NUORI VERI - Kadonnut maailmankuva

 

ノイズ界隈の煩悶青年達は全てパワーエレクトロニクス、デスインダストリアルに走るのかという疑問に「否」と間違いなく唱えているNUORI VERI。バンド名=「young blood」であり、rural industrialという一見矛盾した言葉で形容される彼の音は確かに若さ故の揺らぎの様な物が作品を徹頭徹尾覆いつくされている。

 

インタビューによれば彼の諸作品は「非暴力、反戦主義であった自己の心情が揺らいでいることから生じる心の揺れ」を表現したものでもあるとのこと。その「心の揺れ」を表した作品は冒頭で「若い血、失われた世界観」と自己を紹介し作品名を読み上げることから始まる。ゴトンゴトン、ジーと旧式の機械が立てる音とトレモロ。ブラックメタル風に若しくは多少の芝居気と共に吐き出される言葉。機械や金属が唸る中でピアノはつま弾かれ、語る様な口調と遠くへの呼び掛けが併存する。荒涼:寂寥としたピアノの音と心の内をそのまま表出したかのような語り口。その声の向こう側から聞こえてくる狂気。軋む金属、早口の女性の声、曖昧模糊とした音の霧。雑音と警戒する犬の鳴き声と大声で何かを伝えようとする男。静謐なピアノ音、鳥の声。淡々と話す男の声、アコーディオン、様々な音が聞こえてくる。

 

静けさをさらに深めるような音が鳴る中で紙をめくり、鉛筆で何かを一心に書き連ねている情景で作品は終了する。

 

Kadonnut Maailmankuva, プライマリ, 1/6

 

 

 

 

VA-Fuck the modern world (3A4ИCTКA)

 

現地の人に言ったら絶対に「纏めるな!」と怒られそうだがバルト三国といわれるとアルフレート・ローゼンベルクがエストニア出身であることやそのハードな国としての歴史を思い、「さぞや重苦しいお国柄であるのだろう」と勝手に決めつけてしまう。今でもちゃんと生きているのかと心配してしまうあのPogromもリトアニア出身だ。重苦しい気候と歴史の国で彼らはどの様に生きているだろうか。

 

当CDは2005年にリトアニアの首都Vilniusで行われたNordic Audio Modernというインダストリアル系イヴェントを記念したもの。ジャケのゴリゴリ感、愚直としか言いようのないタイトル。そして雨と自殺の国と自らの国を紹介する態度は子どもっぽい戯言ではなく灰色の空の下で生きることを余儀なくされている鬱屈した青年の本心であると私は思う。この思いは作品に逆さまに書かれた「only a few survived and they told the truth.we came from other worlds to witness their truth」という文句を読んでほぼ確信となる。この疎外感とエリート主義の綯い交ぜになった言葉は正にデスインダストリアルが胎動し始めた彼の地の、また流れ流れてデスインダストリアルに安息の地を見つけた世界中の若者達の心持を少なからず代弁しているように思う。

 

とここまで書いて内容が弱いとがっかりするのだろうがこの作品は上で書いたような事柄に相応しい内容を誇っている。煩悶青年達の一部がその鬱屈を享楽で紛らわすのではなく、その根源を凝視することによって解決しようとするかの如く。デスインダストリアルはデスインダストリアル、パワーエレクトロニクスはパワーエレクトロニクス、ダークアンビエントはダークアンビエントの基礎的な部分をしっかりと捉えて演奏され、その一人一人の真摯さ故に曲調が様々であっても散漫なものにならず非常に聞き心地が良い佳作である。

 

恐らく余り流通している作品ではないだろうがこれから上で書いたジャンルを聴きこんでいこうとする方や当時ライブ会場に集ったであろうこの手の音楽に初めて触れる煩悶青年達には強く印象に残った(残る)世界観と音調であると思う。

 

Fuck The Modern World (3A4ИCTКA), プライマリ, 1/5

東京拘置所に行ったせいかデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスでの表現はどこまで許されるのかという事が改めて気になった。自分なりに考え続けたいという事もあるしLinekraftがかつて行った質疑応答付きのライブでの最後の質問。(要約すると)「貴方の作品に触発され何かが起こった場合にどうするのか」という言葉が未だに頭の何処かに巣くっているせいもある。私はこの質問者を個人的に知っているのでこの質問が道徳的:倫理的なものではないと分かっていたが限られた時間の中&人前に立っている中でそれを瞬時に判断し(質問者の立場からすれば質問内容を詳細に説明し)、答えるというのは難しかったろうと思う。結果、長い沈黙が産まれた(この沈黙を愛想笑いなどで埋めるような両者ではなかった)ことをよく覚えている。

 

この質問は倫理的な物であってもそうでない理由から発せられたものであっても(例えば貴方が井上日召だとしたら実行犯に何と声をかけるのかなど)答えることは難しいと思う。恐らくLinekraft自身も答えを模索している最中ではないか。だがその模索の途中であっても(明確な答えは出ない中でも)自分の言いたいことは言うという態度を鮮明にしているのが昨今のLinekraftのライブであると思う。また彼が所謂、ジャパノイズ的音作り一辺倒という立ち位置から離れ、デスインダストリアルやパワーエレクトロニクスの要素をその楽曲に取り入れたのもその模索と歩調を合わせての事と思う。

 

私の嗜好が大きくデスインダストリアル・パワーエレクトロニクスに流れたのはNoise for Noise Sake(ノイズの為のノイズ)とNoise with Contents(コンテンツのあるノイズ)という区分けがあると知ってからだ(それらはFreak Animalが出していた雑誌に書かれていたがMikko Aspaが最初に言いだしたのか否かは知らない)。固より私は現代史やヨーロッパの社会情勢に興味のあった人間であるのでコンテンツのあるノイズの方が一挙両得的な旨味がある。

 

しかしあくまでもそれを本気でやっているかどうかが一番大事だった。どこぞのバンドの様にジャケットの死体写真を指して「あれはショックバリューなので意味はありません」と言う、ComeOrg一派の様に厨二病的露悪趣味で意味も無く人を挑発するというのであればこちらも冗談として対応するまでだと思っていた。

 

そこで初めて本気で向き合って良いというレーベルに出会えた。それがStateartである。そのVA「Natural Order」に見られた一貫性、非妥協性などに深く心を揺さぶられこのVA参加者を軸にデスインダストリアル、パワーエレクトロニクス方面に触手を伸ばし、今は殆どコンテンツのあるノイズのみを聴いている次第である。

 

その過程でAnenzephalia.Con-Dom,Genocide Organ,The GreywolvesのTesco勢やフィンランドのGrunt,Bizarre Uproarの両雄を知り、今はインドネシア勢の勃興を目の当たりにできている。

 

しかしここで改めて問題となるのが彼らが本気でやってるかどうかという事に、個人的には、なってしまった。何故ならばデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスが音楽ジャンルの一つとして認知され始めたため、それらしきバンド群が明らかに増えたからである。中には、詳しくは知りたくもないので調べていないが、明らかに享楽的な観点からパワーエレクトロニクスと自らを称するバンドもいるようである。お陰で反社会的、反資本主義的マニフェストを掲げていてもそれを「宣伝文句」として捉えてしまうようになってしまった(そうなるとその本気度を測るには個人的に会って話を聞くほかないというほぼ不可能に近い事を求められることになってしまう)。

 

政治を音楽に持ち込むなというのは寝言も良い所だ。しかし冒頭にあるような問いを投げかけられた場合、それにどう答えるか。それに上手く答えられない場合は沈黙しなければいけないのか。意見の開陳、主張はどこまでも「暴走」しても許されるのか。上手く身をかわしながら活動し続ける人もいるし、現実を前に立ちすくんでしまった人もいる。だが恐らくはそれを本気でやっているならば何らかの葛藤や逡巡がありそれを乗り越えて実現した作品を私は手にしているのだと思っている。

ライブ前に本人様と少し話せたのでその辺りを含め備忘録として。

 

基礎知識

インタビュー

 

Tanaya Sompitさん、他にもJisim(Old school industrial power electronicsと↑のインタビューにあり),Detroak(ハーシュノイズ)というプロジェクトをやってる
Detroakで一度来日しているとのこと。

政治的意味を持つものではないとインタビューでは語られているがかつてディパ・ヌサンタラ・アイディットというインドネシア共産党書記長がいた。真相はどうあれインドネシア人にとってはちょっと引っ掛かるプロジェクト名かも知れない。

彼が来日すると知りコンタクトを取ったWさんと一緒に彼と20分くらい話すことができた。

その中で印象的だったのは彼が、インタビューにもあるが、”インドネシアの”インダストリアルを意識しているという事だった。ヨーロッパの気候、文化から生まれる冷たい灰色のインダストリアルとインドネシアの土壌から生じる湿り気のある暑い噎せ返るようなインダストリアル。色は灰色というよりも漆黒なんだろうか.

これを念頭に昨夜のライブを思い返すとそこには確かに彼が意識しているというインドネシア的、アジア的なものが、音だけで無く彼の立ち居振る舞いも含めて、感じられたのだった。
ステージ上を歩きながら腕を水平に上げてから広げ「さあ始まったぞ。俺はここにいるぞ」と言わんばかりに見得を切る所作は何とはなしに彼の地で行われたであろう政治的な小集会や、もっと言うならば、野外で行われる伝統音楽劇の幕開けを思わせるものだった。また体を上下に蠢動させながらヴォイスを発する時。その声は例えば手を(水平にするのではなく)挙げながらWilhelm Herichが発するGenocideOrganの冷酷で打ち下ろしてくる様なものとは異なる。それは彼が好んで題材として取り入れたいとしている彼の地の闇に今なお息づく霊的なものの木霊であり、舗装路や石畳より未舗装路であり、ヨーロッパではなくアジアである。

ステージを降りて客席で叫びたてること2回の熱演は唐突に打ち切られ(この辺りがハーシュノイズやってる人っぽい)、引きずられるように私は現実へと引き戻されたのであった。

私は彼に「例えDIJが三島について歌ったとしてもそこには何かが欠けているはずだ。それは彼が日本人ではないから」と話すと彼は同意した。「人に何らかの感情を引き起こさせるのがポイントなんだろ」と彼は語った。矢張りポリコレと(日本の場合)冷笑主義全盛の世の中で無難な物に大半は流れていく。私が知る人の中でも自分のやっていることに躊躇する人は数人いる。だが「例えそうであっても」と思う(思える)のがデスインダストリアルをやる人であると思うし、彼も又そういう人なのだと話す中で思えた。

「いつか日本統治時代のインドネシアについて作品を作ってほしい」と話したが実現するかな?
日本人として、またアジア人としてそれは聴いてみたいと思っている。

先日ライブ会場でかつて欧州某国でレーベルをやっていた某さんと数年ぶりに会うことが出来た。話した時間はさほど長くなかったが「ヨーロッパはもう死んだ」、「Controversialな作品をリリースすると頭のおかしな外野連中が色々言ってきて面倒だからもうレーベルはやってない」と話していたのが印象的だった。

ヨーロッパが死んだ理由は言わずもがなだが(私も面倒な人間とは関わりたくないので理由は明示しないし、外野連中とは何かを詳らかにしない)、そんな中でControversialな作品を出し続けるというのは矢張り胆力のいる事だったのだと改めて思わされた。

彼のやっていたレーベルのほかにも外野との対決に消耗し、また現実のテロリズムを眼前に突き付けられ己の理想の甘さ&青臭さに向き合わざるを得なかった(揶揄しているのではない)レーベルもあった。また力及ばず理想を追求しきれなかった、若しくは大衆教化を諦め沈黙したレーベル、アーティストもいるだろう。その存在は消えても記憶は消えないデスインダストリアル、パワーエレクトロニクスが純粋な運動であった頃に活動した兵達の一軍である。

そんな変遷を思うとヨーロッパが「多様化」していく中でかつてあったものが衰亡し、その為に世の中が息苦しくなっていく中でも活動を続けているいくつかのレーベルの執念と孤高の態度には頭が下がる(「自ら孤立せよ」とアジるアーティストが日本にもいるが)。

ネット上での決済が出来なくなる。ネットを通じた情報発信が難しくなるなど弱小過激派レーベルの状況は非常に厳しい。また一般に広く名を知られたレーベルもPCにひっかかりそうなバンド名、タイトルを省略して表記する、ある種のジャケットは写真を掲載しないなどの対応を取らざるを得ない状況だ。極東でのほほんと暮らす身からすると「え、これもダメなの?」と驚くこともあるがそれ程に過敏にならざるを得ないような状況下での活動を強いられているのだろう。

上記の様な困難に直面しつつも、恐らくは「べき」論に基づく信念を持つレーベル達がしぶとい活動をしていることを少しく知っている身として最近気に障って仕方がないのがインダストリアル(これはもう”デス”インダストリアルとは全く別物だが)とパワーエレクトロニクスにおける娯楽化、通俗化である。最早、BM/NSBMの大部分がフェイクであることは薄々知られているように思うが、同様に先に記した両ジャンル、特にパワーエレクトロニクスにおいてはその一見単純な暴力性、煽動性が悪い方向に作用、アピールし、よりによってその発祥の地である欧州からその安易な紛い物が現れてきているように思える。筆者にはそれらを避ける能力が備わっている為に紛い物に出会うことは少ないがそれでも己の邪推が具現化したような連中が彼の地にはほぼ間違いなく存在すると思っている。

しかしこれらの紛い物はそもそもオリジナルがいたからこそ生まれたのだ。そう思うと何ともやるせない気持ちになる。AI宜しく、この界隈でも実際に会って話した人間の作品だけが信用出来るものになるのだろうか、

オリジナルのバンド群は時に文化テロリズムという言葉を使って己の活動を誇示していたが残酷かつ白痴的時の流れがいつしか彼らを保守派(音楽以外の分野においても)としてしまったのだろうか。だとしたら多感な時期を彼の地で過ごした身としては残念というしかない。確かに「もうお前が知っているヨーロッパじゃないぞ」と事あるごとに筆者は言われるのだが。

 

 

 

 

 

 

混沌の首 2025.08.09 @ 桜台POOL

 

丁度80年目の8月9日という奇縁に恵まれた日に行われた混沌の首のライブ。

思えば2011年福島第一原子力発電所でのメルトダウンなどの事故により混沌の首主宰の羅入さんは西国へと居を移されており、原爆とそれに伴う惨状、惨劇はとても他人事と言える事柄ではないのだろう。

 

何時ものように開演前から瞑想者たちは時々痙攣的な雑音の鳴る中で直立している。ガスマスクを付けている瞑想者も。開園時間頃に後ろのドアより他のメンバーが入場。唱えが始まる。何時ものErehwonでは聴いたことのないような聞き覚えのある懐かしい音が五回ほど聞こえた(後で聴いたが琵琶の音だそう)。ハンドドラムが叩かれ、その音の振動で鉄板が揺れる音の緊張感と美しさ。一人が踊りじわじわとその場の空気を換えていく。

 

踊りが終わりその踊り手の周りを瞑想者たちが練り歩く。激しく髪を振り乱し、それぞれが手に持つ仏具、楽器で拍子をとりながら。賢しらではない本能の練り歩き、信念の練り歩き。それが終わった後、荒い息を吐く彼らが正座をした時、画面上に1945年8月9日、1945年8月6日と文字が現れ、長崎7万人、広島14万人、と数字が示される。原爆が落とされ瞑想者達が泣き叫ぶ。そして黙祷。「一分間の黙祷」等という形式的なものではないそれは長く続き、聴衆側の空気は落ち着かないものになってくる。

 

個人的にはこういう表現者が好きだ。聴衆の為の表現であるよりも先に、彼等の心持に真摯である表現である事。そうであれば黙祷が長く続き、何人かが、ありていに言えば、退屈しようがそれが何だと言うのか。

 

原爆の投下とそれに続く暴風の様なインダストリアルノイズが始まる。兎に角、このインダストリアルノイズは「芸術家」の出すインダストリアルノイズではない。例えばGENOCIDE ORGANの名作ライブアルバムREMEMBERで聞かれるような暴力的雑音群と比べても全く遜色のないものである。この日のErehwonは石川雷太さんとサポートメンバーの方だったそうだが、リズムが崩壊していき現状打破を強く訴えるような打撃音になっていく様や全てを無に帰するかのような暴力的フィードバック音響は快哉を叫びたくなるような素晴らしさであった。

 

静けさが訪れた後に一人が倒れた後(体前面に爆竹を取り付け銃撃された様を演じたと私は思った)、「呪」の黒ヘルメットを被った彼等の「殺すな」と「ゲバルト」の声は演者、聴衆の垣根を超え、十全に演者のメッセージは聴衆に浸透する。「殺すな」は字義通り受け取れるとして、「ゲバルト」は?私は彼らが「殺されるな」と言ってるようにいつも思うのだがどうだろうか。

V.A.-ANTISOCIAL PERSONALITY DISORDER

ANTIPATIK RECORDSは2015年から活動を開始したフランスの新興レーベル。その母体となったレーベルも、DISCOGSによると、2007年活動開始とあるからCOME ORGを第一世代とするなら第三世代くらいに位置付けられようか。私が勝手にそう感じているだけ&時代がそうなのだから仕方ないとはいえCOME ORGがモノクロとするなら彼らは彩り豊かであり、陰惨とか陰湿というよりも皆でワーワー言いながらゴアフィルムや変態ポルノを見ているような明るさ、軽さを感じてしまいそれが面白くもありまた残念でもある。しかしながらこの「反社会性パーソナリティ障害」(COME ORGには無い言葉選びと思う)と名付けられた作品は十分に陰湿であり、そう名付けられるに相応しい中身が詰まっている。

GRUNTを(恐らく)ヴォーカリストとして迎えたCONTORTUS。警告音が適切な処置を取られることもなく延々と鳴り続ける中、「生きることには意味がない」、「人は物体であり、お前はそれを操作しても良い」、「武器を選べ」などという物言いが聞こえてくる。時にその言葉は完全に忘我の霧の中に紛れ込みエコー処理された自分の内心は己にすら感知できないものとなる。TOTENRUNEは「良心は奪われてしまった」と全てを他者に責任転嫁し、悪意の奔流を自涜的垂れ流しノイズでもって作り出す。その悪意の奔流は決して内へ向かうものではなく、罰せられるべき外へと流れ出る黒々とうねるそれである。「どうやったらこんなバンド名考え付くんだ」のCERVICAL SMEARはその知能の無さ(あるいは知能のキチガイ化)が明瞭に分かる単純な曲名を二つ並べ、短絡的な邪気を振りまく。何かほんとにうまく言えないんだが(変な意味で)「若いな~」という感じ。ANTIPATIK,OFRらしいアーティスト(個人の感想です)。CS同様に良く分からんバンド名のPISSOIR ROUGEは「プラットフォームから押す」なんぞという「そっち方面は余り無かったね」という曲名が印象的だな(対象が女性という事なら話は別だが)とか思いながら聴いていたら最後の「Makes Me Cum」で暑苦しいキチガイヴォーカルが炸裂。声を聴くだけで「ああコイツとは付き合わん方が良いな」と分かる代物。素晴らしい。


 

 

Minimum Sentence - Ages of Man

「コンテンツのないノイズには何の価値もない」と己の価値観をかつて電子雑音誌上で開陳したTESCO ORGANIZATION。このリリースなど正に「コンテンツ」のあるノイズに相応しい作品だろう。イギリスに根拠を置くMinimum Sentenceの[Ages of Man]の計6曲はそれぞれ「ネアンデルタール人の絶滅」、「4400万年前に悼むという能力を身に付けた先祖」、「ペイガニズムから一神教への記念碑的移り変わり」、「技術的進歩と社会的モラルとの関係に関する終わることのない議論」、「コミュニケーションと知識の交換ツールとしての言語の誕生」、「悪名高い絹の道に沿って行われた最初の火薬の取引」に関する物。暴力を扱う曲には混乱と冷たさが、悼むことでは何か意識を上空に引っ張られるような持続音とそこで飛び回る何かの粒子とその先の世界が、原罪と名付けられた曲では牧歌的光景が一瞬見えた後の強迫観念が、産業革命ではひたすらに人を圧迫する諸雑音が、コミュニケーションではひたすら流れていく「情報」の盲目的スピードが、絹の道では歴史浪漫とその後の暗闇がそれぞれ活写される。どれも「聴かせる」構成でじっくりと聴きこむことが出来る。リリース元のDe/Tainment TpaesはTESCO ORG.の分派だが本家同様にデスインダストリアル、パワーエレクトロニクス一辺倒では無いリリース傾向に加え、ほぼ無名の新人を送り出してくる攻めの姿勢があり、これからも無名ながら良いバンドを輩出していくものと思う。

 

 

Ages Of Man, プライマリ, 1/2

GENOCIDE ORGAN - THE TRUTH WILL MAKE YOU FREE

アルバムMind Controlでアジテーターから冷徹&ニヒルな観察者になっていったGenocide Organ。その次に出されたアルバムのタイトルも、聖書に同じ言い回しがあるとはいえと言うかあるからこそ、幾らでも深読みが出来るので受け手が五里霧中に踏み迷ってしまうというGOの戦略通りの作りとなっている。その戦略を知った上で裏の裏をかいてやろうと再発裏ジャケットの文章を読めば又そこにはどういう立ち位置から解釈すれば良いのか分からない文章が書かれており(何となく聖書の引用っぽいが不明。そうじゃないとしても彼らの立ち位置自体が分からないので皮肉で書いた文章か本気なのかが分からない)、流石は安易な馴れ合いや共闘を望まない彼等だけのことはあるとだけ辛うじて了解することとなった。

改めて音盤に耳を傾けると「Mind Controlより更に地味&ニヒルじゃないか?」と感じる。年齢のせいで聞こえてないだけかもしれないが(多分、大丈夫なはず)高音が全くと言って無い。中~低音域のシンセノイズや鉄板の音などから作られるそれは恐らくアメリカ合衆国のプロパガンダから始まり、GOらしいデスインダストリアルがそれに続く。ただしストレートなのはここまでで以降は泥沼に嵌まり込んだ様な音風景が拡がる。(恐らくは)今も事が続いている地域に関してThey are so cheap(勿論、theyが何を指すのかは不明)と題を付け、一歩一歩危険地帯を行く様な鉄の板の音が誰かの独白と共に刻まれ、「見たことは無いし、これから見る事もない」とその対象を明示しないまま何度も繰り返し唱え、都市の大都市化(繁殖)はただただ不健康かつ不吉な物としてのみ表現され、帰れないのか帰らないのか不明のまま鉄は軋り、誰かを誰ともわからぬままに尊崇し、CD見開きジャケにある死体を見ている群衆写真が1945年5月前後のドイツで撮られたものであるとするならこのタイトルは、youを誰とするかで、表の意味も裏の意味も凄まじ過ぎるのではないかと思わせる曲がコトコトと鳴る生気のない鉄音と共に聞かれ、心の内から湧く不安は止めようもなく増殖する。最終曲はDie Wahrheitと名付けられ、「で、結局のところ彼等にとって真実とは?」と思い聞いてみると哄笑がうつろに響くのみ。心して臨んだ受け手が無視され放り出されるのはカフカの読後感に近い?なんてベタなことを思ってしまった。カフカ好きなら一聴の価値ありの虚ろな名盤。という訳でこのデスマスクは誰のもの?

 

 

 

 

 

Genocide Organ - Mind Control

 

Genocide Organというバンドは今まで何度か明らかに過去作とは位相の異なる作品をその活動の中でリリースしてきたがその第一回目と私が感じたのがこの作品である。確か電子雑音のどこかで田野さんが「盤の厚さ以外は特筆すべきことが無い」作品といったようなことを書かれていた記憶があるが例えばこの作品の前にリリースされたSave Our Slavesで聴く事の出来る、ある意味分かりやすい攻撃性やアジテーションはこのアルバムでは後退し、冒頭のBurnや最終トラックのInnocence is a Farceに象徴されるような、陰鬱かつニヒリスティックで鈍重な濁音の流れの中に敢えてそれに反抗するように配置された暴力的雑音群が出現するという二面性のある作品となっている。

音を聴きながら再発盤の裏表を見ると表面には「マインドコントロール」とあり裏面には「神はそれを望む者に慈悲を与える」とある。この対句を大声で叫ぶのが、ジャンルは問わず、その他大勢のバンド群とするならばただそれを「それとして」記し捉えどころのない濁音の中に紛れ込ませるのが「決して本心を明かさず、本心を語ったとしてもそれをそれ以上の虚言で覆いつくす」という二面性を持つGenocide Organの手法であろう。アルバム上の曲名も深読みを誘うようなものからそのものズバリのものまでが並んでおり聴き手を翻弄する。その中で彼らは「アメリカ万歳」を唱え、イスカリオテのユダよと何度も呼び掛け、独裁者を思い出させ、世紀の偽書を持ち出し、無垢である事を虚偽に過ぎないと言い放つ。ただこの言葉の裏には「本心」が無い。それはこのアルバムの暴力的トラックが「意図的に」そこに置かれており、間違っても「暴発」や「意図しなかったもの」では無いのと歩を一にするものだ。恐らく彼らは全てがあるべき所に周到に置かれている事が聴き手に感知されても構わないと思っている。何故ならそれが感知されたとしても彼らの本心に気付かれる事が無いと彼らが確信しているからである。タイトルに沿ってベタなことを言うならばマインドコントロールされていると誤解する又は警戒することが既に彼らの術中に嵌っているということである(そもそもここで行われているのは「主張」では無く「事実の展示」である)。

おそらくこの時点で彼らはアジテーターであることを止め、冷徹な観察者へと変わっていったのであろう。その観察者への変化の理由の多くは彼らのニヒリズムに帰せられようが彼等やその他のハードコアなレーベルが距離を取り始めた「scene」との訣別を意識し始めた故だったかもしれない(例えば Noise for Noise Sake と Noise with Contentsの違いから生じるお互いの違和感)。その変化はノイズ、インダストリアルはおろかパワーエレクトロニクスというジャンルすら賑やかしになりつつある今から見れば至極妥当なものと思えるが彼らの判断はかなり早いものだったと思う。それにしてもこのジャケットのオヤジさんはだれなのか。