくとも給料面では逆転してしまったわけで、時の流れを感じざるを得ないし,「人生塞翁が馬」と昔の人も同じような思いを持って生きていたことを確認することであった。
値段のことのついでに言えば、数日前にインターネットでウイスキーを安く入手した。これも30年ほど前になるが、英国の友人にJimという酒好きの先生がいて彼から世界中で一番美味しいウイスキーと教えられた「ラガヴーリン」を4800円で買うことができたのである。ちょうど残りがボトルの半分以下になってきているので興奮して2本注文してしまった。
彼は僕のウイスキーの飲み方の師匠であるが、彼の息子の友達がウイスキーの飲み方を教わりに来ている時にも遭遇しているので、レベルの高い師匠なのである。うんちくは半分も知らない形容詞で満たされ、酔いの中でそれを聞かされるのである(その受け売りを僕がしている)。確かに毎年出版されるビールとウイスキーの品評ランキング本でも「ラガヴーリン」は最上位にランク付けされる銘酒である。彼の家には「ラガヴーリン」はなかったので味を知らず終いであったが、そのときの帰路の空港免税店で「ラガヴーリン」18年ものを見つけ、衝動的に買ったことが僕の「ラガヴーリン」信奉の始まりである。値段は2万円ほどした。ピート臭の強いアエラ地方のウイスキーでくせになる美味しさなのである。20年ほど前に東京八重洲の酒屋で「ラガヴーリン」16年(これが一般的に流通している)を1万円で売っているのを見つけ、思わず荷物になるのに2本買って帰ったこともある。その「ラガヴーリン」が5000円までで買えるとは何と言うことであろう。昔が高すぎるのか今が安すぎるのか酒の値段はいったいどうなっているのかと深刻に考えてしまう。
ウイスキーをネットで買った翌日に散髪に行った。頭髪が減ると安い散髪屋では物足りない仕上がりになるので時間がかかり面倒でも普通の散髪屋に行くのだが、代金を支払う段になって値段はデフレでも安くなってはいないことに気づいた。
生産される商品の値段と人件費だけの仕事の値段とは異なるということなのであろう。大学の教員の仕事は後者なのだから「デフレでも下がってはイカンよなあ」、と独りごちたことである。
今日からしばらく身体を休められる日が続く。「ラガヴーリン」を舐めながらたわいないことを独りごちながら年の瀬を迎えられるのは幸せなことであります。
教育大の頃の一回り上の先輩とその頃の学生が集まっての飲み会である。それも30年ほど前に何度も通った梅田の飲み屋で開催され、店の名前こそ変わっていたが店の造り屋雰囲気は変わっておらず一気に昔に戻れることができた。教育大での最後の学生2名が教授に昇進したのを祝ってあげねばという趣旨の会ではあったが、長く努めれば昇進するものだと建前を繕わない者もいて、結局は昔と同じような皆がそれぞれに自分の関心事を話し出す集団モノローグの場となった。
関西人の特徴として,給料が安いとか高すぎるとかお金の話になり盛り上がるのであった。大手の私大教授をしている者の年収は僕よりもかなり多いことや、教授に昇進した2人は国公立大なのでボーナスは安いことが判明した。10年ほど前は8ヶ月分のボーナスを出していた大阪の某私大の今年のボーナスはゼロであることを教える者などがいて慰めることであった。
大学教員の給料(値段)は如何ほどが適当なのか決めようもないが、30年ほど前に研究者になりたいといって大学院に残った学生が全員その望みを実現できていたのは嬉しいことである。スタート時に公立に職を得た者はそれが私大であった者に比べて有利であった状況は昨今では少なくとも給料面では逆転してしまったわけで、時の流れを感じざるを得ないし,「人生塞翁が馬」と昔の人も同じような思いを持って生きていたことを確認することであった。
値段のことのついでに言えば、数日前にインターネットでウイスキーを安く入手した。これも30年ほど前になるが、英国の友人にJimという酒好きの先生がいて彼から世界中で一番美味しいウイスキーと教えられた「ラガヴーリン」を4800円で買うことができたのである。ちょうど残りがボトルの半分以下になってきているので興奮して2本注文してしまった。
彼は僕のウイスキーの飲み方の師匠であるが、彼の息子の友達がウイスキーの飲み方を教わりに来ている時にも遭遇しているので、レベルの高い師匠なのである。うんちくは半分も知らない形容詞で満たされ、酔いの中でそれを聞かされるのである(その受け売りを僕がしている)。確かに毎年出版されるビールとウイスキーの品評ランキング本でも「ラガヴーリン」は最上位にランク付けされる銘酒である。彼の家には「ラガヴーリン」はなかったので味を知らず終いであったが、そのときの帰路の空港免税店で「ラガヴーリン」18年ものを見つけ、衝動的に買ったことが僕の「ラガヴーリン」信奉の始まりである。値段は2万円ほどした。ピート臭の強いアエラ地方のウイスキーでくせになる美味しさなのである。20年ほど前に東京八重洲の酒屋で「ラガヴーリン」16年(これが一般的に流通している)を1万円で売っているのを見つけ、思わず荷物になるのに2本買って帰ったこともある。その「ラガヴーリン」が5000円までで買えるとは何と言うことであろう。昔が高すぎるのか今が安すぎるのか酒の値段はいったいどうなっているのかと深刻に考えてしまう。
ウイスキーをネットで買った翌日に散髪に行った。頭髪が減ると安い散髪屋では物足りない仕上がりになるので時間がかかり面倒でも普通の散髪屋に行くのだが、代金を支払う段になって値段はデフレでも安くなってはいないことに気づいた。
生産される商品の値段と人件費だけの仕事の値段とは異なるということなのであろう。大学の教員の仕事は後者なのだから「デフレでも下がってはイカンよなあ」、と独りごちたことである。
今日からしばらく身体を休められる日が続く。「ラガヴーリン」を舐めながらたわいないことを独りごちながら年の瀬を迎えられるのは幸せなことであります。
感動3件
「感動した」と土俵上で叫んで人気を博した首相がいたのをふと思いましてしまったのは、感動する風景を目にしたためである。連休の最終日に自宅に来ていた次男夫婦を送り出し、ほっとした気分のまま床暖房の程よい温さに誘われてのうたた寝から目を覚ました。皆が起きる前に朝プールに行ったきりで身体を動かしていないことが気になり散歩に出た。ちょうど夕暮れ時の暗くなる10分ほど前の時間帯であった。歩く道すがらの目前にある里山のくすんだ茶色の落葉樹群が図となり、その下部を占める竹藪の濃い緑を地として飛び出すような光景を見た。辺りは紫色の空気を刻一刻と深めている。落葉樹群の個々の木々の紅葉した葉のそれぞれが今にも飛び出して行きそうな立体感を見せ、「すごいなあ」と感動的気分を味わうことができた。帰路にはすでに日暮れは進行して辺りの紫色は暗さを増しチャコールグレーが深まって立体感は消滅していたので、日暮れ前の一瞬の一番良い時間帯に里山の紅葉が作り出す立体画像ショウを見たようであった。日暮れ時の情山の風景の感動からあの白髪の男の言葉がなぜ連想されたのかは分からない。連想とは不思議なものである。散歩の行きの感動は帰路の連想で打ち消しとなったことであった。
散歩から戻り、来月末が締め切りの事典の原稿に着手せねばと,書き始めたがあまり気乗りがしないせいか、作業は横道に入ることとなった。この横道で「感動的」体験をした。20世紀の初めに英国で両手きき推進運動が行われているので、そのことを加えようと遊び半分にネットで「Ambidextrous Culture Society」のキーワードで検索したところLancetの1904年の記事項目にヒットした。100年以上も前の論文など探せまいと名大の図書館の検索システムに入って見ると(僕は名誉教授なのでアクセス権があるのだ)、pdfでダウンロード出来たではないか。1823年の1巻目から全部揃っている、信じられないと「感動」してしまった。Pdfの記事は活字を組んであるもので、斜め読みしているとロンドンのどこの病院で、どういう手術が行われるかなどが記載されている。テレビで見るシャーロックホームズの世界がまぶたに浮かぶようで、嬉しくなってしまった。探している肝心の記事は見つけられなかった(文字が小さいのでもう一度丁寧に探すつもりだけど)ので関連論文が1905年に米国で出版されているのを知り、JAMA(Journal of American Medical Association)誌を訪ねてみたりし。この雑誌は1883年からなので米国の若さが垣間見られるというものである。このようにインターネットを使えば、仕事を辞めた老後も時間を楽しく使えそうである。そのことを発見したのはとても「感動」であった(多分その頃は目も疎くなり、興味を失うのかも知れないが、老いることで時間を持て余すのではないかと言う不安が払拭できたというわけである)。
自宅ではこのように3種の「感動」体験を得る時間を持てた。火曜日は夕方の6時からの入試関係会議まで事典の原稿書きに関われるかと思って楽しみに登校したが、現実はそれほど甘くはない(月曜日は私大協の会議で東京日帰り出張であった)。6人の4回生が次々と一人づつ部屋に来た。諮ったように管理事務の仕事が一段落した頃にやってくるのである。卒論提出まで1月を切っているのでやっとエンジンがかかり始めたのであろう。皆一斉に、「どう解析したらよい?」、「検定ってどうするん?」「標準偏差って何?」「グラフってどう書けばよいの?」などなどのやり取りとなる。「あんなあ、前に教えたし、エクセルの使い方授業で習っただろう」と返しつつ,結局はパソコンでエクセルファイルを開かせて(本人のデータに基づいた)教室を開かねばならない。
3年間毎年この時節は同じこと言っているなあ自問してドット疲労感がでるのだが、来年はもうこういう時間帯は巡ってこないと思うと一抹の寂しさも感じないわけでもない。
散歩から戻り、来月末が締め切りの事典の原稿に着手せねばと,書き始めたがあまり気乗りがしないせいか、作業は横道に入ることとなった。この横道で「感動的」体験をした。20世紀の初めに英国で両手きき推進運動が行われているので、そのことを加えようと遊び半分にネットで「Ambidextrous Culture Society」のキーワードで検索したところLancetの1904年の記事項目にヒットした。100年以上も前の論文など探せまいと名大の図書館の検索システムに入って見ると(僕は名誉教授なのでアクセス権があるのだ)、pdfでダウンロード出来たではないか。1823年の1巻目から全部揃っている、信じられないと「感動」してしまった。Pdfの記事は活字を組んであるもので、斜め読みしているとロンドンのどこの病院で、どういう手術が行われるかなどが記載されている。テレビで見るシャーロックホームズの世界がまぶたに浮かぶようで、嬉しくなってしまった。探している肝心の記事は見つけられなかった(文字が小さいのでもう一度丁寧に探すつもりだけど)ので関連論文が1905年に米国で出版されているのを知り、JAMA(Journal of American Medical Association)誌を訪ねてみたりし。この雑誌は1883年からなので米国の若さが垣間見られるというものである。このようにインターネットを使えば、仕事を辞めた老後も時間を楽しく使えそうである。そのことを発見したのはとても「感動」であった(多分その頃は目も疎くなり、興味を失うのかも知れないが、老いることで時間を持て余すのではないかと言う不安が払拭できたというわけである)。
自宅ではこのように3種の「感動」体験を得る時間を持てた。火曜日は夕方の6時からの入試関係会議まで事典の原稿書きに関われるかと思って楽しみに登校したが、現実はそれほど甘くはない(月曜日は私大協の会議で東京日帰り出張であった)。6人の4回生が次々と一人づつ部屋に来た。諮ったように管理事務の仕事が一段落した頃にやってくるのである。卒論提出まで1月を切っているのでやっとエンジンがかかり始めたのであろう。皆一斉に、「どう解析したらよい?」、「検定ってどうするん?」「標準偏差って何?」「グラフってどう書けばよいの?」などなどのやり取りとなる。「あんなあ、前に教えたし、エクセルの使い方授業で習っただろう」と返しつつ,結局はパソコンでエクセルファイルを開かせて(本人のデータに基づいた)教室を開かねばならない。
3年間毎年この時節は同じこと言っているなあ自問してドット疲労感がでるのだが、来年はもうこういう時間帯は巡ってこないと思うと一抹の寂しさも感じないわけでもない。
忙しい週末
10月26日は漢字の情報処理に関する国際学会(ICPEAL)が名古屋大学のNOYORIホールで開催されたので、朝6時半の新幹線ででかけた。約20年前に読みに関連する認知科学研究が盛んになった時代がある。その頃の集まりが持続して学会となり、今回は12回目である。アメリカ、カナダ、オーストラリアなど漢字とは関係がないと思いがちな国にも研究者はおり、中国、香港、台湾は言うまでもなく、最近は韓国も加わっての国際学会なのである(スペインやドイツの人もいた)。僕を脳科学の人間と分類する人が多いかも知れないが、国外では漢字の認知処理の研究をしている人間と考えている人も少なくない(疑う人はELSEVIER社発刊で30数巻から構成されている事典のNon-alphabetical Scriptの項目は僕が書いているので確かめて下さい)。
使用言語は英語で筆談で漢字を用いてのやり取りをして議論するわけではない。顔なじみの台湾や香港の大学の研究者が来ており、懐かしく歓談した。台湾の大学に定年後に来いと誘ってくれていた人は大学を移っていた。医薬大の学長になっている人もいた。まさに「everything must change, nothing stays the same」とうろ覚えの歌詞の通りである。心理学者が医科薬科大の学長になったことは日本では聞いたことがない。心理学の地位が台湾では高いということであろう。日本の研究者も地位向上に努めなければならない、と微力であった自分のことは傍に置いておいて述べておく。
心配したとおり中国本土からの参加者はすべてキャンセルとなっており、大会長は大変であったろうと推察した(名前だけは副会長でありながら何もしなかったので申し訳ないと思い、大会費を払いに名大に参上したのです)。
同じ学会を1997年に名古屋大学シンポジオンで主催したときには、中国本土からは外貨が出せないというので10名を招待して欲しいというので旅費を工面させられたり、その後の中国本土での研究発展を支援させられたりしたのに、頑なことである。国家の方針なので、個人レベルでは違うのかも知れないがそんな国の国民は不幸である(もっとも、孔子の義理や報恩の倫理概念は中国では根付かなかったのだから理解できないことではないけど)。
旧知の人との雑談で発表を聞き逃しているので研究の中身を評価できない。NOYORIホールの部屋が寒かったことや言語学者の考えることは面白い(半ば呆れつつであるが)というのが感想である。泊まったホテルの部屋の空調を入れ忘れ寒くて困った。酔っていたためで、自分の責任である。
学会は日曜日まであったのだが事情で田舎に帰らねばならず、途中で名古屋を後にした。ご存じの読者もおられようが、田舎は滋賀県長浜市に編入された小谷丁野町(おだに・ようの)にある。戦国時代の浅井長政の城下ということが住民の誇りである。兄が帰ってこいと何度も言ってくると逆らえない古い土地柄でもある(家族は江戸時代が続いている土地柄と揶揄している)。日曜日は兄が檀家総代をしている集落の寺(小谷山龍本寺という)で親鸞聖人750回忌、蓮如上人500回忌の大恩忌法要が営まれたのに合わせて,スーツ姿の正装で帰れと言うことであった。事情がよく飲み込めないまま帰ったのだが、僕が両親の永代供養をお願いしている形式であることが寄金の一覧立て札を見て判明した。9時半からのその法要があるので参加すべしということであったらしい。男の兄弟はなかなかコミュニケーションが取りにくいもので(個人差でしょうけど)、何度も帰郷を催促された理由が了解できた。
本願寺で750回忌や500回忌法要は営まれているが,末寺でも5年以内にすべしということのようで、宗教心の厚い田舎ではそれを実現できる力量があることの証である。法要では他所席(土地を離れたよそ者が座る席,反意語は在所席である)が用意されそこで寒さに耐えながら永代教関係の30分ほどの読経を聞くこととなった。こちらからは誰か判明しない何人かから父親にそっくりで誰かすぐ分かると、前日とは異なり湖北アクセントの日本語を聞くこととなった。会話する自分は大阪アクセントになって戻れなくなっており、適用力の劣化を自覚し流れた時間の長さを実感することであった。
蓮如上人の法要の後、50年ぶりという稚児行列のお練りがあいにくの雨模様であったが行われ、それを見届けてイベントの途中であったが帰路に着いた。本堂でも寒いと感じていたが帰路の道路標識に14度Cとあった。
あちこち出かけ忙しい10月末の週末の過ごし方は身体をすっかり冷えさせ,腰痛を再発させる結果を生むことなる週末であった(親鸞聖人750回忌の法要をサボったのがいけなかったのではと誰かの指摘が聞こえています)。
使用言語は英語で筆談で漢字を用いてのやり取りをして議論するわけではない。顔なじみの台湾や香港の大学の研究者が来ており、懐かしく歓談した。台湾の大学に定年後に来いと誘ってくれていた人は大学を移っていた。医薬大の学長になっている人もいた。まさに「everything must change, nothing stays the same」とうろ覚えの歌詞の通りである。心理学者が医科薬科大の学長になったことは日本では聞いたことがない。心理学の地位が台湾では高いということであろう。日本の研究者も地位向上に努めなければならない、と微力であった自分のことは傍に置いておいて述べておく。
心配したとおり中国本土からの参加者はすべてキャンセルとなっており、大会長は大変であったろうと推察した(名前だけは副会長でありながら何もしなかったので申し訳ないと思い、大会費を払いに名大に参上したのです)。
同じ学会を1997年に名古屋大学シンポジオンで主催したときには、中国本土からは外貨が出せないというので10名を招待して欲しいというので旅費を工面させられたり、その後の中国本土での研究発展を支援させられたりしたのに、頑なことである。国家の方針なので、個人レベルでは違うのかも知れないがそんな国の国民は不幸である(もっとも、孔子の義理や報恩の倫理概念は中国では根付かなかったのだから理解できないことではないけど)。
旧知の人との雑談で発表を聞き逃しているので研究の中身を評価できない。NOYORIホールの部屋が寒かったことや言語学者の考えることは面白い(半ば呆れつつであるが)というのが感想である。泊まったホテルの部屋の空調を入れ忘れ寒くて困った。酔っていたためで、自分の責任である。
学会は日曜日まであったのだが事情で田舎に帰らねばならず、途中で名古屋を後にした。ご存じの読者もおられようが、田舎は滋賀県長浜市に編入された小谷丁野町(おだに・ようの)にある。戦国時代の浅井長政の城下ということが住民の誇りである。兄が帰ってこいと何度も言ってくると逆らえない古い土地柄でもある(家族は江戸時代が続いている土地柄と揶揄している)。日曜日は兄が檀家総代をしている集落の寺(小谷山龍本寺という)で親鸞聖人750回忌、蓮如上人500回忌の大恩忌法要が営まれたのに合わせて,スーツ姿の正装で帰れと言うことであった。事情がよく飲み込めないまま帰ったのだが、僕が両親の永代供養をお願いしている形式であることが寄金の一覧立て札を見て判明した。9時半からのその法要があるので参加すべしということであったらしい。男の兄弟はなかなかコミュニケーションが取りにくいもので(個人差でしょうけど)、何度も帰郷を催促された理由が了解できた。
本願寺で750回忌や500回忌法要は営まれているが,末寺でも5年以内にすべしということのようで、宗教心の厚い田舎ではそれを実現できる力量があることの証である。法要では他所席(土地を離れたよそ者が座る席,反意語は在所席である)が用意されそこで寒さに耐えながら永代教関係の30分ほどの読経を聞くこととなった。こちらからは誰か判明しない何人かから父親にそっくりで誰かすぐ分かると、前日とは異なり湖北アクセントの日本語を聞くこととなった。会話する自分は大阪アクセントになって戻れなくなっており、適用力の劣化を自覚し流れた時間の長さを実感することであった。
蓮如上人の法要の後、50年ぶりという稚児行列のお練りがあいにくの雨模様であったが行われ、それを見届けてイベントの途中であったが帰路に着いた。本堂でも寒いと感じていたが帰路の道路標識に14度Cとあった。
あちこち出かけ忙しい10月末の週末の過ごし方は身体をすっかり冷えさせ,腰痛を再発させる結果を生むことなる週末であった(親鸞聖人750回忌の法要をサボったのがいけなかったのではと誰かの指摘が聞こえています)。
日本の歌を勉強する
後期の授業がいよいよ始まる。管理職であるにもかかわらず、担当授業のコマ数はそれほど減っていない。その理由には昨年度カリキュラムの改革をして、教養科目やキャリア関連科目を新設したが、新規に担当教員を採用せずに自前でやる方針を採用し、自らが何時間分かを担当するようにしたためである。大学の資金が底をついたという理由ではないが、理事者側から教員を新規採用せずにカリキュラムを改変するという難題を担わされたためで、カリキュラム改革の責任者としては、自分でも負担を担わないわけにも行かずと言うことで、自業自得の結末である。最近はこういうことにあまり怒りが生ぜず、「まあ、いいか」と考えてしまう。こういうのは脳機能の加齢による変化らしい(Science2012年の336卷のBrasson論文に脳科学的証拠が提示されている)。
新規に行う後期科目に「教養としての芸術」があり、2コマを担当する予定で、日本語表記の特性と芸術との関係についての内容を考えている。1月末の予定であるが今から準備しているという感心すべき状況にある。役目柄突然に予定が入るので,準備を怠るわけにはいかない。すでにある程度準備はしていたが、加筆せねばと感じることがあったのでその経緯を書く。今回のコラムは読むと勉強になるはず。
加筆せねばと思ったきっかけはテレビで江差追分の歌唱コンクール番組を見たことで、江差追分の奥の深さに感心し、授業に甚句を加えることにした。年を取ったせいなのか日本の歌が気になるのである。とくに日本語の甚句に含まれるモーラ(拍)が気になるのである。
この番組で歌唱者は、「カモメ鳴く音に ふと目を覚まし、あれが蝦夷地の 山かいな」という甚句を「カモメ鳴く音に」の部分だけで30秒近く声を継がずに自分流に歌うのである。合いの手はソイソイである。江差追分には音符はないので、自分流に歌うのだ。息を継がずにコブシを転がす上手さを競う番組であった。音域がやたら広いことと母音を長く歌うのが特徴である。もちろん江差追分には「カモメ…」以外にも大量の甚句がある。
ちなみに追分は「牛馬を追い,分ける場所」で牛馬と歩く道すがら心地よい拍から構成される甚句を歌ったのであろう。それらの評判の良いものが民謡に転化したのだろうと、勝手に推量している。
以前にモンゴルの歌手が長時間息を継がずに声を転がす様子と似ていると感じ、われわれはモンゴリアンであることを再確認したことであった。
ちなみに、甚句とは江戸時代に発生したといわれ、歌詞が7、7、7、5拍(モーラとも言う)で1コーラスを構成するもので、全国各地の民謡にこの形式が多い。ハッタは「ハ」「ッ」「タ」で、3モーラ〔2音節〕、チョコレートは「チョ」「コ」「レ」「-」「ト」で、5モーラ〔4音節〕である。音韻構造で定められる音節とは違うものである。
甚句で真っ先に浮かぶのは相撲甚句で、土俵上で力士5~7人が輪になって立つ。輪の中央に1人が出て独唱する。周囲の力士たちは手拍子と、「どすこい、ほい、あ~どすこい、どすこい」といったような合いの手を入れる。
七五調は日本語の特徴で心地よいらしく、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804-1852)によって大成された音声言語による定型詩都々逸(どどいつ)は7・7・7・5の音数律に従う。
「ついておいでよ、この提灯に、けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから」。「あとがつくほど、つねっておくれ、あとでのろけの種にする(あとがつくほど、つねってみたが、色が黒くて わかりゃせぬ)」など色っぽいものを講義で例としてあげて受けを狙うか、「内裏びな、少し離して また近づけて、 女がひとり 雛祭り」、「ぬいだまんまで いる白足袋の、そこが寂しい 宵になる」などの文芸調が良いか思案中である。
いずれになるかは当日まで不明だが、日本語の音声言語としての特徴を生かした、芸術や芸能が様々な形で展開されてきたことを紹介し教養を高めてもらうつもりである。
このような言語をつかう行動は、脳科学的には記憶(宣言的記憶,作動記憶)を使用するので辺縁系及び前頭葉前部の機能が活性され、認知予備力(Cognitive reserve)を高める、と我田引水的に結論づける予定である。
忙しい忙しいと良いながらもコラムを書いているのは、私の認知予備力を高める作業なのであります。
新規に行う後期科目に「教養としての芸術」があり、2コマを担当する予定で、日本語表記の特性と芸術との関係についての内容を考えている。1月末の予定であるが今から準備しているという感心すべき状況にある。役目柄突然に予定が入るので,準備を怠るわけにはいかない。すでにある程度準備はしていたが、加筆せねばと感じることがあったのでその経緯を書く。今回のコラムは読むと勉強になるはず。
加筆せねばと思ったきっかけはテレビで江差追分の歌唱コンクール番組を見たことで、江差追分の奥の深さに感心し、授業に甚句を加えることにした。年を取ったせいなのか日本の歌が気になるのである。とくに日本語の甚句に含まれるモーラ(拍)が気になるのである。
この番組で歌唱者は、「カモメ鳴く音に ふと目を覚まし、あれが蝦夷地の 山かいな」という甚句を「カモメ鳴く音に」の部分だけで30秒近く声を継がずに自分流に歌うのである。合いの手はソイソイである。江差追分には音符はないので、自分流に歌うのだ。息を継がずにコブシを転がす上手さを競う番組であった。音域がやたら広いことと母音を長く歌うのが特徴である。もちろん江差追分には「カモメ…」以外にも大量の甚句がある。
ちなみに追分は「牛馬を追い,分ける場所」で牛馬と歩く道すがら心地よい拍から構成される甚句を歌ったのであろう。それらの評判の良いものが民謡に転化したのだろうと、勝手に推量している。
以前にモンゴルの歌手が長時間息を継がずに声を転がす様子と似ていると感じ、われわれはモンゴリアンであることを再確認したことであった。
ちなみに、甚句とは江戸時代に発生したといわれ、歌詞が7、7、7、5拍(モーラとも言う)で1コーラスを構成するもので、全国各地の民謡にこの形式が多い。ハッタは「ハ」「ッ」「タ」で、3モーラ〔2音節〕、チョコレートは「チョ」「コ」「レ」「-」「ト」で、5モーラ〔4音節〕である。音韻構造で定められる音節とは違うものである。
甚句で真っ先に浮かぶのは相撲甚句で、土俵上で力士5~7人が輪になって立つ。輪の中央に1人が出て独唱する。周囲の力士たちは手拍子と、「どすこい、ほい、あ~どすこい、どすこい」といったような合いの手を入れる。
七五調は日本語の特徴で心地よいらしく、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804-1852)によって大成された音声言語による定型詩都々逸(どどいつ)は7・7・7・5の音数律に従う。
「ついておいでよ、この提灯に、けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから」。「あとがつくほど、つねっておくれ、あとでのろけの種にする(あとがつくほど、つねってみたが、色が黒くて わかりゃせぬ)」など色っぽいものを講義で例としてあげて受けを狙うか、「内裏びな、少し離して また近づけて、 女がひとり 雛祭り」、「ぬいだまんまで いる白足袋の、そこが寂しい 宵になる」などの文芸調が良いか思案中である。
いずれになるかは当日まで不明だが、日本語の音声言語としての特徴を生かした、芸術や芸能が様々な形で展開されてきたことを紹介し教養を高めてもらうつもりである。
このような言語をつかう行動は、脳科学的には記憶(宣言的記憶,作動記憶)を使用するので辺縁系及び前頭葉前部の機能が活性され、認知予備力(Cognitive reserve)を高める、と我田引水的に結論づける予定である。
忙しい忙しいと良いながらもコラムを書いているのは、私の認知予備力を高める作業なのであります。
歌うことは手続き記憶か
歌うことについて気になることが4週間ほど経っても頭から離れない。
ことは先月末に大学時代のクラブメンバーとの同窓会が一泊で催された折りの経験である。僕は大学時代はその頃大層人気のあった男声合唱団に所属していた。43年卒と44年卒の仲間が15人参加した。当時は70人規模の合唱団であったので全員参加すれば当然もう少し多くなる。それでもかなりの出席率で、関西在住メンバーに加えて東京、富山からも参加し、中国地方在住メンバー2名に合流したのが参加メンバーである。おそらく44年卒組が再就職先を退職する65歳を迎えて、集まろうと企画されたに違いない。僕を含めた2-3人を除いて、今でもOB合唱団である南澪会で活動している。僕もしきりに誘われるが時間の都合が付かない(引退モードに入れない)のである。
メンバーはともかく米子在住のメンバーの家に集合した。僕は吹田から後輩の高級車に同乗させてもらった。どういう段取りであったのかその家で1時間ほど練習をさせられた。その家は奥さんがピアノ教室をやっているので、好都合であったのだろう。急に練習が行われることになったため、米子から美保が関までの途中での観光計画は破棄された。観光よりも歌いたいという欲望が勝つのだから合唱から離れている人間には理解が難しいが、そういうメンバーの集まりなのである。練習するのは、宿泊先の近くにある美保神社に合唱を奉納するためなのだという。大それた計画が密かに準備されていたのである。
宿泊先は美保が関の老舗「美保館」である(伊藤博文なども宿泊している老舗ですから是非ご利用下さい、八田の知人と言えばファーストテナーの親父は「関の五本松」の民謡を聴かせてくれるかも)。その親父がメンバーなので、老舗旅館で割安で騒ごうという魂胆である。
冗談かも知れないと思わないでもなかったのだが、奉納は事実で、神主のお祓いなどを受けて4~5曲「愛唱歌」を歌うこととなった。「愛唱歌」とはリサイタルでの曲目以外に通常メンバーが歌う曲で、誰もが歌えるドイツ歌曲や童謡などである。僕はバリトンとバスを渡り歩いたので音程は怪しかったが、何とかボロは出ずに済んだ(もっとも声も大きくは出ないけど)。
美保神社は歌舞音曲の神様でもあり、小椋圭など有名人も奉納した形跡がある由緒正しい神社である。おそらくは「美保館」の親父のパワーで我々ごときの奉納が可能となったのであろう。観客は20名ほどで「美保館」の従業員が動員されていた。練習の成果か、メンバーの日頃の訓練からか、それなりの出来映えとなり観客から(自主的に)拍手があった。
今回のテーマは夜の宴会の途中で起きたことについてである。宴会は酔いに任せて合唱が続くのだが、驚いたことに、一橋大学や神戸大学の校歌を歌えたのである。現役の学生の頃に旧三商大の合同演奏会があり、エール交換の際に歌っただけに過ぎない曲を全員覚えているという事実に驚いた。僕だけが覚えているのだろうと長年思い込んできたが、皆が覚えているというのは不思議なことである(自分の記憶力がよいのかも知れないという推論は棄却されてしまった)。40年以上前に、数回しか唄はなかった他校の校歌を覚えている、2年生のときに一度慰問で訪れた「双葉保育園」の校歌も歌えたのである。しかし、全員、酔いに任せて話が続くなかでの人名や日付などはさっぱり思い出せない。
失語症の患者が換語困難といって言葉が出てこない場合でも、歌は歌える症例は良く見聞きする。ちょうどブローカのタンだけしか20年間発話しなかった患者と同様に、どんな検査者の質問にも「一言ござる」しか返答しない患者が、突然「会津磐梯山は宝の山よ~」と何度も歌うビデオ画像も持っている。それらを勘案するとどうやら歌は「手続き記憶」らしい。水泳や自転車乗りを長い間しなくても忘れないのと同じ仕組みである。
宴会も徹夜でやると言ってはいたが10時頃には元気がなくなり、手拍子で齋太郎節(エンャードット、エンャードット、松島のサヨ瑞巌寺ほどの寺もない~)を全員で歌ってお開きとなった。手続き記憶は運動の記憶であり、それに手拍子という運動動作が加わることで老人会メンバーの一体感は40年前と同様に高揚したのであります。
8月はじめの大学の職員暑気払いパーティの最後に、あの一体感を再びと、齋太郎節を歌うことになったのですが、2番の歌詞を途中でいったん忘れることが生じた。手拍子がなかったせいか、あるいは歌うことが100%「手続き記憶」でないのかもと疑問も生じ、そのことが頭から離れないのであります(認知能力の低下が進むと手続き記憶も失われるという指摘も聞こえないわけではありませんけど)。
いずれにしても元気で再会できた幸せを実感したことであります。
ことは先月末に大学時代のクラブメンバーとの同窓会が一泊で催された折りの経験である。僕は大学時代はその頃大層人気のあった男声合唱団に所属していた。43年卒と44年卒の仲間が15人参加した。当時は70人規模の合唱団であったので全員参加すれば当然もう少し多くなる。それでもかなりの出席率で、関西在住メンバーに加えて東京、富山からも参加し、中国地方在住メンバー2名に合流したのが参加メンバーである。おそらく44年卒組が再就職先を退職する65歳を迎えて、集まろうと企画されたに違いない。僕を含めた2-3人を除いて、今でもOB合唱団である南澪会で活動している。僕もしきりに誘われるが時間の都合が付かない(引退モードに入れない)のである。
メンバーはともかく米子在住のメンバーの家に集合した。僕は吹田から後輩の高級車に同乗させてもらった。どういう段取りであったのかその家で1時間ほど練習をさせられた。その家は奥さんがピアノ教室をやっているので、好都合であったのだろう。急に練習が行われることになったため、米子から美保が関までの途中での観光計画は破棄された。観光よりも歌いたいという欲望が勝つのだから合唱から離れている人間には理解が難しいが、そういうメンバーの集まりなのである。練習するのは、宿泊先の近くにある美保神社に合唱を奉納するためなのだという。大それた計画が密かに準備されていたのである。
宿泊先は美保が関の老舗「美保館」である(伊藤博文なども宿泊している老舗ですから是非ご利用下さい、八田の知人と言えばファーストテナーの親父は「関の五本松」の民謡を聴かせてくれるかも)。その親父がメンバーなので、老舗旅館で割安で騒ごうという魂胆である。
冗談かも知れないと思わないでもなかったのだが、奉納は事実で、神主のお祓いなどを受けて4~5曲「愛唱歌」を歌うこととなった。「愛唱歌」とはリサイタルでの曲目以外に通常メンバーが歌う曲で、誰もが歌えるドイツ歌曲や童謡などである。僕はバリトンとバスを渡り歩いたので音程は怪しかったが、何とかボロは出ずに済んだ(もっとも声も大きくは出ないけど)。
美保神社は歌舞音曲の神様でもあり、小椋圭など有名人も奉納した形跡がある由緒正しい神社である。おそらくは「美保館」の親父のパワーで我々ごときの奉納が可能となったのであろう。観客は20名ほどで「美保館」の従業員が動員されていた。練習の成果か、メンバーの日頃の訓練からか、それなりの出来映えとなり観客から(自主的に)拍手があった。
今回のテーマは夜の宴会の途中で起きたことについてである。宴会は酔いに任せて合唱が続くのだが、驚いたことに、一橋大学や神戸大学の校歌を歌えたのである。現役の学生の頃に旧三商大の合同演奏会があり、エール交換の際に歌っただけに過ぎない曲を全員覚えているという事実に驚いた。僕だけが覚えているのだろうと長年思い込んできたが、皆が覚えているというのは不思議なことである(自分の記憶力がよいのかも知れないという推論は棄却されてしまった)。40年以上前に、数回しか唄はなかった他校の校歌を覚えている、2年生のときに一度慰問で訪れた「双葉保育園」の校歌も歌えたのである。しかし、全員、酔いに任せて話が続くなかでの人名や日付などはさっぱり思い出せない。
失語症の患者が換語困難といって言葉が出てこない場合でも、歌は歌える症例は良く見聞きする。ちょうどブローカのタンだけしか20年間発話しなかった患者と同様に、どんな検査者の質問にも「一言ござる」しか返答しない患者が、突然「会津磐梯山は宝の山よ~」と何度も歌うビデオ画像も持っている。それらを勘案するとどうやら歌は「手続き記憶」らしい。水泳や自転車乗りを長い間しなくても忘れないのと同じ仕組みである。
宴会も徹夜でやると言ってはいたが10時頃には元気がなくなり、手拍子で齋太郎節(エンャードット、エンャードット、松島のサヨ瑞巌寺ほどの寺もない~)を全員で歌ってお開きとなった。手続き記憶は運動の記憶であり、それに手拍子という運動動作が加わることで老人会メンバーの一体感は40年前と同様に高揚したのであります。
8月はじめの大学の職員暑気払いパーティの最後に、あの一体感を再びと、齋太郎節を歌うことになったのですが、2番の歌詞を途中でいったん忘れることが生じた。手拍子がなかったせいか、あるいは歌うことが100%「手続き記憶」でないのかもと疑問も生じ、そのことが頭から離れないのであります(認知能力の低下が進むと手続き記憶も失われるという指摘も聞こえないわけではありませんけど)。
いずれにしても元気で再会できた幸せを実感したことであります。
オスロの学会でFDを考えた
オスロで開かれた国際神経心理学会夏季大会に参加したことは既に書いたが、そこでいくつか考えさせられることがあったのを未だ書いていない。つぎつぎと毎日の仕事が待ち状態にあると、その時点で思いついたことを記さないうちに失念してしまうものである。帰国後2週間経っても失われていないことなので、思いの強さが深かったということでもある。それは、学会参加者の減少とFD(Faculty Development)活動の在り方についてである。
ここ数年、上記の学会への参加者が、とりわけ若年者の参加が少なくなっている。10年ほど前はスーツケースに入れるのも憚れるほどの電話帳級の分厚い抄録集がずいぶんと薄くなっているので、単なる印象だけではない。学会は4日間の構成は変わっていないが、個別発表は少なくなり、シンポジウムや教育講演などで日程を埋めている印象が強い。冬季大会は北米であるが、そこでの発表は急増し、20倍ほどもある選考に通るのが難しくなっていることを両方の学会に出ている人から聞いているので、要するに研究者が多い北米の若い研究者に国外での発表が自由にできる資金的余裕が無くなっているのが主な理由であろう(これは憶測であるけれども)。あるいは、研究の現場での勤務条件がきつくなり、時間的に海外、それも渡航に時間が掛かる地域での大会への参加が困難になっているのだろう。日本の若手の研究者(たとえばCOEなどの研究員)でも自分の発表の時間の直前に大会に来て、終わればすぐに帰国せねばならないという勤務条件を耳にする。厳格に海外学会参加へのコンプライアンスを云々するためである。
自分の研究成果を発表するだけで、すぐに帰国せよというようなことでは国際学会に参加する意味は半分にも満たない。国外の学会に出ることの意味は、自分の発表を広く知らしめることだけでなく、関連分野でどのような研究が行われているのか、自分の研究はどの辺りに地位を占めるのか、今後の展望は如何かなどの情報を得るためにあるはずである。若い研究者を指導するリーダー役は、発表するだけでなく国際的な研究ネットワークを作るべしと、時間と金銭を準備してあげねば本来の役割を果たせていないと自覚せねばならない(そんなことは承知だが、容易にできない状況にあることを知らないわけではないが、そのような管理体制を改善する気概を持たねばだめでしょうと、気楽な立場になっているので放言しておく)。
若い研究者と一緒であったので僕も加齢研究のシンポジウムなどに参加した(けっして物見遊山だけに行っているのではない)。世界的に名を知られた縦断的加齢研究や大規模加齢研究を紹介されると、その規模や活動の幅広さに感嘆するしかなくなる。
我々は北海道での加齢研究を包括的体制で実施しており、国内では一歩抜け出ていることを自認しているが、国際レベルのものと比べると見劣りすることを認めざるを得なくなる。たとえば、加齢に伴う高次脳機能の検討研究計画では、欧米のものは人種、社会階層、病歴、知能レベルなど、日本での研究にはパラメータとして組み込め難いものが入っている。医療が自由診療の国では、パーキンソン病だがL-Dopa治療を受けない群と治療を受けた群などの構成が研究計画には組み込んである。このような研究計画は日本では不可能で、パーキンソン病と診断して治療しなかった医者は日本では罰せられることであろう。
加齢研究に人種や経済状態などを組み込む包括的な理論背景を紹介されたりすると、その視野の幅広さに脱帽と感じてしまう。すき間を如何に狙って研究を進めるか、すき間はありそうだなどの思いを強く抱くこととなった。
このようなことをつらつら考えると、私はまさにFD活動をしていることに気づく。私は大学教員としての資質が少し向上したと自覚できる。自分の研究のレベル、将来の方向性の確認などに得るところがあったからである。
FD活動は研究者であり教育者である大学教員の資質の向上が本来の目的で、アメリカで生まれたものである。
日本の大学にFD導入させたときに、高等教育専門家が、話し方、板書の上手さ、資料の準備などから構成される授業評価などのHow toものの項目がFDの主要事項であるかのようにミスリーディングした罪は大きい。高等教育専門家は元来のFDとは何かを知らずにいたのか、知ってはいるけれども予算を伴うことに言及せずに行政側と癒着することを望んだに違いない、と糾弾したくなってしまう。なぜ、①国際学会に教員を出さねばならない、②国際学会に参加させてついでに1週間ほど時間を与え、自らの研究者や教育者としての立ち位置を確認させるべきである、などの項目を入れなかったのか。
ムンク美術館で「くそ-!」と「叫び」の絵を前に声を挙げたいような気分になるなど、オスロの学会ではいろいろなことを考えたのであります。美術館で教養を豊かにさせることも大学教員の資質の向上に資するとことは言うまでもありません。
我が大学でも若い人にFDの一貫として学会発表を奨励せなばならないと考えたのであります。
ここ数年、上記の学会への参加者が、とりわけ若年者の参加が少なくなっている。10年ほど前はスーツケースに入れるのも憚れるほどの電話帳級の分厚い抄録集がずいぶんと薄くなっているので、単なる印象だけではない。学会は4日間の構成は変わっていないが、個別発表は少なくなり、シンポジウムや教育講演などで日程を埋めている印象が強い。冬季大会は北米であるが、そこでの発表は急増し、20倍ほどもある選考に通るのが難しくなっていることを両方の学会に出ている人から聞いているので、要するに研究者が多い北米の若い研究者に国外での発表が自由にできる資金的余裕が無くなっているのが主な理由であろう(これは憶測であるけれども)。あるいは、研究の現場での勤務条件がきつくなり、時間的に海外、それも渡航に時間が掛かる地域での大会への参加が困難になっているのだろう。日本の若手の研究者(たとえばCOEなどの研究員)でも自分の発表の時間の直前に大会に来て、終わればすぐに帰国せねばならないという勤務条件を耳にする。厳格に海外学会参加へのコンプライアンスを云々するためである。
自分の研究成果を発表するだけで、すぐに帰国せよというようなことでは国際学会に参加する意味は半分にも満たない。国外の学会に出ることの意味は、自分の発表を広く知らしめることだけでなく、関連分野でどのような研究が行われているのか、自分の研究はどの辺りに地位を占めるのか、今後の展望は如何かなどの情報を得るためにあるはずである。若い研究者を指導するリーダー役は、発表するだけでなく国際的な研究ネットワークを作るべしと、時間と金銭を準備してあげねば本来の役割を果たせていないと自覚せねばならない(そんなことは承知だが、容易にできない状況にあることを知らないわけではないが、そのような管理体制を改善する気概を持たねばだめでしょうと、気楽な立場になっているので放言しておく)。
若い研究者と一緒であったので僕も加齢研究のシンポジウムなどに参加した(けっして物見遊山だけに行っているのではない)。世界的に名を知られた縦断的加齢研究や大規模加齢研究を紹介されると、その規模や活動の幅広さに感嘆するしかなくなる。
我々は北海道での加齢研究を包括的体制で実施しており、国内では一歩抜け出ていることを自認しているが、国際レベルのものと比べると見劣りすることを認めざるを得なくなる。たとえば、加齢に伴う高次脳機能の検討研究計画では、欧米のものは人種、社会階層、病歴、知能レベルなど、日本での研究にはパラメータとして組み込め難いものが入っている。医療が自由診療の国では、パーキンソン病だがL-Dopa治療を受けない群と治療を受けた群などの構成が研究計画には組み込んである。このような研究計画は日本では不可能で、パーキンソン病と診断して治療しなかった医者は日本では罰せられることであろう。
加齢研究に人種や経済状態などを組み込む包括的な理論背景を紹介されたりすると、その視野の幅広さに脱帽と感じてしまう。すき間を如何に狙って研究を進めるか、すき間はありそうだなどの思いを強く抱くこととなった。
このようなことをつらつら考えると、私はまさにFD活動をしていることに気づく。私は大学教員としての資質が少し向上したと自覚できる。自分の研究のレベル、将来の方向性の確認などに得るところがあったからである。
FD活動は研究者であり教育者である大学教員の資質の向上が本来の目的で、アメリカで生まれたものである。
日本の大学にFD導入させたときに、高等教育専門家が、話し方、板書の上手さ、資料の準備などから構成される授業評価などのHow toものの項目がFDの主要事項であるかのようにミスリーディングした罪は大きい。高等教育専門家は元来のFDとは何かを知らずにいたのか、知ってはいるけれども予算を伴うことに言及せずに行政側と癒着することを望んだに違いない、と糾弾したくなってしまう。なぜ、①国際学会に教員を出さねばならない、②国際学会に参加させてついでに1週間ほど時間を与え、自らの研究者や教育者としての立ち位置を確認させるべきである、などの項目を入れなかったのか。
ムンク美術館で「くそ-!」と「叫び」の絵を前に声を挙げたいような気分になるなど、オスロの学会ではいろいろなことを考えたのであります。美術館で教養を豊かにさせることも大学教員の資質の向上に資するとことは言うまでもありません。
我が大学でも若い人にFDの一貫として学会発表を奨励せなばならないと考えたのであります。
オスロにて
国際神経心理学会(INS)の夏季大会に出席のためにオスロに来ている。3年前には同じ学会がヘルシンキであった。冬季大会が北米で行われるので夏季大会は参加者には嬉しいことに、去年はオークランド、その前がクラコフ、その前がヘルシンキという具合にあちこちで行われる。北海道八雲町で縦断的研究は貴重な資料が多いためか、発表が採択される。そのために忙しくても発表に来なければ、科研の申請書での要件を満たせなくなるので、仕事が忙しくても万難を排しても参加せざるを得ない、仕方がない。ということなのである。怪しいものだという声が聞こえそうだが、嘘ではない。冬季大会の方が発表多く学術的な水準も高いが、あいにく試験のシーズンで夏しか機会がない。
大学での仕事は大変忙しいので、この学会に出るための一週間ほどの時間を、霧の中の灯台のように新学期を過ごして来たというのが心境で、メンタルを健常に保つための自我防衛機制ということで周囲の、遊びに行くのではないのかと訝しがる眼を見ないようにしての出張というわけである。
ヘルシンキで乗り継いでオスロ空港着。ネット情報では中央駅まで空港から電車で一直線のはずが工事中ということで、途中まで、電車。その後代行バスに乗り換えてホテルにたどり着いたのは日本時間の朝の4時であった。6時に自宅に呼んだタクシーから計算すると22時間を要したことになる。あまり多くない量の機内食、ヘルシンキ空港での1パイントのマーフイ―(フィンランド人のおじさんと会話ではノルウェーはヘルシンキよりも物価が高いぞと警告された)、着いてから前日到着の北里大の先生らと合流し、ギネス1パイントだけの食事でやや空腹気味であったが、へろへろで就寝となった。飛び込んだパブは食べもの一切なしのところであったが、ギネスは800円ほどで日本と変わらず安心した。
大会第一日目に会場のホテルに行く途中は道路工事が至る所で行われているし、あちこちでビルの建築も行われて、景気が良いのかもしれないとも思ったが、よく考えると今しか工事をする季節がないのかもしれないと推理した。ノルウェーだけが欧州で経済が良いとも聞かないからである。聞けば、中央駅を起点としてオスロ市内の電車は全部止まっているという。集中的に工事をしていて、郊外に出るにはいったんバスで市外に出て、そこから電車に乗るということになっている状態が7月2週目まで続くという。日本では考えにくいことだが、大阪府の人口にも満たない国なのでクレマーの人数も少なくて済むのかもしれない。
学会上への途中の公園などには休日でも休み時間でもないのに、芝生やベンチでのんびりしている人を多く見かける。夏の太陽を今浴びておかねばだめなのだろう。今工事をしておかねばだめなのと同じ発想かもしれない。昨夜は9時半ごろにホテルに戻ったが道路工事はたけなわという感じであった。こういう風に一時期にぎゅっと仕事を詰め込む、そして長く休むというライフスタイル、ずっと雪の季節で夏はギュッと短いという季節変動は寿命には良い作用をするのか、あとでネットで調べねばと思ったりしたことである。
今、もう夜の9時だが、日本での4時くらいの明るさである。朝は4時前に目が覚めたがもう、日本の夏の明るい朝であった。太陽の位置でおよその時刻を推量することはこの国では難しい。この国の人は日内の時間変動を何を基準に推量するのだろうと、今朝の散歩の際に岸壁でつりをしている人に聞こうかと思ったが、15人ほどいるうちの14人が中東系の人で英語は通じない気がしたのでやめた。外国人の疑問などどうでもよいはずと思いとどまったのであった。彼らは30センチ弱のサバをけっこう釣り上げていた。そういえば、春に学科の旅行で小浜に行ったときに名物の「へしこ」のサバはノルウェー産ということであった。みやげにサバの缶詰という訳にもいかないしなどと、久しぶりにたわいもないことを思案するなどして、前頭葉を休ませずに活性させているのであります。
大学での仕事は大変忙しいので、この学会に出るための一週間ほどの時間を、霧の中の灯台のように新学期を過ごして来たというのが心境で、メンタルを健常に保つための自我防衛機制ということで周囲の、遊びに行くのではないのかと訝しがる眼を見ないようにしての出張というわけである。
ヘルシンキで乗り継いでオスロ空港着。ネット情報では中央駅まで空港から電車で一直線のはずが工事中ということで、途中まで、電車。その後代行バスに乗り換えてホテルにたどり着いたのは日本時間の朝の4時であった。6時に自宅に呼んだタクシーから計算すると22時間を要したことになる。あまり多くない量の機内食、ヘルシンキ空港での1パイントのマーフイ―(フィンランド人のおじさんと会話ではノルウェーはヘルシンキよりも物価が高いぞと警告された)、着いてから前日到着の北里大の先生らと合流し、ギネス1パイントだけの食事でやや空腹気味であったが、へろへろで就寝となった。飛び込んだパブは食べもの一切なしのところであったが、ギネスは800円ほどで日本と変わらず安心した。
大会第一日目に会場のホテルに行く途中は道路工事が至る所で行われているし、あちこちでビルの建築も行われて、景気が良いのかもしれないとも思ったが、よく考えると今しか工事をする季節がないのかもしれないと推理した。ノルウェーだけが欧州で経済が良いとも聞かないからである。聞けば、中央駅を起点としてオスロ市内の電車は全部止まっているという。集中的に工事をしていて、郊外に出るにはいったんバスで市外に出て、そこから電車に乗るということになっている状態が7月2週目まで続くという。日本では考えにくいことだが、大阪府の人口にも満たない国なのでクレマーの人数も少なくて済むのかもしれない。
学会上への途中の公園などには休日でも休み時間でもないのに、芝生やベンチでのんびりしている人を多く見かける。夏の太陽を今浴びておかねばだめなのだろう。今工事をしておかねばだめなのと同じ発想かもしれない。昨夜は9時半ごろにホテルに戻ったが道路工事はたけなわという感じであった。こういう風に一時期にぎゅっと仕事を詰め込む、そして長く休むというライフスタイル、ずっと雪の季節で夏はギュッと短いという季節変動は寿命には良い作用をするのか、あとでネットで調べねばと思ったりしたことである。
今、もう夜の9時だが、日本での4時くらいの明るさである。朝は4時前に目が覚めたがもう、日本の夏の明るい朝であった。太陽の位置でおよその時刻を推量することはこの国では難しい。この国の人は日内の時間変動を何を基準に推量するのだろうと、今朝の散歩の際に岸壁でつりをしている人に聞こうかと思ったが、15人ほどいるうちの14人が中東系の人で英語は通じない気がしたのでやめた。外国人の疑問などどうでもよいはずと思いとどまったのであった。彼らは30センチ弱のサバをけっこう釣り上げていた。そういえば、春に学科の旅行で小浜に行ったときに名物の「へしこ」のサバはノルウェー産ということであった。みやげにサバの缶詰という訳にもいかないしなどと、久しぶりにたわいもないことを思案するなどして、前頭葉を休ませずに活性させているのであります。
「未練」
「未練」という単語が突然浮かび上がってきたのは、研究室の引っ越しをしていて、段ボール箱を整理中のことである。「未練」なんていう語はすっかり死語になってしまったようで、昨今耳にすることも目にすることもない。「未練なのね、だから言ったじゃないの…」という松山恵子の甲高い歌声が記憶から連想されるのだから、すっかり自分の語彙体系は時代遅れになっていることが自覚できる。
学生たちは付き合っている彼氏と別れても、「未練」という感情は浮かび上がらないかのようで、次の彼氏へと気軽に移って行くように見える。
さて、段ボールを整理中に生じた「未練」は文献カードに対してである。文献カードという単語ももはや死語かも判らないが、段ボール箱一杯に「外国文献社」の文献カードが見つかったのである。まだ持っていることも忘れていた。A4サイズの半分大の、やや厚手のカードで、4つの辺すべてに2行穴が開けてある。穴の内側にはアルファベット、著者名、論文題名、雑誌名、発行年度などの基本情報に加えて分野が分類できるようなが印刷された部分と、自由記載のための経線部分から構成されている。たしか5,000枚単位で購入していたことを覚えている。
このカードの存在を教えてもらったのは生澤雅夫先生で、当時の院生は全員このカードで整理するようになった。自分が読んだ論文の要点をカードにメモして生理しておくこと、それにはこのカードが一番良いと断定的であった。生澤先生は大変几帳面な方で、手帳にも几帳面に記入され、パイロットであったと思うがノック式の万年筆(いちいちキャップをねじって外さなくても書ける)を自慢げに盛んにメモをされるのであった。手帳を出して、「いついつの発言とは違いますね」というような調子でやられるので煙たいときもないわけではなかった。先生はこのカードの利点はホールソートができることであると、鉄の細い棒で数十枚のカードからソートをするやり方をデモンストレーションされた。今でいうエクセルでの並び替えの物理的手法である。カードの4辺の穴にはさみで切り込みを入れておくと、ソートの際に関連カードが抜け落ちるという原始的な分類技術からできていた。
かくして私たちの間に「外国文献社」の文献カード利用が広まった。僕もその虜となり、その後に職を得た大学でも着任する後輩たちに薦めたことを覚えている。これに似た「丸善カード」、「紀伊国屋カード」と売り出されたときも「外国文献社」のカードがよいと断言し、「ハマっていた」のである。そういう理由で院生の頃から始めた文献カード記入は、若い人がファイルメーカーというコンピュータソフトで整理した方が便利ですと教えられるまで名大に移ってもしばらく続いた。
論文を読んで、その要点をまとめること、そこから気づいた実験のアイディアなどをメモしてきたのである。数えてはいないが「外国文献社」がなくなると聞いて慌てて追加購入した記憶があるのでかなりの数の記入カードが残っているはずである。
何度か研究室を移転する際に荷物を整理する機会はあるのにカードが入った段ボールを捨てられなかった。今回の引っ越しでも廃棄しなかったのである。自分が購読していた外国雑誌の大半は今回廃棄することができたのに、何故か、捨てられないのだ。
何故なのだろうと考えてみると浮かび上がる語彙は「未練」なのである。「未練」は懐かしさという感情も付随させている。毎日のように何編かの論文を読むのを日課とし、今日は5編読んだなど、自分の英文を読める速さが向上することも自覚できるので、真剣に勉強していたこと若い日が確認できる懐かしい手がかりなのであろう。高齢者は基本的に若い頃を肯定的に懐古できる特性を持つが、持てない高齢者もいないわけではない。文献カードを持ち続けるのは、自分はこれくらい論文を読み込んできたなどと自慢できる学生はもう手元にはいないのだから、肯定的に自分の過去を振り返れなくなる将来への防衛規制なのかもしれない。
もう一度読み返すことも、電子化しても使用する機会もないことは理性的には了解でき、「未練たらしい」、「どうせいつかは捨てるのに」、「棺桶に入れて焼いてもらうつもりかね」などと内なる声も聞こえないわけではないが、残しておく選択をしている自分が居るのである。
最近は電子化した論文を読むようになった。文献検索は巨大資本が独占的に提供するデータベースで簡単にできる。それも高度に悉皆的な文献検索が可能である。名大の図書館を学外から利用できる恩恵に要しているので、研究を続ける上でそれほど支障はない。
しかし、自分で雑誌から複写したり、送付を請求して送られてきた紙ベースの文献を読み、手書きのメモを残したりしていた頃の方が内容への理解が深く、研究のアイディアが浮かび易く記憶にも強く残るような気がしている。
「なーに、年をとって理解力も記憶力も低下しただけですよ」というコメントも聞こえそうですけどネ。
かくして研究室に山積みとなっていた段ボールは廃棄分を除いて何とか新しい部屋に収納できたのでありました。おそらく、最後の研究室移転であります。
学生たちは付き合っている彼氏と別れても、「未練」という感情は浮かび上がらないかのようで、次の彼氏へと気軽に移って行くように見える。
さて、段ボールを整理中に生じた「未練」は文献カードに対してである。文献カードという単語ももはや死語かも判らないが、段ボール箱一杯に「外国文献社」の文献カードが見つかったのである。まだ持っていることも忘れていた。A4サイズの半分大の、やや厚手のカードで、4つの辺すべてに2行穴が開けてある。穴の内側にはアルファベット、著者名、論文題名、雑誌名、発行年度などの基本情報に加えて分野が分類できるようなが印刷された部分と、自由記載のための経線部分から構成されている。たしか5,000枚単位で購入していたことを覚えている。
このカードの存在を教えてもらったのは生澤雅夫先生で、当時の院生は全員このカードで整理するようになった。自分が読んだ論文の要点をカードにメモして生理しておくこと、それにはこのカードが一番良いと断定的であった。生澤先生は大変几帳面な方で、手帳にも几帳面に記入され、パイロットであったと思うがノック式の万年筆(いちいちキャップをねじって外さなくても書ける)を自慢げに盛んにメモをされるのであった。手帳を出して、「いついつの発言とは違いますね」というような調子でやられるので煙たいときもないわけではなかった。先生はこのカードの利点はホールソートができることであると、鉄の細い棒で数十枚のカードからソートをするやり方をデモンストレーションされた。今でいうエクセルでの並び替えの物理的手法である。カードの4辺の穴にはさみで切り込みを入れておくと、ソートの際に関連カードが抜け落ちるという原始的な分類技術からできていた。
かくして私たちの間に「外国文献社」の文献カード利用が広まった。僕もその虜となり、その後に職を得た大学でも着任する後輩たちに薦めたことを覚えている。これに似た「丸善カード」、「紀伊国屋カード」と売り出されたときも「外国文献社」のカードがよいと断言し、「ハマっていた」のである。そういう理由で院生の頃から始めた文献カード記入は、若い人がファイルメーカーというコンピュータソフトで整理した方が便利ですと教えられるまで名大に移ってもしばらく続いた。
論文を読んで、その要点をまとめること、そこから気づいた実験のアイディアなどをメモしてきたのである。数えてはいないが「外国文献社」がなくなると聞いて慌てて追加購入した記憶があるのでかなりの数の記入カードが残っているはずである。
何度か研究室を移転する際に荷物を整理する機会はあるのにカードが入った段ボールを捨てられなかった。今回の引っ越しでも廃棄しなかったのである。自分が購読していた外国雑誌の大半は今回廃棄することができたのに、何故か、捨てられないのだ。
何故なのだろうと考えてみると浮かび上がる語彙は「未練」なのである。「未練」は懐かしさという感情も付随させている。毎日のように何編かの論文を読むのを日課とし、今日は5編読んだなど、自分の英文を読める速さが向上することも自覚できるので、真剣に勉強していたこと若い日が確認できる懐かしい手がかりなのであろう。高齢者は基本的に若い頃を肯定的に懐古できる特性を持つが、持てない高齢者もいないわけではない。文献カードを持ち続けるのは、自分はこれくらい論文を読み込んできたなどと自慢できる学生はもう手元にはいないのだから、肯定的に自分の過去を振り返れなくなる将来への防衛規制なのかもしれない。
もう一度読み返すことも、電子化しても使用する機会もないことは理性的には了解でき、「未練たらしい」、「どうせいつかは捨てるのに」、「棺桶に入れて焼いてもらうつもりかね」などと内なる声も聞こえないわけではないが、残しておく選択をしている自分が居るのである。
最近は電子化した論文を読むようになった。文献検索は巨大資本が独占的に提供するデータベースで簡単にできる。それも高度に悉皆的な文献検索が可能である。名大の図書館を学外から利用できる恩恵に要しているので、研究を続ける上でそれほど支障はない。
しかし、自分で雑誌から複写したり、送付を請求して送られてきた紙ベースの文献を読み、手書きのメモを残したりしていた頃の方が内容への理解が深く、研究のアイディアが浮かび易く記憶にも強く残るような気がしている。
「なーに、年をとって理解力も記憶力も低下しただけですよ」というコメントも聞こえそうですけどネ。
かくして研究室に山積みとなっていた段ボールは廃棄分を除いて何とか新しい部屋に収納できたのでありました。おそらく、最後の研究室移転であります。