GENOCIDE ORGAN - From the Gutter

 

昨今のパフォーマンスでは貫禄というか凄味を醸し出すGENOCIDE ORGANがその活動初期の頃から何か独特の雰囲気を持つ組織であったことが良く分かる作品。2026年、カセットリリース。

 

「主観では何らの害も与える気はなかったが客観的に見れば我々は何か酷いことをしてしまった」と刻された1993年の 「A Rough harsh manifest of time」。冒頭のDeath to China III の執拗なアジア的(偽アジア的)旋律の繰り返しとそれに被さる中国風の謡。これから世に満ちる恐怖、狂気を現実の下に引っ張り出す序曲としてそれは完璧に機能している。

 

地獄の黙示録におけるカーツ大佐の独白。米軍が行った予防注射を受けたベトナムの子どもたちの腕をベトコンが切り落としていったという話。マーロン・ブランドの語り口を取り囲む冷たい瘴気の様な音は聴衆をしてさらなる不安と落ち着かなさを感じさせたことだろう。

 

そして音はその凶暴さと音量を増し、力への渇望と独立が叫ばれ、「これは虚偽ではない」と自分の立ち位置が証言される。この辺りの暴虐、冷徹と言える音塊を聴けば、デスインダストリアル/パワーエレクトロニクスとジャンル分けされるであろうGENOCIDE ORGANにおいても喧しい&非人間的な音=「ノイズ」というものがその曲の重要な位置を占めていることが分かるだろう。実際、90年代にはMERZBOWとGENOCIDE ORGANが同じ音盤上に揃い踏みすることもあったのだ。

 

作品はB面に移り水晶の夜の様にガラスは割られ世紀の陰謀論、でっち上げが幕を開ける。その出所不明の情報を深く確かめることもなく怒気を含んだ声を上げながらも、その声の裏には計算と深謀が感じられる。第三帝国上空で行われたであろう空中戦を淡々と振り返った後に始まるのが Klaus Barbie。第二次大戦中~戦後にかけて歴史の裏街道を歩いた彼の事績を取り上げる事でGENOCIDE ORGANは正体不明さ、言動の信用出来なさ、胡散臭さとそこから来る彼等への恐怖を手に入れたと言えるだろう。リズムだけを取り上げれば日本の祭囃子の様に長閑なモノだが、それにノイズと叫び声、そして虐殺機関の名称が付いてくる事で曲は何か酷く禍々しいものに変容してしまう。

 

最終曲では南米の暴力組織がそれこそ荒れ狂い、曲はその型枠を失い、僅かなその構造が怒号と雑音の中で聞き取れるだけとなる。GENOCIDE ORGANの中でも特にノイズ色の強い一曲ではないだろうか。最後の如何にも(ノイズ界隈の)90年代的拍手(聞いて頂ければ何となく言いたいことは分かると思う)が何とも心地良く、「何はともあれ無事戻ってきた」と言う感じがする。

 

THE GREY WOLVES - PUNISHMENT

 

1992年発表であるから、1997年リリースのNATURAL ORDERによって蒙を啓かれた、私がまだデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスに対して本気で向き合っていなかった頃の作品だ。そんな当時の私であってもそれを海外通販で購入し、箱を開け本体を見た時に目にしたそのジャケットにある餓死寸前の人物写真、ALL YOU NEED IS HATEとかSAY NO TO DEMOCRACYと大書されたポスター状の物には流石に気圧されて、暫し「何だこれは...」と道に立ち迷った様な気分になったのを覚えている。GENOCIDE ORGANのSAVE OUR SLAVESと同様に明らかな異物を手にしたという感覚があった。

 

ほぼ純粋なノイズしか聞いていなかった当時の私にとって明らかに不純物の音。確か「ノイズウォー」だったと思うが腐ったパンクと形容された爛れ切った情念の塊の様な、音の中に鉄のカーテンが下りている様な、灰色の空に撒き散らされる死体焼却炉から出る黒い煙の様な、儀式を考え付く知能もないままに狂人達がただ群れ集まり円を描いて立ち尽くしている様な、またその狂人達が声帯の赴くままにおらぶかの様な、ただひたすらに何かを叩き潰す様な音。

 

それらは余りに異質でグロテスクだった。そしてCULTURAL T.*という言葉とそのMAFIFESTO。ドグマなどはなくただ個々人の持つ力を称揚するモノ。全ての人、物がその聖なる鉄槌から逃れられないモノ。その態様や内容を問われないモノ。どこにでも潜り込めてそこで活動することが出来るモノ。この非人間的世界に抗議するモノ。そしてこの社会に取って異質なモノであり、それがもたらした傷は決して癒えることが無いモノ。TOMORROW BELONGS TO US.

 

間違いなく、MANIFESTOにある様に、当時の私の「心を汚染し、狂気の種を蒔」いた一枚。他にも犠牲者は数多いだろう。

 

目出たくも2025年に再発された。

 

*削除除けにT.とした。

 

Punishment, Secondary, 2 of 10

Information Overload Unitは一言で言うならパンク系の方がやってらっしゃるノイズ:インダストリアル系UNIT.

過去作のレビューはこちら。

 

 

 

 

メンバーの一人が「Information Overload Unitです」と名乗りを上げるが酔ってらっしゃるのか足元は覚束なく、その後に継ぐ語も出て来ない。酔った人特有の近寄りがたい笑顔と共に彼はセッティングテーブルへ位置した。向かって右側にはダンディな風体のもう一人のメンバーが立つ。

 

大ボリュームで人を高揚させるのではなく、静かに排出されるノイズの中で足元の覚束ないまま一人が紙に書かれた単語を読み上げる。恐らくは添付のフライヤーにある単語を読んでらしたのだと思う。「宣言」などと言う大仰なそれではなく、酔った詩人が己の書きだした単語をそのまま酔いに任せて誰に聞かせるでもなく口に出したかのような発語。バックに流れる音はノイズのメインストリームから外れた怪しげな裏通りで鳴る音であり、そこには辻占いや「この階段を昇ったら死ぬだろうな」と思わせるような雑居ビルの階段がある。酔漢もいれば何故そこにいるのか説明のしようもない影絵の様な人型のモノもいるだろう。この垂れ流し雑音をすらパンク界隈の人が楽しめているとしたらその雑食性には頭が下がるが逆にここにノイズリスナーがいないこともそれはまた不足であるなあと思いながら私は、ハーシュノイズ系では味わえない、その隠微:淫靡な濁音に耳をすましていた。

 

だんだんと(ギミックではない)ノイズは強度を増し、もう一人のメンバーを鼓舞激励するかのようにその背中を叩くヴォーカリストは二本のマイクを使い分け多彩な声のヴァリエーションを聴かせる。この辺りの雑音群とヴォーカルの齎す高揚感は正にノイズ:インダストリアルバンドのそれで気分の良いことこの上なかった。音とステージ上の状況は変化しリズムというよりも打撃:酔っ払いが憤懣と共に机を敲くかのようなそれと酔いに任せての(?)セッティングテーブルへの膝蹴りがあり様々な感情をはらむヴォーカルがあった。この酩酊と高揚が入り混じったかのような状況は、見た事はないが、躁状態のSmell&Quimのライブに近いのではないかとふと思った。

 

アンプを切っての演奏終了。アンコールはしないのか、アンプラグでやらないのかと声のかかる中、あっという間だった40分ほどの演奏は終了。正に「今日来なかった人は後悔する」内容であった。因みにこの日の入場料はわずか1,000円、しかもCDR付き。まさにパンクス的な漢の一夜。

 

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MAKT - MISSBRUK

 

様々なバンド名を使い分ける人は少なからずいてそれぞれに思惑はあるのだろうが、何故別名義を使う必要があるのかと思う時も多い。このMAKTはMZ412やソロ名義で活動しているHenrik Nordvargr Björkkの新しいプロジェクト(もう一人匿名のメンバーがいる)だが新名義を使う必要性がはっきりとわかる内容であった。アルバムタイトルはスウェーデン語で権力などの濫用を意味するようだ。

 

2枚組CDの一枚目は過去作カセット2本のカップリング。テーマとするのは、恐らく、ナチの台頭からその破滅とその事後に行われたもう一つの暴力(ナチと関係した女性の髪を切るなど)。Nordvargrのイメージとは結び付かない直線的なパワーエレクトロニクス。総統演説や子どもの歓声などテーマに相応しいSEを伴い、安直なリズムなどのないオールドスクールな音色の佳曲が並ぶ。

 

新録の二枚目はヨーロッパの現在を俯瞰する作りと思われ意味深な曲名がずらりと並ぶ。音も厳しさや寒々しさが増しているように聞こえ、この辺りはNordvargrの北方人としての技量の見せどころか。デスインダストリアルとパワーエレクトロニクスの素敵な混交状態が続く。

 

一枚目、二枚目ともに曲番号が通しで書かれており(CD1が1~14、CD2が15~24というように)テーマも時系列になっているので1930年代から現代までのMAKTを総覧した形にしたいという意図が伺える。

 

ではさて何が彼をしてMAKT(スウェーデン語、権力、力、権威などの意)へ導いたか。その答えはこの二枚組CDの最後の曲名 THE DEATH OF WESTERN DEMOCRACY にあるのではないかと思う。「理想」が死んだのか「そこにあった現実」が死んでしまったのかはこの作品でははっきりとは明かしていないけれども(*)、何かが、特にヨーロッパで、「死んで」しまった事は恐らく確かでそれに対する憤りや「何かを表現者として語らねばならない」という気持ちが彼をして新名義を作り作品を発表させたのでないかと思う。

 

自分語りになるが丁度、「知識量、情報収集整理能力はAIに負け、未だに一部狂人の暴走を止めるような倫理観を確立できないとすれば何のために人類は「進歩」したのか」と思う日々に似た様な危機感を共有できる作品に出会えて良かったと思う。

 

 

PS. SEももう少し聞き取れれば何らかのヒントになるか。

*理想が死んだかそこにあった現実が死んでしまったかについては以下の文章をどう聴き手が解釈するかであろう(両方とも死んだという解釈も可能ではある)。

Makt/Power/Authority: A Language That Everybody Can Understand.

The Universal Unifying Law That Shapes Men And Women Into Submissive Tools That Shapes The Future.

 

 

 

 

ばねとりこは妖怪をテーマにしたノイズを演奏しており、演奏時に妖怪が憑依する云々の話だけはどこからともなく耳に入っていた。あるいは先年大阪で行われた NWN/HOSPITAL FEST.の際に各種通訳をしていたのが御本人であるのでその際にadvaita records のKさんからそう教わったのかもしれない。時系列は定かではないが一度、東京でライブをしたことがあるのも知ってはいたが、私は今回が初見。

 

黒い音が流れる中でマイクに口を寄せきゅうりを齧る。その美味しそうに食べる姿と美味しそうなきゅうりのシャキシャキとした音と黒い音の対比の妙。冒頭からいきなり妖怪のペースに巻き込まれていく。機材机の上には御本人が描かれた(?)妖怪の絵が依り代の様に置かれている。何らかのポーズをとり、動いていく中でしこを踏んだり、手をどこかへ捩じり込み「尻子玉を~」という捩じれた声を発する辺りから今回現れた妖怪が何であるかが分かって来る。しこを踏む毎に鳴り響く轟音、専用ケース入りの手回しハンドルx2を備える自作(?)楽器の立てる軋み系金属音、四つ這いで機材テーブルの周りを這い回る異形の動き。舌を出し、手を舐めずり、頭の上の皿に湿り気を与える様は正に河童が今、眼前に現れたという感じだが手回しハンドルを回す手の動きはあくまで繊細可憐で異形であるが故に粗暴であるとは限らないのだぞと主張している。二本あったきゅうりの一本半が食べられ、その残った半分を音塊と共に観客の眼前にグッと突き出す様子は何を語ろうとしたのだろうか。Bizarre Uproarの近作で聴かれるような金属ノイズループの激しさを伴う演奏後半を通り過ぎ河童は去って行った。

 

「地底の河童!」等の声が飛ぶ中、大塚地底はかつて水没したことがある様で、「水没したら困るね」みたいな冗談も飛んだ。それに応えて河童の憑依から素に帰ったご本人。「いえ、逆に大丈夫です。河童のおかげで良い事があります(大意)」と答える。これは正に春駒的門付け芸では無いか!と私は独り興奮していた。

 

幾らテクノロジーが進化して世の中がのっぺりしようとも人の本質は変わらない。であるが故に妖怪も門付け芸能者も世の中のどこかで生き続けるのだ。

 

PS. 次は(妖怪ではないが)奪衣婆や見越し入道辺りが来ないかなと、、、

 

 

 

 

 

 

NUORI VERI - Kadonnut maailmankuva

 

ノイズ界隈の煩悶青年達は全てパワーエレクトロニクス、デスインダストリアルに走るのかという疑問に「否」と間違いなく唱えているNUORI VERI。バンド名=「young blood」であり、rural industrialという一見矛盾した言葉で形容される彼の音は確かに若さ故の揺らぎの様な物が作品を徹頭徹尾覆いつくされている。

 

インタビューによれば彼の諸作品は「非暴力、反戦主義であった自己の心情が揺らいでいることから生じる心の揺れ」を表現したものでもあるとのこと。その「心の揺れ」を表した作品は冒頭で「若い血、失われた世界観」と自己を紹介し作品名を読み上げることから始まる。ゴトンゴトン、ジーと旧式の機械が立てる音とトレモロ。ブラックメタル風に若しくは多少の芝居気と共に吐き出される言葉。機械や金属が唸る中でピアノはつま弾かれ、語る様な口調と遠くへの呼び掛けが併存する。荒涼:寂寥としたピアノの音と心の内をそのまま表出したかのような語り口。その声の向こう側から聞こえてくる狂気。軋む金属、早口の女性の声、曖昧模糊とした音の霧。雑音と警戒する犬の鳴き声と大声で何かを伝えようとする男。静謐なピアノ音、鳥の声。淡々と話す男の声、アコーディオン、様々な音が聞こえてくる。

 

静けさをさらに深めるような音が鳴る中で紙をめくり、鉛筆で何かを一心に書き連ねている情景で作品は終了する。

 

Kadonnut Maailmankuva, プライマリ, 1/6

 

 

 

 

VA-Fuck the modern world (3A4ИCTКA)

 

現地の人に言ったら絶対に「纏めるな!」と怒られそうだがバルト三国といわれるとアルフレート・ローゼンベルクがエストニア出身であることやそのハードな国としての歴史を思い、「さぞや重苦しいお国柄であるのだろう」と勝手に決めつけてしまう。今でもちゃんと生きているのかと心配してしまうあのPogromもリトアニア出身だ。重苦しい気候と歴史の国で彼らはどの様に生きているだろうか。

 

当CDは2005年にリトアニアの首都Vilniusで行われたNordic Audio Modernというインダストリアル系イヴェントを記念したもの。ジャケのゴリゴリ感、愚直としか言いようのないタイトル。そして雨と自殺の国と自らの国を紹介する態度は子どもっぽい戯言ではなく灰色の空の下で生きることを余儀なくされている鬱屈した青年の本心であると私は思う。この思いは作品に逆さまに書かれた「only a few survived and they told the truth.we came from other worlds to witness their truth」という文句を読んでほぼ確信となる。この疎外感とエリート主義の綯い交ぜになった言葉は正にデスインダストリアルが胎動し始めた彼の地の、また流れ流れてデスインダストリアルに安息の地を見つけた世界中の若者達の心持を少なからず代弁しているように思う。

 

とここまで書いて内容が弱いとがっかりするのだろうがこの作品は上で書いたような事柄に相応しい内容を誇っている。煩悶青年達の一部がその鬱屈を享楽で紛らわすのではなく、その根源を凝視することによって解決しようとするかの如く。デスインダストリアルはデスインダストリアル、パワーエレクトロニクスはパワーエレクトロニクス、ダークアンビエントはダークアンビエントの基礎的な部分をしっかりと捉えて演奏され、その一人一人の真摯さ故に曲調が様々であっても散漫なものにならず非常に聞き心地が良い佳作である。

 

恐らく余り流通している作品ではないだろうがこれから上で書いたジャンルを聴きこんでいこうとする方や当時ライブ会場に集ったであろうこの手の音楽に初めて触れる煩悶青年達には強く印象に残った(残る)世界観と音調であると思う。

 

Fuck The Modern World (3A4ИCTКA), プライマリ, 1/5

東京拘置所に行ったせいかデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスでの表現はどこまで許されるのかという事が改めて気になった。自分なりに考え続けたいという事もあるしLinekraftがかつて行った質疑応答付きのライブでの最後の質問。(要約すると)「貴方の作品に触発され何かが起こった場合にどうするのか」という言葉が未だに頭の何処かに巣くっているせいもある。私はこの質問者を個人的に知っているのでこの質問が道徳的:倫理的なものではないと分かっていたが限られた時間の中&人前に立っている中でそれを瞬時に判断し(質問者の立場からすれば質問内容を詳細に説明し)、答えるというのは難しかったろうと思う。結果、長い沈黙が産まれた(この沈黙を愛想笑いなどで埋めるような両者ではなかった)ことをよく覚えている。

 

この質問は倫理的な物であってもそうでない理由から発せられたものであっても(例えば貴方が井上日召だとしたら実行犯に何と声をかけるのかなど)答えることは難しいと思う。恐らくLinekraft自身も答えを模索している最中ではないか。だがその模索の途中であっても(明確な答えは出ない中でも)自分の言いたいことは言うという態度を鮮明にしているのが昨今のLinekraftのライブであると思う。また彼が所謂、ジャパノイズ的音作り一辺倒という立ち位置から離れ、デスインダストリアルやパワーエレクトロニクスの要素をその楽曲に取り入れたのもその模索と歩調を合わせての事と思う。

 

私の嗜好が大きくデスインダストリアル・パワーエレクトロニクスに流れたのはNoise for Noise Sake(ノイズの為のノイズ)とNoise with Contents(コンテンツのあるノイズ)という区分けがあると知ってからだ(それらはFreak Animalが出していた雑誌に書かれていたがMikko Aspaが最初に言いだしたのか否かは知らない)。固より私は現代史やヨーロッパの社会情勢に興味のあった人間であるのでコンテンツのあるノイズの方が一挙両得的な旨味がある。

 

しかしあくまでもそれを本気でやっているかどうかが一番大事だった。どこぞのバンドの様にジャケットの死体写真を指して「あれはショックバリューなので意味はありません」と言う、ComeOrg一派の様に厨二病的露悪趣味で意味も無く人を挑発するというのであればこちらも冗談として対応するまでだと思っていた。

 

そこで初めて本気で向き合って良いというレーベルに出会えた。それがStateartである。そのVA「Natural Order」に見られた一貫性、非妥協性などに深く心を揺さぶられこのVA参加者を軸にデスインダストリアル、パワーエレクトロニクス方面に触手を伸ばし、今は殆どコンテンツのあるノイズのみを聴いている次第である。

 

その過程でAnenzephalia.Con-Dom,Genocide Organ,The GreywolvesのTesco勢やフィンランドのGrunt,Bizarre Uproarの両雄を知り、今はインドネシア勢の勃興を目の当たりにできている。

 

しかしここで改めて問題となるのが彼らが本気でやってるかどうかという事に、個人的には、なってしまった。何故ならばデスインダストリアルやパワーエレクトロニクスが音楽ジャンルの一つとして認知され始めたため、それらしきバンド群が明らかに増えたからである。中には、詳しくは知りたくもないので調べていないが、明らかに享楽的な観点からパワーエレクトロニクスと自らを称するバンドもいるようである。お陰で反社会的、反資本主義的マニフェストを掲げていてもそれを「宣伝文句」として捉えてしまうようになってしまった(そうなるとその本気度を測るには個人的に会って話を聞くほかないというほぼ不可能に近い事を求められることになってしまう)。

 

政治を音楽に持ち込むなというのは寝言も良い所だ。しかし冒頭にあるような問いを投げかけられた場合、それにどう答えるか。それに上手く答えられない場合は沈黙しなければいけないのか。意見の開陳、主張はどこまでも「暴走」しても許されるのか。上手く身をかわしながら活動し続ける人もいるし、現実を前に立ちすくんでしまった人もいる。だが恐らくはそれを本気でやっているならば何らかの葛藤や逡巡がありそれを乗り越えて実現した作品を私は手にしているのだと思っている。

ライブ前に本人様と少し話せたのでその辺りを含め備忘録として。

 

基礎知識

インタビュー

 

Tanaya Sompitさん、他にもJisim(Old school industrial power electronicsと↑のインタビューにあり),Detroak(ハーシュノイズ)というプロジェクトをやってる
Detroakで一度来日しているとのこと。

政治的意味を持つものではないとインタビューでは語られているがかつてディパ・ヌサンタラ・アイディットというインドネシア共産党書記長がいた。真相はどうあれインドネシア人にとってはちょっと引っ掛かるプロジェクト名かも知れない。

彼が来日すると知りコンタクトを取ったWさんと一緒に彼と20分くらい話すことができた。

その中で印象的だったのは彼が、インタビューにもあるが、”インドネシアの”インダストリアルを意識しているという事だった。ヨーロッパの気候、文化から生まれる冷たい灰色のインダストリアルとインドネシアの土壌から生じる湿り気のある暑い噎せ返るようなインダストリアル。色は灰色というよりも漆黒なんだろうか.

これを念頭に昨夜のライブを思い返すとそこには確かに彼が意識しているというインドネシア的、アジア的なものが、音だけで無く彼の立ち居振る舞いも含めて、感じられたのだった。
ステージ上を歩きながら腕を水平に上げてから広げ「さあ始まったぞ。俺はここにいるぞ」と言わんばかりに見得を切る所作は何とはなしに彼の地で行われたであろう政治的な小集会や、もっと言うならば、野外で行われる伝統音楽劇の幕開けを思わせるものだった。また体を上下に蠢動させながらヴォイスを発する時。その声は例えば手を(水平にするのではなく)挙げながらWilhelm Herichが発するGenocideOrganの冷酷で打ち下ろしてくる様なものとは異なる。それは彼が好んで題材として取り入れたいとしている彼の地の闇に今なお息づく霊的なものの木霊であり、舗装路や石畳より未舗装路であり、ヨーロッパではなくアジアである。

ステージを降りて客席で叫びたてること2回の熱演は唐突に打ち切られ(この辺りがハーシュノイズやってる人っぽい)、引きずられるように私は現実へと引き戻されたのであった。

私は彼に「例えDIJが三島について歌ったとしてもそこには何かが欠けているはずだ。それは彼が日本人ではないから」と話すと彼は同意した。「人に何らかの感情を引き起こさせるのがポイントなんだろ」と彼は語った。矢張りポリコレと(日本の場合)冷笑主義全盛の世の中で無難な物に大半は流れていく。私が知る人の中でも自分のやっていることに躊躇する人は数人いる。だが「例えそうであっても」と思う(思える)のがデスインダストリアルをやる人であると思うし、彼も又そういう人なのだと話す中で思えた。

「いつか日本統治時代のインドネシアについて作品を作ってほしい」と話したが実現するかな?
日本人として、またアジア人としてそれは聴いてみたいと思っている。

先日ライブ会場でかつて欧州某国でレーベルをやっていた某さんと数年ぶりに会うことが出来た。話した時間はさほど長くなかったが「ヨーロッパはもう死んだ」、「Controversialな作品をリリースすると頭のおかしな外野連中が色々言ってきて面倒だからもうレーベルはやってない」と話していたのが印象的だった。

ヨーロッパが死んだ理由は言わずもがなだが(私も面倒な人間とは関わりたくないので理由は明示しないし、外野連中とは何かを詳らかにしない)、そんな中でControversialな作品を出し続けるというのは矢張り胆力のいる事だったのだと改めて思わされた。

彼のやっていたレーベルのほかにも外野との対決に消耗し、また現実のテロリズムを眼前に突き付けられ己の理想の甘さ&青臭さに向き合わざるを得なかった(揶揄しているのではない)レーベルもあった。また力及ばず理想を追求しきれなかった、若しくは大衆教化を諦め沈黙したレーベル、アーティストもいるだろう。その存在は消えても記憶は消えないデスインダストリアル、パワーエレクトロニクスが純粋な運動であった頃に活動した兵達の一軍である。

そんな変遷を思うとヨーロッパが「多様化」していく中でかつてあったものが衰亡し、その為に世の中が息苦しくなっていく中でも活動を続けているいくつかのレーベルの執念と孤高の態度には頭が下がる(「自ら孤立せよ」とアジるアーティストが日本にもいるが)。

ネット上での決済が出来なくなる。ネットを通じた情報発信が難しくなるなど弱小過激派レーベルの状況は非常に厳しい。また一般に広く名を知られたレーベルもPCにひっかかりそうなバンド名、タイトルを省略して表記する、ある種のジャケットは写真を掲載しないなどの対応を取らざるを得ない状況だ。極東でのほほんと暮らす身からすると「え、これもダメなの?」と驚くこともあるがそれ程に過敏にならざるを得ないような状況下での活動を強いられているのだろう。

上記の様な困難に直面しつつも、恐らくは「べき」論に基づく信念を持つレーベル達がしぶとい活動をしていることを少しく知っている身として最近気に障って仕方がないのがインダストリアル(これはもう”デス”インダストリアルとは全く別物だが)とパワーエレクトロニクスにおける娯楽化、通俗化である。最早、BM/NSBMの大部分がフェイクであることは薄々知られているように思うが、同様に先に記した両ジャンル、特にパワーエレクトロニクスにおいてはその一見単純な暴力性、煽動性が悪い方向に作用、アピールし、よりによってその発祥の地である欧州からその安易な紛い物が現れてきているように思える。筆者にはそれらを避ける能力が備わっている為に紛い物に出会うことは少ないがそれでも己の邪推が具現化したような連中が彼の地にはほぼ間違いなく存在すると思っている。

しかしこれらの紛い物はそもそもオリジナルがいたからこそ生まれたのだ。そう思うと何ともやるせない気持ちになる。AI宜しく、この界隈でも実際に会って話した人間の作品だけが信用出来るものになるのだろうか、

オリジナルのバンド群は時に文化テロリズムという言葉を使って己の活動を誇示していたが残酷かつ白痴的時の流れがいつしか彼らを保守派(音楽以外の分野においても)としてしまったのだろうか。だとしたら多感な時期を彼の地で過ごした身としては残念というしかない。確かに「もうお前が知っているヨーロッパじゃないぞ」と事あるごとに筆者は言われるのだが。