はじめに

昨日更新するつもりが、1日遅れてしまいました。。。

そして気づけばもう12月ですね。今年も残り1ヶ月切りました。

 

完璧とは言えないまでも、充実した日々を過ごせているように思います。

 

今日も今日とて。

前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentityについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

今回書き足した部分のみを読まれたい方は以下を読んでいただき、これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みください(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)。

 

 

 

 

 

  メンバーシップと排除

メンバーシップと排除

    英語のコミュニティには大きく分けて3種類あること(現代では変容してきていますが)、またinner circleの人々であるいわゆる「ネイティブ」への崇拝や「英語=かっこいい」という思想があることを確認しました。ここからは、その問題点をさらに深く見ていきます。

    言語を学ぶ過程とは、コミュニティのメンバーシップを獲得することであると述べました。この「ことばとコミュニティの関係」は、裏を返すと、言葉によるメンバーシップの剥奪=排除につながる恐れもあるということを示唆しています。具体的な例を見ていきましょう。

 

罰札制度

    これは戦前の話で、英語学習・教育には直接的に関係していないかもしれませんが、沖縄で見られたことばのメンバーシップの問題、「罰札制度」を紹介します。

    田中 (1981/2018) では以下のように記されています。

 

「横一寸縦二寸の木札」を用意して、誰か方言を口にした生徒がいれば、ただちにその札を首にかける。札をかけられたこの生徒は、他に仲間のうちで誰か同じまちがいを犯す者が出るのを期待し、その犯人をつかまえてはじめて、自分の首から、その仲間の犯人の首へと札を移し、みずからは罰を逃れることができる。しかも、これはゲームの装いをとりながら、罰札を受けた回数は、そのまま反映するというものである (p. 118) 

 

方言はまさにある地域というコミュニティのことばであり、方言を話すことはそのメンバーシップを示す行為でもあるのです。それを禁じることは、沖縄のコミュニティのメンバーシップを剥奪することになります。そして標準語を強制することは、国家というより大きなコミュニティにsozializeさせるということになるのです。逆に標準語を話さない者は、国家のメンバーシップがないということになります。そのようなことがこの当時には起きていたということです。

    たった今「当時は」と書きましたが、現代ではどうなのでしょうか。全く無関係なのでしょうか。いや、そうではありません。形や程度は違えど、似たようなことが起きています。


 

"Let's connect. Let's speak good English."

 

このスローガンは、僕がシンガポールを旅行した時にみたものです(下の写真、筆者撮影)。

 

「つながろう。良い英語を話そう」

 

このスローガンについて調べてみたのですが、政府主導のSpeak Good English Movementという運動があるようです。HPによると以下のような意図があるようです。

 

The role of the Speak Good English Movement is to encourage Singaporeans to speak and write standard English and provide resources to learners who wish to improve their English.

The Speak Good English Movement recognises the existence of Singlish as a cultural marker for many Singaporeans.

We aim to help those who speak only Singlish, and those who think Singlish is English, to speak standard English.

It is important to understand the differences between standard English, broken English and Singlish.

 

要約すると、

  • Singlishしか知らないシンガポール人に、標準英語を話したり書いたりすることを促し、英語を上達させたい学習者にリソースを与える運動

  • Singlishの存在は文化的標識として認めている

  • 重要なのは、標準英語、ブロークンイングリッシュ、そしてSinglishの違いを理解すること

何がなんでも標準英語を推し進める活動ではないようですが、 いずれにせよ、政府主導で国民のことばの自由を制限するかのような活動は、無条件に受け入れて良いものではないと思います。


 

大坂なおみ選手のインタビュー

    身近な例として私が注意深くみているのが、大坂なおみ選手です。彼女の第一言語は英語だと思いますが、ある記者会見で日本人の記者は彼女に日本語を話させようとしました。彼女のcuteな日本語の言い回しを記事にしたいということなのかもしれませんが、その要求は彼女は明確に断りました。

大阪選手の気持ちを正確に理解することはできませんが、私はこのやりとりをことばとメンバーシップという観点から見ています。彼女に日本語を話させることは、ある意味では日本というコミュニティへsocializeさせることであり、それによってメンバーシップを与えるかどうか判断しているようにもみえるのです。だから彼女は、日本語テストをさせられているような気がして嫌な気がしたのではないでしょうか。

実際、僕のアメリカ人の友達の子ども(日本人とのハーフの子)は、英語を理解できるにもかかわらず、話すことを拒むようになったそうです。そのアメリカ人の友達(その子の父親)によると、「英語話して」といわれることに辟易してしまい、話すのをやめてしまったのだろうとのことでした。

このハーフの子の例は、大阪選手が日本語を話すことを「拒否」したのに通じるところがあるように思います。大坂なおみ選手にインタビューをしたこの記者の方に悪気がなかったとしても、ことばとメンバーシップの関係がある以上、ある言語を強要することはこのようなリスクが伴うのです。

「ある言葉を話すよう強要すること」どこか既視感がある現象ではないでしょうか。身近な例と、英語学習・教育の文脈の二つを紹介しましょう。

 

英語を話すことの強要の例①:「英語話してみてよ」

    大坂なおみ選手の例に近いところがありますが、日本では英語を流暢に話せる人の多くが「英語話してみてよ」という要求を受けたことがあるようです。

    これは英語の試験ではなく、私が経験した日常会話での出来事です。僕はアメリカに4ヶ月ほど留学に行っていたのですが、帰国後に会った友達に散々この言葉を言われました。

 

「英語話してみてよ」

 

これに対して僕は、「何を話したら良いのか」と途方に暮れたものです。ことばというのは情報伝達や思いを伝えるために使ったり  (吉村, 2017)、ヴィゴツキー的にいえば思考を媒介するものであるはずです。にもかかわらず、何も内容のないところで「話してみてよ」といわれても、何を話していいかわからないし、何を話したって「おお〜!」で終わってしまいます。

純粋に英語力を何かの特技と考えているのでしょうが、英語はあくまでも言葉の一つです。それを訳もわからず披露させられるのは、少し面倒くさかったですし、僕を「見せ物」のように接することに嫌気が差してしまいました。4ヶ月留学に行っただけの僕でこのような経験を何度もしているので、いわゆる帰国子女といわれる人々は僕の何倍も経験していくことでしょう。のちに詳述しますが、これはあまり気分の良い体験ではないと思う人も少なくありません。

また、僕自身がそう感じるのですが、日本人の前で英語を話すことの「気まずさ」も気分の悪さの一因となっています。なぜ気まずく感じるかというと、僕の英語を聞いている人が「おお〜」となっていればいいのですが、英語に馴染みがない人ほど「あれ?アメリカン人みたいにペラペラではないな」と思われてしまったりすることがあるからです。言われなくともリアクションを見ているとわかってしまうことがあり、少し気分を害しました。反対に、英語が得意な人が聞き手の中にいた場合には、僕の英語の「正確性」をテストされている気になって話しにくいです。実際、SNS上では「英語ポリス」(「英語はこういうものだ」というルールに則り、「ルール違反」をする人を取締る人)と呼ばれる人が、他人の英語を批判していることを頻繁に目にします。。この英語ポリスは、日本人英語話者にとりわけ多いように感じます。あくまで推測ですが、日本という島国で英語が話せる人はある程度「成功者」として生きているので、そういったプライドが自他共に厳しい目を向けさせるのかもしれません。また、日本で英語を学んできた場合、多くの人がaccuracyに重点を置いて学んできたと思います。そういった人は、「これは正しい英語ではない」「これは綺麗な英語だ」と、判断できる目を養ってきたがために、少し厳しくなりすぎているのかもしれません。実際、日本人英語教師の方が、ALTよりも厳しい評価を下しがちだともいわれています。

 

 

 

英語を話すことの強要の例②:オールイングリッシュ

    もう一つの例は、英語学習・教育の文脈から紹介します。もちろん英語の授業なので、そのスキルを高めるためにはできるだけ多く英語に触れる必要があります。その機会を少しでも増やすべく、日本語を禁止するという方針にも理解はできます。ただ、これもメンバーシップという観点から考えると、少し危険な行為といえます。

一つには、英語に苦手意識がある人をクラスというコミュニティから排除してしまうことです。参加ができなくなる以上、学びが起きることもありません。実際、私の英語の授業でも、「(完璧な)英語を話さなければ」という思考が染み付いている生徒は、言えるはずの表現さえも口にしません(例 水族館という英単語がわからないだけで、いえるはずのI went to さえも言おうとしない)。

二つ目の理由は、現実社会に即していないやり方であるという点です。「留学(海外)に行ったら日本語を使えないじゃないか」という人もいるでしょうが、思考したりある特殊な意味を創出するために、日本語というリソースを活用することは留学中にだってあるのでこの指摘は正しくありません。ましてや世界の英語を使う人口の多くは母語者ではなく第二言語(や外国語)として使っている人々なので、自分の母語のリソースを駆使して英語を使うのが世界の「スタンダード」になりつつあります。

そうであるにも関わらず、英語の授業の日本語禁止を頑なに実行するのはもはや適切ではありません。もう少しバランスの取れた指導が求められるでしょう。