大峯修験ワーク
今年も修験者として、大峯の参詣道を歩いて参りました。
参考までに、秩父曼荼羅小屋 峯龍師のブログ記事をリブログしておきます。
修験ワークショップの取り組みを、感じ取っていただけるのではないかと思います。
奈良の御佛との御縁
せっかく関東から奈良まで足を延ばすのですから、天川大峯修験ワークに参加する時には、奈良で前泊して、御縁を感じた寺社に参詣することにしております。
(一昨年はコロナ禍で自粛しましたが…)
今年は、信貴山と法隆寺に参詣いたしました。
朝の信貴山の氣を感じたいという思いから、信貴山→法隆寺の順での参詣でした。
玉蔵院では、以前よりお祀りしたかった如意宝珠の御守りをお授けいただきました。
佛尊のおわします須弥山世界と、自宅の佛棚を結ぶべく、大切にお祀りいたします。
氣で感じるタイプの私としては、如意宝珠のような抽象度の高い御守りや、宝篋印塔からは、佛様の御尊像とはまた違った魅力を感じます。
次に参拝した法隆寺では、飛鳥時代に祀られた佛尊たちから、大いなる瞑想のヒントを受け取りました。
これらの事々も、読者の皆様とシェアすべく、近々記事として投稿する予定です。
修験者として
冒頭に「修験者として」と記しましたが、その言の葉に込めた意味を述べたいと思います。
(これは自らに向けての言の葉なので、辞書的な正否はご容赦いただければ幸いです)
私は、「驗」を「修」「者」としての自覚を持って歩む、そういう行者で在りたいと思っています。
では、修めるとは?
私が觀じる、修驗の道の本質とは、驗力を他に誇ることではありません。
「驗」は、自らの中におさめます。
道は自らの中にある
ドイツの作家ミヒャエル・エンデの童話「モモ」に、こんな一節があります。
「モモ」のあらすじは、以下ウイキペディアをご参照ください。
このモモという作品には、30分後までの未来なら確実に予見でき、甲羅に表れる言葉で会話ができるカシオペイアというカメが、重要なキャラクターとして登場します。
主人公のモモが、このカシオペイアに導かれ、時間の配分を司るマイスター・ホラに会いに行く、そんな場面でのお話しです。
~如是我聞~
時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語
モモ
ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 より
「いいわ、あたしも行く。でもおまえを抱いていっちゃいけない? そのほうがはやく行けるもの。」
「イケマセン」
「どうしてじぶんで這っていかなくちゃいけないの?」
それにこたえて、なぞのようなことばがあらわれました。
「ミチハ ワタシノナカニアリマス」
こうこたえるとカメは動きだしました。
モモはそのあとについて、一歩一歩ゆっくりとすすみました。
~ 中略 ~
モモは力をふるいおこしました。
もうここまでくれば、マイスター・ホラのところにたどりつくまで、あとひと息です。
「ねえ、おねがい。」
と彼女はカシオペイアに言いました。
「もうちょっとはやく歩けない?」
「オソイホド ハヤイ」
カメはこうこたえると、これまでよりもっとのろのろと這いました。
そしてモモも
―このまえのときにもそうだったのですが―
ここではそうするほうがかえってはやくすすめることに気がつきました。
ゆっくり行けば行くほど、まるで足もとの道路がふたりをのせて、どんどんはやくはこんでくれるようなのです。
ところで、童話モモから少し話は逸れますが、、
多くの人々が修験道に対して抱くイメージは、厳しく峻烈な自力修行というものなのではないでしょうか。
しかし、役行者さんの御真言を唱えながら大峯を歩く時に私が感じる、氣の質は…
やわらかい調和された意識です。
(意識の焦点を、大峯ではなく役行者さんに向けた時の感覚です)
そして、ゆったりとやわらかな氣に身を浸し、御真言を唱えながら歩いていると、、
足元の大地が私を乗せて、どんどん速く運んでくれるような感覚になるのです。
上記のモモの一節は、示唆に富んでいます。
そのことに想いを馳せると、、
役行者さんが修験者に求めているものは、決して自力に頼り己の験力を磨くということではなく、神佛の御力と一体となった包み込むような慈愛の境地に思えるのです。
今回、その「驗」を私は確かに受け取り、自らの肚におさめることができました。
御真言について触れましたが、厳密に云うと、
- 役行者として意識の中に呼び起こす時、
- 役優婆塞として意識の中に呼び起こす時、
- 神變大菩薩として意識の中に呼び起こす時、
それぞれに違う感覚が得られるのですが、そのことは別の機会に綴ろうと思います。
「歩く」ことで感覚を養う
大峯の歩き方として意識していることを、前回のブログに書きました。
文字として伝えられることには限界があると思いますが、参考になれば嬉しいです。
御縁があれば、直接お伝えする機会が設けられたらと思います。
また、大峯への準備として私が心掛けている、日常生活に組み込んだ稽古の方法を記しておこうと思います。
その一つは、階段を昇る時、敢えてゆっくりと一段飛ばしで昇る、というものです。
これは、筋力トレーニングを目的として行っているのではありません。
むしろ如何に力を抜き、重力に対する繊細な感覚を深めていけるかを意図しています。
人は思いがけず上体に力を入れて、塊として使ってしまっていることが多いです。
ゆっくりと階段を昇ることは、そのことに気付くための良い稽古となります。
上体を固めてしまっている場合と、余分な力が抜けて身體がやわらかく使えるのとでは、バランスの取り易さや疲労度に大きな差がでることが判ると思います。
また、昇る時だけでなく、下山の時のために、あえてゆっくりと階段を降りるという稽古も行っております。
(さすがに降りる時には一段飛ばしでは行いませんが…)
下りの時も、体が固まっている場合と、分割して身體を使えている時とでは、膝や腰に対する衝撃度も違ってきます。
重力に対する感覚が深まっていくと、転倒を未然に防ぐことにも繋がりますし、お蔭様で私もいろいろと、稽古から得られる肉体的なメリットを感じています。
実は、縁者さんのブログにも綴られていましたが、、
今回の大峯修行は、何と10時間程の登下山となったのでした。
私個人については、役行者さんの御真言のお蔭もあってか、
(役行者さん、ありがとうございます)
特に身體に違和感を感じることもなく、帰宅翌日の出勤日には日常に戻ることができました。
でも、身體の力みを抜き、重力に委ねる感覚が育まれることの眞の効験は、
こころの強張り、感情のしこりに氣付き、それを開放することにつながるということ、そして大地にささえられている実感から得られる安心感にあり、単に肉体的に元氣でいられるという次元に限定されるものではありません。
そうでなければ、トレーニングでありこそすれ、修行とは云えないと思うのです。
意識と身體の関係性
ここまで述べたような(意識と)身體の使い方について語る時、私のバックボーンの一つは、快氣法というボディワークの技法です。
(私は快氣法の認定トレーナーでもあります)
久しぶりの投稿ということもあり、参考までに過去のブログ記事を貼っておきます。
上の記事にもあるのですが、腰椎にはそれぞれ運動習性というものがあります。
それ理解し応用すると、様々な場面で、身體操作を快く行うことが出来るようになります。
もちろんそれは、今回の大峯歩きにも活かされています。
今回の大峯での修行途中、かくれたテーマが芽生えました。
それは一緒に大峯を歩く仲間たちに、手で触れずに意を持って働きかけ、身體操作の快さを同調するというテーマです。
そして、そのことについて一定の「驗」が自らの中におさめられたということを、修驗道の少先達として、今後の日常の里の行に活かして行こうと思います。
参加者の皆様、お世話になりました。
来年もまた、よろしくお願い申し上げます。
合掌
【追記】 小屋が国際色豊かになって来ました。
…なので私も一念発起 version