作家・土居豊の批評 その他の文章 -273ページ目

朝日新聞の大阪版にトリオ・ソナタの紹介記事

10月2日の朝日新聞大阪版に、評論家・河内厚郎氏が、私の小説「トリオ・ソナタ」を紹介するコラムを書いてくださいました。
毎週、関西の芸能文化を紹介するコラムだが、今回は、大阪音楽大学のオペラ公演を取り上げて、その枕としてトリオ・ソナタについて書いてあります。
主人公は、大阪音大の生徒であると、はっきり書いてはないですが、大阪で音大といえば、普通あそこでしょうから、まあ、そうだといってもいいでしょう。
しかし、この主人公は、音大を見限ってさっさとウィーンに留学してしまうのだから、実はこの小説は音大を持ち上げているわけではないのです。
それも仕方ありません。ノンフィクションではないので、そうそうほめていても小説としては面白くありませんから。ちなみに、かのウィーン国立音大についても、けっこうけなしています。ああ、畏れ多い。
10月2日 その2

映画「タッチ」とリアル表現

私の年代では、漫画「タッチ」が、まさにリアルタイムで、自分たちが高校生だったときに連載されていた。だから、「タッチ」のような青春は、自分たち特有のリアルさだと思い込んでいた。
ところが、映画「タッチ」は、原作の時代を平成に移して、見事にリアルさを作り出していた。これには脱帽した。同時に、野球ものの息の長さをあらためて認識した。
ところで、昨今、10代の青春ものが再びブームとなっている。特に、高校生ものに人気があり、映画も次々作られている。そういう10代のストーリーを、映像作品としてみる場合、やはり、人物の言葉や行動に現実味が感じられるか、ということは、最低条件であろう。
だが、「タッチ」を観ていて、リアル表現ということにある疑問、いや、懸念を感じた。
たとえば、この映画では、肝心の野球シーンに最大限リアルさを求めたという。確かに、その甲斐あって、実際の高校野球に限りなく近く、それでいて原作のイメージを裏切らないように仕上がっている。感心したのは、応援団まで、ほとんど実際にそうであろうと思われるほど再現されていたことである。スタンドで吹奏楽部が応援演奏をしている。主人公のライバルの強打者が打席に入るとき、いつも、その打者のテーマソングが演奏されるのだ。いまどきの高校野球の応援なら、さもありなん、である。しかもその曲が、吹奏楽では定番の曲で、思わずニヤリとさせられた。
ところで、リアル表現のことだ。今は、映像であれ文学であれ、表現に本当らしさを過度に求めすぎて、作家は、むしろ現実追認の陥穽に陥ってはいまいか。
つまり、ある映画なり小説なりが、高校生にせりふを言わせるとしよう。作家はリアルさを追及するあまり、今時っこのしゃべり言葉をそのままコピーしてしまう。それで確かにリアルな効果は出るのだが、それでは、むしろ街で高校生たちのたわいないおしゃべりを聞いているのと、どこが違うだろうか。
たんなる描写だけならいい。しかし、リアルさを求めるあまり、作品の内容までも現実を模倣してしまっては、作家の名が泣くというものだ。作家たるもの、作品を現実が模倣するぐらいでなければ、いばることはできまい。
なぜそんなことを考えたかというと、「タッチ」の主人公たちが、昔読んだ漫画のセルフではなく、今時の子の言葉でしゃべるのを聞いていて、はたして、自分たちが高校生だったとき、漫画「タッチ」のせりふにリアルさを感じただろうか、とふと思いついたからである。
確かに、当時の若者風俗が漫画に描きこまれてはいた。だが、漫画のせりふは、現実にはありえないような言葉使いで作られていて、それを抵抗なく読んでいた。それは、当時の小説も同じであり、そこには、リアル感を過度に求めなくても自然に物語世界に溶け込める感性が、まだ生きていた。
むしろ、逆に、漫画やアニメの、現実にはありえないような言葉使いを、新鮮に感じて、いつの間にか真似するようになった、そんな記憶がある。すくなくとも、言葉については、まだ20年前には、漫画や小説の方が現実よりリードしていたはずなのだ。
そんなことを考えると、映画や小説で、いかにもいまどきなしゃべりを多用する必要はなく、むしろ、10代の子らが真似したくなるような表現を生み出す、そういうことにエネルギーを注ぎたい、などと思い上がったことを考えているのだった。
10月2日

ようやく夏休みも終わり

何のことかというと、某音大に、社会人学生として通っているのだ。
自分が20代のころ、通っていた大学は、今思えばなかなか厳しかった。夏休みは7月中旬から、9月の一週目までだった。だから、他の大学の友達が、9月いっぱい夏休みを満喫しているのが、うらやましくてしょうがなかった。
で、実際初めてまるまる2ヶ月の夏休みを味わったのだが、やはりすばらしい。特に、お彼岸過ぎてからの一週間が貴重だった。暑さ寒さも彼岸まで、という言い方は、たとえ温暖化が進もうとも、日本の気候を言い当ててるようで、確かにはっきりと目にみえて秋らしい天気に変わっていくのだ。この一週間、休みを満喫できるのは、なんと幸せだろうか。日ごろ、存在も忘れているベランダに、ちょっと椅子を持ち出して昼間からビールでも飲もう、という気になyってくる。
思えば、大阪の夏は本当に過酷だ。いくら休みでも、昼間の暑さ、夜の不快指数、なかなかのんびりヴァカンス気分にはなれない。大阪の人は世界でもトップレベルの暑さのなか、がんばっているのだ。夏期休暇をもっと長くとれるようにするとか、夏期手当てをつけるとか、現実的に考えていただきたいものだ。
しかし、そんなことをいっても、暑いのはある程度主観的なことだから、とうてい納得してくれないだろう。ここは自主的に、フランス人なみのヴァカンスをとるように、みなで心がけるようにしませんか?
どうせ、あくせく働いても給与水準は下がる一方なのだ。それなら、休みをとって、こっそりバイトでもしたほうがましかも。
右肩上がりの発想から、いいかげん脱却したいものです。
9月29日

大津ユースオーケストラ演奏会

半年、取材して、大阪の音楽学生やセミ・プロ、プロの音楽家に大勢知り合いができた。その人たちの活動ぶりを象徴するようなステージに接した。そのことを書く。
大津ユースオーケストラの公演を、大津市民会館に聴きにいった。これは、大津市が文化事業として行うもので、今年で2回目である。なかなか意欲的で、円光寺雅彦指揮によるシベリウスのフィンランディアとチャイコフスキーの交響曲第5番に、ウェーバーのクラリネット協奏曲というプログラム。オーケストラはオーディションで選ばれ、関西のプロ・オーケストラのメンバーが指導者としてつく、というセミナー的な形式をとっている。
さて、プログラムにオーケストラのメンバー表があり、みると、何人も知っている奏者が出ている。音大生やセミ・プロの奏者たちだ。中には、つい数日前、音大で会ってしゃべった人もいるし、前にアンサンブルのステージを聴いた人もいる。何人かは、半月前までは夏期留学でドイツにいた、フランスにいた、そんな人たちである。活動範囲はみな、それぞれに広いようである。
そういう若手の奏者たちが、オーディションを受けて、こういう臨時編成のオーケストラで舞台をふみ、経験を重ねていく。そうでもしないと、音楽家は一人前にはなれない。修行の場が、こうして市レベルで用意されているのは喜ばしいことである。しかし、反面、そういう場を、公的に用意しないと、この若手奏者たちには活動の機会がなかなかないといことでもある。
確かに、毎年毎年、何十人もの奏者が新しく生まれてくるが、オーケストラや楽団は限られている。関西には、プロの楽団が東京の次に多い。それでも、学生たちの数と比べると全然足りないのだ。
いったい、音楽教育を受けて、そのうちの何人がプロの楽団員として生き残っていけるのか。そういう事実をきちんと直視していかないと、夢を追うのはいいが、はっきりいってただのプーより余計にお金のかかる贅沢なプーを大量生産していくだけになりかねない。教育の場でも、へたな夢をみさせるのは、本人にとって、かえって人生の選択を誤らせるもとにしかならないのではあるまいか。音楽の道の嶮しさを垣間見た日だった。
9月27日

モール恐るべし

タイトルを読んで、エピソード1のダース・モールの話だと勘違いしないでいただきたい。なに、そんなキャラはとっくに忘れていた? そうかもしれない。なんとなく、SWサガの悪役の中では影の薄い存在だった。
それはともかく、今回は何のことかというと、ショッピングモールは馬鹿にできない、という話である。
村上春樹の新作に、ショッピングモールの中にある居心地のいい喫茶店というのが出てくる。そんなものは、現実にまずお目にかかれないが、モールの書店、これはあなどれないのだ。
息子に買って読んでやろうとして、ある絵本を探していた。地元の図書館にシリーズがそろっていて、息子がすっかり気に入っているのだが、けっこう人気の本で、なかなか借りられない。そこで、いっそ買ってやろうと思ったのだ。なかがわみちこさんの絵本「パオちゃん」シリーズだが、ご存知?
さて、これがなかなか手に入らない。似たようなシリーズのノンタンものはけっこうあるのだが。
大阪市内の大手書店の児童書売り場を軒並み探し、東京でキノクニヤにも探しに行った。神保町で、児童書専門のみわ書店にまで行ったが、見つからない。
もちろん、パオちゃんの本の何冊かはあるのだが、息子が読みたがっている肝心の一冊が手に入らないのだ。
あきらめて、また図書館で順番を待つか、そう思っていたら、あったのだ。
ぶらりと買い物に家族で入った大型ショッピングモールの、だだっ広い書店に、ちゃんと児童書コーナーがあり、絵本がずらりと並んでいる。その中に、息子の探していた絵本が並んでいた。
いやいや、餅は餅屋というか、やはり子供が集まるところでは、子供のニーズに応える商売が行われていたのだ。
大手書店も、児童書の様々なキャラクターグッズを売ったりするより、ちゃんと絵本そのものの品揃えを充実させていただきたい。
ちなみに、せっかく買ったその絵本だが、息子の中ではもはやブームは去っていたらしく、一応喜んで読んではいたが、今度は別の絵本が欲しいようだった。
9月24日

だからオペラはやめられない

まるで小泉首相か林真理子さんのような発言だが、正直そう思った。
新国立劇場のオペラ「沈黙」2日目。初日のこけ方が嘘だったみたいに、今度は文句なし、絶賛に値するステージだった。
ようするに、練習不足と、初日の緊張がマイナスの方向に重なった結果だったのだろう。十分経験をつんだ後では、さすがプロの集団、見事に失地挽回してみせた。
そこを初めから成功させるのがプロだ、などというのは暴論である。確かに、アーティストには、常に奇跡を起こしてみせる超天才が存在するのかもしれない。しかし、オペラは巨大な人間集団がよってたかって作り上げる一つのイベントのような芸術である。ありとあらゆる不測の事態が発生し、無数の偶然が一刻一刻支配する中で、結果として一つのステージが出来上がるのである。常に失敗と紙一重の綱渡りを強いられているのが、オペラというものなのだ。
しかし、だからこそ、面白い。まるで人生そのものを見物しているようなものなのだ。人の人生の一瞬を、高みの見物させてもらって、大いに楽しむことができる。その上、思いがけず大勢の人間の意志ががっちりと組み合わさった稀有の瞬間が、突然の恩寵のように訪れる、そんな時間に参加できることもある。
ただ、何年かに一度、聴きにいったそのオペラが、まさしくそういう奇跡的なステージとなるなんてラッキーな人は、そう多くはいまい。やはりオペラは、欧米の聴衆がそうであるように、常連のように通いつめるうち、すばらしい芸術の誕生に立ち会える、そんな世界なのである。
だから、日本のオペラは、もっとしっかりと地域に地盤を据えて、多くの音楽好きが気軽に通えるように整備していかなくてはならない。立ち見でもいいから、安い席を必ず用意してほしい。変な平等はやめて、高い席と安い席をはっきりわけてほしい。
大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスに、自転車でいけるところに住んでいるのだが、願わくばもっと上演を増やしてほしいものだ。レパートリーが増えていき、経営と運営がもっと改善されれば、そうも出来るはずだ。
そんなことを書いているとき、野口幸助さんの訃報を遅まきながら知った。これで、関西の戦後音楽の時代に幕が引かれた。謹んでご冥福をお祈りします。
9月19日

新国立劇場・オペラ「沈黙」初日

なんとオペラとは難しいものだろう。内容や音楽が、ではない。その上演を成功させることが、である。
松村禎三作曲のオペラ「沈黙」(遠藤周作原作)の再演を、大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスが、新国立劇場では初の地方プロダクションの引越し公演として、16日夜、初日の幕を開けた。その稽古をずっと追いかけてきた私にとっても、感慨深いものがあった。作品の知名度もあってか、ほぼ8~9割の入りで、聴衆の期待が高まっている雰囲気が中ホールの空間に漂っていた。
しかしながら、オペラは水物、とでもいいたくなるような、そんな経過をたどって、少なくとも再演を重ねたオペラとしてはいささか無残な結果となった。
もちろん、日本のオペラファン、特に新国立のお客さんは礼儀正しいし、気持ちが温かいから、熱演にブーイングをとばしたり、拍手を惜しんだりしないようだ。カーテンコールも華々しく繰り返された。
けれど、このオペラに求められる歌唱の深みや、感情表現の幅広さを考えると、いかにも無理の感じられる上演となってしまっていた。
何か、歯車が一つ、外れたのだろう。幕開けの緊迫感が持続できず、歌手たちがミスすると、その失敗をカバーしようとしてか、安全運転に陥ってしまったり、また、ミスの連鎖が起こったり。とうとう、主役の司祭が踏み絵を踏むラストシーンまで、作品の描こうとした思想を実感させる表現にはいたることができなかった。
また、困ったことに、この複雑な作品をきちんと聴衆が理解できるように、大きな字幕で歌詞が英語と日本語で流されていた。もちろん、字幕を読んでいけば、台本の内容はしっかり理解できる。ところが、なまじ歌詞を読みながら聴いているものだから、歌手が言葉を間違えたとき、聴衆はただちにそれがわかってしまう。ミスが少なければいいのだが、間違いが連発されると、聴いていてついつい歌詞の間違い探しをやるようになってしまう。これは、かえってオペラの感興を削いでいた。
オペラに歌詞のミスなど当たり前なのだから、字幕など読まずに、ミスも含めて全てをパフォーマンスとして楽しめばいいのだ。かえって文字があると、どうしても言葉に意識がとらわれて、楽しめなくなる。
そんなわけで、やはりオペラの字幕はない方がよさそうに思う。テキストをパンフレットに載せるなど、いろいろ方法はあるのではなかろうか。
ともあれ、オペラ「沈黙」は、内容も音楽も複雑だが、上演も実に難しい作品であると知った。それだからこそ、上演を重ねる必要があるのだ。新しい音楽は、いつも難しい。しかし、それにチャレンジし続けることで、音楽は進化してきた。二日目を楽しみに待つことにしよう。
主役の小餅谷哲男は、何度もこの難役を歌ってきている。司祭の棄教の葛藤を、入魂の演技と歌唱で表現していた。この役をここまでやれる人は、多くはいまい。
キチジロー役の桝貴志は新人だが、作品の本当の主役である重要な役どころを、誠実に、心を込めて歌っていた。本来、二枚目役が似合いそうだが、芸風の幅広さを聴かせてくれた。
指揮の山下一史とオペラハウス管弦楽団は、日本で唯一の常設のオペラハウス・オーケストラである。さすが場数と経験がものをいうのだろう。混乱を極めた上演にもあわてず、音楽の流れをしっかり保持して、歌手たちをサポートした。
それにしても、「おはる」役のソプラノ、石橋栄美の劇的なテンションの高さ、集中力の持続、美声は、賞賛に値する。この人の悲劇のヒロインものをまた聴いてみたくなった。
9月17日

東京ワイヤレス事情

この数日、取材でずっと南青山にいた。泊まっていたところには、ネット接続の道具がなく、毎日パソコンを抱えて、チャンスがあればワイヤレスでつなごうと思っていた。
しかし、ワイヤレス接続のノウハウをきちんと理解していないので、いきあたりばったり、おそらくつながるだろうと思っていたが、そう甘くはなかった。
ワイヤレスネットワークを検知しても、電波が弱すぎたり、せっかく強力な電波でも、キーが必要で、その取得に失敗したり。喫茶店やら駅のベンチやらで、えんえんとパソコンに向かって四苦八苦していると、いったい私はこんなところで何をいたしておるのだろうか、と悲しい気分になってくる。
結局、宿を移って、部屋でケーブル接続できるようになって、ようやくメールを開くことができた。しかし、あけてみると、広告やらお知らせやら、出会い系の勧誘やら、そんなのばっかし。これなら苦労して接続しなくてもよかった。
思うに、旅先でまでネットにつなぐ必要はないのだ。今度から、何があってもつながないことにしよう。
ブログの更新もできないが、別に誰も困らないだろう。え、連載を楽しみにしてるのにって? ほんと?
じゃあ、がんばってまたつないで、更新しようかな。
9月17日

大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウス公演・オペラ「沈黙」

前回、書いたこのオペラ公演について、もう少し書く。
日本のオペラは、いまや東京一極集中のきわみにある。関西では、よい舞台をなかなか鑑賞できない状態が、ますますひどくなっている。それというのも、東京の新国立劇場が開場して以来、日本のオペラ界の内紛というか、ねじれというか、訳のわからない状況がさらに混迷の度を増したからである。
今年、ようやく、地方のオペラ・プロダクションが新国立で上演するという企画が実現した。それがこのカレッジ・オペラハウス公演である。
オペラが日本に上陸してすでに百年。まだまだこの国のオペラ界は、試行錯誤の連続である。
ところで、今回の「沈黙」の公演は、関西発のオペラが東京に殴りこみをかける、という意味を持っている。もちろん、「沈黙」は日生劇場の初演から、東京で再演もされている。しかし、ここで「関西発」というのは、一地方のプロダクションが、東京にオペラを引越し公演するという意味においてである。それも、新国立劇場に。
いったい、何が問題なのか。つまりはこうである。「関西発のオペラ」が話題になる、そのことが、すでに生粋の大阪人である私には、片腹痛いのである。だいたい、少なくとも戦後の日本のオペラ製作が、関西主導であったことを考えてみてほしい。そればかりか、戦後のクラシック音楽は、大阪の焼け跡から再出発したのである。いまさら、何が「関西発」なものか。
そもそも、日本の芸能はほとんどが上方を起源にもつ。それが、徳川家の江戸、さらに首都東京にお株を奪われていった挙句が、今の関西文化の凋落ぶりなのである。歌舞伎もそうだし、関西が誇るタカラヅカでさえ、本拠の宝塚大劇場よりも東京宝塚劇場の方を優先しつつあるようにみえる。
あえて声高に言うが、大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスは、なにも東京進出ぐらいで喜んでいてはいけない。なぜ、大阪から世界へ、ヨーロッパの楽壇へ、オペラを発信しようとしないのか。それが出来る実力を、十分持っているはずなのに。
たとえば、サイトウキネン・フェスティバルは、一地方都市の松本から世界に音楽を発信しようという理想をもってスタートした。しかし音楽フェスティバルでいえば、すでに大阪国際フェスティバルが、世界に認知される音楽祭の先輩である。今度は、一地方都市としての大阪が、小さいながらも、本来のオペラハウスの条件を全て満たしているザ・カレッジオペラハウスを、小粒ながらピリッとしたオペラの発信地として育てていくこと、それをどうして出来ないことがあろうか。たとえば、チューリヒ歌劇場のように、また、グラインドボーンのように。
9月11日

オペラ「沈黙」

来週、東京の新国立劇場で、松村禎三のオペラ「沈黙」が上演される。これは遠藤周作の小説「沈黙」を題材に、松村氏が13年をかけて作曲した大作である。1993年の初演以来、何度も再演されて、宗教をテーマにした日本のオペラの代表作ともいうべき存在になっている。今回の公演は、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスの引越し公演であり、新国立劇場としては初めての地方プロダクションの招聘である。カレッジ・オペラハウスの常任指揮者山下一史と、「沈黙」の再演に大きな貢献を果たしてきた演出家中村敬一のコンビで、キャストは関西のオペラ歌手の実力派がそろった。
夏の初めからずっと、このプロダクションを取材してきたのだが、いよいよ公演を一週間後にひかえ、稽古にも油がのってきた観がある。演出家・中村敬一氏は、こう語った。「オペラは生き物だから、彫刻を作るように順番に仕上げて、本番前に完璧に仕上がる、というわけにはいかない。舞台というのは、本番中でさえ、なおも生成していき、決して完成ということはない」
指揮者・山下一史氏は、こう語った。「このオペラは、確かに宗教がテーマだが、だからといって信仰がないと理解できないなんてことはない。松村さんの音楽はすばらしい。最後のシーンで、司祭ロドリゴが踏み絵を踏んだあと、まるで魂を救うようなソのシャープ音が美しく鳴って、作品のテーマがそこに明らかにされている」
キャストたちは、ほとんどが前回のカレッジオペラハウス公演と同じで、その分、作品を熟知しているはずである。しかし、みな、口をそろえたように言う。「この作品は、やればやるほど難しい。やりがいのある曲だ」と。
宗教の混迷が、かつてなく世界情勢に暗い影を落としているこの世紀の初めに、再び遠藤=松村両氏の信仰への問いかけを目の当たりにし、耳を傾けることは、大いに意味のあることではあるまいか。それ以上に、日本の20世紀音楽が到達した一つの極点ともいうべき松村氏の音楽を、じっくり味わう絶好の機会でもある。
9月10日

公演情報;オペラ「沈黙」 新国立劇場中劇場 2005年9月16日(金)18:30
                           9月18日(日)14:00
     同、ザ・カレッジオペラハウス公演 2005年10月24日、26日