作家・土居豊の批評 その他の文章 -275ページ目

山下一史指揮・大阪市音楽団定期演奏会

指揮者の山下一史さんと知り合って、そのステージを見せてもらうために大阪市音楽団の定期演奏会に行った。その昔、アルフレッド・リードが指揮したときに聴いて以来だったが、ずいぶん楽員が若返っていて驚いた。曲目は、世界初演曲を2曲、本邦初演曲も一曲、とおそるべき意欲的なプログラム。あとで山下さんは、さすがに初演曲をこんなにやると死にそうになる、と語っていたが。
その世界初演の曲を作曲したスパーク氏が客席にいて、熱心な聴衆が、休憩時間に取り囲んでサインをねだっていたのも、微笑ましかった。作曲者は、当夜の演奏にいたくご満足の様子で、演奏後の舞台挨拶で、興奮気味の早口でしゃべりまくり、同時通訳が追いつかないぐらいだった。
客席は、吹奏楽少年少女たちが大勢、制服姿で占領し、また、この楽団の固定ファンらしき人たちも多く、音楽大学生のような、楽器ケースを担いでかけつけた若い人たちもいて、ザ・シンフォニーホールは満席だった。けっして聴きやすくはない、現代曲的なプログラムなのに、10代20代の聴衆は、食い入るようにステージを見つめ、魅せられたように熱狂的な拍手を送る。その場は、まさに吹奏楽王国たる日本の、音楽現場そのものだった。この男の子女の子たちの中から何人かが、おそらくはその夜の興奮覚めやらず、何か決定的な影響を心に刻み付けられて、音楽の道、プロの奏者への道を選ぶだろう。
指揮者の山下さんは、世界をまたにかけて活躍する中堅のマエストロで、サックス奏者の須川展也さんとの共演で多くの吹奏楽のアルバムを出している。そのマエストロが、世界初演をこの大阪のシンフォニーホールでやる。初演という世界でただ一回きりの音楽創造の現場に居合わせた10代の子供たちが、やがてプロの奏者を目指して、またよきアマチュアとして、次の世代の管楽器音楽を背負っていく。こういう幸福な芸術創造の場が、東京だけでなく、関西にも、また他の地方にも、いくつもあるのだ。今の日本が、音楽の世界でコンプレックスを感じる必要がどこにあるだろうか。もうそろそろ、舶来礼賛は終わりにしてもいいのではないのか。
8月14日

「クラリネットフェスト」に大阪音楽大学クラリネットオーケストラが出演

ところで、ここ数ヶ月、小説の取材のためにあちこちの音楽活動の現場をのぞいてきた。一休みしている間、そのいくつかを報告しておこう。
まず、最近のものから。
さる7月18日、東京は多摩市にあるパルテノン多摩で行われた国際クラリネットフェストについて。
これはなかなか権威ある国際音楽祭で、毎年違うところで開催されているらしい。日本でやるのはこれが初めてだそうだ。チラシをみると、クラ吹きでもない私でも知っている錚々たる顔ぶれが多摩に集結するようだ。面白そうだから行ってみた。もっとも、その前日、ちょうど東京は新宿で、あるサックス奏者のライブを聴いていたから、ちょうどスケジュールがよかったのだ。それと、日ごろお世話になっている大阪音大のクラリネットオーケストラが出演するというので、それも渡りに船、というところ。
さて、新宿から京王線で小一時間、車窓風景は、行けども行けども東京の郊外特有の退屈さ、つまり、山ありマンション街あり、また山あり町あり、の繰り返し。いったいどっちに向かって進んでいるのかもわからない。
着いた多摩センターというところは、まあ、いってみれば巨大なショッピングモールとマンションの複合体か。駅からダラダラ坂を登りつめたところに、古代ギリシャの神殿を模したらしい、いかにもバブルの遺跡といったホールがある。ふと気がつくと、すぐちかくにサンリオのテーマパークがある。どおりで親子連れが多いと思った。まさかこの小さな子供づれがみんな、クラリネットを聴きにいくわけはないと思っていたが。
しかし、フェストそのものは、いかにも手づくり感があって、素朴でよかった。なんだか関連グッズも売れてなさそうだし、せっかくロビーでくつろいで座っていたら、スタッフの兄ちゃんが無慈悲に椅子を取り上げてどこかへ運んでいってしまったり、まあ、いろいろありそうではあったが。
なにしろ、司会のおじさんが、よくみるとさっき受け付けにすわっていたのと同じ人だったし、どうやら出演者が席のほとんどを埋めていたみたいで、代わりばんこに出入りして演奏している様子が、いかにも学生イベントみたいだったし。
しかし、企画はやはり国際音楽祭だけあって、世界的に名の通ったクラリネット演奏をこれだけまとめて、一箇所で一週間ぶっ通しで聴けるというのは、なかなかないだろう。だからといって、万人にお勧めとはいわないが。そうとう音楽が好きな私も、一日中、クラリネットだけのアンサンブルを聴き続けたおかげで、その後10日ぐらい、クラリネットを見る気もしなかった。一年分は聴いた、という満腹感だった。
ところで、各国から来ていた音楽家たちが、このことを知っていたらいいなと思ったのだが。その地、多摩は、ジブリの映画の舞台となった悪名高きニュータウンで、森を切り開いてその古代ギリシャみたいな神殿ホールやら、テーマパークやらマンションを建てたということだ。なんとも、日本の明暗の両極を象徴する場所ではあるまいか。ついでに、多摩は新撰組発祥の地でもあったが。
8月8日

今日のニュース

わざとやってるのか? 森元首相は? 政治ニュースでこんなに笑わせるのは珍しい。小泉首相に郵政法案の説得にいった森元総理が、説得に失敗、公邸で缶ビールとつまみしか出してくれなかったことまで記者にぶちまけた。新聞の写真には、ご丁寧につぶされた缶とチーズまで持って写っているではないか。わざわざつまみ持って帰ってくるなよ、とつっこみの一つも入れたくなる。小泉首相の一人暮らしのわびしい雰囲気もかもし出されて実に面白い。
しかし、こんな話、いったい真面目に受け取っていいのか、それとも笑いとばすべきなのか。数日前には、この法案をめぐって、議員が自殺したばかりではないか。もっと真剣にやれ、と文句言ったほうがいいようにも感じる。
だが、こんなばかげた話が新聞に出るくらい、余裕をもって政治をやったほうが、日本もまともな国になりそうでもある。なんだか、フランスやイギリスの政界話みたいじゃありませんか?色気はないし、やたらわびしいのがつらいけど。
8月7日

トラックバックのカリビアンにつきご注意

小生、なにぶんにもブログ初心者なため、トラックバックの意味もよく知らず、カリビアンなる悪質業者がこのサイトにも罠を仕掛けたと、気づきませんでした。ようやくその意味がわかって、さっそく今夜全て削除しました。もし当方のページからカリビアンに接触し、不当請求などの被害に合われた方がいらっしゃいましたら、誠に遺憾です。当方の責任で補償などは不可能ですが、下記のページの活動にぜひご参加ください。せっかく育ちつつあるブログ文化を、利用者みんなの良識で守っていかなければならないと考えます。
参考ページ;ヤフーブログ「温度エラー日記」
8月6日

夏の風物詩

今日の午後は、突然の激しい雷雨で、あっという間に、ベランダの洗濯物がずぶぬれになってしまった。せっせと取り入れているあいだにも、稲光が光り、ズドドーン、ビキバキ、といかずちが鳴り響いた。
洗濯物を部屋に干し直して、やれやれと冷たい麦茶を飲んでいたら、すごい稲妻が間近で光ったと思う間もなく、ドッシーン、と至近のどこかに雷が落ちた。とたんに、どこかの自動車の警報装置がキュオンキュオン、ピキーンパキーンとけたたましく鳴り始めた。車にでも落ちたのだろうか。
まあ、おかげで夕方からめっきり涼しくなった。昨日、全国一の暑さを記録してしまった当地としては、大いに歓迎すべき夕立だった。もっとも、雷が落ちた?車の持ち主は怒り心頭だろうけれど。
その夜、遠く梅田のそらから、どーんどおーん、と遠雷の音が伝わってきた。こちらももう一つの風物詩。淀川の花火である。夏を満喫した一日だった。
8月6日

スペースシャトル

みんな、何をそんなにはしゃいでいるのだ。野口聡一さんが船の修理に駆り出されているのを、喜んでみている場合か。もうちょっと、文句を言ってもいいのではないか。
ようするに、大金を投じて無理して打ち上げたものの、やっぱり壊れてしまって、直さないと帰って来れないから、必死に修理しているだけではないか。
宇宙ステーションにがんばっている人たちに支援物資を届け、ステーションをケアしなければならないから、死に物狂いでシャトルを無理に飛ばしているのだ。
日本がもっと本気で宇宙開発に取り組みたければ、シャトルに乗るだけでなく、ロシア並みにロケットを飛ばして、独自にステーションを支援することでも考えたらどうだ。そういえば、中国は有人飛行に成功したはずだが、少しは手伝ってくれたらどうなのか。せめて、ステーションのごみだけでも回収してくれるとか。
8月6日

吹奏楽コンクール

何を隠そう、小生も学生のころは吹奏楽少年だった。中沢けいさんの「楽隊のうさぎ」「うさぎとトランペット」に出てきそうな、さえない音楽大好きっ子だった。もちろん、そのころから吹奏楽コンクールはあった。しかし、今のように、世間の認知度は高くなかった。
今では、吹奏楽人口も増えて、たとえもう二度と楽器を吹くことはないとしても、昔、楽器を吹いていたという人は、大きな駅のラッシュ時には、電車内の半分くらいを占めるかもしれない。少し誇張された見積もりだが。
吹奏楽コンクールは、聴いていて悲しい。なぜなら、演奏しているうちにもう、結果がみえているからである。いや、ステージに椅子と譜面台を並べているとき、すでに結果の半分はわかっているかもしれない。
吹奏楽のサウンドは、何といってもダイナミックなブラスの響きと、分厚い木管楽器群のハーモニー、それに多彩な打楽器のリズム、そういった、大オーケストラの魅力が大きい。吹奏楽用に書かれた曲も、たいていは大きな編成を前提にしている。だから、たとえば人数が、コンクールの出場規定ぎりぎりで、しかも楽器の人数にバランスがとれていない場合、初めから不利は明らかである。おまけに、そういうバンドは多くがきちんとした指導者に恵まれず、見よう見まねで上級生が初歩を教えている。だから、そもそも楽器がちゃんと鳴らせていないまま、曲を合奏している。これでは、いくら熱意があって、映画「スゥイングガールズ」みたいに猛練習しても、コンクールでは歯が立たない。
どうにも解せないのは、音楽教育の現場や行政が、そんなことをわかっているのかどうかだ。また、吹奏楽の連盟も、事情は重々承知しているだろうに、ただでさえ、子供の人数が減っていくのに、いまだに大人数バンド用のコンクールを優先していることだ。もっと実情に合うように、いくらでもやり方はありそうなものではないか。
いくらステージ上のほんの10分ほどの演奏に、夏の暑い日々を賭けて、気持ちのうえでは充実感を味わったとしても、それで燃え尽きて、あきらめて、自己満足して、それっきり音楽から足を洗う子供が大半なのでは、いったい何のための音楽教育なんだかわかりゃしない。
8月3日

夏、その2

子供を連れて、近所の図書館に行くと、自分の幼かった日の夏が蘇ってくる。子供はお好みの絵本を2、3冊抱えて、にこにこ顔。私はぶらりと書架をながめて歩く。まだ、この本が置いてある。こんな本まで、ちゃんとある。そんな発見があって、飽きない。懐かしさに、つい自分が先にそれらの本を借りてしまって、子供の絵本が少ししか借りれなくなった。
夏休み、幼い私は昼間、小学校のプールで泳いで、それから自転車で川の向こうの図書館へ行き、大好きな本を何冊も借りて帰った。暑い夏の午後、畳の上に寝転んで、本の世界に没入していたら、たちまち長い夏の一日は過ぎてしまうのだった。たとえば、アーサー・ランサムの書いたイギリスの子供たちの冒険物語。ヒュー・ロフティングの書いたドリトル先生のお話。アストリッド・リンドグレーンの書いたピッピやカッレたちのお話。
今の子供たちも、やはり本が大好きらしく、夏休みの図書館の子供室は、いつでも大賑わいだ。しかし、子供たちを連れてきている親たちは、なんだか退屈そうに子供の相手をしている。思うのだが、子供室と大人用の閲覧室をはっきり分けない方が、かえって子供たちも公共のマナーを学ぶことができるのではあるまいか。子供は子供で本を探し、親たちもそのあいだ、自分の本を探したり、新聞を読んだりできる。確かに、今よりは閲覧室がやかましくなるだろうが、調べもの室だけを別にしておけば、あとはどうせ本を読んだり探したりする目的は大人も子供も同じなのだ。そのほうが、親も図書館を利用しやすくなると思うのだが。
7月30日

夏のすごし方

とにかく大阪は夏が暑い。もはや亜熱帯である。知人によると、タイのバンコクよりも不快指数は高いらしい。それなら、クールビズなどと、小手先の対策をやっている場合ではない。シェスタを導入したい。
酷暑の日中は、なるべく寝ていて、朝晩に行動するのだ。気温がどんどん高くなっていく午前11時ごろから2時ぐらいまで、ゆっくりとランチタイム。一杯ひっかけて、シェスタ、つまり昼寝の時間。夕方、気分もすっきりと仕事にかかり、深夜、大人の気晴らしの時間となる。仕事が残れば、ちょっとつらいが朝早く片付けてしまう。
そうでもしないと、こんな熱帯なみの暑さの中で日中、動いていて、熱中症など当たり前である。昔はそんなことなかっただろうが、もはや高度経済成長以前の生活や温暖化前の気候に戻れるわけではないのだ。今の環境に適応していかなければ、恐竜みたいに滅んでしまいそうだ。恐竜は氷河期の寒さで滅び、人間は温暖化の暑さで滅ぶ。
などと、たわごとを書いているうち、みるみる気温が上昇してきた。まだランチ前だが、早々とシェスタに入るとするか。
7月29日

ロンドンのテロ犯?射殺

このところ、次々と殺伐たる事件ばかり。ロンドンにいる友の身も案じられる。かと思えば、東京に大きな地震まで。なかなか大変な時期にさしかかってきた感じだ。
それにしても、テロ犯とおぼしき人物の射殺には、賛否両論あろう。しかし、もし本当にその人物が分厚いコートの下に爆弾を持っていて、警官の目前で自爆したとしたら、世論はどれほど警官を責めることだろう。非情な板ばさみ状態にあって、瞬時に判断を下さざるをえない警備の方々の苦労に頭が下がる。
それにしても、もし自分が自爆テロをするなら、たとえ撃たれても自動的に爆発するように工夫すると思う。今回の人物は、自爆しようとはしていなかったのかもしれない。
もはや、事態は引き返せないところまできているようだ。昔観た、「マイケル・コリンズ」という映画を思い出した。イギリスの支配に対するアイルランドのテロ活動を描いていた。こうなれば、どこまでも攻撃はエスカレートしていくだろうか。
しかし、また、こうも思う。IRAの闘争に比べて、現在の国際テロリズムの掲げる理想はあまりにも幻のようだし、一方、テロとの戦いというお題目も、また極めて現実感に乏しい。いったい、世界はどうなってしまったのか。誰と誰が戦争をしているというのか。
7月23日