新国立劇場・オペラ「沈黙」初日 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

新国立劇場・オペラ「沈黙」初日

なんとオペラとは難しいものだろう。内容や音楽が、ではない。その上演を成功させることが、である。
松村禎三作曲のオペラ「沈黙」(遠藤周作原作)の再演を、大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスが、新国立劇場では初の地方プロダクションの引越し公演として、16日夜、初日の幕を開けた。その稽古をずっと追いかけてきた私にとっても、感慨深いものがあった。作品の知名度もあってか、ほぼ8~9割の入りで、聴衆の期待が高まっている雰囲気が中ホールの空間に漂っていた。
しかしながら、オペラは水物、とでもいいたくなるような、そんな経過をたどって、少なくとも再演を重ねたオペラとしてはいささか無残な結果となった。
もちろん、日本のオペラファン、特に新国立のお客さんは礼儀正しいし、気持ちが温かいから、熱演にブーイングをとばしたり、拍手を惜しんだりしないようだ。カーテンコールも華々しく繰り返された。
けれど、このオペラに求められる歌唱の深みや、感情表現の幅広さを考えると、いかにも無理の感じられる上演となってしまっていた。
何か、歯車が一つ、外れたのだろう。幕開けの緊迫感が持続できず、歌手たちがミスすると、その失敗をカバーしようとしてか、安全運転に陥ってしまったり、また、ミスの連鎖が起こったり。とうとう、主役の司祭が踏み絵を踏むラストシーンまで、作品の描こうとした思想を実感させる表現にはいたることができなかった。
また、困ったことに、この複雑な作品をきちんと聴衆が理解できるように、大きな字幕で歌詞が英語と日本語で流されていた。もちろん、字幕を読んでいけば、台本の内容はしっかり理解できる。ところが、なまじ歌詞を読みながら聴いているものだから、歌手が言葉を間違えたとき、聴衆はただちにそれがわかってしまう。ミスが少なければいいのだが、間違いが連発されると、聴いていてついつい歌詞の間違い探しをやるようになってしまう。これは、かえってオペラの感興を削いでいた。
オペラに歌詞のミスなど当たり前なのだから、字幕など読まずに、ミスも含めて全てをパフォーマンスとして楽しめばいいのだ。かえって文字があると、どうしても言葉に意識がとらわれて、楽しめなくなる。
そんなわけで、やはりオペラの字幕はない方がよさそうに思う。テキストをパンフレットに載せるなど、いろいろ方法はあるのではなかろうか。
ともあれ、オペラ「沈黙」は、内容も音楽も複雑だが、上演も実に難しい作品であると知った。それだからこそ、上演を重ねる必要があるのだ。新しい音楽は、いつも難しい。しかし、それにチャレンジし続けることで、音楽は進化してきた。二日目を楽しみに待つことにしよう。
主役の小餅谷哲男は、何度もこの難役を歌ってきている。司祭の棄教の葛藤を、入魂の演技と歌唱で表現していた。この役をここまでやれる人は、多くはいまい。
キチジロー役の桝貴志は新人だが、作品の本当の主役である重要な役どころを、誠実に、心を込めて歌っていた。本来、二枚目役が似合いそうだが、芸風の幅広さを聴かせてくれた。
指揮の山下一史とオペラハウス管弦楽団は、日本で唯一の常設のオペラハウス・オーケストラである。さすが場数と経験がものをいうのだろう。混乱を極めた上演にもあわてず、音楽の流れをしっかり保持して、歌手たちをサポートした。
それにしても、「おはる」役のソプラノ、石橋栄美の劇的なテンションの高さ、集中力の持続、美声は、賞賛に値する。この人の悲劇のヒロインものをまた聴いてみたくなった。
9月17日