はじめに
今週も土曜休みということで、今日の更新になりました。
今日も今日とて。
前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。
自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentityについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。
今回書き足した部分のみを読まれたい方は以下を読んでいただき、これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みください(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)。
帰国子女・留学生の直面する問題
帰国子女・留学生の直面する問題
これまで述べてきた問題を、帰国子女と呼ばれる人々や留学生はしばしば経験しています。
具体的な例を見ていきましょう。
帰国子女
まずは日本においての帰国子女という存在について少し書いていきます。 定義といっては堅苦しいですが、多くの人が思うように、帰国子女とは「家族の都合などである程度の期間日本以外の国で過ごし、日本に帰ってきた子ども」といって良いと思います。
海外で生活する中で「自然」な言語に触れてくるので、帰国子女は高い言語能力を備えている場合が多いです。また、日本とは異なる文化で育っているので、日本で「当然」とされる文化にあまり馴染みがないこともしばしばあります。そういった「特異性」から、日本では帰国子女は少し「特別」なものとされている印象があります。
「あの子帰国子女らしいよ」
→ 「だから英語ができるのね」 / 「だからアクティブなのね」
→ 「なのに英語全然できないのよね」 / 「なのに積極的じゃないよね」
こんな会話をしたことがある/聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。僕の勤務校には知っているだけでも何人か帰国子女の生徒がいるので、このような会話はよく耳にします。
同僚の先生から聞くと、ある生徒は自身が帰国子女であることを隠そうとするようになったそうです。その生徒は英語の学力が高くなく、おそらくそれが理由で「帰国子女」と思われるのが恥ずかしいのでしょう。「帰国子女なのに・・・」言われずともそう思われるのがわかっているからです。
しかしその生徒は、実は英語キャンプなどの課外活動には積極的に参加する一面も見せています。おそらくこれは、English userとしての帰国子女identityを発揮できる場を求めていると考えられます。普段の学校の教室では、テストの点数をはじめとする英語の学力で英語力を測られてしまうため「帰国子女」ということを隠したくなるのでしょうが、何も英語自体が嫌いというわけではないのです。これはまさに、identityは社会的に構築されるものだということを表しています。
少々話がそれましたが、いずれにせよ、「帰国子女なのに・・・」がまずいのは多くの人が理解できると思いますが、「帰国子女だから・・・」と納得するのもリスクが伴います。なぜなら、「帰国子女」といわれるその人が、そのidentityについてどう思っているかがわからないからです。ラベリング(固定観念の押し付け)になってしまい、その人のidentityを損なってしまうかもしれません。
そういった観点から帰国子女identityを考えてみると、「帰国子女だから」と納得してしまうのがリスクを伴うとわかると思います。その生徒が帰国子女identityについてどのように考えているかわからない以上、いかなるラベリングもリスキーなのです。 「帰国子女」は「純ジャパ」といわれる人々からすれば「特権」であるかのように思い、あるときには羨望の眼差しでみてしまったり、反対に嫉妬をしてしまうこともありますが、それはあくまで「純ジャパ」といわれる人々からの視点です。「帰国子女」といわれる人々にも苦悩や葛藤があるのです。このようなリスクを別の言葉で説明すると、「マイクロアグレッション」のリスクといえるでしょう。
マイクロアグレッション
「マイクロアグレッション」とは、「マイクロ」(=小さな)と「アグレッション」(=撃)を合わせた言葉です。その言葉の通り、大きくてわかりやすい形ではなく、小さくて見えづらい形で現れる攻撃のことを指します。そしてしばしば無自覚のうちにしてしまうものです。たとえばそれは、「差別」という形で現れます。
「差別」というと、とても大きな攻撃性のことではないか、という考え方もあると思います。確かに差別は、社会全体を巻き込んだ運動のように行われると、大きな攻撃性をもつものといえます。しかし、「差別」はマイクロアグレッションとも大きな関係があります。どういうことかというと、人は先天的であれ後天的であれ、周囲の環境によって気づかぬうちに「特権 (=privilege)」をもっています。本書の内容に寄せて書くなら、人は「特権をもつidentity」を獲得することがあるともいえるでしょう。
そしてそれは、「マジョリティ」に属する者が得ることがしばしばあります。「特権」というと限られた少数派(マイノリティ)の人が持つものと思われるかもしれませんが、ここでいう特権は「社会において得を生み出すもの」ということなので、マイノリティよりもマジョリティに与えられることが多いです。だからこそ、この特権にマジョリティに気づくことがとても大切なのですが、これに気づかないと「マイクロアグレッション」をしてしまうことがあります。
このようなマイクロアグレッションを避けるために、僕たちは何ができるのでしょうか。帰国子女と接する日本の学生の研究から、そのヒントを探っていきましょう。
日本での帰国子女に関する研究
このような日本においての帰国子女の学生に関する研究に、Sakamoto & Furukawa (2022)があります。この研究では、kikokushijoを固有名詞のように扱っています(一方、それの対義語のように使う言葉として、junjapa(純ジャパ:海外に行ったことがなく、日本で英語を学んでいる人)というという言葉もこの論文では紹介されています)。
帰国子女が日本の英語学習・教育現場で経験することについて知るために、この論文の内容をごく簡単にまとめてみたいと思います。この論文の研究は、日本の大学1年生2名に焦点を当てた質的研究です。1年間筆者2名の授業をとっていた学生が、どのようにidentityを創出、構築、表現、変化させてきたのか(=identity workをしてきたのか)ということを調査しています。
詳しい研究方法などはこの論文を読んでいただくとして、この2人の学生が大学の英語の授業を通じてidentity workをしてきたかということをここでは紹介していきます。
この2人の学生は、いわゆる「純ジャパ」と言われるような学生で、授業でも目立った積極性があるわけでもない学生でした。一方クラスには帰国子女もおり、この2人の学生は授業についていけるかといったことを心配しておりました。しかしこの研究を通じて、この筆者2名の英語の授業を通じてidentity workに励み、English userとしてのidentityを構築していったのが明らかになりました。その大きな要素となったのが、以下の4つであると筆者は述べています。
① 「帰国子女」イメージの再構築
この「純ジャパ」の学生2名は、最初は上に書いたような「一般的」な帰国子女のイメージをもっており、この授業においては少し怖い存在として思っていたようです。しかし、一緒に課題を取り組んでいったりする中で、帰国子女も完璧ではないといったことに気づくようになっていき、自分の英語に対する不安を減らすことができました。
② 要求の多い課題
この授業の課題が大変だったため、学生たちは一生懸命課題をこなしていたといいます。その状況で最重要とされるのは、英語が完璧かどうかといったことではなく「課題をこなすこと」でした。
これは、書かれていたことではないですが、この学生のいたクラスは、英語「を」学ぶというよりも英語「で」学ぶ状態になり、同じ困難に直面し切り抜けようとする過程で、上に書いたような帰国子女イメージを変容させていき、その結果identity workが起きたのだということでしょう。
③ 流暢なスピーキング能力への憧れ
完璧でなくても良いのだということに気づきながも、やはりいわゆるネイティブといわれる人のようなスピーキング能力への憧れは根強かったようです。ただこれは悪い意味ではなく、English userというidentityの構築に対してはごく自然なことともいえると思います。
なぜなら英語を使うということは、やはり英語を話すということに大きく関連があるからです。英語に受け身で接する学習者(=readingやlisteningの能力ばかりに焦点を当ててる人=多くの日本の中高生)ではなく、English userとしてのidentityを構築・表現していこうと考えるのならば、やはり流暢でありたいと思うものなのでしょう。こういったリアルな心情の変化(高まり)も、ある種のidentity workです。
④ 指導者によるidentity work の認識
この研究では、この論文の原稿を参加者の2人に確認させたといいます。それを読んだ一人の反応によると、「研究者(この学生にとっての先生)の視点から、私の学習経験経験を読むのは面白かった…あなたの研究は私の勉強のやる気を高めた」といっています。
identityは「自己同一性」ともいわれるように、自分がどう自分を認識しているかということではありますが、第1章で書いてきたように、identityは社会的に構築・創出されていくものでもあるので、指導者がどのように学習者を認識しているかというのは、その学習者のidentity workに大きく影響しそうです。
この研究からいえそうなこととしては、帰国子女のような流暢な憧れは消せないにしても(消す必要もないのですが)、一緒に課題に取り組んだりする中で、いわば幻想ともいえるイメージは払拭されていくということでしょうか。今までに比べて国際交流が盛んになっている現代では、このように秋会も増えていっていると思いますので、帰国子女の華美なイメージは時間と共に薄れていくかもしれません