桑名宗社2 [三重県] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

ペリーやプチャーチンの開国要求に対し、世論はおおむね拒絶論に賛同するなか、、


  ただ、国家が難しい事態に立ちいっているという考えはみな同じで、
 国民が一つ心になって外国に対することが必要であるとの考えでは一致していました。
 ちょうどそのとき、
... 



桑名宗社

楼門
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角なし
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角があるね
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桑名神社と中臣神社の両社をあわせた総称だけど、春日神社って呼ぶことが多いかなぁ

多度大社にお参りし、次いで、桑名の総鎮守であるこちらのお社へ、

令和になって初めての参拝


 ちょうどそのとき、将軍家慶が死去し、家定が将軍職を継いだことが重なったため、
 水戸の斉昭の子で、世間から人望のある一橋慶喜を跡継ぎとして迎え、
 将軍の補佐をさせたらよいという意見がでてきました。



この日いろいろと教えていただいた中でもっとも ビックリ したことは、
ビックリ というか、不思議にと言ったほうがいいか、、

その楼門に掲げられた神額を揮毫された方を教えていただいたことだった



境内社
桑名東照宮

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皇大神宮御分霊社
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御朱印
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他に近隣の兼務社の御朱印もいただける、ただし、きちんとお参りしたあとでね


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桑名宗社
桑名総鎮守
・桑名神社@向かって右

 主祭神は、
  天津彦根命 (あまつひこねのみこと天照皇大神の第三の御子)
  その御子である天久々斯比乃命
(あめのくぐしびのみこと ← 
  桑名を開発した豪族桑名首 (くわなのおびと) の祖神)

・中臣神社 (なかとみじんじゃ) @向かって左
 向拝額は有栖川宮熾仁親王揮毫 (こちらにもあったか~的な)
 主祭神は、
  天日別命 (あめのひわけのみこと神武天皇の功臣にして伊勢国造の遠祖)
  相殿に春日四柱神
(奈良春日大社より春日四柱神を勧請合祀)


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で、、

楼門にかかげられた神額の揮毫は、なんと 近衛家第二十七代当主公卿近衛忠煕卿 とのことだった ((((゜д゜;))))💦

西郷どん」 では 国広富之 さんが演じておられたね



でもどうして近衛家の方が?という、新たな 疑問 も出てきて、、


散策に尽きることなし✨✨


ひとつ思い当たることは、、

時は宝暦にさかのぼり、そのことは幕末の 会津藩桑名藩 に対する 薩摩藩 の対応の違いになったとも言われているのだけれど、、、

公卿近衛忠煕卿 は 天璋院篤姫 の養父でもあるから 島津家 つながりからかな??


公卿近衛忠煕卿 の妻 郁姫 の実父は 島津斉宣公 で、
斉宣公篤姫 の父であり今和泉島津家の当主である 島津忠剛公 の父にあたり、
つまりは 郁姫 は、篤姫 にとっては血縁上では叔母になり、従って 忠煕卿篤姫 の実叔母の夫、、

ふ〜
複雑な、、、



 松平慶永 (福井藩主) 、島津斉彬、山内豊信 (容堂、高知藩主)
 伊達宗城 (宇和島藩主) ら諸侯と、公卿の近衛忠煕がこれに賛成し、
 福井藩の家臣橋本景岳 (左内) 、島津斉彬の家臣西郷隆盛らは
 そのために熱心に運動しました。

 国史 口語訳 / 白鳥庫吉 著、出雲井晶


その他にも確か、桑名藩 と 薩摩藩 との結びつきがあったかな、、


今一度確かめてみよう◎


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東海道道標
右京都、左江戸
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