はじめに

前々回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

そして、もうこの本も今回が終わりになります(まだまだ修正をしますが)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。

 

https://drive.google.com/file/d/1QHTK6xLnTg9n1w7wetOmVj1ZgpcOD8Ps/view?usp=sharing

 

 

  translingual identityを育てる英語学習・教育へ

ここまでお読みいただいた方は、僕が発達障害に関心があることはもうおわかりだと思います。これに加えて、僕の専門分野である英語学習・教育を掛け合わせることができないか、もっというと、英語学習・教育を通じて発達障害の人々が豊かな人生を歩めるようにサポートできないか、ということにとても興味があります。実際、このような分野で研究をされている方はすでにいて、Judit Kormosはその分野の権威といっても過言ではないと思います。

僕はKormos (2017) "The Second Language Learning Processes of Students with Specific Learning Difficulties"を読み、いかにして英語学習・教育を改善していくかをとても考えさせられました。

そしてつい先日 (2024年5月) には、そのKormosのセミナーを聞く機会があり、インクルーシブな教育のために(この言葉はあまり好きではないのですが)、ユニバーサルデザインが授業にも求められるということを改めて感じた次第です。

ところで発達障害といえば、日本ではASD (いわゆる自閉症)やADHD(注意欠陥多動性障害)のイメージだと思いますが、英語学習・教育の文脈で特に気をつけていきたいのが「読み書き障害」です。 

月刊の「英語教育」でも連載されていましたが、「読み書き障害」は言語によって現れたり現れなかったりするというのです。たとえば文字と音がの関係が分かり易い言語(日本語の平仮名やカタカナなど)は、英語に比べてわかりやすいため「読み書き障害」にはならないのですが、英語では「読み書き障害」のようになってしまうということがあるようです。

このことを聞いた時、僕は思い当たる節がかなりありました。自分が指導している中学生で、これに当てはまるであろう生徒が数人いるのです。日本語の読み書きや他の授業での成績は問題ないのですが、英語は本当に苦手(しかも、教員目線で見ると苦手どころではないレベル)という生徒がいます。英語の「読み書き障害」の診断を受けることは容易ではない(もはや存在しない?)のですが、英語の指導者はこのことを頭に入れておくだけで、「診断」はできなくても適切な「対応」ができるようになるのではないかと思いました。

なんだかまとまりのない文章になってしまいましたが、僕が言いたいことは以下の通りです。

  1. 英語教育界隈でも、発達障害について議論がされてきた

  2. 文字と音の関係性が透明ではない英語では「読み書き障害」が現れやすい

  3. 指導者は発達障害の学習者の存在を認識し、ユニバーサルデザインの教材や指導を実践すべき

僕自身も、まだまだ発達障害に関する知識や指導経験が乏しいですが、現場ではこのようなことに目を向けることさえせず、自分自身の信じる指導方法に固執する人が多数いるように思います。

明らかに英語の「読み書き障害」レベルなのに、他の生徒と同様の追試を課して、その超えられるはずもない壁を避けてしまう生徒に高圧的に接する、など。「虐待」ともいえる指導方法に僕は全く賛同できないのです。少しでも知識をつけ、より適切な指導方法をしてほしいものです。

また、発達障害について理解を深めようとしている過程で大変興味深い本に出会ったので、その内容も少し紹介します。黒坂 (2023) 『発達障害』という本に、「発達障害の人は外資系企業や外国の企業の方が快適ということがある。なぜなら、様々なことが明文化されているから」といった内容がありました。

ここで、改めて僕は思いました。これまで僕が書いてきたように、発達障害というidentity でさえ、言語(文脈)に依存しているのです。それなのに、使用言語を強制したり、「障害」|「健常」と二項対立的に分けて考えたりすることに、どれだけの意味や意図があるのでしょうか。

結局のところ、現職の教員でもある僕が思うのは、多くの教員にとって本書に書いてあるようなことを知る/学ぶ機会がなさすぎるのが大きな問題です。もちろん学習はいつでも始められるし遅すぎるということはないのですが、普段から多忙を極める現職の教員が自ら視野を広げて本書に書いてあるようなことを学ぶのは難しいです。「本書がその一助になれば」という願いのもと、できる限り平易な言葉でわかりやすくまとめてきたつもりですが、それでもやはり現職の教員の多くには浸透しないというのが現実的な見立てとなるでしょう。

    だからといって、諦めるつもりは毛頭ありません。一番わかりやすい方法は、教員養成プログラムの改善です。SLAの「王道」でさえも十分に網羅されていないプログラムもある現状では、今はまだ現実的ではないのかもしれませんが、それでも教員を志す学生たちが本書で書いてきたようなことに触れ、考える機会を持つことは社会に良い影響をもたらしてくれると期待できます。今はまだ、identityやtranslanguagingなど聞いたことさえないというのが教員養成プログラムに通う学生のほとんどだと思いますが、教員養成の時点で見聞きすることでその人自身がtranslingual identityを構築していくことができるでしょう。

そうなれば、仮にその受講者が教職という仕事に従事しなかったとしても、市民にtranslingual identityを持つ人が増えることになり、英語学習・教育に対する見方が変わっていくことが期待できます。translingual identityの養成を目指す現職の教員として思うのは、生徒以上にその親の固定観念が厄介です。「入試に役立つものだけを効率よく教えて欲しい」「4技能も大切だけど文法がなんだかんだ言って一番大切だ」「AIが発展するこの世の中で、語学なんて必要がない」といった考え方をしている保護者は本当に多く、その影響を受けた生徒たちは中学生段階にしてこのようなことを口にしたりします。教員養成段階でtranslingual identityを高めることができたなら、このような状況は緩和できるでしょう。

また、当然現場にもより多くのtranslingual identityを持つ人間が必要です。前の段落に書いたようなことを考えているのは親だけでなく、教員の中にも教科にかかわらず一定するいるものです。これを改善するために、まずは最低限英語科教員を目指すプログラムでtranslanguagingやidentityのことを学ぶ必要がありますし、できれば「教育相談」「教育原理」のような授業で「ことば」について見識を高める機会があると最高です。

教員養成プログラムの充実を図りつつ、未来だけでなく現在の英語教師に対する研修も盛んになっていくべきでしょう。その教材として僕のこの本が役に立てると幸いですし、本は読まないという人のためにも僕はSNSなどを通じて積極的に情報発信を続けていきたいと思います。さらにいえば、僕に触発されて多くの人が適切にidentityやtranslanguagingという概念を捉え、情報を共有し、translingual comunititiesを形成していけることを望んでいます。それはつまり、「誰も傷つかない英語学習・教育」という大きすぎる目標に近づくことを意味するでしょう。英語学習・教育の過程で多くの人が傷つき、諦めてしまい、実務的な利益以上ともいえるその大きな可能性を放棄してしまっているこの現状を改善すべく、僕は動き続けます。