はじめに
やっと新年度も落ち着いてきて、ゴールデンウィークを迎えました。
これからは定期的に更新していきます!!
さて、前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。
自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。
これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。
https://drive.google.com/file/d/1Kt_5K27vdj780gOoVqQSpI1QAfU1Wj0a/view?usp=sharing
おわりに①
おわりに
ここまで様々なことを論じてきた本書ですが、ついに最終章に入りました。本章では、ここまで述べてきたことをまとめ、現代において英語学習・教育が進むべき道を提唱していきたいと思います。
第二言語学習においてはみな「障害者」?
少しオーバーなタイトルだと思われるかたもいらっしゃるかと思いますが、ここまで読み進めてきて納得していただいている方なら、このタイトルがいわんとすることを理解していただけるのではないかと思います。
たとえば、自閉症の支援のSSTと第二言語教育の語用論で提唱されている学習法はとても似ていました。このことが何を表すかと言うと、我々は多かれ少なかれ、第二言語においては自閉症者と似たようなことを経験する、ということです。僕がこの問いに行き着くことができたのは、英語(そして、その教育法)をしっかりと学んできたからです(もっというと、そういうことを学べる、教えてくれる環境に身を置けたからです)。
また、吃音症と第二言語学習者にも様々な共通点があったと思います。ここでは詳しい内容を繰り返しませんが、差異ではなく共通点に着目することには大きな意味があります。なぜなら、伊藤 (2018) が教えてくれているように、吃音症のような「困難を抱える人」「難しい人と捉えられてしまいがちな人」が私たちの配慮一つで傷つかず、もっと生きやすくなると思うからです。身の回りにこういう人はたくさんいるはずです。吃音症の人、英語学習者だけでなく、障害者と言われる人やその他のマイノリティとみなされて苦しんでいる人。そのような人に対しても配慮ができ、相互支援しあえる健全な対等関係を築いていけるようになることが、本当の最終目標なのです。
そんな究極のゴールに少しでも近づくために、第二言語学習(特に、英語学習・教育)は大きな役割があると私は考えています。特に、AIがますます発達するであろう現代で英語を学ぶ意義とは、こういうことなのだと強く思います。障害者と健常者。マジョリティとマイノリティ。そういった人の心に存在する「垣根」を取っ払うこと。それがあって初めて、多様性のある社会の実現に向かっていけるのではないでしょうか。そしてそれは、理論上ではありますが、「誰も傷つかない」英語学習・教育にもつながっていくでしょう。