東海山照源寺3 [三重県] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

かつての桑名は今よりももっと鋳物が盛んだったようで、
増上寺さんにも桑名で鋳造された阿弥陀如来像が奉納されているようだ
 (おっとそれは知らなかったね... )

そういえば、、

初代桑名城主本多忠勝公の持つあの名槍蜻蛉切りも、
ここ桑名でつくられたものだとか

本多忠勝公@桑名九華公園
 その後ろには名槍蜻蛉切りが




さてさて、

時は慶応三年十一月十八日(1867.12.13)、
今から百五十年ほど前の話になるその日の午後、
新選組は、孝明天皇の御陵衛士として三月に隊を脱していた伊東甲子太郎を誘い出し...


佐藤翁彰徳碑
松平定晴子爵の書になる篆額
小山正武謹撰
椿蓁一郎謹書




篆額を書かれた松平定晴子爵は高須四兄弟末弟定敬公の四男、
その正室栄子さんは、山岡鉄舟居士の娘鈴子さんと
定綱系久松松平家十四代当主松平定教子爵との間に生まれた娘さんだ

謹撰の小山正武氏は、
油小路事件の直後の現場を目撃した人物としても知られているようだ (ほ〜)


その油小路事件とは、、

新選組最後の粛清のことで、この事件では、御陵衛士であった
伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助等が暗殺された、、、


でもなぁ...

観音様の御縁日に、、御慈悲も何もあったもんじゃないね、、、


のちに近藤勇は、

その御陵衛士の残党により変名を使っていたところを見破られ、
捕縛、、そして斬首という運命に、、、


東海山照源寺

その門前に、その 佐藤翁彰徳碑 が立っている

こういう碑を見られるとは、、さすがは桑名、散策冥利につきるねぇ




浄土宗宗祖法然上人の御生誕日になるこの日は、
まずは地元の桑名松平家菩提寺である照源寺さんへ

いつものようにその碑を眺めつつ、門をくぐった




寺務所にて


御朱印をお願いして待っている間は、いつものように玄関入って正面の扁額とにらめっこ
草書体であるうえに崩してあるようだから?何と書いてあるのかよくわからないんだよね... 
以前うかがったことがあるけど、御住職も読めないとのことだった

 長奥引林山
 山林は奥の長きを引く

かなぁ (・ω・)?あるいは、、

 長奥行林山
 山林は奥の長きを行く

か (・ω・)??


御朱印
判子印が新しくなってたね、御住職の書を印にしたもののよう




東海山照源寺
浄土宗知恩院直末
桑名松平家菩提寺
本堂と寺務所の間には名松百選に選ばれた夫婦松 (黒松) がある
きれいで大きな松が二本立ち並び、連立といって学術的にも貴重なものらしい
三重県桑名市
2018.4.7参拝


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そういえば、、、

東京タワーすぐ横に位置する南禅寺東京出張所金地院さんは、
南部藩の江戸での菩提寺でもあるが、近藤勇の養父近藤周斎の墓所 (*1) でもある

戊辰戦争後は、
藩主南部利剛父子や家老楢山佐渡、儒学者那珂梧楼 (江帾梧楼とも) (*2) 等が
ここ金地院さんに幽閉されていたとも読んだ

*1:慶応三年霜月二十八日とあり近藤勇が周斎の没後一ヶ月をまって建立、
  霜月とは十一月のことだからなんと油小路事件の直後ってことだね (ほ~)

*2:京都皆川淇園の門下東条一堂の東門の三傑の一なのだとか、
  吉田松陰と旧知で彼をして南部藩の怪物とまでいわしめた人物でも

他の二人は、、
 ・武州農民桃井可堂
 ・庄内藩郷士清河八郎


と、ここで思い出した、、

東京都文京区にある諏訪山吉祥寺 (*3) 境内にいくつかある石碑のひとつには確かに、
桃井可堂や清河八郎の名前が刻まれたものがあったはず、

なるほどなるほど、、そういうつながりがあったんだね、、、

*3:榎本 (武揚) 家の菩提寺でも