夏、その2 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

夏、その2

子供を連れて、近所の図書館に行くと、自分の幼かった日の夏が蘇ってくる。子供はお好みの絵本を2、3冊抱えて、にこにこ顔。私はぶらりと書架をながめて歩く。まだ、この本が置いてある。こんな本まで、ちゃんとある。そんな発見があって、飽きない。懐かしさに、つい自分が先にそれらの本を借りてしまって、子供の絵本が少ししか借りれなくなった。
夏休み、幼い私は昼間、小学校のプールで泳いで、それから自転車で川の向こうの図書館へ行き、大好きな本を何冊も借りて帰った。暑い夏の午後、畳の上に寝転んで、本の世界に没入していたら、たちまち長い夏の一日は過ぎてしまうのだった。たとえば、アーサー・ランサムの書いたイギリスの子供たちの冒険物語。ヒュー・ロフティングの書いたドリトル先生のお話。アストリッド・リンドグレーンの書いたピッピやカッレたちのお話。
今の子供たちも、やはり本が大好きらしく、夏休みの図書館の子供室は、いつでも大賑わいだ。しかし、子供たちを連れてきている親たちは、なんだか退屈そうに子供の相手をしている。思うのだが、子供室と大人用の閲覧室をはっきり分けない方が、かえって子供たちも公共のマナーを学ぶことができるのではあるまいか。子供は子供で本を探し、親たちもそのあいだ、自分の本を探したり、新聞を読んだりできる。確かに、今よりは閲覧室がやかましくなるだろうが、調べもの室だけを別にしておけば、あとはどうせ本を読んだり探したりする目的は大人も子供も同じなのだ。そのほうが、親も図書館を利用しやすくなると思うのだが。
7月30日