はじめに

前回の投稿に引き続き、今回も論文の紹介をします。

 

今回紹介するのは以下の論文です。

 

Sah, P. K., & Kubota, R. (2022): Towards critical translanguaging: a review of literature on English as a medium of instruction in South Asia’s school education. Asian Englishes, 0(0), 1-15. 10.1080/13488678.2022.2056796

 

(↑何巻とかのないやつの書き方がわからないから0(0)にしています…)

 

では早速みていきましょう!

 

  translanguaging研究のliterature review

この研究は、これまでのtranslangingとEMI (English as a Medium of Instruction)で議論されていることについて研究し、問題点や今後の方向性について検討しています。

 

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まず、この論文の独自性は何かというと、欧米ではなく南アジアでのtranslanguagingやEMIについて語られているところにあると思います。

 

南アジアという地域では、イギリスの植民地時代の名残もあり、昔からtranslanguagingはわりと「普通」のことだったと書かれています。

しかし最近では、ネオリベラリズム的な観点から、その様相が変わってきてしまったようです。このグローバル時代において、英語は経済戦略を考えると必須なものであるからです。その流れで、南アジアの国々でもEMIがどんどん採用されてきているのです。

 

一方、南アジアのように様々な言語背景をもつ子どもたちが多くいる環境では(、共通の「母語」がないため)、EMIであっても複数言語を扱う方が教育的に「効果的」です。そうなると使われるのは、「英語」+「国家で支配的な言語」になります。

 

しかし、複数言語を教育現場でどのように扱うべきか、あまり理解がされていないと言います。そして、やはり国家としてはEMIを推奨したいという状況も相まって、translanguagingはよく練られた手段というよりも、その場つなぎのcoping straregy (p. 7:対処方法)になっているのではないかと問題提起をしています。

 

そうなると、translanguagingは「英語」+「国家で支配的な言語」という"elite bilingualism" (p. 11) は、筆者らのいうliberal translanguaging (p. 11) を作り出し、それが人々を自由にする道具というより(ただの)支配的な教授法になるかもしれないと書かれています。このように、translanguagingには社会・言語的な不平等を助長するようなリスクがあるのです。

そこで筆者らは、ナショナリズムやネオリベラルイデオロギーに対抗し、隅に置かれがちな言語、文化、アイデンティティを守るようなcritical translanguagingが必要だと主張されています。

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以上がこの論文の概要になると思います(もしおかしなところがあれば教えてください)。

 

 

  まとめ

要約をさらにおおざっぱにまとめてしまうと、以下のようになろうかと思います。

 

    

ただEMIに対抗して英語以外の言語を使っていればtranslanguagingってわけじゃないし、translanguagingは対処療法的に使っているとマイノリティとされる言語や文化を脅かすリスクもあるから、よく考えてcriticalに使っていかないといけない

 

繰り返しこのブログで書いていることですが、translanguagingはただ複数言語を使うことではないのですよね(それは、それぞれの言語をそれぞれのcodeと考え、それをただ切り替えるだけのcode-switching的な考え方)。

 

translanguagingのリスクにも踏み込んでいたのがこの論文の面白いところでした。

日本のように多くの人が日本語という共通の母語を持っているわけではない南アジアの国々では特に気をつけないといけないし、日本だって英語圏以外の国から子どもたちがやってくるわけだから、我々も意識しておかないといけないことだと思いました。

 

やっぱり論文を読むのは学びがあって楽しいですね!