自栄山顕本寺 (服部半蔵所縁) [三重県] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

**プロローグ**

 サ 「それは祈りにも似た想いだ」 「それでもそれができるまで耐え忍んでいく」
   「その様を任された者たち... それがオレ達... 」 「忍者なのかもな」

 ナルト (七十二巻) / 岸本斉史


その十二代目

桑名藩に朝敵の汚名を着せた西郷南洲翁をかなり恨んでおられたようだ、西南戦争 (明治10年/1877年) では政府軍新撰旅団中隊長として元桑名藩士等も集い参戦したとある、、


自栄山顕本寺




あの服部半蔵の子孫にして半蔵の名を継ぐ、十二代目服部半蔵正義 (最後の服部半蔵) は、ここ顕本寺さんに眠る

初代半蔵の息子、三代目石見守正就 (まさなり) の妻は、桑名藩主松平定勝公の娘で、また、定勝公は家康公の異父弟の家系 (久松松平家) 、つまりは於大の方の子 (末っ子) ということになる


そっかぁ...

だから定勝公の霊牌が伝通院さん (その名前通り於大の方のお墓あり) にあるんだね

その後も、、

正就の弟も松平家に仕え、以降代々桑名松平家の親族としてその最後となる十二代目服部半蔵正義まで続いたようだ、そしてその最後の主君が桑名藩主松平定敬公になる、、



伊賀越え

また、ここ顕本寺には、本能寺の変のあと、家康公の伊賀越えの道案内をしたと伝わる水野光勝 (織田信長の家臣) のお墓も




うーん

服部半蔵と家康公は伊賀越えからのつながりだし、元をたどればいろいろとつながるんだなぁ...


でもまさか、まさかまさか、、

いまいる桑名で服部半蔵の子孫のお墓にお参り出来るとは、思ってもみなかったよ、、ビツクリ💦


御首題
この日は御住職は御不在で御首題はいただけなかった、そこで、以前いただいた御首題を、、もう六年前になるのか、、、



自栄山顕本寺
日蓮宗
久松松平家の家紋である星梅鉢が本堂瓦をはじめ至るところに見られたが、どうやら久松松平家はそのもとをたどれば菅原姓になるらしいから、なるほどなるほど、そこで梅鉢とつながるんだーと納得&感動✨
三重県桑名市

桑名の公認ゆるキャラ、ゆめはまちゃん (だっけ?)



桑名市には服部と名の付くショップや工場を目にすることがあるけど、そういうことなんだなぁ... 


**エピローグ**

柱間のいう 「届かなくてもよかったのだ」 のセリフはしびれたね 「届く届かない」 ではない 「届かなくてもいい」 しかも 「オレ達」 は...
法を嗣ぐということはどういうことなのか?それ即ち 「後ろをついて来て託せる者を育てておくこと」 と、いうことに他ならないのではないか?

と、思ったわけだ


 柱 「... 急ぎすぎたな... オレ達は届かなくてもよかったのだ」
   「後ろをついて来て託せる者を育てておくことが大切だった」
 マ 「... ならオレは無理だったって... 事だ」 「... 後ろに立たれるのが...
   嫌いだった... からな... 」
 柱 「ガキの頃... お前は ”オレ達は忍でいつ死ぬかも分からぬ” と言った... 」
   「互いに死なぬ方法があるとすれば敵同士腹の中を見せ合って
   兄弟の杯を酌み交わすしかねェと」 「だが もう互いに死ぬ」
   「今なら... ただ戦友として酒を酌み交わせる」
 マ 「... ... ... 」 「戦友... か... 」 「まあ... それ... なら... オレ... 」 「たち... も... 」

 ナルト (七十二巻) / 岸本斉史


一代では、また、ひとりでは出来ないことも、その志を嗣ぐものを育てることによって、いつかは叶う、そう信じさせてくれる、、そして それこそが、、


 「祈りにも似た想い」


なのかもね


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