東京拘置所に行ったせいかデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスでの表現はどこまで許されるのかという事が改めて気になった。自分なりに考え続けたいという事もあるしLinekraftがかつて行った質疑応答付きのライブでの最後の質問。(要約すると)「貴方の作品に触発され何かが起こった場合にどうするのか」という言葉が未だに頭の何処かに巣くっているせいもある。私はこの質問者を個人的に知っているのでこの質問が道徳的:倫理的なものではないと分かっていたが限られた時間の中&人前に立っている中でそれを瞬時に判断し(質問者の立場からすれば質問内容を詳細に説明し)、答えるというのは難しかったろうと思う。結果、長い沈黙が産まれた(この沈黙を愛想笑いなどで埋めるような両者ではなかった)ことをよく覚えている。
この質問は倫理的な物であってもそうでない理由から発せられたものであっても(例えば貴方が井上日召だとしたら実行犯に何と声をかけるのかなど)答えることは難しいと思う。恐らくLinekraft自身も答えを模索している最中ではないか。だがその模索の途中であっても(明確な答えは出ない中でも)自分の言いたいことは言うという態度を鮮明にしているのが昨今のLinekraftのライブであると思う。また彼が所謂、ジャパノイズ的音作り一辺倒という立ち位置から離れ、デスインダストリアルやパワーエレクトロニクスの要素をその楽曲に取り入れたのもその模索と歩調を合わせての事と思う。
私の嗜好が大きくデスインダストリアル・パワーエレクトロニクスに流れたのはNoise for Noise Sake(ノイズの為のノイズ)とNoise with Contents(コンテンツのあるノイズ)という区分けがあると知ってからだ(それらはFreak Animalが出していた雑誌に書かれていたがMikko Aspaが最初に言いだしたのか否かは知らない)。固より私は現代史やヨーロッパの社会情勢に興味のあった人間であるのでコンテンツのあるノイズの方が一挙両得的な旨味がある。
しかしあくまでもそれを本気でやっているかどうかが一番大事だった。どこぞのバンドの様にジャケットの死体写真を指して「あれはショックバリューなので意味はありません」と言う、ComeOrg一派の様に厨二病的露悪趣味で意味も無く人を挑発するというのであればこちらも冗談として対応するまでだと思っていた。
そこで初めて本気で向き合って良いというレーベルに出会えた。それがStateartである。そのVA「Natural Order」に見られた一貫性、非妥協性などに深く心を揺さぶられこのVA参加者を軸にデスインダストリアル、パワーエレクトロニクス方面に触手を伸ばし、今は殆どコンテンツのあるノイズのみを聴いている次第である。
その過程でAnenzephalia.Con-Dom,Genocide Organ,The GreywolvesのTesco勢やフィンランドのGrunt,Bizarre Uproarの両雄を知り、今はインドネシア勢の勃興を目の当たりにできている。
しかしここで改めて問題となるのが彼らが本気でやってるかどうかという事に、個人的には、なってしまった。何故ならばデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスが音楽ジャンルの一つとして認知され始めたため、それらしきバンド群が明らかに増えたからである。中には、詳しくは知りたくもないので調べていないが、明らかに享楽的な観点からパワーエレクトロニクスと自らを称するバンドもいるようである。お陰で反社会的、反資本主義的マニフェストを掲げていてもそれを「宣伝文句」として捉えてしまうようになってしまった(そうなるとその本気度を測るには個人的に会って話を聞くほかないというほぼ不可能に近い事を求められることになってしまう)。
政治を音楽に持ち込むなというのは寝言も良い所だ。しかし冒頭にあるような問いを投げかけられた場合、それにどう答えるか。それに上手く答えられない場合は沈黙しなければいけないのか。意見の開陳、主張はどこまでも「暴走」しても許されるのか。上手く身をかわしながら活動し続ける人もいるし、現実を前に立ちすくんでしまった人もいる。だが恐らくはそれを本気でやっているならば何らかの葛藤や逡巡がありそれを乗り越えて実現した作品を私は手にしているのだと思っている。