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GWが終わった

 ここ2年ほどGWには早春の信州を楽しむことをしてきたが、好天恵まれたにもかかわらず、今年は2日から6日までの5日間を自宅で過ごすこととなった。12月から居候をしていた次男が出産を終えた嫁と合流する駅前マンションへの引っ越しの手伝いがあったためである。結局、夏野菜の支柱の組み立てや孫の相手などで何をして過ごしたか思い出せないような時間の経過で終わった。昨夜から孫もいなくなり、空の巣症候群などと名付けられた空虚感はこういう類の強烈なことかと思ったりする。
 女の子の初孫は1週間たらずの滞在で500gほども体重が増え、表情や仕草が日ごとに豊かになることを楽しめた。上下動のあやし方を好むので背筋や内股に筋肉痛が残っている。振り返れば、子どもを育て、彼らが家庭をもち、孫の世話をするという発達課題をつつがなくこなせてきたのは幸せなことである。次男の仕事の都合で週末は家に来ることになるらしく、日ごとに大きくなる乳児を見るのは楽しみであり、送迎用に車に付けたチャイルドシートもBaby in my carのステッカーもそのままにしてある。
 連休中に学会の抄録を書く予定はこなせたが、3月末に書いた論文の下書きに手を入れることも読みかけの安岡章太郎の「流離譚」の下巻を読み終える予定もできず終いでGWは終わる。若い頃だと何とかして自分で決めたスケジュールをこなそうと焦ったものだが、まあいいかと自堕落になっていくのも年齢のせいであろう。
 「流離譚」は著者が亡くなったニュースを知り、本立てに彼の本があったことに気づいて読み直し始めたのだが、なかなか進まない。寝る前に数ページも読まないうちに本を閉じるのが何十日も続いているためである。眼鏡をかけなくても就寝前に読めたのが、半年くらい前からは著しく困難になってしまった。老化は着実に進行していることを思い知らされている。もっとも、酔いに任せて寝るつもりが、読書が面白くなって寝むり難くなることはなくなってよかったと何事にもポジティブに解釈することが多くなった。これも老人特有の性格であろう。
 「流離譚」は著者の先祖が土佐藩の郷士で勤王党に属し、投獄されるなど一族のルーツを探る内容である。安岡がルーツにまつわる本を書こうとしたのも加齢のなせる業に違いない。資料を読み解く作業をしながらの歴史書とも思えるもので、司馬遼太郎と類似した資料の使い方をするが、安岡の方が一般向けの性格は薄い。しかし、面白いのでお勧めである。上下の2巻構成で未だ7割ほどしか読めていないが、幕末の土佐藩の上士と郷士の階級闘争や封建制度の具体的な中身については始めて知ることが数多いからである。武市瑞山(半平太)は上士なので疑惑を受けても拷問はされないのに郷士は拷問で責められることや坂本龍馬などのような脱藩者は一族が責めを追うことなどはよく知らなかった事実である。身分制度の堅牢さや土佐藩に掛川から移ってきた武士と土着の武士との何世紀にもわたる確執などは,人間の心理構造の有り様を教えてくれる。江戸後期に経済が発展して藩校などで下級身分のものが教育を受けると身分制度をひっくり返す者達を生み出すわけであり、歴史の移りゆく仕組みが見えてくる。國を豊かにしようとがんばり、その結果教育を受けさせる範囲を広げたことが、自分たち権力者が追い落とされることの原因となるという皮肉な歴史の仕組みは現在の世界の経済発展と、新興国の勃興の仕組みの理解にも示唆が多いなあ、などと思いを巡らしている。
 次男夫婦の世話から解放されて老人ホームへのボランティアに出かける家内を送り出し,久しぶりの一人の時間を楽しめた。今日で終わりのGWもこれで良いのだと満足することにしよう。

新年度が始まった

 4月から新しい年度が始まった。3月が目の回るほどの忙しさであっという間に過ぎ去ったという感覚に比べて、4月の時間の流れは遅かった。今の大学に移籍して5年が経過したので4月からは新しい契約年度に入ることになった。退職金をもらって、再雇用というわけだ。退職金は高級官僚がつぎつぎと2-3年おきに職場を変えその都度受け取ったはずの金額の1割程度を受け取ったにすぎない(もらえるだけ有り難いのは言うまでもないので,文句を言っているわけではない)。生活の実態は本質的に変わらないので退職したとか、新規の雇用年度が始まったという特別な気持ちがあるわけではない。
 4月からは教務部長職を解いてもらえたので肩書きは2つとなった。毎日何度も何かしら問題がわき出る教務部長の仕事がないのは、有り難い。3月までの忙しさの原因はこれだと確認できた。もっとも、4月からは様々な日常的なことではないもっと規模の大きな課題をあてがわれたので,気分的にはうっとうしい。
 新学期の授業開始の初日の4月8日第一時間目にキャリアデザイン科目での講義を行った。2年前のカリキュラム改革で新規に作ったキャリア関連科目の2年生用の授業である。キャリア科目の設置は法令化されたので一般に大学では専門教員を採用している。カリキュラム改革を主導する過程で面倒なやり取りに時間を掛けるのも、と考え、僕は敢えて理事者に専門教員を要求しなかった。
 高等教育の改革に関わった連中がキャリア科目の設置を法令化させたのだろう。就職してすぐ辞める新卒生対策でミスマッチを減らさないとたまらないとする企業側の意向が底辺にあるはずである。文科省に都合がよいことだけつまみ食いさせる高等教育の研究者は何をしていると言いたくなる。
 いままで教員養成系大学にあった「進路指導」の科目担当者が担っていた内容がキャリア科目の基本内容と考えられるが、専門の大学教員が育成され設置が準備されてきた形跡は皆無なので、多くの大学に行き渡るほどの専門教員はいるはずがない。企業などの人事経験者を採用せよということだろうが、学生たちのためになるキャリアの授業が可能かは怪しいし、にわか作りの教員が大学に紛れ込むのであれば誰でもできる科目とも言える。第一、キャリア教育を中身の濃いものにするのであれば、大学に1人くらい採用したところで足りるわけがない(1学年4000人規模の大学で選択科目にして200名未満が受講しているに過ぎないのがほとんどの大学の実態)。それならば自前で担当者を育成し、すべての学生にしっかり学ばせるべきだと考え、1年から3年まで必修化したのである。2年目に入ったところなので、成果は未だ検証できないが、小規模大学での立派な特色にできると思っている。そう言うわけでキャリアデザイン科目の旗振り役を自らやる羽目になり(自分で自分の仕事を増やしたことになっている)年度初めの講義をすることになった次第である。声高には言えないが,他大学でやっているキャリアデザインの授業内容は,ミスマッチを避けるノウハウ、エントリーシートの書き方など、些末な内容が大半である。これらが不要とは言わないが就労の基本的なことを学生に伝えることに力点を、と考えている。「何故働くことが必要か」、「労働とは身体と時間を賃金と交換すること」、「働いて税金を納めるのは何故か」、「労働に必要な知識」、「追い出し部屋などの手口」などの方が小手先の手続きを教えるよりも重要なはずと考えている。
 キャリアの授業は昨年から始めているが、「義務教育には税金が使われているのを知って驚いた」、「年金は自分らの税金でまかなわれているとは知らなかった」とコメントする学生や「頑張らないものは頑張るものの邪魔をするなという竹中平蔵の発言に、「同感だ」などと記述する、社会的な仕組みについての無知と自分は強者側にいるのだと思い込んでいる学生が少なくないので、科目を設置した真の目的の達成は容易ではない。しかし、選択科目で半年キャリア科目を受講して,法令を形式だけクリアしているだけの大学との差別化を目指さねばならない。知らないことが多すぎる心優しい学生に、働く意味と賢く働く知恵をしっかり身につけさせれば、穏やかな老年期までの就労が可能となるはずだからである。
 すっかり大学の経営者みたいな物言いだねと皮肉られそうだが、新しい雇用契約では経営サイドに身を置くことになってしまったので仕方がない。
 このようにして,数年前にナカニシヤ出版から共編で出した本のタイトル「幸福な高齢者としての生活」は今しばらく延期というわけである。今日はお産で里帰りしていた初孫が始めて自宅に来たので「幸福な高齢者」の一部要素は充足されているが、「穏やかな」という生活には未だ時間がかかりそうである。でも、夏野菜の苗(ゴーヤ、キュウリ、トマト、ピーマン、オカワカメなど、2-3本づつ)を今日買いに行って植え付けを済ませたので「穏やかな」生活の一部は充足できていると自分を納得させつつ成長を見守りたい。

それぞれ大変だ、年度末は

 3月18日から2泊3日で北大に出かけた。「若手研究者のためのブラッシュ・アップ・セミナー」での講演に招待されたためである。今年はことのほか雪が多いということで、札幌の街は道路脇に雪が積まれ大通りは2車線状態であった。はじめの2日間は吹雪で、最後の日はバカ陽気と、この時期の北海道は大変である(もっとも、関西でのように花粉でグスグスいう必要はない)。企画内容は助手や院生クラスが対象で、それぞれの研究発表とそれに対する私を含め3名のコメンテーターとの議論を一人当たり40分行うというスケジュールであった。9時から5時過ぎまで久しぶりにアカデミックな脳活動をさせてもらった(以外と疲労感がないのは、現在の生活様式が自分に合っていないことの証拠かも知れない、などと思ったりしたが、身過ぎ世過ぎの是非もないので考えない)。
 26日は名大に一緒に仕事をしている教授を訪問した。未だ鏡池周辺の桜も咲いておらず、風が吹いて寒いくらいであった(23日と24日は、熱海と焼津に出かけていたので、満開の桜と暖かい日を経験したのでその対比効果だったのかも知れない。何用かというと、初孫の宮参りだったのです。まだ祖父の実感は希薄である)。仕事を簡単に済ませて、名大の近況を聞くことになった。お互いに愚痴の披瀝の仕合っこである。名大でも国際化拠点整備事業(グローバル30)国費外国人留学生(研究留学生)とかいう、文科省のプロジェクトに応募したので、これから大変ということであった。沢山の留学院生を受け入れ、研究と生活の面倒を見なければならないようである。大規模大学ではつぎつぎと大学院の国際化が求められているようで予算が投入される模様。北大のセミナーもそれに類する予算の消化にための企画である。斯く左様に大きな大学には重点的に予算が配分され大変だが、対応する人的資源(数と質)がない弱小大学は割を食うことが際だってきていることも実体験した年度末であった。
 基幹大学であっても、新しい事業に応募するには誰かが立案し申請書を書かねばならないし、採択されれば運営して行かねばならないので、ルーティンでの研究や教育活動に上乗せされる負荷がかかることになるのは言うまでもない。今のところそれらに対応しているようなので敬意を表さねばと思うが、もう少し、そのためにつぎ込んでいる人的資源の労が社会的に評価されて処遇が改善されてもよいと同情心もわく。そのための手だてを工夫せねばやってられないでしょうと、余計な口を挟みそうになる。
 翻って、現在の勤務校での教員の教育研究活動は、もう勤務して5年の期間が過ぎようとしているが、国立大学法人のそれに比べて、軽微すぎるという印象を拭えないでいる。この大学に入学する学生に「チューニング」した教育活動に汗をかく教員が多くならないとダメじゃないかと考えてしまう。大きな大学であれば桁が違う数の教員がいて、少々の割合で汗をかかない人がいても船は進んでいくが、100名規模の教員の大学では皆が同じ方向を向いて水を櫂いて行かねば、よその大学に追走していくことは叶わないのではと案じてしまう。4月から経営者サイドに身分が移るので、傍観では済まされず何とか引っ張っていかねばならないと、気は重い。
 スケールメリットは「大きいことは良いことだ」と解釈されるのが普通であるが、「小さいことが良いこと」もあるはずで、それを生かした特色ある大学にせねばなるまい。入学生への「チューニング」した教育活動はきめ細かい対応で、時間を掛けて理解を促すこと、興味関心を持続させるような授業の方法の工夫(情報機器を駆使するなど)だろうと考えると、中教審の答申が指摘することに似てきてしまうなどと、こんな生活が自分自身の望ましい人生の生活設計なのかと自問しつつ、早朝覚醒が習慣化したこの頃の、もう一寝入りせねばと思う時間帯に思うことである。

 21日には卒業式があり、教員生活での最後のゼミ生を送り出した。卒論(のようなもの)を作成させるのは容易ではなかったが、もう個別にタメ口で話す学生らと対応することはなくなると思うと一抹の寂しさがある。都合3学年のゼミ指導をしたことになる。卒業生が初老の僕を飲み会に誘うメールをくれるので、良い職業に付いたものだと実感している。彼女らに逢えば寂しさも紛れそうであるが、予定が目白押し状態でなかなか日程が合わない。
 斯く左様に大学の管理業務が日ごとに増え、あっぷあっぷ状態で生きているが、研究者生活に寸暇を惜しんで書いた書籍が3月末にでき上がる(未練がましいという声が聞こえそうですが)。化学同人社刊で「「左脳・右脳神話」の誤解を解く」という題名である。左右脳研究の歴史的展開とそれらにまつわる科学神話の誕生の仕組み、40年あまりの左右脳研究への参画で思い至った感想、幻想、妄想などが書き連ねてございます。昨今の状況に同情する読者は購入して下さると、私のストレスも和らぎ、愚痴も減るというものであります。よろしくお願いします。

時は巡る

 2月ももう終わりの週を迎えようとしている。新年になってずいぶん時間が経過した想いが強い。日程表で確認しつつ仕事をこなす日常で、最近は手帳をiPad miniに頼っている。予定表で会議は赤色にしているので新年に入って以降の日程表は真っ赤になっている。予定表に書き込まない相談ごとなども少なくないのでともかく忙しい。予定はルーティン的なものが多いので、心的時間経過でアンカーになる出来事がないと時間の流れはとにかく速い。

 こういう早い時間の流れの中でも非日常的な出来事がエピソード記憶を作る。しかしこのようなエピソード記憶も3年以内に大部分は消えることを以前にNTTからお金をもらって研究したことがある。コンピュータのメモリーは適当な時期に自然に消えていくのが望ましいとすると、いつ頃だろうという設問の課題にお金が付いたのである。その結果、「出来事の記憶は3年でほぼ消えるので、死者を回想することを必然化するために3回忌があるのだろう」と書き込んだ部分は削除された(英文誌で想いを伝えるほどの語学力はないので仕方がない)。浄土真宗では3回忌の次は13回忌である。
 父親の13回忌があり帰郷した。平成13年の12月15日に亡くなったのであるが、湖北では法事は農閑期に行うのが決まりで、法事は年の初めにやってしまう習わしである。もうそんなに時間が経過したのかという想いがする。
 13回忌の法要は2人の坊さんが来て経を3つ読んで2時間が過ぎてから食事となる。40人ほどの親戚(膳に座る当主は25名ほど)が集まる。自宅で開催するのでお経の後は4-5時間ほどの宴会となる。
 このような法事では、嫁いで外に出ている親戚縁者の嫁や婿のデビューとなるので、品定めが行われる(と解釈している)。人当たりの良さ、知的レベルなどを杯のやり取り(小さい猪口で、日本酒がやりとりされる。自分の酒に対する耐性の自覚、周囲への気配り、会話の品質が評価対象になる)の中で判別する。良い嫁をもらった、良い婿がきたなどと評価されることになる(子どもの頃は宴会途中での歌の紹介があるので、作歌も評価対象の素養であった)。
 宴会の前には当主(今回では甥)が下座で歌舞伎役者のするように、扇子を手前に置いて挨拶をする習わしである。きちんと挨拶できるかは若い当主には心配事である。お酒が入って時間が経過していくと本音でものを言うようになるが、其処での内容はコミュニティの人事(区長、区長の代理、その他役員)が終盤での決まった話題になる。込み入ってくる話は背景が分からないので加われないが、話題は次年度以降のコミュニティ人事についてである。決して年功序列で選ばないこと、順番で決めるなどのいい加減さはなく、有能とみんなが認める人物を法事などの宴席の対話の中から選抜していく機能と解釈できる。何百年とつづくコミュニティにはこのようにして、組織を構成し維持するしくみがあるのだと、田舎を出て50年になる部外者である僕は気づいたことである。何のことはない、現代の経営者らが指摘する「本音で対話を仕合い、人物の力量を評価して順番とか年齢とかによらずにリーダーを選ぶ重要性」は古いコミュニティに既に蓄積されてきたことに気づいたことである。
 読経の後で法話がなされる。今回は父の残した歌集のうちの「涼風」から何編かが紹介され、仏教の教義に沿って解釈が披露された。「草を刈る、その瞬間も伸び止まぬ 命あるもの刈ると鎌研ぐ」、「新しき、朝を迎えて先ず念仏 百歳生きても短き行き先」など数編が紹介された。前者は、私たちは様々な命を糧として、生きて行かざるを得ない、雑草にも命を見いだすのは仏教の原点であるという。後者は90歳で亡くなる少し前のもので辞世の歌と紹介された。もう死が近いが、余命が短くても長くても、悠久の時の流れの中では何ほどの違いもない、と近づく死を自然に受け入れていたことが伺えるという解釈であった。自分が将来同じような境地を得ることができるだろうかと、考えさせられたことである。
 何回忌という法事は、生きている者が自分たちを育てた者達への回顧と、残された人生の生き方への振り返りをもたらす機能を有していることに気づかされる。大仰な法事は面倒なことではあるが、古い地域コミュニティで法事が存続し続けられる理由にメリットも内包していることがあるのではないかと、社会学者でもないのに考察したのであります。

 2月の11日の深夜に、女の子の初孫が誕生した。昨日嫁の実家を訪ねて腕に抱くことができた。未だ祖父になったという実感は薄いが、このようにして命がつながれて時は巡っていくのであろう。孫がこの文章を読むような可能性を考えると、もの忘れしないコンピュータも在ってよいのかも知れぬと、昔書いた論文の主張とは違う事を考えたりしてしまうのであります。

新しい年が始まった

金曜日で後期の授業も終わり卒論のゼミ内発表会も済んだので、ほっと一息つける時期にやっとなった。こういうときに風邪を引きやすいことは経験ずみなので気をつけていたが、案の定鼻炎の悪化ではなく風邪を引いたようである。土曜日には滅多に行かないのだが泳ぎに行って、その後睡眠を取ったが、効果はなかったようである。従来は風邪気味だなと思ったときには泳ぎに行って汗をかいて一眠りすると風邪の方が退散してくれたのだが、そうは行かなかったようである。体力の衰えという加齢現象に原因を帰属するしかない。プールでは受付の若い女の人が「土曜日、珍しいですね」と声を掛けてくれた。日曜日にも受付にいる人なのだろうと思ったが、もともと覚えていないので、もごもごと小声で返事するしか仕方がなかった。
 泳ぎながらいくつかのことを考えていた。受付の人が顧客の個体識別をしていること、先週休んだので身体がきついことなどである。前者は大学で中途退学者を減らす運動を始めており、出席の管理を確実にやるように教員にお願いすることにして、その管理を簡単にすべく携帯電話を使ってのシステムを導入することになったことに関わりがある。教育開発支援センターを3年前から任されて入学前教育、カリキュラム、中退学者の問題を担当し、2年ほど前からいろいろと市販のシステムを吟味してきてやっと希望〔金額と仕様〕に合うものが見つかったので、理事者側にOKをもらって使用説明会を先週から始めたばかりなのである。大学生に出席など取る必要がないと思い込んでいる教員も少なくないし、出席を取ることで授業に興味がない学生が来て私語などが増え授業が返ってやりにくくなるなどと考える人もいないわけではないので、何かの新機軸を打ち出さねばパラダイム変換は起きにくかろうと考えたのである。
 受付の人が僕を識別したことが、気があるのかもなどと自惚れているわけではが悪い気はしない。親近感というかプールに愛着が沸くような気がした。教員に学生の個体識別をしてもらい、頻繁に声かけをしてもらうようなことができれば、新しいICTシステムは要らないのかも知れない、などと理事者には聞かせられないことを考えていた。
 泳ぎは毎週やらないと身体にきつくなるのを数年来実感している。60半ばを過ぎると常にし続けていないと困難さが増す。この廃用性の機能低下の原理は60歳頃から当てはまりの度合いがぐんぐん増すなあとも考えていたことである。泳ぎは3割ほどの距離を経た頃がけっこう身体にきついし6割ほどを過ぎた距離でもきつい。残りの距離2割ほどになると、まだまだ泳げそうな気がしてくる〔自分だけかも知れないけど〕。これも人生に似ているなあと思ったことである。若いときはしんどいし、50歳代もしんどい。しかし、60歳を過ぎるとまだまだやれそうな気がし始める様子を友人たちの体験からも感じるからである。
 大学は今日の日曜は入学試験があり当番なので出勤した。授業などが一段落したらしばらく書いていない八雲関連のデータでの論文を書かねばと10日ほど前から考えては来たが、涙が出たり鼻水がでたりすることの対応に追われて集中することができない。論文を書かねば、このままでは廃用性の機能低下が始まってしまうと気が気ではない。
 なかなか思うようには行かないことを日々体験し、確認している。このようにして新しい年も始まりの月を終えようとしているのであります。

値段とウイスキー

 木曜日を学外研修日にしているので、金曜日に出勤すると前日の仕事が残っており、とりわけ忙しいのだが、昨日は年内最後の日で会議は目白押し状態であった。それに加えて4コマ目に授業をしたので、さすがにドット疲れを感じずにはおれなかった。授業の後も会議を一つこなして年内最後の飲み会へと少し遅刻しての参加となった。
 教育大の頃の一回り上の先輩とその頃の学生が集まっての飲み会である。それも30年ほど前に何度も通った梅田の飲み屋で開催され、店の名前こそ変わっていたが店の造り屋雰囲気は変わっておらず一気に昔に戻れることができた。教育大での最後の学生2名が教授に昇進したのを祝ってあげねばという趣旨の会ではあったが、長く努めれば昇進するものだと建前を繕わない者もいて、結局は昔と同じような皆がそれぞれに自分の関心事を話し出す集団モノローグの場となった。
 関西人の特徴として,給料が安いとか高すぎるとかお金の話になり盛り上がるのであった。大手の私大教授をしている者の年収は僕よりもかなり多いことや、教授に昇進した2人は国公立大なのでボーナスは安いことが判明した。10年ほど前は8ヶ月分のボーナスを出していた大阪の某私大の今年のボーナスはゼロであることを教える者などがいて慰めることであった。
 大学教員の給料(値段)は如何ほどが適当なのか決めようもないが、30年ほど前に研究者になりたいといって大学院に残った学生が全員その望みを実現できていたのは嬉しいことである。スタート時に公立に職を得た者はそれが私大であった者に比べて有利であった状況は昨今では少なくとも給料面では逆転してしまったわけで、時の流れを感じざるを得ないし,「人生塞翁が馬」と昔の人も同じような思いを持って生きていたことを確認することであった。
 値段のことのついでに言えば、数日前にインターネットでウイスキーを安く入手した。これも30年ほど前になるが、英国の友人にJimという酒好きの先生がいて彼から世界中で一番美味しいウイスキーと教えられた「ラガヴーリン」を4800円で買うことができたのである。ちょうど残りがボトルの半分以下になってきているので興奮して2本注文してしまった。
 彼は僕のウイスキーの飲み方の師匠であるが、彼の息子の友達がウイスキーの飲み方を教わりに来ている時にも遭遇しているので、レベルの高い師匠なのである。うんちくは半分も知らない形容詞で満たされ、酔いの中でそれを聞かされるのである(その受け売りを僕がしている)。確かに毎年出版されるビールとウイスキーの品評ランキング本でも「ラガヴーリン」は最上位にランク付けされる銘酒である。彼の家には「ラガヴーリン」はなかったので味を知らず終いであったが、そのときの帰路の空港免税店で「ラガヴーリン」18年ものを見つけ、衝動的に買ったことが僕の「ラガヴーリン」信奉の始まりである。値段は2万円ほどした。ピート臭の強いアエラ地方のウイスキーでくせになる美味しさなのである。20年ほど前に東京八重洲の酒屋で「ラガヴーリン」16年(これが一般的に流通している)を1万円で売っているのを見つけ、思わず荷物になるのに2本買って帰ったこともある。その「ラガヴーリン」が5000円までで買えるとは何と言うことであろう。昔が高すぎるのか今が安すぎるのか酒の値段はいったいどうなっているのかと深刻に考えてしまう。
 ウイスキーをネットで買った翌日に散髪に行った。頭髪が減ると安い散髪屋では物足りない仕上がりになるので時間がかかり面倒でも普通の散髪屋に行くのだが、代金を支払う段になって値段はデフレでも安くなってはいないことに気づいた。
 生産される商品の値段と人件費だけの仕事の値段とは異なるということなのであろう。大学の教員の仕事は後者なのだから「デフレでも下がってはイカンよなあ」、と独りごちたことである。
 今日からしばらく身体を休められる日が続く。「ラガヴーリン」を舐めながらたわいないことを独りごちながら年の瀬を迎えられるのは幸せなことであります。

感動3件

 「感動した」と土俵上で叫んで人気を博した首相がいたのをふと思いましてしまったのは、感動する風景を目にしたためである。連休の最終日に自宅に来ていた次男夫婦を送り出し、ほっとした気分のまま床暖房の程よい温さに誘われてのうたた寝から目を覚ました。皆が起きる前に朝プールに行ったきりで身体を動かしていないことが気になり散歩に出た。ちょうど夕暮れ時の暗くなる10分ほど前の時間帯であった。歩く道すがらの目前にある里山のくすんだ茶色の落葉樹群が図となり、その下部を占める竹藪の濃い緑を地として飛び出すような光景を見た。辺りは紫色の空気を刻一刻と深めている。落葉樹群の個々の木々の紅葉した葉のそれぞれが今にも飛び出して行きそうな立体感を見せ、「すごいなあ」と感動的気分を味わうことができた。帰路にはすでに日暮れは進行して辺りの紫色は暗さを増しチャコールグレーが深まって立体感は消滅していたので、日暮れ前の一瞬の一番良い時間帯に里山の紅葉が作り出す立体画像ショウを見たようであった。日暮れ時の情山の風景の感動からあの白髪の男の言葉がなぜ連想されたのかは分からない。連想とは不思議なものである。散歩の行きの感動は帰路の連想で打ち消しとなったことであった。

 散歩から戻り、来月末が締め切りの事典の原稿に着手せねばと,書き始めたがあまり気乗りがしないせいか、作業は横道に入ることとなった。この横道で「感動的」体験をした。20世紀の初めに英国で両手きき推進運動が行われているので、そのことを加えようと遊び半分にネットで「Ambidextrous Culture Society」のキーワードで検索したところLancetの1904年の記事項目にヒットした。100年以上も前の論文など探せまいと名大の図書館の検索システムに入って見ると(僕は名誉教授なのでアクセス権があるのだ)、pdfでダウンロード出来たではないか。1823年の1巻目から全部揃っている、信じられないと「感動」してしまった。Pdfの記事は活字を組んであるもので、斜め読みしているとロンドンのどこの病院で、どういう手術が行われるかなどが記載されている。テレビで見るシャーロックホームズの世界がまぶたに浮かぶようで、嬉しくなってしまった。探している肝心の記事は見つけられなかった(文字が小さいのでもう一度丁寧に探すつもりだけど)ので関連論文が1905年に米国で出版されているのを知り、JAMA(Journal of American Medical Association)誌を訪ねてみたりし。この雑誌は1883年からなので米国の若さが垣間見られるというものである。このようにインターネットを使えば、仕事を辞めた老後も時間を楽しく使えそうである。そのことを発見したのはとても「感動」であった(多分その頃は目も疎くなり、興味を失うのかも知れないが、老いることで時間を持て余すのではないかと言う不安が払拭できたというわけである)。

 自宅ではこのように3種の「感動」体験を得る時間を持てた。火曜日は夕方の6時からの入試関係会議まで事典の原稿書きに関われるかと思って楽しみに登校したが、現実はそれほど甘くはない(月曜日は私大協の会議で東京日帰り出張であった)。6人の4回生が次々と一人づつ部屋に来た。諮ったように管理事務の仕事が一段落した頃にやってくるのである。卒論提出まで1月を切っているのでやっとエンジンがかかり始めたのであろう。皆一斉に、「どう解析したらよい?」、「検定ってどうするん?」「標準偏差って何?」「グラフってどう書けばよいの?」などなどのやり取りとなる。「あんなあ、前に教えたし、エクセルの使い方授業で習っただろう」と返しつつ,結局はパソコンでエクセルファイルを開かせて(本人のデータに基づいた)教室を開かねばならない。

 3年間毎年この時節は同じこと言っているなあ自問してドット疲労感がでるのだが、来年はもうこういう時間帯は巡ってこないと思うと一抹の寂しさも感じないわけでもない。

忙しい週末

 10月26日は漢字の情報処理に関する国際学会(ICPEAL)が名古屋大学のNOYORIホールで開催されたので、朝6時半の新幹線ででかけた。約20年前に読みに関連する認知科学研究が盛んになった時代がある。その頃の集まりが持続して学会となり、今回は12回目である。アメリカ、カナダ、オーストラリアなど漢字とは関係がないと思いがちな国にも研究者はおり、中国、香港、台湾は言うまでもなく、最近は韓国も加わっての国際学会なのである(スペインやドイツの人もいた)。僕を脳科学の人間と分類する人が多いかも知れないが、国外では漢字の認知処理の研究をしている人間と考えている人も少なくない(疑う人はELSEVIER社発刊で30数巻から構成されている事典のNon-alphabetical Scriptの項目は僕が書いているので確かめて下さい)。
 使用言語は英語で筆談で漢字を用いてのやり取りをして議論するわけではない。顔なじみの台湾や香港の大学の研究者が来ており、懐かしく歓談した。台湾の大学に定年後に来いと誘ってくれていた人は大学を移っていた。医薬大の学長になっている人もいた。まさに「everything must change, nothing stays the same」とうろ覚えの歌詞の通りである。心理学者が医科薬科大の学長になったことは日本では聞いたことがない。心理学の地位が台湾では高いということであろう。日本の研究者も地位向上に努めなければならない、と微力であった自分のことは傍に置いておいて述べておく。
 心配したとおり中国本土からの参加者はすべてキャンセルとなっており、大会長は大変であったろうと推察した(名前だけは副会長でありながら何もしなかったので申し訳ないと思い、大会費を払いに名大に参上したのです)。
 同じ学会を1997年に名古屋大学シンポジオンで主催したときには、中国本土からは外貨が出せないというので10名を招待して欲しいというので旅費を工面させられたり、その後の中国本土での研究発展を支援させられたりしたのに、頑なことである。国家の方針なので、個人レベルでは違うのかも知れないがそんな国の国民は不幸である(もっとも、孔子の義理や報恩の倫理概念は中国では根付かなかったのだから理解できないことではないけど)。
 旧知の人との雑談で発表を聞き逃しているので研究の中身を評価できない。NOYORIホールの部屋が寒かったことや言語学者の考えることは面白い(半ば呆れつつであるが)というのが感想である。泊まったホテルの部屋の空調を入れ忘れ寒くて困った。酔っていたためで、自分の責任である。
  学会は日曜日まであったのだが事情で田舎に帰らねばならず、途中で名古屋を後にした。ご存じの読者もおられようが、田舎は滋賀県長浜市に編入された小谷丁野町(おだに・ようの)にある。戦国時代の浅井長政の城下ということが住民の誇りである。兄が帰ってこいと何度も言ってくると逆らえない古い土地柄でもある(家族は江戸時代が続いている土地柄と揶揄している)。日曜日は兄が檀家総代をしている集落の寺(小谷山龍本寺という)で親鸞聖人750回忌、蓮如上人500回忌の大恩忌法要が営まれたのに合わせて,スーツ姿の正装で帰れと言うことであった。事情がよく飲み込めないまま帰ったのだが、僕が両親の永代供養をお願いしている形式であることが寄金の一覧立て札を見て判明した。9時半からのその法要があるので参加すべしということであったらしい。男の兄弟はなかなかコミュニケーションが取りにくいもので(個人差でしょうけど)、何度も帰郷を催促された理由が了解できた。
 本願寺で750回忌や500回忌法要は営まれているが,末寺でも5年以内にすべしということのようで、宗教心の厚い田舎ではそれを実現できる力量があることの証である。法要では他所席(土地を離れたよそ者が座る席,反意語は在所席である)が用意されそこで寒さに耐えながら永代教関係の30分ほどの読経を聞くこととなった。こちらからは誰か判明しない何人かから父親にそっくりで誰かすぐ分かると、前日とは異なり湖北アクセントの日本語を聞くこととなった。会話する自分は大阪アクセントになって戻れなくなっており、適用力の劣化を自覚し流れた時間の長さを実感することであった。
 蓮如上人の法要の後、50年ぶりという稚児行列のお練りがあいにくの雨模様であったが行われ、それを見届けてイベントの途中であったが帰路に着いた。本堂でも寒いと感じていたが帰路の道路標識に14度Cとあった。
 あちこち出かけ忙しい10月末の週末の過ごし方は身体をすっかり冷えさせ,腰痛を再発させる結果を生むことなる週末であった(親鸞聖人750回忌の法要をサボったのがいけなかったのではと誰かの指摘が聞こえています)。

日本の歌を勉強する

 後期の授業がいよいよ始まる。管理職であるにもかかわらず、担当授業のコマ数はそれほど減っていない。その理由には昨年度カリキュラムの改革をして、教養科目やキャリア関連科目を新設したが、新規に担当教員を採用せずに自前でやる方針を採用し、自らが何時間分かを担当するようにしたためである。大学の資金が底をついたという理由ではないが、理事者側から教員を新規採用せずにカリキュラムを改変するという難題を担わされたためで、カリキュラム改革の責任者としては、自分でも負担を担わないわけにも行かずと言うことで、自業自得の結末である。最近はこういうことにあまり怒りが生ぜず、「まあ、いいか」と考えてしまう。こういうのは脳機能の加齢による変化らしい(Science2012年の336卷のBrasson論文に脳科学的証拠が提示されている)。
 新規に行う後期科目に「教養としての芸術」があり、2コマを担当する予定で、日本語表記の特性と芸術との関係についての内容を考えている。1月末の予定であるが今から準備しているという感心すべき状況にある。役目柄突然に予定が入るので,準備を怠るわけにはいかない。すでにある程度準備はしていたが、加筆せねばと感じることがあったのでその経緯を書く。今回のコラムは読むと勉強になるはず。
 加筆せねばと思ったきっかけはテレビで江差追分の歌唱コンクール番組を見たことで、江差追分の奥の深さに感心し、授業に甚句を加えることにした。年を取ったせいなのか日本の歌が気になるのである。とくに日本語の甚句に含まれるモーラ(拍)が気になるのである。
 この番組で歌唱者は、「カモメ鳴く音に ふと目を覚まし、あれが蝦夷地の 山かいな」という甚句を「カモメ鳴く音に」の部分だけで30秒近く声を継がずに自分流に歌うのである。合いの手はソイソイである。江差追分には音符はないので、自分流に歌うのだ。息を継がずにコブシを転がす上手さを競う番組であった。音域がやたら広いことと母音を長く歌うのが特徴である。もちろん江差追分には「カモメ…」以外にも大量の甚句がある。
 ちなみに追分は「牛馬を追い,分ける場所」で牛馬と歩く道すがら心地よい拍から構成される甚句を歌ったのであろう。それらの評判の良いものが民謡に転化したのだろうと、勝手に推量している。
 以前にモンゴルの歌手が長時間息を継がずに声を転がす様子と似ていると感じ、われわれはモンゴリアンであることを再確認したことであった。
 ちなみに、甚句とは江戸時代に発生したといわれ、歌詞が7、7、7、5拍(モーラとも言う)で1コーラスを構成するもので、全国各地の民謡にこの形式が多い。ハッタは「ハ」「ッ」「タ」で、3モーラ〔2音節〕、チョコレートは「チョ」「コ」「レ」「-」「ト」で、5モーラ〔4音節〕である。音韻構造で定められる音節とは違うものである。
 甚句で真っ先に浮かぶのは相撲甚句で、土俵上で力士5~7人が輪になって立つ。輪の中央に1人が出て独唱する。周囲の力士たちは手拍子と、「どすこい、ほい、あ~どすこい、どすこい」といったような合いの手を入れる。
 七五調は日本語の特徴で心地よいらしく、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804-1852)によって大成された音声言語による定型詩都々逸(どどいつ)は7・7・7・5の音数律に従う。
 「ついておいでよ、この提灯に、けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから」。「あとがつくほど、つねっておくれ、あとでのろけの種にする(あとがつくほど、つねってみたが、色が黒くて わかりゃせぬ)」など色っぽいものを講義で例としてあげて受けを狙うか、「内裏びな、少し離して また近づけて、 女がひとり 雛祭り」、「ぬいだまんまで いる白足袋の、そこが寂しい 宵になる」などの文芸調が良いか思案中である。
 いずれになるかは当日まで不明だが、日本語の音声言語としての特徴を生かした、芸術や芸能が様々な形で展開されてきたことを紹介し教養を高めてもらうつもりである。
 このような言語をつかう行動は、脳科学的には記憶(宣言的記憶,作動記憶)を使用するので辺縁系及び前頭葉前部の機能が活性され、認知予備力(Cognitive reserve)を高める、と我田引水的に結論づける予定である。
 忙しい忙しいと良いながらもコラムを書いているのは、私の認知予備力を高める作業なのであります。

歌うことは手続き記憶か

 歌うことについて気になることが4週間ほど経っても頭から離れない。
ことは先月末に大学時代のクラブメンバーとの同窓会が一泊で催された折りの経験である。僕は大学時代はその頃大層人気のあった男声合唱団に所属していた。43年卒と44年卒の仲間が15人参加した。当時は70人規模の合唱団であったので全員参加すれば当然もう少し多くなる。それでもかなりの出席率で、関西在住メンバーに加えて東京、富山からも参加し、中国地方在住メンバー2名に合流したのが参加メンバーである。おそらく44年卒組が再就職先を退職する65歳を迎えて、集まろうと企画されたに違いない。僕を含めた2-3人を除いて、今でもOB合唱団である南澪会で活動している。僕もしきりに誘われるが時間の都合が付かない(引退モードに入れない)のである。
 メンバーはともかく米子在住のメンバーの家に集合した。僕は吹田から後輩の高級車に同乗させてもらった。どういう段取りであったのかその家で1時間ほど練習をさせられた。その家は奥さんがピアノ教室をやっているので、好都合であったのだろう。急に練習が行われることになったため、米子から美保が関までの途中での観光計画は破棄された。観光よりも歌いたいという欲望が勝つのだから合唱から離れている人間には理解が難しいが、そういうメンバーの集まりなのである。練習するのは、宿泊先の近くにある美保神社に合唱を奉納するためなのだという。大それた計画が密かに準備されていたのである。
 宿泊先は美保が関の老舗「美保館」である(伊藤博文なども宿泊している老舗ですから是非ご利用下さい、八田の知人と言えばファーストテナーの親父は「関の五本松」の民謡を聴かせてくれるかも)。その親父がメンバーなので、老舗旅館で割安で騒ごうという魂胆である。
 冗談かも知れないと思わないでもなかったのだが、奉納は事実で、神主のお祓いなどを受けて4~5曲「愛唱歌」を歌うこととなった。「愛唱歌」とはリサイタルでの曲目以外に通常メンバーが歌う曲で、誰もが歌えるドイツ歌曲や童謡などである。僕はバリトンとバスを渡り歩いたので音程は怪しかったが、何とかボロは出ずに済んだ(もっとも声も大きくは出ないけど)。
 美保神社は歌舞音曲の神様でもあり、小椋圭など有名人も奉納した形跡がある由緒正しい神社である。おそらくは「美保館」の親父のパワーで我々ごときの奉納が可能となったのであろう。観客は20名ほどで「美保館」の従業員が動員されていた。練習の成果か、メンバーの日頃の訓練からか、それなりの出来映えとなり観客から(自主的に)拍手があった。
  今回のテーマは夜の宴会の途中で起きたことについてである。宴会は酔いに任せて合唱が続くのだが、驚いたことに、一橋大学や神戸大学の校歌を歌えたのである。現役の学生の頃に旧三商大の合同演奏会があり、エール交換の際に歌っただけに過ぎない曲を全員覚えているという事実に驚いた。僕だけが覚えているのだろうと長年思い込んできたが、皆が覚えているというのは不思議なことである(自分の記憶力がよいのかも知れないという推論は棄却されてしまった)。40年以上前に、数回しか唄はなかった他校の校歌を覚えている、2年生のときに一度慰問で訪れた「双葉保育園」の校歌も歌えたのである。しかし、全員、酔いに任せて話が続くなかでの人名や日付などはさっぱり思い出せない。
 失語症の患者が換語困難といって言葉が出てこない場合でも、歌は歌える症例は良く見聞きする。ちょうどブローカのタンだけしか20年間発話しなかった患者と同様に、どんな検査者の質問にも「一言ござる」しか返答しない患者が、突然「会津磐梯山は宝の山よ~」と何度も歌うビデオ画像も持っている。それらを勘案するとどうやら歌は「手続き記憶」らしい。水泳や自転車乗りを長い間しなくても忘れないのと同じ仕組みである。
 宴会も徹夜でやると言ってはいたが10時頃には元気がなくなり、手拍子で齋太郎節(エンャードット、エンャードット、松島のサヨ瑞巌寺ほどの寺もない~)を全員で歌ってお開きとなった。手続き記憶は運動の記憶であり、それに手拍子という運動動作が加わることで老人会メンバーの一体感は40年前と同様に高揚したのであります。

 8月はじめの大学の職員暑気払いパーティの最後に、あの一体感を再びと、齋太郎節を歌うことになったのですが、2番の歌詞を途中でいったん忘れることが生じた。手拍子がなかったせいか、あるいは歌うことが100%「手続き記憶」でないのかもと疑問も生じ、そのことが頭から離れないのであります(認知能力の低下が進むと手続き記憶も失われるという指摘も聞こえないわけではありませんけど)。
 いずれにしても元気で再会できた幸せを実感したことであります。