V.A.-주체

NKの元帥二人を称えるコンピレーション。限定1500万枚。NK以外の国にどの程度の枚数が流出したかは分からないが私は恐らくドイツでGenocide Organ、若しくはAnenzephalia関係者からアーティストコピーを回してもらったような記憶がある。参加者が凄い。彼の国のどの省がコンパイルに関し責任を持たされたのかは伺い知ることすらできないが情報封鎖された国内にまで名の知れていたであろう程のアーティスト達を彼らが選んだことにより、結果として当時のヨーロッパで行動していたデスインダストリアル、パワーエレクトロニクスの大ボス達が居並ぶという巨大記念碑の様なコンピレーションとして주체は完成した。
その殆ど無名であることがその孤高性と芸術性の高さを際立たせるTurbund Strumwerkが「再統一」と題された非妥協的な厳格さで聴衆を圧倒するのが大会の始まり(何を言ってるの分かればいいのだがNK語と思われるので理解不能)。逃げ場のない低濁音と人であることを超えたような異形の声で「太陽の子」より更に傲岸不遜な「人々の太陽」を眼前に突きつけるOperation Cleansweep、徹底した指導者崇拝を行う事で編者、聴衆を疑心暗鬼へと追い込むCon-Dom、国に殉じた偽親子。その娘の慚愧の涙を冷徹な工業音で踏みにじるGenocide Organ、彼の地の明るく前向きな日々がそれとは全くそぐわない曲名と共に提示されるMilitia、「盲目にされた者」では無く「盲目になる事を選択した者」の正義を怖くなるほどの圧力で見せつけてくるEx.Order、敵国が自らの言葉で自らを袋小路に追い込んでいる様をプロパガンダ風に揶揄したThe Grey Wolves、己のニヒリズムをひた隠しにしながらNKの日々の生活を淡々と切り取り描写したAnenzephalia。
阿諛追従すると見せつつ結局は自分の土俵に引き摺り込む手口は矢張りすれっからしの西洋人勢に分があったか結局、出来たものはお行儀の良い教科書的な物ではなく西側のギャング共が理想郷を異形の物へと捻じ曲げるという彼らの先鋭さと確固たる態度を見せつけられるものと相成った。

Primary

Z.S.S./X.E.-W.O.

片方は「え?だってインダストリアルってこういうもんであるべきだろ?俺はその伝統を残すべく”敢えて”やってんだよ」、また一方は「俺は政治的じゃなくて性的なの、分かる?オナニー、ズリネタ、OK?」とインタビューで言ってるがポリコレの暴風荒れ狂う今日では誰もつけないよと言うバンド名とタイトル。初っ端の軍歌こそ開催の地であるフィンランドに敬意を表し那智の物ではないがさてはて誰が彼らの言を信じるのか。2023年2月に「IN FRONT OF DEDICATED FANATICS FROM GERMANY/USA/FRANCE AND FINLAND」という字面を見ただけで「これは入れんな」と日本人は諦めるしかない観客を相手に行われたコラボレーションライブ。当然、上記のような物言いをする人達に対する好悪はあろう。ただしかし、それらのイメージ:先入観を排し、ノイズ:インダストリアル:パワエレ作品=「音楽」として対すると(対しても)このCD中に込められた音の構成力、タメ、ドスの効き具合は矢張り彼らのキャリア、才能が十分に沁み込んだもので「これはライブ会場の轟音で聴いたらさぞ気持ち良かろうなあ」と思わずに言われない高品質なもの。国家権力的低轟音、官僚主義的金属ループ、宣伝相的アジ、ファナティックな鉄砲玉達の白痴的叫喚、話し合いの余地が全くない稠密な音の壁、見境のない敵意と憎悪と身贔屓に溢れた名が知れたレーベルに限ればF&V以外にはリリース出来ないであろう関係者以外お断りな一枚。強固、頑迷なインダストリアルが聴きたいのであれば必聴。

ATRAX MORGUE-SICKNESS REPORT
 

Atrax Morgueを初めて聴いたのがこの作品。電子雑音の1号だか2号だかで田野さんがレビューを書いてらして興味を持ったのがきっかけだった。リリース元であるRelapse:Releaseから直接購入したように記憶している。その頃に私が好んで聞いていた所謂「ジャパノイズ」勢の暴力的ではあるが屈託のない音やRRR周辺の雑音の面白さ:幅広さを楽しんでいる様な雑音群とは違い病理、異常、死に満ち満ちたグズグズ、ブスブスとそれこそ最終曲の「Slow Agony of a Dying Organism」そのものの病臭を撒き散らす様な不健康で自分を苛む音群はまあ矢張りある種の人間には嵌まるわけで私も以降、彼の自死までその活動にお付き合いすることとなった(逆に精神的に受け入れられない人間も当然にいて確か編集部でも「アレは無理」という人もいたように記憶している)。また今も再発が続いているのは単純に金の問題だけではなく彼の「SICKNESS REPORT」が未だに、ある種の人々にとっては、有効であるからだろう。全面をジャケットの色の様な色彩のはっきりしない音の膜が覆う中で唯一、明確な拍子のある「Deformed」。その自分の太腿の肉を狂的に抉り取るような、頭を汚れた壁に打ち続けるような、とち狂った己の内部に向かう暴力や最終曲「Slow Agony of a Dying Organism」にある体の奥底から染み出してくる様な死(生)の苦悶の声が彼の創造性の源でありその日常であったならその中で憔悴し、辟易し音作りから、死の前の暫しの時間ではあれ、遠ざかったのも当然であろうと思う。音作りをしてもしていなくてもいつかは自死したであろう人。

Erehwon,三浦一壮@ゲバルト展 東京日仏学園 2024.06.16

 

LINEKRAFTのテッド・カジンスキーに捧げるTシャツを着て、DISK UNIONの中古カセットセールで買ったCON-DOM"Shards of ordnance",Xenophobic Ejaculation"Vala"と”Live 15/12/2012 Night And Fog Over Finlandia”を鞄にしのばせ、ゲバルト展にErehwonのライブを見に行くという主張・思想的に破綻していた土曜午後。

Erehwon。先日、会場を訪れた際に2階の小ホールでやると石川雷太さんからお伺いしていたのだが何故か始まったのは1階小ホール。防護服にガスマスクの二人。一人は恐らくガイガーカウンターを持ち、もう一人は緑色の袋を大事そうに胸のあたりに抱えている。展示室内を歩き回り、我々30人前後(?)の観客をぞろぞろと引き連れエントランスから外へ。立て看の前を通り抜け、芝生へ。物珍しさにどこからか集まってきた子ども。ガイガーカウンターのピー、ピー、という作動音が鳴る中でメンバーの一人が緑色の袋の中から骨(恐らくは牛のもの)を取り出し、一本15cm程度のそれを一本一本芝生の上に丁寧に並べていく。並べ終えるとまた我々を引き連れて建物内に入り、2階の会場へと導いていく。ステージの中央には「放射性廃棄物」、「東京電力」、「福島第一原子力発電所」と書かれた黄色のドラム缶。その後ろにはいつものErehwonのセット。その横に牛の頭骨。一人がドラム缶上部を指揮棒の様な鉄の棒2本で機械仕掛けのような動作で叩く。未来派宣言が機械音声で読み上げられ、水爆実験の映像が流される。その発する音は色彩のないハーシュノイズそのもの。ドラム缶を叩く人の目をガスマスク越しに見ると眦を決して前を向き、また殆ど瞬きをしていない。「こういうところが本気(プロ)の凄さなんだよな」と思いながら、昔読んだ本の「芝居とは関係なく、芝居が進んでいく横で椅子から骨折するまで転げ落ち続けた現代芸術家(名前失念)」の事を思い出していた。音は轟音のインダストリアルと化し(これが先の大阪のゴリラホールであれば歓声を上げたろう)戦場が画面へ移される。また映し出される半減期一覧と生き物の寿命一覧。一方が「億年」という単位まで出てくる中、生き物側はせいぜい80年くらいである。それでも最後には「空を見上げること」が称揚される。何か目に見えるものをそこに置けば多くの人が空を見上げるであろうと。我々には空が必要であろうと。最後は牛の頭骨を持ちながら外へ再度出て行き、先ほど置いた骨の後ろへそれを置く。その後、2人はガイガーカウンターを持ったまま別棟の中へ入っていった。

このライブの数日前にミシェルウェルベックの「滅ぼす」を読み終えた。それは平たく言えばブルジョワ公務員の夫婦のうち男の方が死に行く際にその女房が「私たちは二人とも生きるのが下手だったね」みたいな「それなんてエロゲ?」レベルの戯言で終わるというどうしようもない(個人の感想です)ものだった。Erehwon、混沌の首はまさにその逆というか「生きる」ことに「上手」も「下手」もないと体現している人たちだと思う。それはいつぞや阿佐ヶ谷のイヴェントで私がAnenzephaliaの活動の中核部分を話す際に発した言葉、「”それを笑うかどうかは兎も角として”彼はその活動を通して世界を変えたい、変えられると思っているからバンドをやっていたのだ」に通じるものがあると思う。下手、上手、コスパ、成果なんて全く関係がない、意味がない。自分の(アーティスト若しくは人間としての)意志があるからそれをやるのであって何かをやることによって何かが還元されるであろうという期待がその行動の原動力になっているのではない。それが、この計算高い=貧乏くさい世界の中で、彼らを空にある点の一つとしてあらしめるのだろう。芸術はアジールである。そのアジールから出てこない人は私や大多数の人からすれば他人である。他人が何を言おうがたいていの人はその言葉に耳を傾けないだろう。ただその人がアジールを都市ゲリラ、パルチザン的に恣意的に使い、アジールと外部を行き来する人だったらどうか。幾人かはその声を聴くのではないだろうか。一人二人のレベルでも彼らの声を聴く人が増えたなら世の中の体制を1ナノメートルだけでも動かす力にならないだろうか。真摯な表現者を見たり、読んだり、知ったりする中でいつもそんなことを考えている。

トリは三浦一壮さんのダンス。力の籠った声で唱えられる真言(?)の中を高下駄を履き階段を下りてくる。赤い紐を左足首に巻いて。小ホール内の空間を広く使い場を巡回していく。赤い紐を引きながらエントランスから外部へ。反対側の建物の教室(?)にいる人達が気付くといいなあと思ったがなかなか気付かれない。その代わりにベビーカーを押した3人家族が足を止める。先ほどErehwonが置いた牛の骨の前で体を投げ出し転げる。周りにはお弟子さんであろうか。定点でカメラを回し続ける一人と忙しく立ち回り角度を変えてカメラを回す人が一人。一挙手一投足を執念で記録している。終了後、87歳、満州から6ヶ月かけて難民として日本へ帰ってきたこと、それでもまだ戦争はなくならない事などが語られ、最後に「これからの日本をお願いします」と身に余るお言葉が投げかけられた。周りにいたのが30人前後の人たちであったがこれがいつか300人以上の仕事帰りのサラリーマンになったらと当分はあり得ないであろうことを夢想していた。

帰りは少し遠回りをしてJR上野駅に立ち寄った。ターミナル駅ではあるがここには東京駅では感知できない空気がある。それは、非首都圏を美化するつもりはないが、矢張りまだ日本に残っている「打算的でないもの」があちこちから集まってきているからだと思っている。損得で決められるものではない非合理的である何か。それが上野駅から上野駅前辺りにはまだ感じられる。何をやっても垢抜けない空間が東京のど真ん中にもまだある。中央改札を出て今更気が付いた。私がここが好きなのは天井が高いからだと。正にそれはErehwonが言う「見上げる」という行為を可能にしてくれる場所だったのだ。

 

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Skin Job / P.I.G.S. @落合SOUP 2024.06.08

 

来日時から体調の良くなかったらしいPuce Maryがキャンセルとなってしまったこのイヴェント。2016年のGRIM初ドイツライブの際に旧共産圏の優良党員の様な外見でインダストリアルを奏する姿が非常にサマになっていたし音も良かったので再見したかったが残念。

会場に着いた時にはすでに始まっていたSkin Job。何度かライブを見て私の中では一つのスタンダードである欧州インダストリアルの諸バンド達と並べても全く遜色のない人達であることは十分に認識していたが1分前まで中華料理屋、銭湯、前よりもきれいになった(?)会場への階段などという日常極まりない光景に浸っていた全くの無防備状態からいきなり耳に入ってきたその音はとにかく凄まじいものだった。脅しつけてくるようなボイスと絶叫、何らかの構造を下部に有しながらも”荒れ狂っている”インダストリアルノイズ。音が荒んでいるという表現は日本語としてどうかと思うが何らかの言葉で表せと言われればそう言うだろう。若しくは音の治安が悪いとか人を粗暴にさせる音とか。「これはたまらんなあ」と思いながら私は「もっと世紀末みたいな所で聞きたい」と考えていた。荒れ果てた地下室。冷戦が終わる前の欧州のどこか。窓ガラスが割られた色彩のないコンクリートの街。本当なら通りたくない地下道やトンネルとうずくまる麻薬中毒者やアル中。そんな光景を見てきた後で彼らの前に辿り着いたなら「ああ、やっぱり今見た光景も含めて俺の居場所はここだし、この音は俺を取り巻く世界そのものだ」と感得出来たのではないかと思う(勿論、昨日の会場がどうこう言っているのではない)。帰宅の際に駅までメンバーの方とご一緒した。聞いてみると「今回は色々忙しく録音はしていなかった」とのこと。ライブは基本的に一期一会と心得てはいるがあれだけのものが、全く同じ演奏という意味では、一回限りというのは「勿体ない!」と思いつつもその事実は同時に何らかの覚悟をこちらにも求めてくるように思えた。

P.I.G.S.。一度見た記憶があり「覆面の垂れ流し系の人だよな」と思っていたらそうだった。始まりと終わりは当然あるのだが起承転結とは一切無縁のノイズがただひたすらに流されていく。昔のFM誌なら間違いなく「自己陶酔」だの「オナニー」だの喜んで書き立てたあろうが今はHNWという便利な言葉がある。ただしかし個人的にはそんなものとは無縁に聴きたい(御本人がどう思っているかは不明)。脳内麻薬がどうたらとかエンドルフィンがどうたらとかどこかで聞いたようなクソみたいな言葉しか出てこない中、今ふと思いついたのが太宰治の昭和二十三年発表作「人間失格」。「ただ、一さいは過ぎて行きます」。これは良い。「意味を喪失した」、「徹底したニヒリズム」などと言うのすら馬鹿らしいほどに流されていくノイズ。ノイズにやられたのか何人かが後ろに下がりその空隙から見る御本人は俯いて機材を操作しているが音が劇的に変わることはない。その昔、SUKORAという殆ど聞こえないくらいの音で単音を出す人がいたがその正反対にあると同時に実は同じ地平にいる様な人。無観客ライブ、ライブ会場をブッキングして本人は現れない若しくは観客すら入れないで誰もいない空間を一定時間作り上げる、永遠に終わらないSNSでのライブ配信なども可能であろう。しかし、Puce Maryはどの様なコラボレーションを彼とするつもりだったのか?黒には何色を混ぜても黒にしかならないし、0に何を掛けても0にしかならないのだが、、、そう思うとPuce Maryも見たかったな。

ライブの余韻に浸りふと気が付くと駅番号「T4」の早稲田。ここを通るたびに戸山陸軍学校跡地で発見された人骨に付いての報告会に行ったことと90年代初頭に訪れたベルリンのTiergarten4番地=T4の雨の日を思い出す。あの頃そこにはここで障がい者達への「安楽死」(本当はそんなものでは全くないのだが)計画が練られたことを示すようなサインは全くなかった。

 

写真:カシューナポリ/MM   ベストショットが決められなかったSkin Job2枚とP.I.G.S.

 

SADIO-Copycat Killer

陰惨で暴虐なノイズの懐メロカバー集。ノイズの1983年(だったか?)黄金時代説は某レコード屋オーナーさんの持論であるが、1983年という1年に限定は出来ないであろうものの、ノイズ自体は色々と分派しながらも元を辿れば行き着くところは80年代=ノイズ黎明期にやたらと喧伝されたアレやコレやの女子供お断りという2024年の「世間とはこうあるべき論」からは遠く離れた地平であるに違いない。少なくともある一定の人たちにとっては、事実はどうあれ、「そうであるべき」という意地というかフェティッシュというかなものがあると思う。そういう人がノイズ回顧録みたいな物を作るとするならばそこに列挙されるものは当然に止め様もない性欲であり、暴力(我儘)であり、誇大妄想である。この様に一般的にダメとされるものを殊更に喧伝し、目の前に突き付けることに(ある意味幼稚な)嫌がらせ以外の何の意味があるのかと思う人が大多数であろうが回顧録を作る人がいればまたそれを手にする人もいるわけで、その人達は、違法な手段を使わない限り、身銭を切ってその回顧録を手に入れているはず。何故に時代遅れの思想:回顧録に拘るのか言えば端的に「好き」だからであろう。「好き」とは何とも単純な言葉であるがこのふわりとした世情の中で「好き」という感情を真摯に持つ事すら出来ない輩がいる中でなんと尊い言葉だろうとしみじみ思う。
「ノイズ」をお洒落小物だと思っている人間にとってはゴミ屑に等しい物であり入手する必要は欠片もないが、暴発しそうな自我を持て余している向きには90年代初頭から80年代に遡るノイズ・インダストリアルの古豪達への良き道標となるのではないか。それにしてもthanks to:に記されているバンド群も今や風前のともしび状態。悲しくもあるが、こんな時代の中でも、Don't say I've forgotten と言わんばかりにこういうアルバムが発表されるのであればこの得体のしれぬ時代の中でも陰惨でゴミの様なノイズ、デスインダストリアル(一時期聞かなかったがまたよく使われるようになってきた気がする)はサミズダート的な地下生産物として生き残るであろう。

 

Primary

programmatika-  ANENZEPHALIA

 

2017年リリース作が2024年4月の大阪でのイヴェントに合わせ再発されたもの。2017年のリリース当時、新宿の某店に委託品が1点だけ入りそこに居合わせたLinekraftの大久保さんに「Anenzephaliaは買っておいた方がいいですよ」と余計なアドヴァイスをしたのを覚えている(当時でもなかなかの値段だった)。当作品は同時に23枚限定のテストプレス盤、通常のLP、ピクチャー盤LPとしても再発されている。15人の無脳症が乱舞するアメリカ的過剰さとDominick Fernowの狂気が炸裂するピクチャー盤とは異なり無脳症の数は8人と抑えられているが企業ビルとnew idols、検査技師のようなお姉ちゃんとnew people、無味乾燥な集合住宅とnew homesという語が結び付けられているポスター様のモノを見たところで心が浮き立つはずもない。曲名も一々記さないがこれから起こる何かを心待ちにさせるようなものは一つも見当たらない。そしてCDをプレイすると冒頭から寒々しい風の音がスピーカーから聞こえてきて、その風が心の隙間を通り抜ける。しかしながら、他レーベルからのリリースだからと意識しているのか否かは不明だが、Tescoからのリリースの各品にあるような聞き手を殺すことが目的かのような単色の腐敗ガス音は余りここには存在しない。時には煌びやかですらある音がある様に音の明暗がくっきりとしているのだ(恐らく彼が初来日時にMSBR田野さんの在所から新宿に向かったであろう電車の走行音や車掌のアナウンスまでここでは聞くことが出来る)。だからと言って当作品が向日的な物であるはずがなく、それは震災のがれきの中に「原子力明るい未来のエネルギー」という語を見つけ出した時のような若しくはカフカ(2024年東京より大阪に向かう新幹線の中での会話によるとカフカはB.Molochが一番好きな作家の一人である由)がユーモア小説であるとされる言説がある様なもので悲惨、皮肉の度をいや増すものでしかあるまい。一瞬一瞬はそれほど暗くはないが全編を通して聞くとどうしようもなく重苦しい矢張りAnenzephaliaな一枚。

Government Controlled Shrines - Linekraft/Prurient

 

Linekraftの大久保さんと言えば大分昔からフライヤーに「発狂」と馬鹿でかいフォントで何の脈絡もなく記したり、2024年4月の大阪のライブでは「キちがいになれ」と本当にキチガイが作ったようなレイアウトで書かれた紙をばら撒く(世界で一番「キちがいになれ」と書いた紙をばら撒いた男としてギネス申請して欲しい)といった所業でキチガイとしての認知度は高いと思うが一方、私は全く疎いのだが、Vatican Shadowという超メジャーらしいプロジェクトをやっているせいでカモフラージュされているのかPrurient=Dominick Fernowさんがキチガイだと言う人は余りいないように思える。ただPrurientの作品テーマの境界の超えっぷりなどは大久保さんのそれは近しいように思うし、先のフェスの際に購入したHospitalから再発されたAnenzephaliaのProgramatikaのピクチャー盤の狂ったようなアートワーク(盤面に8人、ポスターに6人、ジャケに1人と合計15人の無脳症があしらわれている。盤を回すと無脳症のメリーゴーラウンドが見られる)を見ると「いやいや彼もなかなかのものだぞ」と思わざるを得ない。またその思いはこの7インチ2枚、5インチ一枚という異形のリリース形態の由来が「ここの時刻が7:57だろ?」という説明によって更に強化されることとなる。その二人が天皇崩御と国家神道という日本人からすると「物騒」なテーマを選んで作られたのが当作品。最初から2024年発売とは思えない薄暗い音が発出される。まだノイズがおしゃれ小物に堕す前の禍々しいものだった頃の息吹がここにはある。LinekraftともPrurientとも全く違うノイズというより「雑音」が全編を覆っている。ここまで徹底出来るのは矢張り両者のキャラクター、天皇崩御、国家神道という物騒なテーマ、九段にある神社でのフィールドレコーディングが丁度良い具合に感応し合った結果であろう。わざわざ「english accent」が欲しくてthe grey wolvesに頼んだというアナウンスも良い。赤盤と黒盤で計600枚でこの異形のリリースはなかなか冒険だなとも思うが両者の本気振りとクオリティの高さからすれば完売して然るべきものと思う。

PS  インサートにあるSONGS FROM TORTURECHAMBERSは私が昔やっていたHPの表題。何かで見つけてくれていたらしい。インサート中の文も書かせてもらっているが雰囲気は伝わるが何が言いたいのか良く分からないような気がするという曖昧模糊とした内容だなと書いてから数年経った本人は思う。まあこれも当時の心の揺れやこの作品に関わっている3人目(4人目?)のキチガイが書いた精神的に不安定な人の文章という感じで「まあ、良かろう」という気持ちになれる(依頼があった際は何に使うのか私も特に聞かなかったので特に推敲もせず渡したが変にいじくらないで良かったと思う)。勿論そう思えるのは盤面の音が素晴らしいからであることは言うまでもない。

DEATH ZONES - GENOCIDE ORGAN

 

暫く前から喧伝されていたGenocide Organの2LP。冒頭の訛りの酷い英語が流れてくる辺りからすぐに不穏な空気が流れ始める。それぞれのアートワークに書かれた言葉やアフガニスタンを想起させる名称、退役軍人治療施設の名称、世の中で今起きている凶事を想起させるような曲名、剝き出しの悪意。そしてLP盤のアートワークに書かれた(旧日本軍の用語をドイツ人に使うのは失礼にあたるだろうが)玉砕宣言とも取れるような言葉。「まだ最高の瞬間は訪れていない」と言う言葉がフェードアウトした後に全てを沈黙させるような圧迫感を伴った音の波が圧し掛かってくる。お互いの不信の中で誰何が行われ、地下室に押し込められた人の耳には旧式の換気装置のリズミカルで無機質な騒音と送風孔から時折聞こえる虚ろな叫び声が聞こえてくる。「必死では無いが決死である」と言われているのか?明瞭にそれが何であるかを理解できぬまま覚悟を迫られ、その後にニュースでその場のおぞましさを知らされる。混乱の中で通信は途絶し、相次ぐ脅威の中で息を潜め己の体を出来るだけ小さくし身を守るしかない。通常の事が異常になったとされる状況の中、銃声が響き、通常時であれば「そんなものが存在するのか」と疑問を抱くであろう「悪」そのものを見た人間のインタビューが流れてくる。人の血が一定のリズムで流れるかのように機械音はその音を高く低くする。一枚目の最後に地獄と非地獄の間の門に立った人は語る。非情な運命は「永遠に血を流せ」と言い、また何かは「私はこの門で待つ。私は既に神ではなくなった」と語る。人は聞き手の理解を得られるか否かも分からぬまま己の見たものを話し続ける。

 

人は何時ものように無自覚に美徳を語り続けるが矛盾はそちこちにあり、人は死に、死体は次々と積まれていく。その様な中でも音は殆ど起伏を見せずに流され続け、何かを伝える声はアジテーションと言うよりも誰も聞いていないとしても構わないと思う話者の演説、応答を期待しない電信、己を真摯に説き伏せるような独り言の様に発せられる。そんな中でその場を知るものが情を知りながら傍観していた者に強い批判を加える。突如、無秩序が叫ばれる。野次と規則性のない破壊音、サイレンの音の様なもの。流れる音と語り口に緊迫感が増す。静かな病室の中では却ってあの場の狂騒が思い出され、地獄ではない場所が地獄と化す。最早、正義がどちらにあるかを人や法は認識出来ず全ては神の元に投げやりに放り出される。その無関心、無責任の中で齢の長幼は意味を失う。その傍らを濁音は相変わらず流れ続ける。何か金属が誰かの手で何かを訴えたいかの様に叩かれている。その音は小さくなり、やがて消える。あの狂騒もそれを巡る一見活発な議論も全ては作り上げられたものだったのか?最後の最後に全てをリセットし押し流すかのように雑音はその流れの勢いを強くし全てが終わる。

Einsturzende NeubautenのKollapseやMaria Zerfallの際にも書いたがその時代が作らせる音楽というものがあると思う。恐らく何時頃からか始まったGenocide Organの音の虚無化(2003年の初来日時に既に nihil est nihil est.... という紙を配っていたにせよ)や作品にこれ見よがしにMade in Mannheim(ドイツではなく)記すようになったことは我々が知るドイツやヨーロッパまたその周辺の時代状況と無関係でないと思っている。混沌の首の羅入さんはかつてインタビューで「事ここに至っては、私のように政治に無関心な物でも、政治的発言をせざるを得ない」と話されていたが果たしてそれと似た心境が彼らの中にあるか否か。単なる観察者、単なる山の上に住む傍観者と思われている彼等であるが実は現時点では若しかしたらwhistleblowerであるのかもしれない。

Primary

 

Leger Des Heils - SONNENFLAMMEN

LDHはドイツのバンド。ネオフォークとネオクラシカルの間を縫うように出てくる音は時として長閑とも言えるようなメロディーをも生み出す。その根底にあるものはヨーロッパに根付いた特有の「美」(ヨーロッパ以外に「美」が無いと言っているのではない)そのものであろう。2022年にリリースされたこのアルバム。9曲目のEUROPAだけ歌詞がブックレットに掲載されている。

 

In our dream

we fell from the sky

In our dream

we touched the sun

Like fallen angels

drifted through the time

with burning wings

falling in an ocean of crime

 

Life is blending - life is ending

in Europa !

 

In our dream

we built the empire

for a new society

of love and strength

It's only a dream

The end is near

the dream is broken

with blood and fear