この前の記事 を公開する時、どのテーマに分類しようかと思案した結果、とりあえず情報リテラシーにしておいたのですが、やっぱりあらたにテーマを設けて分類しなおすことにしました。

 

「世界觀・人生觀」というテーマです。

 

漢字の成り立ちが解り易いという理由から、私には旧字を好んで使う傾向があります。

 

ここでも「」と云う漢字を使っています。

 

でもブログ本文中は、検索で記事を探す場合を考慮し、今後もを使おうか検討中。。

 

で、今回も前回に続き、「世界觀・人生觀」というテーマで綴ります。

運氣を観る

人生について立ち止まって考える時、誰かにアドバイスを求めるという機会も少なからずあると思います。

 

占い師さんに観てもらったという経験のある方もいらっしゃるでしょう。

前の記事の塞翁も、良い占術者でした。

 

そんな流れに乗って、ある一つのエピソードをお伝えします。

 

☰ ☱ ☲ ☳ ☴ ☵ ☶ ☷

 

今から20年程前、私はとある療法を学びに、定期的に某施術所に行っていました。

創始者の施術所に通うことも出来たのですが、敢えてお弟子さんの所へ通いました。

 

この療法が本当に精度の高いものなら、きちんとお弟子さんの感覚も育っている筈だし、そこも含めて見極めたいと思ったのです。

 

で、ある時、その施術者の先生(創始者ではなくお弟子さん)に声を掛けられました。

 

曰く、、

 

「評判の霊感占い師に観てもらったんだ。

今迄の出来事は、ずばりと言い当てられた。

この人は観る目を持っている、と思ったょ。

でも、その人が、

俺の人生の●●歳から先を観ようとしても、何も見えてこない。。

って言うんだ・・・

どう思う?」

 

その場には、療法を学ぶ数名が同席していたのですが、皆の表情が不吉な予感に包まれたかのように、固まっています。

「えぇっびっくり それって・・・ガーン(以後略)

 

私はその時、ふと閃いて、こう呟きました。

 

「棚の上に置いた物でも何でも、

自分の目線より少し上の物なら見えるけど、

視線より遥か上の物って、見えませんよね。

それと同じで、

●●歳以降の先生の在りようが、

その占い師さんの認識の範疇を超えていて、

それで、観ようとしても見えない、

ってことなんじゃないですか。」

 

☰ ☱ ☲ ☳ ☴ ☵ ☶ ☷

 

当時の先生の言い方から、その占い師さんは「見えない」ということをそのままフラットに伝えただけだったようです。

 

正直な、善い占い師さんなのでしょう。

 

しかし、同席した人達は、そこに違う意味を付加してしまいました。

もしかして、プロと云われる世の占い師さんの中にも、同様のバイアスを持つ人がいるとしたら。。。

 

占いの結果を深刻に受け止めてしまいがちな人は、そういうこともあり得るということを知っておくといいかもしれません。

 

で、氣になっている読者の方もいらっしゃると思うので、●●歳以降の先生ですが、、

 

その後、その先生はその団体から独立し、独自の道を歩んで行きました。

●●歳を越えても独自の活動をしていることは、Webを通して知っています。

 

私は、その後、その先生ともその療法の団体とも別の道を歩み、今は交流はありません。

でもあの期間は、貴重な時間だったなぁと感謝しています。

ひと(靈止)を診る

この療法の創始者の方は、教室でこのように語っていました。

 

施術者は、常日頃から理解力と靈性の向上に努めよ。

療法・施術の本質は、物理的な手技・技術にあるのではない。

クライアントより粗い理解力で、どうして診ることなど出来ると云うのだ。

(この療法では独自の用語を用いていたので、実は別の言い方でしたが。)

 

運氣を観る〉の段で綴った占術師の話と、根本は一緒なのだと思います。

 

粗い認識力では、精妙な次元を識ることなど出来る道理がない。

 

この法則は、更に別の次元に於いても、同じではないでしょうか。

 

霊的な干渉に怯える人は、同じ次元で防御することばかりに気を取られず、より精妙な在り方へと移行し、相手の認識力を超えることに意識を向けましょう。

 

星 星 星 星 星 星 星 星 

 

ここ迄のお話は、どちらかというと受動的・認識することについてのお話でした。

もう一方の、能動的・働きかけるということについても、綴ってみたいと思います。

廣き世界を啓く

如是我聞

立花大敬先生 意訳

雨降らしの名人のお話

リヒアルト・ヴィルヘルムという人がいました。

この人は心理学者のユングの友人で、『易経』をはじめて翻訳してヨーロッパに紹介した人として有名です。

・・・

そんな彼が中国で体験した話です。

彼がある地方にいた時、その土地は大旱魃でした。

もう何ケ月も雨が降らず、田畑の植物は干上がって、枯死寸前でした。
そこで農民たちが相談して、雨降らしの名人という評判の人を招きました。

・・・

その老人は、一軒の家の提供と日に三度の食事の差し入れを要求して、その家にとじこもってしまいました。

中の様子をうかがっても、しんと静まりかえっており、太鼓や鉦をたたいて祈ったり、お経を上げたり、呪文をとなえたりしているようにはみえませんでした。

ところが、三日目に突然雲があつまって、ド、ドッと大雨が降り、農民たちは大喜びで雨の中で踊りまわったそうです。

 

ヴィルヘルムは家から出てきた、その雨降らしの名人に、

「いったいどうして雨を降らせたのですか」

とたずねました。

老人は次のように答えました。

「私は雨を降らせようとしたわけじゃありませんよ。

この土地にやって来た時、この土地がこんなにも干枯びているのは、私の心がうるおいを失って砂漠化しているせいだとわかりました。

それで私は家に閉じこもって、この土地をこんなにしてしまった私のあやまりをおわびしました。

おわびの心が深くなってゆくにつれて、私の心にうるおいがもどって来、心の乱れが整理されて調和のとれた姿になってゆきました。

そして、それ(その心の状態)が本物になった時、この土地の不調和の状態もおしまいになり雨が降ったのです。

私は決して雨を降らそうと思ったわけじゃないのですよ」


神様の壺 <しあわせ通信>

神様の壺

大敬先生《しあわせ通信》第二集

<春の気> より

リヒアルト・ヴィルヘルムも、大敬先生も、伝える際の脚色はあるかもしれません。

そんなこととは別に、この話の中に展開される世界観を、私は素敵だなぁと思います。

 

そして、その世界観を選択したのは、、

誰あろう、私自身です。

 

話はそれますが・・・

仮に、この話が全くの創作だったとしても、創作か否かに本質があるのではないのです。

 

提示された世界観を、私自身が選択した。

その選択の瞬間に、本質があるのではないでしょうか。

 

創作話だったからと軸を揺らがせることは、人生の主導権を自ら手放すことに繋がる氣がしてなりません。

その意味で、カルロス・カスタネダの一連の著作や、一杯のかけそばの泣ける話が、フィクションだったと知った時の、当時の読者の感情的な反応には、首を傾げるところがありました。

(世代がバレますね~にひひ

 

現世(ウツシヨ)の事実のみを追いかけて、本質を見失ってしまったら、せっかくの氣付きの機会が、もったいないなぁ~と思うのです。

 

本 本 本 本 本 本 本 本 本 

 

ヴィルヘルムのオリジナルにより近づきたいという方の為に、リンクを貼っておきます。

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㍿ 人文書院 Official Site 黄金の華の秘密

 

㍿ 人文書院 Official Site 黄金の華の秘密 新装版

 

Amazon じゃなきゃ!と云う方は、こちらをどうぞ。

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大敬先生の本も読んでみたいと思われた方の為にも、同じくリンクを貼っておきます。

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本心庵 Official Site 神様の壺 (新訂版) ~<しあわせ通信>第2集~

 

同じく、Amazon をっ!と云う方はこちら。

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Amazon 神様の壺〔新訂版〕 ~大敬先生《しあわせ通信》第二集~

 

ゴールデンウイーク、あらため、STAY HOME 週間。

 

本から得た氣付きを以て、世界観を擴げる、

そんな、またとない時間の過ごし方、となるかもしれません。

 

前回の更新から約2週間、日が空きました。

STAY HOME 週間中は、もう少し多く記事をアップしようと思っています。

 

次回も、このテーマで綴るかは、保留中。。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。