吹奏楽コンクール | 作家・土居豊の批評 その他の文章

吹奏楽コンクール

何を隠そう、小生も学生のころは吹奏楽少年だった。中沢けいさんの「楽隊のうさぎ」「うさぎとトランペット」に出てきそうな、さえない音楽大好きっ子だった。もちろん、そのころから吹奏楽コンクールはあった。しかし、今のように、世間の認知度は高くなかった。
今では、吹奏楽人口も増えて、たとえもう二度と楽器を吹くことはないとしても、昔、楽器を吹いていたという人は、大きな駅のラッシュ時には、電車内の半分くらいを占めるかもしれない。少し誇張された見積もりだが。
吹奏楽コンクールは、聴いていて悲しい。なぜなら、演奏しているうちにもう、結果がみえているからである。いや、ステージに椅子と譜面台を並べているとき、すでに結果の半分はわかっているかもしれない。
吹奏楽のサウンドは、何といってもダイナミックなブラスの響きと、分厚い木管楽器群のハーモニー、それに多彩な打楽器のリズム、そういった、大オーケストラの魅力が大きい。吹奏楽用に書かれた曲も、たいていは大きな編成を前提にしている。だから、たとえば人数が、コンクールの出場規定ぎりぎりで、しかも楽器の人数にバランスがとれていない場合、初めから不利は明らかである。おまけに、そういうバンドは多くがきちんとした指導者に恵まれず、見よう見まねで上級生が初歩を教えている。だから、そもそも楽器がちゃんと鳴らせていないまま、曲を合奏している。これでは、いくら熱意があって、映画「スゥイングガールズ」みたいに猛練習しても、コンクールでは歯が立たない。
どうにも解せないのは、音楽教育の現場や行政が、そんなことをわかっているのかどうかだ。また、吹奏楽の連盟も、事情は重々承知しているだろうに、ただでさえ、子供の人数が減っていくのに、いまだに大人数バンド用のコンクールを優先していることだ。もっと実情に合うように、いくらでもやり方はありそうなものではないか。
いくらステージ上のほんの10分ほどの演奏に、夏の暑い日々を賭けて、気持ちのうえでは充実感を味わったとしても、それで燃え尽きて、あきらめて、自己満足して、それっきり音楽から足を洗う子供が大半なのでは、いったい何のための音楽教育なんだかわかりゃしない。
8月3日