時の流れの感覚が変わったように感じます。
世の変化の速さが増したからでしょうか。
この記事を書いてから1週間しか経っていないのに、もう随分と前のことのようです。
実はこの時、如是我聞の文章として、淮南子を取り上げようとしていたのでした。
でも編集に時間が掛かりそうで、どうしても11:45より前に必要とする人の目に触れる様に公開したかったこともあり、稲葉俊郎医師の素敵なブログをご紹介する好い機会でもあったので、差し替えたのでした。
と云うことで、あらためて綴ります。
~如是我聞~
紀元前2世紀の古代中国(前漢)で編纂された
淮南子の人間訓より
塞翁馬
近塞上之人、有善術者。
馬無故亡而入胡。
人皆弔之。
其父曰、此何遽不爲福乎。
居數月、其馬將胡駿馬而歸。
人皆賀之。
其父曰、此何遽不能爲禍乎。
家富良馬。
其子好騎、墮而折其髀。
人皆弔之。
其父曰、此何遽不爲福乎。
居一年、胡人大入塞。
丁壯者引弦而戰。
近塞之人、死者十九。
此獨以跛之故、父子相保。
故福之為禍、禍之為福、
化不可極、深不可測也。
人間万事塞翁が馬
塞上近くの人に、善い(占)術者あり。
馬ゆえなくにげて胡に入る。
人皆これを弔す。
その父曰く、
此れ何ぞ福と為らざらんや。
居ること数月、
其の馬、胡の駿馬を将いて帰る。
人皆これを賀す。
その父曰く、
此れ何ぞ禍と為る能わざらんや。
家、良馬に富む。
その子、騎を好み、
堕ちて其の髀を折る。
人皆これを弔す。
その父曰く、
此れ何ぞ福と為らざらんや。
居ること一年、胡人大いに入塞す。
丁壮の者、弦を引きて戦う。
塞に近き人、死す者、十に九なり。
此れ独り跛の故を以て、父子相保てり。
故に福の禍と為り、禍の福と為るは、
化、極むべからず、
深、測るべからざるなり。
淮南子 人間訓 より
漢文の読み下しのルールを一部無視しております。。と云うか、理系アタマの自己流です。
とある城塞の近くに、占いの巧みな翁(オキナ・塞翁)が息子と共に暮らしていました。
ある日、塞翁が飼っていた馬が、胡の地方に逃げてしまいました。
人々が慰めると、塞翁が言います。
「これが縁で福となるかもしれません。
そうならないと、どうして云えましょう。」
数か月後、逃げ出した馬は、胡の国の駿馬を従えて帰って来ました。
人々がお祝いの言葉を掛けると、塞翁は言うのでした。
「これが縁で禍となるやもしれません。
そうならないと、どうして云えましょう。」
家に良い馬がたくさんいるので、塞翁の息子は乗馬を楽しむようになりました。
そんなある日、息子は、落馬して足の骨を折ってしまいました。
人々がお見舞いをすると、塞翁は言います。
「これが縁で福となるかもしれません。
そうならないと、どうして云えましょう。」
一年後、胡の軍と戦になり、兵が城塞に攻め込んで来ました。
集落の壮健な若者たちは、その九割が戦で命を落としました。
しかし足を折った塞翁の息子は兵役を免れ、塞翁と共に命を保つことが出来ました。
このように、何が福で、何が禍であるかは、簡単に見極められるものではなく、その深い道理は、容易に推し測れるものではない、、
というお話です。
塞翁馬を読み、今 私の意識に上ることは、、
ひとつ、、
眼前の現象を観て沸き起こる、諸々の感情に囚われることなく、人生の主導権を握って、共に歩んで行きましょう。
という提言と、
ふたつ、、
思い通りの幸せと、思いがけない幸せと、
・・・どちらの在りようにも、氣が付いていますか
という問い掛けと、
そして、みっつ、、
・・・それはまたの機会に。。