STAP細胞の話のついでに | はったブログ

STAP細胞の話のついでに

 実験室で割烹着を着て、濃い目の化粧をした若い研究者の評価が真っ逆さまに低下しつつあり、メディアは格好の獲物を見つけ、喜々として笑んでいる様子が新聞の週刊誌の宣伝文句に見出せる。
 真実はよく分からないが,根掘り葉掘り過去の業績を見聞されると研究倫理上驚くレベルのことが露わにされる。彼女のこれからの人生を想像すると気の毒な気持ちになる。また、「もしかしてだけど、もしかしてだけど、あんた達の業績も一緒なんじゃないか?」などと、最近のお笑い芸人のフレーズによるテレビ広告が頭をよぎる人たちもいるはずなので、心理学の先生だという母親や姉も辛いことだろう。
 大量のコピーペーストが行われた博士論文,既に公刊されている論文などが探し出されると,弁解のしようもなくなるわけで,コンピュータやネットワークの信じられない速度の発達が生み出した罪は大きいという思いが強い。自分が探し出して読んだ論文の一部がその研究者のエフォートやその重み・苦労を顧みることなく切り取りパソコン画面に貼り付けると,自分が生み出した知識のような錯覚を生むのだろうか。罪悪感がないので(知らないので)、「それはあかんやろう」という分量のコピペをするのだろう。技術の進歩は罪を生む側面もあることは,このこと以外の他の最近の技術の進歩からもつぎつぎ思い当たる。
 コンピュータやネットワークが存在しない時期から研究者生活を始めたので、過去40年ほどの間の研究活動の様変わりを振り返ると、自らも「便利になったけどダメになったなあ」と考えてしまうことが少なくない。第一、この原稿を書くのもパソコンへの直接入力でしか書けなくなった。タイプライターやワープロを使い始めの頃は原稿用紙に下書きを書き、それを清書するという段階があった。自宅で朝に何行か書いた英文を大学にしかないタイプライター(これは死語かな)で少しずつ清書していたものである(こんな時には修正された英文から英語の書き方がしっかり会得できた気がする)。外国の映画などで、タイプライターに向かっていきなり文章を打ち始める姿にあこがれたものだ。今では原稿用紙を渡されても、昔と違って文章が書けなくなっている自分がいるが、良いことなのだろうか考え込まざるを得ない。40歳頃までの手書きで下書きを作り,それを清書するという作業には、前もって構成をしっかり構築するという作業が不可欠であった。いきなりパソコンの画面に文字を打ち込む作業をすると修正や編集が容易なので、とりあえず書き込んで後で、移動させたり継ぎ足したりというのが常態化している。とりあえず書き始めるというスタイルよりも、構成をしっかり考えてからの方が、全体のバランスもわかるのではないかと考えると、思考力の退化が促進されたのではないかと思う(使える万年筆がないのだけれど、購入して手書きに戻り忘れている漢字を確認しながら通いのではという気持ちが浮かばないでもない)。
 手書きではないので、割烹着の研究者も借り物(盗用)の部分と自分の書いた部分が判別できなくなってしまい、自分が書いたような感覚になっていたのではないだろうか。論文投稿のために、製図器具を用いて自ら作図したり、自分で接写して顕微鏡写真を作成したりなどの、手作業を自分でできなければ研究者には成れなかった頃であれば、他人のデータや文章を安易にコピペすることなど不可能なわけで、コンピュータやネットワークの発達が生み出した負の側面は大きい。コンピュータが出現するまでの実験や論文作成が簡単ではなく大変だったことは、「左右脳神話の誤解を解く:化学同人社刊」を読んでもらえれば分かるというものである。

 話は飛躍するが、今回のSTAP細胞騒動で、改めて科学的であることや科学者倫理が問われている。科学的であることの証明手続きは斯くあるべきであるという情報には、次の本を推薦したい。「本当は間違っている心理学の話:50の俗説の正体を暴く」というきわ物風のタイトルが付いていますが、60頁もの参考文献がリストアップされているしっかりした本です。化学同人社刊で,八田・戸田山・唐沢(監訳)の本文は340頁もあります。今日あたりから店頭に並ぶはずです。グループで翻訳したものですが全体を見直す作業を担当したので、文責はあります。宣伝する責任もあろうかと、STAP細胞の話のついでに宣伝するということであります。何卒宜しくお願いします。